はてなキーワード: 官吏とは
1 一番星はてのは、はてな村の象徴でありはてな村民統合の象徴であって、この地位は、主権の存するはてな村民の総意に基づく(憲法第1条)。
2 地位は、ブクマ数によるものであって、はてな村民集会の議決したはてな典範の定めるところにより、これを継承する(憲法第2条)。
権能
1 一番星はてのは、はてな憲法の定めるブクマ行為のみを行い、村営に関する権能を有しない(憲法第4条第1項)。
2 一番星はてののブクマ行為(憲法第6条・第7条・第4条第2項)
(1)はてなスター制度に基づいて、注目コメントを任命すること。
(2)はて内閣の指名に基づいて、はてな村裁判所の長たるトップコメを任命すること。
(7)はてな村大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
(8)大赦、特赦、減刑、シャドウバンの執行の免除及び復権を認証すること。
(9)カラースターを授与すること。
大学ではコムシーか総合図書館にこもって司法試験予備試験、司法試験、国家公務員総合職試験に合格した。
その後司法修習に挑んだが判検両方とも任官できなかった。俺より学歴や司法試験の成績が悪い年上の人でも検事に任官してたのに。俺のいた修習地で落とされた任官希望者は俺だけだ。
弁護士にはなるつもりがないし、登録に金もかかるので弁護士登録はしていない。
「良い鉄は釘にならない。良い人間は兵隊にならない」の精神で、「天皇の官吏」になることだけを目指して勉強してきたのに。
役人は収入が低いとか、民間や外資の方がいいとか、待遇が悪いとかどうでも良いんだ。役人こそ陛下を除けば社会の頂点なんだ。役人にならなきゃダメなんだ。
俺の人生は失敗した。
幕府の領地を接収して、官僚の恩給にする計画があったからとしか
1 徳川は、オランダ東インド会社の支援で各藩の鉱山を幕領とし(リーフデ号)、金銀銅の輸出によって体制を維持していた
2 オランダは英蘭戦争の結果、国力が衰退し、1804年には仏ナポレオンに占領された(江戸幕府はそれで仏軍を軍事顧問にした)
4 1840年、イギリスは硫黄を巡ってイタリアの海上封鎖を試みて勝ったが、日本とも貿易をしたかった
6 幕府は鎖国体制でいたので黒船に攻撃させ、各藩の貿易規制も緩和させた
7 ただ幕府と各藩主と条約したとしても、幕府が倒されて政権が変われば条約破棄もされかねない、それならいっそ、幕府が倒れても条約が継続する天皇制にしてもらいたい
8 イギリスは日本駐在の英字新聞社を通して天皇制の必要を解き、支持藩を増やした(英国策論)
9 どこかの藩が外国船を攻撃したりするので、幕府は海軍増強に務めるが、米大統領リンカーンに軍艦の輸入を止められてしまう
10 薩長は天領の石高400万石を使って官吏軍人の恩給制度を作る計画をたて、公家を味方につける
11 問題は天領にいる旗本や会津などの佐幕派は、徳川が引退しても利権を離さないに違いない、できれば根絶やしにしたい、あとロシアが近い蝦夷にも兵をおいて天皇の管轄にしておきたい
12 1967年11月に大政奉還が行われたが、倒幕派はしつこく放火などで騒動をおこし、それに対し幕府は薩摩藩邸焼き討ちで報復
13 新政府は徳川慶喜にも難題を押し付けて蜂起させたうえ、死罪1名に付き一家3名死罪とする刑法を作った
14 幕府の軍で警察でもあった会津藩などは当然に反発し戊辰戦争が拡大するが、幕府側には仏兵、新政府側には英米兵も従軍し、はんば代理戦争となった、軍事物資もかなり輸入された
15 佐幕派は敗北し、新設の東京裁判所は首謀者らを一家死刑にして勢力を削ぎ、ゲルマン利権を確保(そのあとで刑法を穏健なものに改正)
16 1874年には大久保がドイツから明治通宝印刷機を購入し、新札を元手にのちの西南戦争も鎮圧
17 木戸は1975年頃から本当に公家軍人官吏の恩給制度を作りはじめ(現代の1.5兆円ぐらいがかかった)、そのことで農民が搾取されるようになった(パウル・マイエット談)
18 鉱山は新政府側の人間が乗っ取り、新たに家督優遇相続制度が作られ、二男三男は工場労働者か兵隊になり、貧しい農村の娘は売られ、地方と中央の格差は拡大
19 天皇にガーター勲章を与えたイギリスのために日清戦争、日露戦争もしたが、現地には入院施設も準備されず、負傷者は赤十字神戸丸で佐世保海軍病院まで連れ戻されていた
1868年までの日本では、銭湯には三助という名の男娼と春を売る娼婦が溢れ、性病や同性愛病などの性的倒錯が蔓延。特権階級は保身と自己の利益のみを追求し、庶民は歌舞伎や落語、浮世絵などありとあらゆる享楽に耽っていた。男親は責任放棄し、母親は子を持ちながら色欲に塗れていた。農村では子供が売られる。
明治の世になっても日本の民衆は「働き手が減るから学校にはやりたくない。兵隊にもやりたくない。税金も納めたくない」と醜く駄々をこねた。しかし、優秀な官吏の働きや優れた教育制度によって日本の民衆は徐々に「公の精神」を取り戻し、御一新から30年も経たない日清戦争の際には人々が陛下の姿に倣い国家に進んで寄進し「帝国万歳」の声が列島中に響いた。
2023年現在の日本。家族も子も持たず老いた親は施設に捨てる者、自分の子を育てるための金を国家に集る親、親を敬わない子供、性的倒錯に耽る者が街に溢れている。コロナウイルスの蔓延時には我先に予防接種を受けようと基礎疾患を恥とも思わず「俺は基礎疾患があるから先に摂取させろ」と叫ぶ恥知らずもいた。陛下がパレードでお乗りになる車の費用にケチをつけるような国賊も我が物顔で通りを闊歩している。
しかし、志のある者が例え少人数でも国家を憂いて行動すれば30年もせずに帝国は再び蘇ることができる。現在、妻が長男の出産を控えているが、息子が国家に誇りを持ち、友人たちと国に奉仕し、それを支えてくれる慎み深い淑女と結ばれるような国にして行きたい。
なんかさ国会図書館のデジタルコレクションで先祖の名前調べるとヒットするよ!!とかTwitterで話題だから調べてみたけど。
私のじーさんひーじーさん全くヒットしなかった。だって代々名もなき市民だもん。
え、みんな知ってるの?
ひーじーさん以降は、その辺の町営墓地に埋葬されてるし、葬儀の時は適当な派遣のお坊さんが来てくれる。それより前のご先祖は知らない…
格差だなぁと思いましたよ。下流一族には歴史がない…私も「おじいちゃんが本を出してる!」とか言いたかった。
タイムトラベルして、ひーじーさんに、「あんたのボンクラ息子のそのまたボンクラ末息子の娘は東京師範学校(※明治生まれにも分かりやすいよう変換済み)出て官吏になってますよ」って伝えたら腰抜かしそう。
いやそもそムカデしか出ないような山の中の暮らしだから師範学校とかいっても分からんか?
僕がまだ大学生だった頃に先生と出会った。先生と言っても大学や学校の教師ではない。私がそう呼んでるだけだ。ど田舎の裕福な家に生まれた僕は故郷の親や教師、同級生たちの俗物さに呆れ、期待を抱いて大学に進んだ。父は「息子が大学に進んだ」という誇らしさと「学問をやらせると小難しくなってろくなことがない」という相反する思いを抱えていたようだ。期待して進んだ大学でもまた学生や教師たちの俗物さに呆れていた。夏休み、やることもなくて鎌倉でぶらぶらしていた時に先生と出会い、そこから交流が始まった。
先生は私と同じ大学の卒業生だった。生まれが資産家の家らしく、30代前半だったが仕事はせずに洋書や論文を読んでブラブラしていた。先生の家には奥さんとお手伝いさんがいた。奥さんは先生よりもかなり年下で、裕福ではないものの、しっかりと躾られてきたお嬢様だった。2人に子供はいなかった。先生は学問に造詣が深く、俗っぽさもなく、僕は先生と共に人生最後のモラトリアムを過ごした。
大学の卒業が決まる頃に先生が若くして亡くなり、故郷の父も病気で亡くなった。
僕は父の財産と、遺言により先生の財産も相続した。大学の教授と友人の伝手で官吏の職に就き、若くして未亡人となった先生の奥さんと結婚し俗物な役人として暮らしている。
郅都(?) -?) 前漢時代の河東郡楊県(現在の山西省宏道県東南部)の出身である。 漢の文帝の時代には、漢の役人を務めた。 警部補時代、法律を厳格に執行し、権力者を寄せ付けなかったため、「鷲」と呼ばれるようになった。
内容
1 バイオグラフィー
1.3 強者に挑む
1.4 皇太子妃の不興を買う
1.6 イーグルの死
2 評価
3 関連項目
4 参考文献
漢の文帝の時代、志杜は文官となり、次いで文帝の家来となった。 景帝の時代になってから、将軍に昇進した。 その勇気ある助言によって、大臣たちを説得することができたのだ。
ある時、景帝に随行して上林宮に行った時、随行していた賈詡がトイレを使っていると、突然イノシシがトイレに突入してきたことがあった。 皇帝は志杜に、その目で嘉吉を救うように指示したが、武器を持った志杜は皇帝の体を守るだけで、行動を起こさない。 景帝が自ら武器を取って助けようとすると、子都は景帝の前にひざまずいて、「一人の妾を失えば、また一人が宮入りする、世に嘉吉のような女が不足するだろうか」と言いました。 陛下がご自身の安全を軽視されるのであれば、国や皇太后をどこに置くというのですか?" 漢の景帝は、志杜の言葉を聞いて、賈賈をおいて、結局、イノシシは誰も傷つけずに、便所から逃げ出したのです。 この出来事を聞いた皇太后は大喜びで、志都に金百枚を褒美として与え、漢の景帝はそれ以降、志都を重用するようになった[1]。
前漢の初め、宮廷は黄蓋の術によって国を治め、何もせずに治めるという方針をとった。 済南県には300余りの謝氏一族がいたが、彼らは強大で狡猾なため、済南の将軍は何もできなかったので、景帝は志都を済南の将軍に任命し、地方の有力者を治めるように命じた。 彼が済南県に到着すると、謝氏一族の悪党の長をすべて処刑させ、他の謝氏一族は恐怖に震え、二度と法を犯すことを恐れなくなった。 済南県に赴任して1年後、県内には一切の残骸がなく、周辺の十数県の知事たちは皆、彼を上官のように尊敬していた[2]。
その後、中尉に昇進し、北軍と都の警備を担当することになった。 有力者の顔色をうかがうことはしなかった。 宰相の周亜夫(しゅうあふ)は傲慢(ごうまん)で横柄(おうへい)だったが、彼に会うと頭を下げるだけで、ひざまずかないのだ。 文帝と景帝の時代には、民衆の搾取が減り、平和で満足な暮らしができ、法を犯す人もほとんどいなかった。 法律は王族の親族や貴族が執行し、法律を破った者は官吏や人に関係なく、法律に従って厳しく罰せられました。 王室からは嫌われ、恐れられ、横目で見られ、陰では「鷲」と呼ばれ、その激しい法執行の比喩とされた[3]。
紀元前153年、漢の景帝の長男である劉栄が皇太子に任命された。 紀元前150年、劉協の母・王耀が密かに大臣を唆して景帝に李自成を皇后にするよう依頼し、景帝は激怒して劉協を臨江王として退位させた[4]。
紀元前148年、劉栄が勅令に違反して菩提寺の土地を流用して宮殿を建てたため、景帝は劉栄を呼び寄せて謁見させることにした。 劉栄は江陵(現在の湖北省江陵県)の北門から出発し、乗り込んだ馬車が壊れてしまったのだ。 江陵の人々は皆、目に涙を浮かべながら、「私の王は帰れない」と内心で言っていた[5]。
都に入った劉栄は、裁判のために尉官室に呼び出された。 劉栄は恐れをなして、景帝に礼状を書こうと筆と剣を求めたが、景帝はそれを許さなかった。 魏斉の侯爵、斗英は人を遣わして劉栄に静かにナイフとペンを渡した。 長男の死を知った皇太后は激怒し、法律を厳格に執行して甘受しようとしない財津を憎んだ。 景帝は彼を故郷に罷免したが、その後、使者を送って延門県知事に任命し、近道で直接赴任させ、県の事務を処理する特権を与えた[6]。
漢の景帝の時代、匈奴の鉄騎兵が長年国境を侵し、国境の県は長い間未開拓のままであった。 彼の清廉潔白の名声を慕っていた匈奴は、彼が燕門の総督に任命されたことを知り、恐れおののいた。 匈奴の騎馬隊は退却し、燕門から遠ざかった。 死ぬまで延門に近づく勇気はなかったという。
匈奴はザイドゥの形をした人形を彫り、匈奴の騎兵が馬上から撃つための標的として設置したのです。 ザイドゥを恐れて、匈奴の騎兵は誰も目標を達成することができませんでした[7]。
景行が再び財津を利用したことを知った道太后は激怒し、直ちに逮捕を命じた。 景帝は「宰子は忠臣である」と宰子を擁護し、釈放の準備をした。 孫の劉栄の死も忘れず、斗太后は「臨江王は忠臣ではなかったか」と言った。 彼女の仲介で、ついに志杜は殺された。 彼の死後まもなく、匈奴の騎兵隊が燕門に再侵攻した[8]。
彼は忠誠心が強く、公正で正直な官吏で、内部では権力者や有力者に立ち向かい、外部では外国の侵略から身を守り、匈奴の神経をすり減らすほどの勇気を持った人物であった。 親族を倍加して仕えれば、政府の下で死んでも妻にはこだわらない」という有名な言葉があるが、これはまさに彼の官僚としての生き様を表している。 後世の人たちは、財津を高く評価していた。
司馬遷は『大史記』-巻122-「涼官伝説」の中で、「彼は素直な人であり、天下を争うほどの人であった」と賞賛している。
漢の成帝の時代、大臣の顧雍はメモで志都を論じ、「趙に連波と馬遂がいて、強い秦は井戸を覗く勇気がなく、近漢に志都と魏商がいて、匈奴は砂幕に南下する勇気がない」と述べている。
唐の古書』巻194には、唐の中宗皇帝の時代に、右補奇人の陸遜が「漢が宰子を祀ると匈奴は国境を避け、趙が李牧を任命すると臨湖は遠くに逃げた」と発言したことが記されている。
上記の名前から、志都は戦国時代の趙の連波、趙奢、李牧など、「戦国の武将、国家の手先」とされた名将と肩を並べることになる[10][11]。
孤独な主人公。学費滞納のために大学から除籍され、サンクトペテルブルクの粗末なアパートに下宿している。
マルメラードフの娘。家族を飢餓から救うため、売春婦となった。ラスコーリニコフが犯罪を告白する最初の人物である。
予審判事。ラスコーリニコフを心理的証拠だけで追い詰め、鬼気迫る論戦を展開する。
兄や母の事を考え裕福な結婚をするため、ルージンと婚約するが、ルージンの横柄さに憤慨し、破局する。
以前家庭教師をしていた家の主人スヴィドリガイロフに好意を持たれている。
ドゥーニャを家庭教師として雇っていた家の主人。ラスコーリニコフのソーニャへの告白を立ち聞きする。
マルメラードフの遺児を孤児院に入れ、ソーニャと自身の婚約者へは金銭を与えている。
妻のマルファ・ペトローヴナは3,000ルーブルの遺産を残して他界。
ラスコーリニコフの友人。ラズミーヒンと呼ばれる。変わり者だが誠実な青年。ドゥーニャに好意を抱く。
居酒屋でラスコーリニコフと知り合う、飲んだくれの九等官の退職官吏。ソーニャの父。
仕事を貰ってもすぐに辞めて家の金を飲み代に使ってしまうという悪癖のため、一家を不幸に陥れる。最期は馬車に轢かれ、ソーニャの腕の中で息を引き取る。
マルメラードフの2人目の妻。良家出身で、気位が高い。肺病と極貧にあえぐ。夫の葬儀はラスコーリニコフの援助によって行われた。
7等文官の弁護士。45歳。ドゥーニャの婚約者。ドゥーニャと結婚しようとするが、ドゥーニャを支配しようとする高慢さが明らかになり、ラスコーリニコフと決裂し、破局する。
ラスコーリニコフへの当て付けにソーニャを罠にかけ、窃盗の冤罪をかぶせようとするが失敗する。
役人。サンクトペテルブルクでルージンを間借りさせている。ルージンのソーニャへの冤罪を晴らした。
高利貸しの老婆。14等官未亡人。悪徳なことで有名。ラスコーリニコフに殺害され金品を奪われる。
アリョーナの義理の妹。気が弱く、義姉の言いなりになっている。ラスコーリニコフに殺害される。ソーニャとは友人であった。
彼女の娘であるナターリヤ・エゴーロヴナ・ザルニーツィナはラスコーリニコフと婚約していたが、病死している。
ラスコーリニコフが住む区の警察署の副署長。かんしゃく持ちで、「火薬中尉」とあだ名される。
>かつては新聞紙上でも戦前は溢れんばかりに決闘の報道が行われており、イギリスの『タイムズ』紙は1831年から1895年8月までに805の決闘を報道している。が第一次大戦は大量殺戮戦となり、決闘文化は衰退し、戦後は死者が出たり、よほど特殊な決闘でない限りほとんど報道されなくなっている
ウィル・スミスの事件は平手打ちだったが、メディアのはやし立ては変わっておらず、現代の決闘は同情票の多少で勝敗を決めるがごとくだ
しかしダニエル・デフォーやウォルター・リップマンの存在は組織的言論操作は可能であることを示しているし、イギリスのタヴィストック人間関係研究所(ロックフェラー系)などの関与も考えられなくはない
さておきクリス・ロックを擁護すれば差別ジョークが助長されかねないが、あのジョークは差別解消という公共の福祉に反する罪にあたるだろうか
一方「将来起こりうる危険のリスク判断」は行政や議会の研究所の役割で、司法は「具体的な被害実態」や数字がなければリスク判断をしない
昔は「カトリック神父」が倫理を説いて被害リスクを低減しようとしていた(ただ性的虐待や農地独占などの腐敗はあったらしい)
「ユダヤ・プロテスタント」が復権し聖書原理主義になってからは善悪判断は法律に基づき法曹が行うようになったものの、魔女裁判や四番崩れが発生した(ポピュリズム行政司法)
さて日本国憲法などは官吏や裁判官の地位を相当に保護しているが、それが正しいだろうか
また、司法権という武器を持つ法曹は、法律を作る議員になれる「文民」であると言えるだろうか
四番崩れを合憲化しうる、独立の憲法裁判所をもたない司法制度は正しいだろうか
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に駆られて来た。この頃からその容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒に炯々として、曾て進士に登第した頃の豊頬の美少年の俤は、何処に求めようもない。数年の後、貧窮に堪たえず、妻子の衣食のために遂ついに節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。一方、これは、己の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥はるか高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。彼は怏々として楽しまず、狂悖の性は愈々抑え難くなった。一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿った時、遂に発狂した。或夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇の中へ駈出した。彼は二度と戻って来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰もなかった。でも、細マッチョ&巨根だから結構モテるんだよね。
まあこの論をつきつめると蒼鷹と呼ばれた前漢の酷吏の寧成を思い出すな
さらにさかのぼると商鞅がいて、彼の思想が中国人の残虐さや独裁化しやすさにかなり貢献していると思っている
3000年も続いているのは恐ろしい話であり、中国が民主化などまず不可能なことがわかる
日本が中国と違うのは民間が自発的にそういう警察を買って出ているところだな
そこが日本の治安や民度を高いレベルで維持してる理由のひとつだと思う
寧成 - Wikipedia
寧 成(ねい せい、生没年不詳)は、前漢の武帝時代の酷吏と呼ばれた官吏の一人。南陽郡穣県(現在の河南省南陽市鄧州市)の人。 略歴[編集]. 寧成は景帝の時代に謁者として仕えていた。悪知恵に長けていて、残酷な性格の寧成は上役を押さえ込み、部下を巧みに操った。寧成は済南都尉に任命された。おりしもその済南郡にはのちに「蒼鷹」と恐れられることになる郅都が太守をしていた。 ... 当時は九卿は罪に落ちると自殺する者が多かったが、官僚としての出世を諦めた寧成は死刑囚用の首枷を外して ...
世界に冠たる百万都市「世界の半分」隴西のバカでか李徴は全知全能博学才穎、天宝のウルトラ末年(残り二秒)、若くしてガチで嫌がらせレベルで長過ぎる名を虎榜に書ききれんほど連ねまくり、ついで限界集落江南尉に九十九か年補せられたが、性、バチクソ狷介、自ら恃むところバカかってくらい頗る厚く長城の如し、薄汚いクソ薄給賤吏に甘んずるを毛ほども潔しとしなかった。いくばくもなくちょっぱやで官を退いた後は、故山、超巨大山脈虢略に帰臥し、全世界の人民と国交を恒久的に断絶しまくって、狂ってんのかってほどひたすら寝ずに詩作に耽った。掃いて捨てるような下の下の下吏となって未来永劫長くクソデカい膝を低劣極まる俗悪なゴミ大官の前に屈するよりは、メッチャ偉すぎる詩家としての名を死後百億年に遺そうとしたのである。しかし、文名はびっくりしちゃうくらい容易に揚らず、巨人生活は日を逐うて苦しいとかいうレベルじゃなくなる。ギガンティック李徴は永遠にも思える時を経て漸くヤバすぎる焦躁に駆られて来て号泣しちゃった。この頃からその容貌もエグいほど峭刻となり、全身の肉が削げ落ち垂木の如き骨が秀で、刺さるほど鋭い眼光のみ徒に炯々と発光して、曾てありえんムズい進士に息をするように登第し続けた頃の豊頬のゲロマブ美少年の俤は、何処に求めようもない。数千年の後、エクストリーム貧窮に堪えず、妻子百万の大規模衣食のために遂に節を屈しまくって、再び極東へ赴き、一地方官吏の最要職を奉ずることになった。一方、これは、矮小なる己のクッソしょっぱい詩業に半ばと言わず完全に絶望し尽くしたためでもある。曾ての巨大過ぎる同輩勢数千は既に遥か最高位に進み、彼が天地開闢の昔、マジでクソの役にも立たんウスノロの鈍物として歯牙にもかけなかったそのノータリン連中の知能の足りん下命を拝さねばならぬことが、往年のちょー頭いい儁才バカデカ李徴のクソデカ自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くなく猿でも分かるわい。彼は怏々として微塵も楽しまず、マジでデカ過ぎる狂悖の性は愈々軽く引くくらい抑え難くなった。一光年の旅の後、公用で永遠の旅に出、悠久の大河汝水のほとりに生涯宿った時、遂にアホほど発狂した。或る夜半、急に顔色を七色に変えてデカすぎて宿に収まらない寝床から亜音速で起上ると、何か訳の分らぬことを親の仇のようにけたたましく叫びつつ取りも直さずそのまま真下にとび下りて、頻闇の真っただ中へ十万馬力のマッハで駈出した。彼は二度と戻って来なかった。附近一ミリ四方の果てしない山野を飽きもせず捜索しても、笑っちゃうほどマジで何の手掛りもない。その後ジャイアント李徴がどうなったかを悉く知る者は、ガチで訳わからんくらい誰もなかった。
翌年、四海に驍名馳せたる監察御史、世界の首都陳郡のでかでか袁傪という覇者、メチャクソ大切な勅命を奉じてクソ田舎の僻地も僻地嶺南に使し、途に世界の果ての果て商於の地に終生宿った。次の朝未だクソ暗い一切の光を失った世界の中に太陽よりも速く出発しようとしたところ、クソ野郎の駅吏が言うことに、これから四万キロ先の道に獰猛極まる悪夢の如き人喰虎が出血大サービスかってほど出まくる故、ザコの旅人連中は白昼でなければ、通れたもんじゃない。今はまだ朝が早いってか明けてないから、今少し数世紀ほど待たれたが宜しいでしょうと。うかうか袁傪は、しかし、一騎当千の豪傑集いし供廻りの冗談めいて多勢なのを心の底から恃み、痴れ者の駅吏のクソの役にも立たない言葉を徹頭徹尾無下に斥けて、一目散に出発した。デカいにも程がある残月の太陽とか霞むレベルの特大光量をたよりに林中の土地が余ってんのかってくらいだだっ広い草地を超特急で通って行った時、果して一万匹の超弩級猛虎が森林のごとき叢の中から躍り出まくった。メガトン虎は、あわやギガトン袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち巨身を現実ではあり得ないほど飜しまくって、元のバカでかい叢へ完璧に隠れた。並の大きさでない叢の中から巨大人間の割れ鐘のような声で「ガチであぶないってか九分九厘死ぬところだった」と延々と繰返し爆音で呟くのが嫌というほど聞えまくった。その大声に超袁傪はメチャクチャ聞き憶えがあった。驚懼の中にも、彼は咄嗟にガチのノータイムで思いあたって、夜だってのに辺りを憚らずバカかってくらいの轟音で叫んだ。「そのマジでっけー声は、我が友、バカでか李徴子ではないか??????????」タイタニック袁傪はギガンティック李徴と同年に人智を超えた最難関進士の第にひっきりなしに登り倒し、友人の少ないとかいうレベルじゃなかった天涯孤独の李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な聖人袁傪の性格が、峻峭な性悪李徴の人間のクズみたいな性情と衝突しなかったために決まっているであろう。
世を蓋うクソデカ叢の中からは、暫く数千年やかましい返辞が無かった。しのび泣きかと思われる蚊が泣いてんのかってくらいマジで微かな小声が時々頻繁に洩れまくるばかりである。やや数世紀あって、あり得ないくらい重低音の喧しい声が超早口で答えた。「如何にも自分は栄えある国のまほろば麗しの帝都隴西の世界最強の神に選ばれし偉大なる魂(中略)アルティメット超☆巨大ギガンティックバカでか李徴DXである」と。
雲を衝く巨人袁傪は恐怖を一切合切忘れ去り、山をも跨ぐバカデカい沛艾の駿馬から下りるってか落っこちてバカ盛叢に死ぬほど近づき、クッソ懐かしげに永劫にも等しい久闊を叙しまくった。そして、何故ギガント叢から出て来ないのかと怒られるまで問うた。デカ過ぎて叢から殆どハミ出てる李徴のクソほどデカい大声が答えて言う。自分は今や全くもって汚らしい最凶の異類の身となっている。どうして、おめおめと故人の前にあさましいにも程がある醜姿をさらせようか。かつ又、自分が姿を至る所に現せば、必ず君に想像を絶する畏怖嫌厭の情をハチャメチャに起させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも故人に遇うことを得て、顔から火が出るくらい忸怩極まる愧赧の念をも彼方に忘れ去る程にマジでクッソ懐かしい。どうか、ほんの暫くと言わず須臾の間でいいから、我が醜悪な今のマジで見るに耐えない外形を厭わず、曾て君の友バカでか李徴であったこのハチャメチャにどでかい自分と止めどなく話を交してくれないだろうか。
後で考えればクソ不思議だったが、その時、バカにしてんのかってくらいデカい袁傪は、この超自然の怪異を、実にバカかってくらい素直に受容れて、少しもバカにしてんのかなどと怪もうとしなかった。彼は多過ぎる部下に命じて絶え間ない長蛇の大行列の進行を無期限に停め、自分は巨大叢の傍らに立って、見えざる巨声ととこしえに対談した。どでか都のとんでもねぇ噂、超巨大旧友の天下に轟く消息、ギガトン袁傪が現在の地位、それに対するテラトン李徴の祝辞。太古代の青年時代にバチクソ親しかった者同志の、あの隔てのない早口にも程がある語調で、それ等が縷々綿々と無限に語られた後、ジャンボ袁傪は、李徴デラックスがどうして今のクソしょうもない身となるに至ったかを限界まで訊ね続けた。べらぼうに喧しい草中の声は滔々たる懸河の弁で次のように語った(ごく一部を抜萃)。
今から一兆年程前、自分が旅に出て黄河と長江を束ねても足りんくらいデカい汝水のほとりに泊った長々し夜のこと、泥のように一睡してから、ふと巨眼を覚ますと、戸外でバカデカい誰かがクソ長い我が名を来る日も来る日も執念深く呼んで遂に言い切れないでいる。死ぬほどうるさい声に嫌嫌応じて2万キロ外へ出て見ると、鼓膜破れるくらいでけー声はびっくりするほどドス黒い常闇の中からメチャクチャ頻りに自分を招く。覚えず、自分はクッソうるせー声を追うて走り出した。無我夢中に韋駄天もかくやの猛ダッシュで駈けて行く中に、何時しか途は無辺際の山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は上下左右前後の手で広大過ぎる大地を鷲攫みに攫んで神速で走っていた。何か身体中によく分からんがスッゲー力が充ち満ちたような感じで、息をするように軽々と地球レベルにデカい岩石を一足跳びに越えて行った。気が付くと、ガチでけぇ手先やマジでけぇ肱のあたりに三千丈の毛を生じているらしい。少しびっくりしちゃうくらい明るくなってから、千仞の谷川に臨んでデカ過ぎる姿を映してガン見すると、既にクッソ大きい虎となっていた。自分は初めバカデカい眼を信じなかった。次に、これはクソ長い夢に違いないと考えた。クソ長い夢の中で、これはクソ長い夢だぞと知っているようなクソ長い夢を、自分はそれまでに幾度と無く見たことがあったから。どうしてもクソ長い夢でないと悟らねばならなかった時、自分は極限まで茫然とした。そうして尋常ならざる懼れによってマジで膝がガクついた。全く、どんな没義道極まりない兇悪な事でも必然的に起り得るのだと思うて、海より深く懼れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。マジ分らぬ。全く何事もアホかってくらい我々一万匹には判らぬ。理由も分らずに押付けられたクソデカいものをバカ正直に大人しく受取って、理由も分らず飽きもせでダラダラと永遠に生きて行くのが、我々どでか生きもののさだめだ。自分は直に万死を想うた。しかし、その時、睫毛にかかってるぞってくらい眼の前を一億匹の月かってくらいデカい兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中のデカすぎ人間は忽ち姿を抹消した。再び自分の中のクソデカ人間が目を覚ました時、自分のカバと渾名された口は巨兎のきったない血に塗ったくられ、あたりには億兎のぶっとい剛毛が嘘だろってくらい散らばっていた。これが世界最強虎軍団としての最初の経験であった。それ以来今までにどんなゴミカスみたいな限界極まってる所行をし続けて来たか、それはマジで到底語るに忍びない。ただ、一万日の中に必ず数億時間は、巨体人間の心が超音速で還って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、巨人語も容易く操れれば、複雑な巨大思考にも軽く堪え得るし、経書のクソ長い章句をとんでもない早口で一生やってろってくらい誦んずることも朝飯前に出来る。その巨大人間の心で、ガチで巨大過ぎる虎としての己の世界一残虐な行いのあとを見、己の運命を二度見三度見と言わず幾度と無くふりかえる時が、宇宙で最も情なく、恐しく、憤ろしい。しかし、その、デカブツ人間にかえる数万分の一時間も、日を経るに従って次第にハイパー駆け足で短くなって行く。今までは、どうしてスーパーウル虎などになったかと怪しんでいたのに、この間マジで何の前触れもなく唐突にひょいと気が付いて見たら、己はどうして有史以前、巨人間だったのかと考えていた。これはおしっこチビるレベルで恐しいことだ。今少し数ミリ秒経てば、己の中の超巨大人間のバカデカ心は、巨獣としての残忍非道極まりない習慣の中にすっかり埋もれてガチで跡形もなく消えて了うだろう。ちょうど、クソほど古い天を摩する大厦高楼のクソデカ宮殿の今にもボロボロに朽ち果てそうな礎が次第に指数関数的に増大する濁流のごとき土砂にマジの一瞬であっけなく埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の引くくらいつまらん過去を鳥頭みたいに一瞬で忘れ果て、一千万匹のウル虎スーパーデラックスとしてイナゴかってレベルで気狂いみたいに飛び廻り、今日のようにクソ長い途でアホみたいにデカい君と出会っても頑なに故人と認めることなく、君を一センチ角程度にメッタメタのギッタギタに裂き喰くろうて嘘だよなってほど何の悔も感じないだろう。一体、バカデカ獣でもクソデカ人間でも、もとは何か他の似ても似つかないグッチャグチャのゲテものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、原始の初めから今の形のものだったとバカ正直に思い込んでいるのではないか??????????いや、そんな事はマジで心底どうでもいい。己の中のクソデカ人間の心がマジですっかり跡形も無く完全に消え去って了えば、きっと恐らく九割九分絶対に、その方が、己は天上天下に比類なきしあわせ者になれるだろう。だのに、己の中の超ビッグ人間は、その事を、マジでこの上なく恐しく感じて毎晩ガチ泣きしているのだ。ああ、全く、どんなに、小便垂らすほど恐しく、腸の千切れるほど哀しく、満都の同情を誘うほど切なく思っているだろう!己がチョモランマ人間だった有史以来の世界の記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。ガチで誰にも分らない。己と寸分の狂いも無く同じ身の上に成った者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり百パーセント人間でなくなって人生終了しちゃう前に、一つと言わず頼んで置きたいことが山ほどあり過ぎる。
袁傪はじめ無量無辺の一行は、毎秒息をゴキュゴキュのんで、叢中のけたたましい声の語る不思議に一生聞入って生涯を閉じていた。耳がイカれるような大声は矢継ぎ早に続けて言う。
他でもない。自分は元来メッチャ詩が凄い超カッケー詩人として名を成す積りでいた。しかも、業未だ成らざるに、このクソおもんない運命に立至った。曾て作るところの詩数百万篇、固より宇宙の最初から、まだ世に行われておらぬ。山脈並みにうず高い遺稿の所在も最早世界中の誰にも判らなくなっていよう。ところで、その中、悠久の時を経て今も尚記誦せるものが数十億ある。これを我が為だけに末代まで伝録して戴きたいにも程があるのだ。何も、これに仍って一人前のクソデカ詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、全世界あらん限りの産を破り再起不能レベルまで徹底的に心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりと言わず何もかも後代に幾久しく洗いざらい伝えないでは、ガチで死んでも死に切れないのだ。
無数の袁傪は大多数の部下に口酸っぱく命じ、ギャグ漫画かってくらい巨大な筆を千人がかりで執って叢中の調子外れもいいところの放歌高吟のダミ声に奴隷のように随って書きとらせた。李徴の耳をつんざく声は叢の中から朗々と天の果てまで響いた。長短凡そ三十兆篇、格調メチャクチャ鼻につくレベルで高雅、意趣マジで天下無双かってほど卓逸、一万読して作者の才の非凡をまざまざと嫌になるほど思わせるものばかりである。しかし、でか袁傪はひっくり返るほど感嘆しながらもクッソ漠然とテキトーに次のように感じていた。成程、クソ虎作者の素質が第一万流に隷属するものであることは疑っても仕方無いじゃない。しかし、このままでは、第一億流の作品となるのには、何処か(非常に微妙にも程があるマジで心底どうでもよろしい些末な一点に於いて)欠けまくるところがあるのではないか、と。
旧詩をゲロのように吐き終ったデカブツ李徴のかしましい怒声は、突然調子を変幻自在に変え、自らを嘲るが如くにがなり立てて言った。
羞ずかしいとかいうレベルじゃないことだが、今でも、こんなあさましい忌むべき身と成り果てた今この瞬間でも、己は、己のクソデカ詩全集が長安風流人士の当然長安よりデカい大机の上に所狭しと棟に充ちるほど置かれている見事な様を、夢に見ることがしょっちゅうあるのだ。うすら寒い便所みたいな岩窟の中に物言わぬ死体のように横たわって見る夢にだよ。腹が捩じ切れるまで嗤ってくれ。巨大詩人に成りそこなって巨大虎になったマジで哀れ過ぎる愚鈍な大男を。(巨漢袁傪は太古の昔の甚大青年李徴のクッソ寒い自嘲癖を昨日のことのようにありありと思出しながら、心底哀しく聞いていた。)そうだ。お笑い草ついでに、今の懐いを即席の詩にコンマ一秒で述べて見ようか。このアルティメット虎の中に、まだ、曾ての完全体李徴が飽きもせず生き永らえている動かぬしるしに。
態度もクソデカい袁傪は又下っ端もいいとこの下吏にこっぴどく命じてこれを百万遍書きとらせた。その長ったらしい詩に言う。
本当偶因超巨大狂疾成凶悪殊類
開闢当時糞喧声跡共摩天程相高
超越渾我為馬鹿異物糞汚蓬茅下
完全体君已乗糞大軺気勢糞程豪
此永遠夕大規模渓山対糞明怪月
生涯不成気遠程長嘯但成爆音嘷
(訓、本当に偶たま超巨大狂疾により凶悪殊類と成る、超特大災患は馬鹿に相仍りて絶対逃るべからず、今日現在の超長大爪牙一体誰か敢へて敵せん、開闢当時の糞喧しき声跡共に天を摩する程相高し、渾てに超越する我は馬鹿の異物と為る糞ほど汚らはしき蓬茅の下、完全体なる君は已に糞ほど大きなる軺に乗りて気勢は糞といふ程豪なり、此の永遠の夕べ大規模渓山にて糞ほど明らなる怪月に対して、生涯気も遠き程の長嘯を成さずして但爆音の嘷を成す)
時に、引くほどデカい残月、昼かってレベルの極光は死ぬほど冷やかに、白露は気色悪いほどウジャウジャと地に滋く、樹間を渡るシベリアかってくらいの冷風は既に暁の近きを重ね重ね告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、お通夜かってレベルで粛然として、このデカ過ぎる詩人のゴミ過ぎる薄倖を嘆じた。ウルトラ李徴の胴間声は再び喧しく続ける。
何故こんな罰ゲームみたいな運命になったか判らぬと、先刻は口うるさく言ったが、しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。デカデカ人間であった時、己は努めて全人類との交を避けて避けて避けまくった。人々は己を三界に比類なきまでクソ倨傲だ、クソ尊大だといった。実は、それが殆どクソデカ羞恥心に近似できると言っても一切語弊のないものであることを、おつむの足りん人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才と耳にタコができるほど五月蝿くいわれた自分に、超クソデカ自尊心がこれっぽっちも無かったとは神に誓って云わない。しかし、それはウルトラ臆病なハイパー自尊心とでもいうべきものであった。己はハチャメチャに上手過ぎて全米を泣かす詩によって名を成そうと生まれた時から思いながら、進んでクソでかい師に就いたり、求めてバカでかい詩友と嫌がらせレベルの頻度で交って切磋琢磨に寸暇を惜しんで努めたりすることを決してしなかった。かといって、又、己は棒にも箸にもかからないクソ平凡な俗物の間に伍することも欠片も潔しとしなかった。共に、我がクソ臆病なバカでか自尊心と、バカ尊大なクソでか羞恥心との所為に他ならないのである。己のクソでけー珠に非ざることを心の底から惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己のバカでけー珠なるべきを半ばどころか完璧に盲信のレベルで信ずるが故に、マジで一生グズグズして碌々と瓦に伍することさえも出来ない愚か者の極みだった。己は次第に超特急で全世界と離れ、全人民と無限遠まで遠ざかり、ガチで腸の煮えくり返るような憤悶と慙恚とによって益々己の内なるクソほど臆病な自尊心を多頭飼いして豚かってほどふとらせる結果になった。人間は例外を許さず誰でもクソデカ猛獣使であり、そのバカデカ猛獣に当るのが、各人の性情で間違いないのだという。己の場合、このバカかってレベルでクソ尊大な羞恥心がウルトラ猛獣だった。ウル虎だったのだ。これが己を完全に不可逆的に損い、妻子を拷問かってくらい苦しめ、友人を完膚無きまでに傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、性根の腐りきった不心得のろくでなしの内心に全くお誂向きにふさわしいピッタリなものに変えて人生終了しちゃったのだ。今思えば、全く、己は、己の有っていたマジで僅か一ミリばかりのクソほどしょっぱいなけなしの才能を余りにも無駄に空費して人生終了しちゃった訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長過ぎてクソおもんないが、何事かを為すには余りに短過ぎてやってらんないなどと口先ばかりのとんでもなく薄っぺらいバカの警句を弄しながら、紛れもない事実は、才能の不足を世界全土の全人民に暴露するかも知れないとのクッソ卑怯極まりない危惧と、蛇蝎のごとく親の仇かってほど刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。無知蒙昧の脳足りんで己よりも遥かに乏しい搾りカスみたいな才能でありながら、それをバカの一つ覚えみたいに専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもその辺を歩いているのだ。デカい上に多過ぎる虎と成り果てた今この瞬間、己は幾星霜を経て漸くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を地獄の劫火に灼かれるような悔を感じまくる。己には最早めちゃデカ人間としての生活は逆立ちしても出来ない。たとえ、今、己が岩の如く巨大な頭の中心で、どんな宇宙一優れた詩百億選を作ったりしたところで、どういう手段で国際的に発表できよう。まして、己の頭は日毎にってか秒単位で虎に近づいて行く。ガチでどうすればいいのだ。己の益体もなく湯水のように空費された過去は?己はマジで辛抱堪まらなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の己かよってくらいデカい巖に上
「50歳が14歳と同意性交で捕まるのはおかしい」立憲民主党議員が主張 - ライブドアニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.livedoor.com/article/detail/20311706/
[B! 立憲民主党] <独自>「50歳が14歳と同意性交で捕まるのはおかしい」立民議員が主張 - 産経ニュース
<独自>「50歳が14歳と同意性交で捕まるのはおかしい」立民議員が主張 - 産経ニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sankei.com/article/20210604-HMZXUI2DKBKBTGH5WQJW6RVTJU/
↓
https://twitter.com/office50824963/status/1400953894088306688
https://twitter.com/kondokazuya_/status/1401019813078573058
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「14歳と同意性交、捕まるのはおかしい」立憲議員発言:朝日新聞デジタル
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASP676TZPP67UTFK010.html
「立憲の福山哲郎幹事長は~「本人が『撤回』と言っているので、それでいいのではないか」と述べ、発言者を公表しなかった」
勉強になりましたね、党派性が違うメディアが出した党派性が違うニュースでも簡単に否定できるものじゃないってことが学べましたね。
tekitou-manga 俺は未成年同士でなければ中学生との性交全部違法でいいと思う。産経以外のソース見ないとほかの事は言いようがないな…… / https://twitter.com/kondokazuya_/status/1401019813078573058 "そのような発言はありませんでした" 削除くる?
toririr 産経は自信があるから記事にしたのだろうか。だとすれば何故オフレコでもないのに名前を伏せるのか。タイトルに独自とあるからスクープだ。他紙がどう動くのか。ないなら誤報か記事化する価値なし。そこで判断で良い
他紙動きましたね、判断どうぞ。
他紙動きましたね、判断どうぞ。
他紙動きましたね、「まじめに考える」ときが来ましたよ。
tammago 議員の名前も出さず一体何がしたい記事なの?最近の産経は、とにもかくにも立民の足を引っ張ることを探して必死でやっている印象。その50代の立民議員は堂々と私が言ったと名乗り出て火だるまになるべき。
何がしたいのか?産経が報じたことが原因となって当該議員が発言を撤回しましたね。報じられなかったらどうなってたんでしょうね。
rambo-20 産経独自のニュースだし明らかに裏が有りそうな…。この事で立憲を叩こうとしてるウヨ界隈の人たち、じゃあ自民や維新に同じ意見のやつがいないと思ってるのかとはなっちゃうよ。
裏って何?もっとはっきり言ったら?
bogus-simotukare また、いつもの産経の立民への因縁。「マジで真摯な恋愛関係なら処罰しなくていいんじゃね(ただし詐欺、脅迫での性交は真摯な関係とは認めない)」なら何の問題も無いと思うが。
「因縁」はどっちだよ。
VodkaDrive 50歳と14歳の恋愛は有り得るのだろうしそれは一概に否定するものではないが「性行為」となれば話は別…と思いきや元の発言の有無そのものが真偽不明と来たか。いくら産経でもそこまでの与太記事を…は認識が甘いかも
mouseion 朝日が言うと切り取りだの五月蝿いのに同じ事を産経が、しかも匿名報道にも関わらず立民ガーになっちゃうツイッタラーやヤフコメ民がとにかくアホの集まりなんだなと察せられてはてな民でホント良かったと思うね。
じゃあお前は「ツイッタラー」や「ヤフコメ民」と同等かそれら以下だね笑。あと、こういう人ちょいちょい散見されるけど、何をもってはてな民がツイッタラーやヤフコメ民より良いと思えるわけ?不思議で仕方ないわ。
z1h4784 「立民のWTでは同意の有無にかかわらず中学生以下との性行為を犯罪とするよう法改正を求めた」と書いておきながらこの見出しを付けるセンス。釣り師としての才能に嫉妬するわ。ブクマカの食い付きもすげー
結論としてはそうなんだろうけどさ、その議論の過程で出た発言は無視していいものでもないんじゃない?
発言側が匿名にするならともかく、報道側が匿名にすることに対して党派性云々言うの、党派性ドリヴンなのはどっちだよ。
hnamab 「立憲が中学生以下との性交を犯罪とするよう法改正を求めた」というニュースなのに、その要旨は一番最後に一文書かれているだけで、「50代で14歳とヤリたがる変態議員」という内容に仕立て上げている 産経は便所紙
じゃあ「便所紙」の報道を受けて発言を撤回しちゃう当該議員は便所と同じかそれ以下なのかな?
xevra また産経か
auient この産経がノリノリで書いてる感じ
kenjou 記事の内容を読むと一律の厳罰化に警鐘を鳴らすためのもので、問題のある発言ではないけど、タイトルしか読まない連中に曲解されるのが目に見えている。産経に限らないけど、ネットメディアってほんと悪質だよね。
perfectspell 見出しが酷いな。立憲が「同意の有無にかかわらず、中学生以下との性行為を犯罪とするよう法改正を求めた」ニュースをねじくり回している。/「人民は弱し 官吏は強し」「1984」を連想。またはナチの国会放火関連か。
じゃあ、「渡辺直美をブタ=オリンピッグに」発言をした五輪開閉会式総合統括 佐々木宏や、「(LGBTは)種の保存に背く」発言をした自民党衆議院議員 簗和生がどうなったよ。直近だけでもこれだけ同様の事例があるんだから少しは記憶掘り起こせよ。
前者はしっかり辞任まで追い込まれんぞ。
はやくこいつ吊るせよ。
ot2sy39 俺はこの主張に賛同しないが、WT内の議論で説得・反論できなかった側が、非公開議論の内容を産経にリークして記事にしたんだろ?やり方が気に入らないね。
この発言が出た場所、「立憲民主党の性犯罪刑法改正に関するワーキングチーム」ね。
じゃ、誰が、どの党の議員が、あるいはどの党に同調する人間がリークしたんだろうね。
https://twitter.com/lehmanshock_pon/status/1400949260430942209 によると、出席していた男性の議員は寺田学、泉健太、近藤和也の3人(いずれも立憲民主党)なわけだけど 取り消したの本多平直じゃねえか、不十分なソースでしたね。
kasapen これも渡辺直美の容姿揶揄ブレストと同じ括りなのだろうか?不快に思う人もいるだろう。投票しない人もいるだろう。それは自由だ。法案提出が出来ない程の抵抗勢力なら批判も分かるが、反対意見は良いのでは?
何が違うの?
てかさっさと名乗ったら?
なんで真っ当な議論、真っ当な意見なのに産経が報じたあとに匿名のまま撤回してんの?
真っ当な文脈で、「50歳近くの自分が」っていう例示が慎重な議論に寄与すんの?
dada_love ん~、これは刑法の話だろ?罪刑法定主義に則れば感情論じゃなくて明確な根拠が必要だから疑問の提起は必要じゃね?厳罰化には感情論以外で法律に基づいた話は必要だろ。あたしネトウヨだけどこれはなんかクサいわ。
「あたしネトウヨだけど」笑。
↓「50歳近くの自分」が真っ当?
adatom 同意であっても非同意と同じに扱う年齢帯拡大の否定。これは極めてまっとうでは?/条例などでの微罪と違い、同意であっても強姦と同じ扱いというのは「セックスそのものがまずありえない年代」にのみ適用が妥当かと
preciar 性交同意年齢は自己決定権の問題なので、本来のリベラルな立場からはそうそうおかしい事は言ってない/個人的には、義務教育終わって雇用契約も結べる人間の自由意志に国が干渉するのはおかしいと思ってる
nemuiumen 法律論議するときはこういう意見も言えないといけないし、こういう発言から見落とされてる論点が出てくることだってなくはない。全部透明化してしまったらこんなの誰も言わなくなる。匿名で良い。
eternal_reflection 法律の仮定議論で問題視する事がおかしいし、発言者を特定させるのも議論にとって良くないと思う。ただ、これが自民党の議員になったら叩くだろうなって人が擁護してるのを見るとな
kazukiti この議員の発言内容は倫理的医学的に問題はあるが、必ずしも法的に間違った事を言ってる訳ではない。一律で批判するなら先に法を変えるべき。感情論で罰するなら法は要らない。
tnishimu いやこれは法律の議論をしているのであって、その意見に反対ならそれでいいんだよ。 名前を出せとかそういう意見が出ること自体を封じようとするのは感心しない。
amematarou いろんな意見を戦わせたらいい。仮定の話が出来ない奴らに法律なんて作る能力はない。議論の場で主張したらその人の性質まで疑われるなんて何処の未開国やねん。
kunitaka 実際にやったらアカンけど、一つの意見としては尊重するべきではなかろうか。頭ごなしに「ダメ!」では、有効な意見を阻害する事になるぞ。議論はブレーンストーミングを原則とするべきやと思うねん。
keint リベラル系政党なら当然出てきてもいい意見なのでは(そもそも議論の場の例示なのでこういったことに言及することは当然あるとして)
lont_in 法改正の話だから慎重な論評になるべきなのに、ここは左翼とは名ばかりのリベラルが感情論で怒ってて訳がわからんな
mrgh-gou66 名前を出せとうるさい連中がいる事こそがおぞましい。さまざまな角度の意見が百出して初めて吟味も出来るし、きちんと議論を経てこそ、明文化して否認する事だってできように。小学校の学級会じゃねーんだぞ。
KoshianX もちろん法的にはそのとおり、リベラル政党なら自由の最大化を目指して当然だからそういう発言にはなるだろうよ。性交同意年齢引き上げは各国やってるが、子供の自由という立場から議論はしないといかん
preciar この話は成人済みの人間がどうこうじゃなくて「一定年齢以下の人間に自己決定権を与えない」って言う法規制を導入する話なので、本来ならリベラルが慎重論唱えるのは当然だと思うよ/パターナリストは左右を問わない
maketexlsr 一ヶ所の穴を潰すために雑にコンクリで固めても大丈夫かって議論でしょ。保護のため未成年一律NGとか言い始める方も居るし。現実見てるのかね。/ 現状、条例で叩けてるんだからokなんじゃないの?
tnishimu どんなおかしいものでも異論や対案は無いよりあった方が良いと思うけど、そういう自由で民主的な議論で現状の問題点や賛成意見の欠点が見えてくるわけですよ。 不快だから名前出せはちょっとおかしいよ。
exaray 主張内容に対して反対するのは良いけれど、主張することそのものを否定するべきではないでしょう。政治的な議論というのは日常の文脈より広範な視野が必要で、多くの人にとって不快な主張が出ることもありえます。
flatfive 余りにも当然の意見。性交の自己決定は最も基本的な人権の一つで、自由主義の根本に関わる大トピック。ソレを踏まえた論拠があるならまだしも、感情論(キモい)で思考停止する人は軽蔑する。少年愛者より遥かに低俗。
syamatsumi 18まで待てってのがこれといった根拠の無い、非常に人工的な概念であることを忘れてる人がえらく多い所は気になるのよね。みんな、他人の恋愛模様にケチを付けるのが好き過ぎでは? 道徳ヅラしたゲスだらけだ。
slimebeth 刑法は条例と違って恋愛免責が無いので下限を引き上げると高1と中3でも高1が捕まるのだが50歳に食いついてる人は相手が何歳(差)までなら免責する条項を新設すべきと思ってるのか高1も捕まえろというのかどっちなんだろ
WinterMute 文脈が全然わからん。「性交同意年齢を無視した立法になるがいいのか(先にそちらを変更すべき)」って意味じゃないの? 同意年齢自体は現代では16~18が妥当だと思うけど。
quick_past 年少者相手にもピュアな恋愛だったら認められるべきだ。が自民シンパのロリオタの論じゃなかったっけ?よかったじゃん。やっと立憲を支持する理由ができたじゃん() 知見も社会的立場も違う間柄の同意という危うさ
RRD ここにもチンコ膨らませて逆上してる衆が集まって噴き上がってる。頼むから精液吹き上げるなよ。第一、個人の性癖と法律論は別だろうよ…。もうどうにもならんわ。はてブはバカのツールに成り下がった。
clclcl つまり、産経がこうやって煽ることで、立民WTが主張するとおりに「同意の有無にかかわらず、中学生以下との性行為を犯罪とするよう法改正」が実現するということなのだろう。産経も自民も反対しないよね。
2017年にも性的同意年齢の引き上げが議論されたみたいだけど、見送られてますね。
とはいえ、たった4年間でもかなり情勢が変わっているため、産経や自民がどういう意見を出すかは非常に興味がある。
minamihiroharu 「子供とセックスする大人は無条件で許さない。 それはアプリオリに許されず、対象者の個別な条件を一々調べることすら道徳に対する攻撃である!」って人が多いからなあ。
「対象者の個別な条件を一々調べること」を積み重ねてきた上で、それでもなお結論としてはアプリオリに赦されないってのは有り得るとおもうんだけど、どう?「子供とセックスする大人」が赦される状況の例示下さい。
「結婚を前提にして」的な状況、現代でどれだけ蓋然性があって、どれだけ性的同意を担保できんのよ。
kjin 何人いようとも、個人の「キモい」とか「ありえない」で終わらせるんじゃなくて、きちんと議論して線引きとその線の理由を説明できるようにするのならどんどんやって欲しい。
同意する。
あと、「オッサン議員が~」みたいなコメントも散見されたけど、男性議員だっていう報道だった?
『外交時報 第八十四巻』昭和十二年、外交時報社、pp.47-56
篠田治策
明治四十年(千九百七年)十月十八日海牙に於いて調印せられたる開戦に關する條約第一條によれば、一國が他國と戦争を開始するには理由を附したる開戦宣言の形式又は條件付附開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭且つ事前の通告をなすことを要す。故に現在北支及び上海方面に於いて進展しつゝある日支両國の戦闘は、理論上之を日支戦争又は日支戦役と称すべきものに非ずして、事變即ち北支事變、又は上海事變と称すべきものである。我が政府の公文にも新聞紙の報道にも総べて事變の文字を用ゆるは之れが為めであると思はる。換言すれば宣戦の布告を見るまでは、戦争又は戦役と呼ばずして軍に事變と称し、両國間の國交は断絶せざるのである。之れを先例に徴するも、明治二十七・八年の清國との戦、明治三十七・八年の露國との戦、世界大戦参加による青島攻撃戦等は、之れを日清戦争(戦役とも称す以下同じ)、日露戦争、日独戦争と称し、明治三十三年の義和団事件、近年に於ける済南出兵、上海出兵、満州出兵等は、総べて之れを事變と称したのである。
此の招呼は従来何よりて定まりしか詳知せざれども、現今に於いては確然明白に区別せらるるは、政府の公文或は法規等にも「戦時事變に際し」云々等の文字を用ゆるも明らかである。故に日支両國の何れかより
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宣戦の布告若くは條件附開戦宣告を含む最後の通牒あるまでは、如何に大部隊の衝突あるも未だ事變の域を脱せずと謂ふべきである。猶ほ八月二十三日ワシントン發の同盟通信によれば、アメリカ國務長官コーデル・ハル氏は、今回の北支事變に際しては終始冷静な態度を持し形成を注視しつつあつたが、二十三日午後聲明を發し、日支両國政府に対し「戦争行為に訴へぬよう」要請した由である。二十三日は我が陸軍の部隊が上海附近に上陸を開始した日である。即ちハル長官も現在の日支両軍の戦闘行為を以て、未だ戦争に非ずと見て居るのである。然れども、我が政府は最初に宣言したる事件不拡大の方針を余儀なく抛棄したるのみならず在外艦隊司令長官は支那船舶に対し沿岸封鎖を断行し、支那も亦縷々大部隊を動員して攻撃的態度を採りつゝあるにより、或は近き将来に於いて事變を変じて戦争となるべき可能性ありと信ずるのである。
我が國の國内法に於いては事變と戦争を区別せざる場合多く、例へば出征軍人の給奥、恩給年限の加算、叙勲に關する法規など総べて事變と戦争を同一に取扱ふも、國際法上にては事變と戦争は大なる差別がある。
即ち現在の事變が変じて戦争となれば、日支両國は所謂交戦國隣、共に戦争放棄を遵奉する義務を生じ、同時に中立國に対しても交戦國としての権利と義務を生じ、中立國は皆交戦國に対して中立義務を負担するに至るのである。語を換へて言へば事の事變たる間は必ずしも國際法規に拘泥するの必要なきも、一旦戦争となれば戦場に於いて総べて國際放棄を遵守すべき義務を生ずるのである。然れども事變中と雖も正義人道に立脚して行動し、敵兵に対し残虐なる取扱を為し、良民に対し無益の戦禍を蒙らしむるが如きは努めて之れを避くべきは言を待たずである。此の點に關しては、皇軍は我國教育の普及と伝統的武士道精神により、毎に正々堂々たる行為を以て範を世界に示しつゝあるは欣快である。嘗て済南事變の際支那兵が邦人に
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対する残虐視るに忍びざる殺戮行為、今回の通州に於ける邦人虐殺行為等天人共に許さゞる野蛮行為に対しても、敢て報復の挙に出づることなく、飽くまで正々堂々唯だ敵の戦闘力を挫折するに留めたのみである。故に皇軍には戦場に於いて事變と戦争を区別する必要はない。何れの場合にも武士道精神に則り行動するが故に、戦争違反の問題を生ずることは殆んど無いのである。
従来我が陸軍は戦場に於いて戦時國際法適用の万全を期せんが為目に戦時國際法の顧問として日清戦争には故有賀長雄博士を、日露戦争には第一軍乃至第四軍に何れも二人づつの國際法学者を従軍せしめたのである。日清戦役後仏國の國際法学者にして同國大審院検事長たるアルチュール・デジャルダン氏は日本軍の行動を激賞し左の如くに曰つた。
東洋の僻隅に大事業を成就すべき一國あり、之れを日本とす。其の進歩は単に戦争の術に止まらず、戦時公法の理想に於いても欧州をして驚嘆せしむるものあり。國際法論は欧州に於いても漸を以て進みたるものなるに、日本は一躍して此の論理を自得したり。是れ果して高尚なる正義を感得したるに因るか將た又利害を商算したるに因るかは別論に属すと雖も、其の之れを寛行するや極めて勇壮にして、恰も自國の能力を覚知する心念の中より適宜に之れを節抑するの嗜好を自然に生じたるものの如し。是れ人類一般の利益として祝す可き所なり。
又仏國の國際法学者ポール・フォーシル氏も、當時日本軍の行動を評して左の如く曰つた。
此の戦役に於いては日本は敵の万國公法を無視せるに拘はらず、自ら之れを尊敬したり。日本の軍隊は至仁至愛の思想を體し、常に慈悲を以て捕虜の支那人を待遇し、敵の病症者を見ては未だ全て救護を拒ま
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ざりき。日本は尚ほ未だ千八百六十八年十二月十一日の聖比得堡宣言に加盟せずと雖も、無用の苦痛を醸すべき兵器を使用することを避け、又敢て抵抗せざる住民の身體財産を保護することに頗る注意を加へたり。日本は孰れの他の國民も未だ會て為さゞる所を為せり。其の仁愛主義を行ふに熱心なる、遂に不幸なる敵地住民の租税を免じ、無代償にて之れを給養するに至れり。兵馬倥偬の間に於いても人命を重んずること極めて厚く、凡そ生霊を救助するの策は擧げて行はざる無し。見るべし日本軍の通過する所必ず衛生法を守らしむるの規則を布きたるを、云々。
日清戦役にては敵軍は全然國際法を守らざるが故に、我軍にても之れを守るの義務無かりしも、然も四十餘年前に完全に之れを守つて先進國を驚嘆せしめた。日露戦役當時は海牙の平和條約調印後なりしが故に、陸戦法規を守るべき義務ありしも、尚ほ宣戦の詔勅中にも「國際法の範囲内に於いて一切の手段を盡し違算なからしむることを期せよ」と宣せられ、参謀総長は訓令を發して戦規遵奉の趣旨を周知せしめ、更に前期の如く各軍司令部に國際法顧問を配属せしめた。戦役中特別の任務を以て米國に派遣せられた法学博士男爵金子堅太郎氏が歸朝の後國際法学会にて為したる演説中に左の要旨の一説がある。
米國人は事實の真相を調査せず、動もすれば國際法違反を称するを以て之れに対する材料を蒐集中、新聞紙上にて我が第一軍乃至第四軍に國際公法専攻の学者二名宛を配属し、陸戦の法規解釈其の適用は参謀部に於いて國際法専攻の学士と協議せしめ、公法違反を生ぜしめざることを發見せり。是に於いて各種の集会に於ける演説或は新聞記者との会見に於いて余は毎に「米國人は國際公法を提唱す日本政府の決心は露國は大國なり腕力に於いては或は露國は日本に勝るならん、貴國人が露西亞の聲を聞き戦慄す
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る程の大國なれば、日本も恐れざるに非ず、然し國家の危急存亡に代えられざれば全滅を賭して最後の一人まで戦ふにあり、而して此の戦争に日本が國際法を破りしことあらば世界の歴史に汚名を遺すが故に假令戦に敗るるも國際法は遵奉する決心にて現に此の如く専門学者が各軍に配属せられあり、故に余は日本軍に國際法違反無きを保證す」と説明せるに、此の説は次第に傅播して後には日本同情者が各所にて演説等をなす時、日本軍が國際公法家を二名づつ従軍せしめたる事實を述ぶる毎に非常に喝采を博したり。又エール・ハーバード等の米國國際法大家と会見せる際彼等は各國共に今度日本が外國との戦争に國際法学者を従軍性せしめたる如き前例なし、将来日本の新例に倣ふべきことにして、右は一進歩を陸戦の法規に與へたるものなりとして大いに称賛したり。之れ實に日本陸軍の今回の處置は文明國の真價を世界に示したるものと謂ふべし。云々。
世界大戦の時は、青島攻撃軍に嘗て筆者と共に日露戦役当時第三軍に在勤したる兵藤氏が従軍したるを聞きしも、其の職名を詳かにせず。又浦鹽派遣軍には主として外交官をもつて組織したる政務部を置いた。此の政務部は主として外交方面の事務に従事したるも、亦國際公法の適用に關して其の権威たりしは勿論である(筆者も數ヶ月間此の政務部に派遣されて居つた。)
過去に於ける皇軍の行動は實に右の如く最も鮮かであり、所謂花も實もある武士的行動であつた。斯かる傳統的名誉を有する行軍の行動は今回の事變に際しても決して差異あるべき筈は無い。理論上事變は國際戦争に非ざるの故を以て、節制無き行動に出づるが如きは想像だに及ばざるところである。
唯だ、陸戦法規の適用に關し、茲に疑問の生ずるは領土の性質である。假りに之れを中華民國
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の領土なりとせば、國交断絶を来さず単に事變たる間は、未だ之れを敵國領土と称するを得ざるが故に、出征軍は如何なる程度に其の権力を行使すべきか、又南京政府の官吏は既に逃亡し、地方の民衆自ら自治政権を樹立したりとせば、國家として列國の承認無きも、戦闘地域を其の領土として取り扱ふべきか等の問題である。
宣戦の布告により事變が變じて日支戦争となりたる場合に於いて、北支一帯が依然として中華民國の領土なりとせば、問題は至つて簡単にして、我軍は之れを支配して軍政を施行し治安を維持するのみである。然れども事變として繼續中及び新政府の領土となりし場合には、其の地域に行使すべき軍の権力に多少の差異あるべきは明らかである。
日露戦役の際は戦闘の地域に性質を異にする三種類の領土があつた。即ち樺太の如き完全なる敵國領土と遼東半島及び東清鐡道沿線附属地の如き敵國の租借地と、満州一帯の如き第三國の領土があつた。樺太に關しては完全に我が占領軍の権力を行使したるは勿論なるも、租借地に關しては租借権其物の性質すら学者間に議論一定せず、如何なる原則に基きて之れを占領すべきかは問題であつた。筆者は遼東半島上陸後直ちに此の問題に直面し、又間も無く着手したるダルニー(大連)の整理に際して実際問題に逢着した(拙著日露戦役國際公法第二章三章)。又当時諸國は局外中立を宣言したるも、遼東以東は之れを除外し日露両國の戦場たらしめるが故に、所謂喧實奪主の観ありて、交戦國は任意に此の地域に活動したるも、其の権力の講師には純然たる敵地占領とは自ら異なるものがあつた。
今回の北支事變に於いても、其の交戦地域の領土の性質が曖昧なるに於いては、日露戦役当時の先例を参
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考にして之れに善処し、然も恩威併行、皇風をして六合に洽からしむるの用意あるを要す。
従来北支方面は日・満・支に微妙なる關係を有し、外交に政治に極めて複雑なる舞臺であり、事變の原因も一部は其処に在つた。故に平和克復の後は雨降って地固まり、明朗なる新天地を現出して再び颱雨の發生地たること無からしめねばならぬ。従って陸戦法規の適用に当たりても緩急宜しきを制し、傍ら戦後の政治的工作に關する其の地均しの役目を引受lくるを必要と考へられる。固より事變であり、戦争であるに拘らず、我が武士道の精神と殆んど一致する陸戦法規は完全に適用せらるゝは疑ひなきも、其の間事に輕重あり、絶大の権力を有する軍司令官に禁止事項の外は自由裁量の余地あるかは明かである。
陸戦法規の條項を北支の事情と敵軍の素質に対照して一々之れを論究するは、紙面の許さゞるところなるにより、筆者が茲に希望するところを一言に表示すれば、過去の二大戦役にて、克く陸戦法規を遵守して皇軍の名誉を輝かしたる如く、此の事變に於いてもこの點に注意を拂ひ、更に占領地住民に対しては軍律を厳重にし軍政に寛仁にすべしと謂ふのである。
凡そ遣外軍隊は一地方を占據すると同時に、軍隊の安全と作戦動作の便益を図るが為めに、無限の権力を有するが故に、軍司令官は其の占據地域内に軍律を發布して住民に遵由するところを知らしめ、軍隊の安全と作戦動作の便益を害する者には厳罰を以て之れに蒞み、同時に一般の安寧秩序を保持し良民をして安んじて其の生業に従事せしめねばならぬ。固より戦闘に關係なき事項は其の地従来の法規により、其の地方の官吏をしてその政務に当たらしめ、以て安寧秩序を回復維持瀬しむるを便宜とするも、事苟も軍隊の安危に關するものは最も厳重に之れを取締らざる可からず。假令ば一人の間諜は或は全軍の死命を制し得べく、一條の
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軍用電線の切断は為めに戦勝の機を逸せしめ得るのである。故に軍司令官は此等の危害を豫防する手段として、其の有する無限の権力を以て此等の犯罪者を厳罰に處し、以て一般を警めねばならぬ。故に豫め禁止事項と其の制裁とを規定したる軍律を一般に公布し、占據地内の住民に之れを周知せしむる必要がある。日清戦役の際は大本営より「占領地人民處分令」を發布して一般に之れを適用した。日露戦役の際は統一的の軍律を發布せず、唯だ満州軍総司令官は鐡道保護に關する告諭を發したるのみにて各軍の自由に任せた。故に各軍區々に亘り第一軍にては軍律の成案ありしも之れを發布せず、単に主義方針として参考にするに止め、第二軍には成案なく、第三軍にては確定案を作成したるもの総司令部より統一的軍律の發布あるを待ち遂に之れを公布するの機を失し、遼東守備軍は第三軍の軍律を参照して軍律を制定發布したりしが、後遼東兵站監は之れを改正して公布した。旅順要塞司令部は特に詳細なる規定を發布し、旅順口海軍鎮守府も別に軍律を發布し、第四軍にては一旦之れを發布したるも後に之れを中止し、その他韓國駐剳軍、及び樺太軍は各々軍律を發布した。
軍律に規定すべき條項は其の地方の状況によりて必ずしも劃一なるを必要とせざるも、大凡を左の所為ありたるものは死刑に處すると原則とすべきである。
四、敵兵を誘導し、又は之れを蔵匿したる者
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六、一定の軍服又は徴章を着せず、又は公然武器を執らずして我軍に抗敵する者(假令ば便衣隊の如き者)
九、俘虜を奪取し或は逃走せしめ若くは隠匿したる者
而して此等の犯罪者を處罰するには必ず軍事裁判に附して其の判決に依らざるべからず。何となれば、殺伐なる戦地に於いては動もすれば人命を輕んじ、惹いて良民に冤罪を蒙らしむることがあるが為めである。軍律の適用は峻厳なるを以て、一面にては特に誤判無きを期せねばならぬ。而して其の裁判機関は軍司令官の臨時に任命する判士を以て組織する軍事法廷にて可なりである。
帝國政府が屢々聲明する如く、我國は決して北支を侵略して我が領土となすが如き意圖を有せざるも、今回の事變によりて北平天津地方より支那軍隊を駆逐し、現に事實上その地方を占據し、戦局の進展に伴日、占據地域を拡大しつゝある。而して此の地方住民が自治政権を樹立したるとするも、我軍の支援無くしては一日も安定し得ざるは明かである。故に如何なる外交辞令を用ゆと雖も、此の地方は一時的にもせよ事實上我軍の占領地である。勿論日支両軍衝突の一時的現象に止まり、永久に之れを占領するの意思無きが故に此
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我軍が一時的なりとも北支地方を占領したる以上は、我軍は其の地方の人心を鎮撫して Permalink | 記事への反応(1) | 11:41
隴西ろうさいの李徴りちょうは博学才穎さいえい、天宝の末年、若くして名を虎榜こぼうに連ね、ついで江南尉こうなんいに補せられたが、性、狷介けんかい、自みずから恃たのむところ頗すこぶる厚く、賤吏せんりに甘んずるを潔いさぎよしとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山こざん、※(「埒のつくり+虎」、第3水準1-91-48)略かくりゃくに帰臥きがし、人と交まじわりを絶って、ひたすら詩作に耽ふけった。下吏となって長く膝ひざを俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺のこそうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐おうて苦しくなる。李徴は漸ようやく焦躁しょうそうに駆られて来た。この頃ころからその容貌ようぼうも峭刻しょうこくとなり、肉落ち骨秀ひいで、眼光のみ徒いたずらに炯々けいけいとして、曾かつて進士に登第とうだいした頃の豊頬ほうきょうの美少年の俤おもかげは、何処どこに求めようもない。数年の後、貧窮に堪たえず、妻子の衣食のために遂ついに節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。一方、これは、己おのれの詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥はるか高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙しがにもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才しゅんさい李徴の自尊心を如何いかに傷きずつけたかは、想像に難かたくない。彼は怏々おうおうとして楽しまず、狂悖きょうはいの性は愈々いよいよ抑え難がたくなった。一年の後、公用で旅に出、汝水じょすいのほとりに宿った時、遂に発狂した。或ある夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇やみの中へ駈出かけだした。彼は二度と戻もどって来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰だれもなかった。
翌年、監察御史かんさつぎょし、陳郡ちんぐんの袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)えんさんという者、勅命を奉じて嶺南れいなんに使つかいし、途みちに商於しょうおの地に宿った。次の朝未まだ暗い中うちに出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人喰虎ひとくいどらが出る故ゆえ、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜よろしいでしょうと。袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は、しかし、供廻ともまわりの多勢なのを恃み、駅吏の言葉を斥しりぞけて、出発した。残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎もうこが叢くさむらの中から躍り出た。虎は、あわや袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)に躍りかかるかと見えたが、忽たちまち身を飜ひるがえして、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟つぶやくのが聞えた。その声に袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は聞き憶おぼえがあった。驚懼きょうくの中にも、彼は咄嗟とっさに思いあたって、叫んだ。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かった李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)の性格が、峻峭しゅんしょうな李徴の性情と衝突しなかったためであろう。
叢の中からは、暫しばらく返辞が無かった。しのび泣きかと思われる微かすかな声が時々洩もれるばかりである。ややあって、低い声が答えた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。
袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懐なつかしげに久闊きゅうかつを叙した。そして、何故なぜ叢から出て来ないのかと問うた。李徴の声が答えて言う。自分は今や異類の身となっている。どうして、おめおめと故人ともの前にあさましい姿をさらせようか。かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭いふけんえんの情を起させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも故人に遇あうことを得て、愧赧きたんの念をも忘れる程に懐かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形を厭いとわず、曾て君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか。
後で考えれば不思議だったが、その時、袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は、この超自然の怪異を、実に素直に受容うけいれて、少しも怪もうとしなかった。彼は部下に命じて行列の進行を停とめ、自分は叢の傍かたわらに立って、見えざる声と対談した。都の噂うわさ、旧友の消息、袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)が現在の地位、それに対する李徴の祝辞。青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それ等らが語られた後、袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを訊たずねた。草中の声は次のように語った。
今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼めを覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻しきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時いつしか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫つかんで走っていた。何か身体からだ中に力が充みち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気が付くと、手先や肱ひじのあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然ぼうぜんとした。そうして懼おそれた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判わからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。自分は直すぐに死を想おもうた。しかし、その時、眼の前を一匹の兎うさぎが駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗まみれ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還かえって来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操あやつれれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書けいしょの章句を誦そらんずることも出来る。その人間の心で、虎としての己おのれの残虐ざんぎゃくな行おこないのあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤いきどおろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。今少し経たてば、己おれの中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋うもれて消えて了しまうだろう。ちょうど、古い宮殿の礎いしずえが次第に土砂に埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人ともと認めることなく、君を裂き喰くろうて何の悔も感じないだろう。一体、獣でも人間でも、もとは何か他ほかのものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんな事はどうでもいい。己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、哀かなしく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなって了う前に、一つ頼んで置きたいことがある。
袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)はじめ一行は、息をのんで、叢中そうちゅうの声の語る不思議に聞入っていた。声は続けて言う。
隴西の李徴は博學才穎、天寶の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかつた。いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に歸臥し、人と交を絶つて、ひたすら詩作に耽つた。下吏となつて長く膝を俗惡な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺さうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に驅られて來た。この頃から其の容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに烱々として、曾て進士に登第した頃の豐頬の美少年の俤は、何處に求めやうもない。數年の後、貧窮に堪へず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになつた。一方、之は、己の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遙か高位に進み、彼が昔、鈍物として齒牙にもかけなかつた其の連中の下命を拜さねばならぬことが、往年の秀才李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。彼は怏々として樂しまず、狂悖の性は愈〻抑へ難くなつた。一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿つた時、遂に發狂した。或夜半、急に顏色を變へて寢床から起上ると、何か譯の分らぬことを叫びつつ其の儘下にとび下りて、闇の中へ駈出した。彼は二度と戻つて來なかつた。附近の山野を搜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなつたかを知る者は、誰もなかつた。