はてなキーワード: 実存とは
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こんな形でソ連という敵を喪失してなおアイデンティティの為に日教組を叩いていた人らが居たのだが、社会的には全然相手にされていなかった。
そこでこの批判を既存のコードを使ってアップデートしたのが小林よしのりだった。
左翼や進歩主義者ににとって社会は変革されるべき客体である。人間は変革を担う主体である。
だが、最初に大事なのはその主体が社会的矛盾や疎外に気付く事だ。それによって「変革の主体」との主体性を得るようになる。
だから、大学などに進んでも尚主体性を得ずに高校の延長で勉強しているような学生には「君達は教育による馴致によって自分が何か、何がしたいかの動機が予め奪われてここに居るんです」というような事が言われる。説得でもあり扇動でもある。
ルソーの『エミール』等の自然状態礼賛がベースになった考えで、本来人は高貴な野蛮人として生まれるのに教育を受ける間に躾けられ、個性を封じ込められ主体性を発揮する動機さえ喪失してしまう。
君たちは既に侵され殺され抑圧されているがそのことすら気付いていない。卵の殻を破壊せよ世界を革命する為に、とそういう具合である。
だがこの主体性への気付きというのは進歩主義者の専売特許ではない。帰国子女は異文化経験によって「今ここ」が異化されており概ね主体的でありそれにより成熟している事が多い。私学エスカレーター組と比べると大人とガキの違いだ。
また就職活動で仕事について真剣に考える期間を経ると顔つきが大人びてくる。
そこで小林がやったのは「君たちは教師によって騙されていた。君の本来性は殺されたままだ」という扇動だ。その騙しとは真実である歴史修正主義言説を隠蔽していたというものだ。
今ではこういう覚醒の物語というのは「レッドピル」として一般に認知されている。マトリックスでモーフィアスに「今までの生活がいいなら青カプセル、覚醒して世界の真実が知りたいなら赤を飲め」と言われるアレだ。
この扇動が奏功するには条件が必要だが、その前に指摘しておきたいのが、90年代末当時に流行していたアダルトチルドレン言説である。
アダルトチルドレンとはアル中に育てられた人間が自分の子供にも暴力をふるってしまう現象の事だ。
だがこれが「親の教育のせいで大人になれないガキ大人」という風に俗流解釈されてこれが流布して問題を起こしてしまう。
米国で弁護士事務所が営業をかけて「自分が大人としてうまくやっていけないのは親の教育のせいだ」として親を訴える事例が続出したのだ。
元の意味では自分の問題行動が幼少期のトラウマにある事を発見して自覚し克服するのが目的になっている。
対して俗流では自分の人格の問題は教育のせい、と問題を固定化するのが目的化しているのだ。訴訟を吹っ掛けるのが目的なんだからそうなる。
さて小林の日教組被害論はどっちだろうか?後者であろう。そして小林は当時この言説を知っていたはずである。ビル・クリントンが「僕もアダルトチルドレンだ」なんて言ったニュースが流れたのだから。
まず最初は
1.主体性棄損論がリベラル教師らによって唱えられ受容されていた
これは既に言った通り。
就職面接対策がマナーや受け答え型の技術的なマニュアルから主体性探求型へと移っていた時期である。自分が何故この会社と職種に賭けたいのか、自分を探求して経験者が起業する時のような事を語るのを求めれた時代である。今の洗脳型ブラック研修のオリジンはこの頃にある。
格別に強度がある自分探しの経験をしたとアピールする為に東南アジアの奥地で死にそうになったエピソードを語る学生が沢山居た頃である。
日教組被害論が端的に奇妙で揶揄の対象となるのは経験で上書きされていないという事だ。普通は大学や社会での経験で上書きされて中高の頃の事などいつまでも覚えていない。
上書きされないのはレッドピルだからなのだが、それ以外にも当時は社会経験で上書きされないという条件が揃っていた。
当時の新卒就職率は大学でも5割程度である。高校卒なら殆どが就職できていない。
「学校の上書き」がされずに経験の類型を話す時に仕事じゃなくて学校での事で話してしまうような者が半分以上居たのだ。
みなバイトや派遣してるうちに社会が変わって何とかなると考えたが何ともならなかった。
小林はリベラル界隈で活動している時に薬害エイズ訴訟の支援をしていたが、菅直人が厚労大臣になり原告の請求是認して謝罪し一応の解決を見ても運動に参加した学生がいつまでも新たな課題に飛びつき運動から離れないので嫌気がさしてしまった。
運動で正義を追及する自分がアイデンティティになってしまうからである。
更に運動に参加した学生が一律同じことを言うようになる。戦後に天皇が存続しているのもおかしい、自衛隊が存在しているのもおかしい、と。
明らかに左翼運動家に「世界観」を吹き込まれているのだ。レッドピルである。それらのパッケージの全体性は自己のアイデンティティの保持の為に支持されている。これに「汚ねぇやり方だ」と感じるのは正当であろう。
こういう運動のイヤな面を見て嫌気がさして辞めたのに、その方法論を覚えて転籍先で援用したのだ。
世界観提示による実存囲い込みの方法もその効果も、経験が少ない若年者を囲うと世界観の保持の為に経験での上書きを避けるというのも知っていた。就職しないで運動を続けたいというのがこれだ。
異論は個々の方法には許されるが、世界観を構成する箇所への異論はNGだ。その世界は積み上げたものではなくてパッケージ全体性が担保されねばならないものでそれを棄損するものだからだ。
小林はこんな風に左翼の思想/行動的に拙いところの要点を教示されるなどで認識しているのにそれを後に右翼扇動に使うという事を沢山していて例えば橋爪大三郎が後に口の端にも上げないのは小林の転向の為ではない。自分が説明した事の悪用のせいだ。
まとめると、社会が安定した日教組衰退期にソ連が敵性を喪失した為に敵の乗り換え先としてテーゼとなったが世間では相手にされていなかった。左翼運動の方法を知る小林が若年者の実存囲い込みの方法をこのテーゼにコピーして実行したところ社会情勢がマッチして成功した。
日教組被害論者があり得ない条件を言うのでツッコミ多数で、いやあったんだ北教組は…などという話によくなっているが、日教組は実在するのはみな知ってる。
そうでなくて日教組によって自分の主体は棄損されて間違った世界を見せられていたというのが訴えたいことだったのだろう。あれはマトリックスに封じ込めるブルーピルだったと。
だから揶揄している人は実在を問題にしているのではなくて中高の経験をいつまでも語るおかしさを揶揄している。思想的な事を多少知る人はその日教組の存在は世界の全体性パッケージの外郭を保持する為のアプリオリな仮想経験だという事に気付いている。
ネットでの対話なら揶揄して終わりだが、身近に居る人なら「それに拘泥している間は経験を擦り合わせて積むことが出来ない」「自由世界の住民の自我は小傷が多いがそれで壊れたりしない」と忠告してくれるはずだ。
冷戦と社会党瓦解の影響で日教組が協調路線に転じたのが1995年頃なのでもう30年近く前なのだよ。その当時の中高生はもう40代半ば以上なのだ。
さすがに
たわわの影響ってのは実存のそういう被害の一件一件にすぐにあるものじゃなくて、そういう被害について危機感を感じないとか、見慣れていて何が悪いのかわからないとか、そういう創作物に影響された人が作ったものがさらに誰かに影響してその人がさらに作った作品とか、一件一件というよりはそれを「見過ごす社会」って形で緩やかに大きく影響する気がすんだよな
これ通したら完全に全体主義だよ…
さらに余裕のありそうな美人が次々「サイゼで喜ぶ彼女」やりだして
根がスリザリン生な俺はこうなると闇の生物側に肩入れし同情してしまう。
俺は大学とかにいるフェミニズムアクティビストは唾棄すべき軽蔑すべき吐き気のする敵だと思ってるけど
ネットに現れる市井のフェミニストは敵に扇動された気の毒な人達だと感じて憎む気にはなれない。
4℃やサイゼリヤ彼女に怒ったり侮蔑したりしてるネットフェミニストの実態が水商売や婚活の人であると言う分析がただしければ
怒りたくなる気持ちや困る気持ち、焦る気持ちと言うのは十分わかる。
そういう気持ちがヘイト的に吹き出た挙げ句、余裕のある人達の光のスクラムであしらわれる感じで押し潰されているのはいたたまれない気持ちになる。
そもそもサイゼ彼女に怒る人達の抱える本当の問題や不安はサイゼやオタクへのヘイトで解決することではなかったのに、フェミニズムと言う憎悪の思想がそれを歪めてしまう。
等身大の言葉がフェミニズムの軽率なテクニカルタームに置き換わって、不安な気持ちや悲しい気持ちが社会に対する憎悪と対決の姿勢にすりかわって、その人の本来の実存を置き去りにして闇属性の鉄砲玉に変えてしまう。
ネットフェミニストと言うのはそういうフェミニズムの悪辣で陰湿でポンコツな機構の犠牲者だ。
こんな糞みたいなシステムで利益や名声を得ているのは大学に籍を置くような上流アクティビストビジネスアクティビストだけで、扇動された人間はただただ生きづらくなってしまう。
仲良くサイゼに行くカップルやサイゼでネタ写真撮れる余裕ある女性と正反対に、どんどん社会や他者との適合が難しくなって人生ごと不幸で寂しい方向へ押し流されてしまう。
フェミニズムは社会を救わず、個人を救わず、弱っている人をヘイトを吐き散らして光のスクラムに成敗されるような闇生物へ作り替えている。
そうやって大勢の人を不幸に叩き込んで自分のわずかな利益や名声や承認に換金してうまくやっているつもりの上流フェミニストたち、お前らは必ず地獄に落ちる。
生きているうちに必ず報いは回ってくるけれど、死後があるならお前たちは必ず一番悪いところへ行く。
玉袋が男の娘Vtuberにタマとチン見せろと迫った問題だけど、
男の娘ってのは「少女のような外見をした少年」のことなんだけど、
文字通り、服を着た状態での外見は基本的には少女でしかないんだよね。
「脱いだらチンコあるじゃんで始めて成立するジャンル」であるわけ。
もともと玉袋ゆたかは男性の性的搾取を客体化するために生み出された、
つまり、玉袋の中では「男の娘は男性の性的搾取である」という思想があり、
見た目が「単なる少女でしかない男の娘」は「男の娘」足りえない。
しかも設定でドスケベを名乗ってるわけじゃん。
うーん、このアホ。
いや、すげーわかんだよ。
見た目が女で声が男の子なら男の娘が成立するかって正直すげー微妙なんだよ。
アニメとか見てほしいんだけど、男の子の声って基本、女が演じるじゃん。
コナン君は高山みなみ(女)だし、小狼君はくまいもとこ(女)だし、レントン君は三瓶由布子(女)なのね。
つまり非実在少年少女の世界において男の子の声ってのは女の声と何ら区別がない。
外面が女で中身も女だったらそれはもう男って主張してるだけの女じゃん。
だから結局「男の娘」が「男の娘」足りえるのはチンとタマが存在することが確認できた時だけなんだよ。
なので、俺は玉袋の
「男の娘」を名乗るんならシュレディンガーのチンとタマを明確に実在せよ
そのほうがえっちだし興奮するじゃん。
今Vtuber業界で最も知名度がある男の娘は「犬山たまき」になるんだけど、
彼は「18cmのバベルの塔を所持している」と公式設定にて明言されている。
なので俺は犬山たまきは男の娘Vtuberであると断言できる。
実際に演じているのは女であるのがわかっていても、だ。
世の中のすべての男の娘はチンとタマの実存を明言する必要がある。
男みたいな声の女。
女みたいな声の男。
ちげーんだよ。そんな口だけの足りねーんだよ。
いや単に今流行ってるVRがnot for meだったってだけの話なんだけども。
もうちょっと詳しく言うと、VRっていって俺が思い浮かべてたのは映画のマトリックスとか、一昔前のなろう小説によく出てきてたVRMMORPGとかみたいな、自分の体は動かないままで意識か何かだけを仮想現実の世界に没入させて、普段の自分ではありえないような身の軽さやなにやかやで色々な世界を楽しむ、って物だったんであって、自分の動きを他人に見せたいわけではないんだよなぁと気づいたという話。
ということでここより下は単なる確認なので特に読む必要は無いです。まぁここより上も読む必要は全然無いけど。
今日見かけたニュースだけでも、VRというと例えばこんな感じのニュースが出てきてた。
これらはVR世界における自分をよりよく見せる方法として、現実世界の自分の動きを取り込む形の技術だ。
つまり、カッコイイ動きでBeat Saberをクリアしたいなら自分がそのように動かねばならないし、可愛く首を傾げながら瞬きしたいならJINSのメガネをかけてそのように動かねばならない。
いやいやいやいやそうじゃないでしょ。俺はベッドに横になって頭の中だけで体を動かすとSAOのキリト君みたいな超絶スゲェ剣技が繰り出せるってのがやりたいんだよ。Devil May Cryみたいにコントローラをそれらしく動かしているだけでキャラクターとしては超絶スゲェ動きでバッタバッタと敵をなぎ倒している、みたいな事がしたいわけ。俺のクソみたいな腕の動きやら瞬きやら首の傾け具合とかを他人に見せたいわけじゃないんだよ。カッコイイ動きやかわいい仕草は俺がやるんじゃなくてシステムがやってくれないと駄目でしょ。
いやまぁわかるよ?デビルメイクライみたいなテキトーにコントローラをガチャガチャやってるだけでもそれなりにカッコイイ動きができるようになったとしても、他人に見せる事が前提になった途端に俺のような下手な奴よりも上手い奴のプレイの方がさらにカッコイイ事になるっていうか、そもそもそういう上手い奴の超絶プレイのプレイ動画は見られるだろうけれど俺みたいな下手な奴のプレイ動画は見られることはないって事は。でも俺は俺が体感したいだけで他人にそのプレイを見せたいわけじゃないんだ。単に俺がカッコイイと思うプレイをして、俺が楽しめればそれでいいんだ。
また、VRは仮想空間に自分が入っていくという体験が重要で、今のVR機器は目の位置と方向が現実世界の顔の向いている方向と一致していることや、手に持っているコントローラの位置が現実世界の手の位置と一致している事が没入感を与えているわけなので、その動きを無視して動かれると酔ってしまったりするって問題があるのはわかる。
でもさー、やっぱり俺が妄想してたVRってなんかそうじゃないんだよ。運動なんて全然やってない俺がゲーム内のキャラみたいにカッコイイ動きやかわいい動きができるわけないっていうかそれを俺がやってどうするんだよ。そういうのを実際の体をつかってやらずにレベルを上げたりアイテムを手に入れたり、訓練するにしても指先の動きでなんとかするだけでできるようになるのが楽しかったのであって、やっぱり俺が実際の体を使って表現したかったわけじゃないんだよ。それができるなら現実世界でもやってるよっていうか現実世界ではできない動きがしたいんだよ。現実世界での動きに縛られてどうするんだよ。
そういう方向では例えばゲームセンターにあるガンダムの戦場の絆みたいな奴はそういう方向っぽいよな。あれはモビルスーツのコックピットに入ってモビルスーツを操縦するって事になってて、それっぽい操作でそれっぽくモビルスーツが動いてカッコイイ攻撃とかを繰り出してくれる。
VRでやってるそういうのだと例えば最近やったのではIRON REBELLION(https://store.steampowered.com/app/1192900/IRON_REBELLION/?l=japanese)てのがあるんだけど、これは指先だけでメックの移動と攻撃ができるのでカッコイイ攻撃とかをやってくれて良さそうかなーと思ったけどすっげぇ酔うのよ。俺は10分位耐えながら遊んでその後3時間位は気持ち悪くて何もできなくなった。
なので、少なくとも現時点で存在しているVR機器を使った場合、俺の思ってる事をやろうとすると酔うって問題があって難しいだろうなぁというのは身にしみてわかっているというかわからされてる。なのでしょうがないんだろうなぁという感じ。
それで、そういう俺の思ってる事はやりづらいVR機器を使ってできる事で、楽しんでる人がいっぱいいるのが多分冒頭に挙げた「自分の動きを他人に見せるための仕組み」の方向であって、そういうのは俺が望んでいる方向ではないのだけれど、俺の望んでいる方向の物は現在のVR機器ではまぁ難しいだろうなぁというのはわかるし、その現在のVR機器で楽しんでる人達のための技術が色々と出てくるのは当然だしそういう方向にしろ発展していく事は喜ばしいと思う。どんどん進んでくれると良い。
けどなー。俺の期待してたVRってそうじゃないんだよなー。ということで、少なくとも現時点でのVR機器にまつわるあれやこれやってのはnot for meなんだなーと思ったよって話でした。まる。
レイシズムに限らず全ての差別構造の根底には、無知がある。それは「自分の所属しているグループが特別に素晴しいものだと主張」していることに他ならないから。
要するに知性がないからレイシズムを実施する。科学を表層だけさらうと「分類」が出来るような気がするから、それに従って分類をしはじめる。本当の意味での知性があるとこの世界に境界線なんてものは本質的にないことがわかるから、レイシズムを実施できなくなる。
この意味での境界線の主張は平和主義ではない。個々人を隔てる絶望的な境界線以外にこの世にそれはないという主張である。レイシストは知性が乏しいだけではない。要するにこの世界にたった一つの実存としてすっくりと立つ覚悟がないほどに幼稚なのだ。自身はなにもせぬままで、誰かと何かを共にしている幻想に縋っている。
たった一人、裸で生まれて、そしてそれをスタートに他者と生きていく覚悟のない幼稚で無知性な人間の言い換えがレイシストであるのだ。
君は国に属する人間ではない。君は君だ。君であることが最初にあり、その上部構造や共同幻想として国家は浮かんでいるだけだ。そこに自身のアイデンティティを一欠片でも依拠するのは弱者ですらなく、幼稚で知性に乏しい愚者だ。国家とは制度の総体である以上、それは制度以上の意味を持たない。そこに意味を見出そうとするのは、たとえば恋心のような下らぬ幻想である。
『文學界』2021年9月号に掲載された桜庭一樹「少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞の文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。
この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章を投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者の見解が掲載された。
この記事では総括として、両者の見解を検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭と鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリーの仕様でURLの掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。
両者の主張は、以下のように整理できるだろう。
桜庭:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。
鴻巣:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。
桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈の自由〟を奪」うことを挙げている。
一方で鴻巣は自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説の可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。
では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである。
鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品の創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である。文学の解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分が想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないのである。解釈は批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである。
鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解の文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣は見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。
繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ。私小説もフィクションだからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣が誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。
繰り返しになりますが、
「作品からの読み、想像であり、実際のテキストには書かれていないストーリーを、主観的な読みではなく実際にそう書かれていたように紹介する」
のは一線を超えていると思ったのです。
作者だからではなく、他の方の本でも同じように疑問を持ったと思います。
(この部分です) pic.twitter.com/vFmVBO6fhC— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。
この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授の日比嘉高(モデル小説研究のフロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在の人物をモデルに』と事実に立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実の事実」の問題を切り分けている。
この記事でご紹介いただいたのですが、わたしの原稿に〝介護中の虐/待〟は書かれておらず、またそのような事実もありません。わたしの書き方がわかりづらかったのかもしれず、その場合は申しわけありません。影響の大きな媒体であり、とても心配です。否定させてください。https://t.co/HdC6Cb8g7b— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 24, 2021
(強調は引用者)また今回は「自伝的随想」としてご紹介くださったこともあり、登場人物を離れ、実在の家族に言われなき誤解が降りかかることを危惧したため、わたしはこのように必死になって訂正をお願いすることになりました。それは確かに、評者の方には関わりのない事情ではありますが…(続) pic.twitter.com/8rixc3Ot4c— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭の実存にとって「現実の事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭はあくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである。飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家の動機ではなく、作家の根拠にフォーカスするべきである。この記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。
とはいえ、桜庭の見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。
今回の一件に際して、文芸時評の不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭もツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣も見解において「批評」という言葉を用いている。
だが、文芸時評は批評でしかないのだろうか? 文芸時評は英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル的特性があるのではないか?
文芸時評が新聞という巨大メディアに掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭は見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり、文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。
文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭は新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷の鳥取で一人暮らす実在の老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実の現象のレベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか?
以上の論点を踏まえて、時評担当者の見解を検討することもできるだろう。
桜庭の見解は冒頭、「私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身や夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家の藤田直哉が端的に指摘しているのでツイートを引用しよう。
「夫婦が深く愛し合っていたかどうか」を確定する根拠は、虐/待があったかどうかを確定する根拠と同じぐらい、作品のテクストにはないのではないかな。母親がそう言っている、語り手がそう推測したようだ、というところまでは書いてあるが、しかしそれが「作中の事実」かどうかはサスペンドじゃないかな— 藤田直哉@新刊『シン・エヴァンゲリオン論』河出新書 (@naoya_fujita) September 7, 2021
つまり、あらすじに書いてよいのは、「作中の事実」であるべきではないか? 今回であれば、あくまで一人の人物の視点に立って、「私の自伝的な小説『少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか。言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列がテクストに書いてあるとはいえ作中人物の「主観的解釈」なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか。
あるいは、そもそも「事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分は幸せだと信じ込みながらオンラインサロンの主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せな生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せは事実ではなく評価だからだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか?
最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。
Shin Hori
@ShinHori1
「女性は性的価値が高い」という命題がよく見受けられるが、これはただ単に「男性は女性を性的な目で見たがることが多い」という現象をもっともらしく言い換えただけなのでは?
なんとなく経済学部卒だろなと思い込んでたけどこのツイートで違うのがわかった。
nowa_s 女に本質的に備わってる価値ではなく、見る側が勝手に値付けしてるだけだよね。
2021/08/13
www
あのさあ
「価値」ってのは需要によって生み出されるの。勝手に値付けされたもののことなの。
こんなの学部一年生が学ぶことだし、別に経済学部じゃなくたって高卒だって考える頭がありゃわかる事なの。
BTS昔は全然売れてなくてこっぱyoutuberみたいなバラエティ動画投稿やってたよ。
いまと全然市場価値違うんだけどそれは彼等が別人に変わっちゃったから?
でんぷんを玉にして紅茶に入れた原価やっすい飲み物が突然デケエしのぎになったのはなんで?
それ以外の理由はねえよ。
この仕組みに反論出来るならしてみてよ堀先生でもnowa_s でも。
そりゃそうだよ。
「女性は性的価値が高い」はひっくり返せば「女性は性的需要が多い」だよ。
それじゃ当たり前のこと言ってるだけで何も言ってねえんだよ。
「大卒は労働市場価値が高い」は「大卒は労働市場ニーズが多い」だよ。
それはいたって普通のことで、この世の全ての「価値」はそうやって決まってんだよ。
これ、たとえ堀先生が昨日今日初めてハッとして気が付いた真理なのだとしても
別に習うとかじゃなくて社会で生きて働いてりゃ普通は気付くじゃん。
nowa_s 女に本質的に備わってる価値ではなく、見る側が勝手に値付けしてるだけだよね。
2021/08/13
こういうの本人に聞いてもモゴモゴ言って説明できずに下向いて黙っちゃうんだよな。
自分でも何言ってんのかわかんねえままなんかキレイっぽい言葉で包装してるだけのスカスカ概念だから。
堀先生がモテモテなのは堀先生の技能やステータスを好ましく見る人間が多いからだろ。
nowa_s自身の「本質的に備わってる価値」って何なのか自己紹介してくれよ。
需要が増えれば価値が増すからからみーんなたっけえ金払って広告を打って需要を喚起してんの。
「そのもの自体の本質的価値」なんてものが存在するなら広告費は使う必要ない。
「そのもの自体の本質的価値」を高めることにだけリソース注ぎこめばいい。
かつてそういう考えをする原価厨の太祖みたいなのがいたけどまあ間違いだったよ。
どんなに原価を注ぎ込んでても利用価値のないゴミなら誰も欲しがらないので価値はゼロだし、
利用価値があるものでもその価値がうまく理解されないならニーズが出なくて価値はゼロだし、
原価も利用価値もなくてもみんなが欲しがれば価値は高くなるんだよ。
なんでアホタレなのかってこれぐらいのことはちゃんと考えてりゃとっくにわかってるはずのことで
あんたらがよく考えもせずに偉そうな気持になって口からウンコしてるのは明らかだからだよ。
そして人間がよく考えてもいないのに偉そうな気持ちになるときってのは
b.「女性は性的需要が多い。」堀先生が看破した誰でも知ってるこの真理もまあ事実だろう。
なんせ同じこと言ってるだけだから。
おんなじ言い方を男性に当てはめるなら
これは男性の方が期待生涯収入が高いから …ではないのはここまでで学んできましたね。
男性に経済的庇護者としての需要を向ける女性がまだ多いからです。
性格とか家族とか学歴とか知能とか機転とか友人関係とか背の高さとか持病の少なさとか
あらゆることに「価値」はつくわけです。
そして一番キモい市場、最も人間の深くに分け入ってキモい値付けがなされるのはなんと言っても配偶者市場。
そもそも堀先生やnowa_sはなんでa「女性は性的価値が高い」を否定したかったの?
女性の性的価値が高いということを認めるのはなんか問題があるの?
たぶんだけど「女性は恋人や配偶者を探すときに男性よりはるかに楽やー」みたいな言説に対して反論したかったんじゃない?推測だけど。
あのね、
男性は極端に言えば相手と性交渉だけしてお別れしても成功なのよ。
でも女性は長期的で安定した庇護とか安心感とかを相手から引き出さないといけない。
だから配偶者募集に応募が沢山あったってほとんど蹴飛ばして最良を慎重に選ばなきゃいけない。
話にならん奴のエントリーをいちいちお祈りする事務コストもバカにならない。
だから性的価値が男性より高いことをもってただちに女性のほうが幸せだとかイージーだってことにはならない。
反論なんてこれだけだぜ?
この程度のことパッと反論出来なくて筋の悪い事実の否定方面に戦線を広げていくの、
控えめに言っても脳がかなり不調だと思うんだけど大丈夫なんですかね。
el-condor
このエントリの筆者は「経済学的価値」と自己承認に繋がる「価値」の識別ができていないのかな。この程度の解像度で世の中を見てて恬として恥じないのはある種の才能だと思う hoge gender
2021/08/15
あのねえ、堀先生やnowaがボヤボヤ~っとした思考でそんな感じのこと考えてんのはもちろんわかってんだよ。
そういうのはセルフエスティームとか自己肯定感とかいうんだよ。
一方、堀先生が反論を試みた「女は性的価値が高い」は、他者の介在する価値、市場を介した価値じゃん。
「女は性的価値が高い」は単なる事実だから否定しようがねーだろうよ。
「大谷のサイン入りユニフォームは価値が高い」と同じことなんですけど。こんなことにいいとかわるいとかあるか?
エルコンドル君堀先生nowaの頭ボンヤリ勢が言いたかったのは「に、人間には市場に乗らない価値があるんだあっ!」みたいなことでしょ?
別にそれには反対しないし興味もねーんだよ。それこそ当人が勝手に決めることだから。
だだし、セルフエスティームと市場価値はなんら関係ないんだから
「セルフエスティームを強調するために市場価値を否定しようとする」
という堀先生やnowaの反論は根本的に理路を間違えてるわけ。
ついでに「価値」という概念への根本的不見識まで披露したわけ。
女の性的価値が高いことを認めたままでも「女のゲームや実存がイージーではない」という主張はいくらでも出来るし、
現に手本を見せてやったわけじゃん。理屈扱うのが苦手みたいだからしょーがねーなーって。
俺の言いたいことわかるか?
お前らの主張の方向や道徳性にはなんも言ってねーし賛成も反対も興味もねーの。
ただ、お前らはだいぶ頭が悪いんじゃないの?
とそれだけを言ってんの。
cartman0
ずっと"市場"価値の話をしているし、堀先生が取り上げた「女性の性的価値が高い」は市場価値の話だろお前が大丈夫か。
何か違うってんなら具体的に説明できるはずだけど、こういうやつは「説明してみな」っていうと必ず下向いて黙っちゃうから聞いたげるだけ無駄なんだよね。
le_cinema
お二方の丁寧な言葉をバカにもわかるように訳すと「お前らみたいなブサが価値つける側にまわってんじゃねーよ!5万年早い!」ってことでは?なんで雑魚なのに男というだけで自分が評価する立場だと思っちゃうの?
いや堀先生もnowaも明らかにそんな話はしてないからお前がそれを言いたいお気持ちなら「ちょっと話それるけど私の気持ちを言わせて!」つってから自分のシャウトとしてそれを言えばいいじゃん。なんで人に迷惑をかける?
堀先生は「女性に性的価値があるという言説は誤りである、空虚である」みたいなことを言おうとトライしたんだけど、お前が言ってるのはこれとは全然別の主張だよね?
別にお前のミサンドリーにも賛成も反対もしないんだけど、俺の話も堀先生の話も理解する意志や能力がゼロっていうのは、もうコミュニケーションになってないよね。
たぶんミサンドリー陣営にとってすらおめーみたいなのは厄介者の足手まといだと思うんだが。言葉の理解から怪しいのは下っ端兵卒にすらなんねえ。
Outfielder
例えば、なぜ人を殺してはいけないのかとか、ホームレスや生活保護の人の命に価値はないんじゃないかとか言い出す人が出てきたとき、
そこでDaiGoに「人に本質的に備わってる価値とはなんのことですか?」と聞かれて答えらんなかったら醜態でしょう。
そこが不思議なんですよ。
これはあなたのことじゃないけど、
なんか自分が非常に道徳的で重要な正義の主張をしてるんだぐらいのすごい態度の連中がいるじゃないですか。
本当に頭が悪いし怠け者なんですよね。
それどうにかなんないんですかね。
duers 「奴隷はいいよな!高値で売り買いされて!」/弱者男性の言う価値が「男性が一方的につける値札」だということの指摘だよね。自分で高値つけておいて自分でキレられてもこっちは知らねーよ
「女性の性的価値」は弱者男性だけが勝手に値付けするのではなくて女性に欲望を持つ潜在消費者全て(男性にすら限らずレズビアン含め)の需要によって決まるよな。
そしてどのような価値も他者が一方的につけるものです。価値とはそういうものですって話をバカのためにクドクドと説明したんだよね。
さらには、女性の性的価値に限らず人間にはいろんな局面でいろんな価値がついています。あなたも間違いなくそのような価値を参照して消費することがあるわけ。
それがわかってないから頓珍漢な憤慨をしてるんじゃないのと。
quick_past
エルコンドル君が筋悪しと見なされたのかトップコメが入れ替わった。
(こいつがあたまわりーことは多分エルコンドル君にも理解できる。)
まず「価値」とセルフエスティームの話を混ぜこぜにしてんのは堀先生達の方よ。
だから彼らは「価値」を否定しようという頓珍漢な方向へ頑張っちゃったわけ。
ちゃんとものを考えてないし、いい歳こいて「価値」の意味すら分かってない。
その値札が気に入らないなら売らなきゃいいだけなんだから。
既に我々はみんなそうしてる。
男だっておんなじよ。
気に入らないなら売らなきゃいいだけ。
それだって「あなたの値打ちは私と釣り合ってます」という指値だよ。
みんなやってんだろこれ。
そんな単純で幼稚な話を一度も否定してないし
わざわざ「それに反対しませんよ」」って明言してあげてんだろ。
お前らは要するにもの考えるのがにがてすぎて文読むのもにがてすぎて
自分が何言ってんのかもわからなくなっちゃうし相手に何言われてんのかもわかんねえんだよ。
お前らへの究極のアドバイスはバカが無理してスペック以上のこと考えるのやめたらということだよ。