はてなキーワード: 鼓舞とは
めっっったに言葉では褒められないけど褒められたらその分嬉しかった
働くことへの知恵を教えてもらった
人への愚痴には耳を傾けず、どうすれば良くなるかという質問に対してはいつも真摯だった
素晴らしく優秀で本当に心から尊敬していた分、何が悲しいというと私がその人の足元にも及ばなかったこと
時間が有限にも関わらずいつもその人から学び続けられると思ったこと
その人の後任になれなかったこと
悲しいし悔しい
もっともっと仕事と真摯に向き合っていれば、とたらればばかり出てしまう
死ぬわけではないのだけれど尊敬する上司と埋まらないギャップに対して悲しくて泣けてくる
これから頑張ればいいのだけれど一体これからは何を目標に頑張ればいいのかわからない一旦分からなくなった
武士道など歴史上の人物をたとえにあげて、学ばせてもらいました
まさに働く武士だったのかもしれない
心が今は空っぽな気持ちなんだけど私はもともとその人のために働いていたわけでもないわけなので引き続き仕事を頑張る
今は頑張ろう!とテンションが上がったり
追いつけないし相談する相手がいなくなる、悲しい!の下がったりの日々
とりあえず心を落ち着けたい
思春期である。普通のプールに行くことを考えるだけでムラムラが収まらないのである。そんなさなかに、教科書や参考書の隅っこにビキニ姿の女性が踊っているのを見て、平常心でいられるはずがあるだろうか。
だいたい、カーニバル衣装のビキニのパンツ部分から下がっているふんどしというか前垂れというか、極限まで深くしたスリットみたいな、あれをみても平静ではいられない。たまにファンタジーものでもそういう名前がわからないけれどもふんどしというか、マーニャの踊り子衣装みたいなのがあるのだが、あれってめくったらどうなっているんだろ。鳥山明に聞いてみたい。
カーニバル、つまり謝肉祭とは、四旬節という物忌みの期間直前のお祭りであり、しばらくは肉料理が出なくなる。要するに遊ぶだけ遊んで翌日からは真面目にやる日、というわけだ。別の説によれば異教の祭りが起源であるのだが、どちらにしても現在ではキリスト教の暦と密接に関係している日である。ちなみに、この四旬節が明けて過ぎ越しが明けた日がイースター、復活祭に当たる。
ウィキペディアによれば、黒人と白人の音楽の混交から生まれた音楽・ダンスを指すそうである。もう少し詳しく述べると次の通り。
音楽としてのサンバはダンス音楽であり、19世紀の終わりごろブラジル北東部の港町、バイーア(現:サルバドール)で生まれた音楽が源流となった。当時のバイーアは、奴隷貿易によってアフリカから連れて来られた黒人が集められ、売り買いされた場所であった。その後、白人文化からの影響も受けながら1910年代に確立し、1930年代に普及と隆盛を迎えたそうである。内容も黒人の生活や人種差別から抒情的な内容も含むようになっていった。
ダンスとしてのサンバもまたバイーアに住んでいたアフリカ人奴隷の踊りが元となっていて、足や腰の動きを基本とし、ほとんど即興である。ポルトガルの文化と混交してリズムや踊り方が変化した。伝統的には音楽を演奏しながら周りで手を叩きながら輪を作って踊り、交代で人が中に入って踊るが、これをサンバ・ジ・ホーダ、サンバの輪といい、都会のサンバの進化にも影響を与えた。これは今や、ブラジルの文化的なアイデンティティとなっている。
現在のサンバショーでは現代の欧米のダンスを取り入れた振り付けだが、あくまでもサンバは基本的に即興の踊りが中心で、またその醍醐味であるそうだ。
なお、日本に初めてサンバが紹介されたときには知識が不足していたせいか、キューバのマンボと混同していたり、なぜかメキシカンハットをかぶっていたりと文化考証がめちゃくちゃで、冒頭に引用した語句のように、今でもこの誤解を引きずっている人は少なくない。マツケンサンバだってサンバとはちょっと違う。
Rio de Janeiro's Carnival Costumes Throughout the Years - ABC News(不幸にして画像はリンク切れ)
The History and Tradition of Rio Carnival Costumes - Bucket List Events
カーニバルの仮装はイタリアにその起源を持ち、その伝統はポルトガルにまで広まった。それが植民地のブラジルにもたらされた。誰が誰だかわからない、そういう楽しみであろう。
1930年まではブラジルの社交界の人々は平民たちの視線のなかで、豪奢な衣装や仮面を見せびらかして歩いていた。仮面は動物や悪魔の形をかたどったものや、イタリアに起源をもつ道化の顔もあった。
1930年以降、庶民もカーニバルに参加するようになった。しかし、当然のことながら高価な衣装は身に着けられないし、2月のブラジルは非常に暑い。そこで、明るい色を身にまとうことになった。カーニバルのパレードは1932年に端を発する。
そこから徐々に衣装の軽量化が始まった。1950年にはすでに男性は上半身裸、女性はビキニ姿になっていたことが確認される。水着のビキニが1946年に誕生しているので、非常に適応が早い。海以外でビキニ姿になったことを考えれば、全く持って革命的である。
1970年代になるとサンバ・スクールが組織化され、現代のように洗練され始める。この産業が衣装の豪華さを支えている。実際、テカテカビキニばかり有名だけれども、他のメンバーの極彩色の衣装は露出が少なくても見ていて楽しい。こうしたサンバ・スクール(エスコーラ・ジ・サンバ)は学校を名乗っているが実際は組織化されたダンスグループで、最大で4000人の規模にも達する。舞踏や衣装のスタイルに違いがあり、区別される。なお、ダンサーだけで4000人であり、衣装を準備する人やその他オーガナイザーは含んでいない。
また、同時期にサンボードロモ、つまりサンバを披露するためのエリアが作られる。ウィキペディアによれば、通常は、サンバ・スクールのパレードが展開できるほど長い空間を、観覧席が取り囲むような構造になっているそうだ。阿波踊りの会場みたいなものか。そして、リオデジャネイロのサンボードロモの場合、中央のパレード空間の長さは700メートルに及ぶとのことである。ブロコス、カーニバルのブロックもまた作られた。
現代では、ほとんどあらわになった胸に紐パン姿も散見される。英国のタブロイド紙がこうした乳首の露出やフェイクの乳首について記事を書いている。
今のところ、全裸は許容されていない。とはいえ、ルールを守らない人もおり、そのせいでサンバ・スクールが時折資格を剥奪されることさえある。そういう格好で踊っている人が見たければxvideosかpornhubをご覧いただきたい。野外で全裸になるのは露天風呂でもわかるように最高なので気持ちはわかるが、ルールは守りましょう。
Hyper sexual Carnival atmosphere has a dark side for Rio's women | The Independent | The Independent
ここで記者は、カーニバルのビキニの女性たちは過度に性の対象となっている、モノ化しているのではないか、と指摘している。つまり、パレードで疲れた男性たちを鼓舞するように休みなく踊り続ける半裸の女性、いわゆるボンキュッボンの「理想」的な体型で選ばれるサンバの女王たち。少年たちがサッカー選手に憧れるように、テカテカのビキニの女性に憧れる少女という構図。一見エンパワーメントされているようだが、実際は? しかも、カーニバルでは性暴力の数が圧倒的に増える。その場の雰囲気で強制されたキスだけでなく、強姦も含む。こういう空気を嫌ってか、カーニバルの期間は脱出する人もいるそうだ。
自分は、よその文化だから評価できる立場にはない。ただ、たとえば「理想」的でない体型の女性も選ばれたらもっと素敵になるかもしれない、と思うのだ。昨今、モデルの体型をやせ過ぎにするのはやめよう、という運動が起こっている。それに、いわゆる美人ではないしスリムではない女性が芸能界で活躍することが増えた。自分の好みではないが、とてもいいことだと考えている。貧乳でもいい、毛深くてもいい、ぽっちゃりでもいい。そういうメッセージが社会全体に広がることで、あなたはあなたのままでいいという空気を作ってほしい。あなたをあなたのままで尊重する、そうすることで暴力の少ない社会にしていきたい。
過度に性的な空気は似たようなイベント、ニューオーリンズ・マルディグラでも問題になっている。家族で過ごすイベントである側面もありながら、野外で全裸になる人も後を絶たないのだ。ブラジルから外れるので詳しくは述べる余地がないが、詳しくはウィキペディアを参照してほしい。
Child queen, U.S. stars to light up Brazil Carnival | ロイター
https://www.france24.com/en/20100215-controversy-over-child-performances-mars-rio-carnival]
あるいは、7歳の少女が躍る権利についても議論が巻き起こっている。子どもの権利を保護する団体が、彼女が性的に搾取されることを恐れたのだ。ハイヒールにビキニの大人たちのいる場はどうしても性的だし、40度にも達する気温は子供の身体に有害である恐れがある。同時に、踊りたいという子供の夢をかなえたい思いもある。日本でも、浅草かどこかで踊る小学生のビキニ姿をアップロードする者は後を絶たない。
ちょっと前まで子どもがすっぽんぽんで泳ぐのがかわいいとか言っていた時代だったかもしれないが、誰でも写真や動画が容易に拡散できるようになってしまった時代、そうもいかないだろう。僕たちは否が応でも自分の身体を性的だと意識せざるを得ないし、子どもが自分の身体を守るための性教育の必要性は高まっている。何も幼稚園児からセックスについて事細かに説明する必要はない。ただ、身体の特定の部位を覆い、むやみに他人と触りっこしないように教えて身を守れるようにすれば十分だろう。性教育とはセックスの知識だけではないのだ。
2月の祭りとしてはしないと思う。日本人は概して祭りが好きだし、海外の祭りを積極的に受容してきたが、イースターが定着するかどうかどうかという雰囲気であり、これ以上の祭りを受け入れるキャパシティは少ないのではないか。2月にはすでにバレンタイン商戦があるので、そこにねじ込むのは少々無理があるだろう。50年経てばパリピがホーリー祭りまでやり始めるかもしれないが。あるいは、8月の浅草サンバカーニバルや5月の神戸まつりのように季節をずらすかもしれない。大体ああいう格好をするのは単純に踊っているとめちゃくちゃ暑いってのもあるだろう。
私事だが、イギリス育ちの自分としては、日本に戻ってハロウィンやイースターがないのが当然だと思っていたし、寂しいとも思っていなかった。触れるとすればせいぜい、NHKの「えいごであそぼ」や国際交流の授業で言及されるくらいであった。ハロウィンやイースターを定着させようとする動きはごく最近のものだ。
それに反対するわけではないのだが、ハロウィンが終わって街の雰囲気がすぐにクリスマスになるのは風情がなさすぎる。米国ならクリスマスまでの間に感謝祭があるのでまだ11月を感じることができるのだが、日本ではそうもいかない。二十四節季を楽しんでいた先人のいる国とはとても思えないほどに大味だ。
商業主義との両立を考えるなら、11月にも何かイベントをやればいいのではないか。2月には豆まきとバレンタインがある。毎月2度のイベントをやれば、二十四節季めいていてまだいいのではないか。
今回はテカテカビキニが50年代にまでさかのぼることを示した。今後は、世界各国の祝祭の場における露出の自由、野外全裸、性的規範のゆるみについて調べるとともに、暴力を防ぐための対策についても調べていきたい。
ワンピース一枚、スカート一枚、欲を言えばカットソーかブラウス一枚とカーディガン二枚か、カーディガンとニットを各一。
後半飛ばしてワンピースとスカートとカーディガン一枚でもいいかな。
ワンピースをセットアップっての?ああいうのにしたらいいと思う。そんでカーディガン着ておく。
お見合いとか最初のデートは写真と同じ服か、カーディガンだけでも同じにする。
写真と服変えるにしても、最初のデートはとにかく毎回同じ服で行ったらいい。考える時間を省くんだ。どうせ相手にとっては初めて見る服だ。
頑張って着ていく服考えて行ったのにうまくいかないのめちゃくちゃメンタル削れる。
特に私別にフェミニンな服普段着ないから。だからシステマチックにする。
欲を言えば二回目のデートまで服固定にしたい。固定は同じ服を着ていくという意味ではなく「AさんとBさん、それぞれ最初のデートの服は同じ」って意味ね。
あと服の感じ変えたら「イメージ違った」って振られる話を複数見聞きしたので、二回目のデートくらいまでは写真の印象と揃えた方がいい。
写真と同じワンピースに違うカーディガンとか、カーディガンを残すとか。
写真と同じ格好で行くの抵抗有るなら約束取り付けるときに「分かりやすいように写真と同じ服で行きます☆」とか先に言ったらいい。親切でやってやってる感を先に押し付けるんだ。
あと最初の一二回くらいはプロにメイクしてもらおう。3000円くらいでフルメイクやってくれる。こういうとこね。
でもこれは良く見せるためじゃなくて、己を鼓舞して更に良く見せる投資です。
だいたいプロのお姉さん「これから婚活なんです」とか言ったらめっちゃノリノリでやってくれるし、メイクのコツとか教えてくれる。透明感とか乗せてくれる。
ゆりやんレトリィバァ似の私のことも石原さとみ村の一番のゆりやん似にしてくれた。
普段あんまりメイクしない人はそれも伝えたら「盛り過ぎないけど透明感があって可愛らしい顔」にしてくれる。これはほんとにやってもらった。
普段そんなの着ない人も一度その局地を目指そう。そんで自分と女子アナ、CanCam系を繋ぐ線上にある「自分に似合う可愛い綺麗系」を見付けよう。
遠いとこから近い方に手繰り寄せた方が楽です。地引き網だよ。
一歩一歩最果てを目指すのは辛いから、まず最果てまで行こう。
ただいつも服買う店でそれっぽい服探したらダメだ。
「そういう店」で「自分でも着れる服」を探そう。
「服なんてどうでもいいじゃない」って言う人多いけど、どうでもいいなら一度「大多数から好印象を持たれる服」を着たらいいじゃないか。
「服しか見てない人が来たら嫌」って言うけど、そんなの手早く切ればいい。あといい人はちゃんと「良く見せようとする努力」を汲み取ってくれる。
何においてもパッケージが綺麗なことに悪いことはない。
あと服の可愛さの難易度下げたいならデザインの難易度下げた分、襟ぐりにビジューがあるやつにしとけ。顔の回りキラキラさせておけ。
それだけで男は「女子アナみたいな服」って思うよ。たぶん。
あとどうせなら自分に似合うピンク探して着たらいい。出来れば上半身!
「スカートならまだ…」とか言う人いるけど、どうせ向かい合ってご飯とか食べてたら下半身見えないから。
ピンクが無理なら若草色とか柔らかい黄色とか。なんかとにかく上半身に自分に似合う優しい色とキラキラするやつ。
あと顔色よく見えるやつ。
服はレフ板だよ。
ワードローブを全部変えなくていい。写真とデート二回分だけ持ちこたえろ。
着回したら三回いけんだろ。
あとさっさと「普段もっと違う服着てる」とか告白しておけばいいよ。
とにかく最初期の間だけチャラチャラして世の中に迎合しよう。制服でシステマチックにな。
逆にここまで来て服が女子アナ系じゃなくなったら嫌だって男なら要らないから切ろう。スッパリと。
写真とか初対面の服は本で言うなら表紙です。
表紙が今風で手に取りやすかったら案外中身が難解でも手に取る。手に取って中を見てもらったら表紙と印象違ったけど中の方が好みに合うとかあるから。
中身ドグラマグラでも表紙が人気萌絵師だったら手に取る人いる。
読んでみたらクセになって新しい扉開いちゃう人いる!
僕だけのドグラマグラを手に取らせよう!
みんな婚活服で悩むのはやめよう。
まずは世の中に迎合して、お手本通りだけど自分に似合う服を探そう。
入り口だけキラキラして中見てもらえたらうまくいく確率上がる。まずは手に取らせるのが大事。
でもいつもと違うのストレスだからシステマチックに行こう。服よりもリソースを割いて拘るべき所がある。
服にアイデンティティを置いてる人は拘っていいよ。
※追記
反応してくれた人いた、ありがとー。
お察しの通りアラフォーの殴り書きです。
デブスのアラフォーだけど数年前に一年の婚活ののち結婚してるよ。
アドバイスのつもりはなかった。
増田より若くて可愛いい子が苦戦してるの見ると歯痒いとは思う。
上から目線に見えたらごめんね。
普段しない格好で気に入られても…って意見あったけど、見た目を良くするのはただのきっかけだよ。
あと具体的なブランドがないってのはデブスだから普通サイズの増田のブランド知らないんだ、ごめんね。
デブスの増田は組曲とか着たよ。新宿伊勢丹と池袋東武はデブの聖地だよ。
※再追記
何度も出てきてすまない。
重ねて言うけどこれは「選ばれるため」でも「好きでい続けてもらうため」の話でもないよ。
もっと手前の選択肢にするかしないかの足切りをされる確率を下げる話。相手の視界に入りやすい格好しようってだけ。
女の人も婚活アプリでトゲトゲのついた服の世紀末覇者みたいな人と、ちゃんとしたスーツ着た飯尾くんなら、飯尾くんとペッコリ45度する人の方が多いでしょうっていうだけ。
「男性受けのいい服」って考え方がキツかったら「お母さん受けのいい服」って考えたらいいよ。
世の中の中産階級お母さんが「今日の服可愛いじゃない」って言ってくれそうなヤツ。
多分男性受けとお母さん受けは近似値だと思う。
あとアプリとかの複数枚写真が登録できるところなら、普段のスナップも登録したらいい。
男性もちゃんとした写真の他にスナップ入れるのアリじゃないかな。友達と楽しく撮った写真は確かにおすまし写真より素の良さが出るよね。
メイクに関しては女性は分かってくれると思うけど「ナチュラルメイクが一番難しい」と思うの。
だからプロに頼むのは「ナチュラルで盛り盛りじゃないやつ」だよ。
付き合いは始めてから程なくして、大学二年生の夏に旦那が不調を訴え始め、検査の結果指定難病を患っていることがわかった。
初めに通った病院に専門医がおらず、対応もあまり良くなかったのもあって病気は悪化していった。そのころは薬もなかったので、治療の成果は芳しくなく、入院が続き、旦那は2年間の休学を経て最終的に退学した。
大学時代はデートもろくに出来なかったが、かわりに病室に通い詰めて語り合った。
正直付き合い始めたころはそんなに旦那が好きではなかったのだが、辛そうな姿をそばで見ているうちに情が沸き、旦那を支えようと決意が固まり、私の内定が決まった日にプロポーズして卒業後すぐに籍を入れた。
旦那は在宅で細々と働き、私は私で正社員として結構バリバリと働くようになった。まだ共働きが主流という時代でもなく、適当に働いて子供が生まれたら辞めようと思いながら生きていた私にとっては大きな人生の転換だったと思う。
子供は作らない方針で生活していたが、恥ずかしながら授かってしまい出産した。幸運にも不運にも、子供は一卵性双子でお互い実家から離れた土地で生活していた私たちにとって育児は難を極めた
旦那はそのころ一番病状がひどく半分ぐらいは入院していたのでワンオペ育児、プラスして旦那の手助けもしなくてはならなかったし、毎日が慌ただしく心休まる日はなかった
その頃は旦那の収入もほぼ無く、手当が出ないぶんシンママより厳しかったと思う
ただ、きつい時も旦那も子供も自分で支えなくてはという気概でなんとか自分を鼓舞して乗り切ることができた
子供が高校生になったころに、良い治療法が見つかり、それが旦那にとても合っていた。完治はしないものの症状はほとんどおさまり、普通に働けるレベルまで回復した
それが最悪の始まりだった
旦那は高卒であることやキャリアを積むべきときに伏せっていたことに凄まじいコンプレックスを抱えていたらしく、ネチネチと嫌味を言ってくるようになった
病気がなければもっと(女と)遊んでから結婚していたという風に言われたのもかなりカチンときた
在宅の仕事をやめて専業主夫になると宣言し、そのくせ以前より家事を手伝わなくなった
もともとうちの家事はほとんど息子とわたしの3人で回していてうまくいっていたので旦那が主夫になるのは正直誰も求めていなかった
更に、今までいくら相談しても聞き流していた息子の教育についても急に口を出し始め、気まぐれに進路に反対したり、あそこに行けここに行けと言うので息子たちも迷惑がるようになった
もともと旦那は細身で色白、儚い雰囲気の男性だったが病気が良くなってから食生活が変わりみるみるうちに中年太りをした
これが一番きつかった
失うまで気づかなかったが、わたし旦那のそれまでの容姿がドストライクでタイプだったのだ
ここまで語った一連の変化にわたしはすぐには気づかなかった
今は心が弱っているのだと思いずっと流し続けていた
ある時ふと気づくと、わたしの守るべき弱々しい夫は口煩いうざい中年オヤジになっていたというのが本当のところだ
そこからさーっと気持ちが覚めて、なんでこんなオヤジに尽くしているんだろうと思うようになった
旦那はわたしの中で完全に終わっている、完全に破局していると思う、が離婚に応じてくれない
そりゃそうだ。彼は職歴とろくにスキルアップしてない在宅ワークがちょこちょこしかない高卒の中年なんだから。今更捨てるのも可哀想だとは思う。だから別居しての強引な離婚には踏み切れない。が、もう別れて欲しいと思うのも事実だ
わたしも薄情な人間だと思う。病気の旦那を世話する自分が好きだっただけなのかもしれない。それで治ったら捨てるなんて無責任すぎる。
でも、旦那が病気でなければ私たちは結婚していなかったろうと思う。わたしが結婚したのは病弱な旦那だったのだ。今更治られても困る。旦那は今まで病気である負い目から萎縮していたのだろうと思う。思えば付き合い始めた頃は結構態度のでかいところのある男だった。
いっそ旦那が介護を要する老人になるまで我慢すればまた元の関係に戻るのだろうか。もう好きじゃないから出て行って欲しいなんていうのも酷いよなあ。
もう2週間ぐらい旦那を無視しているからか、旦那はしおらしくしてはいる。が、これを許すとわたしが無視→旦那が萎縮→私満足みたいなモラハラな気がする。いや既にモラハラなのかな。今までろくに喧嘩もなかったから喧嘩の仕方も仲直りの仕方もわからないし、もう前みたいに愛せる気がしない。こいつと添い遂げるべきかさっさと突き放して捨てるべきかわからない。何が問題って、旦那は私に必要ないってわかってしまったことだ。
みんな知ってる「めざせポケモンマスター」で行こう。
たとえ大変な中 苦しい中 寝れない中 低賃金の中 短納期の中 パワハラの中 セクハラ扱いの中(起訴)
なかなかなか大変だろうけど
俺はソイツで出世する(CEO)
色々あってありまくり
なんか気づいたらどうにかなった
いつもいつでも結果にコミットだぜ
出せない奴はクビで(そりゃそうじゃ)
いつもいつでも結果を出してる凄い奴もいーるー
あーなれないぞーなんかーすごいやつー
なれないぞーこんなんじゃお前らではムリー
とにかく具体性がない。そもそもブラックやパワハラを野放しにしようとしている。そのくせセクハラはセクハラ扱いという言い方で相手の自意識過剰のせいにしている。
結果とは何を指すのかが分からない。借りてきた言葉を使っているだけで中身がない。
現状を変えるという宣言だけで何かをした気になりビジョンを示さない。そのくせ取らぬ狸の皮算用で地に足のつかないままで自分の欲望だけを宣言する。周りに利益が還元されるイメージがなく誰もついてこない。
具体的になにをするべきかもなく結果を出せとだけ言う。そして出来なければクビと脅す。他人同士の雑な比較によって周りのモチベーションを下げる。
ネガティブな表現によりモチベーションを下げておきながら、自分では鼓舞したつもりになっている。なにより人任せな空気が全体から漏れ出ている
なんとなく漫然と不愉快に感じるのは
チョロチョロ言われてるように
寄稿されている方々の模型製作に対するアプローチの違いが許容できないといったような話ではあるけど
そこが許容できないのは
彼らとの階層差を感じその断絶からある種の差別意識を感じてしまうからだよね
本質を突いた苦言にならないし
もうこの時点で相容れない
むしろ何故そんなことで自尊心や達成感を得る必要があるのか?とさえ思ってる
いや考えたことも無いのかもしれない
模型製作なんて社会のヒエラルキー的にあまり高い地位におかれない人達がマジョリティの趣味だろ?
だからこそそんな認めてもらえない自分を慰めるため・許容してもらうために
製作物に各位それぞれの力を注ぐ
なのに彼らにはその原則を重要じゃないと軽視することをとっかかりにしている
社会から認めてもらっている人たちだけの考えでスタートしてるんだよ
認められるわけないじゃん?
良い大人になっても力を注いだ自分を鼓舞し・褒めてもらう必要がある幼児性が支える趣味だという部分を
勿論蔑ろに『見えてしまう』人側に100%の問題(問題という言葉は適切ではないけど他に見つからない)
があるんだけど
だからこそこの趣味で何かしらの旗を振りたい人は忖度する必要があり
実際忖度の結果『危うきに近寄らず』『黙して語らず』といった重鎮も居る
なのに
そういう配慮が嘘でも全く無い
彼らも自分たちのクラスタがマイノリティであることは把握してるんだろうけど
そうでない人の神経を逆なですると
少しも考えてない?気が付いてない?のだとしたら
こんなじゃそちらを向いてくれる人は
だから日本の左翼と韓国の左翼はストレートに韓国を持ち上げるという方向で一致できる。
厳密に言えば朝鮮民族と国家(北朝鮮か韓国か)は違うけど、日本の左翼はあまりこだわらずに持ち上げるから上手くいく。
ジンバブエ、リベリアのように自国の多数派が共有する被害者性をもとにして民族や人種を鼓舞する国なら、左翼とマッチしやすいのではないだろうか。
終戦の日は、Y君の命日です。
高校時代の同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。
Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。
しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。
Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校の受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。
入学式からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップの公立高校を落ちてきた人間でした。
はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。
端から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。
入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。
第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ校合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。
その時の僕にはまだ、そんな理由で勉強をはじめようと思う理由を理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意に入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。
とは言っても、その後Y君が試験のライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラスの文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラス二クラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。
交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。
彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街に引っ越してきたので、同じ中学校の出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えます。しかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。
Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いています。しかし、同じクラスのテニス部員から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。
Y君と同じグループのテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦のメンバーに入ることはなかったそうです。
ときに一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活の練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。
僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。
Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。
高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強のノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活が休みになってY君が加わったことが何度かあります。
Y君が、自分の勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間の発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間の発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者の発言に賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。
僕らはみな自分に合わせて勉強のスタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。
僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語の勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題を毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習を英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間は文法を勉強していた方が都合よかったのです。
そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法の問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。
時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベルな英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。
学年上位の彼女の場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。
すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベルの問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。
試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。
Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法・勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分に必要な勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。
高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験室から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ、模試のたびに奪い合うのです。
事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑の眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。
勉強をしたからテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位で一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。
正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。
僕は、努力の方向性を間違える人間は愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間を軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑の対象でした。「三年の夏に部活を引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。
当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分を鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。
みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学だから、日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部二学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命は早慶、国公立大学」
Y君が目指したのも、早慶の文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格は絶望的なので記念受験だったと思います。
日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専を第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベルの大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。
先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学に合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力の甲斐あって志望校に合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベルの大学です。
高校の卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館で勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。
僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分の精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。
僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。
Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専の文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学の教育学部に合格したのも少なからず影響があったと思います。
Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。
Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法中レベルの大学に手応えを感じていたそうです。高校時代の担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専の合格は決まっていました。
しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専の手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専の入学一時金を払わなかったそうです。
かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪、二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイで変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後のメールには、そう書かれていたそうです。
苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間だけが、成功を評価できます。しかし成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。
三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています。
同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。
二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察に通報したそうです。海上保安庁と警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。
沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。
暗く塩辛い海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。
人生の遠回りを許さない日本の空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分の責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。
彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。
彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。
こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。
今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れます。しかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。
実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれた田舎の風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。
助けて欲しい。
やりたいことやれる会社に2年前転職して、最初は何するのもやりがいあってやる気に満ち溢れてたけど、今は何するにもつらい。
〇原因(なんとなく自分で予想してる部分)
①やりたいことはやれてるが、キャリアが見えない
→役職としては固定して決まっておらず、ビジネスサイド業務の広い範囲でプレイングマネージャーとして働いている。でも、何かに特化しているわけではないので、所謂器用貧乏になっているように感じる。
→自分がこのまま何にも特化できないまま、キャリアを歩んでいくのが怖い。でも責任があるから何かに集中させて欲しいなんていえない。
やっている事業自体は自分がやりたいことだけど、自分の能力が追いついていない、伸びていないと感じる。そしてそれに対してどう対策すれば良いか分からない。
→これを言ってしまうと元も子もないが、正直こう感じてしまう。自分は事業の数値含めた管理を任せられているが、トップダウンで決まった目標が途方もなさ過ぎて達成できる見込みがない。でも数値責任は私にあって、大きく未達する見込みがあると詰められる。つらい。
自分なりに色々考えてはみているけど、どうやっても今の予算だと数値達成できない気がする。
→みんなの前では立場上頑張ろうと鼓舞する側にまわっているが、内心やれるはずないと思いながら苦しんでいる。土日も仕事のことがずっと頭にあって、心から休めない。こわい。
→土日も常に仕事のことで何かインプットなりアウトプットしないと、ダメ人間になっていく感覚が強くて、1日だらけてしまうと強い自己嫌悪に陥る。
自分はこういう仕事に向いていないだけなのか。やりたいことをさせてもらってる分、贅沢な悩みだと思うけど本当に毎日辛くてどうすれば良いかわからない。
働きたくない。
在宅の時は朝から晩まで家から出られないし、昼休憩も取れない。
今の職場は安定しているけど激務だし、自分が前にいた職場と比べると責任でメンタルがやられる割には給料がそこまで高くない。
仕事の内容が難しい。
内容が難しくて理解に時間がかかる。理解できてもそれの良し悪しの議論にはついていけない。
自分は世間一般から見るとお世辞を言っても無能ではないが、周りの歴が長く頭もいいため相対的に見れば無脳である。
助けを求めることが能力として苦手な領域なので、上に助けを求められず下に仕事をうまく振れず結局たのまれるとつっかえせなかったり、見過ごすとやばいと気付くと自分で抱えて全てギリギリになってしまう。
在宅も相まって、一人で家で大変になっている。
ひとつ一つに対する理解が疎かになり、やんわり注意される。だけどそれでも自分がやらないと、誰もやってくれない(と思う)(以下無限ループ)
上司はもっと働いていてとても面談を申し込める雰囲気ではない。
業務調整を含め決定権は全て上司が握っていて、相談したところで何も決まらないからだ。
辛い。
明日もまたギリギリになったタスクで注意を受けることがわかっている。
同じ部署で、ほとんど大きな仕事をしておらず、言われないと何もしない人がいる。
そういう人を見て、羨ましいとおもう。
簡単で小さな仕事はミスする可能性も低いし、ミスしても怒られないことも多い。
自分の仕事を半分くらい渡したのだが、やるきがないのか天然なのか、何故か渡した仕事が自分に全て返ってくる。
いっそ無神経でいたい。
何にも気が付かず、言われるまで何もしないでいたい。
でもそれは自分のの労働者としてのプライドが許さないのと、取り返しのつかないことになった時に怒られるのが怖い。
書いてて思ったが、自分が最も恐れている「怒られる」というのはパワハラのそれではない。誰かに迷惑をかけて謝ったり、ちょっと注意されることに怯えているみたいだ。
働きたくない。
在宅の時は朝から晩まで家から出られないし、昼休憩も取れない。
今の職場は安定しているけど激務だし、自分が前にいた職場と比べると責任でメンタルがやられる割には給料がそこまで高くない。
仕事の内容が難しい。
内容が難しくて理解に時間がかかる。理解できてもそれの良し悪しの議論にはついていけない。
自分は世間一般から見るとお世辞を言っても無能ではないが、周りの歴が長く頭もいいため相対的に見れば無脳である。
助けを求めることが能力として苦手な領域なので、上に助けを求められず下に仕事をうまく振れず結局たのまれるとつっかえせなかったり、見過ごすとやばいと気付くと自分で抱えて全てギリギリになってしまう。
在宅も相まって、一人で家で大変になっている。
ひとつ一つに対する理解が疎かになり、やんわり注意される。だけどそれでも自分がやらないと、誰もやってくれない(と思う)(以下無限ループ)
上司はもっと働いていてとても面談を申し込める雰囲気ではない。
業務調整を含め決定権は全て上司が握っていて、相談したところで何も決まらないからだ。
辛い。
明日もまたギリギリになったタスクで注意を受けることがわかっている。
同じ部署で、ほとんど大きな仕事をしておらず、言われないと何もしない人がいる。
そういう人を見て、羨ましいとおもう。
簡単で小さな仕事はミスする可能性も低いし、ミスしても怒られないことも多い。
自分の仕事を半分くらい渡したのだが、やるきがないのか天然なのか、何故か渡した仕事が自分に全て返ってくる。
いっそ無神経でいたい。
何にも気が付かず、言われるまで何もしないでいたい。
でもそれは自分のの労働者としてのプライドが許さないのと、取り返しのつかないことになった時に怒られるのが怖い。
書いてて思ったが、自分が最も恐れている「怒られる」というのはパワハラのそれではない。誰かに迷惑をかけて謝ったり、ちょっと注意されることに怯えているみたいだ。
初めてのゲームはゲーセンのムシキングで初めて当てたカードは光っているオウゴンオニクワガタだった。
アニメもよく見ていた。キャラクターより大きいリアルな昆虫が戦っていたのは今思い返してみると、
そんなアニメの主題歌がみんな大好きKiroroが歌う“生きてこそ”だった。
子供の頃はいい歌だなー程度に聴いていたが、今聴き返して歌詞がとても深い。
こんな話を今回したい訳ではない。
ネットを漁ればニュースや追悼の声などたくさん挙がってくるが、やはり好きな俳優が亡くなっただけであって悲しい。
地位も名誉も持っている素晴らしい人でもその個人にしか分からない悩みなどはやっぱりある。
“自殺は逃げ”という人はいる。自分もそう教えられて育ってきたが、個人的にそうは思わない。
人は死にたくなる瞬間なんて山程あり、それを選んでしまう時だってある。
わからないけどわかるよ...春馬...。
でも、生きないと。親からもらった命を全うしないと。
まだ舞える、舞えるぞ、自分。
生きねば、生きてこそ。
そうめん大好きで袋でちまちま買うのも面倒になり、3月末に化粧箱で9kg買った。
家族が糖質オフなどで手を出さす、ほぼほぼ一人で食ってる。さすがに飽きてきた。
まだ1kg程度あるので鼓舞のため自分が好きだった食べ方を書き出す。
・つけタイプ
めんつゆ+ごま油+ラー油/ラー油は飽きてから味変のほうがいいかも
ごまだれ/市販のもの、めんつゆ+ごまドレッシング どちらも好き
釜玉風
油そば風
たいそうめん(金目鯛の煮付けを煮汁ごとかけた/甘め)/金目鯛の煮付けは缶詰を使った。
焼き肉の塩だれ/惣菜の塩油鶏というのをかけて食べたらおいしかったので。
冷やし中華のつゆ/何かしら具材はいるけど、めんつゆに飽きたときの代打になる。
・その他
冷製パスタ/カッペリーニ代わりにする。トマトベース・バジルベース
味噌汁に入れる
ソーメンチャンプルー/肉野菜を炒めて、ゆでた後ごま油をよく和えたそうめんを合わせる。味付けはだし・塩昆布・醤油・塩・こしょうで適当。身も蓋もないが沖縄そば版が好き。
とんこつラーメンにする/ばりかた!
サーモンといくら/オリーブオイル・バジル系ソルト めんつゆ版レシピも有
麺を油多めで焼いてあんかけ焼きそばにする
こう書き出してみると思ってたよりバリエーション少ないな。今度はポン酢と豚肉の和風パスタ風で食べよう。
==========
【追記】
今日は残ってた惣菜で、五目あんかけ焼きそば風にしました。うまい!
面倒くさがりなので焼き系統のレシピがまだ薄い気がする。マーボーそうめんやってみたい。
ブコメで教えてもらった鯛そうめん、食べたいが自炊するには敷居高いなと思ってたけど
トムヤムクンペーストはまだ買えていない…。カルディいったら絶対買う。
残りもののつゆだく野菜炒めにめんつゆ足して、あったかいそうめんにかけたらうまかった。
にゅうめんだとこの時期熱すぎるけど、つけめんあつもりみたいなほどよいあったかさ。
木箱に入れたまま使ってたけど1番底のほう、虫に食われてしまった…。
まめに小分けにしたほうがいいな。夏が終わる…
あと、底が見えて気づいたけど、この増田書いた時点でたぶん3kgは余ってたわ。ごめんね。8kgは完食予定だから許して。
ブコメとか
今まで「そうめんに飽きるのは食べる側のバリエーションが少ないせい」だと信じていたので、バグったんだと思う。
そうめんは飽きない。食べる側のバリエーションが少ないだけだ。
>カレー
おいしい。おいしいけど、「ご飯・うどんで食べたかった」感も正直感じる。
書き忘れてたので足した。いなばのやつおいしいよね。つけダレにすると合う!うまい!
>冷やし中華風
盲点だった。うまそう。
「今日飲み会になった…」というLINEが夫から来たときに思うこと(苦悶の表情のスタンプとともに)
「なった」ってなんやねん「行くことにした」だろうが
「ごめん今日生理になった…」とか「お父さん会社クビになった…」みたいなノリで言うな
自分の意思とは関係ない抗えない自然の摂理・世の中の流れみたいな表現してんじゃねえ
もしかしたら気乗りがしない飲み会かもしれない、けど最終的に参加することを決めたのはお前の意思だろうが
そんなに行きたくないなら風邪気味とか用事あるとかなんか断ればええやん令和やぞ
僕は行きたくないけど…行かないといけない…かわいそうな僕・・・・みたいなニュアンスなの?
それ普通に気持ち悪くない?いい年した大人が自分のプライベートの決定権を赤の他人に握られてる感すげえ情けなくない?
このLINEなんて返すのが正解なの?「大変だね…頑張ってきてね…涙」とでも言えばいいの?
そんな鼓舞しないといけないような悲しい飲み会逆に止めるだろ、どんなパワハラ上司が控えてるんだよ私が闘ったろか
なんか色々書いたけど普通に「飲み会行ってくるわ」でよくない・・・??
ちなみに夫は飲み会に行きたくないわけではなく、普通に楽しく帰ってきます。
妻に申し訳ないと思って無意識に残念なニュアンスで書いてくれてるのかもしれないけど
https://anond.hatelabo.jp/20200226010709
コワーキングスペースに休会届を出し、自宅にこもって仕事を始めてから1ヶ月が過ぎた。もうずっと長いこと在宅勤務をしてきて、気分転換にコワーキングでも行くかー、と契約した翌月にもう休会である。頭を抱えたし、いつまで引きこもりが続くのかと気が遠くなったけれど、辛い気持ちもいくらか薄れてきて、いまは淡々と仕事をこなしている。
これはただの日記だから他人の参考にはならない。けれども俺は他人の生活を参考にしたいので、ブコメやトラバに在宅勤務の知恵が集まってくれればうれしい。
たまねぎを大量に買っている。粗みじん切りにしてホットクックに投入し、10分ほど炒める。しゃもじでかき混ぜたら、低温調理モードで90℃にして16時間、これでメイラード反応が進む。もっと短時間で大丈夫かしれないが、よく分からない。意識が低いので、とにかく放置で作る。
大量の飴色たまねぎが出来上がる。ジップロックに入れて冷凍庫へ。なるべく薄く広げて凍らせると、使うときに折って取り出しやすい。たまねぎを生のまま保存するより場所をとらないし、ミートソースを一瞬で作れるし、バターとコンソメですぐにスープも作れる。
その他、根菜や肉や魚のことも書きたいが、料理の話だけで何千字でも書けてしまうので省略。
直接会っての打ち合わせ依頼はすべて断っている。すべてといっても今月は1件しか来ていない。今このタイミングで会いましょうと言ってくる人間は、将来的にもなるべく関わらないほうがよい。
とはいえ、営業どうしようかな……と思っていた矢先、いくつか新規の問い合わせがあり、ビデオ会議やメールでやりとりしている。おそらく受注は決まるだろう。対面ではコミュニケーション能力の低さが露呈してしまうが、メールならば文章力で勝負できる。ピンチをチャンスに、みたいな言い方は大嫌いだが、それはそれとして仕事は全力で取りに行く。対面で上手く話せない人間にとって、いまが好機なのは事実だ。
ビデオ会議は嫌いなので最小限にしたい。意識が低いので嫌なことは徹底的に避ける。相手の顔を全画面で見たくないのでウィンドウをとても小さくしている。向こうもべつに顔を見てほしくないだろう。自分もあまりカメラを注視せずに、メモを取ることに注力する。
朝起きて食事をとってから、そのまま仕事を始めてはいけない。少なくとも俺は無理だ。3分や5分でも、必ず散歩してから机に向かう。この儀式だけで頭がだいぶ切り替わる。
日中も2~3時間ごとに外へ出る。何も用事がなくとも自転車で近所をぐるりと回ってくる。スマホで花や若葉の写真を撮ってSNSにアップする。自宅から半径300メートルの範囲内に、被写体は意外とたくさんある。スマホのカメラはとてもマクロ撮影に強いから、地面スレスレに置いて草花や虫を撮ると楽しい。虫目線になれば世界は広大になる。ミニ三脚を買って、動画を撮るのも良いだろう。だんだん散歩じゃなくてカメラの話になってきたので以下省略。
規則正しく仕事したいが、できていない。早起きして遅れを取り戻そうとすると、子どもが一緒に起きてしまう。食事を作ったり一緒に遊んでいるうちに9時を過ぎて、さらに、なぜか昼になっている。午後からようやく仕事を始めるが、子どもが乱入してきたり、おやつを作ったり、夕食を作ったり、ほとんど進まないままで夜になっている。
子どもたちが寝てからようやく仕事を始め、午前2時や3時に力つきて眠る。進捗はニャオスだが、取引先にニャオスといっても通じない。不規則な勤務ながらも深夜や週末に頑張ってなんとか帳尻を合わせる。
小学校が休校になって2ヶ月、子どもは完全に勉強に飽きている。学校からは大量のプリントの束をもらったが、毎日これに向き合うのは苦痛だろう。それでも2時間はやっていて偉いなと思う。
出費を増やしたくないが仕方なくスマイルゼミを始めた。ジャストシステムといえばATOKや一太郎や花子の会社だから、変なものは作らないだろうと思い、他サービスとは比較せずに決めた。今のところ楽しそうなので多分続ける。学年が上がるごとに月会費が上がっていくのが辛い。どこかで離脱するかもしれない。
タブレット学習は視力悪化が心配なので、15分のタイマーをかけて定期的に休ませている。そういえば自治体によってはYouTubeで授業配信とか始まってるけど、長時間の視聴はかなり辛そうだ。毎日PCに向かいっぱなしの俺が言っても説得力はないのだが。
時々、勉強に行き詰まった子どもが奇声をあげる。ワイヤレスイヤホンをつけて、その上からイヤーマフを付ければ何も聞こえない。こちらも仕事を中断すると再開が難しい。子どもの勉強はあとでまとめて見る。
家族の共用スペースは毎日ちゃんと掃除している。自分の仕事机は気がつくと酷いことになっている。子どもが読んだドラえもん、生協のカタログ、手作りマスクの材料、カメラ、レンズ、菓子、空き缶。これらを定期的に片付けないと仕事に集中できない。とりあえず視界に入らないように、椅子の後ろ側にすべて持っていく。片付けたとはいえないが仕方ない。週末にまとめて掃除する。
福満しげゆき「妻に恋する66の方法」を読んでほしい。そして福満さんのツイッターをフォローする。「妻~~」という気持ちになる。他にもKindleアプリで恋愛漫画を読んだりして、恋する気持ちを燃え上がらせるのが良いんじゃないかな。まったく無責任なことを俺は書いている。他人の参考になるかどうかは知らん。
非常に個人的なことを書くと、俺は自分の妻を見ていると心拍数が上がるくらい大好きだ。よくふざけて妻に「結婚してくれ!」と言っている。世の中がこんなときだからこそ恋愛は大事だ。もちろん恋愛対象が二次元でも良いのだろうし、三次元のアイドルでも、猫でも良いのだろう。俺は最近、コワーキング近くの野良猫に会いに行けないことが寂しい。
平日に仕事をして土日に休む、というリズムには拘らずに、臨機応変に対応したほうが良い。家族が精神的に行き詰まっているように見えたときは、仕事を放り出して一緒に散歩に行く。週末に混んでいる場所でも、平日の午前中はいくらか空いている時間帯もある。逆に、週末の外出はなるべく避ける。
在宅勤務になれるまでは、曜日の感覚がなくなって辛いかもしれない。けれども慣れてしまえば、曜日にこだわる理由があまり無い。平日に休み、週末に仕事をしても構わない。そのためにも電話やビデオ会議など同期型のツールはなるべく使わず、メールやチャットなど非同期型のツールを使ったほうがいい。スケジュールを自由にするためだ。
前回の記事にも書いたが、電話には出なくていいし、チャットの返信なんか翌日で構わない。これはフリーランスの場合なので、会社員の在宅勤務の場合には難しいかもしれない。申し訳ないけれど、上手い方法を見つけてほしい。
今は大丈夫でも、将来どうなるかは分からない。厚生労働省「生活を支えるための支援のご案内」がよくまとまっている。このPDFをプリントアウトしておくとよい。
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000622924.pdf
子どもの休校で休んでいる人々には、小学校休業等対応助成金を利用した有給休暇(賃金100%)があるはずなのだが、実際どうなんだろう。手続きが遅れているという話も聞く。
将来の収入がどうなるか分からないのは、フリーランスにとっては今までの日常と変わらない。俺の場合は2~3ヶ月先のスケジュールが決まっていれば良いほうだ。そんな状態で何年も過ごしてきたので、正直なところ収入途絶への焦燥感は薄い。もう駄目だと思ってもなぜか乗り切ってきた。ただしこれは正常性バイアスにもなりうる。
今後もしも何ヶ月も仕事が途絶えてしまうと、さすがに苦しいだろうなと思う。政府からベーシックインカム的なものは欲しい。
前回、2月末というタイミングで「生存戦略」の記事を書いたのは、3月がとても自殺の多い時季だからだ。俺自身はべつに死にたくはないが、季節性鬱のために冬はまったくダメで、その辛い時期を自分が乗り切るために書いた面もある。冬を乗り切ったはずの今、世間はさらに辛いことになっている。
こんなときに、意識の高い人々が発する力強い言葉は、まったく何の支えにもならない。関係性の薄い話に聞こえるかもしれないけれど……以下、たとえ話。
たとえば、もののけ姫に糸井重里がつけた「生きろ。」というキャッチコピーがある。これが弱っている人の支えになるとは思えない。「生きろ」と言われて鼓舞される人々もいるのだろう、それは否定しないけれど、絶対に届かない人々もいる。意識の低い俺のような人間にはまったく何も届かない。
それよりも、青山真治の映画「ユリイカ」の台詞「生きろとは言わん、死なんでくれ」がずっと心に残り続けている。青山真治がもののけ姫を意識していたかどうかは知らないが、俺は、そう受け取った。
死なないことを目標にして生きるのは意識が低いとしか言いようがないし、実際、俺は苦手なことから逃げてばかりの駄目な人間だ。でも世の中がこんなことになり、何よりもまず「死なないこと」が、いまは立派に評価されうる。だから誰もが「死なないこと」を第一の目標に掲げて乗り切ってほしい。
なるべく、ふざけて書こうと思ったのに、大真面目な話になってしまった。にゃーん😺😺😺