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2017-07-26

日蓮宗について

日蓮宗では、本迹一致を立てている。この本迹一致論は、

天台大師が『法華玄義』に説いた「本迹異なりと雖も不思議一なり」との解釈によるもので、

大聖人様の御教示ではないのです。

また、天台の「不思議一」との意味は、

迹門という小さな川も、本門の大海に収まれば同じ海水となるという、

法華経開会の法門を説き示したものであり、

決して身延のような本迹二門を対等に見た上での「一致」を説くものではないのです。

大聖人様は『治病大小権実違目』に、

「本迹の相違は水火・天地の違目なり」と、

また『妙一女御返事』には「迹門は理具の即身成仏

本門は事の即身成仏なり」と法華経の本迹の相違を明確に御教示されています

日蓮宗はその区別がついていない邪宗教です。

法華経本迹二門は、

久遠実成の本仏と始成正覚の迹仏という仏身においても、

その説かれる法体においても勝劣があり、

その相違は水火・天地のごとくであると言えます

しか日蓮宗では、「実相一体」や「本迹未分」という勝手解釈を加え、

「本迹一致」の邪義を主張していますが、

これらは宗祖の御教示にはないものであり、

宗祖の正意に背く謗法の論となることは明らかです。

仏像本尊は、宗祖の本意にあらず」

日蓮宗では、信仰の根幹である本尊について、

未だに宗祖の正意が何であるかが理解出来ず、

本尊に関する御書を集めて候補を選び、

その中から適当形式相談して決めるという、

極めて杜撰見解を発表しています

それを要約すれば、

御書に現れた本尊形式は、

一、首題本尊 

二、釈迦一体仏 

三、大曼荼羅 

四、一尊四士 

五、二尊四士があり、

このうち一、と三、を法本尊

二、四、五、を仏本尊とし、

その中心は三、の大曼荼羅と、

四、の一尊四士であるが、

祖書の教示等に照らし、

一尊四士を日蓮宗本尊と定めるのが至当である

(趣意・大崎学報)というものです。

日蓮宗では、本尊の依文として「観心本尊抄」の、

『此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。

末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか』との御文を挙げ、

仏像出現」の語句によって本尊仏像が正意であるとしています

しかし「仏像出現」の御文意味は、

文中の正像の本尊に対する「造り画けども」という語句と、

末法仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければなりません。

「此の仏像出現せしむべきか」の意味は、

後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく、

仏像の造立」という意味ではなく、

あくま現実に現れるということを示されたと拝すのが正しいでしょう。

すなわち、この御文真意は、

末法に地涌千界が出現して「本門の釈尊」を脇士とする

未曾有の本尊を顕わすことを明かされたものです。

また、日蓮宗では同じ『観心本尊抄』の、

「此の時地涌千界出現して、

本門の釈尊を脇士と為す閻浮提第一本尊

此の国に立つべし」との御文について、

「本門の釈尊を脇士と為す」を「本門の釈尊を脇士と為る」と誤読し、

一尊四士が正意であるとしている。

しかし、宗祖が御在世中に一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、

観心本尊抄』の御文も一尊四士を本尊とせよ、

との御教示ではありません。

それは日蓮大聖人様が佐渡以後、

本尊について御教示された御書に照らして見ればいっそう明らかです。

「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり(草木成仏口決)」

妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼荼羅文字は五字七字にて候へども、

三世諸仏の御師(中略)此の曼荼羅仏滅後二千二百二十余年の間、

一閻浮提の内には未だひろまらせ給わず(妙法曼陀羅供養事)」

法華経題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦大日総じて

十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり(本尊文答抄)」

これらの御文と『観心本尊抄』の文を合わせて拝する時、

日蓮大聖人様の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、

まさしく大聖人様が顕された大曼荼羅こそ、

正像未曾有の観心の御本尊であることは明らかなのです。

【補足】

(一、)首題本尊題目のみを書いたもの

(二、)釈迦一体仏

(三、)大漫荼羅(宗祖日蓮大聖人様が紙幅に御図顕された御本尊様)

(四、)一尊四士(釈迦一体仏と上行菩薩等の四菩薩像)

(五、)二尊四士(釈迦・多宝の二仏像四菩薩像)

※この記事未完成です。続きはいつか。

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

2017-04-21

望み

私には生まれつきエゴがないので、個人的な望み(俗に謂う「夢」)がない

人々の洗脳を解いてデモクラシー革命を実現することが望みだが、それは、バイトして金貯めて実現しうるようなことではないし、TNT背負って溜池山王突撃してもきっと実現しないだろう。バイトして金貯めて革命を実現する話をアニメ化でもしてほしいくらいだ(笑)

どうやったら人々からエゴがなくなる進化が起こるのか、日本人(笑)近世近代以来の洗脳が解けるのか、判れば苦労しない。むしろ洗脳が解けないようにして国家体制を実現しているわけだから、そんな容易に洗脳が解けるはずもないのだろうと思う。たとえ成り上がって革命を起こそうとしたところで、見つかったら確実にぶっ叩かれて刑務所に入れられるのが日本スペックなので、もう手の施しようがないのだろう

わざわざ近世近代呪いを呼び起こして洗脳を強めることを、今の権力者支配層、既得権益階級がやっていて、もはや滑稽なまでに愚民どもは釣られているようだ。近世近代のことを「日本古来」とかい阿呆が多いし、そもそも「日本」なるものは古来存在しない。「日本」というのは近代国家主義概念で、遡ってせいぜい徳川光圀大日本史が端緒だろう

エゴのない進化を遂げるというのは一種の才能で、天才的なできごとで、ヨーロッパモダンエヴォリューションに限らず、釈尊ブッダ)にも起こった昔からあることなのだけれども、人類凡そをみると進化することは決してなく、むしろ幼稚化が進んでいる。岡本太郎が云っていたことも然もありなんと思う

2017-03-26

雨ニモマケズ」は宗教

宮澤賢治のいわゆる「雨ニモマケズ」は検定教科書で出てくることが多く、やたらともてはやされてきた。しかし、「雨ニモマケズ」が宮澤賢治自身信仰の表れであって、いわば宗教であることは、習っただろうか? 習っていないとしたら、いろいろとまずい。国家的にしれっと宗教教育をやっているということであるし、また、正しく教えていないという、まさに学力低下以前の話。

宮澤賢治がなりたかった「そういう人」というのは、ブッダである。欲は無く、いからず(瞋らず)、よく(能く)観聴きする、すなわち貪瞋痴(三毒)の無い、覚った人だ。相談を受けて廻り、調停に入って争いをやめさせる人物。なりたい姿を自ら書いて携帯することで、己への戒めにしたのである本来の「お守り」、憶持仏のたぐいだ。

宮澤賢治には、肉食(ニクジキ)に批判的な著作がよくある。豚を主人公にしてみたり、人の方が食われそうになる話を書いたりした。農業研究していたのもおそらくは、肉食をせずとも生きていけるからだ。

そしておそらく、宮澤賢治は、ブッダ釈尊)に関して事実誤認をしている。史実釈尊は、雨季安居をしている。つまり、雨季には外を出歩かず屋内で過ごしている。

史実釈尊は、無理をするなと説いていた。しかし往々にして捻じ曲げられるもので、無理をしたり、苦行をしたりする「仏教」がつくられてしまっている。

それに、和國(日本)に届いた仏教と称するものは、中国信仰がごちゃまぜになっていて。つまり儒教が混ぜ込まれている。それは、中国での布教教化のために都合がいいからだし、権力者などが儒教教義矛盾しないことを求めたからでもあるだろう。そうして、中国では仏教儒教習合し、それが輸入された。ちなみに、中国技術文化を受容するためにも神道仏教習合したり、儒教とまぜられたりして、現存する神道本来のものではない。

ともかく、史実釈尊も丈夫な身体はもっていたけれども、雨風に勝とうとはしなかった。

教科書にやたらと出てきて「雨ニモマケズ」がもてはやされてきたのは、いわゆる根性論、「頑張る」ということを注入するためだろう。無理をして「頑張る」ことを美化することが未だに行われ、わざわざ公的教育されている。世(国家社会)のため、ひと(他人)のためには、己を傷めつけることも厭わない、そうした生き方がずっと美化されてきた。世のため人のために自らを犠牲にするという教条は、そもそもは儒教であり、言い方を換えれば軍国教育のようなものだ。要は、階級差別と、全体のために個を犠牲にするという全体主義である

かように日本かいものは未だに政教一致国家なのだけれども、そのことに自ら気づかなかったり、気づかないようにしむけられていることは危険だし、だからこそ、社会の既成構造優越させて変革を避け、創造性や生産性が低く、そして、自死率は高い。

2017-02-28

「世のため人のため」はエゴイズム

「世のため」とは人間社会のため、「人のため」とは他人のためなのですから人間至上主義エゴイズムほとばしっていることにはかわりありません。さらにいえば、自分のためでは無いということによってあたかも「エゴイズムではありません」っていう大義名分を得るわけですから、むしろ危険です。

「世のため人のため」は人間中心の利己なのですから、どうやっても、地球のためとか宇宙のためとか動植物国土風土のためだとかい価値観には直結しえません。

道徳と称するものは、(儒教の)信仰ですから、「道徳エゴイズムだ」というのはタブーであり、嫌悪されます中国文化圏は儒教信仰で、日本というもの儒教国家です。そして、国家社会を維持するための方策として、儒教教化されてきました。信仰を「間違っていますよ」と指摘されると怒るわけです、己の誇りの無さを埋めるために依拠するところですから信仰とは、無批判善悪が決まっていて、自然法則は抜け落ちます日本儒教国家ですから儒教道徳批判することは国家社会の既成構造、既成状態批判することと同じ、すなわち社会の既成状態によって助かっている人々にとって、儒教批判タブーで、絶対ダメであるわけですね。

さて、例えば「一番じゃなきゃダメ」だというスパコンにせよ、その神戸スパコンケイってやつは確かに例えば気象シミュレーションに用いることで災害予測技術の向上にも活用されています災害予測をすることで、「かけがえのない人命」が助かると、ほぼ皆思うでしょう?

問題は、人間ってそんなに大事タマなんか?ってこと。

人類人間至上主義で、他の動植物地球宇宙のことが抜け落ちています。例えば、人命のためだとか、国家のためだとか、人類のためだとか、子孫繁栄のためだとか、そういう目的資源も浪費するし、地球破壊して、それでもなお増殖しようとしてきました。その異常性を省みることすら、ほぼ全ての人は、しません。

人命のためとか、産業のためとか、経済成長のためとか、国家のためだとか言っていれば、いくらでも資源を浪費してかまわないという理屈になるでしょう。そのためには、化石燃料を浪費するし、核燃料を遣ってでも電力をジャブジャブ消費可能にしなければならないということになる。防犯のためならば電灯点けっぱなしにもするし、宣伝のためならば看板の電灯も点けっぱなしにするし、自家用車は売りつけるし、誰もがモノを所有し放題で浪費していいという社会状態にした方が都合がいいわけです。

そもそもは例えば神道にせよ、原初神道、つまり神祇信仰、いわゆる自然崇拝という時点では、地球宇宙自然現象に対する畏敬がありました。天皇祭祀を行いますが、その祭祀目的天神地祇、つまり自然自然現象の御機嫌を読むことです。それは、天皇以前の卑弥呼などであっても同じです。そういう超能力ESP)であり、そういう職業です。

それに対して、神社神道へと変遷し信仰対象が人へと換わり、そして人間我欲を満たすことが主目的の祈願ばかりが行われるようになり、さらには国家主義のいわゆる右翼にせよ国家神道と称する儒教信仰しているわけですけれども、そうなるともう人間社会至上のエゴイズムです。

人間ってそんなに大したタマなんか? 「かけがえのない命」っていうけど、どうせそのうち死ぬんだろ? それが当然の自然法則であるわけですから、その現実直視してイヤイヤしないのが、本来神道原初神道)もそうですし、本来仏教人間釈尊が説いた仏教)もそうです。

儒教国家主義だけではなく、民主主義とか共産主義とかでも凡そ、人間中心主義から脱け出られません。人間至上のエゴイズムから脱出するには、そもそもの自分自身思想が、脳が、その域に達する必要がありますデモクラシーであろうがコミュニズムであろうが、当の人々ひとりひとりがその域に達した生物にならなければ、人間至上から抜け出した自己客観視の可能スーパーエゴのある社会にはなりえないのです。むしろ民主主義かいってその域に達しない人が政治参加をして自己批判もしないでいると、エゴイズムによる政治になります。つまり衆愚政治になります。けれど言うまでもなく、独裁体制階級政治身分による社会であっても、社会差配する者がエゴイストであれば、話になりません。

そうすると、今の、安倍日本にせよ、プーチンロシアにせよ、トランプアメリカにせよ、どうなのかって、いちいちここで言うまでもないと思います

2017-02-15

学会員だが今回の長井秀和はかなり気持ち悪い

言いたい事はタイトル通り。これについての理由説明する。

まず創価学会における指導の一つとして「折伏」というのがある。折伏というのはまぁ簡単に言えば宗教勧誘だ。そして清水氏のようにある宗派に入っている人を自分の道に引き込むことを「破折」という。「破折」に関してはかつての釈尊天台大師のように仏教が広まっていた時代(これを正法という)から行われていた行為で主に権力座に就いていた人間の鼻をへし折る行為の一環として用いられていた。

で、今回の長井秀和の例をとってみると誰でも閲覧できるインターネットで、面識のない(もしくは薄い)相手に、破折するかのように挑発的な口調で責めるというのは学会においてもあまり行儀の良いやり方には見えない。

折伏というのは相手の事を思ってするというのが創価学会指導においての大前提であり、ひいては全ての宗教において必要な前提であると俺は考えている。今回の長井秀和の例はその前提を忘れているのでは無いかと思う。

要するにあの一文は相手を思いやる気持ちが欠けているように見えた。自分アピールが多すぎる。これが気持ち悪さの原因だ。

個人的な考えを言うと、まず死にたいと思うほどに追い詰められていた清水氏を守る立場人達たまたま幸福の科学であっただけであって、そういう人間の受け皿として機能するのであればそれはそれで良いと思う。本当に守れるならの話だが。

清水氏の場合のように、社会に追い詰められて宗教に縋る人間は数多く存在する。それはかつて創価学会が「貧乏人と病人が集まる宗教」と揶揄されていたのと同じ事だ。幸福の科学はこれからどうなるのかは清水氏の動向にかかってくるだろう。

2017-02-08

http://anond.hatelabo.jp/20170208091654

仏教入門はちょっと難しいのよね。

聖書っていう聖典がずーっと受け継がれてる(もちろん後代による修正・加筆はあるが)キリスト教と違って、仏教経典だけで図書館が1個埋まるぐらいあって、そのどれを正典とするかで争いがある。

これが宗派の分かれる原因でもあるのだけど、その正典選択によって教義が180度変わってくる。

しかもその経典というのも、そのうちかなりの量が、釈尊の教えが時代に合わなくなってきたために後代の人が書き足していったものから、初期の釈尊の教えが何かという点についてははっきり言ってよく分からない。

宗派釈尊の教えに一致する点があればそこを入門として取り扱えばいいのだけど、一致してるのかしてないのかがまずよく分からない状況。書店に並んでる仏教入門は「空と縁起」の話からはじめるものが多いけど、これも龍樹っていうお坊さん(学者)が体系化した考えに過ぎないし、宗派によって理解もバラバラ。

目的に応じて宗派を選んで入門を読むしかないのかな。

2016-12-03

高野山東京別院執事野村懐忍さんの私に対する発言まとめ 続き

http://anond.hatelabo.jp/20160827122113からの続き

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13163510618

言って欲しいか?今回のことはアンタが言ってはいけないことを軽はずみに投稿したことから始まる。

以前「始末書くらいでは済まなくなるぞ」と警告しておいたはずだ。以前のやり取りもプリントアウトして主監に提出だ、あなたバカから自分投稿包囲網をどんどん狭める(大笑)。

退職願の書き方は調べたか?「私は弘法大師信仰していませんでした」とか「私はバカでした」とか、バカ正直に本当のことを書かなくて良い。「一身上の都合」でよい、よかったな、安心して退職願いが書ける。

依願退職から失業保険は無理だがはるかに多い退職金がでる、外道退職するからといって高野山真言宗退職金を払う必要なないと思うけれどあなた人生ではそれなりの大事件なんだからもらっておけ、許す。

バカが騒げば騒ぐほど主監はバカかばえなくなる、自分の首を絞めるだけでなく主監の選択肢を狭める、あなたの愚かさは主監を追い詰める。主監は「信仰者」だが本山は主監に「信仰者」として行動することを期待している。本山が絡むと主監はあなたかばえなくなる。

あなたのように太い人脈はないが本山に知り合いが全然いないわけではないから、本山に知らせておいてやる。

諦めが付いたか??

ファイナルカウントダウンを始めたのはあなただ、自分でまいた種は自分で刈らねばならぬ、ジタバタするな、見苦しい。

日本仏教世界最強の仏教だが欠点もある、inchiki_2004さんのような金持ち寺のバカ息子がいっぱいいて平均点を引き下げていることです。

高野山東京別院へご参詣の皆様にお願い、

金持ち寺のバカ息子に「エサを与えないでください」。

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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10163694695

過去投稿を見ればわかる、頼むからもう少し仏教勉強してくれ。

あなた給料を得るのは普通免許を持っているから、私が給料を得るのは仏教徒からだ。

「要普免」で高野山真言宗に貢献しているのか?釈尊弘法大師の「信仰者」=仏教徒として給料を得ているのか?

世襲の寺に生まれたと言うことしか仏縁がない(本当に仏縁のある人がはたして寺に生まれるか??)住職目標外道と、成仏目標仏教徒とでは勝負にならんのだよ。

「送迎」で役に立てないおのれを恥ずかしく思ってるから、「仏教」で役に立たないあなたを恥ずかしく思ってくれ。

古代インド近国では母音を伸ばす

ヨガは間違い、ヨーガが正しい。

それゆえ、

パーリ語は間違い、パーリー語が正しい。

削除するなよ。

プリントアウトすることは誰でもできる、内容は誰が出しても同じだ。

そんなにまな板の上にいるのが不安なら、自分プリントアウトしてメモもつけて主監のデスクに置いておくか、ご自坊に匿名で郵送すればよい。

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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11164778016

ワイワイガヤガヤ楽しく妄語得上人法してますね、ゴミガラクタがお互いをプラチナだ、ダイヤモンドだと言う。

(略)

金持ち寺のバカ息子」の無能ぶり・バカぶり・怠惰放逸恥知らず等々、朝から晩までいやと言うほど現量=直接知覚してる。比量=推測・推理などする必要は全くない、目や耳が汚染され洗いたくなるくらいだ。

(略)

inchiki_2004さんはバカヨガヨーガが正しいのだからパーリ語パーリー語が正しい!!)だから”現量”知覚能力はあるが”比量”推理能力は3歳児、肉体は健常だが精神問題あり。

寺務から「主監からお話がある、ちょっと特別応接まで」と何時言われるか?死刑執行が何時になるか?

多少でも仏教知識があれば自分の犯した【罪】の程度を比量できるんだが、なにせ「金持ち寺のバカ息子」は「パーリー語が正しい」と「積極的に主張」!!する仏教ゼロから、僧籍剥奪か?懲戒解雇か?退職願か?始末書か?退職金は出るかどうか?見当もつかない。

「おねげーでごぜーますだ、教えてください」と土下座リクエストする。

早く早くと死に急ぐな、遅かれ早かれ処分は出る。

他人のせいにするなよ、まな板のうえが心配不安なのは仏教を知らないおのれの自己責任だ。

もう少しビクビク心配させてやる(笑)

(略)

蓋天蓋地!!宇宙が自坊だ!!くらいのこと言えないか!!

テーラワーダ外道いじめ精神年齢3歳児をおちょくるのは面白いが、一人には高野山真言宗当局から泣く子も黙る」厳しい処分??が下され、もう一人は10月15日に懺悔悪口雑言を悔い改めてホンモノの「釈尊仏教」=「日本仏教」に転向するのだから今回はこのくらいで許してやる、ちなみに世親大乗転向したとき大乗を謗り続けてきたおのれの舌を切り裂こうとしたそうだがアンタの舌など別院に置いて行かれても迷惑なだけだからやらないように。

井の中の蛙、牛跡のボウフラ、穴の中でメクソとハナクソ、ゴミガラクタがお互いにプラチナダイヤモンドだと「妄語得上人法」していられるのもあとわずかだ!!

あなたバカ暴走には同志○○さんもフォローのしようがなく困惑してると思う。

金持ち寺のバカ息子のレベルがよく解かる。

(略)

もとの言語サンスクリットであれパーリであれ「短母音」と「長母音」を別の母音として区別する言語なんだから、その区別を反映しようとしない文字表記ローマ字であれカタカナであれデーヴァナーガリーであれ間違いである。

音を文字表記するとき正解はないが間違いはある。「パーリー語」は間違いである。

ちなみにヨーガのオーがオじゃないのはオの長母音からではない、オーは二重母音

梵:Śāriputra シャーリプトラ、巴: Sāriputta サーリプッタ

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2016/11/16より「samantabhadra1611」という別ID投稿を始める。別人を装って以下の発言

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11167211446

高野山東京別院へ参詣してaksobhyavajraさんと会話してきました。

>もう犯人探しはしないがaさん(編注:野村氏の問題行動について高野山東京別院質問状を送った方)から公開質問状の入った封筒スマホ写真に撮っている職員を目撃してビックリした。

とおっしゃっていました。

ちなみに高野山東京別院警視庁高輪警察署と隣接してるんですね、チットモ知らなかった!!別院で悪いことをするとすぐ捕まえてもらえますね。

刑事告発状の書きかたを知ってますか?と訊かれてビックリしました、何かあったんですか?

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こちらもどうぞ。

高野山東京別院執事 野村懐忍さん発言集 傑作選 - Togetterまとめ

2016-04-14

インターネット赤ちゃんポストについての私の見解

今、テレビを見ていたら、インターネット赤ちゃんポストについての記事を見た。

私は、これについては、非常にいい取り組みだと考えている。

たまたま1件、養母詐欺容疑で逮捕されたとしても、その大きな流れを止める必要はない、と考える。

私が、2004年釈尊から、「至碧金剛如来」という法号を与えられ、仏陀として認められた時に、釈尊から

私が地蔵菩薩の魂である、と明かされた。私も、それについては、思い当たる節が沢山あった。

地蔵菩薩は、子供水子の守り神であり、お釈迦さまから釈尊亡き後の後事を託された。

私も、自らが、弥勒仏出現までの間の法を守る役割を痛感する。

その観点からして、中絶される命をどのような形かにせよ、救うことは、社会として認めるべきだと思う。

たとえ、里親詐欺で捕まえられようとも、途中で育てられなくなって、施設に引き取られる運命を辿るにせよ、

とにかく、生まれて来たことを評価するべきである。その里親がいい人ばかりでなくても、子供を欲しいと願っている

家族の下に、一度でも行くことは、その子運命として、喜ぶべきことである現在は、無責任妊娠するケースも沢山ある。

そして、生まれた結果、いじめ虐待に会う子供もいる。それでも、私は、産んで育てる方が良い、と思うのである

これは、仏陀視点であり、反対も沢山あると思うのであるが、宇宙創造主の御心からすれば、そういうことである

赤ちゃんポストに、寄付するように心がければ良いと思う。私も、生活に余裕ができたら、ぜひ、慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」に

寄付をしたいと思っている。私の場合、まず、経済的に自立することが必要なのであるが。

2016-03-16

http://anond.hatelabo.jp/20160316225835

薬師如来病気を治す仏、女が生まれ変わりを繰り返して清らかになってきたら男になれるみたいな考え方みたいだから、多分その流れで女と言う病を治して男にしてくれるみたいな効能がついたのでは

如来悟りをひらいたあとの釈尊菩薩悟りをひらく前の王子時代釈尊モデルと書いてたよ、仏さんの男性器は陰蔵相で体内に入って隠れてるの

2014-01-13

潔癖なのに不潔な国

今日も、「荒れる新成人」という毎年恒例の話が出てくる。しかし、新成人に文句を言って嘆く既成人たちは、「なにがなぜ悪いのか」を説明して叱れるのだろうか? 叱責が説得力をもつためには、なにがなぜ悪いのかを説明し、しかも叱る当人が己を律していなければならない。

「人を殺してはなぜいけないのか」という疑問が話題になったことがあったが、「そうした疑問をもってはならない」という社会気質が、この国にはある。何も考えずにただ「殺人=悪」だと言う。しかし、そんな思考停止では、真の倫理観は育つまい。究極的には、刺すか刺されるかの状況になれば他人を刺すものが必ず出るし、「死にたい」と思っている者には「他人を殺すまい」という抑止力はきわめて働きづらい。ただ単に「殺人=悪」だと言って洗脳するのでは、ものごとは解決しない。

この社会にあるのは、道徳倫理ではない。潔癖症なのだ。言い換えれば、怖いのだ。多くの者が、死を怖れると同時に、快適に暮らしたいと思っている。その、自分たちにとって心地の良いような潔癖な社会にしようとする理屈でできているのであって、真に「なにが悪いのか」は考えていない。

「なにが悪いのか」を考えずに杓子定規に順守して、「俺も守っているのだからお前も守れ」と言うのだろうが、そんな理屈ではよくわからない。ところが、いまの多くの人たちは、「俺はこんなに頑張っているのに」「私はこんなに苦しいのに」と言って他人に八つ当たりする。大流行中だ。

古くは、自分でも「悪い」とは思いもよらなかった行為を、偉い人に怒られたり、天変地異の原因になったと思ったりしたから、「しきたり」ができるようになり、いささか不合理な「しきたり」でも杓子定規に遵守するという社会気質ができた。それがそのまま江戸時代ころにはもう全国家的に流布されて、皆「お上」の言うことをきく「踏み絵社会」ができあがっていた。

さて、そもそも、社会的善悪というのは、真の善悪とは異なると思う。社会的善悪というのは、人間にとっての都合の良し悪しだ。自分たちの自我にとって「得だ」と思うことが善になり、「損だ」と思うことが悪になる。だから、死にたくなければ他の生物も殺すし、インフルエンザウイルスであれなんであれ、徹底的に殺すようにしているだろう。昔も今も、多くの生物殺戮して、しばしば絶滅させてきた。

昔はもっと、「殺生は悪だ」ということが一般的に言われていた。いまは、平気で生物を殺すし、動物がたくさん殺されて食べられている。動物を殺すのを見たくないから食べない、というのではなく、見ずに食べる方法をつくりだして逃げている。ついには、魚肉や鶏肉に骨がないようにまでしている。もはや、生物っぽくなく、便利に食べられる。もちろん、骨抜き魚肉や骨抜きフライドチキンが出てくる以前に、チキンマックナゲットだろうがハンバーグだろうが、骨を意識することはないのだが。いまの欧米人はこの国の活造りを見ると「残虐だ」と言い出すが、我々はもともとは、生き物を殺して喰らっているという自覚をあえてもって、また、ピチピチしているのを見て「新鮮だ」と言って、喜びと有難みをもってきたのだ。反対に、たとえブロイラーにしようがハンバーグにしようが、動物を殺している残虐からは不可避なのだ。例えばマクドナルドなどにしても、全世界的に食肉を大量生産して流通させているが、膨大な殺生をしている。大量の飼料や水を消費して牛を飼い、また、深海魚まで獲っている。それはムダな消費なのではないか?

まあどうせ昔も、「殺生=悪」という「しきたり」でしかなかったのかもしれないが。だが、きっと、釈尊にしてもそうだし、「無益な殺生をしてはいけない」と言った多くの偉人たちのなかにも、「殺生ばかりをしていたら自分たち人間も生きていけないだろう」と直感していた者が少なくなかったのだろう。ただそれが、日本社会では、形式的にばかり順守される「法令さえ守っていればいい」的な実態になったのだ。それは結局のところが、日本社会ほとんどの人が無教養思考停止をしているかなのだろう。つまり洗脳されてきただけだ。

我々が生きていくためには、生物を少なからず殺す必要がある。そうしないと食べていくこともできないだろう。直接にも間接にも、殺生をしている。だが、際限なく殺しまくっていたら、無益な殺生になり、そして殺された生物種がしばしば絶滅する。

自我屁理屈を超えれば、他の生物を殺しすぎるのは、生態系のつりあいを破ることになるから、我々自身も生きていくことが難しくなる。したがって、無益な殺生は、生きていくという観点でも明らかな悪だ。無益な殺生が悪だということは、合理的に説明可能だ。

いまのこの国では、「本当のこと」が言えない。例えば、政治的な発言が忌避されるのも異常だ。「それはおかしいと思う」と言える社会ではなくなっている。例えば原発にしたって殺生にしたって自殺率にしたって、さらには、インフルエンザだろうがHIVだろうがなにもかもを殺戮して存在を消し去ろうとすることの異様さにしても。

他人を叱れないし、叱る能力(冒頭に書いた通り)がそもそもない人が多いのだろう。なにがおかしいのかを言える雰囲気でもなければ、なぜおかしいのかも言えないからなのだろう。ひとりひとりが叱れない社会からマスコミが代弁することで憤懣の捌け口になっているのだろう。

我々は、完全には清廉潔白でいることはできない。殺生をしなければ生きていけないし、他人に迷惑をかけずには生きていけない。

だが、己の穢さを自覚しなければ、不潔であることに対する抑止力は働かないのではないか。

皆がまたぞろ、自分にとって都合のいいと思うことをやりたいから、例えばガソリンなどの資源エネルギーも多用するし、そうして地球温暖化も進んでいるのだろうし、有毒物質もまきちらしているし、将来の資源枯渇へと「ツケまわし」もしている。だが、「それは悪いことだ」とは、ほぼ誰一人として言わない。例えば、「自動車を抜本的に減らせ」とは、ほぼ誰も言わない。乗りたいからなのだろうし、自動車があることで産業があり雇用があるからなのだろう。同じように、「タバコ有害から禁止すべきだ」どころか「増税すべきだ」と言うことすら、すぐさま自民党などから「葉タバコ農家が〜」という屁理屈が返ってくる。それではきっと、葉タバコ農家死の商人だね。JTも、その大株主のこの国も、同じ国民から「血を吸って」「肉を喰らい」生きているのだ。

例えば米国人がやっていたら、この国でもやっていいことになる。迷惑駐車でもポイ捨てでもなんでも「他人たちがやっているか自分もやっていい」という言い訳は必ず出てくるだろう。互いに都合のいいことなのだから、みんなして「赤信号も渡る」のだろうし、「崖っぷちへと突撃する」チキンレースをやりもする。

ところで、自分たちにとって都合の悪いと思われる生物を徹底的に殺戮してきたから、HIVが出てきたり、新型インフルエンザが出てきたりしたのだと思う。少なくとも、薬物耐性病原体は、過度の殺菌をしてこなければ出てこなかっただろう。そうして、潔癖に潰しまくってきたから、いわば「テロ攻撃」が他の生物から地球から、加えられているのだ。

それどころかさらに、いまの我々は、自己の心身にすら欺いて、自我が都合の良いと思うことばかりをしているから、心身の反乱をくらっているのだろう。癌にしても、アレルギーにしても、「精神疾患」にしても。人工的に潔癖な生活空間をつくってきたから、心身にとってかえって不健康なことになっている。

地球生態系のつりあいも、自己の心身のつりあいも、壊しているからだ。だからかえって危機に陥る。不健康になる。

この国では少子化だと騒がれているが、世界人類はいまも増え続けている。はたして、「人口増=善」なのか? 人類が増えすぎたら、地球生態系のつりあいは崩れる。すでに崩れている。しかし、自分が生きたいと思っている人たちは、「出産=悪」だとは決して言わないだろう。真実を言わないし、真実気づきすらしないのかもしれない。

から、例えばクリスチャンは「人は原罪を負っている」と言う。また、この国では浄土真宗の檀信徒が最大多数だと言われているが、そもそもの浄土宗浄土教は、悪の自覚から始まっている。つまり、「自分悪人だ」と自覚しているからこそ、「地獄に堕ちる」と思い、「どうやったら救われるか」と考えるのである。それに比べると、いまの人間には、悪の自覚が足りない。

自分たちを律することができず、ゆがんでいく。ゆがんだことでトラブルが起こるごとに、対症療法をする。砂糖を入れすぎたから塩を足すかのように、余計なものをどんどんと付け足していき、だからますます錯乱していく。ぐにゃぐにゃにゆがんでいく。

究極的には、己の死に対して覚悟がないとはじまらないのだと思う。人類は、過剰な生存意欲があるからこそ絶滅せずに生きていられたのだろう。だが、だからこそ、生存意欲の過剰さに対する自覚をもたないと、欲望も執着も、いくらでも膨張して肥大化していく。そうして、人類も増えすぎるし、生物殺戮するし、資源も食い尽くすし、自己の心身さえも傷つける。

異質な他者存在に対して、多様性に対して、寛容に、しなやかに、ふわっと、受け入れないといけないと思う。究極には己の死に対して覚悟がないと、それはできない。だが、受け入れなければ、「テロ攻撃」が、他人からも、他の生物からも、さらには自分自身の細胞潜在意識からも、加えられていくのだ。

いまのこの日本社会にしても、やっていることは正反対で、威圧して同調化させようとする傾向があり、それは近年ますます増している。それではきっと、ますます危険で不健康暮らしづらい国になっていくのだろうと、私は思っている。

2010-10-26

ガラパゴス化孤独化、仏化

テレビネットの融合、なんて起きないような気がしてきた。

テレビテレビ進化して、ネットネット進化するんじゃないかと。

これまでもこれからも。

テレビを見る人間ネットをみないし、その逆にネットに浸かった人間テレビを見なくなる。

似たようなことがいろんな製品に対して起こる。

というか起こってるように思う。

たとえば、都市民は車から離れ、地方では鉄道離れが起きる。

地方では紙幣が主流だけど、都市部では電子マネーが主流になる。

ちょっと考えれば、日本中で同じサービス提供するなんて無理だし、効率的じゃない。

田舎suicaが使えなくたって、田舎iPhoneがつながらなくたって、代わりのものがあればいいじゃないか。

なんか高級住宅街とスラム街にわかれてる昔のアメリカみたいだよね。

高級住宅街とスラム街住み分けと違って、明確な上下関係はないんだろうけどさ。

都市部への嫉妬とか憧れとかもなくなると思う。

みんなが持ってるから自分も欲しい、みたいな物欲はなくなるんじゃないかな。

他人は他人、自分自分、よそはよそ、うちはうち。

だんだん、他人に興味がなくなるんじゃないかな。

みんなもう政治とかに興味ないじゃん。

そのうち芸能とかスポーツにだって興味が失せるよ。

他人がサッカーしてるのを見たってさ、「自分がしてるわけじゃねーし」くらいに思うようになるんじゃないかな。

昔、「夜もヒッパレ」って番組がやってたじゃん。芸能人カラオケする番組

なんで他人がカラオケする番組なんかやってたのか今じゃ謎だよ。

でも、サッカーに対してだってそう思うようになるよ。

どんなスーパープレーだって、見慣れちゃえばさ。

掲示板ツイッターもそのうち廃れるよ。

呟くなら、自分の部屋で、ただ声に出す。

そういう時代になるんじゃないかな。

いいかげんこの世の無意味さに気付くだろ。

すげーな釈尊って。

この境地に2400年も前にたどり着いていたんだもん。

2010-05-19

http://anond.hatelabo.jp/20100519225719

他人に理解されないことに苦しむのは、ヒトとヒトが理解しあえるなどという幻想にとらわれているからです。

理解されて当然、という傲慢があるから、他人の言動や行動にいらついたり傷ついたりする。

苦しみから解放されるには、一人相撲を辞めるだけでいい。

血を流し痛がっている人の痛みがどれほどかを正確にわかる人はいない。

他人の痛みがわかるなんて言っている人を信用してはならない。

「この男は痛いだろう。だが私は痛くない。カイジくん、君もだ」

と言い放ったあのお爺さんだけが正直者だ。

2000年前は釈尊くらいしか気付き得なかった真理を、全員が気付き始めてる。

大々的に全ての人間にアピールなんかせずに、「価値が理解できる人だけ買ってください」というスタンスでモノを売る。

容姿も、性も、商品となって売買されてる。

全てが貨幣換算できて、幻想お金を払うことの無意味さを理解してきてる。

生活日用品から食料、果てはセックスパートナーさえ電話一本で宅配される時代に、愛しあうなんてありえない。

2009-09-23

毒矢のたとえ

釈尊は具体的な生き方を説いた人であった。真理を理論だけで理解しようとしても苦を乗り越えて生きることは出来ない。釈尊のこうした考え方を示すものに 毒矢の例えがある。

マールンクヤと言う若い弟子がいた。かなり理屈っぽい人だったようだ。彼は 「いろいろ考えたが世の中には解からない事が沢山ある。わかるものならばそれをはっきり解からせて欲しい。それがはっきりしない限り私はこれ以上修行が出来ない。」と言い次のような質問をした。 「世の中は常住なるものか それとも無常なるものか  世界に果てがあるのかないのか 霊魂と身体は同一か同一でないのか 死後の世界は存在するのかしないのか 」と言ったような問題に悩み釈尊に解答を迫ったと言う。「釈尊世界が常住であると思うならそうおっしゃってください。それに応じて修行します。世界は常住でない 無常なものだと思うならそうおっしゃってください それに応じて修行いたします。」

それに対して釈尊はおおよそ次のようなことを言ったとされる。

「ある人が毒矢に射られたとする。 すぐに治療しなければならないだろう。ところが医者にかかる前に 一体この毒矢を射た人は誰か どんな名前の人か 身長は どんな顔の人で どこに住んでいた人か どんな弓で射たもので どんな矢じりがついていたのかと言ったような理論を追求していたら 結局 死んでしまうだろう。」 「それとおなじで世の中は有限か無限か 霊魂と身体は同一か そうでないか人間は死後も存在しているのか そのような問題に答えたところで私達の苦なる人生の解決にはならない。そのようなことがはっきりしたら修行すると言うのは正しくない。 世の中が常住か 常住でないかについて見解を持ったところで 私たちの老死 憂い 苦痛 嘆き 悩み 悶えは依然としてここにある。 私はいま 現実のこれらの老死 苦を超えることを説くのだ。 悟りに達すればそのようなことは気にならなくなるであろう。」   中部経典第63経

一方釈尊は方便を使う名人で 死に行く人に対しては 「死後極楽に行けるから安心しなさい」と説いたという。

メンヘラが脳の病気なのかホルモン病気なのかただの甘えなのか、非モテ以下略とか、そういうのはどうでもいいんだな。

宗教の勧誘

新しい職場、突然同僚に誘われ、出かけてみると宗教の勧誘

主な発言は次のとおり

新型インフル国立戒壇を建立しないせい。

創価学会国立戒壇を諦めたから悪。

日蓮宗釈尊も崇めるから間違い。崇めるべきは日蓮大聖人ただ一人。

釈尊日蓮上人の出現を予言するためにこの世に生まれたんですよ。

南無妙法蓮華経と唱えるといいことが起きる。

・全国民帰依しないと中国が攻めてくる。

・どうですか?歴史観がひっくり返ったでしょう?

・人が不幸になる最大の原因は間違った宗教を信じることなんです。お守りとか、十字架とか持ってたら今すぐ捨ててください。

Koeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeee!

2009-07-03

位牌?お位牌?

位牌ってなんだか良く意味が判んなかったですが、こういうことだったんですねー  なるほど

仏教は本来お位牌必要としません。われわれは釈尊弟子であるため、他界では釈尊と一緒になれるはず、特に供養しなくても成仏になれるはずです。仏教起源インドでは、お位牌はほとんど飾られていません。

なぜ、日本はお位牌と仏壇が必要なのか、これは仏教の伝来、日本の文化に深い関係あります。

仏教は紀元後1世紀に 中国に伝わり、538年前後日本に伝わってきました。仏教伝来とともに、中国の文化や風習なども伝わってきました。古代中国儒教では、亡くなった人の名前官位などを板に記する風習あり、これは最初位牌の形です。

日本においでは鎌倉時代禅宗寺院で用いられたが、江戸時代以降一般家庭では用いられた。これは仏教の普及に密接な関係あり。

鎌倉時代に入ると、前時代末期からの動乱で仏教にも変革が起きた。それまでの仏教の主流が「鎮護国家」を標榜した国家貴族のための儀式研究に置かれていたものが、次第に民衆の救済のためのものとなっていったのである。さらに江戸時代徳川家康は、寺院諸法度を制定し、寺社奉行を置き、仏教を取り締まった。また、人々には必ずいずれかの寺院に登録させるようにした(寺請制度)。そのため、今日に至る葬儀を取り仕切る主宰教としての地位を確立した。

仏教普及によって、仏壇仏具は細分化され、お位牌も大量生産の時代が来ました、本来は高価で上流階級しか買えないお位牌は、庶民の間でも簡単に手に入れることが出来ました。

位牌買うならここで買ってあげてください!知り合いのサイトhttp://www.futakiya.com/shopping/

2009-05-17

知っていて犯した罪と、知らないで犯してしまった罪とでは

「どちらが重いのでしょうか?」っていうのは、遥か昔から議論の対象になっていて、

「問うて曰く『知って犯した罪と、知らずして犯した罪とでは、いずれが重きものなるや』」

というのは、“多門第一”といわれた、釈尊の高弟“阿灘”の問いとして紹介される事も多い設問だけれども、原典は『那先比丘経』という、西北インドを治めていたギリシャ人の王ミリンダと、仏教僧ナーガセーナの“対談集”だよね。

故意と過失の境界線

http://anond.hatelabo.jp/20090517101611

判決が」ってよりブコメの『市民』感情の中に

飲酒運転>>>(越えられない壁)>>>故意殺人

つーのはやっぱりあると思うんだよね。

で、そもそもこの『過失>>>>故意』って考え方、ここ最近ネットはずっとそうだよね。

意図的に他人を批判してサイト閉鎖に追い込むような人』には次々に擁護者があらわれる一方で

『「ついうっかり」な失言した人』に対しては容赦ない弾圧と炎上がはじまる、みたいな。

冒頭の問いかけに対する釈尊、あるいは仏教僧ナーガセーナの回答として記録されている文章というのは、

「あなたはどう考えるのか。灼熱し、燃焼し、炎熱し、炎上した鉄丸を、一人が知らないでつかみ、一人が知っていてつかむならば、いずれがひどくやけどをするのか?」

 ↑これだけ。文献によっては鉄丸だったり火箸だったりするんだけれど、そこはまぁ、大した問題ではない。

 いわゆる「先進国」での、“法律的”“世間的”な標準は「知らなかったのであれば情状酌量の余地あり」というのが主流。「自発的に行われる行為にたいして罪状を重く見ている」のね?

 どうしてかといえば、“再発・再犯の防止”という社会運営上の都合でもあるし、「全く知らなかった事を理由に処罰されたくは無い」という人情の表れでもあるだろう。

「(それをすればどのような結果になるか)分かっていれば実行に移さなかった」

とか、

「(適切な対処・対応の方法を)知ってさえいれば防ぐ事ができた」

とか、少なくとも、

「きちんと理解している人がそこに居さえすれば被害の拡大を防ぐ事ができた」事例というのは数限りなく存在するわけでね?

 だからなのかどうかはいまひとつ確信できないんだけれど、哲学宗教系では「知らずに犯した罪の方が重い」という解説が付いている事がほとんどなんだわ。

無知こそが罪悪である。」

「悪いと思っていないから際限が無い」

 大雑把にまとめるとこのようなスタンス。確かにごもっともなんだよ?ごもっともなんだけれど、非常に恣意的なものを見出してしまうのよ。少なくともおいらが知る限り、釈尊・阿灘の問答にも、ミリンダ王と仏教僧ナーガセーナの対談にも、原典に近いとされるものには「知らないで犯した罪の方が重い」という記述は無いんだよね。

「知らない」 という、そのこと自体が 「罪」 なのだから、人間はいろいろなことを知るべきだ。少なくとも、知ろうとすべきである。”

↑こんな言い回しがあちこちで目に付いてさ。

でもこれって、簡単に変質してしまわないか?

例えばこんな風に↓

無知である事は大罪である。この大罪から逃れるために、この神(思想・主義・その他諸々)を信じなさい。信じない・信じられないものは大悪であり、人間ではないのだから、打ち滅ぼしてやる事こそが彼らにとっての救いである」

「知っていれば、つかみ方が違うし、布を巻くなりするだろうし、そもそもつかもうとしないだろ?」

っていうのが大体共通するところなんだけれど、知っていようが知っていまいが、同じように焼けた鉄を同じようにつかんだら、やっぱり同じように火傷するんじゃないのか?

 だからこそ“原典”ではあえて「自分で考えろ」で止めてあるんだろうと思うんだが、どうだろうか?

2009-01-14

念仏ドグマ日本人気質の悪しき土壌を作った。

乱暴な一般論化と言われるかもしれないが、念仏者たちを観察してきた経験上から言えば、

長いものには巻かれろとか、石橋を叩いて渡るならまだしも叩き過ぎて壊すとか、迷って迷って自分ではなかなか決められないとか、お上には逆らえねぇとか、どうせ生きてるの無駄だとか、どうせ俺なんてとか、人の幸せの為に自分犠牲にしますとか、生意気なこと言うなとか、こういう権力者に迎合しやすくて女々しいナヨナヨな気質を作ったのは全て念仏思想ドグマだよ。

死んでから極楽逝きますとか言ってるから生きるちからが弱っちくなるんだよ。

釈尊はとんでもないスーパーマンで、凡夫はとうてい仏の足元にも及ばない馬鹿だから易しい教えしか救えないとか、経典の批判を直接しない代わりに、浄土三部教以外の経典を聖道門というレッテル言葉で持ち上げ褒め殺しにし、信仰の道を閉ざして有名無実の無用の長物にしてしまった。そんなのは中国のドンランが作った歪曲教義でしかない。

彼らは一見謙虚そうな態度にみせて、実は理想化された釈尊に押しつぶしされた卑屈根性に過ぎない。それは

オウムのようなカルト奴隷信者となんら変わらないではないか。

そして、その信仰意識すらないものであっても、念仏ドグマの影響に毒された思考のひとをたまにみる。

しかし、

釈尊人間である。

そして、阿弥陀仏西方浄土も、どこか遠い違う世界にあるのではなくて人間の心が生み出した概念に過ぎない。

現実にはありもしない西方浄土阿弥陀仏を追い求めるのは現実逃避オカルトだ。

現実逃避だからそれを信じれば人間がますます弱くなる。

鎌倉時代封建社会のなかで権力者に念仏が重宝がられたのは、民衆を無力化して大人しいく飼い慣らすためだ。

法然仏教を仏に成る宗教から、仏にすがる宗教に変質させたのだ。

だから俺は、織田信長のように念仏嫌いだ。

2008-06-29

法華経久遠実成の釈尊=一切衆生(全民衆)

と、日蓮は言っている。

法華経久遠実成の釈尊と一切衆生の3つには差別が無いと。

しかし、他の宗派では釈尊と一切衆生の間に差別化を図っている。

日蓮仏法において成仏という意味では一切衆生釈尊も仏であることに差別は無いけど、では本仏とは何か?と考えるときに、本仏というのはその一人をして手本となるべき存在となる。

手本であるという存在師匠であっても、教祖様的な階級とは違った存在だ。

あくまでも対等な立場でありながら手本となる存在が本仏だ。

しかし、対等でないものを有り難かって深遠ぶって釈尊を神格化して人間として見ることが出来なくなったのが多くの仏教団体である。

人間を超えた存在なんてこの世に必要ないのさ。

人間を超えた存在を作るとき、その名において人間を犠牲にすることも厭わなくなる。

仏とは生命なり。

2008-04-12

63 2008年04月11日 14:36 あつし

サラダボールさん

いとーさんの52のコメントについてもですが、私の47と50のコメントについても、きちんとご返事をください。

60でりりこさんのコメントについて、

「いまのところ、あなたの言質には取るに足らない嫌味しかみあたりません。」

とおっしゃっておりますが、

りりこさんは、会話のキャッチボールをきちんとして欲しいとサラダボールさんに要請しているわけであり、単なる嫌味だけを言っているわけではないと思います。

まず、御自分の言いたいことばかりをよく他人にわからない仕方で一方的に主張するのではなくて、まずは相手との会話のキャッチボールを心がけてはいかがでしょうか。

仏の身ならば、なおのこと凡夫の衆生にわかりやすい対機説法を行わなければならないでしょうに(^^;

会話や対話は、ドッジボールではなくて、キャッチボールです。

サラダボールさんの一連の言動は、多くの人にとって不可解に思われていますし、まともなキャッチボールではなくてドッジボールのように思われているのではないでしょうか。

悪気はないのかもしれませんが、ちょっとそのことを心がけてみてください。

釈尊は、いつも相手にとてもわかりやすいように説きました。

マッジマ・ニカーヤなどを読んでいると、どんな相手の質問もきちんと受けとめ、会話のキャッチボールについて天才的な人物だったことがよくわかります。

サラダボールさんも、仏を自称されるならば、マッジマ・ニカーヤなどに見られる釈尊の姿と、同等の御姿を衆生や凡夫のためによくよく心がけるべきではないでしょうか。

64 2008年04月11日 15:41 いとー

一言あつしさんの【63】に補足させて頂きます。

あつしさんは私が信頼して任命させて頂いた、

コミュニティの副管理人です。

従って、あつしさんがされた、コミュニティ運営上の発言は、

コミュニティの副管理人としてのものであり、

コミュニティ参加者には、従って頂きますので、

よろしくお願いします。

65 2008年04月11日 15:52 サラダボール

>63

ドッチボールですか(笑)

集団化してこちらに一斉に複数のボールをぶつけてこようとするのはそちらですよ。

1対1になろうとせずに、私ごときに数を頼らなきゃならないなんざぁ??情けないもんですね。

対等の話し合いとはよべません。

いましばらく、やることあるから、ほかのことはあとから書きます。

662008年04月11日 16:42 サラダボール

私は、いとーさんとの1対1の話を希望しているのです。

大学院まで出ていると豪語するなら、やるのかやらないのかどちらかにして下さい。

67 2008年04月11日 16:49 いとー

サラダボールさん 65

「集団化して」

「数を頼らなきゃ」

今までサラダボールさんの私に対する質問に、

他の人に代わって答えて頂いたことがありましたか?

私が丁寧に論拠を挙げて説明しても、

論証責任も果たさないまま無責任な発言を繰り返す、

サラダボールさんの対話姿勢に不備があるから、

複数の方に批判されているだけの話です。

妙な言い掛かりは、やめて頂きたいと思います。


それから、サラダボールさんは、

『無量寿経』に関して私に教えて欲しいということで、私に質問しているのですよね?

以前、メールで申し上げたように、

教えてくれというから教えてあげているわけですが、

私に教わるつもりではなく、私に喧嘩を売るつもりなら、

私も相応の態度を取らせて頂きますので、

そのあたりをはっきりさせてください。

私に教えてもらうような言い方をして、私にだけ論証責任を要求し、

自分は論証責任を放棄し、主観勝手に述べる態度は不当です。

68 2008年04月11日 17:01 いとー

サラダボールさん 66

失礼しました。

投稿が重なってしまいました。

マンツーマンで私に講義しろということですか?

それならお断りです。

私も暇ではないので、まともに話を聞かない人に講義するつもりはありません。

それとも、一対一で私とガチンコ勝負すると言うことですか?

それならお受けします。徹底的にお相手しますよ。

ただし、サラダボールさんの発言に、一々資料の提示と論証責任を要求しますので、

覚悟してください。

692008年04月11日 17:33 サラダボール >68

では、新トピックたてたので、こちらでどうぞ。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29969117&comm_id=2135313&

70 2008年04月11日 17:56 いとー

サラダボールさん 69

それでは、『無量寿経』に関する議論はそちらで行いたいと思います。

こちらのトピックでは、

引き続き私がサラダボールさんに質問させて頂く。

その際に、今後はサラダボールさんは論拠・資料を挙げて答えていく。

ということで、よろしいのですよね?

71 2008年04月11日 18:13 あつし

サラダボールさん、いとーさん

ちょっと待ってください。

コミュは全員参加のもので、私的なものではありません。

サラダボールさんがいとーさんと二人だけで議論したいということの理由を、まず御説明ください。

私も含めた他の当コミュメンバーの合意もなく、勝手に二人だけの議論を立てられても困ります。

少なくとも、そうしなければならないことのきちんとした理由と説明をサラダボールさんは述べてください。

また、65のコメントは、私の63のコメントへの返事に全くなっておりません。

そのような態度で、「仏」を自称僭称されても、説得力がないのではないでしょうか。

まず、いとーさんの62と私の63における質問にお答え下さい。

<<1対1になろうとせずに、私ごときに数を頼らなきゃならないなんざぁ??情けないもんですね。

そもそも、私は1対1にサラダボールさんといとーさんがなるべきだと思っておりませんし、そのことに同意していません。

また、サラダボールさんから、きちんとその要請も受けておりません。

数を頼っているのではなく、まともな感覚の第三者が見ていて、あまりにも対応がおかしいので、サラダボールさんに対してその態度とあり方に疑問と異議を申し立てているだけのことです。

私は釈尊をとても尊敬しているので、このようにまともな対応もできない人が、仏を僭称することに大変な不快感を持っているということを、率直にお伝えしたいと思います。

いとーさんが同意されるならば、お二人だけで新たに立てられたトピで議論してもいいのかもしれませんが、どれだけいとーさんが誠意と論理と証拠を示されても、サラダボールさんがまともな感覚の持ち主から見たらとても受け入れられない、対話のキャッチボールも成り立っていない勝手な言い草ばかりされることが危惧されます。

やはり、当時者だけでなく、公平な第三者としてのオーディエンスから逐一コメントされることは、議論の公平性を保つためにも必要なことではないでしょうか?

これは、私以外のこのコミュメンバーから指摘があったことですが、サラダボールさんは「未熟」な人間であり、「現代文もまともに読めない」、「キャッチボールもできていない」人だという指摘がすでにたくさんされていますよね。

私も、65のようなコメントを見ていると、そのような感を抱かざるを得ません。

いとーさんは、僧侶としての勤めも忙しく、コミュの運営もせねばならず、サラダボールさんだけに関わりあえるほどお暇ではありません。

また、どれほど労力と誠意を尽くしても、それを無にするような人物だと、私に限らずこのコミュの多くのメンバーサラダボールさんに対して感じているのではないでしょうか。

にもかかわらず、いとーさんにそのような労力と時間無駄を強いることは、大変忍びない申し訳ないことだと思います。

サラダボールさんが、いとーさんとの対話をお求めならば、まず二人で対話しなければならない理由をきちんと示し、およびこのトピですでに出されている質問にきちんと答えて、まともな感覚の持ち主であることを第三者にもわかるようにしてください。

72 2008年04月11日 18:26 サラダボール >70

>71

だが断る

(-"-;)

73 2008年04月11日 18:37 Rahiri

彼の[仏]は[ほっとけ]と読むらしい 。。。。 (^^;ゞ

74 2008年04月11日 18:54 いとー

サラダボールさん 72

自分の説明責任は放棄するということですか?

そのような無責任な方は、相手にできませんね。

75 2008年04月11日 19:01 フロル そ??ですね??。

サラダボールさんは「議論をしようとするものが取るべき適正な態度」からはずれた態度をおとりになることがよくおありになって、それで多くの人が「こら」とか「ちょっと」とか「なんですかその言い草は」ともの申したくなっただけのことですよ。

別にサラダボールさんが論者として隙がなくて手強いので周りのものがいとーさんをフォローしようとして発言をするわけじゃないと思いますが。

お行儀の悪い子に「これっ」と注意したら、たまたま怒声が重なった、っていうくらいのもんで。

それをいとーさんが数を頼みにしてサラダボールさんを攻撃しているようなことをおっしゃるとは随分しょってますね。

大体、論拠もあげないで主観を言ってるだけの論証になってない発言に、論理上のつっこみを入れることもできませんよね・・・。

論証がなされてないので、論証に対する攻撃は不可能です。

みんながしたのは、サラダボールさんの態度に対する注意でしょう?

行儀の悪さを指摘するようなしょうもないことまで、いとーさんがしなきゃならないのがあまりにもお気の毒だとおもったのじゃないですかね、皆さんは。

(私はそうですけど。)

762008年04月11日 19:15 サラダボール

>74

>75

トピック2つ掛け持ちするのめんどっちぃ??。

77 2008年04月11日 20:15 いとー

サラダボールさん 76

そうですか。

私も恐らくコミュニティの他の皆様も、サラダボールさんとお付き合いするのが、

いい加減「めんどっちぃ」になりましたので、

申し訳ないのですが、このコミュニティから出て行ってくださいませんか?

自主的に出て行ってくださらないなら、私の権限で強制退会&アクセス禁止にさせて頂いてもいいですよ。

理由ですか?

コミュニティガイドラインに反している」それでもう十分でしょう?

一、お互い教えあおう!

一、間違ったことを教えないように気をつけよう。

一、教えてもらったら、素直にありがとう!ごめんなさい!

一、違うと思うときは、素直に違います!

一、自分の信仰を大事にしよう!

一、他の人の信仰も大事にしよう!

一、悪口は言わないようにしよう!

私はせいぜい、最後の一項目だけですが、

サラダボールさんは、七項目のうち、確実に五項目に反しています。

サラダボールさん以外pppの教えを信奉する方では、

Steveは、相手を罵倒しまくっていましたが、その際に必ず根拠を述べていました。

そして自分の信仰に関する質問には、常に誠実にお答えくださっていました。

その論に納得いくかどうかは別として、 Steveの人柄や情熱に心動かされたし、

議論を通して多くのものを学ばせて頂きました。

ど根性さんは、ガイドラインに反することを一度もされなかったし、

根拠のない発言を一切されませんでした。

議論は最後まで平行線でしたが、pppの教えが釈尊の教えに直結することを、

知的誠実さを尽くして私逹に接してくださいました。

私はど根性さんの人柄や知性に大いに感服し、

御縁を大切にさせて頂こうと、マイミクにさせて頂きました。

お二人ともpppの素晴らしさを伝えてくださる素晴らし方です。

お二人を通して、pppの教えの素晴らしさを教えて頂くことができました。

サラダボールさんはどうでしょう?

サラダボールさんは全く違います。

私はサラダボールさんから学ぶ要素は、「反面教師」として以外見いだせません。

それでも、今まで論証責任を放棄した発言に 、我慢に我慢を重ねてきましたが、

今回遂に、自分の信仰について語ることすら放棄しましたね。

もう限界です。

もはや嫌がらせをするためにこのコミュニティ存在する、

害をまき散らすだけの存在であることは明かです。

もういいでしょう。

他の方の迷惑になるし、管理人の私の権限を行使させて頂きます。

コミュニティから出て行ってください。

78 2008年04月11日 20:55 あつし

<77 いとーさん

私もいとーさんのご意見に賛成です。

同感です。

76においてサラダボールさんが言われている、

トピック2つ掛け持ちするのめんどっちぃ??。」

といったような、幼稚で無責任な態度を放置しておいては、まじめにこのコミュに参加して実のある真剣な議論をしたいと思っておられる参加者の方々に対して非常に迷惑ですし、不快感を与えるでしょうし、妨害になります。

サラダボールさん、自らの態度を改めることも非をお感じになることもできないのならば、もうそろそろこのコミュから出ていってくださらないでしょうか。

私が単にサラダボールさんについてよく知らなかっただけなのかもしれませんが、一番最初にやりとりをさせていただいていた頃は、まだ今よりもずっと言葉遣いも態度もまともな方だったように感じておりました。

その頃と比べて、どういうわけか、サラダボールさんは劣化の一途を辿っておられるように思います。

こんなに幼稚で無礼な態度をとる人とは、昔は思いもしませんでした。

ここしばらくのサラダボールさんの一連の態度は、非常に残念に思います。

なんとか改めて欲しいと思って苦言を呈してきましたが、もはやこれまでと思います。

もうこのコミュニティから出ていってください。

このコミュを心から愛し、大切にしているメンバーの一人として、お願いします。

792008年04月11日 21:00 サラダボール

>77


ここでは黙秘権を否定するのですね。

言いたくないことを黙っている自由を認めないのですね。

質問には絶対答えなければいけない義務なのですね。

黙っているのが悪いとは全く思えません。

知的誠実と言えば聞こえはいいけど、

私には知的誠実の名の下に人を見下したいだけにしか見えませんでしたよ。

802008年04月11日 21:07 サラダボール >78


どいつもこいつも管理人のYESマンみたいな腰巾着ばっか(笑)

そんなに一人で5人も6人もいっぺんに全部に答えてしまうと、論点が多岐にわたり過ぎて処理しきれない状態になるのは目にみえてるよ。

そういう状態に追い込みたいのだろうけどね。

81 2008年04月11日 21:24 いとー

サラダボールさん 79 80

言いたいことはそれだけですか?

一切謝罪の言葉が頂けなかったのは残念ですね。

私は当コミュニティ管理人として、常に知的誠実さを尽くしてきました。

今まで一度も、根拠のない発言をしなかったことを自負しています。

私は、コミュニティ参加者の皆様から一銭も頂いておりませんが、

コミュニティの今後のために、参加する方を選ばせていただきたいと思います。

相手に対して論証責任を求めている人物が、

自分の論証責任を放棄して無責任な発言を行うことは絶対に認めません。

コミュニティは、参加者コミュニティを選ぶのではなく、

コミュニティ参加者を選ぶコミュニティです。

既に警告させて頂いた通り、

コミィニティからの強制退会&アクセス禁止にさせて頂きます。

今日までお疲れ様でした。

さようなら。

82 2008年04月11日 21:49 いとー

管理人より  皆様へ

サラダボールさんを強制退会&アクセス禁止にさせて頂きました。

これまでさんざんコミュニティガイドラインに反した行為を繰り返し、

管理人、副管理人、その他複数の方々の忠告を無視し、

態度を改めるどころか、更なる暴言を繰り返されましたので、

コミュニティの運営上、必要な処分を下させていただきました。

全く不本意なことであり、大変残念に思います。

皆様にも不快な思いをさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。

コミュニティは、信仰に関して真剣に語りあうコミュニティです。

私は常に知的誠実さを尽くしますし、無責任な発言は認めません。

その方針は、コミュニティ立ち上げから一貫しております。

参加者の意向にあわせて方針を変えることはありません。

今後も、その方針でいきたいと思いますので、

皆様どうぞよろしくお願い致します。

  合掌

83 2008年04月11日 23:29 いとー コミィニティを退会させられた方が、トピックごと削除してしまったので、

もう一度トピックを立てておきたいと思います。

『無量寿経』で二乗成仏が可能か?

84 2008年04月11日 23:34 myinya

いや、よく今まで付き合った。いとーさんの粘り強さに尊敬の念を感じます。

あたしなんぞ、とうに絡むのは時間無駄だと思って眺めてましたもん(爆)

やっぱり日本語がどうしても通じない人っているのかなぁ。

85 2008年04月12日 00:06 いとー

>myinyaさん

ありがとうございます。

譲歩できるぎりぎりの所まで譲歩して、

なんとか対話の形式を成立させようと思いましたが、

とうとう、キレてしまいました。

論拠を挙げた上での批判なら大歓迎ですが、

最初から論拠がなく反証しようのない批判を行う相手と、

対話を続けるほど太っ腹にはなれませんでした・・。

私が、複数の方にヘルプしてもらっているような言い方は、

どうにも納得いきませんでしたね(苦笑)。

私はできるだけ複数の方に指示して頂けるように、

どきるだけ明晰で論理的な文章を構築心がけてはいましたが・・。

2008-03-31

 

 レッテル社会といわれる現代では、より安定した生活を送るためには有名校を卒業して大(だい)企(き)業(ぎょう)や官公庁(かんこうちょう)に入り、重要ポストにつくことが幸福の要件と考えている人があります。

 これについて二点から考えてみましょう。

 第一の点は、はたして社会的な地位につくことが幸福の条件なのか、ということです。

 最近、四十代、五十代の、いわば社会的に重要な地位にある年代のエリートが、仕事上の行きづまりや人間関係の悩みによってノイローゼになったり、自殺に走るケースが頻繁(ひんぱん)に起こっています。

 現代の熾烈(しれつ)な競争社会の中で責任のある地位につくことは、それだけ大きな負担(ふたん)となり、身心ともに苦労も多くなることは当然です。

 ではなぜ人々は苦労の多い地位を望(のぞ)むのでしょうか。その理由は、ひとつには人に負けたくない、人の上に立ちたいという本能的な願望(がんぼう)であり、もうひとつには地位が向上すれば経済的に豊かになる、周囲から敬(うやま)われることなどが挙(あ)げられると思います。

 もし願いどおりの地位についたとしても、それに適合(てきごう)しない性格であったり、負担に堪(た)える人間的な能力がなければ、その人は苦痛(くつう)の毎日を送ることになるのです。

 第二の点は、学歴(がくれき)至(し)上(じょう)主義(しゅぎ)がもたらす弊害(へいがい)と不幸がいかに大きいか、ということです。

 たしかに一流大学卒業した人は、それだけ幼(おさな)いころから勉学に励(はげ)んできた努力によって、能力的に優(すぐ)れています。深い学識と幅(はば)広い教養による英知(えいち)はいずこの社会職場にあっても、知的(ちてき)資源(しげん)、人的(じんてき)資材(しざい)として重要視されることは当然でしょう。

 しかし誰もが一流校には入(はい)れるわけではなく、ごく一にぎりの人だけが許(ゆる)される狭(せま)き門を目指(めざ)して、過酷(かこく)な受験戦争がくり広げられ、子供は友情を育(はぐく)むどころか、同級生を敵視(てきし)する状態(じょうたい)に追いやられています。

 毎年受験シーズンになると受験に失敗して自殺するという悲惨(ひさん)な事件が相(あい)つぎますが、幼いころから親や先生の「有名校に入る人は優秀、入れない人は敗北者(はいぼくしゃ)」という言葉を聞いて育ったならば、受験の失敗がそのまま人生の破滅(はめつ)になると考えるのは当然です。

 まさに誤(あやま)った学歴偏重(へんちょう)の風潮(ふうちょう)が生む不幸の一面であり、その風潮の中で育った子供は、またさらに学歴偏重人生観を増幅(ぞうふく)していくのです。

 このような教育制度や教育行政(ぎょうせい)のゆがみは教育の部分だけをとり上げて改革(かいかく)しようとしても根本的な解決にはなりません。

 なぜならば、教育問題は時代や社会機構(きこう)全体と深く関(かか)わっており、さらには人生観・価値(かち)観(かん)ともつながっている事柄(ことがら)だからです。

 釈尊は現代を予言して、末法は五(ご)濁(じょく)の時代であると喝破(かっぱ)されています。五濁とは時代が濁(にご)り、社会が乱(みだ)れ、人間の生命も思想も狂(くる)うことを指(さ)しており、その原因は誤った宗教にあると説いています。

 したがって健全人生観や社会思想は、ひとりひとりが正しい宗教に帰依(きえ)し、しかも正法が社会に広く深く定着(ていちゃく)したときに醸成(じょうせい)されるのであり、真実幸福は表面的な学歴や肩書きによってもたらされるのではなく、真実の仏法を信仰修行することによってもたらされるのです。

 以上の二点だけを取り上げてみても、学歴社会的地位がそのまま個人の幸福の絶対的条件になるわけでもなく、社会の福祉(ふくし)につながるわけでもないことがわかるでしょう。

 真実幸福とは、いかなる負担や困難をも悠々(ゆうゆう)と解決して乗り越えていくところにあります。

 個々の人間生命力を与え、勇気希望と智慧(ちえ)をもたらす道は、真実にして最勝の仏法を信仰修行することに尽(つ)きるのです。

 身につけた学識(がくしき)と教養、そして大きな責任をもつ社会的な地位、それらをより充実したものとし、より価値あるものとするために、正しい信仰が絶対に必要なことを知るべきです。


とりあえず、学歴や地位が幸福をもたらすのが現実、まで読んだ。

 
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