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2022-03-17

anond:20220317211747

これが正しい歴史だ、覚えておきなさい

BC2000あたり

中華 黄河中流域のごくごく一部

倭韓 満州あたり

BC1000あたり

中華 周王朝長江以北をだいたい平定、周りの民族を押し出す

満州朝鮮半島北部朝鮮半島を南下

朝鮮半島西部南部日本列島移住始める弥生時代の始まり

AD0あたり

中華 後漢王朝長江以南をだいたい平定、周りの民族を押し出す

朝鮮半島北部朝鮮半島を南下。倭集団を押し出す

朝鮮半島南部に残ったグループと、日本列島移住したグループに分かれる。移住したグループ関東地方あたりまで進出

白村江の戦い

中華 唐王朝

朝鮮半島統一

朝鮮半島南部に残ったグループ消滅日本列島移住したグループ朝鮮半島ルーツを捨てて日本となる

2021-12-25

子どもアルプス一万尺を歌っている時に

パパは脳内で「殷周東春秋戦国前漢後漢…」って歌っている。君もあと10数年したらこの歌を知るかもしれないし、知らない未来の方がいい気もするよ。

2021-12-22

やっぱ継体天皇でしょ

崇神天皇が「実在した可能性のある最初天皇」って言われてるけど、やっぱ初代って継体天皇でしょ。

紀元前1世紀

BC97年-BC30年(日本長暦) 崇神天皇

BC37年頃 高句麗が成立

BC29年-70年(日本長暦) 垂仁天皇

弥生文化関東地方に波及する。

近畿地方を中心に銅鐸、西日本青銅武器形祭器による祭祀が行われる。

階層の秩序化すすむ。

関東地方東北地方南部縄文時代の一墓制である再葬墓が見られる。

北部九州では甕棺墓が盛行し、その中の一部のものが多くの前漢鏡を副葬する。

北部九州では、鉄器や鉄製農具が使用される。また吉野ヶ里遺跡のような巨大集落現れる。

北部九州勢力畿内勢力の間で、鉄の獲得のための軍事的緊張が高まる

1世紀

8年 前漢の滅亡

25年 後漢の成立

57年 倭の奴国王が後漢に朝献して倭奴国王印を授けられる

71年-130年(日本長暦)景行天皇

漢書地理志 倭は百余国に分かれており、その一部は前漢楽浪郡に朝献をする

弥生文化東北地方に波及する

2世紀

107年 倭国王帥升らが後漢の安帝に生口160人を献上する

131年-190年(日本長暦) 成務天皇

147年頃-189年頃 倭国大乱

192年-200年(日本長暦) 仲哀天皇

日本で石器が消滅し、鉄器が普及する(弥生時代後期)

魏志倭人伝倭国乱れ、互いに攻伐しあい倭国大乱)、長い間盟主なし

3世紀

201年-269年(日本長暦) 神功皇后 三韓征伐

220年 後漢の滅亡

239年 邪馬台国卑弥呼帯方郡使者を送り、魏の明帝への奉献を願う

248年頃 女王卑弥呼死す。その後、卑弥呼の宗女・壱与(または台与)が女王となる

3世紀中頃 古墳時代が始まる

266年 倭の女王が晋に使節派遣する(『日本書紀』の神功紀66条に引く晋起居注。『晋書』武帝紀、西晋の泰始二年)

270年-310年(日本長暦) 応神天皇

3世紀後半 大和王権誕生する

3世紀後半 箸墓古墳

日本では弥生時代末期から古墳時代初期にあたる。

樺太西端北海道北端オホーツク文化(初期)が成立する。

日本では銅鐸・武器系祭器による祭祀が終わる。北部九州の甕棺墓も衰退する。西日本各地に、特殊な壺形土器、器台形土器を供献した墳丘墓首長墓)が現れる。

4世紀

313年 楽浪郡高句麗に滅ぼされる

313年-399年(日本長暦) 仁徳天皇

316年 西晋が滅亡

4世紀半ば 百済建国

399年-404年 好太王高句麗と倭の戦い

空白の4世紀

5世紀

400年-405年(日本長暦) 履中天皇

406年-410年(日本長暦) 反正天皇

412年-453年(日本長暦) 允恭天皇

454年-456年(日本長暦) 安康天皇

463年 吉備氏の乱

457年-479年(日本長暦) 雄略天皇 考古学的に実在実証される最古の天皇

478年 倭の五王の武が宋(南朝)に使者を送る

479年 星川皇子の乱

480年-484年(日本長暦) 清寧天皇

485年-487年(日本長暦) 顕宗天皇

488年-498年(日本長暦) 仁賢天皇

大王クラス大形前方後円墳奈良盆地から大阪平野に移り更に巨大化する。

日本では倭国古墳時代中期にあたる。各地で巨大な前方後円墳が築造され、地方ヤマト王権中枢双方の首長たちの祭祀儀礼が執り行われる。この世紀の倭国朝鮮半島諸国間の紛争に活発に武力介入を行っていたことが、日本側と朝鮮半島側双方の歴史記録から伺われる。当時の5代に及ぶ治天下大王東晋から南朝にかけての江南王朝に盛んに朝貢して王号と官職を得ていたことが中国正史記述に残されており、倭の五王として知られている。

北海道北部東部では続縄文文化とは異質な海獣漁労民のオホーツク文化(中期)が拡大する。

6世紀

499年-506年(日本長暦) 武烈天皇

507年-531年 継体天皇

512年 倭が百済に対し任那の四県二郡を割譲する

527年 磐井の乱

531年-535年 安閑天皇

538年 仏教伝来(552年説あり)

536年-539年 宣化天皇

539年-571年 欽明天皇

562年 任那地方を含む加羅諸国新羅に滅ぼされる

572年-585年 敏達天皇

581年 隋の建国

585年-587年 用明天皇

587年 丁未の乱 蘇我馬子物部守屋を滅ぼす

587年-592年 崇峻天皇

593年 聖徳太子(厩戸王)が摂政となる

598年 隋の高句麗遠征

それまでのヤマト王権王統嫡流が断絶し、誉田別尊大王(後の応神天皇)五世の子孫とされ越前近江地盤を持ち尾張連草香の娘を妃としていた男大迹王(後の継体天皇)が、大伴氏物部氏巨勢氏らにより畿内に迎えられて前王統手白香皇女皇后に迎え、治天下大王として擁立される。やがてこの継体系の王家は新興の蘇我氏と結びつき、武川軍閥系の政権によって大陸華北の再統一から南北朝の統一へと向かう中、前世紀の「倭の五王」後に途絶えていた活発な東アジア外交を再開する。

考古学の発掘研究によればこの世紀の半ばになって日本列島での鉄鉱石からの製鉄遺構が初めて出現する。同時期に大陸では倭国弥生時代以来鉄素材の供給源としていた弁韓の後身加羅諸国新羅併合されている。

前世紀に九州などで造られ始めていた古墳の横穴式石室が全国規模で普及する。

この世紀の後期になると畿内では前方後円墳がつくられなくなり、前方後円墳伝統を保持していた天皇陵含む大型古墳も渟中倉太珠敷大王(後の敏達天皇)の陵墓を最後に以後方墳となる。関東でも群集墳が盛んに造られるようになる。ヤマト王権中央さらには地方首長統治下でも仏教の導入が進行し、前方後円墳と結びついていた首長祭祀は以後氏寺における仏教儀礼が担うようになる。

7世紀

593年-628年 推古天皇

603年 冠位十二階を制定

604年 十七条憲法を制定

618年 隋の滅亡、唐の建国

629年-641年 舒明天皇

642年-645年 皇極天皇

643年 蘇我入鹿山背大兄王一家(上宮王家)を滅ぼす

645年 乙巳の変

645年-654年 孝徳天皇

646年 大化の改新

655年-661年 斉明天皇

660年 百済滅亡

663年 白村江の戦い

668年 高句麗滅亡

668年-672年 天智天皇

672年-672年 弘文天皇

672年 壬申の乱

673年-686年 天武天皇

2021-09-19

1世紀、前漢後漢あいだの20年ほど、新という国があり、亀貨が使われていた。そのころ淡路島日本初の鉄器工場ができた。赤色塗料あり、赤眉軍あり、薩摩隼人は顔を赤塗りしていた。そして2世紀、魏から卑弥呼と呼ばれた天照大神は亀の甲羅政策を占ったといわれている。

 

ただそんな原始的な国が諸国進出するだろうか。そこで推測してみる。

天照大神は、亀貨が戦火焼失に耐えるか試していた。天岩戸に籠ったのは鉱物を探すためだった。魏の帯方郡赤色塗料(丹)貿易をし、帯方郡が滅びれば百済人や新羅人鉱山開発をさせた。出雲にも銅や銀があるのを知り、大国主命を送り込んだ。

 

神という字は、示し申すと書くが、舞台のような四隅突出型古墳は、貿易港の伊都国、出雲のいずれにもある。

赤色鉱物産地の丹生神社は北は群馬まで、天照を祭る神社は、秋田にまであるお金が入ってくるから祭るんだろう?

2021-09-04

魂に欠陥を持って産まれてきた

 チョウやガは適切な葉を選び、卵を産む。間違った葉に落されるとふ化した幼虫は正しい葉まで移動するか、死ぬしかない。人間の魂だってそうだ。適切な場所に適切な状態で産み落されて初めて正しい生を歩める。オレの魂は今世は欠陥を持って産み落とされた。体や心の不調は医学の発展で治せるが、魂の欠陥ばかりは人の力では治せない。オレの魂には片割れが居る。魂が誕生してからオレの魂はその片割れと常に一緒だった。共に輪廻を繰り返した。前世インディアンのショーニー族、前前世ベンガルの王、前前前世アイルランド戦士、その前はパルティア貴族、その前はアテネ市民、その前はパラオ先住民、その前はエジプト貴族、その前はアッカド役人、その前は縄文人、人になる前はステラーカイギュウだったり、アデリーペンギンだったり、オオハクチョウだったり、スラウェシメガネザルだったり、タイリクオオカミだったこともあった。

 のろけ話になるので余り詳細は話せないが、どうやらオレと片割れはずっと一緒だったらしい。魂の片割れは鍵と鍵穴なんてものじゃない。体の右半身と左半身だ。二つで一つ。こういう例は魂全体の割合で見ればごくごく少数派なんだが、歴史上の人物では例が少なくない。ダーウィンジョージ六世、大正天皇J・S・ミルフォードとその妻は魂の片割れだったらしい。二つの魂は基本的にずっと一緒。ずっと一緒に輪廻し共に人生を歩む。基本的輪廻の周期は誤差はあれど、500年ほど。つまり死んでから500年後ぐらいに再び産まれる。面白い例が二つある。劉秀・スレイマン一世と唐の太宗・ジャハーンギルだ。劉秀の妻は陰麗華。美人で慎ましく、賢妃の典型例とされる。彼女は劉秀を支え続け、二人の絆が後漢繁栄平和を築いた。もちろん二人は魂の片割れ関係にあるのだが、この二人が偉業を成し遂げたのは、一世だけではない、この二人は来来来世でも偉人に産まれたのだ。スレイマン一世とロクセラーナだ。ロクセラーナは美貌と知性を兼ね備えたウクライナ人奴隷としてスレイマンに売られた。スルタンはロクセラーナを気に入り、事実上の一夫一妻関係を築いた。その気になれば妻を何人もめとれたというのに。この二人は魂の片割れであったことは確かだ。劉秀夫妻の来来来世である証拠に劉秀の没年は57年。スレイマンの生年は1494年。ひくと1437年。ざっと1500年ほどだ。歴史上に名だたる名君二人に産まれたこの魂は最も偉大な魂と言えよう。もう一つの例は唐の太宗こと李世民だ。その妻長孫皇后は陰麗華皇后と並ぶ賢妃だ。太宗を支え、唐の繁栄に貢献した。この二人もまた魂の片割れある。二人の来来世はムガル帝国皇帝皇后だ。ムガル帝国4代目皇帝ジャハーンギルかんしゃく持ち、アル中、病弱ととんでもないろくでなしだった。しかし、そこに美貌と知性の妻ヌールジャハーンが加わることでその治世は酷いものとならずに済んだ。彼女は夫を支え、かんしゃく持ちやアル中改善させた。それでいながら夫を立てることも決して忘れなかった。太宗の没年は649、ジャハーンギルの生年は1627年。引くと978年。やはりこの二人は同じ魂だ。劉秀の次に偉大な魂かも知れない。このように魂の片割れ同士は共に輪廻することで凄まじいパワーを生み出し、当人に多大な幸福を与えるのだ。

 しかし、片割れ同士が離れると絶望的な苦痛に繋がる。当たり前だ。自分の体の半分がないようなものなのだから。オレと片割れはずっと一緒で幸せすぎたのでばちが当たったのだ。しかし、それも酷いもんだ。片割れと離ればなれになるだけでなく、魂に欠陥を持って産み落とされた。まさに間違った場所に産み落とされた卵だ。無論、それは不幸な人生。強い欠乏と苦痛が伴う人生しかし、希望はある。この人生希望はないが、死後に希望がある。少なくとも霊界で片割れに再開できる。来世はきっと一緒に輪廻できる。そしたら、今とは似ても似つかない幸福人生が歩める。今は辛抱だ。片割れだって、今どこかで苦しんでいるのだ。自殺したっていいが、自分だけ逃げるのは卑怯だ。それに楽しみはとっておくもんだ。今苦しめば、霊界や来世での喜びはそれだけ大きくなる。

2021-08-08

ヴィシュヌ中国で美周郎と呼ばれていた

ヴィシュ郎は中国後漢末期に活躍したヴィシュヌのアヴァターラである

赤壁で大勝して曹操中国統一を阻止したことが、後に三国間の均衡を保つ要因となったのである

2021-06-26

anond:20210626170208

このお坊さんが呂布と同時代(後漢末期くらい)の中華に伝来したての仏教のお坊さんとするなら「南無阿弥陀仏」って唱えてる時点で相当ヘンテコではあるな。

2021-06-08

anond:20210607234817

満寵

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

満 寵(まん ちょう、? - 242年3月)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将政治家。字は伯寧。兗州山陽郡昌邑県の人。子は満偉・満炳・満氏 (司馬榦の妻)。孫は満長武・満奮。『三国志魏志「満田牽郭伝」に伝がある。

目次

1 生涯

1.1 酷吏として出世

1.2 軍人として活躍

1.3 呉との攻防

2 三国志演義

3 脚注

生涯

酷吏として出世

身長は8尺(約190cm)あったと伝えられる。18歳の時に県の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物は、二度と乱暴しなくなったという。高平県令を代行した際、督郵張苞張飛の子とは別人)の横暴を見てこれを逮捕し、その場で拷竟(=拷問致死)した上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話を持つ。

その後、曹操に仕えた。曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為曹操に大いに賞賛された。

楊彪逮捕された際、荀彧孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操楊彪赦免した。

これらの事からわかるように、満寵は于禁と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人からまれることはなかった。

軍人として活躍

官渡の戦いの時期には、袁紹郷里である汝南太守を務め、袁氏与党の軍を滅ぼし、農耕に従事させた。

曹操荊州征伐に従い、曹操が帰還すると奮威将軍兼務し当陽県に駐屯した。

孫権国境に攻め入ると、曹操は満寵を召し還して再び汝南太守とし、関内侯の爵位を与えた。

後に、曹仁参謀として樊城に駐屯した。219年、劉備軍の関羽が攻めて来た時は、救援に来た于禁ら七軍が洪水により壊滅し、樊城も水没して崩壊しつつあった。ある人が曹仁降伏を進言したが、満寵は「山の水は引くのが速く、この状況は長くは続かない」と反対した。曹仁は満寵の意見を良しとした。徐晃の援軍を得て関羽撃退されると、満寵は安昌亭侯に進封された。

呉との攻防

曹丕(文帝)の時代には揚武将軍となり、三方から呉を攻撃したときも、それに従軍した。呉との江陵での戦いで功績を挙げて伏波将軍に任命され、新野に駐屯し仮節鉞となった。半年曹真・夏侯尚・徐晃張郃・文聘らとともに朱然交戦したが、戦死者も数多となり、江陵を攻められなかったので撤退した。また、曹丕の南征に従って、敵の夜襲を見破り散々に打ち破ると、南郷侯に進封されたが、最終的に魏軍は呉に敗れた。224年には前将軍に昇進した。

曹叡(明帝)が即位すると昌邑侯に進封された。

228年、曹休司馬懿・賈逵が揚州荊州豫州雍州涼州の五軍の指揮を執り、石亭・江陵・濡須東関三方から侵攻した。満寵は賈逵の軍に胡質達と共に監軍として従軍し、武昌を目指し進撃していたが、揚州方面の軍の指揮を執っていた曹休孫権の計略にかかり大敗したため、犠牲者も数万人以上となり、敗れている(石亭の戦い・「賈逵伝」[1])。また、司馬懿張郃らも江陵を攻め落れずに退却した。

同年、曹叡は濡須東関に賈逵・満寵らを命じて再び攻めてきたが、陥落させることができずに負けた[2]。

曹叡は呉・蜀漢に対して完全に専守防衛に行い、賈逵の死後に豫州刺史兼任し、曹休の死後に都督揚州軍事となった。揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛兵千人を率いていく事が許され、その他一斉が不問とされた。

230年には征東将軍となった。冬に再び孫権合肥に攻め寄せる気配があったため、兗州豫州の軍を召集する事を上奏し侵攻に備えた。孫権撤退する気配を見せたので、こちらも撤退するよう詔勅が下ったが、満寵は孫権撤退偽装と読み、引き続き備えを怠らなかった。孫権10日ほどしてから再び来襲したが、合肥を攻められなかったので無事に撤退した。

231年、呉の孫布という武将投降を申し入れてきた。王淩がこれを出迎えたいと申し出たが、満寵は投降偽装と読んだため、王淩に自重を求めた。偶然入朝する用事ができたため、留府長史には王淩が兵士要求しても与えてはならないと厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍に僅かな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせた。王淩は呉に敗れ、孫布の夜襲により兵の多く失うことになった。

満寵と王淩はこれ以前から対立しており、満寵が召喚されたのも、王淩の息のかかった者が満寵を老いと疲れにより耄碌していると讒言たからであった。満寵と目通りした曹叡は、満寵が壮健なことを確認できたため[3]、任地に返そうとした。しかし満寵はこのまま朝廷に留まることを願った。曹叡は満寵を馬援・廉頗に準え鼓舞した。

232年、呉の陸遜が廬江に侵攻してきた。部下達がすぐに救援に赴くよう勧めたが、満寵は落ち着いて対処すれば良いとした。軍を整え、陽宜口まで赴いたところで呉軍は既に撤退した。

233年、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済がこれを弱気作戦であり、味方の士気を削ぐことになると反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法道理を引きながら築城長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。建設に莫大な費用がかかることもあって、合肥城ともども廃れていった。

同年、孫権合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったため、敢えて上陸しようとしなかった。しかし満寵は、孫権武威を振るっているので、必ず陸に上がることに違いないと判断した。伏兵として歩騎兵を6千用意したところ、果たして孫権上陸したため、伏兵により百人の首を斬った。

234年、孫権は十万の軍勢である呼称合肥新城に攻め寄せてきた(「明帝紀」)。蜀漢諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)は孫権呼応して(「満寵伝」)、二十万の軍勢である呼称し祁山に攻め寄せてきた。合肥魏軍が苦戦に陥り、これを恐れていた満寵は合肥新城放棄し寿春へ撤退する作戦を願い出たが、曹叡に拒絶されている(「明帝紀」)。満寵は、合肥新城へ救援に赴き、数十人の義勇兵を募り、松と麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払った上、さら曹操孫権の甥孫泰を射殺した。張穎達とともに力を尽くして戦ったが、呉軍は依然として頑強に猛攻した。魏の中央大軍が迫ったので、孫権は大損害を受ける事を避けて、曹叡の援軍が到着する前に撤退した(合肥新城の戦い)。

235年春、孫権江北に兵を送り屯田を始めさせた。満寵は、収穫の時期に屯衛兵達が各地に点在し、陣が伸びきったのを見て、これを襲撃すべきと判断した。また各地の県長に軍を率いて東上させた。さらに各地の屯衛を撃破させ、穀物を焼き払った。詔勅により軍功が称され、鹵獲品は全て将兵恩賞とされた。

曹叡が没し曹芳(斉王)の時代になった238年3月[4]、老年のため中央召喚され太尉となった。家には余財がなかったため、詔勅により特別物資が下賜された。加増による領邑は9600戸になり、子と孫2人が亭侯とされた。

242年3月[5]死去した。景侯の諡号を贈られた。

子孫の満偉(子)・満長武(孫)・満奮(孫)もまた、身長が8尺あったと伝わる。満偉は人品に優れており衛尉まで上り、満長武は満寵の風格を有していたという。しかし、司馬昭に疎まれ殺害され、父の満偉もまた失脚し、平民に落された。満奮は満偉の弟の子であり、やはり満寵の風格があったという(『晋諸公賛』)。西晋時代尚書司隷校尉となった。

また、満寵のもう一人の子満炳は別部司馬となった[6]。

三国志演義

小説三国志演義』では、劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となり、楊奉配下だった旧知の徐晃曹操陣営に引き入れることに成功するなど、物語の初期においては弁舌の士という描かれ方がされている。

2021-05-18

anond:20210518175226

単純な戦争の強さで言えばアレクサンダー大王、チンギス=ハン、ナポレオントップ3じゃないの。

あとはティムールなんかもよく名前が挙がるよな。

有名どころとしては他にシャルルマーニュフリードリヒ2世

バイバルスセリ1世スレイマン1世アッバース1世、ナーディル・シャー。

中国から後漢光武帝・唐太宗・明永楽帝・清康煕帝あたりか。

グスタフ・アドルフ軍事史的には重要なんだけどいかんせんすぐ死んだからなあ。

2021-04-01

anond:20210322204302

中国史を読んでいる。

後漢(光武帝)の時代、鉄官が徐々に再開され、官営鉄器製造回復した。銅器製造も隆盛し、会稽郡山陰県(浙江省紹興市)の銅鏡に代表されるような優れた工芸品を生み出し、日本(倭)などに輸出された。」

って出て来て

うおおおおっあの須玖岡本遺跡(奴国)や三雲南小路遺跡甕棺墓(伊都国)から出土したと言われるあの前漢鏡かああああっ

てなる

知らんけど

2020-11-24

anond:20201124163136

曹 休(そう きゅう、? - 228年)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将。字は文烈。曹操の族子。祖父は曹鼎(呉郡太守)[1]。父の名は不明。子は曹肇・曹纂ら。孫は曹興(曹肇の子)。曾孫は曹攄(曹興の子)・曹識(曹纂の孫)。玄孫には曹毗(曹識の子)らがいる。『三国志魏志「諸夏侯曹伝」に伝がある。

2020-07-15

歸田賦

後漢 張衡

遊都邑以永久,無明略以佐時;徒臨川以羨魚,俟河清乎未期。感蔡子之慷慨,從唐生以決疑。諒天道之微昧,追漁父以同嬉。超埃塵以遐逝,與世事乎長辭。

  於是仲春令月,時和氣清。原隰鬱茂,百草滋榮。王雎鼓翼,倉庚哀鳴;交頸頡頏,關關嚶嚶。於焉逍遙,聊以娛情。

  爾乃龍吟方澤,虎嘯山丘。仰飛纖繳,俯釣長流。觸矢而斃,貪餌吞鉤。落雲間之逸禽,懸淵沉之魦鰡。

  于時曜靈俄景,係以望舒。極般遊之至樂,雖日夕而忘劬。感老氏之遺誡,將迴駕乎蓬廬。彈五絃之妙指,詠周孔之圖書。揮翰墨以奮藻,陳三皇之軌模。苟縱心於物外,安知榮辱之所如

2020-06-20

中国史大事抜粋年表

1 『北京大学版 中国文明掲載の「大事年表」をベースに、wikipedia中国の歴史年表」「夏商周年表」その他の記事で補った。

2 大事中、更に重要と見なしたもののみ掲載

3 < >内は王朝又は時代名(主要な王朝名のみ)

.

前1800頃 黄河中流域に二里頭文化(夏文化)出現 <夏>

前1600頃 殷(商)の創建(殷(商)・太乙(成湯)) <殷(商)>

前1250頃 高宗武丁の統治。甲骨文の使用

前1050頃 殷周革命(周・武王) <西周

前770 周の東遷(周・平王) <東周><春秋時代)>

前453 三晋(趙、魏、韓)成立(諸侯に列されたのは前403) <戦国時代)>

前359 秦において商鞅第一次変法が実施される

前350 秦が咸陽遷都する。秦において商鞅の第二次変法が実施される

前256 秦が東周を滅ぼす

前247 贏政が秦王として即位する(秦・始皇帝

前221 秦が燕・斉を滅ぼし、秦による中国統一成る。秦が貨幣度量衡文字統一する <秦>

前210 秦・始皇帝崩御する

前209 陳勝呉広の乱

前206 秦滅亡。鴻門の会。漢の高祖元年

前202 項羽滅亡。漢(前漢)成立。 <漢(前漢西漢)>

前154 呉楚七国の乱

前136 儒教官学化 ※異説多し

前115 均輸法(漢・武帝、桑弘羊)

前110 平準法

8 王莽皇帝を称する <新>

18 赤眉の乱

25 劉秀が皇帝を称する(後漢・世祖、光武帝)。後漢洛陽遷都する <漢(後漢東漢)>

166 第一党錮の禁

184 黄巾の乱 <三国時代)>

200 官渡の戦い

208 赤壁の戦い

220 後漢献帝曹丕(魏・文帝)に禅譲後漢滅亡、魏成立)。九品官人法制定 <魏>

234 蜀漢諸葛亮陣没

249 魏で曹爽が粛清され、司馬氏が実権を握る

263 蜀漢滅亡

265 魏・元帝司馬炎(晋・世祖、武帝)に禅譲(魏滅亡、晋(西晋)成立) <晋(西晋)>

280 晋が呉を滅ぼし、晋による中国統一成る

291 八王の乱

304 劉淵が大単于・漢王を称する(前趙成立) <五胡十六国時代)>

311 永嘉の乱

316 西晋滅亡

317 東晋成立 <東晋

439 北魏・太武帝北涼を滅ぼす <南北朝時代)>

485 均田法発布

581 禅譲により北周が滅亡し、隋が成立する <隋>

589 隋が陳を滅ぼし、隋による中国統一成る

610 隋・煬帝大運河を竣工する

613 楊玄感による反乱、隋の統治が崩れる

618 李淵皇帝を称する(唐・高祖) <唐>

619 租庸調制の実施

624 唐による中国統一成る

626 玄武門の変。李世民皇帝即位する(唐・太宗)

640 貞観律令

660 武則天執政

668 唐が高句麗を滅ぼす

690 武則天皇帝を称し、国号を周と改める

703 中宗が即位し、国号を唐に復する。武則天崩御

755 安史の乱(~763)

780 両税法施行。租庸調・雑徭の廃止

845 唐・武宗による宗教弾圧仏教景教、祆教、マニ教)、会昌の廃仏(~846)

875 黄巣の乱(~884)

904 朱全忠、唐の実権を握る

907 朱全忠への禅譲(梁・太祖)。唐滅亡。梁の建国 <梁・五代十国

916 契丹耶律阿保機皇帝を称する(遼・太祖) <遼>

960 趙匡胤皇帝を称する(宋・太祖) <宋(北宋)>

1004 澶淵の盟

1038 李元昊皇帝を称する <西夏

1069 宋において王安石の新法が行われる

1084 司馬光資治通鑑』が完成する

1086 司馬光、宋の宰相になる

1115 完顔阿骨打皇帝を称する <金>

1125 金が遼を滅ぼす

1126 靖康の変、金が北宋を滅ぼす

1127 南宋高宗即位 <南宋

1165 南宋と金の間に和議が結ばれる

1206 モンゴル部のテムジンボルジギン氏)、ハンを称する(チンギス・ハン、元の太祖) <モンゴル帝国>

1227 チンギス・カン崩御モンゴル西夏を滅ぼす

1229 オゴデイモンゴルの大汗として即位する(オゴデイ・カアン)

1234 モンゴルが金を滅ぼす

1236 モンゴルのバトゥ(チンギス・カンの孫)らによる西征

1260 クビライがモンゴルの大汗として即位する(クビライ・カアン。セチェン・カアン。元・世祖)

1264 アリクブケ、クビライに降伏する

1267 モンゴル帝国、燕京に遷都する

1271 クビライ・カアン、モンゴル国号を元に改める <元>

1279 元が南宋を滅ぼす

1281 弘安の役

1351 紅巾の乱

1368 朱元璋皇帝を称する(明・太祖、洪武帝) <明>

    明が元の首都大都を攻略する。元の北遷(北帰) <北元

1371 明で海禁令が出される

1388 北元の滅亡

1399 靖難の変

1402 明で朱棣が皇帝即位する(明・太宗、永楽帝

1403 鄭和による第一次航海

1421 明、北京遷都する

1435 この頃より宦官の専政がひどくなる

1449 土木の変

1616 女真族ヌルハチ満州中国東北部)に後金建国する <後金(清)>

1638 ホンタイジ後金のハーンとして即位し、国号を清に改める。

1644 清が明を滅ぼす(北京陥落)

1673 三藩の乱

1683 台湾の鄭氏政権が滅亡

1689 ネルチンスク条約

1696 ジュンガル部討伐

1716 地丁銀制

1728 キャフタ条約

1798 白蓮教徒の乱

1840 アヘン戦争(~1842) <近代中国

1850 太平天国の乱(~1864)

1856 アロー号戦争

1860 円明園炎上

1861 西太后の垂簾聴政(~1908)

1884 清仏戦争

1894 甲午戦争日清戦争)(~1895)

1899 義和団の乱

1904 日露戦争(~1905)

1905 清・光緒帝、科挙廃止する

1908 清・光緒帝並びに西太后崩御

1911 辛亥革命

1912 清朝滅亡 <中華民国

1915 日本による二十一箇条要求袁世凱皇帝を称する

1928 張作霖爆殺事件、張学良の易幟

1931 満州事変

1932 満州建国(~1945)

1934 中国共産党による長征

1935 遵義会議毛沢東中国共産党のトップ

1936 西安事件

1937 中国抗日戦争日中戦争)(~1945)

1939 第二次世界大戦(~1945)

1945 日本降伏

1946 国共内戦(~1949)

1949 中華人民共和国成立 <中華人民共和国(新中国)>

1950 中国朝鮮戦争に参戦(1951年終戦

1951 三反五反運動

1957 反右派闘争

1959 チベットダライ・ラマ14世インド亡命する

1958 大躍進政策の開始(~1958)

1966 文化革命の開始

1976 毛沢東の死去。文化革命終結

1978 鄧小平中国最高指導者になる。改革開放政策の開始

1997 鄧小平死去。香港返還

2012 習近平中国最高指導者になる

2019 湖北省武漢市で新型コロナウイルス(COVID-19)感染者が発生

2020 新型コロナウイルス(COVID-19)の世界流行

2020-05-06

中国って何千年なの?

"中国50年の歴史"約 1,070 件 (0.31 秒)
"中国100年の歴史"約 3,190 件 (0.35 秒)
"中国200年の歴史"約 4 件 (0.24 秒)
"中国300年の歴史"約 341 件 (0.28 秒)
"中国400年の歴史"約 677 件 (0.33 秒)
"中国500年の歴史"約 3 件 (0.35 秒)
"中国600年の歴史"約 435 件 (0.41 秒)
"中国700年の歴史"約 6 件 (0.35 秒)
"中国800年歴史"約 9 件 (0.36 秒)
"中国900年の歴史"との一致はありません。
"中国1000年の歴史"約 1,010 件 (0.43 秒)

北宋(960年 - 1127年)

南宋(1127年 - 1279年)

西晋(265年 - 316年)

東晋317年 - 420年)

五胡十六国時代(304年 - 439年)

"中国2000年歴史"約 2,660 件 (0.31 秒)

前漢西漢紀元前206年 - 8年)

—新(8年 - 23年)

後漢東漢、25年 - 220年)

"中国3000年の歴史"約 30,200 件 (0.49 秒)
"中国4000年の歴史"約 161,000 件 (0.42 秒)
"中国5000年の歴史" 約 90,400 件 (0.53 秒)
"中国6000年の歴史" 約 1,410 件 (0.42 秒)
"中国7000年の歴史" 約 501 件 (0.43 秒)
"中国8000年の歴史"約 480 件 (0.43 秒)
"中国9000年の歴史" 約 157 件 (0.57 秒)
"中国10000年の歴史"約 131 件 (0.34 秒)
"中国20000年の歴史" 3 件 (0.37 秒)
"中国30000年の歴史"約 9 件 (0.25 秒)
"中国40000年の歴史"約 589 件 (0.53 秒)
"中国50000年の歴史"10 件 (0.31 秒)
"中国60000年の歴史"1 件 (0.21 秒)
"中国70000年の歴史"6 件 (0.30 秒)
"中国80000年の歴史"3 件 (0.30 秒)
"中国90000年の歴史"との一致はありません。
"中国100000年の歴史"との一致はありません。
"中国10万年歴史"約 5 件 (0.66 秒)
"中国20万年歴史" 1 件 (0.39 秒)
"中国30万年歴史"約 1 件 (0.33 秒)
"中国40万年歴史"約 6 件 (0.39 秒)
"中国50万年歴史" 8 件 (0.43 秒)
"中国60万年歴史" 1 件 (0.36 秒)
"中国70万年歴史"との一致はありません。
"中国80万年歴史" 1 件 (0.34 秒)
"中国90万年歴史"との一致はありません。
"中国100万年歴史"約 545 件 (0.62 秒)
"中国200万年歴史"との一致はありません。
"中国300万年歴史"との一致はありません。
"中国400万年歴史"1 件 (0.32 秒)
"中国500万年歴史"2 件 (0.35 秒)
"中国600万年歴史"との一致はありません。
"中国700万年歴史"との一致はありません。
"中国800万年歴史"との一致はありません。
"中国900万年歴史"との一致はありません。
"中国1000万年歴史"1 件 (0.35 秒)
"中国2000万年歴史"との一致はありません。
"中国3000万年歴史"5 件 (0.39 秒)
"中国4000万年歴史"9 件 (0.36 秒)
"中国5000万年歴史"3 件 (0.23 秒)
"中国6000万年歴史"2 件 (0.35 秒)
"中国7000万年歴史"との一致はありません。
"中国8000万年歴史"との一致はありません。
"中国9000万年歴史"との一致はありません。
"中国1億年の歴史"約 9 件 (0.57 秒)
"中国10億年の歴史"との一致はありません。
"中国40億年の歴史"1 件 (0.28 秒)
"中国100億年の歴史"約 3 件 (0.43 秒)
"中国1000億年の歴史"2 件 (0.32 秒)
"中国1兆年の歴史"1 件 (0.39 秒)
"中国10兆年の歴史"との一致はありません。
"中国100兆年の歴史"との一致はありません。
"中国1000兆年の歴史"との一致はありません。



"中国X年の歴史" 2 件 (0.23 秒)

"中国n年の歴史"との一致はありません。




  • 参考

https://ja.wikipedia.org/wiki/中国歴史

https://ja.wikipedia.org/wiki/世界歴史

https://ja.wikipedia.org/wiki/地球史年表

2019-08-22

anond:20190822084741

王朝創業者滅亡
群雄農民反乱から台頭した群雄による征服
前漢ゴロツキ外戚による乗っ取り
後漢地方豪族農民反乱による弱体化・外戚による乗っ取り
王朝重臣皇族同士の内乱による弱体化・異民族による征服
王朝重臣反乱の多発による弱体化・重臣による乗っ取り
王朝重臣農民反乱による弱体化・重臣による乗っ取り
王朝重臣異民族による征服
異民族の王農民反乱から台頭した群雄による征服
ゴロツキ異民族による征服
異民族の王農民反乱による弱体化・異民族西洋日本)による征服共和革命

前漢と明くらいにしか当てはまらんな。

2019-08-09

anond:20190809181508

孫の手


中国西晋時代の書『神仙伝』に登場する仙女・麻姑(まこ)に由来する。

麻姑は爪を長く伸ばしており、あるとき後漢の蔡経が、その長い爪で自分かゆいところを掻いてもらうと気持ちがいいだろうと言い、叱責されたことに因む。のちに「麻姑の手」が訛って「孫の手」と言われるようになった。

民明書房かなにかか

2018-11-18

anond:20181118165837

虎穴に入らずんば虎子を得ず

虎の子を得るためには、虎の住むほら穴に危険おかして入らねばならないことから危険をおかさなければ大きな成功や功名は得られないということ。

後漢の班超が匈奴との戦いで危機に陥ったとき、部下に言った言葉から

「虎子」は「虎児」とも書き、「こし」とも読む。

2018-11-06

anond:20181106104718

イザンベールは本当に救いようがない。

図星を指された私怨いつまでも忘れず、どんな話題にも関係ない話題にもおぎのとか青識とか持ち出す。

あんなの政治家にしたら後漢董卓みたいになるわ。

あ、そこまでの器でもないか

2018-10-06

天高く馬肥ゆる秋という

故事成語について、なんとなくのほほんとした情景を浮かべるのが

現代日本人ではないだろうか。


しかし、それは間違いである。断じて間違いである。

平和ボケ日本人過去の生きるか死ぬかの時代に思いをはせて欲しい。


時は後漢北方騎馬民族である匈奴が秋の間に騎馬を育成して食料を求めて後漢領土侵犯してくる。


漢民族迷惑してたのである。秋にあると憂鬱になっていたのである


天高く馬肥ゆる秋、私もいっぱい食べて元気モリモリ」なんて言っちゃってる奴は

誤用も甚だしい。後漢の人々に誤りなさいっていうこっちゃ。

政治家の誤字、政治家の飴玉なめなめなんて、そんな取るに足らないことに夢中になって

本質を見逃していたら、元も子も無いのである

2018-05-18

anond:20180517162500

中国は度々農民の反乱で国が変わってるよね

まり中国くらいの規模で農民がいたらいけるのでは

秦を滅ぼした陳勝呉広の乱(前209~208)

新を滅ぼした赤眉の乱(18~27)

後漢を滅ぼした黄巾の乱(184)

唐を滅ぼした黄巣の乱(875~884)

元を滅ぼした紅巾の乱(1351~66)

明を滅ぼした李自成の乱(1631)

時代に起こった白蓮教徒の乱(1796~1805)

同じく太平天国の乱(1851~64)

2018-05-08

anond:20180508123147

劉備三兄弟放浪義勇軍しながら黄巾とか董卓とか呂布とかその辺と戦ってるあたりが一番好き

これだと後漢志になっちまう

anond:20180508005900

三国志って初めの方は後漢時代であって三国時代ではなく

三国時代曹操が死んでからなんだよな。

インキャラが一人死んでから時代タイトルにとってるあたり、

まるでドラえもんがだいぶ跡からにならないとでてこないドラえもんみたいだなあと

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