はてなキーワード: 延暦寺とは
・西川貴教を愛している
・でもあまり知られていない
・ひこにゃんも県の誇り
・安土城が残ってたらよかったのにとふと思う
・世界遺産の延暦寺は住所が滋賀県なのに、京都のものにされてて悲しい
・明るい廃墟と言われたピエリ守山は今は賑わっており、温泉もある
・雄琴に有名な風俗街があり、その横の国道を車で通る時はなんか気まずくなる
・「滋賀県行ったことあるよ!新幹線で通ったよ」と言われて悲しくなりがち
・「滋賀県行ったことあるよ!サービスエリア寄ったよ」と言われて悲しくなりがち
・平和堂のホップカードを県民のほとんどが持っているのは本当の話
・なんだかんだで滋賀県が好き
・車の滋賀ナンバーは「ゲジナン」(滋の字がゲジゲジなので)とバカにされる
・「違う!イナズマナンバーだ!」と言い返す人もいる(参考)http://zombieaso.blog.jp/archives/23357712.html
・JR湖西線はすぐ強風で止まり、神戸線まで迷惑をかけてしまう
・ビワイチという自転車で琵琶湖一周するルートがあるが、気軽に行くと10時間以上かかるので死ねる
・BBCといえばイギリスの放送局ではなく「びわこ放送」を思い浮かべる
・滋賀新聞はなく、代わりに京都新聞に少しだけ滋賀情報が載ってる
・クラブハリエのバームクーヘンは数少ない全国区の名産品なので、滋賀県民の誇りであり心の支えになっている
・滋賀県の面積の6分の1が琵琶湖で、半分は森林。滋賀県4000㎢、森林2000㎢、琵琶湖600㎢。基本的に琵琶湖と山の間の平地に住んでる
・琵琶湖の近くで運動すると琵琶湖虫というユスリカが汗の匂いで頭の上に集まる
・イナズマロックで雨が降ると「なんで台風の時期にやるんだろう」と思う(西川貴教の誕生日)が、滋賀でフェスやってくれることは感謝してる
・ブラックバスを食べたことある人が多い。給食に出ることがあるし琵琶湖博物館でも食べられる
・たくあんマヨネーズか入ったサラダパンが紹介されることがあるが、あれは基本的に湖北の人しか食べたことがない(他ではほとんど売ってない)
・ぽこピーは甲賀市なので滋賀県民にはそこまで知られてない(気がする)。応援してる
・5年生になると、「うみのこ」という船に乗って他学校の生徒と船上で一泊する
・ちなみに4年生は「やまのこ」といって山の施設に一泊する
ボクサーを撲殺したのは僕さ
これから満で数つけるわ
ナンを何枚も食べるのなんて、なんでもないよ
新患の新幹線に関する新刊に新館を立てて震撼し信管が作動する。
ケニアに行ったら生贄や
柑橘類の香りに歓喜し、換気を喚起したが乾季が訪れたので、寒気がした。
塗装を落とそうか。
観光客がフイルムに感光させた写真を刊行することが慣行になった。
サボってサボタージュ
景気が良くなりケーキを食べる契機を伺う徳川慶喜(とくがわけいき)
夫を成敗するオットセイ
つまらない妻の話
竹の丈は高ぇなー
餅を用いて持ち上げる
ロストしたローストビーフ
サボテンの植え替えサボってんな
過度な稼働は可動範囲を狭める
伯爵が博士の拍手に拍車をかけて迫真の爆死をし白寿の白人を白紙にもどす。
紅葉を見て高揚する
甲子園で講師をする公私混同した孔子の実力行使には格子窓も耐えられない。
死んでんのか?「心電図を取ってみよう!」
夜祭で野菜を食べる。
信玄餅を食べながら震源を特定するように進言する新元素を発見した人。
蜂の巣(honeycomb)を見てはにかむ
五反田で地団駄を踏む
ようやく要約が終わった
海溝で邂逅
豪華な業
甲板で甲板をかじる
甲板で乾パンをかじる
店頭で転倒
大枚をはたいてタイ米を買う
醤油をかける人「えっっ?」
神田でした噛んだ
少食な小職
牛の胆嚢の味を堪能する
あの娘にはどう告っても(どうこくっても)慟哭する結果に終わるだろう。
キーンという高音の起因が掴めない。
こんな誤謬は秒でわかるだろ
壊疽した箇所が治るというのは絵空事だ
経口補酔液
痴的好奇心
セントーサ島に行くのは正恩が先頭さ
軽微な警備
冬眠する島民
ベットは別途用意してください
The deserted desert in desert desert.
九尾のキュービズム
罹災者へのリサイタル
画家の画架
不納が富農になるのは不能だ
理工がRICOHに利口な履行
I sensed tha it is in a sense sense.
私はそれをある面では扇子だと感じた。
鯖を食べている人と、それを見ている人の会話
鯖 ça va?
ça va 鯖
ça va
ゆめゆめゆめをみるわけにはいけない
早漏で候
凪に難儀
東上線に搭乗した東條が登場
高校を後攻で煌々と口腔で孝行
蝉が転んでセミコロン
道徳をどう説く
写真はフォトんど撮りません
ダリ「絵ぇかくのだりぃなあ」
華美な花瓶のカビに過敏に反応
檻に入っておりいった話をする
夏のおサマー
夜は寝ナイト
渦中のカチューム
渦中のカチューシャ
リスボンでリスがborn
どうないはどないなってんねん
苫小牧でてんてこ舞い
市内を復旧しないと
石狩の石を借りる
おが置いてあるのを見た人「おはおっかねぇーから置かねぇ方がいいぞ」
砂がどしゃーw
東上線に登場した東條が登場
飽きない商い
おなか吹田市
観劇で感激する
側転に挑戦し即、転倒
別件を瞥見
凹地のお家
魚を初めてみた人「うぉー」
カラヤンの頭の空やーんw
豚をぶった仏陀
只見線をタダ見w
菊名でそんなこと聞くなよ
五秒で死んで御廟に埋葬
がらんとした伽藍
有給を使いすぎて悠久の時が流れた
長谷に想いを馳せる
Thinkerの真価
不具の河豚
暗記のanxious
半世紀にわたる半生での藩政を反省
タンチョウが単調増加
ショック死内親王w
カルカッタの石軽かった
天皇のこと知ってんのー
蒋介石を紹介した商会を照会した商會の船で哨戒する
其方のソナタ
先王に洗脳される
防潮堤で膨張した傍聴人
砂漠で鯖食う鯖を裁く
筒に入った膵島
サイコロを使った心理テスト(psychological test)
カラシニコフが辛子個踏んだ
皇帝の高弟が公邸の校庭の高低差を肯定する工程に拘泥した記録を校訂
にようかで酔うか?
うるさい人が売るサイ
どんなもんだい、を、どんなムンバイ、と言い間違える人
透徹した饕餮の眼球
チャカで茶菓を破壊
slimyなすり身
ゆうほど広くない遊歩道
いにしえのイニシエーション
コーランをご高覧ください
K殻の傾角を測定する計画
協賛した共産党員に強酸をかける
負けたのは聖者の静寂のせいじゃ
裏地見るウラジミール
カミオカンデの上に紙置かんでw
県大会がおわり倦怠感を感じる
夕暮れのユーグレナ
ストライキをする公務員に呼びかける人「 Stay calm(公務)」
エド・はるみの穢
祭壇を裁断
腐卵ダースの犬
全然人が集まらないクラブの人「参加数人は我々の十八番ですから。だけに。」
四苦fuck
都バスが人を跳ね飛ばす
怒るカロテン「なにカロテンねん」
嫌がる慰安婦「いやんっ」
かえるがえる帰る蛙
沈厳な青梗菜
トリコロールの虜
布陣を組む夫人
栗けっとばすクリケット🦗
婉容と遠洋漁業
アマルガムで余るガム
ハラスメントの疑いを晴らす
滋賀を書けない人を歯牙にも掛けない
他意はないタイ人の鯛の態度
鯛が蛇足
ダジャレではない↑
割と面白い
ハラッパーの原っぱ
紫に関して思案を巡らす
Huluが夏の風物詩だと思っている人「Huluですなぁ」(風流)
下調べのムニエル
わからないので
意味ない諱
よく分からんリポーター「うわぁ〜美味しそうですね!少なくとも不味そうには全く見えません!」
どうしても下がりたくない人「黄色い線の内側は、境界を含みますか??」
計算ができない人
着ていく服を決めた高橋是清「これ着よ」
enough、enoughは工夫がenough
負け負け山(カチカチ山)
薬師丸せま子
トーマス・マンの書いたふるさと「うさぎ〜おーいし、魔の山〜♫」
その心は
焼結が猖獗を極める
これはstaleだから捨てるか
衒学的な弦楽を減額
完全な勧善懲悪
イボ人の疣痔
イブに慰撫
(訳 ぬるぬるしてるありふれた魚)
盲いるのに飯いるの?
アーヘンで阿片を吸った人「あー変」
毒吐く独白
明借りるアスカリ(車)
丁寧な砂浜「Could you九里浜」
ゴーンと奉公
その心は
サンクチュアリに山窟あり
熟れたウレタンは売れたんか?
清澄な声調を静聴し成長
プエルトリコで増える虜
象さんを増産
兄弟が今die
Dose heで始まる疑問文に答える京都人、Yea, he どす
ソフィカルのソロカル
美人局に筒持たせる
十把一絡あげ
篤信な特進が涜神を得心
これは何という植物かな?ムユウジュでは?あそっか、なるほど。
クートゥを食うとぅいいよ
マイソールで昧爽に埋葬
ドクサは毒さ
暗殺で朝死んだ
クラシックについて語る人をそしる人「弦楽なんてペダンチックだなあ」
凛々しいリリシズム
衛生的な俳人
御髪も亂とはオクシモロンだ
コロナ後の世界を分析する学問→postcoronialism
影響が色濃いイロコイ諸族
あてのあてないアテナイ
皆さんのブコメや反応を見ました。
うーん意外と? 線引きすればいいだけ、という反応が多いような気がして、ドライなんだな。って思いました。
あと、ミステリーやサスペンスを楽しむのと、現実の殺人はダメなのと同じとかという意見には違和感しかなかったです。
小説はフィクションだから。モデルになるような事件はあったかもしれないけど、小説の中で死んだ人は現実には存在しないですよね。
フィクションと現実の区別がついていないという意見もありましたが、史実に基づいた話のことについて書いたつもりだったので、それも違うなと思います。
内心の問題。そうですよね。
自分の中の矛盾は、歴史モノは本当は殺された人がいるにも関わらず、
その人達を「あえて見ない」ことにし、登場する英雄たちの行動や勝利、あるいは敗北でさえ娯楽として、消費してしまったことにあると思います。
日本で人気のある武将では織田信長が1位になったりしますが、延暦寺の焼き討ちはシンプルに虐殺では...?と思います。
現在のウクライナ侵攻では、ほぼリアルタイムに被害にあった方々の声を聞き、破壊された街を見ることができます。
当然のように、戦争には反対します。被害者の方々に同情します。
であるならば、歴史モノに対しても、そうであるべきだったと思います。
当時も多くの被害者がいただろうけど、その人達の声が聞こえてくることはありません。
美味しいところだけを食べ捨ててしまった。という罪悪感。
飴と無知
映画のワンシーンのような写真、絵のような写真、写真のような映画のワンシーン、写真のような絵、映画のワンシーンのような写真のような絵、写真のような絵のような写真、絵のような写真のような絵
米ソよりお世話になっております
失敗の非嫡出子
流石にスタン
コラソンアキノ/リンゴスター/マリアカラス/アーネストサトウ/ナオミキャンベル/ベアテ・シロタ
キレる仏図澄「このブドチンガ」
テジロ猿/ヤジロベイ
湯担保
ニューカレドニアはク活用形容詞の補助活用の已然形ニューク+逆説のド+連語のニヤ
豚を陸フグと呼ぶ人
サーターセンダーギー
想起ソバ
ワイヤレスイヤホンを洗っても壊さないことを売りにしている洗濯機
アンタレス↔︎ワタシモア
見ざる言わざるdismissal
禿げたフッサール
豪遊型リゾート
看取るネーム
鷹の爪の垢
四角い頭を丸くする→頭を丸める
忙しくない/忙しない
りんご/フラミンゴ/日本語/喃語/マンゴー/単語/援護/縁語
セヴラック/セノビック
絶賛デッサン中
大きいエスカルゴ→Lカルゴ
銃は社会の癌だ、ガンだけに
よりどり緑
エーゲ海↔︎悪い天上
能し力(抑止力)
隠された鷹の爪
don’t こい
likely きらいがある
singing 呻吟
break order 無礼講
スケルトン 透ける
へしくらまんじゅう
崇めムノン
ベートーベンの答弁
Unboxing Day
めちゃくちゃ覚えておいて欲しい人「記憶の中心にでも置いて頂ければ」
焼き討ちを見た人「ひでーじゃん延暦寺」
めくるめくの久留米
選りすぐりのリス
上手くいった人「計画が表目に出た」
蛸の価値は如何ほどに?
敷衍できない人、プエン
いたわる/板割る
めんどくさくなったキリスト教徒「あーめんどくさい」
揺れ過ぎてシンドバットになった
しちめんどくさいから。
同時進行する川→長良川
千客万来→万客千倍
匈奴人「オルドスにおるどす」
呵呵大笑と笑うとと(父)
仏陀をぶった斬る
ディーテイル/ディティール
前半で感動させ涙で目をにじませることを想定して、後半は適当に作画しているアニメ
電子卓上計算機は「計算機」の部分が大事なのに電卓と略されている
追い詰められるトランプ→弾劾絶壁
ちょっとバズってる池→プチバズの池
アリペイにいえば...
ガラガラヘビで賑わってる店
イキリ寿司
コドモオオトカゲ
票取るピョートル
黙って物々交換
2寸の虫には10分の魂
教室に窓がなかったので、卒業生が集まっても同窓会が開催されない学級
どっちか分からない人。タバコは吸いますか?すいませんが吸います。
みんなやめる政党→辞任党
吸えず運河
シモニデセ/シモニデセ/シモニデス/シモニデスル/シモニデスレ/シモニデセヨ
ポジティブな朱熹「老人は年を取りにくく、勉強も大変にならない」
麓で行われる頂上決戦
死んだ草間彌生→草葉彌生
円の下の力持ち→日銀買支え
都では、また「朝敵である平氏を滅亡させよ」などという令旨がトレンドになっている。しかし、今のままでは絶対に平氏は壊滅しないし、政権交代も起きない。断言する。
延暦寺対応はじめ平氏政権の政策はどう考えても終わっているし、このまま行けば平大相国は出家するだろう。平氏は間違いなく官職を減らすだろうし、それによって白河院は勢力を盛り返すだろう。しかし、それでも平氏の実権は揺るがず、政権交代は起きない。重盛か時平か知らないが、別の平氏が顕官に就任するだけである。
なぜそう言えるのか。
圧倒的な唐土とのコネクションを持つ平氏に対し、院が勝つには、下司層からの圧倒的支持を得るしかない。ところが、その在地荘官層は、たとえ平氏に失望していたとしても、「強い動機」がなければ令旨にしたがうことなく、ただ戦に行かずに終わる。そうして戦にならなければ、結局は宋銭を多く持つ平氏が勝つ。
ここで「強い動機」というのは、延喜の治や、天暦の治のように、「この御門に(あるいはこの院に)政権を任せてみたい」という期待があることをいう。この期待が高まることなくしては、いくら平氏への失望感を煽っても勝ち目はない。
さて、武士層は今、院に政権を任せたいという強い動機を持っているだろうか。世論調査を見れば分かる通り、どう考えても令旨に同調する「強い動機」を持ってはいない。
保元の戦乱時には、源氏の戦力が平氏のそれを上回っていた。平氏の分厚い宋銭の蓄積と所領の支配を打ち崩すには、源氏がこれほどまでの武力を集めていなければならない。
しかしながら、現時点で源氏は壊滅状態であり、棟梁も不在である。これではとても、政権交代は期待できない。
武士たちは院が政権を取るとどんなに素晴らしい未来が待っているか、具体的政策を主張し、実際に領地を差配する下司たちがそれに期待する、という状況を作り出す必要がある。それをせず、「朝敵である平氏を壊滅させよ」などといくら令旨があっても政権交代は起こり得ない。
一
これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。
むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに人類を守るためのお城があって、中山さまという将軍さまが、おられたそうです。
その中山から、少しはなれた山の中に、「ごん狐」という狐がいました。ごんは、一人ぼっちのゴジラよりも大きな狐で、しだの一ぱいしげったアマゾンのような原生林の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。はたけへ入って東京ドーム十個分の芋をほりちらしたり、菜種油の貯めてあるタンクへ火をつけて村を焼き払ったり、百姓家の裏手に建っている発電用風車の羽をむしりとっていったり、いろんなことをしました。
或秋のことでした。二、三年雨がふりつづいたその間、ごんは、外へも出られなくて穴の中にしゃがんでいました。
雨があがると、ごんは、ほっとして穴からはい出ました。空はからっと晴れていて、ごんが穴から出たことを知らせる警戒警報が地の果てまできんきん、ひびいていました。
ごんは、村を流れる黄河の十倍ぐらいある川の堤まで出て来ました。あたりの、すすきの穂には、まだ雨のしずくが光っていました。川は、いつもは水が少いのですが、三年もの雨で、水が、どっとまし、辺りの村々は全て水没していました。ただのときは水につかることのない、川べりの大きな鉄塔や、世界一長い橋が、黄いろくにごった水に横だおしになって、もまれています。ごんは川下の方へと、すっかり水没した高速道路を歩いていきました。
ふと見ると、川の中にシュワルツネッガーを百倍屈強にしたような人がいて、何かやっています。ごんは、見つからないように、そうっと原生林の深いところへ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました。
「兵十だな」と、ごんは思いました。兵十はその名の通りグリーンベレーの選りすぐりの兵隊十人を瞬殺したという人類最強の男で、盛り上がった筋肉によってぼろぼろにはち切れた黒いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、総延長五十キロに及ぶ定置網をゆすぶっていました。はちまきをした顔の横っちょうに、お盆が一まい、大きな黒子みたいにへばりついていました。
しばらくすると、兵十は、定置網の一ばんうしろの、袋のようになったところを、水の中からもちあげました。その中には、車や家や橋の残骸などが、ごちゃごちゃはいっていましたが、でもところどころ、白いものがきらきら光っています。それは、鯨ぐらい太いうなぎの腹や、ジンベエザメぐらい大きなきすの腹でした。兵十は、体育館ぐらいの大きさのびくの中へ、そのうなぎやきすを、ごみと一しょにぶちこみました。そして、また、袋の口をしばって、水の中へ入れました。
兵十はそれから、びくをもって川から上りびくを山の峰においといて、何をさがしにか、川上の方へかけていきました。
兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと原生林の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、定置網のかかっているところより下手の川の中を目がけて、大谷翔平投手のような豪速球でびゅんびゅんなげこみました。どの魚も、「ドゴォォォン!」と音を立てながら、にごった水の中へもぐりこみ、大きな水柱を立てました。
一ばんしまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中につッこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュオオオオオオンと超音波のような叫び声を上げてごんの首へまきつきました。そのとたんに兵十が、向うから、
「うわア石川五右衛門とアルセーヌ・ルパンと怪盗セイント・テールを足して三で割らない大泥棒狐め」と、地球の裏側でも聞こえるような大声でどなりたてました。ごんは、びっくりしてとびあがりました。うなぎをふりすててにげようとしましたが、うなぎは、ごんの首にまきついたままごんを縊り殺さんと巨大重機のような力で締めあげてはなれません。ごんはそのまま横っとびにとび出して一しょうけんめいに、超音速旅客機コンコルド並みの速度でにげていきました。
ほら穴の近くの、ごんの挙動を監視するためのセンサーの下でふりかえって見ましたが、兵十は追っかけては来ませんでした。
ごんは、ほっとして、象ぐらいの大きさのうなぎの頭をかみくだき、なおも圧搾機のような力で締めあげてくる胴体を渾身の力でやっとはずして穴のそとの、草の葉の上にのせておきました。
二
十日ほどたって、ごんが、大日本プロレスを代表する悪役レスターである”地獄のカントリーエレベーター”弥助の家の裏を通りかかりますと、そこの、いちじくの木で懸垂をしながら、弥助が、おはぐろをつけていました。総合格闘技界の若きカリスマ、”溶接王”新兵衛の家のうらを通ると、新兵衛がダンベルを上げながら髪をセットしていました。ごんは、
「ふふん、格闘技村に何かあるんだな」と、思いました。
「何だろう、異種格闘技戦かな。異種格闘技戦なら、プレスリリースがありそうなものだ。それに第一、告知ののぼりが立つはずだが」
こんなことを考えながらやって来ますと、いつの間にか、表に手掘りで地下30キロまで掘り抜いた赤い井戸のある、兵十の家の前へ来ました。その大きな、兵十が歩くたびに立てる地響きによってこわれかけた家の中には、大勢の人があつまっていました。よそいきのコック服を着て、腰に手拭をさげたりした三ツ星シェフたちが、厨房で下ごしらえをしています。大きな鍋の中では、本日のメインディッシュである”比内地鶏胸肉の香草和え~キャビアを添えて~”がぐずぐず煮えていました。
「ああ、葬式だ」と、ごんは思いました。
「兵十の家のだれが死んだんだろう」
お午がすぎると、ごんは、村の墓地へ行って、坐像としては日本一の高さの大仏さんのかげにかくれていました。いいお天気で、遠く向うには、ごんから人類を守るためのお城の大砲が光っています。墓地には、ラフレシアより大きなひがん花が、赤い布のようにさきつづいていました。と、延暦寺、東大寺、金剛峯寺、増上寺、永平寺など日本中の名だたる寺から一斉に、ゴーン、ゴーン、と、鐘が鳴って来ました。葬式の出る合図です。
やがて、世界各国から集った黒い喪服を着た葬列のものたち七十万人がやって来るのがちらちら見えはじめました。話声も近くなりました。葬列は墓地へはいって来ました。人々が通ったあとには、ひがん花が、跡形もないほど木っ端微塵にふみおられていました。
ごんはのびあがって見ました。兵十が、白いかみしもをつけて、3m程の位牌をささげています。いつもは、赤い閻魔大王みたいな元気のいい顔が、きょうは何だかしおれていました。
「ははん、死んだのは兵十のおっ母だ」
ごんはそう思いながら、頭をひっこめました。
その晩、ごんは、穴の中で考えました。
「レスリング女子世界チャンピオンだった兵十のおっ母は、床についていて、巨大うなぎが食べたいと言ったにちがいない。それで兵十が定置網をもち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母に世界三大珍味を始め、ありとあらゆる有名店の美味しいものは食べさせても、巨大うなぎだけは食べさせることができなかった。そのままおっ母は、死んじゃったにちがいない。ああ、巨大うなぎが食べたい、ゴテゴテに脂が乗って胃もたれがする巨大うなぎが食べたいとおもいながら、死んだんだろう。ちょッ、あんないたずらをしなけりゃよかった。」
三
兵十は今まで、おっ母と二人きりで、ストイックなくらしをしていたもので、おっ母が死んでしまっては、もう一人ぼっちでした。
「おれと同じ一人ぼっちの兵十か」
ごんは道場のそばをはなれて、向うへいきかけますと、どこかで、いわしを売る声がします。
ごんは、その、いせいのいい声のする方へ走っていきました。と、弥助のおかみさんが、裏戸口から、
「いわしを五千匹おくれ。」と言いました。いわしの仲買人は、いわしをつんだトラック三百台を、道ばたにおいて、ぴかぴか光るいわしを満載にした発泡スチロール容器を三百人がかりで、弥助の家の中へもってはいりました。ごんはそのすきまに、車列の中から、五、六台のトラックをつかみ出して、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の屋敷の裏口から、屋敷の中へトラックを投げこんで、穴へ向ってかけもどりました。途中の坂の上でふりかえって見ますと、兵十がまだ、落ちたら骨まで砕け散る井戸のところで小指一本で懸垂をしているのが小さく見えました。
ごんは、うなぎのつぐないに、まず一つ、いいことをしたと思いました。
つぎの日には、ごんは栗がなった木々を山ごと削りとって、それをかかえて、兵十の家へいきました。裏口からのぞいて見ますと、兵十は、鶏のささみ肉十キロの午飯をたべかけて、茶椀をもったまま、ぼんやりと考えこんでいました。へんなことには兵十の頬ぺたに、かすり傷がついています。ボクシング世界ヘビー級王者と戦った時も傷一つつかなかった兵十の顔にです。どうしたんだろうと、ごんが思っていますと、兵十がひとりごとをいいました。
「一たいだれが、いわしのトラックなんかをおれの家へほうりこんでいったんだろう。おかげでおれは、盗人と思われて、いわし仲買人のやつに、ひどい目にあわされかけた。まさかトラック三百台が一斉に突っ込んでくるとはな。受け止めるのはなかなか骨だったぞ」と、ぶつぶつ言っています。
ごんは、これはしまったと思いました。かわいそうに兵十は、いわし仲買人にトラック三百台で突っ込まれて、あんな傷までつけられたのか。
ごんはこうおもいながら、そっと兵十の三十年連続総合格闘技世界王者防衛を記念して建てられた東洋一の大きさを持つ道場の方へまわってその入口に、山をおいてかえりました。
つぎの日も、そのつぎの日もごんは、山を丸ごと削り取っては、兵十の家へもって来てやりました。そのつぎの日には、栗の山ばかりでなく、まつたけの生えた松の山も二、三個もっていきました。
四
月のいい晩でした。ごんは、ぶらぶらあそびに出かけました。中山さまのお城の下を間断なく降り注ぐ砲弾を手で払いのけながら通ってすこしいくと、非常時には戦闘機が離着陸するために滑走路並みに広くなっている道の向うから、だれか来るようです。話声が聞えます。チンチロリン、チンチロリンと緊急警報が鳴っています。
ごんは、道の片がわにかくれて、じっとしていました。話声はだんだん近くなりました。それは、兵十と加助というムエタイ世界王者でした。
「そうそう、なあ加助」と、兵十がいいました。
「ああん?」
「おれあ、このごろ、とてもふしぎなことがあるんだ」
「何が?」
「おっ母が死んでからは、だれだか知らんが、おれに大量の土砂を、まいにちまいにちくれるんだよ」
「ふうん、だれが?」
「それがはっきりとはわからんのだよ。おれの知らんうちに、おいていくんだ」
ごんは、ふたりのあとをつけていきました。
「ほんとかい?」
「ほんとだとも。うそと思うなら、あした見に来いよ。俺の屋敷を埋め尽くす土砂の山を見せてやるよ」
「へえ、へんなこともあるもんだなア」
それなり、二人はだまって歩いていきました。
加助がひょいと、後を見ました。ごんはびくっとして、小さくなってたちどまりました。加助は、ごんには気づいていましたが、そのままさっさとあるきました。吉兵衛という館長の家まで来ると、二人はそこへはいっていきました。ポンポンポンポンとサンドバッグを叩く音がしています。窓の障子にあかりがさしていて、兵十よりさらに大きな坊主頭がうつって動いていました。ごんは、
「連合稽古があるんだな」と思いながら井戸のそばにしゃがんでいました。しばらくすると、また三万人ほど、人がつれだって吉兵衛の家へはいっていきました。千人組手の声がきこえて来ました。
五
ごんは、吉兵衛館長主催の一週間で参加者の九割が病院送りになるという連合稽古がすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。兵十と加助は、また一しょにかえっていきます。ごんは、二人の話をきこうと思って、ついていきました。中山将軍が最終防衛ライン死守のために投入した戦車部隊をふみふみいきました。
お城の前まで来たとき、振りかかる火の粉を払いながら加助が言い出しました。
「まあそうだろうな」と、兵十は飛んできた流れ弾をかわしながら、うんざりした顔で、加助の顔を見ました。
「おれは、あれからずっと考えていたが、どうも、そりゃ、人間じゃない、怪獣だ、怪獣が、お前がたった一人になったのをあわれに思わっしゃって、いろんなものをめぐんで下さるんだよ」
「そうかなあ」
「そうだとも。だから、まいにち怪獣にお礼参りをするがいいよ」
「無茶を言うな」
ごんは、へえ、こいつはつまらないなと思いました。おれが、栗や松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼をいわないで、怪獣にお礼をいうんじゃア、おれは、引き合わないなあ。
六
そのあくる日もごんは、栗山をもって、兵十の家へ出かけました。兵十は道場で縄登りのトレーニングを行っていました。それでごんは屋敷の裏口から、こっそり中へはいりました。
そのとき兵十は、ふと顔をあげました。と狐が屋敷の中へはいったではありませんか。こないだうなぎをぬすみやがったあのごん狐めが、またいたずらをしに来たな。
「ようし。」
兵十は立ちあがって、中山の城に設置してある、対ごん戦に特化して開発された砲身長30mの520mm榴弾砲をとってきて、火薬をつめました。
そして足音をしのばせてちかよって、今門を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、びくともしませんでした。兵十は五百発ほど打ち込みました。ごんはかすり傷一つ負っていません。兵十は榴弾砲を剣のように構えると、ごんの足に五千連撃を叩き込みました。ようやくごんは足をくじいてばたりとたおれました。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、家の大部分が栗山で押しつぶされているのが目につきました。
「おやおや」と兵十は、うんざりした顔でごんに目を落しました。
「ごん、やはりお前だったのか。いつも栗山をくれたのは」
ごんは、お礼を言われることを期待したきらきらした目で、うなずきました。
「国家は暴力装置である」と喝破して批判された政治家が昔いたけど、「なぜ人を殺してはいけないのか」を突き詰めて考えてみると、そのことにたどりつく。
今現在の近代国家においては、一般市民は武装することを許されていない(日本と欧州諸国の話。アメリカについては例外中の例外)。
暴力=武装を独占していいのは国家だけであり、具体的には軍隊と警察組織の2者が暴力を独占する。
国家が暴力を独占することによって、国家内における治安を維持することが出来るようになる。
よって、一般市民は暴力を行使してはいけない。つまり、人を殺してはいけないし、人を傷つけてはいけないし、他人の物を盗んではいけない。
暴力を行使していいのは、交戦権を持っている軍隊と、刑事訴訟法に基づいて執行する警察組織だけ。
中世の日本は統一政府が無かったので、各貴族や豪族、宗教寺院は自分で武士を雇って武装して、自分の身を自分で守っていた。
昔の東大寺や比叡山延暦寺は自前で僧兵を雇って武装していたらしいことが歴史書に書かれている。
暴力を行使してはいけない、という考え方は明治維新後の近代国家の価値観なので、まだ150年ほどしか経過していない。
もし増田が人を殺したいと思ったら、公務員試験を受けて自衛官や警察官、防衛出動や海上警備行動を発令できる権限のある防衛大臣、刑務所の刑務官、死刑判決を下せる裁判官を目指せばいいのではないか。
秋篠寺 あきしのでら
芦峅寺 あしくらじ
飛鳥寺 あすかでら
安寺 あてら
阿寺 あてら
天寺 あまでら
尼寺 あまでら
阿見寺 あみでら
荒寺 あれでら
安岡寺 あんこうじ
安全寺 あんぜんじ
安用寺 あんようじ
安養寺 あんようじ
安楽寺 あんらくじ
石寺 いしてら
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一乗寺 いちじょうじ
一条寺 いちじょうじ
一寺 いちでら
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井寺 いてら
威徳寺 いとくじ
伊堂寺 いどうじ
稲寺 いなでら
今寺 いまでら
岩峅寺 いわくらじ
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上寺 うえでら
氏寺 うじでら
永源寺 えいげんじ
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永満寺 えいまんじ
永養寺 えいようじ
江寺 えてら
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家原寺 えばらじ
円覚寺 えんがくじ
円行寺 えんぎょうじ
円光寺 えんこうじ
圓光寺 えんこうじ
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延壽寺 えんじゅじ
延寿寺 えんじゅじ
円城寺 えんじょうじ
円成寺 えんじょうじ
圓城寺 えんじょうじ
圓成寺 えんじょうじ
延対寺 えんたいじ
円通寺 えんつうじ
円道寺 えんどうじ
圓道寺 えんどうじ
円頓寺 えんどんじ
円応寺 えんのうじ
円能寺 えんのうじ
円福寺 えんふくじ
圓福寺 えんふくじ
円満寺 えんまんじ
円明寺 えんみょうじ
延命寺 えんめいじ
延暦寺 えんりゃくじ
王寺 おうじ
王禅寺 おうぜんじ
押領寺 おうりょうじ
大谷寺 おおたにじ
大寺 おおでら
大野寺 おおのじ
大庭寺 おおばでら
岡寺 おかでら
奥海印寺 おくかいいんじ
奥寺 おくてら
奧寺 おくてら
小倉寺 おぐらじ
長寺 おさでら
尾寺 おてら
御寺 おてら
小埜寺 おのでら
小見寺 おみでら
表慈恩寺 おもてじおんじ
音光寺 おんこうじ
園城寺 おんじょうじ
遠城寺 おんじょうじ
温泉寺 おんせんじ
隠明寺 おんみょうじ
園林寺 おんりんじ
海印寺 かいいんじ
海応寺 かいおうじ
海音寺 かいおんじ
皆尺寺 かいしゃくじ
海蔵寺 かいぞうじ
海藏寺 かいぞうじ
覚王寺 かくおうじ
覚寺 かくじ
覚満寺 かくまんじ
駆け込み寺 かけこみでら
駆込み寺 かけこみでら
笠寺 かさでら
嘉祥寺 かしょうじ
勧修寺 かじゅうじ
門寺 かどでら
金森寺 かなもり
上古寺 かみふるてら
川寺 かわでら
寛永寺 かんえいじ
観音寺 かんおんじ
観海寺 かんかいじ
観喜寺 かんきじ
舘山寺 かんざんじ
観修寺 かんしゅうじ
官寺 かんじ
観世音寺 かんぜおんじ
神大寺 かんだいじ
神道寺 かんどうじ
感応寺 かんのうじ
感應寺 かんのうじ
観音正寺 かんのんしょうじ
甘露寺 かんろじ
願海寺 がんかいじ
元興寺 がんごうじ
願興寺 がんごうじ
願成寺 がんじょうじ
北久宝寺 きたきゅうほうじ
北寺 きたでら
城田寺 きだいじ
吉城寺 きちじょうじ
吉祥寺 きちじょうじ
木寺 きでら
紀寺 きでら
木佛寺 きぶでら
紀三井寺 きみいでら
久宝寺 きゅうほうじ
久本寺 きゅうほんじ
金閣寺 きんかくじ
金勝寺 きんしょうじ
金仙寺 きんせんじ
金泉寺 きんせんじ
金熊寺 きんゆうじ
金楽寺 きんらくじ
祇園寺 ぎおんじ
行願寺 ぎょうがんじ
玉泉寺 ぎょくせんじ
銀閣寺 ぎんかくじ
久遠寺 くおんじ
久能寺 くのうじ
九品寺 くほんじ
久保寺 くぼじ、くぼでら、くぼてら
窪寺 くぼでら
弘法寺 ぐほうじ
弘明寺 ぐみょうじ
恵林寺 けいりんじ
敬礼寺 けいれいじ
華蔵寺 けぞうじ
顕聖寺 けんしょうじ
建長寺 けんちょうじ
建仁寺 けんにんじ
源法寺 げんぼうじ
高安寺 こうあんじ
光悦寺 こうえつじ
高円寺 こうえんじ
光音寺 こうおんじ
光源寺 こうげんじ
高源寺 こうげんじ
興国寺 こうこくじ
広済寺 こうさいじ
耕三寺 こうさんじ
高山寺 こうさんじ
興聖寺 こうしょうじ
光寺 こうじ
国府寺 こうじ
國府寺 こうじ
高水寺 こうすいじ
高専寺 こうせんじ
高專寺 こうせんじ
光善寺 こうぜんじ
高蔵寺 こうぞうじ
高台寺 こうたいじ
香寺 こうでら
皇徳寺 こうとくじ
高徳寺 こうとくじ
光同寺 こうどうじ
興福寺 こうふくじ
光明寺 こうみょうじ
広隆寺 こうりゅうじ
粉河寺 こかわでら
国済寺 こくさいじ
国泰寺 こくたいじ
國分寺 こくぶじ
国分寺 こくぶんじ
国分尼寺 こくぶんにじ
苔寺 こけでら
古正寺 こしょうじ
小寺 こでら、こてら
駒寺野 こまでらの
金戒光明寺 こんかいこうみょうじ
金剛峰寺 こんごうぶじ
権寺 こんじ
金蔵寺 こんぞうじ
金胎寺 こんたいじ
豪炎寺 ごうえんじ
豪徳寺 ごうとくじ
五雲寺 ごうんじ
獄寺 ごくでら
極楽寺 ごくらくじ
極樂寺 ごくらくじ
護国寺 ごこくじ
後藤寺 ごとうじ
権正寺 ごんしょうじ
権常寺 ごんじょうじ
西安寺 さいあんじ
西円寺 さいえんじ
西園寺 さいおんじ
西園寺公望 さいおんじきんもち
西教寺 さいきょうじ
西元寺 さいげんじ
西光寺 さいこうじ
最勝寺 さいしょうじ
西照寺 さいしょうじ
西寺 さいじ
最乗寺 さいじょうじ
西大寺 さいだいじ
西大寺上 さいだいじかみ
西大寺中 さいだいじなか
佐井寺 さいでら
才寺 さいでら
西徳寺 さいとくじ
西方寺 さいほうじ
西法寺 さいほうじ
西芳寺 さいほうじ
斉明寺 さいみょうじ
斎明寺 さいみょうじ
最明寺 さいみょうじ
齋明寺 さいみょうじ
西明寺 さいみょうじ、さいめいじ
西來寺 さいらいじ
西蓮寺 さいれんじ
西連寺 さいれんじ
境寺 さかいでら
讃州寺 さんしゅうじ
三世寺 さんぜじ
三代寺 さんだいじ
三大寺 さんだいじ
三福寺 さんふくじ
三宝寺 さんぼうじ
財光寺 ざいこうじ
在国寺 ざいこくじ
在國寺 ざいこくじ
坐光寺 ざこうじ
座光寺 ざこうじ
紫雲寺 しうんじ
四王寺 しおうじ
塩寺 しおでら
志観寺 しかんじ
下寺 したでら、しもでら
四天王寺 してんのうじ
志堂寺 しどうじ
嶋寺 しまでら
下海印寺 しもかいいんじ
下法軍寺 しもほうぐんじ
社寺 しゃじ
舎利寺 しゃりじ
修善寺 しゅぜんじ
修禅寺 しゅぜんじ
朱膳寺 しゅぜんじ
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承元寺 しょうげんじ
正源寺 しょうげんじ
生源寺 しょうげんじ
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相国寺 しょうこくじ
正権寺 しょうごんじ
荘厳寺 しょうごんじ
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正道寺 しょうどうじ
正福寺 しょうふくじ
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淨法寺 しょうほうじ
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正明寺 しょうみょうじ
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正楽寺 しょうらくじ
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真福寺 しんふくじ
新福寺 しんぷくじ
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慈光寺 じこうじ
持光寺 じこうじ
慈照寺 じしょうじ
地蔵寺 じぞうじ
実相寺 じっしょうじ
實相寺 じっしょうじ
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神明寺 じみょうじ
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十楽寺 じゅうがくじ
十樂寺 じゅうがくじ
十禅寺 じゅうぜんじ
十蔵寺 じゅうぞうじ
十藏寺 じゅうぞうじ
鷲林寺 じゅうりんじ
十貫寺 じゅっかんじ
寿福寺 じゅふくじ
順教寺 じゅんきようじ
浄圓寺 じょうえんじ
淨円寺 じょうえんじ
常願寺 じょうがんじ
成願寺 じょうがんじ
城光寺 じょうこうじ
定光寺 じょうこうじ
常光寺 じょうこうじ
常称寺 じょうしょうじ
定禅寺 じょうぜんじ
浄智寺 じょうちじ
浄土寺 じょうどじ
城南寺 じょうなんてら
浄法寺 じょうほうじ
上坊寺 じょうぼうじ
浄明寺 じょうみょうじ
常楽寺 じょうらくじ
常樂寺 じょうらくじ
定林寺 じょうりんじ
神宮寺 じんぐうじ
神向寺 じんこうじ
秦泉寺 じんせんじ
深大寺 じんだいじ
神武寺 じんむじ
水前寺 すいぜんじ
周船寺 すせんじ
須磨寺 すまでら
随応寺 ずいおうじ
瑞巌寺 ずいがんじ
瑞泉寺 ずいせんじ
頭陀寺 ずだじ
清閑寺 せいかんじ
清岸寺 せいがんじ
清河寺 せいがんじ
誓願寺 せいがんじ
青岸渡寺 せいがんとじ
清玄寺 せいげんじ
成勝寺 せいしょうじ
西伝寺 せいでんじ
青明寺 せいみょうじ
清涼寺 せいりょうじ
関寺 せきでら
泉正寺 せんしょうじ
浅草寺 せんそうじ
千提寺 せんだいじ
泉涌寺 せんにゅうじ
泉湧寺 せんにゅうじ
千音寺 せんのんじ
善応寺 ぜんおうじ
善久寺 ぜんきゅうじ
善慶寺 ぜんけいじ
善源寺 ぜんげんじ
善光寺 ぜんこうじ
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禅寺 ぜんでら
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善立寺 ぜんりゅうじ
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造寺 ぞうじ
増上寺 ぞうじょうじ
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大山寺 たいさんじ
大石寺 たいせきじ
泰泉寺 たいせんじ
太寺 たいでら
大寧寺 たいねいじ
太平寺 たいへいじ
当麻寺 たいまでら
太融寺 たいゆうじ
太陽寺 たいようじ
高田寺 たかだじ
高寺 たかでら
髙寺 たかでら
宝寺 たからでら
滝寺 たきでら
瀧寺 たきでら
橘寺 たちばなでら
舘寺 たてでら
館寺 たてでら
田寺 たでら
多門寺 たもんじ
誕生寺 たんじょうじ
大雲寺 だいうんじ
大雄寺 だいおうじ
大巌寺 だいがんじ
大願寺 だいがんじ
大京寺 だいきょうじ
題経寺 だいきょうじ
大宮寺 だいぐうじ
大源寺 だいげんじ
大光寺 だいこうじ
醍醐寺 だいごじ
大師寺 だいしじ
大正寺 だいしょうじ
大聖寺 だいしょうじ
大慈寺 だいじじ
大樹寺 だいじゅうじ
大乗寺 だいじょうじ
大泉寺 だいせんじ
大善寺 だいぜんじ
大通寺 だいつうじ
大徳寺 だいとくじ
大導寺 だいどうじ
大道寺 だいどうじ
大日寺 だいにちじ
大宝寺 だいほうじ
大楽寺 だいらくじ
大琳寺 だいりんじ
達磨寺 だるまじ
檀那寺 だんなでら
旦那寺 だんなでら、だんなじ
智恩寺 ちおんじ
知恩寺 ちおんじ
竹林寺 ちくりんじ
千見寺 ちけんじ
知見寺 ちけんじ
千葉寺 ちばでら
中元寺 ちゅうがんじ
中願寺 ちゅうがんじ
中宮寺 ちゅうぐうじ
仲元寺 ちゅうげんじ
中権寺 ちゅうごんじ
中在寺 ちゅうざいじ
中善寺 ちゅうぜんじ
中禅寺 ちゅうぜんじ
中尊寺 ちゅうそんじ
中堂寺 ちゅうどうじ
長安寺 ちょうあんじ
長栄寺 ちょうえいじ
潮音寺 ちょうおんじ
長久寺 ちょうきゅうじ
長慶寺 ちょうけいじ
長源寺 ちょうげんじ
長興寺 ちょうこうじ
長勝寺 ちょうしょうじ
長松寺 ちょうしょうじ
長泉寺 ちょうせんじ
重染寺 ちょうぜんじ
長徳寺 ちょうとくじ
長坂寺 ちょうはんじ
長峰寺 ちょうほうじ
長命寺 ちょうめいじ
長楽寺 ちょうらくじ
通元寺 つうげんじ
通法寺 つうほうじ
津寺 つでら
貞永寺 ていえいじ
天花寺 てんげえじ、てんかじ
天現寺 てんげんじ
天性寺 てんしょうじ
天正寺 てんしょうじ
天寧寺 てんねいじ
天王寺 てんのうじ
天籟寺 てんらいじ
天竜寺 てんりゅうじ
天龍寺 てんりゅうじ
伝法寺 でんぼうじ
傳法寺 でんぼうじ
東慶寺 とうけいじ
東光寺 とうこうじ
唐招提寺 とうしょうだいじ
当寺 とうじ
東寺 とうじ
東泉寺 とうせんじ
東禅寺 とうぜんじ
東大寺 とうだいじ
東長寺 とうちょうじ
塔寺 とうでら
東福寺 とうふくじ
灯明寺 とうみょうじ
徳大寺 とくだいじ
道光寺 どうこうじ
道寺 どうじ
道場寺 どうじょうじ
道成寺 どうじょうじ
導寺 どうでら
道明寺 どうみょうじ
道明寺粉 どうみょうじこ
中秦泉寺 なかじんぜんじ
中寺 なかでら
中山寺 なかやまでら
若王寺 なこうじ
那谷寺 なたでら
成相寺 なりあいじ
南禅寺 なんぜんじ
南林寺 なんりんじ
飯寺 にいでら
西秦泉寺 にしじんぜんじ
西寺尾 にしてらお
西寺方 にしてらかた
西本願寺 にしほんがんじ
西本成寺 にしほんじょうじ
仁頂寺 にじょうじ
日東寺 にっとうじ
如法寺 にょほうじ
忍頂寺 にんじょうじ
仁和寺 にんなじ
念仏寺 ねんぶつじ
能仁寺 のうにんじ
野寺 のでら
廃寺 はいじ
長谷寺 はせでら
畑寺 はたでら
鉢ヶ峯寺 はちがみねじ
八九寺 はちくじ
幅寺 はばでら
浜寺 はまでら
林寺 はやしじ
原寺 はらでら
梅津寺 ばいしんじ
梅林寺 ばいりんじ
番生寺 ばんしょうじ
日向寺 ひうがじ
東本願寺 ひがしほんがんじ
東山寺 ひがしやまてら
引寺 ひきじ
百済寺 ひゃくさいじ
白毫寺 びゃくごうじ
平等寺 びょうどうじ
富貴寺 ふきでら
福王寺 ふくおうじ
福音寺 ふくおんじ
福成寺 ふくじょうじ
福禅寺 ふくぜんじ
福寺 ふくでら
福田寺 ふくでんじ
普賢寺 ふげんじ
普済寺 ふさいじ
普正寺 ふしょうじ
藤井寺 ふじいでら
二ツ寺 ふたつてら
不動寺 ふどうじ
舩寺 ふなでら
船寺 ふなでら
古寺 ふるでら、こでら
峰定寺 ぶじょうじ
仏光寺 ぶっこうじ
仏国寺 ぶっこくじ
仏生寺 ぶっしょうじ
仏寺 ぶつじ
平安寺 へいあんじ
平泉寺 へいせんじ
平林寺 へいりんじ
報恩寺 ほうおんじ
方広寺 ほうこうじ
宝厳寺 ほうごんじ
宝山寺 ほうざんじ
宝積寺 ほうしゃくじ
寳積寺 ほうしゃくじ
法勝寺 ほうしょうじ
放寺 ほうじ
法寺岡 ほうじおか
芳寺戸 ほうじど
宝仙寺 ほうせんじ
宝泉寺 ほうせんじ
法泉寺 ほうせんじ
法善寺 ほうぜんじ
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寳蔵寺 ほうぞうじ
寳藏寺 ほうぞうじ
寶蔵寺 ほうぞうじ
寶藏寺 ほうぞうじ
法蔵寺 ほうぞうじ
法伝寺 ほうでんじ
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宝塔寺 ほうとうじ
法道寺 ほうどうじ
鳳来寺 ほうらいじ
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法興寺 ほつこうじ
法性寺 ほつしょうじ
本願寺 ほんがんじ
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本寺 ほんじ、ほんでら
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本能寺 ほんのうじ
本遠寺 ほんのんじ
本法寺 ほんぽうじ
本妙寺 ほんみょうじ
本門寺 ほんもんじ
坊寺 ぼうじ
鳳凰寺 ぼうじ
菩提寺 ぼだいじ
前寺 まえでら
牧寺 まきでら
松尾寺 まつおじ
末寺 まつじ
松寺 まつでら
眞寺 までら
真寺 までら
万願寺 まんがんじ
満願寺 まんがんじ
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万造寺 まんぞうじ
萬造寺 まんぞうじ
万代寺 まんたいじ
万納寺 まんのうじ
萬納寺 まんのうじ
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右寺 みぎてら
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御田寺 みだてら
三ツ寺 みつでら
三寺 みつでら
味寺 みでら
見寺 みでら
南寺 みなみてら
峰寺 みねでら
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妙寺 みょうじ
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明善寺 みょうぜんじ
明大寺 みょうだいじ
明徳寺 みょうとくじ
妙法寺 みょうほうじ
明法寺 みょうほうじ
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弥勒寺 みろくじ
彌勒寺 みろくじ
向寺 むかいでら
室生寺 むろうじ
室寺 むろじ
毛越寺 もうつじ
元寺 もとてら
森寺 もりでら
茂林寺 もりんじ
文珠寺 もんじゅじ
薬王寺 やくおうじ
薬師寺 やくしじ
藥師寺 やくしじ
薬勝寺 やくしょうじ
薬眞寺 やくしんじ
薬真寺 やくしんじ
藥眞寺 やくしんじ
矢寺 やてら
柳寺 やなぎでら
山寺 やまでら
祐天寺 ゆうてんじ
幸寺 ゆきてら、こうでら
楊谷寺 ようこくじ
養福寺 ようふくじ
要法寺 ようほうじ
横寺 よこてら
善峰寺 よしみねでら
雷音寺 らいおんじ
来迎寺 らいこうじ
楽巌寺 らくがんじ
理寛寺 りかんじ
立石寺 りっしゃくじ
竜角寺台 りゅうかくじだい
竜宮寺 りゅうぐうじ
龍宮寺 りゅうぐうじ
立花寺 りゅうげじ
龍源寺 りゅうげんじ
竜光寺 りゅうこうじ
龍光寺 りゅうこうじ
龍寺 りゅうじ
竜泉寺 りゅうせんじ
竜禅寺 りゅうぜんじ
竜造寺 りゅうぞうじ
龍造寺 りゅうぞうじ
龍胆寺 りゅうどうじ
了仙寺 りょうせんじ
了徳寺 りょうとくじ
良福寺 りょうふくじ
臨済寺 りんざいじ
輪王寺 りんのうじ
瑠璃光寺 るりこうじ
蓮覚寺 れんがくじ
蓮花寺 れんげじ
蓮光寺 れんこうじ
連光寺 れんこうじ
蓮正寺 れんしょうじ
蓮台寺 れんだいじ
楞巌寺 ろうごんじ
鹿園寺 ろくおんじ
鹿苑寺 ろくおんじ
六泉寺 ろくせんじ
六湛寺 ろくたんじ
六波羅蜜寺 ろくはらみつじ
和寺 わでら
三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄(767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。
目次 [非表示]
1 概要
2 平安初期の仏教界
2.1 法相宗と徳一
3 論争の経緯
3.1 論争の発端について
4.2 南都教団への対抗
4.3 中傷者徳一に対する怒り
4.4 蝦夷征討との関係
5 その後
6 注・出典
7 関連項目
8 参考文献
「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗と一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便。真実を理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗・三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗(声聞乗・縁覚乗)・大乗(菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張した。このように三乗・一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。
ただし、徳一と最澄の論争は三乗と一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経の正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作を執筆しており、これは徳一からの批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗の空海(774年 - 835年)への論難である『真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である。
いずれにしろ論争は著作の応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。
奈良時代に興隆したのは、法相宗や華厳宗・律宗などの南都六宗である。本来、南都六宗は教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである。
この時代の日本における仏教は中国と同様、鎮護国家の思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度が施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇(737年 - 806年)が平城京から長岡京・平安京に遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設を意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家の宗教として最澄の天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教を牽制する意図もあった。
日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。
徳一は一説には藤原仲麻呂(恵美押勝とも。706年 - 764年)の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国で布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。
前述のごとく、徳一の著作はほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。
天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教の理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。
最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇に天台宗の学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇は最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年(805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年)帰国した。
帰国後、最澄は桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗は正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである。最澄はさらに同じく入唐した空海に師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇の設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗の菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗の鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教の既得権益との対立を深めていた。
論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判・法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。
ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国で活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身は鑑真の弟子で、律宗の僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄が東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁(794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要な役割を果たしていた存在であった[6]。
筑波山を開山し、会津を拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的に東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在を最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。
三一権実諍論に関する著作としては、
≪徳一側著作≫
『法華肝心』2巻
『法華権文』1巻
『中辺義鏡』20巻
『慧日羽足』3巻
『遮異見章』3巻
『義鏡要略』7巻?
『法相了義灯』11巻
『通破四教章』1巻
『照権実鏡』1巻
『依憑天台集』1巻
『守護国界章』9巻
『決権実論』1巻
『通六九証破比量文』1巻
『法華秀句』5巻
などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、
徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論。
徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論。
最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。
となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄の反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論、結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。
一連の論争の内容は難解で、一乗・三乗の権実のみならず、教判論における法華経や天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解の先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論そのものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。
天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗の空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。
下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。
最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海に師事することになる。
最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年)から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年(806年)に帰国していた。最澄は空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海の高雄山寺において灌頂を受け、正式に空海の弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。
しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さらに最愛の弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり、密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。
天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的な姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗は最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。
最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国に拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗を代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇の設立など、天台宗を確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗の理論家である徳一を説き伏せることは、天台宗の南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。
徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義そのものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。
宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。
最澄が東国に下った際に活動の拠点としていたのは亡き道忠が活動の拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野・上野両国から陸奥・出羽両国に対しては国司からの課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗や東国の鹿島神宮・香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院や神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗の公認を得たばかりの最澄も東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄の東国行きに随行した弟子の円仁(下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野・上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。
これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原は最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<
天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。
目次 [非表示]
1.2 四宗兼学
1.3 止観行
1.4 所依
1.5.1.1 総本山
1.5.1.2 門跡寺院
1.5.1.3 大本山
1.5.1.4 別格本山
1.5.1.5 その他の寺院
1.5.2 天台寺門宗
1.5.3 天台真盛宗
1.6 その他天台系宗派
1.7 教育機関
1.7.1 大学
1.7.3 養成機関
4 社会運動
5 脚注・出典
6 関連項目
7 外部リンク
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。
四宗兼学[編集]
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
止観行[編集]
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。
所依[編集]
福王寺(熊本県山都町、宮司兼豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である)
その他天台系宗派[編集]
孝道教団
叡山学院
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。
開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。
なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。
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1 歴史
2 伽藍
3 黄不動
4 文化財
4.2 国宝
4.3 重要文化財
4.4 その他
5 御詠歌
7 交通
8 周辺
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
三井寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。
三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏に就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡(香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認の正規の僧となり、円珍と改名した。その後、比叡山の規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山や熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺は修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行。青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行の道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍に伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教、密教に加えて修験道を兼学する円珍の伝法は、これによって政府の公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。
円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀あまりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると再興され、続く南北朝の内乱でも北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するために園城寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。
文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。