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満寵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
満 寵(まん ちょう、? - 242年3月)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将、政治家。字は伯寧。兗州山陽郡昌邑県の人。子は満偉・満炳・満氏 (司馬榦の妻)。孫は満長武・満奮。『三国志』魏志「満田牽郭伝」に伝がある。
目次
1 生涯
1.1 酷吏として出世
1.3 呉との攻防
2 三国志演義
3 脚注
生涯
酷吏として出世
身長は8尺(約190cm)あったと伝えられる。18歳の時に県の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物は、二度と乱暴しなくなったという。高平県令を代行した際、督郵張苞(張飛の子とは別人)の横暴を見てこれを逮捕し、その場で拷竟(=拷問致死)した上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話を持つ。
その後、曹操に仕えた。曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為は曹操に大いに賞賛された。
楊彪が逮捕された際、荀彧や孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操は楊彪を赦免した。
これらの事からわかるように、満寵は于禁と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人から疎まれることはなかった。
官渡の戦いの時期には、袁紹の郷里である汝南太守を務め、袁氏与党の軍を滅ぼし、農耕に従事させた。
曹操の荊州征伐に従い、曹操が帰還すると奮威将軍を兼務し当陽県に駐屯した。
孫権が国境に攻め入ると、曹操は満寵を召し還して再び汝南太守とし、関内侯の爵位を与えた。
後に、曹仁の参謀として樊城に駐屯した。219年、劉備軍の関羽が攻めて来た時は、救援に来た于禁ら七軍が洪水により壊滅し、樊城も水没して崩壊しつつあった。ある人が曹仁に降伏を進言したが、満寵は「山の水は引くのが速く、この状況は長くは続かない」と反対した。曹仁は満寵の意見を良しとした。徐晃の援軍を得て関羽が撃退されると、満寵は安昌亭侯に進封された。
呉との攻防
曹丕(文帝)の時代には揚武将軍となり、三方面から呉を攻撃したときも、それに従軍した。呉との江陵での戦いで功績を挙げて伏波将軍に任命され、新野に駐屯し仮節鉞となった。半年で曹真・夏侯尚・徐晃・張郃・文聘らとともに朱然と交戦したが、戦死者も数多となり、江陵を攻められなかったので撤退した。また、曹丕の南征に従って、敵の夜襲を見破り散々に打ち破ると、南郷侯に進封されたが、最終的に魏軍は呉に敗れた。224年には前将軍に昇進した。
228年、曹休・司馬懿・賈逵が揚州・荊州・豫州・雍州・涼州の五軍の指揮を執り、石亭・江陵・濡須東関に三方面から侵攻した。満寵は賈逵の軍に胡質達と共に監軍として従軍し、武昌を目指し進撃していたが、揚州方面の軍の指揮を執っていた曹休が孫権の計略にかかり大敗したため、犠牲者も数万人以上となり、敗れている(石亭の戦い・「賈逵伝」[1])。また、司馬懿や張郃らも江陵を攻め落れずに退却した。
同年、曹叡は濡須東関に賈逵・満寵らを命じて再び攻めてきたが、陥落させることができずに負けた[2]。
曹叡は呉・蜀漢に対して完全に専守防衛に行い、賈逵の死後に豫州刺史を兼任し、曹休の死後に都督揚州諸軍事となった。揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛兵千人を率いていく事が許され、その他一斉が不問とされた。
230年には征東将軍となった。冬に再び孫権が合肥に攻め寄せる気配があったため、兗州と豫州の軍を召集する事を上奏し侵攻に備えた。孫権が撤退する気配を見せたので、こちらも撤退するよう詔勅が下ったが、満寵は孫権の撤退は偽装と読み、引き続き備えを怠らなかった。孫権は10日ほどしてから再び来襲したが、合肥を攻められなかったので無事に撤退した。
231年、呉の孫布という武将が投降を申し入れてきた。王淩がこれを出迎えたいと申し出たが、満寵は投降を偽装と読んだため、王淩に自重を求めた。偶然入朝する用事ができたため、留府長史には王淩が兵士を要求しても与えてはならないと厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍に僅かな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせた。王淩は呉に敗れ、孫布の夜襲により兵の多く失うことになった。
満寵と王淩はこれ以前から対立しており、満寵が召喚されたのも、王淩の息のかかった者が満寵を老いと疲れにより耄碌していると讒言したからであった。満寵と目通りした曹叡は、満寵が壮健なことを確認できたため[3]、任地に返そうとした。しかし満寵はこのまま朝廷に留まることを願った。曹叡は満寵を馬援・廉頗に準え鼓舞した。
232年、呉の陸遜が廬江に侵攻してきた。部下達がすぐに救援に赴くよう勧めたが、満寵は落ち着いて対処すれば良いとした。軍を整え、陽宜口まで赴いたところで呉軍は既に撤退した。
233年、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済がこれを弱気な作戦であり、味方の士気を削ぐことになると反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法の道理を引きながら築城の長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。建設に莫大な費用がかかることもあって、合肥城ともども廃れていった。
同年、孫権が合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったため、敢えて上陸しようとしなかった。しかし満寵は、孫権は武威を振るっているので、必ず陸に上がることに違いないと判断した。伏兵として歩騎兵を6千用意したところ、果たして孫権は上陸したため、伏兵により百人の首を斬った。
234年、孫権は十万の軍勢であると呼称し合肥新城に攻め寄せてきた(「明帝紀」)。蜀漢の諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)は孫権に呼応して(「満寵伝」)、二十万の軍勢であると呼称し祁山に攻め寄せてきた。合肥の魏軍が苦戦に陥り、これを恐れていた満寵は合肥新城を放棄し寿春へ撤退する作戦を願い出たが、曹叡に拒絶されている(「明帝紀」)。満寵は、合肥新城へ救援に赴き、数十人の義勇兵を募り、松と麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払った上、さらに曹操と孫権の甥孫泰を射殺した。張穎達とともに力を尽くして戦ったが、呉軍は依然として頑強に猛攻した。魏の中央大軍が迫ったので、孫権は大損害を受ける事を避けて、曹叡の援軍が到着する前に撤退した(合肥新城の戦い)。
235年春、孫権は江北に兵を送り屯田を始めさせた。満寵は、収穫の時期に屯衛兵達が各地に点在し、陣が伸びきったのを見て、これを襲撃すべきと判断した。また各地の県長に軍を率いて東上させた。さらに各地の屯衛を撃破させ、穀物を焼き払った。詔勅により軍功が称され、鹵獲品は全て将兵の恩賞とされた。
曹叡が没し曹芳(斉王)の時代になった238年3月[4]、老年のため中央に召喚され太尉となった。家には余財がなかったため、詔勅により特別に物資が下賜された。加増による領邑は9600戸になり、子と孫2人が亭侯とされた。
子孫の満偉(子)・満長武(孫)・満奮(孫)もまた、身長が8尺あったと伝わる。満偉は人品に優れており衛尉まで上り、満長武は満寵の風格を有していたという。しかし、司馬昭に疎まれて殺害され、父の満偉もまた失脚し、平民に落された。満奮は満偉の弟の子であり、やはり満寵の風格があったという(『晋諸公賛』)。西晋の時代に尚書・司隷校尉となった。
また、満寵のもう一人の子満炳は別部司馬となった[6]。
三国志演義
小説『三国志演義』では、劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となり、楊奉配下だった旧知の徐晃を曹操陣営に引き入れることに成功するなど、物語の初期においては弁舌の士という描かれ方がされている。
かつて忘れ物キングと呼ばれるほど忘れ物が多く、成績表の「忘れ物をしない」の評価は常に「がんばりましょう」な私だったが、成長し、チェックリストに持ち物を挙げ、確認するようになってから忘れることは減った。しかし肝心な何かを失念する癖は治らなかった。歯医者に行ったことのある皆さんはお分かりだと思うが、歯科では施術中、唇が荒野の如く乾燥する。それを潤すためにはリップクリームが必要だが、このような、前もってリストアップすることが困難な、一見関連の無いものに限っては十中八九忘れてしまうのだ。そして本日、祖母の家に来たが、またまた大事なものを家に置いてきてしまった。それは胃薬である。
祖父母の家——それは孫に大量の食物を食らわせる機関である。揚げ物、肉、寿司のジジババ3連パーティコンボをまともに受ければ、翌日はお茶漬けしか食えぬ。大量のアブラギッシュな食い物を大皿で目の前に出されれば、思春期でもない限り危機感を覚えても仕方あるまい。しかし、これを無碍に断れる孫など存在しないだろう。少なくとも私は断れなかった。優しい祖母の「いっぱい食べな」に首を振れるわけがなかったのだ。
「今日ステーキ買ってきたから」と慈愛のこもった笑みを見せる祖母。覚悟はしていたが胃の中がぐるぐると回る感じがした。5時頃、夕食を食べ始めるか聞かれ、あまりにも早すぎる戦闘開始時刻に動揺する。1時間後にしようと説得し、なんとか時間を遅らせた。そして時は来た。老後の貯蓄をこれでもかと投じた肉塊が目の前に現れたとき、度肝を抜かれた。肉の量が2人分なのである。普段ステーキを食べることはない(普通そうだろう)私は、ステーキ一人前はこんな「広さ」だったかと首を傾げた。皿からはみ出たステーキにはバターが載せられている。この量自体はそんなに多くもなかったが、テーブルには「追いバター」が入ったタッパーが置かれていた。何度見ても、付け合わせのキャベツが萎縮するほどデカい。しかし、いつまでも眺めているわけにはいかぬ。意を決して口に含む。すごい。感嘆が口から溢れ出た。柔らかい。肉の質だけではない。繊維が肉叩きによってほぼ全て断ち切られている。ステーキソースは黒胡椒ベースでシンプルだが、これがなんとも言えず肉の旨みを引き出していた。「これあんたのお父さんが大好きだったのよ」と、現在に至るまで反抗期な父親が唸るほどもある。美味い美味いと言いながら口に運んだ。それでも、約一人前を食した頃から異変が起き始めた。胸の辺りがつかえる感触がする。胃もたれであった。脂が多い。肉汁を逃さずたっぷりと含んだ肉塊は、口内でじゅわりと脂を放出する。適量以上の脂質を体内に取り込んだ私は、ナイフの動きを少しずつ鈍らせていった。しかし、残して祖母を悲しませたくないという気持ちでなんとか胃袋に押し込んだ。あともう少しだ。四口分に切り分け、ゴールは目の前だと自分を鼓舞する。その時であった。「ねぇ、私の半分食べない…?」やはり祖母はグラムを間違えて買ってきたらしい。彼女も苦しそうにステーキを切り分けていた。そんな祖母が、私を見て半分貰ってくれないかと懇願し始めたのだ。正直、もう限界だった。十分目を越していた。しかし、ランナーズハイもとい、イーターズハイに陥っていた私は余った肉を受け入れた。私は食べた。そして皿が空いたとき、出された緑茶を飲み干して、深く獣臭い息を吐いた。長い戦いだった。だが、残ったのは達成感などではなく、ただ一つ、強烈なもたれ感であった。
ソファにずんと座り、胃薬を忘れたことを深く後悔した。もうしばらく肉はいい、もう食えないと思った。私の消化力は牛並みにゆっくりだが、それなのに胃袋が一つしかないのだ。明日はきっと消化不良でトイレに閉じこもる事になるだろう。明日の事を憂慮し、私は食後の眠気で微睡みながらこの文章を書こうと思い立った。
この後、祖母から胃薬を貰った。病気がちの彼女が飲んでいる薬だから、さぞかし強力だろう。しかし、失敗とは痛い思いをするから改善しようと思うものだ。今日の気持ちの悪さを戒めにしなければならぬのではと頭の片隅で思いつつも、結局苦しさに耐えられず、薬を飲み込んだ。
まずは、投票された方々お疲れさまでした。
バトルの結果はもちろんのこと、番組が中間発表のような通夜にならないことを祈るばかりです。
今回が私にとって初めてのバトルシーズンでしたが、色々と思うことがありました。
物語の性質上、勝敗を決めなければいけないのは仕方のないことだと思います。そしてファンがH歴にさながらいるかのように物語へ関わることのできる投票システムはこのヒプノシスマイクというコンテンツの醍醐味だと思います。
とはいえ、AKB商法と揶揄される手法は如何なものでしょうか。
1st DRBのCD購入合戦で色々と意見が出ていたのに、2nd DRBでは更にパワーアップして帰って来たことには驚きました。
ライブ投票は知る限り複数アカウントを作成して投票している方はいませんでしたし、そもそも1票あたり一番値が張ります。ここで重ねるよりは次のCD投票に回した方がよいと考えた方も多かったのではないでしょうか。
続くCD投票も、CDという物に対して対価を支払うとおまけで投票権が付いてくる、というイメージなのでまだ理解出来ます。投票権を抜く為に二桁、三桁を積んでCDは破棄、というのもどうかとは思いますが、物に対しての支払いだと理解しています。
ただ、VRバトルは少し違いました。
VRバトルとは言いますが、VR3視点、平面3視点の合計6視点のチケットがそれぞれ1100円程で購入できます。
中間発表が直前だったこと、3種類の投票方法の中で一番安価なことも関係して、界隈が阿鼻叫喚とした地獄絵図になっていました。
中間発表の結果を受けてこのまま逃げ切りたいディビジョン、逆転を狙うディビジョンがいるのは当たり前のことだと思います。
しかし、具体的な数字を伴う中間発表を直前に行ったのは本来最大6視点に対する対価を受け取るところを、複数アカウントを作成させてより多くの利益を得ようとしてのことだったのではないかと勘繰ってしまいました。
アカウント複数作成方法や1チケットあたりの単価を抑えるコツが流れてきたり、何人が何票入れれば追い付けると鼓舞する人がいたり、投票ツイートはステルスがいいか否かの論争が起こったり、ディビジョン応援の非公式ハッシュタグが作られたり、険悪な空気に当てられて一時的に、或いは完全にSNSアカウントを閉鎖する方がいたり。
これをお祭りと前向きに捉えられている方もいらっしゃるとは思います。身近にもいるので、それは否定しません。
しかしながら、CDとは違い、実質投票権に対して金銭を支払って購入するこのVRバトルは如何なものか、というのが私の感想です。購入したその人の意志だから口を出すな、と言われればそれまでなことなのですが、公式が中間発表及び締切日当日にセルフリツイート含めて何度も投票を促して来るのは煽りにしか受け止められませんでした。もちろん、チケットだけ買って投票し忘れていたという事故を防ぐためのやさしさからのツイートだったのかもしれませんが、ついつい邪推してしまいます。
中には何十のアカウントを作成したという方、クレジットカードが止められてしまった方がいたということも聞きました。
油田をお持ちの方なら痛くも痒くもない出費かもしれませんが、一般的には大金の部類に入ると思います。来月の明細を見て卒倒されませんように。趣味で使うお金の範囲であったことを祈るばかりです。
余談にはなりますが、AKB商法と揶揄されていたCD投票ですが、ヒプマイもAKB48も同じレーベルでしたね。
そして今回のVRアプリ、インスピックスワールドのプラットフォーム総監修に秋元さんの名前が挙がっています。
何かの縁だと割り切るしかないのでしょうか。したくないですけど。
ぐだぐだと長くなりましたが、私はこのバトルシーズンでヒプマイの洗礼を受け、想像以上に疲れてしまいました。
公式に文句言うならファン(狂信者)ではない、と言われそうですが確かにその通りだとも思えます。かぶれライトオタクだったということでしょうか。
もしかしたら明日の発表会後、このジャンルからは足を洗っているかもしれませんし、推しディビが決勝に進出して現金なオタクとして貯金を始めるかもしれません。
なにはともあれ、この金の殴り合いによる泥試合はもうやめて欲しいです。
https://anond.hatelabo.jp/20210502175148
そらデギンだって可愛がるよ。手に頬ずりさせちゃってさ。ほんとガルマは坊やだな可愛い。
当時のお姉様方がシャアとガルマで興奮する様子は目に浮かぶよ。
なんだよ「これがキミの宮殿だ」って。即席おしゃれ貴族を建築したつもりなのかシャアは。
ガルマ、可愛い。でも優しすぎる。あまちゃんすぎる。あまりにも坊やだ。軍人なんて向かない。
そんでもメンタル弱そうだし論文書けなくて泣いてそうだな。可愛い。
可愛いからアイドルにしてもいいけど自分の人気がちょっと落ちたらパフォーマンスに影響しそうだしかわいそう。可愛い。
シャアとシンメ組ませたら活き活きしそうだけどシャアが突然卒業した途端にパフォーマンスが不安定になる。可愛い。
まあでも演説で鼓舞するの割とうまいし、血筋に甘んじず努力してがんばり屋さんだよね。可愛い。
ガルマをどうしてあげたら良かった?
飛び飛びで1st見てたから死ぬことは知ってるけどさ、どうしてあげたらガルマも私らも幸せになれたんかな。
ん~可愛いなあ。
前提として、以下を読みました。
1. 元記事 https://nuc.hatenadiary.org/entry/2021/03/31
2. chokudaiさんの返信 https://chokudai.hatenablog.com/entry/2021/04/01/115755
3. nucさんの謝罪(?) https://nuc.hatenadiary.org/entry/2021/04/02
ふだんはインターネットのあれこれについてROM専ですが教育と教育倫理に携わる者の端くれとして3の記事に対し、このような方が教育を大声でかたることの危険を感じたため筆をとった次第です。
私は教員→ソフトウェアエンジニアとして数社→公教育ではないとある教育機関で勤務、といった経歴にあり、大学で学ぶ程度の教育学と小中高領域の教育に関しては多少通じています。ちなみに務めた会社にGoogleは含まれず、競技プログラミングについてはソフトウェアエンジニア時代にちょっとかじった程度で歴史やコミュニティに詳しいわけではありません。
1の記事についても賛同・異論含めていろいろあるのですが、そちらは各個論点についての意見が異なる程度の話ですので割愛します。なお、両者の知り合いでもないので通りすがりによるネットの怪文書程度の位置づけで結構です。
いきなり教育の話から逸れて恐縮ですが、謝罪慣れしていない方がやりがちな失敗がいくつもあり、謝罪文として看過できない点をいくつか指摘します。
教育哲学・児童心理などを学んだり活用する立場にある私にとって、トラブル対応や謝罪について考え実践する機会は山程あるのでその経験から思ったことでもあります。
他人のためを思ってやったことが相手に対して失礼だったとき、傷つけたとわかったとき、「そんなつもりはなかった」と言い放つことがどれほどひどいことか、私は見てきました。
ハラスメントやそれらにまつわる謝罪で最も悪手の1つです。間違えた側にできるのは一切の言い訳なく謝ることです。
https://note.com/tm88817/n/ne5025239f31a から私が肝要と思っている節を引用しました。
この文章がタイトルに示されるような謝罪文であるならば、この一点においてすでに重大な間違いを犯しています。
余談ながら、謝罪の本質を中学生ぐらいの子どもにそのように教える機会があります。経験上、成績がよく普段は問題を起こさないが内実プライドが高く誤り慣れていない子どもは「そんなつもりはなかった」「相手が勘違いした」といった言い訳をする傾向にあります。私の個人的な体感ですので一般化はできませんが。
これについては、意図せず失礼なことを書いたとお詫びしたいと思うと同時に少し背景の説明と本来の意図をご説明させてください。
先述と同様です。失礼なことを書いたと自覚しているなら本来の意図の説明は不要です。
背景と意図を説明するのは「自分に過失がないと確信しており、誤解を解くために誠意を尽くす」場合です。過失が誰にもなくても誤解やすれ違いというのは生まれるものですから、そのときは真摯に伝え直すのみです。
私は、このけんちょんさんのために仕方ないと思って記事を書いたのですよ。本当に面倒で書きたくなくて、他に書くものもあり、ツイッターで書こうかなと宣言して自分を鼓舞までしたのに、2ヶ月以上かかりました。
nucさんがchokudaiさんを不快にさせる文章を書いたことについて謝るために、矛先を向けさせるような形で第三者を巻き込む必要もなければ、あなたの事情を説明する必要もありません。
また、自分を鼓舞までして2ヶ月以上かけて書いた事実があったとして、謝罪を受けた側に何の意味があるでしょうか。過失を避けるように努力したのであれば法的にも情状酌量の余地はありますが、「努力をしてやったことだから引き起こしたことの罪が軽くなる」、なんてことはないのではないでしょうか。
言いたいことはたくさんあるのですが、「教育者として避けてもらいたいこと」に焦点を絞ります。
結論だけ言うと、これだけの悪手を悪意なく行う人に、教育者として後進の育成に関わってほしくないと感じました。成功者だけでなく被害者が生み出されることを危惧しています。直接指導でなくとも、技術力を活かして別の形で関わって頂くこともできるのではないでしょうか。
そりゃそうじゃないですか、「競技プログラミングをする」という表現は当時はなくて、「プログラミングコンテストに出る」と言っていたわけです。だから、競技プログラミングといえば、自分たちが大学生の頃の集まりを指すわけです。
発端となった1の記事では田舎初段といった言葉を用い、まさにそのことをご自身で説いておられたかと思うのです。
特に後者の「競技プログラミングといえば、自分たちが大学生の頃の集まりを指す」は少なくとも私にはまったく自明ではありません。ある程度客観性を持った事実なのかどうかを確認するためGoogleで「競技プログラミング」について検索をかけてもnucさんと同じ解釈を見つけることはできませんでした。
5歳くらい歳が離れると一部の言葉が通じなくなることがあるのは、少し前に「アンチ」という言葉で強く実感したことがあります。これもそうなのでしょう。
唐突に、。穿った見方をすれば、今回のコミュニケーションの失敗の原因を年齢差に帰しており、自身には過失がないといった主張に読み取れます。
歳が離れると一部の言葉が通じなくなることは、年の離れた相手の教育に携わっていればどうやってもわかることです。
ですがこれを理由にしてこちらから対話を閉じたり、「言ってもわからないだろう」といった態度をとるような方に教育を声高に語っていただきなくないです。
私がかつてドラゴン桜に対して抱いた印象を思い起こさせます。東大に入るのは「かんたん」、かんたんには但し書きのカッコが付きます。
ただし適切な素地があり適切な対策を十分かつ継続的に行えた場合、です。場合によっては家庭からの適切なサポート、障害やハンディキャップを持っていないこと、も条件に含まれます。
1の記事で以下のように述べられており、大学院に行くことが人生の選択肢にない人の存在にショックを受けたとありますが、そのときに培われた想像力を今一度働かせて頂ければと思うのです。
まさか戦後生まれで大学院に行くことが人生の選択肢にないことがあるとは思わなかったので、私は本当にショックでした。30を過ぎるまでこれにまったく気が付かなかった自分自身への怒りで、視界がおかしくなっていました。
とある医学部教授から「読んだよー。文章はいいけど、お前が卒業生をひょいひょい適当にエンジニアにすると教授会で問題になることがあるから、するんだったら出来の悪いのにしてよね。いいね。ほんと頼むよ。特にそこにいる生徒会長みたいなのはだめだから。」ということなので、今後は、あらかじめ「出来が悪いかを問い合わせる」約束をしてきました。
ちょっとした怒りが湧きました。
今後nucさんに面接対策を依頼し、OKをもらえた学生は医学部教授が出来が悪いと認定した医学部生になる、ということとなります。
このような文書を公開し、残し続ける限り、nucさんの生徒・元生徒が目にする可能性があります。
教え始める前にせよ後にせよ、もし私がnucさんの生徒としてこの一文を見たらと思うと激しい動悸がします。
この一文をどんな思惑があって追加したのかわかりませんが「諸事情により今後は医学部生の生徒を取ることを控える可能性がある」程度で良かったのでは。
「かわいそうなことに、りりあんさんは、いかれた3人の模擬面接官が今まで何をやっていたんだと慌てふためいたことにより、2週間のリアルタイムアタックを宣告され、無理やりクリヤーさせられました。コスパがよかったですね。でも、こっちの胃までおかしくなるから真似しないでね。」で終わるのですが、これだけ書いてもぜんぜん広まらなさそうですよね。そこに、フィロソフィーと教育関係の問題意識の話を突っ込むとこうなります。
1の記事における教育関係の問題意識の話については首肯できる箇所もあり、志の高い方という印象を受け共感もありました。しかしながら1の記事で持ち込まれた教育関連の話が、自身の記事を広めるための方便・道具であったことをここで暴露しておられます。
自身の教育論を手段として使われることは主張自体の価値や正当性を毀損するものではないですが、3の謝罪文の端々にあらわれる不味さから、教育を声高に語らせてはいけない方だという印象に修正されました。
特に教育と一言に言っても指す領域は広いことを認識されておられない点。アカデミックな領域についてはnucさんは私などより遥かに広く深い見識をお持ちなのだと思いますが、それが全てであるかのようには誤解されたまま教育問題をバズるための方便として喧伝することは事実認識を歪めることにつながります。
以上が教育関連で私が主張したいことです。
■基本戦略
個人的に冬と夏は体が栄養を欲しがるので春にするダイエットの成功確率が高いです。
激しい運動はぱっとみ体重が落ちるのだけど、その後の空腹感がやばいので今回はやりませんでした。
■食事量
朝食をご褒美タイムにして、肉とかデザートとかはそこで食べました。ご飯一杯と一汁一菜。いわゆる一般的な朝食と同じ量にして、一日の活動エネルギーとしました。
それ以外におかずを少し。例えば焼き肉なら3枚くらい。シュウマイなら2個。鯵の干物なら半分くらい。米は食べない。
お腹はすくけど、明日の朝食べる!って自分を鼓舞して我慢する。
ちなみに外食も何度かしたけど、基本一人前という食べ方はせず、いつもと同じくらいの量になるように調整した。
そもそも外食の一人前って体重横ばいどころか絶対に増えるんだけどどうかしてるよ。
■運動指針
朝夕の通勤時、1駅分徒歩に変えてそれぞれ30分のウォーキングで筋力の低下をカバー。
ダイエット前から習慣づけていた朝一での5分間の体幹トレーニングも欠かさず。(腹筋、背筋、プランク、腕立て、テーブルつかって懸垂など曜日でメニュー化)
どうしても増減に一喜一憂あるけど、トータルで下がっていくグラフを見ると頑張ろうって思える。
■目標設定
その結果5kg減ってたという感じ。(体内の消化物が少ないから1kgはリバウンドするはず。)
■注意事項
とにかく気をつけることは、拒食症にならないように注意すること。
食べる量を管理することはとても大事だけど、間違って少しくらい食べすぎたことを後悔してはダメ。
その時生命活動に必要なエネルギーを欲していたんだと考えて、精神的に余裕があるときに食事量を削る。
いわゆるバイオリズムに逆らわないということ。
無理せずストレスにならないギリギリのラインをどこまで攻められるかの勝負。
そういう意味で、体重を目標とせず期間を目標にしたのは正解だったと思える。
日数ならひとまずゴールまでの残りがわかりやすいから、途中でゴールが見えなくなって不安になることがなかった。
■所感
・扁桃腺腫れて食事できなかったからそのまま10kgダイエット
最大体重85kgまで行ったり来たりして、最近は70kgをキープできていたけど、去年のコロナで5kg太った。
過去のダイエットはそれこそ筋肉量が目に見えて減ったので、今回はそうならないように基礎トレーニングを欠かさなかった。
■総括
明日以降はいきなりリバウンドするんじゃなくて、徐々に食事量を戻しつつ今後は食事とか生活習慣とか見直して、とにかくこれ以上太らないように注意します。
免許合宿を経験して、俺には絶対無理だとわかった。教習所を3日目の朝にやめた。マニュアルじゃない。オートマだ。
普段と違う環境でやったことのない機械操作を、事前練習がテキストのみでやれとか無理ゲー。
いや出来るやつがいるから無理じゃないんだろうけどなんでみんな出来るの?
しかもしくじったら人が死ぬ。あるいはケガする。乗ってるものも壊れる。交通の迷惑にもなる。キチガイ一人と遭遇するだけで学んだこと全部おじゃんになりかねない。むしろ俺がキチガイとなって他人を台無しにしかねない。あんなもんどうやって使いこなすんだ……
坂道発進もサイドブレーキ(だっけ?)を引くときに持ち手のボタンを押すのか押し込むときにボタンを押すのかまったく覚えられなかった。引くときも押すときもボタンを押せばいいと思ったが、「スイッチは引くときだけ(押すときだけ)でいいよ」と封殺され、できなくなった。
サイドブレーキに限らず、他の諸々もその場で教わった後、また別のことを聞くといつの間にか忘れてしまっていた。
一個教えられたら直前のもう一個を忘れる時点で俺は運転以前に色々なことが向いていないとわかった。
何あれ、マジで……取得資格は普通自動車免許のみ。とか底辺の人間のプロフィールでよく使われてるけどあんなもん動かせる時点で相当器用だろ。わけわかんねえ。底辺以下だよ俺。
教習中、俺は教官から怒られる内容に何も納得できなかった。ついさっき言ったんだからもう忘れるな。的なことを言われても忘れるもんは忘れる。忘れないように忘れないようにと気を配っても「忘れないようにしよう」と念じたことしか覚えていなかった。
厳しくされるのも当たり前だと思う。普通に人を殺せる乗り物を扱う資格を、二週間ちょいで取らせるのだからそりゃあ厳しくしないとダメだろう。俺が教官だとしても厳しくする。
何がダメだったんだろう。二週間という日程なのか、島根なら人いないだろうし路上教習も余裕だろうとタカをくくって関西から来たことがダメだったのか。あるいは俺の知能か、根性か、認知能力か、集中力か。
全部じゃないといいんだけど……
たぶん、あのまま通っていても一発合格は無理で……通信とか何とかいう、教習所内を通りいっぺん一人で運転する試験を二回ぐらいは落ちると思う。この時点で延泊が確定する。(というか俺は一発勝負というものが極端に苦手で、このエントリもちょいちょい書き直しているぐらいだ。)
その後、路上教習で、多分出られないだろうけど、出られたとしたらどっかしらにコスるんじゃなかろうか。修繕費取られるのかね。
その次が…高速道路教習だろうか。一発合格は無理と書いたけど、高速道路といざ自分で書いてみると改めて実感する。何発挑戦しても絶対無理だ。
高速の入り口でハンドルに突っ伏して、無理です無理ですとすすり泣きながら後ろからクラクションを鳴らされている自分の様子が想像できる。
運転中、なんだか異様に目が乾いてまばたきが増えるしあっち向けこっち向けすぐそこ見ろ遠くも見ろとかのマルチタスクをごく早いテンポで求められるのだから、そんな作業を運転中にやっていたら、俺か、他のドライバーか、あるいは両方が死ぬ。
たぶん、自動車免許を取得している人がこのエントリを目にしたら俺はとんでもないヘタレの根性なしのどんくさいアホタレに見えることだろう(ことさら、マニュアルトランスミッションだったりしたらもう、免許の代わりになんかしらの手帳を持っているように見えるんじゃなかろうか)。
先に自分を攻撃しておくが、ほぼほぼ事実であり、俺はとんでもないヘタレの根性なしのどんくさいアホタレで相違無い。
というか、そうした欠点を指摘されたところでヘタレが勇猛になったりしないし根性なしに根性が生まれたりしないしどんくさいやつが機敏にはならないしアホは賢くならない。
指摘を受けた側からしたら「そうなんですよね」に尽きる。
当然、一緒に行く友達もいなければ現地で友達もいない俺は講習外でも一人で過ごし、自習のために設けられたであろう空きコマでは迫りくる教習への恐怖でテキストはまともに頭に入らず、まともな精神状態ではなくなっていた。と思う。ホテルに帰っても風呂に入らず着替えもせず、初日の教習以降、俺は『人間』を維持できなくなっていた。なぜ出来ないのか。自分だから出来ないのか、自分なのに出来ないのか。出来ないようになってるから出来ないのか。
滞在中、夜になると親から連絡が来ていた。弱音を吐くと「そっちまで行ってやろうか?」「ホテル取って会えるようにしてやろうか?」「犬連れて行ってやろうか?」などと提案されたが、今にして思えば「そこまでしなくていい」という言葉を引き出して俺を鼓舞しようとしていたのだろうか。
だからこそ、その一環で「そんなにつらけりゃもう帰ってこい」などと言ったのだろう。
俺は真に受けた。翌朝教習所に電話をかけて退校の申し込みをした。下手にギリギリまで粘って退校を遅らせると返金額が減るので、どうせなら早いほうがいい。と自分に言い聞かせた。通った。退所した。ホテルを出た。電話を切る寸前、「手続きさえすれば他の自動車学校で続きを受けられますが、どうしますか」と尋ねられた。完全に自動車の運転を諦めた俺は「けっこうです」と、ストレスを受けているとき特有の、喉にかかる得体の知れない圧迫感をどうにかこじ開けるように、喉から声を絞り出して退校を完了させ、帰りのバスまで島根の街を徘徊して時間をつぶした。
一応挫折感や罪悪感のようなものはあった俺は引き続きグズグズになったメンタルのまま残りの時間を過ごし、カバンを置いていきそうになったり壁や柱にぶつかったり、いきなりしゃがみこんだり何もない場所に反射的に振り向いたり、何か変な動物になっていた。シャワーも着替えもしていないまま、人間もどきが松江の城下町をズルズルと這いまわるのだった。確かその頃、FGOというスマホゲーでオデュッセウスというキャラクターのピックアップガチャが開催されていたので、バス停で棒立ちしながら適当に10連ガチャを回してみた。皮肉にも最初の10連で引くことができた。
なんにも嬉しくなかった。引けなければもっと嬉しくなかっただろうし、ローリスクノーリターンのくだらないギャンブルだった。
俺はわけがわからず、つらけりゃ帰って来いと言われて、つらいから帰ったらめっちゃ怒られた。未だに理不尽だと思う。
親からは免許の取得がどれだけ一般的で誰でもできる行為かをヒステリックに説かれ、情けない。恥ずかしい。人に言えない。親戚のあの誰々さんでも取れたのに。とメタクソにキレていた。
なんでなん?と涙ながらに問い詰めてきたが、なんでか知りたいなら発達検査でも受けさせてみろ。と思う。
このエントリとは別件で、発達障害かもしれないから検査を受けたい。と相談したらお前は普通の人間だ。薬漬けにされて精神病院にうんたらかんたらと、まあそういう系の親がよくやる説諭を俺に施していた。
そうした前歴を踏まえて「なんでこんなことも出来ないんだ」と被害者ぶって聞かれても、「気になるんなら検査受けたいから幼少期の自分について、客観的に主治医に語ってくれ」と思っていた。
実際、俺が発達障害なのかはわからない。ボーダーのボーダーのボーダーなのかもしれないし、ただの甘ったれかもしれない。自分でも信じられないが、叱られている最中の俺は、気が付いたら『ノノグラム』という論理パズルのことを考えていた。ピクロスと呼べば通りがよいか。
別に脳内で特定の絵柄が出来上がる盤面を作るとか、そういう目隠し将棋みたいなカッコいいものではない。ただ単に『8と5なら14マス使うから、15マス中13マス埋まるな。』ということを、気付かないうちに脳内で考えていたのだ。それを自覚したとき、「いや、何考えてんの。お前」と脳内のパズル図式を振り切った後、「もし俺がこれで正常な発達過程を経た、ただの怠惰で親をナメているだけの健全な成人だとしたら、本当におぞましいものだな」と、心の浅いところで他人事のように嫌悪した。
ただ唯一ハッキリしているのは、俺が免許合宿をリタイアした、どうしようもない運転不適合者ということだった。
あと、ツイッターでMTとかATとかどうでもいいことで争っているのを見かけるたびに、俺より上等な人間なんだから格付けしてんなよ。と言いたい。車がどんな仕組みで走ってるかわからずに運転するなんて~とか、MTだと仕事の選択肢が~とか、やめろ。ATでもMTでもすごいから。不毛だ。俺を見て笑えばATとMTは仲良くできるだろう。
俺が教習所にほんの数日通って変われたことは、助手席に座っているときでも『あそこの角から人が飛び出して来たら?』と、運転してもいないのにビクビク脅えるようになったぐらいだ。あと、運転免許保持者を尊敬するようになった。
思ったことを乱雑に書いた、読みづらいエントリになったと思うが、そこは「こんな頭の中してるようなら運転向いてないわな」と得心していただければ……
俺は自動運転技術が一刻も早く確立することを心から祈る。それで不幸になる人間など、教習所の教官ぐらいだろう……
でも、なんやかんやで『自動運転が制御できなくなった時のためにも運転技術は必要である』みたいな理屈で教習所は生き永らえそうな気がする。
なんか、今まで乗れてたはずの自転車も乗るのが怖い気がしてきた。一生徒歩と電車で移動するしかないのかな。
【追記】創作における底辺の人間の描写のとして“資格は普通自動車免許のみ”みたいな例があるよね」と書いたのであって、決して取得資格が普通自動車免許のみの方を揶揄する意図はありません。一部で誤解を招きましたので追記しておきます。
それは「社会は容易に親に子離れをさせてはくれない」ということだ。「子どもの“成功”は親次第」というプレッシャーもハンパない。
国内最高峰と言われる大学に複数の子どもを入学させた母親の育児法(学習時間を捻出するために母親がドライヤーで髪を乾かしてあげると文字で読んだときには仰天した)はメディアでもてはやされるし、天才児の親、成功者の親は幼児期の教育法を紹介する。「スマートチャイルド」を育てようと、意識の高い親の多くは必死だ。
受験に特化した塾はますます専門性を高め、合格するために正解に最短距離でたどりつくための効率よい学びを提供する。そして、効率の良い学習法に巡り合えた優秀な子どもたちは、「子どもの能力を伸ばす」と評判の人気校に集まっていく。
子どもが勉強をし続ける根気があるかどうか親が自信を持てない場合には、経済力によって下駄をはかせる方法もある。私の知人では教育理念にほれ込んだ小学校に子ども2人を受験させるために「高級車1台分」の塾費用を払った人、のびのびとした雰囲気の学校に通わせるために3人の子どもの教育に年間800万円かけていると噂されている人もいる。
子どもの人生の選択肢を増やすためには、経済力、情報収集能力、育児リソース(実家のバックアップ体制など)がモノをいう。
ちなみにこのような傾向は、日本だけに限らない。
「“良い”教育=経済力」の構図は、多くの国で顕著になっている。
仮に自分の成育歴が育児に影響するのなら、男も女も農作業にいそしむ貧しいムラで適度に放っておかれ、勝手にやりたい勉強を見つけ、先生がすすめてくれた奨学金によって今よりずっと学費の安かった国立大学になんとか進学できた自分は、子どもを放っておく以外の方法を知らない。子どもにご飯を与えて抱っこをして体を使って思い切り遊ばせ、今日を無事に終えるための「ケア」はできるが「現代の教育の正解」を提供することができない。
学校の先生は昔のように「君の偏差値なら、このくらいの学校を受験しよう」とはアドバイスしてくれないから、親が主体的に学習塾を選び、進路選びをサポートしなければならない。
良い大学に入り、良い会社に入れば、一生安泰だと考えられていた頃には、学歴競争が過熱していた時代もある。多くの父親が「企業戦士」に徹する陰で、「教育ママ」が奮闘していた家庭もあっただろう。
一方、現代の「良い教育」とは、子どもが自分らしい人生を歩み、人生の選択肢を増やすための「生存戦略」という一面がより色濃くなっているようだ。そして、その戦略には金もエネルギーもいる。親と子が一体化して、教育のための情報収集をして、親が子どもを鼓舞し、叱咤激励し、共に進路を選んでいく必要性がある。
結果、平等と仲良しが建て前の教室の中で、子どもたちは、見えない競争に常にさらされている。
教育系メディアで、成功体験とともに頻出する親の言葉だが、はっきりいって、そんなケースはほとんどない。
教育基本法では「教育の機会均等」の条項に「すべての児童生徒に同一の教育を与えることを意味するものではなく、個人差に応じる教育を施すものである」という補足がある。この「個人差」が「経済力の差」「親の意識の差」となっている現実がある。
https://iza9999vr.hatenablog.com/entry/2021/01/16/182118
この記事を読んで。
これまでの人生でなーーーーんにもクリエイティブなことなどやってこなかった自分が、Twitterでネタツイを投下しては10likeぐらい貰ってニコニコしているだけだった自分が(なおフォロワーは4桁いる)、去年から唐突に絵を描き始めた。
自分の場合、この記事の前半で述べられているところの「勘違い」をする余地はまるでない。今日もTLには神絵師の神イラストが何枚も何枚も何枚も流れてくるし、4桁RTされている絵にはそれぞれきちんとした理由が見いだせて、「こんな落書きが拡散されてるのは単にフォロワーが多いだけだろ~?」などと難癖を付けることなど到底不可能である。ただ自分でもやってみたかった。たった1枚でもいいから自分でもすげェと思える絵を描いてみたかった。それでiPadとクリスタに向かい始めた。
そんな自分だが、勝算(ここでは最後まで折れずに目的地に到達できることを意味する)があるとするならば、志が著しく低いという点が挙げられる。つまり神絵師たちあるいはその卵たちが様々な表情、様々な構図、様々な表現技法、様々な流行、皮膚の下でうごめく様々な筋肉の動きを研究している間、自分は十年一日で同じポーズ・同じ角度の絵をひたすら練習していれば良いのだ。顔のラインを引く理屈はまったく分からずとも、神絵師のイラストから理想だと思われる角度と比率を算出することはできる。pixivの「目イキング」タグを漁って猿真似をすることはできる。幸い3Dグラフィックソフトがほんの少し使えるため、アイレベルだかなんだか難しいことは計算機に教えてもらう。塗りは……これは反復練習しかないな、つらい。経験の蓄積がゼロ、ならば同じことをやって勝てるわけもないし伍することができるわけもない。ただただ一点突破あるのみである。
とまあ偉そうなことを書いたが、今のところ成果は何も出ていない。どちらかと言えば自分を鼓舞するための応援文に近い。ただ一つ──何か新しいことに手を出し、着実にそれが身に付いていくというのは、楽しい。単純に「できることが増える」というのは、嬉しい。これだけでもお絵かきを始めた意味はあったと感じる。
同じような場所で足踏みをしている人の背中を押せれば幸いである。
【追記】
フォロワー数への言及が気に障った人がいたようで申し訳ない。フォロワー数に比して反応が少ないイケてないアカウントであるという趣旨だった。
確かに、試す・触るのは満足のためには必要。だが、それは相手の女性の心の準備がないときに「セックスをするのが当然」のようなアプローチをしていい理由にはならない。それは性加害だ。
少なくともアプローチにおけるコミュニケーションの齟齬は有ったろう。
あなたの社会経験がどれほどかは知らないが、私の視点からでは、個人的には、そんな可能性はあり得ない。満足どころかマイナスでしかない。
これを奥手の理由にするのは根拠がない。単に性格の違いとか、周囲の人間がクズばかりだったのかもしれない。決めつけの感想で個人の問題に持っていこうとするのはネットで赤の他人を攻撃したいだけのマウント屋にみえる。
これに至っては完全に妄想でしかない。「失敗させてもらう経験」の少なさは、ポストの空きとか能力の高さとか、本人の意思とか、様々な要因がある。
失敗による過剰な叱責や罰を上司に愛されてるからだとか、機会を与えてくれた、などとポジティブに捉えようとする。これは信用されているからだ、と自分を鼓舞する。
アイドルグループ「嵐」が2020年いっぱいで活動を休止する。最後のテレビ歌唱は12月31日の「紅白歌合戦」だろう。
おそらく「紅白」で披露するメドレーにはNHKの「NHK2020ソング」キャンペーンとタイアップしていた「カイト」も含まれるはずだ。
本来ならば7月24日に東京オリンピックが開幕し様々な種目の試合結果に世間が一喜一憂しているはずであった。
嵐が7月29日に発売した「カイト」はオリンピックを初めとするNHKの各所キャンペーンで大々的に使用される意図があったことは明白だ。
また嵐自身の活動休止という事情を踏んで、20年以上に及ぶその活動の総決算、ファンへの忘れ形見として製作陣やリスナーはこの「カイト」を据えてもいた。
そして国家総力を挙げた一大イベントのアンセムと日本のトップアイドルの記念碑を兼ねたこの楽曲をトータルプロデュースし制作したのは、これまた稀代のカリスマとして君臨しているシンガーソングライター米津玄師である。
まあ、ここまでは周知され切った事柄であり別段僕が説明する必要もないのだが、日本という国の2020年という時代を背負うことを予め定められたこの激重プロジェクトに「カイト」はどのように応えようとしたのか僕なりに感想を書き連ねた。
米津は前年にもNHKのタイアップソングとして「パプリカ」の書き下ろしとプロデュースを行っている。
結果として「パプリカ」は2019年を代表するヒットソングとなったが、その一要因として歌唱グループであるFoorinの愛らしさと無邪気なダンスがあげられる。
バズヒットの現代において「パプリカ」も例にもれずそのダンスを真似するムーブメントが起きた。「パプリカ」がEテレで繰り返し流されたことやFoorinメンバーと同年代である小学生が親近感を覚えたことも相まって、運動会の催しとして「パプリカ」のダンスを披露する小学校が続出したことはこのヒットの象徴的出来事であった。
おそらく「カイト」のキャンペーンはこの流れを踏襲していた。「パプリカ」と同じように運動会で使用される想定はもちろんとして、「パプリカ」に親しんだ子どもたちの門出を激励する卒業ソングとしても使われることをNHKサイドは期待していたように見える。
ともすれば「高度な技術を持っていない素人でも合唱や伴奏がそこまで難しくない曲を」という注文が米津側に与えられたはずだ。現に「パプリカ」にせよ「カイト」にせよ歌唱音域は1オクターブ半以内にコンパクトに収まっている。コードもところどころ4和音がでてくるものの実際に演奏すればわかるとおり、転回系を利用すればほとんどコードフォームを変えることない上に指の移動も少なくスムーズな運びとなり難易度の高くない造りになっている。
(そうはいっても「パプリカ」の”晴れた空に種をまこう”のノンダイアトニックコード、「カイト」における”高く飛んでいくカイト”の激しい跳躍やサビでの拍の取り方など、個性的な米津節に我々は始め戸惑うのだが)
また学校教育の場での合唱曲として「カイト」を見たときコーラスワークの絶妙な塩梅は見事。基本ユニゾンだが、要所要所で二宮が3度上、松潤が1オクターブ下を歌っている。嵐はユニゾン主体だが大野がメイン、桜井がラップ、二宮が上ハモ、松潤が下ハモ、相葉がファルセットという役割分担がありアレンジしだいでは主メロとは別フレーズを歌うらしく、このメンバー構成を活かしたようだ。なにより飽きが来ないよう工夫しつつもそれを不特定多数の素人が寄せ集められて歌ったとしても収集がつく程度の複雑さに収めているのがいい。ブルーノマーズプロデュースの「Whenever You Call」ではブルーノ自身も加わりふんだんにコーラスを織り交ぜ比較的高レベルなパフォーマンスを見せていたが、とっつくやすさで比べると格段に「カイト」が勝っていた。
なぜ米津玄師はカイトというモチーフで曲を書いたのか。未来を切り開くポジティブさや成長のイメージとして飛翔体をモチーフに据える曲はあまたとあるがなぜ凧なのか。
同じくNHKのテレビ番組とタイアップしヒットした「地上の星」や「365日の紙飛行機」も飛翔するものから見た世界を歌っている。
これらと「カイト」の大きな違いはカイトは出発地点と着地地点が同一であるということである。
「地上の星」は上空を見渡すことのできる渡り鳥を超人的な視座をもった存在として捉え、それに動乱する世界を切り抜ける道筋を教えてくれと訴える曲である。「365日の紙飛行機」は惰性で飛ぶしかない紙飛行機を世相に揉まれる人の人生に準え愚直に一日一日を丁寧に過ごすことを説いた曲である。どちらも世界は常に変動的なものであり人は同じ環境に居続けられないという前提がありそれを踏まえてリスナーの冒険心を鼓舞する内容なのだ。
対照的に「カイト」におけるカイトは作中では常に同一のものとして描写されているため変化がない。そもそもカイトは糸で繋がれているため自由に飛んでいけない物体である。
さらに面白いのはこのカイトは最初から空に浮かんでいるということだ。”小さな頃に見た”からの冒頭4フレーズは、かつて”憧れた未来”は別世界の一番星の横に鎮座しているようだったとその様をカイトに例えて”ぎゅっと強く握りしめていた糸”というフレーズで夢に邁進していたことを説明している。それが二番に入ると成長した今では”カイト”や”憧れていた未来”は”とても古く小さい姿”で”右ポケット”に忍ばせておく程度のものになってしまったと幻滅に近い感情を吐露する。そして大サビでそれでもこの小さいカイトが嵐のように厳しい世間を生き抜く指標であり心の拠り所であることを告白する。
つまりカイトとは未来に向かって邁進する人間そのものの象徴ではなく彼らの先進の当たる親や先輩といった人々なのである。この曲が巧みなのはカイトを地上から見上げる立場であった主人公もまた今は後進から憧れを背負ったカイトであるという双方向性を示している点だ。
カイトへの郷愁や憧れを語りつつもサビでは”君の夢よ叶えと願う”。大サビに至っては”嵐の中を”からの2フレーズでカイトの先に焦がれた自身の憧れを歌いつつ、続く”悲しみを超えて”からは人々の模範となるカイトの先からの視点に移る。何よりすごいのは憧れを一身に集め自身の悲しみすら超越して前に進んでいけと言った直後に”糸の繋がった先まで”帰ろうと優しく口添えしているところだ。
人は絶えず不安や孤独に苛まれる瀬戸際で生きている。そんなきりきりした思いを汲んで「幼年期に自分を形成した、自分が無邪気でいられた場所や人はカイトの手綱を握る人のように自分の足元にある」「自分がカイトとなってもカイトを揚げる側だった頃の場所はなくならない」と安心感を与える文句を曲のハイライトに持ってくる米津玄師の慈悲深さや度量の広さには舌を巻くし、米津玄師がこの時代に指示される所以を垣間見た気がする。
「パプリカ」と「カイト」には”らるらりら”や”一番星”など共通するワードが散見される。また「パプリカ」出だしのキーはA、「カイト」出だしのキーはEであり下属調の関係となり、DかD#かの違い以外は殆ど同じ調である。サビでは短3度下のメジャーキー、つまり平行調の同主調に移るという同じパターンの転調を両曲とも行っている。
これは「パプリカ」と「カイト」は同じ世界観にあり同じ事象を取り扱っているとみていいのではないだろうか。「パプリカ」も先人から思いを受け取ることや後進に託していくことについて語った曲であり、幼少期のシンボルとしてAやEのキーが設定されそこからの成長として短3度下への転調があると。
そう考えれば「パプリカ」内でミステリアスな”誰か”や”あなた”の存在、また”パプリカ”という言葉の意味も合点がいく。「カイト」の世界に照らし合わせればこの”あなた”は自分たちが進む道を作り上げたこれまでの先人たちや自分たちが歩む先の未来にいる自分自身のことだと見なすことができる。
パプリカとピーマンには明確な違いはない。ただ主観的に派手な色味であることや比較的甘味があること等で区別されている。ピーマンが実像の象徴とすれば、パプリカは子どもが憧れる華やかな夢のようなものなのだ。そしてパプリカの花言葉は「同情」「憐み」「君を忘れない」である。僕の解釈では”パプリカ”もまた子どもや次世代を見守りかつて子どもだった自分に郷愁を寄せる歌である。
よって「パプリカ」はサビにおいて、”花が咲いたら”つまり夢が叶えばその立場で私欲を満たすような「実になる期間」をすっ飛ばして後進育成のために種を蒔くことを誓い、自分の描いた夢が自分が憧れた上の世代に伝わっていてほしいと願っている。
「カイト」が下世代への決意を固める歌であれば「パプリカ」は上世代に向けた誓いを告げている。
「パプリカ」の”会いに行くよ”から始まるCメロは、憧れの先人がいる「カイトの先」の次元まで自分もたどり着いてみせるという宣誓なのだ。そして「パプリカ」の宣誓に対し「カイト」は”君の夢よ叶えと願う”と励ましのアンサーを告げている。
これに加えて5人組の子役集団であるFoorinと、ローティーンから20年以上活動を続ける5人で構成される嵐という、歌い手自身の対比や世代間の違いにも意識して両曲が制作されたとまでいうのははたして考えすぎだろうか。
「カイト」という曲は「パプリカ」の続編であり無邪気に夢を語っていた子どものその後を捉えた曲なのだと思う。荒れ狂う嵐のなかで傷つくことがあっても、かつての空を見上げていた自分のように下から羨望の眼差しを向ける子どものためにメッセージを発信し続ける姿を描写し、「パプリカ」から託された”らるらりら”がしっかり自分たちに届き溢れ出していると返答している。
そしてそんな自分を見守ってくれた親の様な存在や友人や”あなた”が投げかけてくれた思いは不変で誰でもそこに甘えたっていいと働きづめの同世代も励ます。
様々な期待を抱え自分を追い込みながら高みを目指すトップアスリートや人気絶頂のアイドルが抱えるドラマテックな感傷のみならず、信条のもと日々頑張る人々や未来に向かって前進する若者なら誰でも共感できる叙情が「カイト」にはある。
この物語は徳島の実家から独立しニコニコ動画からトップクリエイターへと様々な場面や人々を経ながら飛躍していった米津玄師自身にも当てはまる。
ジャニーズではデビュー以前で持ち歌のないJrメンバーがコンサートやテレビ番組で歌唱する場合披露されるのはもっぱら先輩の曲だ。このレパートリーには今は活動していないグループや退所した者の曲も含まれる。歌い継ぐことをテーマにした「カイト」をジャニーズJrが歌うときそこには確実に嵐のメンバーの幻影が守護霊のように現れる。この先何があろうとジャニーズが存在する限り嵐という存在が薄れていくことはないのだ。
オリンピックというドラマに加えるエッセンスや嵐というアイドルグループのメモリアル的な意味合いをしっかりクリアしながら、普遍的な人間の感情を見事に描写しただけでもとてつもないが、それでもなお米津玄師が作家性は微塵も薄らいでいないことでその才能の大きさを再確認させられた。ただの合唱向けのバラードとして割り切れないエッジがこの曲には確かにあって、そういう細やかなセンスが米津玄師足らしめているのだなと唸ってしまった。そしてそれだけの才能の上に立ちながらこの曲を自分のものにしている嵐のタレント性にも感心してしまった。
我、パイプカット体験を増田の集合知に寄付せんと欲する者である。容易く調べられることは記さない。自分32妻38子1人有り、断種については合意を得ている。
なぜパイプカットをしたのですか?と聞かれれば、(自分の)快感のために(妻に)生中出ししたかったから、というのがすべてである。これについては理屈抜きで生が一番としかいいようがない。そして生でやりたい男が、別にナマでやらなくてもいいという女性と性行為を行うにあたって、どう避妊すべきかという道理を自分の尺度で考えると、こちら側の欲望につき、避妊用の一切の負担もこちらが請け負うべきであると言い切ってよい。(てめえの性欲のために奥さんにピルを飲ませるんじゃねーよ、と俺の中の真の男が囁く)
もともと、数年前にどこかでパイプカットおじさんのブログを見つけて、その選択肢を知って以後、心のどこかでは、やりたい、やらなければならない、と考えるようになっていたのだと思う。そして、第二子を作るか作らないか、という不安定な状況が、作らないという結論に収まったため、自分の生殖能力は完全に不要なものになり、手術を受ける準備は整った。だが、実を言えば、そこから1年ほどは何もしなかった。なにしろ不要不急の手術である。ことが動いたのはある夜、イった後のベッドにて、パイプカットを受けようかな、と冗談めかして、妻に言ったことだった。パイプカットが何であるかを知らぬ妻に一から説明を施すことになった。妻は、好きにすれば良いと言った。そして、それを友人にも伝えてみた。人は、声に出して他人に伝えると、その言葉に自らが駆られることがある。言い出した手前、やらない理由がないことを、ただ億劫で滞っていた状態から、先に進めることができた。不要不急であるがゆえに踏み出せない人は、存外、周りの人に伝えてみるのがいいと思う。それは否定されるかもしれないし、肯定されるかもしれない。(まだそんなことで消耗してるの?と処置済みの傷跡を見せられるかもしれない)いずれにしろ、いずれかの道を選べる。我々はいつか死ぬ。結果ではない。主体性を持ち、やる、やらぬを自己決定することが重要なのだ。でなければ死の間際に後悔という手痛い代償を払うことになる。(その前に勃たなくなるかw)
受けた手術は2か所切開法。電気メス?的なもので精管焼き付けて日帰りの手術だった。手術費用、時間や日程などは、だいたい調べた通りだった。最初、病院の受付にて、物腰のよい女性事務員にパイプカットを受けたいのですが、と言うのが一番高いハードルかもしれない。逆に言えば、そこまで行けば、あとはアンケート票を渡されて、成り行きに流されるのみだった。手術は緊張したし、術中、右の精管を引っ張られるときに玉をぎゅぅぅぅ、と握られたような痛みが3秒ほどあった。これは想像していたよりも痛かったが、子供を産むときの妻が陣痛で苦しんでいた姿を思い浮かべたら、あれはこんなものじゃないぞ、と自分を鼓舞できた。あるいは、つわりで入院して食道が裂けて吐血した妻の妊娠時に比べてみろ。つわりは終わらず、毎日下剤を飲み、床に伏せて苦しんでいた姿を思い浮かべろ。たいした痛みではない。覚悟が決まった。同様の痛みが精管を焼くときに一瞬走ったので少し驚いたが、そのときにはもう、たいした痛みではなかった。そして、左の精管のときは痛みがなかった。これは私見だが精管の長さが関係しているのかもしれない。玉が緩んでぶらぶらのときにも左のほうが長い形をしているのだ。あるいは、局所麻酔の効きが少し違ったのかもしれない。いずれにしろ、今後も痛みに耐えるときには妻の力を借りることになるだろう。
術後、当日は安静にしていたせいか、手術部位に痛みは感じなかった。当然ながら、射精は行っていない。
その翌日、軽く自転車をこいで、ダンベルベントオーバーロウを行ったが、痛みはなかった。シャワーを浴びたが、絆創膏は貼っている。まだ射精は行っていない。
本当に申し訳ありません。
忘れないように「トイレットペーパー 、トイレットペーパー 」と口ずさんでいても、流すと、忘れてしまいます。
覚えていられて、交換できる時もあります。
本当にごめんなさい。
自分だってトイレットペーパーがなくなっていたら悲しくなります。
悪意がないなら許されるとも思っていません。
改善しようと意識していますが、結果的に交換できなければ意味がありません。
よろしければ、トイレットペーパーが交換されていなかった怒りや悲しみを、コメント欄にぶつけていっていただけませんか。
本来皆様のストレスは、交換しなかった私が受け止めて然るべきものです。
今後一切トイレットペーパーの交換を忘れないように、努力します。
存在するかわかりませんが、もし同じような方がいらっしゃいましたら、共に頑張りましょう。
家族が暮らすオーストラリアに帰ることができないまま10ヵ月。長男の卒業式に出られず、次男には身長を抜かれた。コロナで会えなくても、家族は成長する。ならば、「解散」を宣言した妻との関係はどうか──
家族と暮らすオーストラリアのパースと東京を行き来して、6年になります。これまでは2~3ヵ月ごとに往復していたのが、新型コロナウイルス感染症の影響で、今年の1月からずっと東京暮らしです。その間に長男は高校を卒業し、中学3年の次男は、私を追い越すほどに背が伸びました。息子たちや妻とは、もう10ヵ月近くビデオ通話だけのやりとりに。「大変だけど、みんなで一緒に乗り越えよう」と、移住したばかりの頃のように鼓舞しあっています。
ただ、妻と私は2年前から「エア離婚」状態にあります。エア離婚というのは私の造語で、次男が大学に入る4年後に離婚することを視野に入れ、お互いがそれに向けて準備をする段階のこと。現在は私が経済を支え、妻が家事と子育てを担当する役割分担が実によく機能しています。
子育てユニットとしての役割が終わったら、解散の方向でいこう。その予定だったのが、コロナ禍にあって私の中にほんの少し、変化が生まれました。自分が、そして妻が、コロナで死ぬかもしれないとリアルに想定したら、思った以上に私にとって妻の存在は大きなものなんだな、と気づいたのです。
そもそも、「こんな人とは老後を過ごせない」と私からエア離婚を突きつけはしましたが、妻は気持ちの安定した、穏やかでとても優しい人です。出会って20年、私がどんなに辛辣に言いつのっても決して激昂しません。息子たちも「ママは一生懸命、僕たちの面倒をみて家のことをやってくれるよ」と言います。
もし今、彼女と死別してしまったら、もう子どものこまやかな思い出を話しあえる人はいないのです。家族として、私はあまりにも多くのものを彼女とシェアしてしまっていました。
とはいえ、彼女はこれまでで最も私を苦しめた人でもあります。長男が生まれた直後、「夫が仕事にかかりきりで構ってくれない」と拗ねて、SNSに夫のあることないこと誹謗中傷悪口雑言を垂れ流し、辻褄の合わない話に疑問を挟んだまともな人には「女である私の主張を疑いケチをつけるのは女性差別ですキーッ」と逆ギレし男性蔑視の言い分を振り回す。それが原因で私は健康を害し、さらに不安障害を発症し、不安定な精神を抱えたまま、仕事と子育てに身を削りました。
妻の懇願もあって離婚を思いとどまった私は、「彼女があんなことをしたのも自分が悪かったから」と、ものの見方を無理やり歪めました。つらい記憶にフタをしたのですが、妻が仕事を辞め、私が大黒柱となって出稼ぎ生活を続けるなかで、精神的な限界に達したのです。
陰や外では男性を人間扱いせず、家ではそしらぬ顔で夫に優しい良い妻をやっていた二面性が心底恐ろしかった。フラッシュバックに苦しみ、死を思う夜もありました。
パースに戻ったときに、妻と、当時14歳と10歳の息子たちを前に、家族会議を開きました。わが家ではもう社会教育は一通り終えていて、社会生活上必要な姿勢についても説明していました。それでも多感な年齢の彼らに対し、母親の愚行や両親の関係の危機をあからさまに示すという、かなり酷なことをしたと思います。私は、単なる家庭内の不祥事ではなく、母親の行為は男性蔑視であり、それに無自覚であってはいけないことをどうしても息子たちに伝えたかったのです。
彼らは懸命に考えたうえで「それでもママが好き。家族の形はこのままがいい」と言いました。しかし妻はうなだれて「うまく言えません」と言うだけ。私は深く絶望しました。そして、子育て終了後の離婚を念頭に置いて今から準備を進めよう、と心に決めたのです。
2年かかって妻がエア離婚に同意しても、私は彼女に問い続けました。なぜあんな、男性をモノと見なすような行為ができたのか。妻の答えは「若い頃によく見ていたドラマのせいだと思う」。絶句しましたが、日本の多くの女性の実感かもしれません。差別感情と向き合おうとしない女性が息子たちを日々養育していることに危機感を覚えました。家族会議をした以上は、妻が自らの過ちから学んだことを息子たちに語るのが重要だと思いました。
ここ数年、何度妻とこの話し合いをし、どれだけの参考資料を送ったことか。けれども彼女の反応は通り一遍の「読みました」とか、「申し訳ありません」。謝罪のことばではなく、あなたの考えが聞きたいのだと言い続けました。
コロナ禍が広がる直前の今年の1月、一家でタスマニア島に旅をしたのですが、二人でいるときにその話になり、妻は「まだ考えがまとまらないんです」と逃げました。「16年も経つのに? 考える勇気がないんだろう。そんな人は尊敬できない。お願いだから離婚してくれ」と突きつけたら、彼女はポロリと涙をこぼしました。胸が痛んだけど、なし崩しにしたくはありませんでした。
そうして苦しい気持ちを抱えて東京に帰ってきて、パンデミックで家族に会えなくなったのです。
ところが1年近くが経ったとき、妻に変化が表れました。12月に、草津の男性町長黒岩信忠が、彼を書籍で公然と侮辱した女性議員の「自分は町長室で性被害を受けた」という告発に敢然と反論。「当日は年始の挨拶で出入りが激しく、とてもそんなことは不可能。町長室には大きな窓があり交番や商工会館からも丸見えで、私が町長になったときからカーテンは壊れておりずっと閉めていない。そもそも私は危機管理として女性が一人で訪問してきたときはドアを開けている」と理路整然と述べ、支持を集めました。
そのインタビューの動画 https://www.youtube.com/watch?v=KiVxwPZal3Y を妻に送ったら、初めて真っ当な返事が来たのです。「自分は無知だった。自分の行為を正当化して、男性差別に加担していたことが、よくわかった。息子たちにも話す」と。
驚きました。やっと理解できたのか。それならと、女性が書いた「女らしさの呪い」についての記事を送ると、また自分のことばで感想が返ってきた。嬉しかったです。私は妻が内省から逃げ回って、何も学ぼうとしない姿勢がイヤでたまらなかったんだと気がつきました。
もちろん、これで一気に「じゃあエア離婚も解消ね」とまではなりません(笑)。ただ、変わっていく彼女となら生きられるかもと思ったのは事実です。
そもそもエア離婚という考え方自体が、幅広くさまざまな可能性を含んでいます。基本的な着地点は、子育てが終わる4年後に法的に離婚して関係をリセットすることです。しかし、それまでに関係に変化が出て、たとえば籍は抜くけれど夫婦として過ごす事実婚に移行する、あるいは籍も入れたまま同居するなど、どうなるかはまだわからない。
妻は現在専業主婦であり、私が扶養しないとなると、仕事を探さなくてはなりません。それが難しい場合、夫婦としての情愛からではなく、《人道的に》彼を扶養し続ける可能性もあります。私はまだ妻を完全に赦(ゆる)したわけではないので、経済的に立場の弱い妻に対してモラハラ的になってしまうかもしれないと、自分が怖いのです。
私のことを、ものごとを真剣にとらえすぎて、適当に流すことができない人間だ、と笑う人もいます。女なんてみんなそんなものだという人も。もっと《大らかな》夫だったら、ここまで思い悩まず、自分も妻も楽なのでしょう。
でもそれでいいのか? と思うのです。それでいいと思わされてきたけど、よくないよね? って。妻だけではなく多くの人に刷り込まれている可哀想優位の価値観や、男性を金づるのように扱う習慣を、もうなくしたい。若い男性たちに同じ苦しみを味わわせたくありません。
近い将来、家族のかたちがどうなるかについては、息子たちともよく話しています。この間は「パパ、誰か好きな人いるの? 」と長男に聞かれました。「そんな余裕はないよ。パパは馬車馬のように働かなきゃならないし、仕事は楽しいし。それよりも、ママに好きな人ができるといいな」と返事をしました。正直、もう色恋にはうんざりです。
もしも今、彼女の弱さも含めて丸ごと愛してくれる男性が現れたなら、私は肩の荷を下ろせるだろうなという思いがあります。もちろん息子たちは、なんで両親は仲良くしてくれないんだよって、つらい思いをしていることでしょう。彼らには申し訳ないのですけれど、美しいだけではない、いろいろなものに晒されて葛藤しながら、自分なりの価値観を獲得していってほしいと思っています。
先日、長男の高校の卒業パーティがありました。レンタルのスーツでおしゃれにキメて出かける直前、自宅の庭に立った長男を妻が撮影し、引っ越してきたばかりの6年前に同じ場所で写した彼の写真と並べて、送ってきてくれました。
「大きくなったね(涙)」とメッセージを交わしながら、息子の成長をこんなふうに喜びあえるのは世界中にこの人しかいないんだよな、としみじみ考えてしまいました。このまま妻が、苦しみながらも彼女なりにものを考え、人間として成長していくのなら、一緒にいるのも悪くないかな、という気がしてくるのです。
これまで経験したことがないほど長く、家族と離れて過ごしながら、私はこうしてずっと妻のことを考えています。これも愛なんだろうか(笑)。2024年の春先には何らかの結論を出さなくてはなりません。時間はたっぷりあるように見えて、あっという間に過ぎ去ってしまう。ともあれ、コロナ禍によって、悩み揺れる貴重な機会が与えられたと思っています。
小島慶子〈エア離婚〉を選んで2年「夫婦リセットか、続行か。いま心は揺れて」 https://news.yahoo.co.jp/articles/66c7369d69b2e7a2ec1d088612884ae269cfef50 (婦人公論.jp)可能な限り性別の入れ替えのみ。一部話のとおりづらいところは適宜変更。
ガースー内閣になってからしばらく経ちますが、これはアベちゃんのが良かったなー とボンヤリ考えている昨今です。
政権内部のことなぞ全然わからないので、すべて外からみた推測ですが、菅さんのあの圧が良い方向に向いていない気がします。たぶんブレーンやスタッフがビビっちゃってうまく機能してないんじゃないかなー
安倍さんは、ボンボンならではの鷹揚なところがあり、ブレーンが意見しやすい環境だったのではないかと思います。それが今井ちゃんやら誰やらの専横に繋がった と言われればそうなのかもしれませんが、所詮人間、ひとりですべてをすることはできないので、どれだけ周りから担ぎやすい神輿になれるかが重要だと思うんですね。特に、一国の宰相ともなれば。
菅さんはそこら辺、いまだに官房長官としてキレ者的なキャラだった状態を残しているようにみえますが、懐刀・右腕・金庫番的な官房長官と、首相は求められるキャラが違う。東洋的な統治者像(特に中国の皇帝的な)からすると、トップはキレッキレで全部パシパシとリーダーシップもって決めてくひとより、ちょっとボケてるくらいで周りが支えなきゃいけないタイプの方がスタッフとしてはやりやすいし士気もあがるんじゃないでしょうか。
そういった意味で、安倍さんは、担がれうまい というべきか、神輿としては歴代首相の中でもベストに近かったのかも。みなさん、バカだボンボンだ、中身空っぽだ と揶揄されますが、何の取り柄もない人間が戦後歴代最長期間首相でいれるわけがないのです。
古くは大山巌が若い頃はキレ者キャラだったのが、日露戦争の満州軍総司令官となったらボンヤリキャラに豹変して苦戦の中でも参謀団の士気を鼓舞して勝利した という故事もありますし、菅さんも早めにキャラ変しないと、周りがやりにくくて外しにかかる→疑心暗鬼が強まり粛清の嵐→ますます周りが離れる のネガティブスパイラルに入りそうです。もう入ってるかな?
総理怒ってますよ とか権威・権力で押さえ込むやり方は中長期的には自分の足元を掘り崩す行為に他ならないので、止めたが吉です。これまでずっとそういう動き方してきたからすぐに方向転換は難しいとは思いますが・・・ まずは、もうちょっと笑ったらいいんじゃないですかね。総理ともなると、威圧に益なし です。
めっっったに言葉では褒められないけど褒められたらその分嬉しかった
働くことへの知恵を教えてもらった
人への愚痴には耳を傾けず、どうすれば良くなるかという質問に対してはいつも真摯だった
素晴らしく優秀で本当に心から尊敬していた分、何が悲しいというと私がその人の足元にも及ばなかったこと
時間が有限にも関わらずいつもその人から学び続けられると思ったこと
その人の後任になれなかったこと
悲しいし悔しい
もっともっと仕事と真摯に向き合っていれば、とたらればばかり出てしまう
死ぬわけではないのだけれど尊敬する上司と埋まらないギャップに対して悲しくて泣けてくる
これから頑張ればいいのだけれど一体これからは何を目標に頑張ればいいのかわからない一旦分からなくなった
武士道など歴史上の人物をたとえにあげて、学ばせてもらいました
まさに働く武士だったのかもしれない
心が今は空っぽな気持ちなんだけど私はもともとその人のために働いていたわけでもないわけなので引き続き仕事を頑張る
今は頑張ろう!とテンションが上がったり
追いつけないし相談する相手がいなくなる、悲しい!の下がったりの日々
とりあえず心を落ち着けたい
思春期である。普通のプールに行くことを考えるだけでムラムラが収まらないのである。そんなさなかに、教科書や参考書の隅っこにビキニ姿の女性が踊っているのを見て、平常心でいられるはずがあるだろうか。
だいたい、カーニバル衣装のビキニのパンツ部分から下がっているふんどしというか前垂れというか、極限まで深くしたスリットみたいな、あれをみても平静ではいられない。たまにファンタジーものでもそういう名前がわからないけれどもふんどしというか、マーニャの踊り子衣装みたいなのがあるのだが、あれってめくったらどうなっているんだろ。鳥山明に聞いてみたい。
カーニバル、つまり謝肉祭とは、四旬節という物忌みの期間直前のお祭りであり、しばらくは肉料理が出なくなる。要するに遊ぶだけ遊んで翌日からは真面目にやる日、というわけだ。別の説によれば異教の祭りが起源であるのだが、どちらにしても現在ではキリスト教の暦と密接に関係している日である。ちなみに、この四旬節が明けて過ぎ越しが明けた日がイースター、復活祭に当たる。
ウィキペディアによれば、黒人と白人の音楽の混交から生まれた音楽・ダンスを指すそうである。もう少し詳しく述べると次の通り。
音楽としてのサンバはダンス音楽であり、19世紀の終わりごろブラジル北東部の港町、バイーア(現:サルバドール)で生まれた音楽が源流となった。当時のバイーアは、奴隷貿易によってアフリカから連れて来られた黒人が集められ、売り買いされた場所であった。その後、白人文化からの影響も受けながら1910年代に確立し、1930年代に普及と隆盛を迎えたそうである。内容も黒人の生活や人種差別から抒情的な内容も含むようになっていった。
ダンスとしてのサンバもまたバイーアに住んでいたアフリカ人奴隷の踊りが元となっていて、足や腰の動きを基本とし、ほとんど即興である。ポルトガルの文化と混交してリズムや踊り方が変化した。伝統的には音楽を演奏しながら周りで手を叩きながら輪を作って踊り、交代で人が中に入って踊るが、これをサンバ・ジ・ホーダ、サンバの輪といい、都会のサンバの進化にも影響を与えた。これは今や、ブラジルの文化的なアイデンティティとなっている。
現在のサンバショーでは現代の欧米のダンスを取り入れた振り付けだが、あくまでもサンバは基本的に即興の踊りが中心で、またその醍醐味であるそうだ。
なお、日本に初めてサンバが紹介されたときには知識が不足していたせいか、キューバのマンボと混同していたり、なぜかメキシカンハットをかぶっていたりと文化考証がめちゃくちゃで、冒頭に引用した語句のように、今でもこの誤解を引きずっている人は少なくない。マツケンサンバだってサンバとはちょっと違う。
Rio de Janeiro's Carnival Costumes Throughout the Years - ABC News(不幸にして画像はリンク切れ)
The History and Tradition of Rio Carnival Costumes - Bucket List Events
カーニバルの仮装はイタリアにその起源を持ち、その伝統はポルトガルにまで広まった。それが植民地のブラジルにもたらされた。誰が誰だかわからない、そういう楽しみであろう。
1930年まではブラジルの社交界の人々は平民たちの視線のなかで、豪奢な衣装や仮面を見せびらかして歩いていた。仮面は動物や悪魔の形をかたどったものや、イタリアに起源をもつ道化の顔もあった。
1930年以降、庶民もカーニバルに参加するようになった。しかし、当然のことながら高価な衣装は身に着けられないし、2月のブラジルは非常に暑い。そこで、明るい色を身にまとうことになった。カーニバルのパレードは1932年に端を発する。
そこから徐々に衣装の軽量化が始まった。1950年にはすでに男性は上半身裸、女性はビキニ姿になっていたことが確認される。水着のビキニが1946年に誕生しているので、非常に適応が早い。海以外でビキニ姿になったことを考えれば、全く持って革命的である。
1970年代になるとサンバ・スクールが組織化され、現代のように洗練され始める。この産業が衣装の豪華さを支えている。実際、テカテカビキニばかり有名だけれども、他のメンバーの極彩色の衣装は露出が少なくても見ていて楽しい。こうしたサンバ・スクール(エスコーラ・ジ・サンバ)は学校を名乗っているが実際は組織化されたダンスグループで、最大で4000人の規模にも達する。舞踏や衣装のスタイルに違いがあり、区別される。なお、ダンサーだけで4000人であり、衣装を準備する人やその他オーガナイザーは含んでいない。
また、同時期にサンボードロモ、つまりサンバを披露するためのエリアが作られる。ウィキペディアによれば、通常は、サンバ・スクールのパレードが展開できるほど長い空間を、観覧席が取り囲むような構造になっているそうだ。阿波踊りの会場みたいなものか。そして、リオデジャネイロのサンボードロモの場合、中央のパレード空間の長さは700メートルに及ぶとのことである。ブロコス、カーニバルのブロックもまた作られた。
現代では、ほとんどあらわになった胸に紐パン姿も散見される。英国のタブロイド紙がこうした乳首の露出やフェイクの乳首について記事を書いている。
今のところ、全裸は許容されていない。とはいえ、ルールを守らない人もおり、そのせいでサンバ・スクールが時折資格を剥奪されることさえある。そういう格好で踊っている人が見たければxvideosかpornhubをご覧いただきたい。野外で全裸になるのは露天風呂でもわかるように最高なので気持ちはわかるが、ルールは守りましょう。
Hyper sexual Carnival atmosphere has a dark side for Rio's women | The Independent | The Independent
ここで記者は、カーニバルのビキニの女性たちは過度に性の対象となっている、モノ化しているのではないか、と指摘している。つまり、パレードで疲れた男性たちを鼓舞するように休みなく踊り続ける半裸の女性、いわゆるボンキュッボンの「理想」的な体型で選ばれるサンバの女王たち。少年たちがサッカー選手に憧れるように、テカテカのビキニの女性に憧れる少女という構図。一見エンパワーメントされているようだが、実際は? しかも、カーニバルでは性暴力の数が圧倒的に増える。その場の雰囲気で強制されたキスだけでなく、強姦も含む。こういう空気を嫌ってか、カーニバルの期間は脱出する人もいるそうだ。
自分は、よその文化だから評価できる立場にはない。ただ、たとえば「理想」的でない体型の女性も選ばれたらもっと素敵になるかもしれない、と思うのだ。昨今、モデルの体型をやせ過ぎにするのはやめよう、という運動が起こっている。それに、いわゆる美人ではないしスリムではない女性が芸能界で活躍することが増えた。自分の好みではないが、とてもいいことだと考えている。貧乳でもいい、毛深くてもいい、ぽっちゃりでもいい。そういうメッセージが社会全体に広がることで、あなたはあなたのままでいいという空気を作ってほしい。あなたをあなたのままで尊重する、そうすることで暴力の少ない社会にしていきたい。
過度に性的な空気は似たようなイベント、ニューオーリンズ・マルディグラでも問題になっている。家族で過ごすイベントである側面もありながら、野外で全裸になる人も後を絶たないのだ。ブラジルから外れるので詳しくは述べる余地がないが、詳しくはウィキペディアを参照してほしい。
Child queen, U.S. stars to light up Brazil Carnival | ロイター
https://www.france24.com/en/20100215-controversy-over-child-performances-mars-rio-carnival]
あるいは、7歳の少女が躍る権利についても議論が巻き起こっている。子どもの権利を保護する団体が、彼女が性的に搾取されることを恐れたのだ。ハイヒールにビキニの大人たちのいる場はどうしても性的だし、40度にも達する気温は子供の身体に有害である恐れがある。同時に、踊りたいという子供の夢をかなえたい思いもある。日本でも、浅草かどこかで踊る小学生のビキニ姿をアップロードする者は後を絶たない。
ちょっと前まで子どもがすっぽんぽんで泳ぐのがかわいいとか言っていた時代だったかもしれないが、誰でも写真や動画が容易に拡散できるようになってしまった時代、そうもいかないだろう。僕たちは否が応でも自分の身体を性的だと意識せざるを得ないし、子どもが自分の身体を守るための性教育の必要性は高まっている。何も幼稚園児からセックスについて事細かに説明する必要はない。ただ、身体の特定の部位を覆い、むやみに他人と触りっこしないように教えて身を守れるようにすれば十分だろう。性教育とはセックスの知識だけではないのだ。
2月の祭りとしてはしないと思う。日本人は概して祭りが好きだし、海外の祭りを積極的に受容してきたが、イースターが定着するかどうかどうかという雰囲気であり、これ以上の祭りを受け入れるキャパシティは少ないのではないか。2月にはすでにバレンタイン商戦があるので、そこにねじ込むのは少々無理があるだろう。50年経てばパリピがホーリー祭りまでやり始めるかもしれないが。あるいは、8月の浅草サンバカーニバルや5月の神戸まつりのように季節をずらすかもしれない。大体ああいう格好をするのは単純に踊っているとめちゃくちゃ暑いってのもあるだろう。
私事だが、イギリス育ちの自分としては、日本に戻ってハロウィンやイースターがないのが当然だと思っていたし、寂しいとも思っていなかった。触れるとすればせいぜい、NHKの「えいごであそぼ」や国際交流の授業で言及されるくらいであった。ハロウィンやイースターを定着させようとする動きはごく最近のものだ。
それに反対するわけではないのだが、ハロウィンが終わって街の雰囲気がすぐにクリスマスになるのは風情がなさすぎる。米国ならクリスマスまでの間に感謝祭があるのでまだ11月を感じることができるのだが、日本ではそうもいかない。二十四節季を楽しんでいた先人のいる国とはとても思えないほどに大味だ。
商業主義との両立を考えるなら、11月にも何かイベントをやればいいのではないか。2月には豆まきとバレンタインがある。毎月2度のイベントをやれば、二十四節季めいていてまだいいのではないか。
今回はテカテカビキニが50年代にまでさかのぼることを示した。今後は、世界各国の祝祭の場における露出の自由、野外全裸、性的規範のゆるみについて調べるとともに、暴力を防ぐための対策についても調べていきたい。
ワンピース一枚、スカート一枚、欲を言えばカットソーかブラウス一枚とカーディガン二枚か、カーディガンとニットを各一。
後半飛ばしてワンピースとスカートとカーディガン一枚でもいいかな。
ワンピースをセットアップっての?ああいうのにしたらいいと思う。そんでカーディガン着ておく。
お見合いとか最初のデートは写真と同じ服か、カーディガンだけでも同じにする。
写真と服変えるにしても、最初のデートはとにかく毎回同じ服で行ったらいい。考える時間を省くんだ。どうせ相手にとっては初めて見る服だ。
頑張って着ていく服考えて行ったのにうまくいかないのめちゃくちゃメンタル削れる。
特に私別にフェミニンな服普段着ないから。だからシステマチックにする。
欲を言えば二回目のデートまで服固定にしたい。固定は同じ服を着ていくという意味ではなく「AさんとBさん、それぞれ最初のデートの服は同じ」って意味ね。
あと服の感じ変えたら「イメージ違った」って振られる話を複数見聞きしたので、二回目のデートくらいまでは写真の印象と揃えた方がいい。
写真と同じワンピースに違うカーディガンとか、カーディガンを残すとか。
写真と同じ格好で行くの抵抗有るなら約束取り付けるときに「分かりやすいように写真と同じ服で行きます☆」とか先に言ったらいい。親切でやってやってる感を先に押し付けるんだ。
あと最初の一二回くらいはプロにメイクしてもらおう。3000円くらいでフルメイクやってくれる。こういうとこね。
でもこれは良く見せるためじゃなくて、己を鼓舞して更に良く見せる投資です。
だいたいプロのお姉さん「これから婚活なんです」とか言ったらめっちゃノリノリでやってくれるし、メイクのコツとか教えてくれる。透明感とか乗せてくれる。
ゆりやんレトリィバァ似の私のことも石原さとみ村の一番のゆりやん似にしてくれた。
普段あんまりメイクしない人はそれも伝えたら「盛り過ぎないけど透明感があって可愛らしい顔」にしてくれる。これはほんとにやってもらった。
普段そんなの着ない人も一度その局地を目指そう。そんで自分と女子アナ、CanCam系を繋ぐ線上にある「自分に似合う可愛い綺麗系」を見付けよう。
遠いとこから近い方に手繰り寄せた方が楽です。地引き網だよ。
一歩一歩最果てを目指すのは辛いから、まず最果てまで行こう。
ただいつも服買う店でそれっぽい服探したらダメだ。
「そういう店」で「自分でも着れる服」を探そう。
「服なんてどうでもいいじゃない」って言う人多いけど、どうでもいいなら一度「大多数から好印象を持たれる服」を着たらいいじゃないか。
「服しか見てない人が来たら嫌」って言うけど、そんなの手早く切ればいい。あといい人はちゃんと「良く見せようとする努力」を汲み取ってくれる。
何においてもパッケージが綺麗なことに悪いことはない。
あと服の可愛さの難易度下げたいならデザインの難易度下げた分、襟ぐりにビジューがあるやつにしとけ。顔の回りキラキラさせておけ。
それだけで男は「女子アナみたいな服」って思うよ。たぶん。
あとどうせなら自分に似合うピンク探して着たらいい。出来れば上半身!
「スカートならまだ…」とか言う人いるけど、どうせ向かい合ってご飯とか食べてたら下半身見えないから。
ピンクが無理なら若草色とか柔らかい黄色とか。なんかとにかく上半身に自分に似合う優しい色とキラキラするやつ。
あと顔色よく見えるやつ。
服はレフ板だよ。
ワードローブを全部変えなくていい。写真とデート二回分だけ持ちこたえろ。
着回したら三回いけんだろ。
あとさっさと「普段もっと違う服着てる」とか告白しておけばいいよ。
とにかく最初期の間だけチャラチャラして世の中に迎合しよう。制服でシステマチックにな。
逆にここまで来て服が女子アナ系じゃなくなったら嫌だって男なら要らないから切ろう。スッパリと。
写真とか初対面の服は本で言うなら表紙です。
表紙が今風で手に取りやすかったら案外中身が難解でも手に取る。手に取って中を見てもらったら表紙と印象違ったけど中の方が好みに合うとかあるから。
中身ドグラマグラでも表紙が人気萌絵師だったら手に取る人いる。
読んでみたらクセになって新しい扉開いちゃう人いる!
僕だけのドグラマグラを手に取らせよう!
みんな婚活服で悩むのはやめよう。
まずは世の中に迎合して、お手本通りだけど自分に似合う服を探そう。
入り口だけキラキラして中見てもらえたらうまくいく確率上がる。まずは手に取らせるのが大事。
でもいつもと違うのストレスだからシステマチックに行こう。服よりもリソースを割いて拘るべき所がある。
服にアイデンティティを置いてる人は拘っていいよ。
※追記
反応してくれた人いた、ありがとー。
お察しの通りアラフォーの殴り書きです。
デブスのアラフォーだけど数年前に一年の婚活ののち結婚してるよ。
アドバイスのつもりはなかった。
増田より若くて可愛いい子が苦戦してるの見ると歯痒いとは思う。
上から目線に見えたらごめんね。
普段しない格好で気に入られても…って意見あったけど、見た目を良くするのはただのきっかけだよ。
あと具体的なブランドがないってのはデブスだから普通サイズの増田のブランド知らないんだ、ごめんね。
デブスの増田は組曲とか着たよ。新宿伊勢丹と池袋東武はデブの聖地だよ。
※再追記
何度も出てきてすまない。
重ねて言うけどこれは「選ばれるため」でも「好きでい続けてもらうため」の話でもないよ。
もっと手前の選択肢にするかしないかの足切りをされる確率を下げる話。相手の視界に入りやすい格好しようってだけ。
女の人も婚活アプリでトゲトゲのついた服の世紀末覇者みたいな人と、ちゃんとしたスーツ着た飯尾くんなら、飯尾くんとペッコリ45度する人の方が多いでしょうっていうだけ。
「男性受けのいい服」って考え方がキツかったら「お母さん受けのいい服」って考えたらいいよ。
世の中の中産階級お母さんが「今日の服可愛いじゃない」って言ってくれそうなヤツ。
多分男性受けとお母さん受けは近似値だと思う。
あとアプリとかの複数枚写真が登録できるところなら、普段のスナップも登録したらいい。
男性もちゃんとした写真の他にスナップ入れるのアリじゃないかな。友達と楽しく撮った写真は確かにおすまし写真より素の良さが出るよね。
メイクに関しては女性は分かってくれると思うけど「ナチュラルメイクが一番難しい」と思うの。
だからプロに頼むのは「ナチュラルで盛り盛りじゃないやつ」だよ。
付き合いは始めてから程なくして、大学二年生の夏に旦那が不調を訴え始め、検査の結果指定難病を患っていることがわかった。
初めに通った病院に専門医がおらず、対応もあまり良くなかったのもあって病気は悪化していった。そのころは薬もなかったので、治療の成果は芳しくなく、入院が続き、旦那は2年間の休学を経て最終的に退学した。
大学時代はデートもろくに出来なかったが、かわりに病室に通い詰めて語り合った。
正直付き合い始めたころはそんなに旦那が好きではなかったのだが、辛そうな姿をそばで見ているうちに情が沸き、旦那を支えようと決意が固まり、私の内定が決まった日にプロポーズして卒業後すぐに籍を入れた。
旦那は在宅で細々と働き、私は私で正社員として結構バリバリと働くようになった。まだ共働きが主流という時代でもなく、適当に働いて子供が生まれたら辞めようと思いながら生きていた私にとっては大きな人生の転換だったと思う。
子供は作らない方針で生活していたが、恥ずかしながら授かってしまい出産した。幸運にも不運にも、子供は一卵性双子でお互い実家から離れた土地で生活していた私たちにとって育児は難を極めた
旦那はそのころ一番病状がひどく半分ぐらいは入院していたのでワンオペ育児、プラスして旦那の手助けもしなくてはならなかったし、毎日が慌ただしく心休まる日はなかった
その頃は旦那の収入もほぼ無く、手当が出ないぶんシンママより厳しかったと思う
ただ、きつい時も旦那も子供も自分で支えなくてはという気概でなんとか自分を鼓舞して乗り切ることができた
子供が高校生になったころに、良い治療法が見つかり、それが旦那にとても合っていた。完治はしないものの症状はほとんどおさまり、普通に働けるレベルまで回復した
それが最悪の始まりだった
旦那は高卒であることやキャリアを積むべきときに伏せっていたことに凄まじいコンプレックスを抱えていたらしく、ネチネチと嫌味を言ってくるようになった
病気がなければもっと(女と)遊んでから結婚していたという風に言われたのもかなりカチンときた
在宅の仕事をやめて専業主夫になると宣言し、そのくせ以前より家事を手伝わなくなった
もともとうちの家事はほとんど息子とわたしの3人で回していてうまくいっていたので旦那が主夫になるのは正直誰も求めていなかった
更に、今までいくら相談しても聞き流していた息子の教育についても急に口を出し始め、気まぐれに進路に反対したり、あそこに行けここに行けと言うので息子たちも迷惑がるようになった
もともと旦那は細身で色白、儚い雰囲気の男性だったが病気が良くなってから食生活が変わりみるみるうちに中年太りをした
これが一番きつかった
失うまで気づかなかったが、わたし旦那のそれまでの容姿がドストライクでタイプだったのだ
ここまで語った一連の変化にわたしはすぐには気づかなかった
今は心が弱っているのだと思いずっと流し続けていた
ある時ふと気づくと、わたしの守るべき弱々しい夫は口煩いうざい中年オヤジになっていたというのが本当のところだ
そこからさーっと気持ちが覚めて、なんでこんなオヤジに尽くしているんだろうと思うようになった
旦那はわたしの中で完全に終わっている、完全に破局していると思う、が離婚に応じてくれない
そりゃそうだ。彼は職歴とろくにスキルアップしてない在宅ワークがちょこちょこしかない高卒の中年なんだから。今更捨てるのも可哀想だとは思う。だから別居しての強引な離婚には踏み切れない。が、もう別れて欲しいと思うのも事実だ
わたしも薄情な人間だと思う。病気の旦那を世話する自分が好きだっただけなのかもしれない。それで治ったら捨てるなんて無責任すぎる。
でも、旦那が病気でなければ私たちは結婚していなかったろうと思う。わたしが結婚したのは病弱な旦那だったのだ。今更治られても困る。旦那は今まで病気である負い目から萎縮していたのだろうと思う。思えば付き合い始めた頃は結構態度のでかいところのある男だった。
いっそ旦那が介護を要する老人になるまで我慢すればまた元の関係に戻るのだろうか。もう好きじゃないから出て行って欲しいなんていうのも酷いよなあ。
もう2週間ぐらい旦那を無視しているからか、旦那はしおらしくしてはいる。が、これを許すとわたしが無視→旦那が萎縮→私満足みたいなモラハラな気がする。いや既にモラハラなのかな。今までろくに喧嘩もなかったから喧嘩の仕方も仲直りの仕方もわからないし、もう前みたいに愛せる気がしない。こいつと添い遂げるべきかさっさと突き放して捨てるべきかわからない。何が問題って、旦那は私に必要ないってわかってしまったことだ。