はてなキーワード: 仮面とは
ロジックに誤りはないと思うけど、くだんの下方婚の話はどうなる?
女性は、たとえ自分が儲かるようになっても、自分以上にカネのある恋人を望む、ってヤツ。それが現代の女性の働き方改革の過渡期にあるから、ではなくて女性の普遍的な性質だとするなら。弱者男性がいかにルックスを改変しようと、社会主義にでもならない限り格差は依然そこにある。未来では弱者男性は、なけなしの口座を絞って仮面を買い、事情を知らぬ女性が白馬に乗って迎えにきてくれるのを待つのかもしれない。経済状況がバレるまでは恋愛は持続するだろう。なんだかシンデレラに似てるねこれ。
希望があるとしたらフェミニズムによるセルフアップデートが達成されて、女性が自分の選択基準にメスを入れるようになる可能性だ。元増田の未来予想のように、人間再生工場で自分自身さえも改造するかは判らないが、なんらかの方法で自己の価値観を更生し、ルックスや所得ではない男の本質を直視するようになる。平等で公正な判断基準で、自分たちの幸福だけを考えてパートナーを選ぶ。悪い選択基準は批判されるからインセルは原理的に生まれない。ジェンダー的ユートピアがそこにある。
今回の騒動で批判派は口々に、議論に混乱をもたらす、と言っているが。
議論をスムーズに終わらせたいのなら、必要なのは事前の根回しだ。
熱心な水面下のロビー活動を通じて密かに賛同者を集めることで、自分たちの要求が通りやすくなる。
名声を得たオピニオンリーダーはフォロワーの期待を受け、彼らの信じる主義主張を先導する。
配下の信者はリーダーを後押しして力となる。代わりにリーダーは彼らを背負う重圧を負う。有形無形の守るべきものを囲う。
リーダーは自分と党派のイメージに気を配らなくてはいけない。対人論法の犠牲にならないように潔白に振る舞うのだ。
ここでは誠実さが信頼の土台になる。その先にあるのが、党派の勝利だ。
まったく逆を行うとどうなるか。
二つの仮面を着け外ししながら、クルクルと主張を変える。恥をかき棄てて、人々にどう思われるかなど気にせずに、軽薄短小に振る舞う。マッチポンプをフル稼働させて界隈をアジテートする。議論のエネルギーを供給し続ける。
論者は、頼られなくなるだろう。代わりに、論の内容が重要視されるようになる。誰についてるか、味方が何人かなどが説得力にならないから、主張の本質で勝負するしかなくなる。
正反対の二つの視点から物事を見ることで、片方からでは見えなかった何かが浮かび上がってくる。相手の話の妥当な部分を受け入れ、自分の説の弱い部分にアッサリ見切りをつける。そうして議論は深まるだろう。
激しい論戦の末に生き残った理屈は、人間にも時代性にも独立になる。あらゆる視座をくぐり抜けてきた理屈は、高い説明可能性を備える。老人にも子どもにも説明できるものになっているはずだ。
検証可能性が唯一、正しさを支える。
あれは周りから「表現の自由戦士ww」って馬鹿にされ言われ続けて、別に否定するわけでもないから最近自称でも使い出しただけで
「私は表現の自由戦士でござーい!」って主張する肩書じゃないよ。
エロ絵だってBL本だって守りたい表現があるなら誰だって表現の自由戦士だよ。自動車乗るときは交通ルール守るマンになるし、会社では社会人仮面だよ。
時代とともに恥の文化ってのは徐々に形態を変えてきたんだろうけど、ネットによって急速に変わったものの一つが「恥ずかしい」という概念なのかもしれない
俺はネットで自分の趣味や年収や家族のことを話すのはとてもためらうし、正直恥ずかしい
匿名であっても例えば「俺の親父は子供に暴力を振るうようなクズ」や「年収3000万の父は自慢だった」みたいなことを話すつもりはない
たとえ中流で温和で読書が趣味であっても、それをあえて公言することに意味はないし、恥ずかしいと思っている
けれどどうもネットというのは匿名性が確保されていればそういうことを書いてよくて、というか書くべきという風潮があるらしい
特に増田は家庭内のことを赤裸々に書きつつ、ブコメも詳細を知りたがる人がちらほらいる。なんでそんなことを書くのか、また聞こうとするのか。
もちろん大部分はそんな人ではないのだが、むやみに突っ込みたがる人を見ると「ネットはそういうことを恥ずかしげもなく明かすのがデフォになったのか」と思わずにいられない
彼らは自分たちの生活を切り売りするようなことをして、恥ずかしくないのだろうか
自分には無理だ
苦手な人というのはたくさんいるんだけど、嫌いな人というのはそんなにいなくて
よくほら嫌いというのは少なからず意識してるからどうでもいい人よりは意味があるとか
「嫌いな人」に対しての考え方って色々あるじゃん
そういうのは頭ではわかってるし、だからできる限り無関心でいようと思うんだけど
どうしても「ああああああやっぱりこいつ嫌いだわあああああああ!!!!」
ってどうしても思ってしまう相手が近所のコンビニの店長さんなんだよね
こんなに嫌いだって思える人そういないのでそんなに感情がはっきり感じられる自分に少し驚いてもいる
あれそういえばこの人よくいるけどけっこうおっさんだし店長かな、くらいの認識
でも通ってるうちに気になることが色々出てきた
もうとにかくできる限りの速さを追い求めていて、素早い
コンビニの接客としてできるだけ急いでレジ打つってのは正しいあり方なのかもしれない
でもその店長はこっちが支払いしてる時も明らかにピリついた空気を出してくるんだよね
もとからせっかちな人なのか
店の売上とか本社からのプレッシャーで日々神経を尖らせた結果なのか知らないけど
「俺、今待ってますよ」感をすごい出してくるわけ
自分が遅いのかなとも思ったけど他の客の時もおんなじだったからそれが通常なんだと思う
電子マネーだからこっちはピってやるだけなんだけどその短い間も
「俺は行かなきゃいけないとこがあるんだよ」って感じで指トントンしたりしてる
自分昔コンビニバイトけっこう長くやってたからある程度仕事内容って詳しくて
それで気になっちゃうてのもあるんだけど
異常に棚整理しまくってる
もうちょっとでも前に出てない商品あったら10秒以内に前出さないと爆発とかするの?
ってくらいの勢いで前出ししてくる
各棚とレジを交互に気にしながら首を振りまくって店の中をウロウロする
客に対しては声がすっごい猫なで声で
嘘だろってくらい芝居じみた高い声でいらっしゃいませ~とか言っててそこまでやったら逆に失礼じゃねってくらい
なんだけど逆に店員に対してのあたりがきっつい
「お前考えたらわかるだろほんとダメだななんでわかんないんだよ」とかよく切れてた
他の店員にもまあ似た感じで商品手前に出せてないとかでギャーギャー言い出す
こっちまで緊張感が伝わってくる
それでいきなりその店員から商品を無言でもぎとって自分でレジ打ち始めるの
いやそれお客さんの買った商品ですよ?もうちょい丁寧に扱おうよ・・・
店員に切れてない時はよくすっごいでかい声で、ウヒィッヒィヒヒヒヒみたいな笑い声を上げてる
店員は笑ってないんだけどなんか冗談らしき事を言った後自分でヒッヒヒ~ってでかい声で笑ってる
店の一番遠いとこにいてもその声は響き渡る
細々したのは他にも色々あって、お前どんだけコンビニ行ってんだって感じだけど、まあ何年分もの積み重ねなわけ
最初はあいつのレジだけはいやだと思って、レジ並ぶ時は店長がカウンターにいないタイミングを見計らって並ぶようにした
そのうちそのコンビニに入って店長がいるのがわかると、もうそれだけでイヤで店出るようになって
嫌な気分になるくらいならとなるべく遠いほうのコンビニ使うようになっていった
とはいえ店長がいない時もあるし、やっぱり便利なので今でもその店は時々は利用するんだけど
たまに見かける店長は相変わらずで店員はやっぱりしょっちゅう入れ替わりが激しいっぽい
こうやって書き連ねるとまあ出るわ出るわ
こんな長文書いたの久しぶりだよ
色々あるんだろうなあとは思うよ本社からのプレッシャーとかコンビニ店長の心労とかニュースとかにもなってたし
でもまああの店の経営状況はわからないし(立地的に客は多いんだよな)、やっぱ人としてあの店長が嫌いなのわ変わらない
生きてるとなんやかんやで嫌いな人への対処法とか身についてくるじゃん
学校や職場や家庭なんかで嫌いだけど一緒にいるしかないみたいな事が起こって
だんだんそこでの付き合い方って学んでいくよね
相手の良い面を探そうとするとか、鉄壁の心の仮面を装備するとか
そうこうしてるうちに純粋にただ嫌いなだけでいられなくなっていく
でもこのコンビニの店長は自分にとってただただ嫌いなだけでいい存在なんだよな
自分も知らないとこで、ひょっとしたらそのコンビニの中でとにかく嫌いな客として存在してるのかもと思ったら
嫌だけどそれはそれでまあいっかって気もしないでもない
虐待防止や権利擁護、アンガーマネジメントの研修を散々やってきたが、
結局のところ「こちらの感情のイレギュラー」への対抗策は「我慢しましょう」一択しかない。
どこまで我慢できるか、というのは、個人の価値観と大きく結びついていると思うので、
自分の価値観を曲げられなかったり、うまく仮面を被る事ができない職員ほど我慢ができず、虐待に至る。
そして現状の報酬制度では職員を高給取りにすることは非常に困難であるため、
給料釣り上げによるフィルタリングでメンタルが良質な人材を確保するという事も難しい。
価値観や自己コントロールに柔軟性がある「介護・福祉分野に適性がある」人材は、
「他の業種にはもっと適性があり、条件的にそちらを選ぶ」というパラドックスを解消できない限り、
虐待は無くならない。
現実の人間のように自然な言動行動ができないのも障害特性だし、生まれてから今まで他人にボコボコにされた記憶しかないから、開き直りと仮面かぶりとして芝居掛かったキチ仕草になるのは仕方ないんだよね。
(国連ビルの地下37564階。聖堂を思わせる巨大な空間。入口正面の壁に大きく描かれた、「去勢された男性」と「乳房とペニスを持つ女性」が手をつなぐ姿を図案化した紋章が、二本のかがり火に照らされている。紋章に向かって無言で跪く、黒いマント、金属製の仮面、そして左右に突き出した長大な肩パットで全身をくまなく覆った人物。背後からそれを見守る、側近らしき小柄な老人)
(ひどい音を立てる金属の扉を開いて、ローブに身を包んだ人間が入室する)
構成員「申し訳ありません。しかし、このようなものが、かの国で……」
(構成員から、一枚の新聞紙らしきものを受け取る側近。内容を一瞥して目を見開く)
構成員「既に情報工作を開始しているようですが、なにぶんネット世論の反発が大きく……」
側近「ううむ……そ、総帥、尊い祈りを妨げることをお許しください……火急の事態につき、どうかこれをご覧いただきたく」
総帥「…………」
(ゆっくりと立ち上あがり、震える側近の手から新聞紙を受け取る総帥。広げてみるとそこには、紙面いっぱいに描かれた、発達した胸部を過剰に強調した制服姿の女子高生のマンガ絵――全面広告がある)
総帥「……………………」
(黒い皮手袋に包まれた総帥の手の中で、不可視の作用により新聞紙がひとりでに発火し、瞬く間に燃え尽きる)
側近「よもやニッケイが裏切ろうとは……これは“計画”を前倒しせねばならぬようですな」
総帥「…………(無言で頷く)」
側近「幸い、例の紛争に気を取られている今、米軍によるかの国の護りも手薄となっていることでしょう。好機かと存じます」
総帥「…………(行け、というように指を振る)」
側近「かしこまりました……皆の者に伝えよ!これより我らU∴S∴T∴Aは、“オペレーション・リビドーブレイク”を発動する!手始めは、冒涜の魔都アキハバラの“浄化”だ!」
構成員「はっ!」
(側近と構成員が足早に立ち去り、静寂を取り戻した祈りの間。再び紋章の前に跪き祈りを始める総帥。その仮面の奥からかすかな囁き――歌のようなものが漏れる)
総帥「……タワワ、タワワ、タワワ……」
妻に抱きしめられ、労いの言葉を掛けられたが、もう何も感情は沸かなかった。
子どもが生まれてから何度も衝突を繰り返し、そのたびにヒスを起こす妻を宥め、仲直りしてきたと思っていたが。
そうか自分の中では全く消化していなかったんだなと。
自分を変えたいと言った妻には申し訳ないが、先に限界が来てしまった。
心からの繋がりやパートナーシップをついに築くことはできず、俺は妻の専属カウンセラーとなった。
妻が嬉しければ俺も嬉しいことや、妻が悲しければ俺も悲しいことを妻は理解できない。
妻は異常なほど献身的だ。外から見れば良妻だ。俺には居心地が悪い。
子どもは可愛い。愛している。でも親権はとれないんだろうな。俺が男だから。
今日が妻の誕生日。愛している、これからもよろしくと綴った手紙は先週書いた。1時間掛けて。どうしようこれ。
どうしてこんなことになったんだろう。ここ数年で何度も思ったことだ。
これは奇妙な巡り合わせで出会った私にそっくりの友人が大学卒業時に書いた文章の書き出しである。この鏡合わせの彼が書いた文章を何度も自分事のように反芻してきた私は今年大学院を出る。修了という立場に際して、私も少し自分語りをしてみようと思う。他人の自分語りなど興味の無いという方もたくさんいるだろうから、そういう方はこの時点で引き返してほしい。思うままに書き殴っているので読みづらいし長いと思うが、それに我慢できる人だけ読んでもらえればと思う。
・生い立ち
私はごく普通の環境で育ったと思っている。地方在住で金持ちでも貧乏でもない家で、両親は優しくて、友達もいた。小中学生のころの自分は一言でいうと優等生気質だった。学校の勉強はそこまで苦にしなかったし、危ないこともしなかった。先生の言うことには従っていたし、学級委員を務めたりするタイプの人間だった。強いて言えば両親が少し頑固だったくらいだ。
小学校では初めに陸上クラブに入った。運動は苦手かつ嫌いだったし、何よりブラスバンドのようなクラブがありそちらに入りたかった。父が無理にでも私を陸上クラブに入れたのは運動の楽しさを知ってほしかったのだと思っている。運動神経のいい父にしてみれば運動は娯楽だったのかもしれないが、運動神経が壊滅的な私にとっては純粋な身体能力を問われる陸上は苦しかった。そのため5年生からはブラスバンドをやらせてくれと懇願した。タダで許してくれるはずもないので中学では運動部に入ると交換条件を付けた。5年生から始めたトランペットは本当に楽しくて練習した。6年生の途中からは1stトランペットを担うこともできた。
中学では周りの部員が吹奏楽部に行くのを横目に約束通り運動部に入った。誤解のないように言っておくと別に部活動自体は楽しかった。ただ音楽室から聞こえてくる音を聞くたびに自分もこの中にいたらどうだったろうと思うことは度々あった。中学では同学年内でいじめもあって、被害者ではなかったものの学年中を巻き込みつつも教師が黙殺しているそれに優等生気取りの私は心を痛めたものだった。その頃の私はもっぱら公正世界仮説(当時この言葉は知らなかったが)の敬虔な信者であり、親や先生にほめられている優等生の自分はいつか報われるし、逆にいじめなんぞ加担している人間はその人間性からどこかで破綻すると思っていた。
高校は少し離れた進学校に入った。近隣の学校に行く人が多かったが、いじめの件もあり彼らと距離を置きたい気持ちも大きかった。流石にレベルの高い授業でもあったが、モラルや教養を持った人が多く非常に楽しい生活を送った。高校の部活は軽音部と兼任しようかなと考えていたが、他方の顧問が専任を希望するような言い方をしたので諦めた。別に悪い人ではないと思うが、他人に機嫌を取らせるタイプの人間だった。高校では成績をぐんぐん落とした。周囲のレベルの高さもそうだが、私には2点の欠陥が見え始めていた。1つは努力。中学生まであまり勉学に苦労しなかった私は勉強に労力をかける癖がなかったし。加えて苦手な運動は一向にできなかったし、好きな人にアプローチしても付き合えなかったし、理論武装して親に頼み込んだことも結局許されなかったり、努力してできた経験と言えば自転車の補助輪を外すときくらいのものであったように思う。努力の数と成功体験の数なんて鶏と卵かもしれないが、努力をした経験もおそらく人よりは少なく、努力が実った経験はもっと少ない人間だったように思う。もう1つは先天的能力の限界である。これまでの自分は「丁寧に教えてもらえば理解ができる」という能力を有していたと思っている。中学生までの自分が苦労しなかったのもこれが原因だと思っている。しかし高校3年生になると少しそれに陰りが見えているのを人知れず自覚していた。周囲の人間には見えていないようで、親や先生は褒めてくれるし、同級生からも勉強ができるという認識をされていた。
3年生になると嫌でも受験を考えなければならなくなる。私はどこに行って何をするのだろう。勉強は好きではない。高校では文芸部の本に部外から投稿してすごく評判が良かったし、文化祭の劇の脚本や演出を担当して最優秀賞を取れた。そのあたりの活動は楽しかったしクリエイティブなことがしたいかな、あと音楽。それとなく親に専門学校の打診してみたけど、4年制大学に行けといわれた。「いい大学に行けばいい企業に行けるからね」と言われてきていたし、親心としてはそんなもんだよねと理解した。自分としてもレールを外れることに恐怖はあったし、レールに従うことで周りと同じように大学に行って、就職して、結婚して子供を作って、今の家族のような生活が送れるならそれでいいと思っていたのでじゃあ普通に大学に行くねとなった。
問題になるのは何がやりたいかである。私がやりたいことって何だったんだろう。結局見つからなかった。そこで親がアドバイスをくれた。
「まだやりたいことが見つかっていないなら、ここに行けばいいんじゃない?」
親が指し示した大学は、入学時に専攻を決めなくてよいという特殊な制度をもつ大学だった。みなさん名前ぐらいはご存じの都内の大学である。幸か不幸か、私にはそこを目指せるだけの能力はあった。
1浪しなんとか2年目で合格して大学1年目。はじめに学んだ格言がある。
「大学では勉強、サークル、恋愛、バイトのうち2つしかできない」
勉強は好きではないので、サークルとバイトをやるんだろう、恋愛もあるのかななどと入学後の私は胸を躍らせていた。憧れのバンドサークルにも入った。周りは経験者なので食らいつこうと頑張った。大学から帰って仮眠を取り深夜の安いパック料金で明け方までスタジオで個人練、シャワーを浴びて大学へ。その生活をしていたら資金がショートした。親にバイト禁止されていたため練習や交流のためのお金が足りず、実力もつかず人脈もできずにフェードアウトした。
大学の授業はひどく不親切であった。大学のレベルも相まって何をやっているのか理解できなかった。高校の時に疑問を持っていた内容が解決されるかと期待していたが、それらは大体1,2回目の講義で解決してしまうものか、もしくは深くがっつり専攻しないと理解できないようなもののどちらかで、学ぶモチベーションにはつながらなかった。教える側も教科書も「説明してはいる」「書いてはある」という感じで、高校までのようにわかりやすくとはいかなかったから、「丁寧に教えてもらえば理解できる」タイプの私では太刀打ちできなかった。つまらないし時間の無駄に思えて次第に講義も休みがちになった。
それでも、とりあえず大学を出れば何とかなると思っていた。ここで耐えている自分はきっと報われると思っていた。好きなものが大学で見つかればいいし、そうでなかったら高校までの勉強ができるから教師になればいい。これが1年目の私であった。
・崩壊
初めてショックを受けたのは成人式のことだった。新成人代表として何人かの陽キャ集団が壇上にあがった。式の前後に彼らと会ったがある人はバツが悪そうに私から目をそらし、ある人は肩を組んで話しかけてきた。どちらもいい気はしなかった。彼らはいじめの関係者である。なんで彼らの方が人生を謳歌しているんだろうか。その時にふと思った。「結局彼らは世渡りがうまかったんだ」と。くだらない正義なんて捨ててその場で空気を読んで得なほうに回るっていうのが正解で、黙殺していた奴らもそうだったんだ、なんて自分は愚かだったのかと。そう考えてみると社会に明確な悪役はいなくて、したがって明確な正義も存在しない。正義と道徳に立脚した自尊心のなんと脆いことかと思い知らされた。
そして、もう一つ。親や教師というのもまた所詮人間だとこの年になって気づいた。この中の何人かが数年のうちに教師になって、親になる。はっきり言って話の通じない人だっているが、そんな人も年さえ取ればいつかは親や教師になりうる。だから、黙殺した教師も、話の出来ない親もおかしくはない。じゃあ私が優等生してきた、私が正しさの根拠としてきたものは何だったんだろう。優等生であることを数字で示してくれるものは成績くらいしかない。世渡りが下手で運動などの技能も持たず、それでも私が公正世界仮説を信じてこれたのは、案外「勉強ができること」に依存していたのかもしれない。勉強しかできないやつだけど勉強ができるから何とかなる、そんな風に自分の無能さを騙して生きていたのかもしれない。
さらに拠り所の勉学さえ崩れ落ちた。留年が確定したのだ。受験でも足を引っ張った物理がとことん苦手で何も理解できなかった。2年目は学費の負担を減らすべくバイトをさせてもらった。サークル活動は事実上全部やめ、バイトと勉強の日々が始まった。バイト先は学生が割と多かったため、みんなと仲良くなれた半面、繁忙期が重なった。私は試験前はむしろシフトが増加し、結果的に致命的な必修単位だけ落としてしまった。2留である。親に電話して事情を説明した。単位くらい取れとストレートに怒られるかと思った。代わってあげる優しさを評価しつつもやりすぎだと注意されるかもとも思った。
人にやさしく優等生してきた自分の生き方への批判と自分が仲良くしている人たちへの非難のダブルパンチで頭に血が上った。怒りで何も言葉が出ずに何秒か無言の後電話を切って、壁を殴った。
数日すると気分が落ち込んできた。親はそれを「単位を落としたから」と解釈したようであるが、全く違う。私は他の人が当たり前のようにサークルやバイト、恋愛を掛け持ちして進級している中で、バイトしながら進級できなかった。私は当たり前のことすら満足にできない無能であると、薄々感じていた自分の無能が隠せなくなってしまったのである。
3年目は再びバイトを禁止した。クラスでの試験対策の仕事もやり、その科目の勉強をしなければいけない状況を作った。サークルとしては冒頭の彼の紹介で新しいサークルに入った。サークルでできた友人とは本当に仲が良く、勉強を助けてもらったり、サークル関係なしに遊んだり大学での生活の基盤になった。助けてもらえる人も増え、自分で学習するようになり、この年の上半期では単位の取得ができた。しかし、私が感じていたことは決してポジティブなことではなかった。私がこの年の経験でわかったことは「お前はやればできるが、環境のサポートがあって自分で勉強してもちゃんとできるのは2単位」ということである。私は2年で70単位以上取得する想定のカリキュラムを、半年で2単位しか取れない脳みそでやっている。無能すぎてもはや卒業が無理なのではないかと思った。
公正世界仮説、評価軸としてきた大人たちへの信頼、自身の実力への評価の3つが音を立てて崩れて、この時私は確かに一度死んでしまった。このことに気づく前の自分に戻れなくなってしまった。中学のいじめがらみで「死にたいけど死ぬ勇気もない」って言ったときに「死ぬのなんて勇気って言わねえ」って怒鳴りつけてくれた友人がいた。
・専攻決定
4年目にして2年生。この年は諸々の事情でクラスから孤立した。喧嘩別れのようなものである。私としても仲良くする気はなかったので1人でどこまでできるかやってみようと思った。結果は惨敗だった。単位取得こそぎりぎりできたものの私はこの大学では人に寄生しないとやっていけないと気づかされた。
そして、4年前に選択を先延ばしにしたツケの返済期限が来ていた。専攻の決定である。結局4年間でやりたいことは見つからなかった。勉強は面白くないし、勉強以外の何かを思い切って始める余裕もなかった。教員になろうかとも思ったが、それもかなわないと思った。教職は卒業単位には含まれないため、追加でいくつも講義を取る必要がある。通常のカリキュラムすらまともにできない私にそれは無理だろう。ちなみに私と同じく成績の芳しくなかった冒頭の彼は教職を志して単位を取得しに行ったが、弊学では満足に教職まで取り切れなかった。教職を目指した世界線の私もきっとこんなものだろうと思ってしまった。
理系科目はわからなかったので、唯一興味がわいた心理学を専攻しようと思った。しかし、成績が足りなくて進むことが絶望的だった。ここで初めて間違いに気が付いた。この大学のシステムは何をやりたいか不明瞭な人間を救済するシステムではなく、やりたいことや才能が複数ある人間に選択肢を与えるシステムなのだと。私などがこの大学には来てはいけなかったんだと激しく後悔した。
このシステムでは通常、成績が足りなければ次の年に再挑戦することができる。しかし、私は4年目であったがために在学年限が迫っており、この年で専攻を決定しなければならなかった。そのため、当時人気の低かった化学を選んだ。化学は苦手で高校化学すらわからないが「とりあえず大学を出れば何とかなる」のであれば、と苦渋の選択をした。
5年目、3年生。1限からの授業と週3回の実験があり、9時-18時のような生活になる。実験には予習とレポートがあるため、実際の拘束時間はこれより長い。何とか4月を乗り切ったところで、レポートを1つ残してしまった。GWに入ってレポートをやらなければと思って毎日机に向かおうとした。いや、向かったこともあった。だが、ペンを持っても何も書けない。そのまま時間が過ぎてごはん時になり席を外してご飯を食べる。そんな日が続いてGWの最終日、床にへたり込んで泣いた。書かなきゃいけないと思いつつも1文字も書けなかった。
3年生の必修は実験だけだったので、他の単位を犠牲にしてでも取ろうと考えた。1時間だけ講義を休んで...その1時間を何も書けずに終えた。これを繰り返してほぼ全ての講義を欠席した。次第にいろいろおかしくなっていった。頭痛もちでもないのに頭が痛みだした。文字が読めなくなり、教科書はおろかネットニュースくらいの簡単な文章でも字が滑るようになった。1日にできることがゴミ出しと洗濯くらいになり、起きて寝る以外に食事、入浴、ソシャゲの周回くらいしかしてない生活になった。
溜まりに溜まったレポートは夏休み前に呼び出しを食らったことで、無理やり夏休みを使って消化した。歯を食いしばりながら全部消化したことは覚えているが、歯を食いしばればできたことがなぜここまでできなかったのかこの時は疑問だった。
4年生になり、大学院へ進学することになったが、大学院の手続きと入試勉強、足りなかった単位の試験勉強などでタスクが溜まった瞬間、この症状は再発した。友人の勧めを受けて学生相談所に通うことになった。
学生相談所のカウンセラーはいい人だった。いろいろお話をして気持ちは和らいだ。専門的なこととしてはWAISの検査を受けた。結果は処理速度だけが異様にへこんでいる格好になった。別に数値は低くないので大丈夫と言われたが、「問題の有無は環境によって決まりませんか?能力の高い人が集まる環境ではそれなりの能力が要求されますよね?」という質問には満足のいく回答は得られなかった。
親にも何度か愚痴を言ったことがある。そのたびに「あなたは世間一般には優秀だから大丈夫」と返されるのである。何が大丈夫なんだろうか。”今の環境”が辛いと言っているのに”世間一般”という別の集団を持ち出して何の救いになるんだろうか。これ自体も言ってみたことがあるが「なんでそんなこと言うの」と言わんばかりの困惑した顔をするだけだったのでやめた。別に親以外でも同様のことを言う人はいる。世間一般の評価が邪魔をして、まともに助けを求めることすらままならない。内部の人間から見て無能で、外部の人間から見て有能な私は、共感を得られる対象がとても限られていて苦しかった。大学ブランドという呪いにかけられて苦しかった。
やりたいことをやれていればよかったのだろうか。サークルで作曲を体験させてもらう機会があった。でも続かなかった。結局忙しいとかいろいろ言ってインプットから逃げている自分がいる。クリエイターにはなれなかっただろうなと思った。好きなことも頑張れない自分に「自分が勉学を頑張れなかったのは勉強が嫌いだからじゃない、努力が嫌いなんだ」という事実を突きつけられてまた悲しくなった。あれほどに信じてきた公正世界仮説は「お前が苦しいのはお前が間違ってきたからだ」と自分に牙をむき始めていた。
・進学と私
大学院へ進学することにした私だが、実は私は望んでいなかった。学部生時代に夜遅くまで研究に勤しむ先輩たちを見ていて「私にこれは無理だ」と実感していたからである。研究への熱意はおろか、化学への意欲も知識もないのである。ただでさえ病む人が多く出る大学院という環境にこんな人間が行くのは自殺行為に他ならない。そのため、私は就職を強く希望した。しかし、親にそれを伝えると「今のお前に就職はできない」と言われた。就活を終えた今だから言えるが、これは正しかったように思う。議論は「就職はできないから進学しろ」「院でやっていけないから就職させろ」の平行線で、就職も進学もろくにできない無能をぼこぼこにリンチするだけで生産性はなく、結局「とりあえず進学はするがいつでも辞めてよい」という落としどころになった。
私は院試に落ちるのが最適解だと思った。学力もないので真面目に受けても受からないだろう。院試を受けたけど落ちましたというのが親にも研究室にも一番角が立たない。しかし、筆記試験が思ったより点数が低かったのか通ってしまった。面接をすっぽかすことも考えたが、会場に研究室の先生方がいるかもしれないことを考えると気が引けた。面接では辞退の意思を伝えるつもりだった。面接官と私だけの秘密である。私は院試を受けて落ちたのだと周りに言えばよい。
麻耶さんも麻央さんも恐らく、自分の気持ちを抑圧する事で、家族の平穏と自身の安全を守ってきた(そうして生き抜くしか方法がなかった)タイプの方々ではないかと思う。
幼少期に何があったかは知らないが、もしかしたら苦労もあったのかもしれない。
表に見せる表情と、心の内にあるとても繊細な気持ちとが乖離せざるを得ない環境にあったのではないか。
つまり、本当は寂しくても悲しくても、本当は傷付いていても、家族の為(あるいは自分の為)に無理に笑顔を作り続ける必要性があったのでないか。
そうする事で乗り越えられた事、うまくいった事も確かにあったのかもしれない。
特に麻耶さんは、姉という立場もあり、背負うものが多い分、小さい頃から自分の気持ちよりも家族や誰かを優先する機会も多かったのだろう。
自分の気持ちを自身が無視し、心の傷がなかったかように振る舞う機会が多ければ多いほど、「私は平気だという顔」と「笑顔」の仮面が張り付いたように剥がれなくなる。
一方麻央さんは、そんな優しい姉の健気な努力に守られつつも、姉の無理を案じ気遣っていたのだろうと思う。
本当は繊細な姉の心を、これ以上犠牲にしなくてもいいよう「お姉ちゃん、少なくとも私は全然平気だよ」と、のほほんと、しかし図太く逞しい自分を無意識に演じていたのではないかと感じる。
そのため麻央さんも麻耶さん同様、複雑な思いを抑圧していたのではないだろうか。
似たような特徴を持つ麻耶さんと麻央さんだが、2人には決定的な違いがある。
麻耶さんは、背負うものの重さによりその時その時が精一杯で、また、張り付いて剥がれない笑顔の仮面と繊細な心との狭間で、どうしても「のらりくらり」状態になってしまう。
とても苦労をしているのに、苦労をしてるからこそ、フラフラとしているように見られてしまう。
一方麻央さんは、姉に守られている分の余裕を最大限に生かし、姉の苦悩をひっそりと支え続ける為の洞察力と安定感を磨いてきたのではないだろうか。
麻央さんなりに姉を守る為、のほほんと図太く鈍感な自分を保ち続けるというある種の信念を掲げていたであろう麻央さんは、とても真っ直ぐで、そして実は頑固な方だったのではないかと思う。
麻央さんは海老蔵さんに、麻耶さんと似たようなものを感じていたのではないだろうか。
海老蔵さんは、麻耶さん以上に強く強く自分を抑圧して生きてきたように見える。
しかし麻耶さんとは違い、海老蔵さんには、いくら自分に圧をかけ抑えつけても漏れ出してしまうほど、溜め込んできた強い感情のエネルギーがあるように感じる。
その強いエネルギーを抑え続ける為に、人間らしい感情を極限まで削る事を意識しながら、生きなければならなかったのではないだろうか。
そしてストイックに自分を追い込み、恐らくあるであろうルーティーンをこなす事で安心感を得つつ、それでも足りない部分はさまざまな方法でガス抜きのように発散し、やり過ごすように生きてきたのではないだろうか。
麻央さんはそんな海老蔵さんの内なる心を、分かっていたはずだ。
今まで、抑圧して生きてきた姉をそばで見ていたのだから。そしてそんな姉を、ひっそりと支えてきたのだから。
海老蔵さんと結婚した時点で麻央さんは、今まで姉にしてきたように、彼を支え守るという信念を掲げたのだろう。
彼の心をこれ以上犠牲にしなくても良くなるように「少なくとも、私は全然平気だよ」と、強く逞しく穏やかに。
麻央さんはどれだけ辛くても、自分を犠牲にしようとも、その信念貫き通したのだ。
麻耶さんの話に戻そう。
妹は耐え難い苦しみを抱えながら、それでもひたむきに信念を貫こうとする姿。
麻耶さんは、そんな麻央さんをどう見ていただろう。
察するに余りあるが、麻耶さんは妹と妹が掲げた信念を守り抜く為、今まで以上に自分の心を抑圧し、「笑顔」で麻央さんと甥姪を支え続けていたのだろうと思う。
しかしもはや、今までのように「笑顔」では乗り越えられないほどの理不尽な現実と、今までのようには抑えきれない強い感情もあったはずだ。
それでも、それでも麻耶さんは、笑顔を崩さなかった。崩せなかったのかもしれない。
妹を失っても尚。
麻耶さん自身、すでに剥がし方のわからなくなってしまった、そして結局何も救えなかった自分の「笑顔の仮面」を憎んだだろう。
どれだけ自分を責めただろう。
その「笑顔の仮面」が、ガラガラと崩れて剥がれるキッカケとなったのが、麻耶さんの元夫、國光あきらさんだ。
國光さんはとても優しい方なのだと思う。
恐らく麻央さんしか知らなかった、麻耶さんの笑顔の仮面の下にある本当の顔を、彼は優しく撫でたのだ。
麻耶さんが今まで、家族や何かを守る為に笑ってやり過ごしてきた長い長い年月。
そして、抑圧してきた悲しみと怒り。
國光さんは自らが、麻耶さんの心を写す鏡となり、本当の姿を麻耶さんに思い出させた。
そして、そんな麻耶さんの全てを愛し守ると誓った。
「怒っていいんだよ、僕はとっても怒っている」
麻耶さんは時に恐る恐る、時に解き放つように、今まで抑圧してきた感情を放出し始めた。
本当はとっても傷付いてきたのに、それを無視するように笑ってやり過ごしてきた自分自身。
そうして傷付けられたことを、許したかのように振る舞ってしまっていた自分自身。
そんな自分を変える為に、もうこれ以上後悔しない為に
心からの笑顔は、抑圧した気持ちを素直に吐き出し受け止めた先にあると信じ
私には、そんな風に見えて仕方がない。
逆に好意を持たれてるのもある程度分かるんだけど、嫌われている方が分かりやすい。
全く接点がなくても嫌われているのがわかるのが悲しい。
被害妄想だ、と言う人はいると思うが、女性独特な特徴があって、ビジネスとプライベートの区別がつかない人がいる。もちろん全ての女性じゃないけどね。
区別が出来ない女性っていうのは、嫌いという認識をすると嫌いと思ったままなのでビジネスでも仮面がかぶれないから顔にわかりやすく出るし、声のトーンにも出る。
逆に区別が出来る人は顔は笑顔で、プライベートになると一気に嫌悪を現す。
まあわかりたくもない感情だけど、わかってしまうから仕方ない。本人に聞かないまでも人づてで確認出来てるので8割は当たる。
好意を持ってくれる人はビジネスでもプライベートでもわかりやすくて良いし嬉しい。
かくいう私の奥様もそういう人だ。わかりやすい。
怒っているのもわかりやすいので、何か悪い事したかな?って聞いて不満を述べてくれるから、悪い所を直しやすい。私には最高の奥様である。