はてなキーワード: 宮殿とは
市民ケーン観た。
ヒッチコック辺りと同じような映像技法の教科書的作品らしいけど、おれはその辺興味がないのでストーリーに目が行った。
愛を渇望して、埋め合わせようとしても事足りない空虚さ。失われて取り返しのつかないものって所では、おれも小中学生くらいの頃もっと遊んどきたかったよねってちょっと共感する所はあった。人生って絶え間ない現在の連続なんだし、喜びを捨てていい時なんて一瞬たりともないだろ。未来への投資?今だけ我慢?知らねーよボケって思ってた。
憧れのテレキャスターを弾いたところで、映画作品の背景や位置付けの知識を仕込んで体系的に観てウンウン唸ったところで、マックに集ってP2GやMGSPWの対戦をしてバカ話をしていたあの頃の喜びがあるだろうか。
一方で共感しきれない部分もあった。チャールズ・フォスター・ケーンには権力と金とモノを手にしたという経験が実際にあって、それでも満たされないという実感がある。それは彼の実感であって、おれの納得じゃない。宮殿に住んで開封すらしない美術品を買い漁れるような巨万の富ではなくとも、糸目を付けず欲しい物を買えるくらいの金は欲しい。物質的な豊かさだって大事だ。ゴータマ・シッダールタとて、金持ちではなく門の前で苦しむ側であったら果たして悟りを開けただろうか。他者とのつながりや愛が何を差し置いても大事なものだとも思えない。それが人生の決定的なピースかどうかも分からない。人生は一言で片付けられないなって思った。
まあ大人がいくら後悔した所でこうやって映画にしたりする事くらいしか出来なくて、それだって当の子供に見せた所で伝わるかどうか分からない。ままならないねえ。
ハンターのアリ編のアニメ一気見した。面白すぎて気が狂うかと思った
ここ最近アニメあまり熱心に見てなかったからアニメってこんな面白かったんだ!という気持ちが思い起こされて今アニメ熱が高まっている。
進撃とかまどマギはよく10年に一度クラスのアニメと言われるが、確かに面白かった。
そこに及ぶかは分からないけどシュタゲとかひぐらしあたりも昔ハマったな。
ここ数年でまぁまぁ良かったのはオッドタクシー。
でも今流行ってる呪術廻戦とか少し前だとリゼロとか、見ても面白さが分からなかった。
そんな面白いか?ハマれなくて途中で脱落した。
単純にもっととにかく話が面白い・続きが気になる・よく練られている・脚本のレベルが高い作品が見たい。
何かおすすめしてくれ
こういうつるし上げをしてもらうことでまた昭和を過去のものにできる
この手の最低最悪の事件としてはどっかの市議会の「東南アジアレイプツアー」だったと思った
「令和5年女性局フランス研修 研修ノート」と題された冊子には、出発(7月24日)から帰国(28日)まで3泊5日の日程が記載されているのだが、純粋な研修に充てられていたのは、たったの6時間。
ガイドツアーや、在仏日本大使らとの食事会を含めても、10時間にしかならないのだ。ここからは詳細にスケジュールを見ていこう。
初日は、入国手続を終えてホテルでの結団式となっているが、食事にうるさいセンセイ方のためだろうか、そこにはわざわざ「肉料理」と記されている。
2日めは朝食の後、10時からは国民教育・青少年省の担当者からブリーフィング(簡潔な説明)を1時間。なんと、午前中の予定はこれで終了だった。昼食として一行は、「魚料理」を堪能している。
「1949年創業の老舗レストランです。ランチは30ユーロ(約4700円)からコースが食べられます」(現地駐在員)
午後にはフランスの国会議員2組と1時間ずつ面会が設定されているが、“お仕事” はここまで。リュクサンブール宮殿(国会議事堂)をガイドツアーで見学し、「10分程度」とされるエッフェル塔での観光には、旅程表では30分が割かれていた。
そして夜こそが、この日の目玉だったのかもしれない。2時間の自由行動の後、20時半からセーヌ川で、2時間半の優雅なディナークルーズが組まれていた。
3日めは、さらに観光色が強い。国会議員らには午前中に1時間の保育園視察があるものの、他の参加者は14時40分まで研修はない。国会議員らも早々に合流し、シャンゼリゼ通りでの自由行動が2時間以上。旅程表には「ショッピング等をお楽しみください」とわざわざ書かれ、はしゃぎっぷりが伝わってくる。
元自民党職員で政治アナリストの伊藤惇夫氏は、この「実働6時間」の旅程表を見て、「“観光旅行” と受け止められても仕方がない」と思ったという。伊藤氏が続ける。
「これだけ自由時間がある視察を見たことがありません。この日程を決めた人物は、視察の目的がこれで果たせると、なぜ考えたのか。団長の松川さんは、党費を使ったことは認めているので、党員に説明する責任があります」
そして、この「研修ノート」には、さらなる問題が隠されていた。視察の参加メンバーが掲載された「団員名簿」では、同行していた松川議員の次女が、38人の派遣団員に含まれているのである。
《38名の参加者は、全国の女性局所属の地方議員及び民間人で女性局幹部となっている方々》
自民党に入党できるのは、満18歳以上だ。松川議員の次女は小学4年生で、当然その資格はないはずだが――。
自民党関係者によれば、今回のフランス視察で、国会議員以外の派遣団員の自己負担額は20万円だったという。もちろんこの金額で渡仏できるわけもなく、つまり次女の渡航費にも、党費が使われた可能性があるのだ。
「党本部は、報道で初めて松川氏の次女が視察に同行していることを把握したようです。松川氏は次女の渡航費について帰国後、党に実費を追加で支払うことになったといいます」(自民党関係者)
さらに松川議員は、初日の結団式で乾杯の音頭を取って以降、旅程表にその名前が登場していない。
「自分が知る限り、視察中の食事会で乾杯の音頭を取るのは、常に責任者である団長でした。松川さんが別行動を取り、研修を欠席していた可能性があります」(伊藤氏)
鎌倉、いいところですね。
関東に来たばかりの頃は、鎌倉にきて、こんな"古都"もあるんだなあと少しばかりびっくりしたけれど。
古都という色眼鏡を外せば、鎌倉の良さがすこしずつわかってきた、気がする。
鎌倉というと歴史都市と思われがちだけど、案外関西なら西宮から西側、須磨とか塩屋あたりまでくらいの雰囲気に近いのかもしれない。
あそこまでハイソな雰囲気はないけれど、東京の文化が入ってきていて、それなりに洒落た店も多い。
京都のように深い伝統の香りはしないけれど、まあ、いい感じの海沿いの街としては、ありなのではないかな。
春の晴れた日に海沿いの古い路地を歩くと、これが漱石の味わった鎌倉かもなあと、嬉しくなる。
関東風の中華そば(甘すぎず美味しい)とか、無骨な力もちとか、そういう、言ってみれば滋賀の片田舎で感じるような、素朴な良さが鎌倉にはただよっている。鎌倉野菜は京野菜のパクリみたいで笑ってしまうけれど。
最後に、寺社仏閣としては、見るべきものはそれほど多くないけれど、禅寺の荒々しい雰囲気はなかなかよい。京都の禅寺は洗練されすぎていて、貴族の宮殿みたいなのだ。ああいうのは、本来の修行の場としての寺ではないんだろうなと思っていたから、鎌倉くらい無骨な雰囲気の方が、らしくてよい。
鶴岡八幡宮は、廃仏毀釈で見る影(それは石清水八幡宮もそうだ)もないけれど、それでももう少し建築年代が古ければ良かったのに、と思う。石清水八幡宮だってこないだ国宝になったんだから。あれ、近世建築としても、洛中のものからすれば格落ちすると思うけれども。
サーフィンでも、はじめようかな。
ライズからやり続けて最終アプデまで遊んだ、ワールドど比較したら劣るなと思いつつ最終アプデまで遊び続けられるぐらいに楽しめた。
対戦ガチ勢だった過去は忘れてRPGと図鑑集めを楽しんだ、杭の場所が分からず伝説ポケモン3匹捕まえられないまま塩漬け
ギルバルドエンディングを見た、Lルートのエンディングを見る予定だったが死者の宮殿入てから面倒くさくなって塩漬け
・スマブラ
子供とたまに遊ぶ
・マイクラ
子供とたまに遊ぶ
・Witcher3
週1でサイドクエストを1つクリアしている、メインシナリオが全く進まない
・スパロボ30
週1で1話ずつ進めている
リメイクと間違えて買った、2日に1章のペースで進めている
デイリー消化する程度で遊んでいる、新パック発売されたらドラフトで遊ぶ
・麻雀
FF16が発売されたら他のゲームは一旦止めて集中して遊ぶ予定、あぁ楽しみだなぁ
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★主な登場人物
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シャロン(ターの内縁の妻・ベルリンフィルのコンサートマスター)
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フランチェスカ(ターの元愛人・指揮者見習い・副指揮者の地位を狙っているが現在はターのアシスタントに甘んじている)
クリスタ(ターの元愛人・指揮者見習い・現在はターに追放され(?)ニューヨーク在住)
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★シーン
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プライベートジェット(ベルリン→ニューヨーク)で眠るターを撮影しているのはフランチェスカ。チャットの相手は多分クリスタ
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冒頭のクレジットの背後で流れるのはターの実地調査先のペルー東部ウカヤリ渓谷の先住民の歌(この調査にはフランチェスカとクリスタも同行していた模様)。
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レコードを床にばらまいているシーン(ターの仕事部屋?)の足はおそらくフランチェスカ。
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講演会後に話しているファンの女性とターはおそらくこの夜密会している(女性のバッグが後にターの持ち物として出てくる)。
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指揮者がヘッドフォンをしているのは映像と合わせるためのガイド音を聴いているから。なおこのシーンはモンスターハンター(テレビゲーム)の観客コスプレ演奏会と思われる。
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クラウディオ・アバド…ベルリンフィルの元首席指揮者(故人)。
バーンスタイン…指揮者(故人)。愛称「レニー」。ターの師匠(という設定)。テレビ番組(ヤング・ピープルズ・コンサート)などを通して一般庶民にクラシックを普及した。
ジェームズ・レヴァイン…指揮者(故人)。セクハラ等の女性絡みのスキャンダルで有名。
シャルル・デュトワ…指揮者。セクハラ等の女性絡みのスキャンダルで有名。
マイケル・ティルソン・トーマス…指揮者。愛称「MTT」。
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ…大御所チェリスト(故人)。ロシア人。
ジャクリーヌ・デュ・プレ…女流チェリスト(故人)。多発性硬化症で早期の引退を余儀なくされる。
ダニエル・バレンボイム…指揮者/ピアニスト。過去にデュ・プレの恋人だったことがある。
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★トリビア
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フリーボウイング…通常、弦楽器の同一セクションでは統一する弓のアップダウン(引き弓・押し弓)を奏者個人の判断に任せること
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ベルリンフィルを演じている(?)のはドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団。ホールはドレスデン文化宮殿。
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ほぼ全編に渡って音声は同時録音。つまりブランシェットは実際にバッハを弾いて、マーラーを指揮をしている。そしてオルガ役のソフィー・カウアーは実際のプロのチェリスト。
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ジョン・ミクルウェイトとエイドリアン・ウールドリッジ著『The Right Nation: Conservative Power in America』からの引用
アメリカはもはや "新しい国 "とは言えない。
アメリカには、古えの城塞や宮殿がないのは間違いない...しかし、これは若さの証拠とは言い難い。
アメリカへの最初の入植は、ジェームズ1世が王位についていた頃で、イングランドはまだブリテン/連合国ではなかった。
ガリレオは、1636年に設立されたハーバード大学の教授になることを提案された。 これはチャールズ1世が斬首される前のことである。
独立宣言は、ドイツやイタリアが統一される1世紀前に署名された。
アメリカ人の脳内で憧れられるイギリスを古い国と定義する伝統の多くは-帝国の華やかさ、チャールズ・ディケンズのクリスマスの儀式、シャーロック・ホームズの鹿撃ち帽-はアメリカ憲法制定から1世紀後に発明されたのだ。
印刷技術が発展したあとの時代でも多くの画家は宮廷・教会・謎太客(パトロン)・既存財産のどれかをライフラインにして飯を食ってた。
今のイラストレーターみたいに「仕事ください。値段含めて交渉はDMでしましょう」って看板出すような感じじゃなかった。
まあ結局ミュシャもコネで仕事取っていった感じではあるんだが、それでも「ウチの家(教会)にこんなの飾りたいんだよね」みたいなノリじゃなくて「今度のイベントで使うポスターなんだけど版画で200枚ぐらいする予定なわけよ」って感じの仕事を受けてた。
モチのロンでそういう人達は既に世界中にいて、我が日本でも浮世絵文化や春画文化があって江戸の街のどこかでエチエチ絵を書いて稼いだお金で食ってる連中は居たんだが。
ただそういった人達の中でクオリティにおいて旧来の画家に匹敵する人は少なくて、「やべーパトロンを捕まえるほどの力がないから庶民向けにシコシコしてた」みたいな所があったわけだよ。
でもミュシャはスラヴ叙事詩に代表されるようなガチればヤバイ画力を持った上でイラストレーターもしてた。
その超画力でちょっとお金がある庶民向けに印刷物を作ったり、町中に貼られる催し物の広告を作ったりしてたっていうのがね、「教会や宮殿以外の場所でも画家の絵に触れられる日常の始まり」として価値があるわけ。
新時代を作ったんだよ。
ちょっと絵が上手い人が看板にちょっと上手い絵を描くとかとは違うんだよレベルが。
ガチの画家が雇われた絵師として日常空間に存在するもの向けの絵を描くってのを宗教と無関係にやったのがヤベーわけ。
その中でまあ色んな作品があったんだけど、トップクラスに上手かったので「このポスターお宝だわ。とっとこw」って保管され続けてきたんだわな。
「日常に神絵師」ってのは今の社会じゃ当たり前っていうか、むしろある程度画力がなかったらテレビや電車広告に顔を出したりはしないわけじゃん。
でも昔は「おらが村の実はちょっと上手い人」ぐらいがせいぜいで、名前はともかく関わった他の作品聴いたら「あ、あの人ね」って皆がなるような人間の絵がそこら中に出てきたりはなかったの。
ウクライナのゼレンシキー大統領に岸田総理が必勝しゃもじを贈った件、一部で被災地への千羽鶴と同じ無駄なもの扱いされてるけど、さすがに違うのでは。
「役に立たない縁起物を贈った」という表面だけを見て千羽鶴と同一視するのは、さすがに千羽鶴問題の本質を捉えられていないのでは。縁起物だからダメなんじゃなくて邪魔だからダメなんだよ。今回みたいに別に邪魔にならない局面で縁起物贈るのは全然アリでしょ。
ウクライナのネット記事、ウクライナ国営通信の平野さんの名前間違っててワロス。どっちも苗字じゃねーか!
«Японці добре знають, що Кісіда часто фотографується у своєму офісі з великим шямоджі перемоги, зокрема під час виборів. І цього разу він вибрав такий символічний подарунок зі своїм підписом для Зеленського. Здається, що його меседж до України доволі чіткий», — зазначив Хірано Такахаші у своєму дописі.
あとセルヒー・コルスンシキー駐日ウクライナ大使が「岸田のスペルはКішідаだよ!」って言ってるけど、いや別にКісідаでも間違ってないです、とは言いたい。訓令式だとKisidaだからКісідаと綴るのも正しい。ヘボン式だけが日本語の転写法ではないので、Кішідаと綴るのは自由だけどКісідаと綴る人に「それ間違いだよ」と指摘すべきではない。
今僕らが生きるシステムがユートピアでないのは、それが『人間によってデザインされたものではないからだ』
乾燥した地形を眺めて、川が将来どんな形になるかを水が重力に従うと仮定すれば分かるように、文明をみて人々がインセンティブに従うということを予測すればどのような機構ができあがるかを予測できる。
だけどそれは、川の形が美しさといった人間の価値観のために作られた訳ではなく、むしろ乱雑に生成された地形の結果であるのと同じく、全ての社会的機構は繁栄や正義の為に作られた訳ではなく、ただランダムに決定された初期条件の結果であるということだ。
人々が地形を塗り替え、運河を作ることができるように、人間もより優れた機構のために、動機の形を作り替えることができる。だけど「それ」が行われるのは動機付けられた場合のみであり、いつもではない。結果として、むちゃくちゃな支流や激流なんかがとても奇妙な箇所に現れることになる。
[...] まるで、最初の雨が降るはるか前から地形の中に運河の流れが埋まっているように、カエサルの宮殿は存在する前から神経生物学、経済学、そして監督制度に潜んでいたにすぎない。設計した建築家は、半透明な幻影の線に従って本物のコンクリートを埋めていただけだ。
https://tatuichi.hatenablog.com/entry/2019/10/24/211331
人間がAIを作りシンギュラリティを起こすことは宇宙の誕生時点で決まっていたのかもなあ
偶然すらも必然に過ぎなかったと
「お前は彼女の心に一切不満や寂しさを抱えさせなかったか」と問われたときに「はい」と断言できる自信がなかったから。
思えば今まで、パートナーのいる女性と関係を持ったという男の話を山ほど耳にし、パートナーがいるけどそれ以外の男性と関係を持ったという女性の話を山ほど耳にしたのに、どうして自分の彼女がそれと無関係なのだと勝手に思い込んでいたのだろう。
「自分の彼女(妻)は浮気をしない」と頑なに信じている男性だって、365日24時間パートナーの行動や人間関係を把握している訳ではない。
「私は一度たりとも浮気をしたことがない」と言い張る女性だって、それを確かめる術はない。女性の脳には「自分の都合の悪い記憶や発言を綺麗に消去する」便利な機能が付いているので、本当に浮気をしたことがないと思い込んでいる可能性はあるかもしれないが。
そもそも、キリスト教だってイエスの誕生は聖母マリアの不貞、そして夫であるヨセフのマリアに対する許しから始まっている。
不忠を働いた人間を一族諸共皆殺しにする権力を持った皇帝が側室達を豪華な宮殿に閉じ込めて、最高の贅沢品で囲って、生活の世話をする男の性器を切り落としたって側室達の不貞話は枚挙にいとまがない。女性の人生に不貞は付き物であり、男性が女性と関わる上で「不貞を許すかどうか」ということは避けられないことなのだろう。
女性が命の危険を冒して子供を産む生き物である以上、魅力的な男性が現れれば体を許すのが女性である。それがどうしても嫌だという男性は一生女性と恋愛などしない方が良いだろう。
の続き
曲名: Prelude to Madness(Savatage)
https://www.youtube.com/watch?v=DyBCSJQH2zE
曲名: In The Hall Of The Mountain King(Apocalyptica)
https://www.youtube.com/watch?v=VNE7Mt63t2E
Rainbowのことを考えたときにグリーグの 「山の魔王の宮殿にて」を思い出した。
せっかくなので別のバンドを記すことにした。他にもSavatageを中心にして生まれたTrans Siberian Orchestraなども演奏している。
https://www.youtube.com/watch?v=F-WazDQZu0I
Acceptのギタリストがヘヴィに仕上げており、聞いていて気持ちいい。彼はクラシックを取り上げたアルバムを2枚出している。
https://www.youtube.com/watch?v=W8bbodUFUUU
聞いたことがある人も多いだろう「怒りの日」を引用。長尺の曲だが、いかにもな展開でニヤニヤしてしまう。
私はこれ(https://www.nicovideo.jp/watch/so17472785)を思い出してしまう。
https://www.youtube.com/watch?v=rJeBuEjQeoI
聞けばわかるとあのフレーズ以外にもいいアレンジがされていて好き。Fabio Lioneの声も好きだ。
リンク先の楽曲は違うと思うが、Rhapsody of Fireの別の楽曲では、Christopher Leeがゲスト参加していて渋い声を聞かせてくれている。
Jason Beckerの1stソロアルバム「Perpetual Burn」に収録された「Air」がアレンジされ、オーケストラで演奏された動画を紹介したい。
原曲が本当に素晴らしいので聞いてほしいが公式動画はない模様。
曲名: Jason Becker's Air Covered By Konstantin Kokourov
引用: Air(Jason Beckerの1stアルバム「Perpetural Burn」収録)
https://www.youtube.com/watch?v=Vt4YHlSbuk0
さて、Jason Beckerをご存知だろうか。10代でCacophonyというバンドでデビューを果たしたギタリストだ。
ツインリードギターが売りのバンドで、もうひとりのギタリストは、先日Megadethの武道館公演にゲスト参加したMarty Friedmanだ。
JasonはソロアルバムとCacophonyの2ndアルバムを出したあと、Van Halenから抜けたDavid Lee Rothのバンドに参加。
しかし、スーパースターのバンドでこれからというときに、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症してしまう。
バンドのアルバムと2ndソロアルバムを完成させたものの、目を動かす以外の体の自由がなくなった。
それでも作曲活動を続け、2018年にはアルバム「Triumphant Hearts」をリリース。Martyをはじめ錚々たるプレイヤーが参加している。
記事の主旨からは外れるが番外編ということで、その2018年のアルバムから「Valley Of Fire」を。
https://www.youtube.com/watch?v=1gS5ibUPUvg
これでも削ったほうですが、語りたくなってしまった。
SF映画の名作と聞いていたが、長年観ないで居たのをふと思い出して観てみた
同じリドリー・スコット監督のブラックホーク・ダウンはすごく良かったし、エイリアンについては自分の中でもベスト3に入るぐらいの名作だったのですごく期待してた
あらすじは
近未来、人類は遺伝子操作で産まれた人造人間レプリカントを奴隷として使役していた
レプリカントは身体能力、知能において人間を凌駕する存在で生きている内に感情を持つようになるため、反抗を抑えるために4,5年で寿命を迎える
そんなレプリカントたちが脱走したため、主人公の捜査官ブレードランナーが4人のレプリカントの抹殺を命じられる
まずやたら暗い
前編通じて、スターウォーズEP6の序盤のジャバ・ザ・ハットの宮殿のシーンのような陰鬱さ
それでいて盛り上がるシーンや見せ場がどこにもない。驚くほど盛り上がらない
そして、強敵かと期待させたレプリカントが弱い、というよりバカ
まず4人の内2人があっけなく倒される
3人目のレプリカントは主人公を不意打ちで追い詰める、かと思いきや唐突に謎の嘗めプをしあっさりと倒される
こいつも不意打ちで主人公を負傷させたかと思いきや、また謎の嘗めプをしだす
その後主人公をじわじわと屋上まで追い詰めるのだが、そのシーンもつまらなさすぎて欠伸が出る。
そして最後は主人公が絶体絶命のピンチに陥るのかと思いきや、レプリカントに寿命が来て死亡という、糞オチ
どこが知能高いの?ただ運動が出来るバカじゃん。こいつらIQ70あるの?
そういいたくなるアホな悪役たちと盛り上がるシーンが一切無い糞映画に
「ワクワクを返せ」とキレそうになった
一番面白いシーンは序盤のうどんを4つ頼んだ主人公が店主に「2つで十分ですよ」と怒られるシーン
まだ派手なアクションや悪い意味で予測を裏切るシーンがあるだけディズニー・スターウォーズの方が面白かった
まさか自分の中のワースト糞映画が更新されるとは夢にも思わなかったな
でも、こんな糞映画が評価されてるのって近未来SFに陰鬱で退廃的な雰囲気を取り込んだことと、遺伝子操作というテーマを扱ったことが原因なんだろうな
でもさ、映画ってのは娯楽なんだからどれだけ重くて深いテーマを扱おうともつまらなかったらそれはゴミじゃん
高尚なテーマだけ語りたいなら、映画なんか創らずに、思想書でも書いてりゃ良いじゃん
そのせいで色々思い出した
これも児童養護施設という重大なテーマを扱っているけど、作品としては陰鬱で退屈だった
でも、本当に盛り上がらなさすぎてつまらないんだよ
1巻と3巻はまだ楽しめた
まあ、ゲド戦記は作者の文才と興味深い世界観があっただけマシだな
陰鬱な作品でも面白い作品ってのは山ほどある。自分が観た中ではディア・ハンター、プラトーン、炎628、ヒトラーの忘れ物、存在のない子供たちetc…
どれも観ててしんどい作品だった。特に前3者は観た直後かなり凹んだ
でも、決して退屈はしなかったし、なんだかんだで観て良かったなと思える作品だ
パラサイトだってテーマはかなり深刻だけど娯楽作としても超一流じゃん
映画、ドラマ、文学どれも前提条件として娯楽なのだからつまらなければただのゴミなのだ
だから、通ぶって重いテーマ扱った駄作を持ち上げてんじゃねーぞ、自己満オ○ニスト映画オタクども
腹立ちすぎて長文投稿しちゃったよ
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41