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2024-11-06

ポップンミュージック史上もっと重要な曲10

https://anond.hatelabo.jp/20241106140729

音楽ゲームの波に乗って、ポップン版も独断偏見で書いてみた。一応曲の良さだけでなく、ポップン史的に重要な曲って軸で選んだ。

現在収録曲数は1000曲超え、現在26周年のKONAMIアーケード音楽ゲームポップンミュージック

ちなみに今は28作目のJamFizzが絶賛稼働中

ソフトロック/HomesickPt.2 & 3(ORANGENOISE SHORTCUT,ポップン5)

初期ポップン代表する人気曲。ポップン6の人気投票では4位を獲得した。その際1〜3位ももちろんいい曲ではあるが、とかくキャラ人気が高い曲だったのもあって、実際曲だけでいうならこの曲が1番人気だったのでは…という意見も見たことがある。(諸説)

7ではLONG版がプレイできるようになった。ピチカートファイブを想起させる渋谷系楽曲で、明るい曲調と言葉遊びのような歌詞、そしてボーカル杉本清隆のハニーボイスが魅力的な曲だ。

杉本清隆は初代からボーカル歌唱という形で参加しており、6ではサウンドディレクターも務めていた初期ポップンを支えていたコンポーザーの1人である

初代の参加曲「ポップス/I REALLY WANT TO HURT YOU」もまたポップン代表曲として、今でもKAC(公式大会)の表彰などで流れている。

6を最後に退社、個人音楽活動に集中する形になったものの、その後もたまに曲を提供してくれる

近年だと公式大会で決勝初出・かつパーカッシヴシリーズの続編曲ということで速度変化が大変なことになっている「西馬込交通曲」、ソフトロックの続編曲として発表された「le mal du pays, numéro 1」が収録されている(ポップン25 peace)

ヒップロック/大見解Des-Row,ポップン6)

ポップン6は様々な要素が従来から変化したシリーズであるサウンドディレクターの変更(5で務めていた杉本清隆が抜け、同職だったwacが1人で担う形に)、メインデザイナーの変更(犬千代、P-CATがチームから抜け、shio中心の体制に)、版権曲の収録、キャラアニメドットから現在のようなアニメーションになったなど……。

そんな折、突如現れたのがこの曲である

それまでのポップンではあまりなかった力強い日本語ラップ曲。そして途中で高速になる独特の譜面

この曲の公式コメントで「この曲に美味しいところを持ってかれちまうであろうことも。…大体当たったよね?」とあったこから当時の人気が窺える。

キャラクターのサムライ男性キャラの六も高い人気を誇っている。ちなみに現在公式大会11連覇している選手もこのキャラを愛用している。

作曲者Des-Row自体は5から提供していたが、この曲で一気に人気に火がつき、さまざまな名義でpeaceの頃まで楽曲提供をし続けていた。

ヒップロックシリーズはその後もコンスタントに(3の倍数がつくナンバリング)続編曲が作られた。

パワーフォーク2/君を壊したい(新堂敦士,ポップン4)

ポップン3より曲を提供した新藤敦士

当時のポップンに少なかった力強い男性ボーカル・少し大人びた歌詞に当時女性を中心に凄まじい人気があったらしい。

また、キャラクターの狼男アッシュも人気が高かった。ドラムの彼とベーススマイルボーカルユーリというキャラ、彼らの組んでいる「Deuil」というバンドは当時の女子ポッパーの心を大いに掴んだ。その人気からか、25 peaceでは、「Deuil」として数少ない書き下ろしキャラアニメ枠として新曲を引っ提げた。

新堂曲に関してはどれをピックアップするか悩んだが、多分氏の曲の中でも人気が高い、8でライブバージョンも収録されたということも加味してこの曲を選出。

その後もポップン11に至るまで曲提供をし続けていたが、諸般の事情(詳しくは検索)でポップン12では彼の曲は全削除、ポップンから姿を消すことになった。

その後、ポップン17ポップン24では氏の曲をオマージュした楽曲が作られた。(24に関しては担当キャラアッシュ)

ミスティ/platonic love (N.A.R.D.,ポップン7)

beatmaniaの生みの親にしてポップンミュージックの名付け親南雲玲生作曲。ちなみに前述のポップス

/I REALLY WANT TO HURT YOU作曲者でもある。

透明感のある女性ボーカルと、アンニュイな曲調は人気が高く、ポップン9ではロング譜面が作られた。

この曲はキャラクターも特徴的であるポップン7では、キャラクター数名の名前公募で決めるという試み「PaPa*MaMa 7」を行なっていた。

この曲の担当キャラは「かごめ」という名前に決定し、影のある少女という属性も相まって大変人気のあるキャラとなった。

ポップンでは10のお星様にお願い、20のみんなでつくろう ポップン20などさまざまな形でユーザー公募イベントを行うが、ポップン7のイベントはそのはしりと言える。

氏の楽曲は退社後のゴタゴタで多くの曲が削除されてしまったが、こちらの曲は運良く削除を免れ、今もプレイ可能だ。

トラウマパンク/釈迦筋肉少女帯,ポップン8)

版権曲に関しては初見の人がプレイすることが多いということで低難易度譜面が作られることが多かった。

そんな常識を破ったのがこの曲である

ポップで可愛い風体ポップンに収録された筋肉少女帯。同じアーティストの「日本印度計画」と共に8に収録された。

レベルは最高難易度級、おどろおどろしい歌詞と、ノーツ微妙にずれて非常に押しにくい譜面、おまけの辛判定とまさに(当時のレベルなら)トラウマ級の譜面

キャラアニメのミミは、本来可愛らしいキャラのはずなのだがこの曲では怪しい雰囲気の絵柄になってしまっている。キャラ説明文を見ると「不思議な夢」ということらしい…。

ポップン自由さが現れた曲でもある。

長らく収録されていたが、版権曲の定めか、ポップン21にてついに削除されてしまった。

撫子ロック/凛として咲く花の如く(紅色トマス,ポップン15)


ポップンで1番有名な曲。

作曲beatmaniaギタドラヒット曲を生み出していたTOMOSUKE作詞ポップン12で雫というヒット曲を出したあさきというBEMANI的には豪華なメンツ和風ロックなこの曲は大ヒットし、ポップンは知らないけどこの曲は知っている、なんて人もいるくらいだ。他機種にも移植されまくりひなビタカバーしている。近年だとVtuberカバーしたりしており、人気の高さが窺える。

その人気からポップン18では続編の撫子メタルも作られた。

サイレント/音楽(弁士カンタビレオ,ポップン17)

ポップン14あたりから、「ボス曲」が目立つようになった。

16では初のAC出身最高難易度43・トイコンテンポラリーという曲が作られ、その譜面の超密度部分は「わけのわからないもの」と恐れられた。

そしてそれを上回る難易度ボス曲がこちサイレントである

ピアノの濁流がノーツとなったその譜面は「どうしようもないもの」と呼ばれる。スタッフはそんなに難しくないと思ったらしく、レベルは最高難易度一個下の42に設定されていたのもユーザーを恐怖に陥れた。

その反省か、次のポップン18のボス曲(ふること)は譜面難易度が大幅に下げられた。

その結果、当時の音ゲー板では「ポップンガチ機種じゃないからこれくらいでいい」派vs「トイコンサイレント並みの譜面をよこせ」派で論争が起きていたのを見かけた。

KONAMI公式大会9thKACではポップン14からボス曲(+J-テクノ)がメドレーとなったPopperz Chronicleという曲がお披露目され、ランカー達を驚かせた。

ハッピーラブゲイザー/恋愛観測(NU-KO,ポップン20)


前述でポップン公募企画の話をしたが、こちらの楽曲は「みんなでつくって20」という企画ボーカル募集をしたものである

可愛らしく元気な曲調とボーカル、そして何より乙女がいきすぎてストーカーの域に入っているようなキャラかおりんが当時話題となっていた。

みんつく20募集したボーカルはその後も今に至るまでBEMANIに参加してくれているのだが、特にこちらのNU-KOの躍進は凄まじい。

ポップン以外にもオトカドールというACでは全曲のボーカリスト担当BEMANIプロリーグでは監督解説担当するなど、様々な形で関わっている。近年では声優としてもデビューしている。

昔のポップンスタッフコメント質問コーナー等の影響でスタッフユーザー距離が近かったゲームであり、まさにポップンからこそ生まれた曲といえる。

また、作曲のPONは16よりポップンスタッフとなり、おそらく今も主要なサウンドディレクターとしてポップンを支えている。BST騒動以降、スタッフの詳細が隠されてしまったため憶測となってしまうが…。

スカーレット/紅焔(PON,ポップン21)

前述したPONが作曲、そしてボーカルも務めた曲

当時「つぎドカ!」というBEMANI作曲家4人が4機種に1曲ずつ曲を提供し、選曲回数を競うという企画があった。

その中でポップン出身のPONの曲が見事1位を獲得したという曲である

経緯的にポップン10選に入れていいのか?と今気付いたが気にしない。

曲はストレートに熱く、少年漫画OPのような曲。この時期のPONは作曲スピードがとても早く、サウンドディレクターとなった22、ラピストリアでも多数の曲を書き下ろしていた。

また、このつぎドカの曲を担当した4人のキャラ(烈・風雅・鈴花・氷海)はそれまでポップンにいない毛色だったこともあってか人気が高かった。

その結果、ポップン22 ラピストリアのストーリーでは主役級に抜擢される。

ピストリアは等身高めな絵柄に改変(メインデザイナーもshio→ちっひに変更)、インスト曲の減少とキャラに沿ったボーカル曲の増加、濃いストーリージャンル名の廃止……etcなどポップンテコ入れと言わんばかりに様々な変化を取り入れた作品

つぎドカのキャラ4人は、そのラピストリアの変化を象徴するキャラ達と言える。

ちなみにラピストリアの画風(通称ラピス絵)は、現在ではpeaceでは従来のデフォルメ(+厚塗りにした感じ)に戻っている。

さよならのうた(aprésmidi,ポップン25 peace)

こちらはポップン史に大きな影響…という感じではないが〆にふさわしい感じだったので載っけた。

位置付け的にはポップン25 peaceED曲。

20周年記念ということで、初代より参加していたsana杉本清隆ボーカルを務め、23くらいまで長らくポップンに関わっていたwac作曲をしている。こちらの名義も初期の楽曲と同じものが使われている。(メンバーは多少異なる様)また、初代ポップンBGM引用されている。

サントラスタッフ欄はそれまでポップンに関わっていたアーティストキャラ(!)がクレジットされており、往年のプレイヤーにはグッと来るものとなっている。

peaceの時のポップンには末期感が漂っていた。前作のうさ猫の途中からポップンの最大の特徴とも言えるキャラアニメ書き下ろしがなくなり、次作として発表された「peace」というサブタイトルは、ポップンスタッフロールの最後によく使われる言葉だった。

稼働前に公式が25のサブタイトル案として出した中にも「climax「ありがとう」があり、本当に最終作だったのではないか…?と考えるプレイヤーも多かった。

この曲は個人的には生前葬の様に思える曲である

歌詞には「さよならさえも言えないのなら 今その分の思いを込めて歌うんだ」とあり、スタッフからユーザーへの、いつか来る別れのメッセージが込められている。

リフレクビートの様に、実質サ終だが別れの機会を逃してしまった機種があるからこそ、歌という形でさよならを託したのかもしれない。

peaceに関しては、絵柄の回帰、昔の楽曲オマージュ曲や、人気曲の追加譜面、そして新たな難易度UPPERなどを追加したことで好評な作品となった。

peaceはレッスンやベビーメタルの追加譜面話題になっていたので本来ならそっちを入れるべきかもしれない。

また、新たなポップンとしてスライダーを追加、ボタンサイズを縮小などされて開発されていた新筐体「NEW pop'n music Welcome to Wonderland!」がおそらく既存プレイヤーから不評+コロナ禍でお蔵入りしたことで、現在に至るまでさよならすることなく無事に続くこととなった。

選外 入れるか非常に悩んだもの

ポップン初期〜中期を凄まじい曲数と幅広いジャンルで、サウンドディレクターとしてもポップンを支えていた村井聖夜による楽曲

特にこの曲は初音ミクもまだ開発されていない頃に、PCに歌わせた革新的な曲である

ボーカリスト、そしてキャラの「Alt」はポップンユーザーの中では人気があったが、他機種においては数年後にjubeatに収録された「隅田川夏恋歌」にて大きな注目を浴びることになる。

個人的にポップン8は良曲が多くて好き。

ポップン初期〜中期を支えたパーキッツによる楽曲の初収録曲

可愛らしい曲調と、ロリ天使おむつを履いているという、絵柄がデフォルメから可愛く見えるものの、なかなかすごいキャラデザのポエットは人気を博し、その後のシリーズでも新曲・新アニメが作られていった。

特にパーキッツ作曲の方は、ブタパンチなどの名義でパーキッツ可愛い楽曲とは裏腹にハードちょっとイロモノっぽい曲を収録していくのであった……。

パーキッツに関してはどの曲を入れたらいいかも悩んでしまった…。順当に入れるなら初代かなあ。個人的にはウィッシュが好き。

あとはDJ YOSHITAKAの曲も入れようかと悩んだ。でも他機種に沢山代表曲あるからいか

一応最新作まで低頻度なものプレイしているのだが、昔の曲多めになってしまった。

ただ、ネットの評判やポップンリアルイベントの開催状況等を見る感じおそらくブームだったのが1〜8、14〜15だったので、その辺に偏るのはさもありなんかも。

追記

ふしぎなくすりは本当に忘れてた…

でも人気と外に与えた影響を考慮するなら絶対に入れるべきだった。と言うわけで書いてみた

カプセルプリンセス/ふしぎなくすり/ (上野圭市 feat. SATOE、ポップン17)

撫子ロックポップンで1番有名な曲と書いたが、こちらも同等レベルで有名な曲。

作曲者上野圭市は主に弐寺で独特な作風の曲を提供しており、前作の16からポップンにも提供を始めた。

こちらの曲についても「ふしぎなくすり飲まされて、渋谷で海を見ちゃったの」という歌詞からお分かりになる様に、なかなかの電波である。曲調も相まって大変中毒性が高い。

そんなネタ度の高い歌詞は、曲が出た2009年頃はまだまだ勢いのあったニコニコ動画で大ヒットした。

この曲を使った手描きMADふしぎなくすり のまされて」シリーズブームを起こし、色んなジャンルで作られたのだった。

こちらのMAD知名度をあげたため、ポップン初出ということを知らない人も多いかもしれない。

上野氏はその後も参加し、peaceでは続編曲とも言える「いつまでやったって、別にいいじゃない!?」を提供ポップンはいつまでやったっていいんだ。

入れるならミスティあたりと交換

2024-09-05

はてなリベラルギンズバーグ判事を見習え

アメリカにおける男女平等に大いに貢献し、2020年に死去したギンズバーグ最高裁判事という人がいる。

アメリカリベラルから一種イコンともなり、彼女人生に焦点を当てた絵本があるくらいだ。

そのギンズバーグ判事だが、彼女がとった戦略はこのようなものだ。

女性を阻む壁、一つ一つ解体した 米最高裁判事、故・ギンズバーグ氏の足跡

https://digital.asahi.com/articles/DA3S14670822.html

 功績として評価を受けるのが、70年代弁護士として率いた米自由人協会ACLU)の「女性の権利プロジェクト」だ。当時は、男性には認められるのに女性はだめ、逆に女性には認められるのに男性はだめ、という法律規定が多くあった。そうした性差に基づく差別問題とする訴訟を次々と最高裁に持ち込み、4年間で5件の違憲判決を勝ち取ったのだ。

 当時、最高裁の9人の判事は全員が男性。その理解を得ようと、ギンズバーグ氏らは「男性が不利な待遇を受けている」という法律をあえて問題とした。「男女は同じ待遇にすべきだ」との理解が広がれば、女性地位向上にもつながる。かつては「男性優先」といった批判もあったが、今ではこの方針は巧妙な戦略だったと評価されている。

男性差別」とされるものも同時に問題とし、それを是正することが結果として女性差別の解消にもつながる。

ギンズバーグ判事はこのような戦略女性差別の解消を勝ち取ってきた。

翻って見て、今のはてなにおけるリベラルはどうだ?

男性差別」と言われたものについて、「これは差別ではない。なぜなら...」と差別性の否定に心血を注いだり、「こんなことに一生懸命になってるのかよw」と冷笑したり、そういうことを繰り返している。

こういう連中の醜さと愚かさを見ると、ギンズバーグ判事の誠実さと戦略眼が光って見えてくる。

リベラルを自認し、女性差別の解消を望むのであれば、ギンズバーグ判事のこのような姿勢はまさに見習うべきものじゃないのか?

2024-08-21

anond:20240821160055

日清販売価格で小売りに圧力もかけてるしCMも最悪だから

日清CMが放映されてる番組は見ないようにしてる

日清が協賛してる=そもそもコンテンツ所謂そういうキショイコンテンツであるという認識になって気持ち悪いし

2024-08-04

バチカンが出した声明おかしいのではないか

ローマ法王庁パリ五輪開会式のアレ「最後の晩餐」に対して「宗教的信念をあざ笑うような表現はあってはならない」という声明を出したという。

最初これは日本語ネット圏のデマじゃないかと思ったのだが、NHKも報じていてマジらしい。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240804/k10014536461000.html

 

しかし有名な『最後の晩餐』の横長のテーブルに一列に座るデザインダヴィンチ15世紀末に描いたものだ。

それ以前にも『最後の晩餐』の宗教画は多く制作され、それらは円卓や車座が多い。

例えばこれはジョット・ディ・ボンドーネによる14世紀初めの『最後の晩餐』だ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d0/Giotto_di_Bondone_-_No._29_Scenes_from_the_Life_of_Christ_-_13._Last_Supper_-_WGA09214.jpg

 

そもそもそれまで宗教画というのはデザインの収まりの良さなどを目的には描かれていない。図像学に基づいて描かれていた。図像学というのは、絵画中の「モノ」が一つ一つ宗教的イコンを示していて、それが集合したのが宗教画となる。例えばシュロ(ヤシ)の葉を持っている人物殉教者だ。これはシュロの葉が勝利を示しており、殉教信仰勝利という意味なのだ

 

ダヴィンチはこれを真ん中の消失点に収斂する構図で描いた訳だ。ルネサンス近世絵画の始まりだ。

そしてこのすっきりとしたデザイン故に古典となった。古典とは単に古いというだけじゃなくて、基準となるもの、繰り返し参照されるもの評価が定まったものの事である

 

からダヴィンチの『最後の晩餐モチーフは後に多くの類似品を生み出した。そしてそれらのパロディーが多く存在するのだ。これは美術に対して通じてもいない増田でも知っている美術史の常識だ。

今回の演出家もあれはヤンファン・ベイレルトの『 Le Festin des dieux』(神々の饗宴)だと言っている。

絵画フランス美術館に収蔵されている。

因みに「饗宴」と来たらギリシャギリシャ神で愛がテーマと決まっている。

 

例えば、コメディ映画裸の銃を持つ男 PART33 1/3』で階段での銃撃戦シーンがあるが、

https://youtu.be/L3QkIruVNEI?si=448XZjT7oY0DSY5R

あの元ネタはデパルマの『アンタッチャブル』だ。しかしその『アンタッチャブル』の階段銃撃シーンはソ連映画戦艦ポチョムキン』のオデーサ大階段のシーンだ。

そうすると『裸の銃』は『戦艦ポチョムキン』を参照していると言えるか、ポチョムキンを笑いに転じようとしているのか?言えないだろう。

 

なのでバチカンネットの反応に過反応したという事になって、3年ROMった方がいいし、スマホばっか見てないで宗教画を見に行きなさいという感じなのである

2024-07-15

anond:20240715033211

努力教、勤勉教は唾棄すべきクソ宗教であり、

我々はまず彼らのイコンである

二宮尊徳像を破壊するところから始めるべき

努力は全てを解決しない!」

努力できたのは運がいいから!」

「勤勉は美徳ではなくただの利己主義!」

「働かざる者こそが食うべき!」

2024-03-22

anond:20240322180658

お母ちゃんが全部「ファイコン!」っていうようなもんだと思えば楽よ

2024-03-04

テロリスト山上徹也の思い通りに動いている日本政治戦後最も成功した思想犯になった状況をどう考えるべきか? 【山本一郎と考える】山上徹也がが撃ち抜き、安倍晋三の命で償わなければならなかった戦後政治の宿痾(1/4) | JBpress (ジェイビープレス)

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/79708


針小棒大話だなぁ、としか


安倍晋三」というイコンを打ち砕いたから「その背景」をみんな畏怖しているのであって、実際のところ「逆恨み」以上のことはない。

もちろん教団に対しては完全な「テロ行為」な。

だってこれは教団に対して「暴力をもって教団の活動を抑止させる」行動だもの

自分母親をぶっ殺した方が良かったのに、やりたいのは「母親を教団から引き離したい」「教団の母親への影響力を削ぎたい」だったわけで。

オマエの家族崩壊させたのは教団じゃなくて、母親だし、母親依存していたオマエラ家族問題だろう。

成人への洗脳云々は裁判でもかなり高度な判断必要としているぞ。そこに至る前に、オマエの腹落ちのためだけに、一足飛びの明後日方向で安倍晋三暗殺しただけなんだから


俺は、ネットリベサヨみたいに「自助すんな!」みたいなことは言わないし、理でバトルまで持っていけない相手なら構わないと思うが、ちゃんと「逆恨み」「俺が正義だ」って理解開き直りでやって欲しい。

切隊の内容は、彼のお付き合いあるステークホルダーさん共の「お困りごと」に屁理屈軟膏の効果を上げるための商売なので、こんなもの取り上げる方がおかしい、と付け加える。

切隊は元々権力者組織積極的に阿るけど、ここ最近の阿り方は酷い(日テレ小学館のアレ)。最低である

2024-02-18

性的衣装とは何か

性的目的で考案、作成された衣装(A)」又は「元は異なる目的のものであってもある状況下で性的目的に用いられるとのコンセンサス社会的に生じた衣装(A')」を指すと仮定する。

たとえば「穴あき下着」は前者A、「亀甲縛り」は後者A'の例だろう。そして、それらが批判対象とされるのは、

「それらが性的喚起力を高くもつとの合意が現に社会的に維持されている(B)」こと、そして「性的存在として眼差すことへの禁忌社会的存在する対象にそれらの衣装を着ける(C)」ような場合(つまりAorA'、かつB&Cの場合)と仮定する。この場合、結果として現れる表象それ自体公序良俗の取り締まり基準を満たしているか否か(D)とは、また別の問題として扱う必要がある(Dは、どんな文脈でも社会的提示するのは一発アウト、みたいな基準と考えられたい。生性器のドアップ写真、とか。ただこの場合も、「公序」の制限とかけはなれた特殊な状況、場所で許容されるのは言うまでもない。医学書とか。)。

以上を前提として、先日話題になった「オーストラリアのH&M広告炎上」の件と、昨日来話題の「咲バニーガール衣装」の件を合わせ論じたい。先に結論を述べれば、A~Cの基準が異なれば議論が噛み合わないのは当然であり、相手非常識扱いしてヒートアップするのではなく「相手との間で異なっているのは何か」を考える必要がある。相手が、いかなる表現100%許されると考えている人(つまりDなどないよ派)でない限りは、見解が異なるだけで、対話余地はあるはずだからである。ではまず、オーストラリアH&Mの件を整理しよう。

オーストラリアのH&Mが子供向けに「新学期ファッション」をテーマとした広告を打った。広告は、通学バス社会を想起させる色合い・デザインの背景に、かわいい通学服を着た女児2名がちょっと生意気そうな雰囲気で振り返り、「この子らを新学期ファッションに振り向かせよう」みたいな煽り文句がついていた。これが炎上謝罪撤回に追い込まれた件である

まず、この広告がDに違反していないことは言うまでもなく、それでも炎上したことに対して、いろいろと文句をつける人がいた。多くの人は「こんな程度でいちいち文句をつけるなんてちょっとヒステリックでは…」みたいな反応であり、個人的にそう感じる気持ちもよく分かるのだが、でもちょっと待ってほしい。女児制服ファッションとして扱うのは、このキャンペーンがまさに狙っていることであり、ファッション一種性的喚起力だととらえるなら、この広告は「生意気そうなモデルの表情」「かわいい制服」といった文脈で、Bを印象付けたわけであり、その結果、制服がもともともつA'の文脈制服に対して性的視線を向けるという界隈の文脈)を喚起した結果、Cに抵触する(保護されるべき女児制服を着せあざとい表情をさせて晒し上げる)という批判を生んだという風に考えることができる。このことは、A'に陥りがちな服装ファッショナブルな(あるいは扇情的な)存在として扱うときには常に注意すべき危険であり、BからA'→C違反、という道筋がすぐ描かれてしまうことに、広告関係者は神経を尖らせる必要があるだろう。その意味でこれは、「月曜日のたわわ」の一件との連続性が高い問題だった。あれも、Dには全く違反しておらず、おそらく制服でなければ問題化もしなかった広告が、一言の少しだけ扇情的キャッチコピーを添えられただけで炎上したが、これはもともと危うい位置にある存在で更に一歩危うい方向へと歩を進めることで起きたトラブルなのだと考えるのが適切である

ただし、表現とは常に時代の尖端で社会常識と切り結ぶのが仕事であり、そういう突破力を否定し切るのもいかがかと思う。社会的に(まだ)アウトですよ、と指摘するのはいいが、相手悪魔化したり、あまつさえ、様々な社会問題の根源や責任がそこにあるかのように攻撃したりするのは、慎むべきだ。社会の様々な問題は、多くの場合間違いなく社会のものの中に有り、そちらをまず片づけるべきであるゴミの多い都会を描いた漫画があるとすれば、取り組むべきは都会のゴミをまず片付けることであって、漫画の取り締まりではない。

次に、「咲にバニースーツ着せた姿の広告炎上」した件。これに対して「高校生バニーガールなどという性的衣装を着せた絵が広告として駅頭に出るとは、常識外れもはなはだしい」という指摘が出た件である一見すると、上のオーストラリアの件以上にひどい案件に聞こえ、即取り締まられてもおかしくないように感じられることだろう。この場合、それが一般的公序良俗違反(D)の案件である必要はない。たとえば、制服の上から亀甲縛りをした少女を描いた広告にOKが出るか、と考えてみればすぐ分かる話だ。Dに違反していなくても、これはA'かつBかつCで明白にアウトである。では、「咲+バニースーツ」はどうなのか?

バニースーツがAであることは誰も否定はしない。従って、論点は、B「それが性的喚起力の高い服装であるとの社会的合意があるか」、また、高校生が「性的存在として眼差すことへの禁忌社会的存在する」ことは前提とした上で、これらの少女が「高校生である」ことが明示されているか、の2点ということになる。

C 「咲」に登場する少女高校生であることは明示されているか? これについては、残念ながらこの広告に関する限り、疑わしいとしか言えない。批判者は咲が麻雀部に所属する高校生であるとの知識をもって批判しているが、咲はそこまで社会的認知度が高い漫画ではない。アニメ化されたとはいえ視聴率は1%に届かない程度、DVD売り上げでも、1期7758枚、2期4939枚、3期4565枚…。(※)アニメファンには実写化映画化……とされた人気作のイメージがあるかもしれないが、社会現象になった数々の作品に比べれば売り上げが一桁少ない。加えて作品ジャンルが「麻雀」という、一般的にいって高校生とは結び付けづらいものだ。この広告を見た多くの人が「高校生バニースーツ」という風に見る、と主張するのは難しい。ただし、一定年齢層以上の人で、アニメ画は全て少女ロリ)にしか見えない、という意見をお持ちの方がいることも、一応認識はしている。

(※DVD売り上げはhttps://nizilove.com/category/number-of-anime-sales/page/2/の値。)

B それが性的喚起力の高い服装であるとの社会的合意があるか? おそらく批判者が一番「何を言ってるんだ?!」と思うポイントであり、今回一番議論が噛み合っていないところだと思うが、Aのような服装時代を下るにつれてBの意味合いを失っていくことは、歴史的にはよくあることである。たとえば、髪型一つとっても、「結わない髪は淫らである」といった固定観念が、遊女などの流行を取り入れつつ徐々に変遷し(※)、現代の人は単に「かわいい」という感覚で振り乱した髪の毛を奔放になびかせているのはご存じのとおりだ。「そんな髪型は昔は遊女流行らせたもので…」と説教をして、いま、一体誰が首肯するだろう? 時代が下ればある衣装が「もともともっていた意味合い」が薄れていっても、何も不思議はない。つまり、たとえAであったとしても、時代によってBではなくなるということは別に不思議ではないのだ。

(※たとえば参考:「『女髪結』考」https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/21365/files/KU-1100-19940930-01.pdf

では、バニー衣装はどうなのか、といえば、これはまさに時代が変化しつつある過程なのではないかと思われる。自分は決して専門の立場ではないが、そもそも夜の店の主流がキャバレーキャバクラ等へと変遷していく過程で、「性的接待衣装としてのバニーガール姿」というのはもはや古典的イコンとなり、現役の「風俗衣装」としての意味合いをかなり失いつつあるのではないか。たとえば「社長さん」御用達で半世紀以上の歴史を誇る「エスカイヤクラブ」では、支援の声を受けて「ワンランク上のおもてなし」としてバニーガールによる接待をうたっている(https://www.esquire-club.co.jp/general/about01/)が、これなど、バニーガール姿がほとんと「祇園芸妓」的な存在と化しつつあることの表れではないだろうか? そもそもの出発点においてからが極めてトレードマークコスプレ的な衣装であったバニーガール衣装が、現代においてコスプレ的ではなく生き延びている事例というのがどれほどあるだろう。

そのような時代の変化の過程において、「バニースーツ性的!」という批判と「ただのコスプレじゃん?」という意見が、まさにBをめぐる議論として立ち現れてくるのならば理解ができるし、それははっきり言えば単なる「時代感覚の差」の問題に過ぎないと思われるのだ。たとえば、高校生文化祭メイド服を着る、あるいは、小・中学生習い事ポールダンスを学ぶ……ある年代以上の人からすると、目が点になるのか三角になるのか知らないが、そんな事例であろう。だがそれらは、時代の変化の中で起こるべくして起こる変化の一様態しかない。

まり、これらは決して表現の自由だとか差別かいった問題ではなく、単なる「年寄り若者時代感覚の違い」に起因する問題だと認識した方がいいと思う。ならば、相互批判しあう人たちも、この問題からいずれも学ぶことがあるはずなのだ。こういった問題で、敵味方を作ってがあがあがなりたてるのはよろしくない。何よりも必要なのは、分断ではなく対話理解であるはずなのだから

2024-02-16

anond:20240216093402

門外漢なので適当に思いついたことを書くだけなんだけど。

守護聖人イコンってしばしば頭に輪っかを乗ってけるよね。

天使よりは守護聖人の方が、「死亡→輪っか」のルートに近そうに見える。

2024-01-31

anond:20240131120706

宗教的イコン信者にとって都合のいい存在)が作り上げられるプロセスを生で見ることができてよかった

2024-01-30

セクシー田中さんの作者は宗教的イコンになるだろう

原作厨聖母マリアとして、ドラマ映画で改変がなされた際に「また聖母悲劇を繰り返したいのか?」と製作陣を脅す武器になるだろう

契約が云々カンヌンという話も薄れ、ただ原作を改変することは悪であるという教典が広まるだろう

すでに「攻撃たかったわけじゃない」という言葉本心ではなくただ原作を改変されたことに心を病んだことが原因という解釈が広まっている

これから原作厨聖母マリアの遺志を継ぎ、原作改変者を攻撃して回るだろう

2023-09-18

ヨルムンガンドインテリ革命アニメから見ろ

キガリ武器商人とそのイキガリ護衛部隊チート戦闘力で偶にはナイフとか無駄に使ったりして

色んな所で凄い政府機関とかマフィアとかテロリストみたいな組織を手玉に取ってやりたいことやっちゃうよー(暗黒微笑)系作品ヨルムンガンド

最近Youtubeアニメ版再放送ならぬ再投稿が行われてるから見ろ

早速ネタバレするが、ヨルムンガンドはチョウスゴイコンピューター世界支配して戦争無くしちゃおうってオチで終わる作品

最初の方は敵集団のど真ん中で銃撃戦を開始しても何故か味方は一切被弾しない様な普通のイキガリ俺TUEEEE系なろうご先祖アニメなだけだが

話が後半になってくるとそれまで雰囲気出しの為だけにやってた様な世界戦争がどうだの武器のなんちゃらがどこそこの組織でうんたらとかいう浅い話が前面に出てきて

良く分からんトンデモ科学チームを組んで何でもできちゃうチョウスゴイコンピューターを作り出すパート突入

それを使ってイキガリ武器商人が空封鎖して世界物流を掌握すれば戦争無くなるよねーとかい独裁者マインドトンデモ理論世界平和を実行しようする

世界掌握できるチョウスゴイコンピューターの割には発動する時に飛行機が全部墜落して70万人くらい無駄死ぬので

主人公ヨナとか言うガキは反対するが

ガキらしく「俺馬鹿すぎてなんか良く分からんけど嫌だから逃げよ」つってイキガリ武器商人と大した言い合いもせずどっか行くので当然大したドラマもない

世直しのことを知らないんだな、革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標を持ってやるから、いつも過激なことしかやらない。

しか革命の後では、気高い革命の心だって官僚主義大衆に飲み込まれていくからインテリはそれを嫌って世間から政治からも身を引いて世捨て人になる。

とかどっかのニュータイプ天然パーマみたいな火の玉ストレートをガキが投げれる筈も無いが

キガリ護衛部隊トンデモ科学チームも罪もない市民虐殺オールオッケーな精神なので

そんなやばめな集団の中に居て唯一反論して逃げただけこのガキはあの世基準だと天才扱いされてもおかしくない

でも最終的にはなんかガキも良く分からん馬鹿なりに何かを納得したらしくチョウスゴイコンピューターが発動するが、話はそこで終わる投げっぱなしエンド

キガリ俺TUEEE系作品では到底畳めない領域まで風呂敷を広げてしまった末路でしかないが

キガリ集団世捨て人になった姿なんて別に誰も見たくないからこれで良い

そんなわけでイキガリ集団インテリ革命世捨て人フラグを立てるアニメヨルムンガンド」をお前らは見ろ

んでその後に逆シャア見て色々感じろ

2023-08-25

anond:20230825193408

かつて女の敵は姑でした

時代が変わり、今では男が主敵ともいえる存在になっています

その原因は、ネットワーク上でのミソジニーの女叩きによって反作用的に増殖したアンチミソジニーです

2ちゃんねるやまとめ、Twitterなど多くのコミュニティで女叩きが興盛してきました

ミソジニーの多くはアニメアイコンを掲げ、オタク弱者男性であることを連想させます

アンチミソジニーの標的はそういったオタクカルチャーやそれを連想させるものに対して定まっています

俺は違う、ミソジニーと一緒にするなという言説は噴飯ものでしょう

であるというだけであなたは女たちの敵なのです

女性が好むコミュニティの多くは公的SNSです

TikTokInstagramなど男叩きが盛り上がりを見せています

からアクセスやすい分、若者にも大きな影響を及ぼしていくでしょう

ネカマが何を言おうと罪悪感を抱く女は存在しません

女叩きのカウンターカルチャーは姑に変わるエネミーアイコンを常に探しています

2023-07-31

anond:20230731052353

水星魔女新規勢力を獲得してガンダム未来は明るいとか思っていたのに、獲得勢力も相変わらず面倒くさい人種が目立つようでガンダムおかしい人ホイホイコンテンツなんだろうか?

実は新規獲得したというのは気の所為既存の面倒くさいファンが暴れているだけなのだろうか?

2023-07-08

anond:20230708211751

安倍晋三が、ゼロ年代からの反リベラル本格保守という、「価値」に関わる決定的な問題イコンからでしょ。

それまで、利害調整機関に過ぎなかった、自民党本格保守から、「価値」を前面に押し出し本格保守として辣腕を振るい、長期政権を実現した以上、そりゃ、リベラルにとっては不俱戴天の仇ですよ。

2023-01-24

ネタツイート供養

駄洒落

ボクサーを撲殺したのは僕さ

これから満で数つけるわ

ナンを何枚も食べるのなんて、なんでもないよ

nonsense駄洒落を送ってしまった。

防寒着を着た暴漢傍観する

新患の新幹線に関する新刊に新館を立てて震撼信管作動する。

文脈おかし

カフカには寡婦は過負荷

夭逝する妖精養成要請

ケニアに行ったら生贄や

コメントには心をコメントなあ

柑橘類香り歓喜し、換気を喚起したが乾季が訪れたので、寒気がした。

補償するための保証書をもらう権利保障する。

信心深い新人神事心中する。

唐突すぎる心中

宍道湖神事を行う碇シンジを信じ込ませる。

いっきに広まった一向一揆は一向に収束を見せない

虫の居所が悪いのか無視されてしまった。

塗装を落とそうか。

授業中に弁当を食べて、食材贖罪を果たす。

加計孝太郎

加計孝太郎近畿財務局に賭け乞うたろw」

扇状地戦場で洗浄中の兵士扇情的な船上の軍歌を聞かせる。

観光客フイルムに感光させた写真刊行することが慣行になった。

サボってサボタージュ

カタルシスを語るシスター

八芳園発泡酒を飲んだ八方美人が発砲

公館の高官が交歓されつつ硬貨を交換し好感度あげる。

トロールトロを獲ろうとして徒労に終わった。

最恵国待遇の条件を再掲する。

アシカが好きな足利尊氏

景気が良くなりケーキを食べる契機を伺う徳川慶喜(とくがわけいき)

アジアアジの味

夫を成敗するオットセイ

まらない妻の話

気の時計ホットケーキからほっとけー

ヒモになってしまったひもうせん

竹の丈は高ぇなー

伊豆椅子に居座るイラエル人

餅を用いて持ち上げる

ロストしたローストビーフ

サボテンの植え替えサボってんな

過度な稼働は可動範囲を狭める

お前がバテレンだってことはばれてんだよ。

ごめんなサインシータ

伯爵博士拍手拍車をかけて迫真の爆死をし白寿の白人白紙にもどす。

クラーク博士と苦楽を共にする

エアポートエアコンエアガンエアロビ体操

わし座の絵が書いてあるタイルアルタイル

バチカンババア痴漢

聖光卒のSEIKO社員精巧時計製造成功する。

紅葉を見て高揚する

台東区帯刀し台頭する

執刀医の技術嫉妬

甲子園講師をする公私混同した孔子実力行使には格子窓も耐えられない。

キッコーマンの亀甲船が拮抗戦を繰り広げる。

死んでんのか?「心電図を取ってみよう!」

神殿内部の新田心電図を取る武田信玄は死んでんのか?

夜祭で野菜を食べる。

信玄餅を食べながら震源特定するように進言する新元素発見した人。

蜂の巣(honeycomb)を見てはにかむ

五反田で地団駄を踏む

平気で兵役をし兵器を作らせる平家辟易してしまった

蝋梅の香り狼狽する

いびつ揖斐川の流れ

ようやく要約が終わった

海溝で邂逅

豪華な業

非公式に飛行甲板で非行を行う非行少年

甲板で甲板をかじる

甲板で乾パンをかじる

店頭で転倒

四季の変わり目には士気が上がるので指揮が必要

財産ぜんざいを買う

大枚をはたいてタイ米を買う

醤油をかけている人に話しかける人「それソースだよ」

醤油をかける人「えっっ?」

しかけた人「ソイソースw」

神田でした噛んだ

ハイソサエティ人間に敗訴した

品川千葉から見て中国シナ)側だ。

経験を積んだ者への敬虔眼差し

ダサい獺祭パッケージ

ゲットー写真をゲット

少食な小職

安価アンカー

さっそく拙速節足動物模型が仕上がってきた。

牛の胆嚢の味を堪能する

僥倖をあてにする強硬教皇のせいで恐慌が起きた。

あの娘にはどう告っても(どうこくっても)慟哭する結果に終わるだろう。

キーンという高音の起因が掴めない。

構成の後の校正は公正に行わなければならない。

こんな誤謬は秒でわかるだろ

皇帝肯定する

壊疽した箇所が治るというのは絵空事

経口補酔液

痴的好奇心

Novemberノーメンバー)には部員がいなくなった。

セントーサ島に行くのは正恩が先頭さ

軽微な警備

公爵講釈を垂れる

冬眠する島民

ベットは別途用意してください

大会に負けて倦怠期が訪れる

The deserted desert in desert desert.

人のいない砂漠で見捨てられたデザート

倒錯したので盗作してしまった

九尾のキュービズム

罹災者へのリサイタル

秋分のくらい醜聞を聞かせないでほしいな

カニカニバリズムは如何に

画家の画架

不納が富農になるのは不能

理工がRICOHに利口な履行

マネタリズムを真似たリズム

吐露するトロを獲るトロールトートロジー

I sensed tha it is in a sense sense.

私はそれをある面では扇子だと感じた。

鯖を食べている人と、それを見ている人の会話

鯖 ça va?

ça va 鯖

ça va

ゆめゆめゆめをみるわけにはいけない

早漏で候

形状記憶合の価格を計上する

凪に難儀

名言を明言出来ず迷言になる

リネン理念

ロードライブ朗読ライブ

昔本に渡ってきた人「渡来は入海が無料!」

上流で上流階級蒸留

東上線に搭乗した東條が登場

刺客視覚死角に四角い資格自覚

高校を後攻で煌々と口腔で孝行

芳香へ咆哮し奉公の方向へ彷徨する。

蝉が転んでセミコロン

彰晃が商工の昇降機将校を焼香し小康状態

おさる情事

盛夏のせいか青果が採れない。

ケーキを食べるなんて景気がいいね

道徳をどう説く

司祭が仔細に県道検討

写真はフォトんど撮りません

ダリ「絵ぇかくのだりぃなあ」

華美な花瓶のカビに過敏に反応

老いるのを防ぐオイル

檻に入っておりいった話をする

夏のおサマー

夜は寝ナイト

渦中のカチューム

渦中のカチューシャ

リスボンでリスがborn

市長市庁舎から視聴

どうないはどないなってんねん

堂々とした道道北海道の道)

苫小牧でてんてこ舞い

市内を復旧しないと

新道神童振動

石狩の石を借りる

おが置いてあるのを見た人「おはおっかねぇーから置かねぇ方がいいぞ」

砂がどしゃーw

東上線に登場した東條が登場

コケットリーのあるコケ取り

飽きない商い

おなか吹田市

ヘルシンキで減る新規雇用

沖田総司が起きたら掃除

観劇で感激する

側転に挑戦し即、転倒

あたりめが美味いのはあたりめぇーだ

カルロスgone

別件を瞥見

凹地のお家

魚を初めてみた人「うぉー」

懊悩を抱えた人「Oh no..」

魚影を確認した船長「ぎょえ〜」

マイケルを蹴って注意されるマイケルケン

カラヤンの頭の空やーんw

ライカをやたら勧めてくるおじさん「ライカはきらいか?」

洒落臭い謝楽祭

公費コーヒー支出

豚をぶった仏陀

只見線をタダ見w

菊名でそんなこと聞くなよ

馬間田でママを見つけた子供ママだ!」

冬至湯治に行った当時を思い出す

五秒で死んで御廟に埋葬

がらんとした伽藍

有給を使いすぎて悠久の時が流れた

一年を逐一アピールする

長谷に想いを馳せる

Thinkerの真価

東海林の不祥事

the mine is mine

不具の河豚

プロ棋士プロキシ

キリングフィールドのきりん

異臭issue

暗記のanxious

半世紀にわたる半生での藩政を反省

つくえのなかのつくねつくね

清朝と慎重に貿易

タンチョウが単調増加

I screamed Ice cream

ショック死内親王w

カルカッタの石軽かった

陽気な楊貴妃妖気

彼は羊飼い執事かいw

天皇のこと知ってんのー

蒋介石を紹介した商会を照会した商會の船で哨戒する

其方のソナタ

先王に洗脳される

永劫回帰英語回避

李鴻章交渉

粗大ゴミ醍醐味

防潮堤で膨張した傍聴人

砂漠で鯖食う鯖を裁く

あんな彼には、アンナカレーニナでも読ましとけ

筒に入った膵島

サイコロを使った心理テスト(psychological test)

ブルジョアが振るジョア

嚥下中の演歌歌手にエンカしてええんか?

カラシニコフが辛子個踏んだ

継嗣の形式を軽視する警視

皇帝の高弟が公邸の校庭の高低差を肯定する工程に拘泥した記録を校訂

にようかで酔うか?

うるさい人が売るサイ

無印商品の店を見つけた人「この店舗ノーマークだった..」

乳母が食べるUber eats

どんなもんだい、を、どんなムンバイ、と言い間違える人

透徹した饕餮の眼球

どこから見ても百貫デブの人「客観デブ

石鹸世間を席巻

チャカで茶菓を破壊

多分風光明媚maybe)

slimyなすり身

ゆうほど広くない遊歩道

いにしえのイニシエーション

コーランをご高覧ください

ゲーム最下位から再開

UNIXが使える宦官(eunuchs)

盆に得るボンボニエール

K殻の傾角を測定する計画

協賛した共産党員に強酸をかける

負けたのは聖者の静寂のせいじゃ

裏地見るウラジミール

カミオカンデの上に紙置かんでw

大会がおわり倦怠感を感じる

椅子噛んでる人にイスカデル命中

クレパスクレパス落とす

夕暮れのユーグレナ

heおじいちゃんsheおばあちゃん

さくらんと聞いて錯乱

後宮の佳麗な高級カレー

臭いサイと腸臭い人が直裁的に話す

会社膾炙する

歯科医師会の歯科医師か司会か分からない鹿

ストライキをする公務員に呼びかける人「 Stay calm公務)」

ベビーシッター叱咤

エド・はるみの穢

祭壇を裁断

怪獣に懐柔策を提示

腐卵ダースの犬

独島独特のドクトリン

テスラは手すら認識できない

小作コサックダンス

刑事デカダンスな踊り

全然人が集まらないクラブの人「参加数人は我々の十八番ですから。だけに。」

族→希ガス電子配置→酸化

四苦fuck

都バスが人を跳ね飛ばす

経帷子を着て強化扉に突撃

怒るカロテン「なにカロテンねん」

内地ナイチンゲール

嫌がる慰安婦「いやんっ」

かえるがえる帰る蛙

什器重機破壊

沈厳な青梗菜

トリコロールの虜

布陣を組む夫人

栗けっとばすクリケット🦗

婉容と遠洋漁業

アタナシウスキルヒャーとあたなう

アマルガムで余るガム

ハラスメントの疑いを晴らす

滋賀を書けない人を歯牙にも掛けない

他意はないタイ人の鯛の態度

鯛が蛇足

有象無象意味を、象がいるかいないかだと思ってた人

ダジャレではない↑

割と面白い

ハラッパーの原っぱ

ハラッパーのラッパー

ウランを売らんウランバートルとバトル

紫に関して思案を巡らす

遺影イエーガーマイスター

市井の人意見を聞く姿勢

NATOの人に納豆食わせる

いすみ鉄道椅子見る

Hulu夏の風物詩だと思っている人「Huluですなぁ」(風流

板橋で板バシバシ叩く

敬語が使えない東野圭吾

秘書の卑小な飛翔体

小動物衝動で焦と化した小豆島照度

姥捨山Uber eats

下調べのムニエル

からないので

淫乱大王、ハメハメハ大王

Evian海老が混入しているのを見つけた人「エビやん」

意味ない諱

よく分からんリポーター「うわぁ〜美味しそうですね!少なくとも不味そうには全く見えません!」

どうしても下がりたくない人「黄色い線の内側は、境界を含みますか??」

タピオカが好きなジャン・コクトー黒糖ぢゃん」

計算ができない人

佐渡サドサド

着ていく服を決めた高橋是清「これ着よ」

駅にいる料理人調理するエキノコックス

初めてSMプレイを見た人「縄文式器みたいですね」

enough、enoughは工夫がenough

なんでもパアになるホテル「パアホテル

負け負け山(カチカチ山)

薬師丸せま子

エイリアンスペル間違えるとかありえんわ

細野奥道という名前なのに、俳句を全く詠めない人

ぶん、ぶん、ぶん、ムンジェイン (はちがとぶのリズムで)

トーマス・マンの書いたふるさとうさぎ〜おーいし、魔の山〜♫」

モーラ網羅

イスラエルキブツ 損壊

その心は

イスラエル集落キブツというので、器物損壊とかけた

ビンテージの瓶提示

帽子御法度

双生児の豚のソーセージ

敬虔ネモ船長「海底万参る」

回折格子解説講師

妊婦ニンフ

焼結が猖獗を極める

これはstaleだから捨てるか

十階で十戒を十回、述懐

モンチッチ門地

衒学的な弦楽を減額

ウラジオストクで裏地をストック

完全な勧善懲悪

カッパドキア河童「ドキァ」

ホーキングの超法規的なホウキ放棄を蜂起

イボ人の疣痔

イブに慰撫

江戸知らんエドシーラ

べたべたなベタベタ

(訳 ぬるぬるしてるありふれた魚)

ダマスカスで騙すカス

盲いるのに飯いるの?

医師意思で石で縊死

アーヘンで阿片を吸った人「あー変」

毒吐く独白

明借りるアスカリ(車)

深見東州の深み踏襲

丁寧な砂浜「Could you九里浜」

ゴーンと奉公

その心は

ゴーンの出国の手助けをしたこと奉公とかけただけ。

サンクチュアリに山窟あり

熟れたウレタンは売れたんか?

清澄な声調を静聴し成長

プエルトリコで増える虜

仏典で人をぶってんのか

象さんを増産

ケイト・モス毛糸燃す

兄弟が今die

乱暴ランボー

卑劣漢がヒレつかんだ

カレー(Fr)の彼のカレイカレーは辛え

弘法と公房が工房で攻防し興亡

Dose heで始まる疑問文に答える京都人、Yea, he どす

レイブンクローの例文苦労

galleristのギャラリスト給与リスト

ソフィカルのソロカル

麻雀をやり過ぎた人「リーチ飜で理一E判」

美人局に筒持たせる

十把一絡あげ

monotonousな物と成す

京都弁を話すビルゲイツ MSどす

篤信な特進が涜神を得心

これは何という植物かな?ムユウジュでは?あそっか、なるほど。

クートゥを食うとぅいいよ

楊貴妃渓谷で警告

マイソールで昧爽に埋葬

ドクサは毒さ

暗殺で朝死んだ

クラシックについて語る人をそしる人「弦楽なんてペダンチックだなあ」

凛々しいリリシズム

衛生的な俳人

東州が東周踏襲

シンシナティ真摯紅茶

御髪も亂とはオクシモロンだ

コロナ後の世界分析する学問→postcoronialism

和尚王将に鞅掌し往生

影響が色濃いイロコイ諸族

あてのあてないアテナイ

ウイグル人野原しんのすけクレヨン Permalink | 記事への反応(0) | 22:23

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2022-11-07

うる星やつらOPに見るZ世代への表象

 うる星やつらリメイクされた。最高レベルスタッフが惜しげもなく投入され、凄まじい金が動いている。

前置き

 コンテンツとしては四十年の歴史を持っており、コスプレ文化日本根付かせることにも一役買った今作においては、OPクオリティーが非常に高い。音楽映像共にキャッチ―で高品質になっている。

 改めてOPをマジマジと見ると、明らかにZ世代へと向けられたメッセージが込められている。例えば、ところどころ挟まれゲームを模した表現90年代流行した携帯型ゲーム的な映像や、00年代前後ギャルゲー表現など、これらは明確にZ世代に向けられた演出表現――表象であると言えるだろう。また、OP冒頭に登場するインベーダーゲームは本作『うる星やつら』と同じくして四十年前から根付き始めたコンテンツであり、Z世代範疇からは少しずれるが、四十代から三十代の後半といったZ世代に対する境界世代に対しても強く働きかける演出となっている。

 同時に、SNSマッチングアプリといった、十代二十代のZ世代若年層をも今作のOP対象にしており、概してZ世代対象にした演出が行われていることは明らかである


特に地球儀に関する演出を推す

 何でこんなことを書き始めたかと言えば、公式アカウントyoutubeアップロードしているノンクレジットOP映像の、01:07~01:08に流れる、『地球儀』に関する表現個人的に刺さりまくったかであるノスタルジアで心がバッキバキになった。

 本テキストにおいては、以降この『地球儀』に関するたった一秒間の演出に焦点を当て、記述していく。

 『地球儀』をご存知であろうか? Z世代ならば当然知っているであろう、公園遊具である

 そして、この遊具現在公園には存在していない。何故なら遊具で遊んでいる子供たちに重大事故が多発したため、危険と見做され撤去されたかである。時流としては当然の対応と言えるだろう。この遊具遊んだことのある人々は多いであろうが、遊具使用中に大きなスリル経験する人々も多かったことと思う。つまり、この遊具根本的に危険なのである

 それでも、この遊具に関する良い思い出を持っている人々はZ世代を中心に多いことと思われる。明らかに、今作のOPはそのようなZ世代の人々の思い出に働きかける構成となっている。ノスタルジアに浸ることのできる良い演出である

地球儀表象分析する

 地球儀とは、つまり今喪われつつある一つの世界』の喩えであると言える。

 本OPにおいては、恐らく主人公諸星あたるがこの地球儀の内側に引きこもる形で存在しており、その地球儀ラムが外側で浮遊しつつぐるぐると高速回転させている。その様子が諸星あたる主観視点によって描写されている。そして、ラム諸星あたるの表情を見てか、ニコリと微笑むのである。(あまりにも高速で回転する地球儀の中心に座り込む、主人公の怯えの表情を喜びの表情と錯覚して、ラムは笑ったのであろうと思われる。)たった一秒間の映像であるが、この一秒間にはOP演出家の粋が籠っている気がしてならない。

 まず、節冒頭で書いた通り、この地球儀は、今喪われつつある(撤去されつつある)世界表象していると言えそうである。かつては子供たちの間で楽しまれ、親しまれていたものの、今や危険視され排除されていく何かが、この地球儀には表象されている。

 また、地球儀というものは当然ながら球形をしており、地球という我々にとっての世界表象していると同時に、緩やかに我々の意識世界や内的世界表象しているとも言える。我々にとって、あくま世界は手の届く範囲のものしかない。我々は、日本にいながらにして地球の裏側にあるブラジルの人々の生活をつぶさに見て取ることは、殆どできない。つまり、我々の世界場合によっては手の届く範囲――半径にして凡そ一メートル弱の球形の世界において完結しているとも言えるのである。つまり、この地球儀は、我々の手の届く範囲での世界――我々の(そして諸星あたるの)〈閉じた〉内的意識や内的世界表象しているとも言えるのではないだろうか。

 つまり、この地球儀は、様々な要素を多義的表象していると言える。喪われつつある愉しかった頃の思い出、完結した内的世界――などなど。この、『地球儀』は非常に表象論的に優れたイコンであると私は思う。この『地球儀』に目をつけたOP演出家に賛辞を贈りたい。

 そして、同時にこの地球儀は、「内側にいる人間だけで遊ぶことはできず、外側にいる他者依存して初めて楽しさを感じることができるもの」としての側面を表象している。つまり、この場合には、ある程度間接的ではあるが、他者がいなければ成り立つことのない心情、恋心の存在が、緩やかに表象されていると言っていいかもしれない。そして、その地球儀は、空中を浮遊する超常的存在であるラムによって、とてもではないが緩やか、とは言えない超高速で回転させられる。そして、ラムは喜色一面に微笑むのであるラムしかできない形で諸星あたる世界が回転しているのだ。このように回転する『地球儀』は、諸星あたるジェットコースター的に起伏に富んだ生活人間関係を、そして、それらを含む彼の内的意識表象していると言える――そして、遠から諸星あたる心中に芽生えるかもしれない感情にも、その表象は緩やかに繋がっていると言えるのかもしれない。

 世界が回転する――これもまた、一つの表象であると言える。ラムによって諸星あたる世界駆動し、心は動くのである。怯えと、スリルと、説明不能感情。それらの心は、ラムの指先によって躍動感もあらわに駆動するのである


まとめ

 これが、ノスタルジアでなければ何であると言うのか。もうバッキバである。心が。

 こんな優れたOP看板にしたリメイクうる星やつら流行らない理由がない。というか、流行れ。流行ないといかん。

https://www.youtube.com/watch?v=pEVhv4eB8Q8&t=1s

2022-10-13

一人の子供と旅行する母親だが一泊旅行荷物が多すぎて泣いた

子供パジャマ2着

子供下着2枚

おむつ10

こどもの着替え1着

子供スリーパー1着

子供靴下ワンセット

子供歯ブラシ

子供歯みがき

子供のボディクリーム

母のパジャマ1着

母のインナー1枚

パンツ1枚

ブラ1枚

スラックス1枚

ブラウス1枚

ライトダウン1着

アイボン

ヘアスプレー

メイク落とし

ポイントメイク落とし

化粧水乳液

日焼け止め

ワンデイコンタクト

アゴ

髪をつつむネット

シュシュ

子供用のクシ

子供用のヘアゴ

てぬぐい1枚

ハンカチ1枚

靴下ワンセット

ストッキングソックス

はさみ

ガムテープ

100サイズ段ボールに納めてホテルに送ったよ……

旅行当日は化粧品ヒールの靴を鞄に持っていくし子供の予備の服(靴下下着ズボントップス)をお守りに持っておくしオムツも当然持つしで

決して軽くはない手荷物だよ☆

子供一人しかいないのに、一泊なのになんだろこの荷物の重さ、量

2022-09-16

anond:20220916120501

堺市学童集団下痢症(さかいしがくどうしゅうだんげりしょう)[注 1]は、1996年平成8年7月に、大阪府堺市学校給食を原因として発生した集団食中毒児童7,892人を含む9,523人が腸管出血性大腸菌O157感染し、3人の児童が死亡[2]。併発した溶血性尿毒症症候群(HUS)による後遺症が残った児童も多数に及び、発生から19年後の2015年平成27年10月には、当時小学1年生でHUSを発症した女性が、後遺症により死亡している[3]。

感染源や経路は、現在も判明していない。厚生省は発生後の8月から9月にかけての調査報告で、給食使用されたカイワレダイコン感染原因となった可能性を指摘したが、その後も原因食材特定されず、カイワレ業者根拠のない発表による被害を訴えた2件の国家賠償請求訴訟では、2004年平成16年12月14日に国の敗訴が確定した[4]。

原因不明はヤバすぎ

犠牲者に合掌

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