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はてなキーワード: 武田信玄とは

2021-08-17

anond:20210813131025

武田信玄由来とされる霞堤を作るって話があるね

堤防の切れ目を作って、あふれる水の勢いを減らすって考え方だから堤防の切れ目周囲の人の反対を受けてるみたいだけど

https://www.asahi.com/articles/ASP727JVVP72UUHB01H.html

2021-07-23

5chから拾い物

安倍戦国の世なら武田信玄

風林火山の申し子やぞ

(逃げ足の)疾きこと風の如く

(都合が悪いと)徐かなること林の如く

(利権を)侵掠すること火の如く

(国家の一大事に)動かざること山の如し

2021-03-30

中井貴一さんの武田信玄はよかったなあ

若干27歳くらいで病床の60歳の信玄を演じたあの気迫と演技力は鬼気迫るものがあった。

信玄人間としても大名としても苦悩にみちた人生を送っていたが、仲居さんのおかげで新たな信玄像をつくってくれた。

その後はミキプルーンや軽妙でキザな役をすることが多かったが、あの信玄の演技によって評価は下がったことがない。

しか大河ドラマで通年1位、最高視聴率2位の記録はまだ破られてないと思う。

2021-02-11

[]上杉謙信武田信玄に対して塩をプレゼントした故事から作られた慣用句が「塩対応だってマ?

アイドル握手会にて塩対応された、というのは「真心を込めて愛をプレゼント」されたという認識ok?

2021-01-26

歴史文学に対する造詣が浅い

北条時行って誰なのか。北条って苗字は知ってる。聞いた事ある。時政?時宗?なんなそんな人が歴史教科書に出てきたきがする。

豊臣秀吉織田信長徳川家康武田信玄上杉謙信伊達政宗くらいならどういうドラマがあったのかだいたいわかる。でもその程度。

日本じゃないけど三国志とかもよくわかってない。諸葛孔明とか劉備とか?四面楚歌って言葉もそこ由来だっけ?

  

歴史以外にも文学。クソデカ羅生門羅生門を知らないとその面白さがわからない。

他にも増田に対してブコメで色々な文学作品のパロディである事を指摘している人が沢山いる。

みんな色々な事を知っている。

  

そういう話題、というか教養。当たり前にはてなで盛り上がる教養自分には備わっていないことに劣等感がある。

みんないったいいつ興味を持って、何に触れるとそういう教養を身につけられるのだろう。

2020-10-16

都道府県・真の魅力度最下位はどこだ?

https://diamond.jp/articles/-/250981

これの26位以下の県の名物・名所を適当にまとめたので、

該当する県民は「これがねえぞ」とか指摘してくれ。

他の都道府県の奴らは最下位だと思う県に投票してくれ。

頼んだぞ。

26位 富山県

立山黒部ダム鱒寿司ホタルイカおわら風の盆

27位 山梨県

武田信玄富士山ぶどうワインほうとう

28新潟県

上杉謙信・米・日本酒米菓佐渡金山

29位 和歌山県

みかん・梅・熊野高野山パンダ

30位 島根県

出雲大社石見銀山出雲そば松葉ガニ

31三重県

伊勢神宮松阪牛鈴鹿サーキットナガシマスパーランド

32位 山口県

フグ幕末関連

33福島県

喜多方ラーメン幕末関連

34位 岡山県

桃太郎倉敷美観地区

35位 岩手県

盛岡冷麺じゃじゃ麺わんこそば中尊寺金色堂南部鉄器

36位 高知県

坂本龍馬カツオよさこい祭り四万十川

37位 滋賀県

琵琶湖近江牛延暦寺ひこにゃん

38位 埼玉県

三峯神社

39位 山形県

さくらんぼ銀山温泉蔵王・花笠祭り米沢牛

40位 鳥取県

鳥取砂丘・梨・松葉ガニ水木しげるロード

41位 群馬県

草津温泉榛名神社こんにゃく

42位 岐阜県

下呂温泉白川郷飛騨牛

43位 茨城県

水戸黄門納豆鹿島神宮

44位 福井県

越前ガニ・東尋坊鯖江メガネ

45位 佐賀県

海苔有田焼唐津焼

46位 徳島県

阿波踊り鳴門の渦潮・大歩危小歩危大塚国際美術館

47位 栃木県

日光東照宮鬼怒川温泉宇都宮餃子那須

2020-10-02

anond:20201002002113

現代はいろいろ整備されたからな…

昔は水が豊富で平地がそこそこあり、山に囲まれていて攻めにくいと、いい土地だったんだ。(安土織田信長

甲府盆地武田信玄山梨県も行けばわかる。昔はそりゃ一級の土地だったのだと。あんだけの広さで大きい川があって真っ平らで山に囲まれていて…

2020-04-05

anond:20200405083647

武田信玄って知ってるか

肺炎で死んだけど隠されていたんだ

2020-03-26

大河ドラマってローテ組めばいいんじゃない

このあたりで。

開き直って同じ人物を繰り返すシステムにしたらネタの枯渇は避けられるじゃん。

そもそも歴史上の人物って時点でネタバレされてるから、繰り返してもいいでしょ。

役者は「今年の信長ダメだったね。前回の信長のほうが演技に迫力があったわ」とか比較されてつらいかもしれんけど。

2020-03-08

やあやあ私は武田信玄

ててってーててってー♪いやいや私は上杉謙信!ててってーててってー♪

って掛け声を男子側が武田信玄女子側が上杉謙信で叫ぶ踊りが、小学校の時の運動会であった。だけど、いままで、あったあった!って共感されたことがない。40年くらい前の話なんだけど、あったよねー?

2020-02-23

[]anond:20200223185541

信濃戦国大名村上義清の家臣である楽巌寺右馬助には更科姫という娘がいた。

彼女は絶世の美女でありながら武勇の誉れ高く、また年頃の十七歳となれば縁談が絶えないが、

「私の夫となるからには剛勇の士でなければ」と全て断っていた。

ところで同じく村上家に相木森之助という青年がいた。

当年二十一歳、家中随一の美男であり争いを好まず、といって惰弱というわけでもない。

武芸指南役の井上九郎が「彼こそ信州第一の豪傑」と褒め称えるのを聞いた更科姫は、

彼の姿を見るやたちまち惚れ込んで、すぐさま九郎に取り持ちを頼み、めでたく二人は夫婦と相成った。

たここに牧島大九郎という者がいた。

彼は常から更科姫に懸想しており、彼女の夫となった森之助に恨みを募らせながら、しつこく更科姫を付け狙っていた。

ある日、更科姫の外出を狙って大九郎は二十人ばかりで彼女を襲ったが、更科姫はそれらをことごとく打ち伏せてしまった。

恨み骨髄に徹した大九郎は、かねてより内通していた武田家の長坂長閑・跡部大炊から百名ほどを借りて、

巧みに誘い出した更科姫を取り囲んだが、それでも彼女を取り押さえられない。

それどころか計略を察した森之助まで駆けつけて、武田家の百名は残らず斬り伏せられ、大九郎も討ち取られてしまった。

事情はどうあれ武田家の家臣を斬ったということで、森之助の身柄は武田に送られた。

武田信玄はその武勇豪胆を惜しんだものの、長坂跡部讒言もあり、森之助は馬場美濃守の預かりで切腹となった。

更科姫は、森之助を追って甲斐まで来たが、そこで夫が切腹したと聞いて大いに嘆き、武田家と馬場美濃守への復讐を誓った。

更科姫はたった一人で甲斐に留まり塩尻峠の山腹の小屋に住み着いて、そこで玉のような男子を産み落とした。

2019-07-11

ジャニーさん、先月くらいに亡くなったって聞いたけどそれは飛ばしだったのか、それとも武田信玄みたいに死を隠したのかどうなの?

赤西は上手いことやったなって思ったけど、田口の出し方妙にひっかかるというか

どっちみち韓国北朝鮮戦争物資横流ししてたこ報道したほうがいいのではないか?と思ってしまう。

ジャニーさんはともかく、赤西とか田口かに関しては。

2019-05-25

[]岩明均室井大資レイリ」全6巻完結

とき戦国

武田信玄の死後、勝頼が信長大敗した後

剣達者で死にたがりな少女がたどる運命を描く

ついに完結・・・

数ヶ月前に完結してたらしいけど単行本でやっと読んだ

最初に読んでめっちゃおもろいと増田感想かいたけど、

あの直感は間違ってなかった!

最初から最後までずっと面白かった!

まったく中だるみもなし!!!

終わり方も完璧のペキコちゃん!!!

最高でした!!!

2019-05-01

おれの子孫を天皇にしてもいいよね?

だって父親たどっていって天皇にたどり着けば、“男系”だからいいんでしょ?

うちの先祖甲斐源氏からたどっていけば武田信玄は遠い親戚で、さらにたどっていけば清和天皇にたどり着くんだって、死んだばあさんが言ってたよ。

しか実家の蔵に家系図があったはず。

2019-04-14

武田信玄の伝記って父親に反発するところが織田信長の伝記とかぶってるよね

「人は城 人は石垣 人は掘

なさけは味方 あだは敵なり。」

by 武田信玄

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士あいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2018-07-25

anond:20180725111005

武田信玄 肝心のところで判断ミスったちょっと足りない武将

吉田松陰 キチガイチンピラアナーキスト大杉栄とタメを張るレベル

孫文   国の父言われてるけどしょっちゅう立場豹変させまくってたよね? 裏切った相手多すぎじゃね?

ってことで、あんまり名言じゃないんだなぁ。

子供を作らない=生産性が低いを批判している人は・・・

「人は城、人は石垣、人は堀」という名言を産んだ武田信玄

「山は樹を以て茂り 国は人を以て盛(さかん)なり」という言葉を作った吉田松陰

孫文の「国とは人の集まりなり、人とは心の器なり。」の言葉をどう思っているのだろうか。

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