「後漢」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 後漢とは

2021-06-26

anond:20210626170208

このお坊さんが呂布と同時代(後漢末期くらい)の中華に伝来したての仏教のお坊さんとするなら「南無阿弥陀仏」って唱えてる時点で相当ヘンテコではあるな。

2021-06-08

anond:20210607234817

満寵

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

満 寵(まん ちょう、? - 242年3月)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将政治家。字は伯寧。兗州山陽郡昌邑県の人。子は満偉・満炳・満氏 (司馬榦の妻)。孫は満長武・満奮。『三国志魏志「満田牽郭伝」に伝がある。

目次

1 生涯

1.1 酷吏として出世

1.2 軍人として活躍

1.3 呉との攻防

2 三国志演義

3 脚注

生涯

酷吏として出世

身長は8尺(約190cm)あったと伝えられる。18歳の時に県の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物は、二度と乱暴しなくなったという。高平県令を代行した際、督郵張苞張飛の子とは別人)の横暴を見てこれを逮捕し、その場で拷竟(=拷問致死)した上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話を持つ。

その後、曹操に仕えた。曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為曹操に大いに賞賛された。

楊彪逮捕された際、荀彧孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操楊彪赦免した。

これらの事からわかるように、満寵は于禁と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人からまれることはなかった。

軍人として活躍

官渡の戦いの時期には、袁紹郷里である汝南太守を務め、袁氏与党の軍を滅ぼし、農耕に従事させた。

曹操荊州征伐に従い、曹操が帰還すると奮威将軍兼務し当陽県に駐屯した。

孫権国境に攻め入ると、曹操は満寵を召し還して再び汝南太守とし、関内侯の爵位を与えた。

後に、曹仁参謀として樊城に駐屯した。219年、劉備軍の関羽が攻めて来た時は、救援に来た于禁ら七軍が洪水により壊滅し、樊城も水没して崩壊しつつあった。ある人が曹仁降伏を進言したが、満寵は「山の水は引くのが速く、この状況は長くは続かない」と反対した。曹仁は満寵の意見を良しとした。徐晃の援軍を得て関羽撃退されると、満寵は安昌亭侯に進封された。

呉との攻防

曹丕(文帝)の時代には揚武将軍となり、三方から呉を攻撃したときも、それに従軍した。呉との江陵での戦いで功績を挙げて伏波将軍に任命され、新野に駐屯し仮節鉞となった。半年曹真・夏侯尚・徐晃張郃・文聘らとともに朱然交戦したが、戦死者も数多となり、江陵を攻められなかったので撤退した。また、曹丕の南征に従って、敵の夜襲を見破り散々に打ち破ると、南郷侯に進封されたが、最終的に魏軍は呉に敗れた。224年には前将軍に昇進した。

曹叡(明帝)が即位すると昌邑侯に進封された。

228年、曹休司馬懿・賈逵が揚州荊州豫州雍州涼州の五軍の指揮を執り、石亭・江陵・濡須東関三方から侵攻した。満寵は賈逵の軍に胡質達と共に監軍として従軍し、武昌を目指し進撃していたが、揚州方面の軍の指揮を執っていた曹休孫権の計略にかかり大敗したため、犠牲者も数万人以上となり、敗れている(石亭の戦い・「賈逵伝」[1])。また、司馬懿張郃らも江陵を攻め落れずに退却した。

同年、曹叡は濡須東関に賈逵・満寵らを命じて再び攻めてきたが、陥落させることができずに負けた[2]。

曹叡は呉・蜀漢に対して完全に専守防衛に行い、賈逵の死後に豫州刺史兼任し、曹休の死後に都督揚州軍事となった。揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛兵千人を率いていく事が許され、その他一斉が不問とされた。

230年には征東将軍となった。冬に再び孫権合肥に攻め寄せる気配があったため、兗州豫州の軍を召集する事を上奏し侵攻に備えた。孫権撤退する気配を見せたので、こちらも撤退するよう詔勅が下ったが、満寵は孫権撤退偽装と読み、引き続き備えを怠らなかった。孫権10日ほどしてから再び来襲したが、合肥を攻められなかったので無事に撤退した。

231年、呉の孫布という武将投降を申し入れてきた。王淩がこれを出迎えたいと申し出たが、満寵は投降偽装と読んだため、王淩に自重を求めた。偶然入朝する用事ができたため、留府長史には王淩が兵士要求しても与えてはならないと厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍に僅かな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせた。王淩は呉に敗れ、孫布の夜襲により兵の多く失うことになった。

満寵と王淩はこれ以前から対立しており、満寵が召喚されたのも、王淩の息のかかった者が満寵を老いと疲れにより耄碌していると讒言たからであった。満寵と目通りした曹叡は、満寵が壮健なことを確認できたため[3]、任地に返そうとした。しかし満寵はこのまま朝廷に留まることを願った。曹叡は満寵を馬援・廉頗に準え鼓舞した。

232年、呉の陸遜が廬江に侵攻してきた。部下達がすぐに救援に赴くよう勧めたが、満寵は落ち着いて対処すれば良いとした。軍を整え、陽宜口まで赴いたところで呉軍は既に撤退した。

233年、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済がこれを弱気作戦であり、味方の士気を削ぐことになると反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法道理を引きながら築城長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。建設に莫大な費用がかかることもあって、合肥城ともども廃れていった。

同年、孫権合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったため、敢えて上陸しようとしなかった。しかし満寵は、孫権武威を振るっているので、必ず陸に上がることに違いないと判断した。伏兵として歩騎兵を6千用意したところ、果たして孫権上陸したため、伏兵により百人の首を斬った。

234年、孫権は十万の軍勢である呼称合肥新城に攻め寄せてきた(「明帝紀」)。蜀漢諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)は孫権呼応して(「満寵伝」)、二十万の軍勢である呼称し祁山に攻め寄せてきた。合肥魏軍が苦戦に陥り、これを恐れていた満寵は合肥新城放棄し寿春へ撤退する作戦を願い出たが、曹叡に拒絶されている(「明帝紀」)。満寵は、合肥新城へ救援に赴き、数十人の義勇兵を募り、松と麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払った上、さら曹操孫権の甥孫泰を射殺した。張穎達とともに力を尽くして戦ったが、呉軍は依然として頑強に猛攻した。魏の中央大軍が迫ったので、孫権は大損害を受ける事を避けて、曹叡の援軍が到着する前に撤退した(合肥新城の戦い)。

235年春、孫権江北に兵を送り屯田を始めさせた。満寵は、収穫の時期に屯衛兵達が各地に点在し、陣が伸びきったのを見て、これを襲撃すべきと判断した。また各地の県長に軍を率いて東上させた。さらに各地の屯衛を撃破させ、穀物を焼き払った。詔勅により軍功が称され、鹵獲品は全て将兵恩賞とされた。

曹叡が没し曹芳(斉王)の時代になった238年3月[4]、老年のため中央召喚され太尉となった。家には余財がなかったため、詔勅により特別物資が下賜された。加増による領邑は9600戸になり、子と孫2人が亭侯とされた。

242年3月[5]死去した。景侯の諡号を贈られた。

子孫の満偉(子)・満長武(孫)・満奮(孫)もまた、身長が8尺あったと伝わる。満偉は人品に優れており衛尉まで上り、満長武は満寵の風格を有していたという。しかし、司馬昭に疎まれ殺害され、父の満偉もまた失脚し、平民に落された。満奮は満偉の弟の子であり、やはり満寵の風格があったという(『晋諸公賛』)。西晋時代尚書司隷校尉となった。

また、満寵のもう一人の子満炳は別部司馬となった[6]。

三国志演義

小説三国志演義』では、劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となり、楊奉配下だった旧知の徐晃曹操陣営に引き入れることに成功するなど、物語の初期においては弁舌の士という描かれ方がされている。

2021-05-18

anond:20210518175226

単純な戦争の強さで言えばアレクサンダー大王、チンギス=ハン、ナポレオントップ3じゃないの。

あとはティムールなんかもよく名前が挙がるよな。

有名どころとしては他にシャルルマーニュフリードリヒ2世

バイバルスセリ1世スレイマン1世アッバース1世、ナーディル・シャー。

中国から後漢光武帝・唐太宗・明永楽帝・清康煕帝あたりか。

グスタフ・アドルフ軍事史的には重要なんだけどいかんせんすぐ死んだからなあ。

2021-04-01

anond:20210322204302

中国史を読んでいる。

後漢(光武帝)の時代、鉄官が徐々に再開され、官営鉄器製造回復した。銅器製造も隆盛し、会稽郡山陰県(浙江省紹興市)の銅鏡に代表されるような優れた工芸品を生み出し、日本(倭)などに輸出された。」

って出て来て

うおおおおっあの須玖岡本遺跡(奴国)や三雲南小路遺跡甕棺墓(伊都国)から出土したと言われるあの前漢鏡かああああっ

てなる

知らんけど

2020-11-24

anond:20201124163136

曹 休(そう きゅう、? - 228年)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将。字は文烈。曹操の族子。祖父は曹鼎(呉郡太守)[1]。父の名は不明。子は曹肇・曹纂ら。孫は曹興(曹肇の子)。曾孫は曹攄(曹興の子)・曹識(曹纂の孫)。玄孫には曹毗(曹識の子)らがいる。『三国志魏志「諸夏侯曹伝」に伝がある。

2020-07-15

歸田賦

後漢 張衡

遊都邑以永久,無明略以佐時;徒臨川以羨魚,俟河清乎未期。感蔡子之慷慨,從唐生以決疑。諒天道之微昧,追漁父以同嬉。超埃塵以遐逝,與世事乎長辭。

  於是仲春令月,時和氣清。原隰鬱茂,百草滋榮。王雎鼓翼,倉庚哀鳴;交頸頡頏,關關嚶嚶。於焉逍遙,聊以娛情。

  爾乃龍吟方澤,虎嘯山丘。仰飛纖繳,俯釣長流。觸矢而斃,貪餌吞鉤。落雲間之逸禽,懸淵沉之魦鰡。

  于時曜靈俄景,係以望舒。極般遊之至樂,雖日夕而忘劬。感老氏之遺誡,將迴駕乎蓬廬。彈五絃之妙指,詠周孔之圖書。揮翰墨以奮藻,陳三皇之軌模。苟縱心於物外,安知榮辱之所如

2020-06-20

中国史大事抜粋年表

1 『北京大学版 中国文明掲載の「大事年表」をベースに、wikipedia中国の歴史年表」「夏商周年表」その他の記事で補った。

2 大事中、更に重要と見なしたもののみ掲載

3 < >内は王朝又は時代名(主要な王朝名のみ)

.

前1800頃 黄河中流域に二里頭文化(夏文化)出現 <夏>

前1600頃 殷(商)の創建(殷(商)・太乙(成湯)) <殷(商)>

前1250頃 高宗武丁の統治。甲骨文の使用

前1050頃 殷周革命(周・武王) <西周

前770 周の東遷(周・平王) <東周><春秋時代)>

前453 三晋(趙、魏、韓)成立(諸侯に列されたのは前403) <戦国時代)>

前359 秦において商鞅第一次変法が実施される

前350 秦が咸陽遷都する。秦において商鞅の第二次変法が実施される

前256 秦が東周を滅ぼす

前247 贏政が秦王として即位する(秦・始皇帝

前221 秦が燕・斉を滅ぼし、秦による中国統一成る。秦が貨幣度量衡文字統一する <秦>

前210 秦・始皇帝崩御する

前209 陳勝呉広の乱

前206 秦滅亡。鴻門の会。漢の高祖元年

前202 項羽滅亡。漢(前漢)成立。 <漢(前漢西漢)>

前154 呉楚七国の乱

前136 儒教官学化 ※異説多し

前115 均輸法(漢・武帝、桑弘羊)

前110 平準法

8 王莽皇帝を称する <新>

18 赤眉の乱

25 劉秀が皇帝を称する(後漢・世祖、光武帝)。後漢洛陽遷都する <漢(後漢東漢)>

166 第一党錮の禁

184 黄巾の乱 <三国時代)>

200 官渡の戦い

208 赤壁の戦い

220 後漢献帝曹丕(魏・文帝)に禅譲後漢滅亡、魏成立)。九品官人法制定 <魏>

234 蜀漢諸葛亮陣没

249 魏で曹爽が粛清され、司馬氏が実権を握る

263 蜀漢滅亡

265 魏・元帝司馬炎(晋・世祖、武帝)に禅譲(魏滅亡、晋(西晋)成立) <晋(西晋)>

280 晋が呉を滅ぼし、晋による中国統一成る

291 八王の乱

304 劉淵が大単于・漢王を称する(前趙成立) <五胡十六国時代)>

311 永嘉の乱

316 西晋滅亡

317 東晋成立 <東晋

439 北魏・太武帝北涼を滅ぼす <南北朝時代)>

485 均田法発布

581 禅譲により北周が滅亡し、隋が成立する <隋>

589 隋が陳を滅ぼし、隋による中国統一成る

610 隋・煬帝大運河を竣工する

613 楊玄感による反乱、隋の統治が崩れる

618 李淵皇帝を称する(唐・高祖) <唐>

619 租庸調制の実施

624 唐による中国統一成る

626 玄武門の変。李世民皇帝即位する(唐・太宗)

640 貞観律令

660 武則天執政

668 唐が高句麗を滅ぼす

690 武則天皇帝を称し、国号を周と改める

703 中宗が即位し、国号を唐に復する。武則天崩御

755 安史の乱(~763)

780 両税法施行。租庸調・雑徭の廃止

845 唐・武宗による宗教弾圧仏教景教、祆教、マニ教)、会昌の廃仏(~846)

875 黄巣の乱(~884)

904 朱全忠、唐の実権を握る

907 朱全忠への禅譲(梁・太祖)。唐滅亡。梁の建国 <梁・五代十国

916 契丹耶律阿保機皇帝を称する(遼・太祖) <遼>

960 趙匡胤皇帝を称する(宋・太祖) <宋(北宋)>

1004 澶淵の盟

1038 李元昊皇帝を称する <西夏

1069 宋において王安石の新法が行われる

1084 司馬光資治通鑑』が完成する

1086 司馬光、宋の宰相になる

1115 完顔阿骨打皇帝を称する <金>

1125 金が遼を滅ぼす

1126 靖康の変、金が北宋を滅ぼす

1127 南宋高宗即位 <南宋

1165 南宋と金の間に和議が結ばれる

1206 モンゴル部のテムジンボルジギン氏)、ハンを称する(チンギス・ハン、元の太祖) <モンゴル帝国>

1227 チンギス・カン崩御モンゴル西夏を滅ぼす

1229 オゴデイモンゴルの大汗として即位する(オゴデイ・カアン)

1234 モンゴルが金を滅ぼす

1236 モンゴルのバトゥ(チンギス・カンの孫)らによる西征

1260 クビライがモンゴルの大汗として即位する(クビライ・カアン。セチェン・カアン。元・世祖)

1264 アリクブケ、クビライに降伏する

1267 モンゴル帝国、燕京に遷都する

1271 クビライ・カアン、モンゴル国号を元に改める <元>

1279 元が南宋を滅ぼす

1281 弘安の役

1351 紅巾の乱

1368 朱元璋皇帝を称する(明・太祖、洪武帝) <明>

    明が元の首都大都を攻略する。元の北遷(北帰) <北元

1371 明で海禁令が出される

1388 北元の滅亡

1399 靖難の変

1402 明で朱棣が皇帝即位する(明・太宗、永楽帝

1403 鄭和による第一次航海

1421 明、北京遷都する

1435 この頃より宦官の専政がひどくなる

1449 土木の変

1616 女真族ヌルハチ満州中国東北部)に後金建国する <後金(清)>

1638 ホンタイジ後金のハーンとして即位し、国号を清に改める。

1644 清が明を滅ぼす(北京陥落)

1673 三藩の乱

1683 台湾の鄭氏政権が滅亡

1689 ネルチンスク条約

1696 ジュンガル部討伐

1716 地丁銀制

1728 キャフタ条約

1798 白蓮教徒の乱

1840 アヘン戦争(~1842) <近代中国

1850 太平天国の乱(~1864)

1856 アロー号戦争

1860 円明園炎上

1861 西太后の垂簾聴政(~1908)

1884 清仏戦争

1894 甲午戦争日清戦争)(~1895)

1899 義和団の乱

1904 日露戦争(~1905)

1905 清・光緒帝、科挙廃止する

1908 清・光緒帝並びに西太后崩御

1911 辛亥革命

1912 清朝滅亡 <中華民国

1915 日本による二十一箇条要求袁世凱皇帝を称する

1928 張作霖爆殺事件、張学良の易幟

1931 満州事変

1932 満州建国(~1945)

1934 中国共産党による長征

1935 遵義会議毛沢東中国共産党のトップ

1936 西安事件

1937 中国抗日戦争日中戦争)(~1945)

1939 第二次世界大戦(~1945)

1945 日本降伏

1946 国共内戦(~1949)

1949 中華人民共和国成立 <中華人民共和国(新中国)>

1950 中国朝鮮戦争に参戦(1951年終戦

1951 三反五反運動

1957 反右派闘争

1959 チベットダライ・ラマ14世インド亡命する

1958 大躍進政策の開始(~1958)

1966 文化革命の開始

1976 毛沢東の死去。文化革命終結

1978 鄧小平中国最高指導者になる。改革開放政策の開始

1997 鄧小平死去。香港返還

2012 習近平中国最高指導者になる

2019 湖北省武漢市で新型コロナウイルス(COVID-19)感染者が発生

2020 新型コロナウイルス(COVID-19)の世界流行

2020-05-06

中国って何千年なの?

"中国50年の歴史"約 1,070 件 (0.31 秒)
"中国100年の歴史"約 3,190 件 (0.35 秒)
"中国200年の歴史"約 4 件 (0.24 秒)
"中国300年の歴史"約 341 件 (0.28 秒)
"中国400年の歴史"約 677 件 (0.33 秒)
"中国500年の歴史"約 3 件 (0.35 秒)
"中国600年の歴史"約 435 件 (0.41 秒)
"中国700年の歴史"約 6 件 (0.35 秒)
"中国800年歴史"約 9 件 (0.36 秒)
"中国900年の歴史"との一致はありません。
"中国1000年の歴史"約 1,010 件 (0.43 秒)

北宋(960年 - 1127年)

南宋(1127年 - 1279年)

西晋(265年 - 316年)

東晋317年 - 420年)

五胡十六国時代(304年 - 439年)

"中国2000年歴史"約 2,660 件 (0.31 秒)

前漢西漢紀元前206年 - 8年)

—新(8年 - 23年)

後漢東漢、25年 - 220年)

"中国3000年の歴史"約 30,200 件 (0.49 秒)
"中国4000年の歴史"約 161,000 件 (0.42 秒)
"中国5000年の歴史" 約 90,400 件 (0.53 秒)
"中国6000年の歴史" 約 1,410 件 (0.42 秒)
"中国7000年の歴史" 約 501 件 (0.43 秒)
"中国8000年の歴史"約 480 件 (0.43 秒)
"中国9000年の歴史" 約 157 件 (0.57 秒)
"中国10000年の歴史"約 131 件 (0.34 秒)
"中国20000年の歴史" 3 件 (0.37 秒)
"中国30000年の歴史"約 9 件 (0.25 秒)
"中国40000年の歴史"約 589 件 (0.53 秒)
"中国50000年の歴史"10 件 (0.31 秒)
"中国60000年の歴史"1 件 (0.21 秒)
"中国70000年の歴史"6 件 (0.30 秒)
"中国80000年の歴史"3 件 (0.30 秒)
"中国90000年の歴史"との一致はありません。
"中国100000年の歴史"との一致はありません。
"中国10万年歴史"約 5 件 (0.66 秒)
"中国20万年歴史" 1 件 (0.39 秒)
"中国30万年歴史"約 1 件 (0.33 秒)
"中国40万年歴史"約 6 件 (0.39 秒)
"中国50万年歴史" 8 件 (0.43 秒)
"中国60万年歴史" 1 件 (0.36 秒)
"中国70万年歴史"との一致はありません。
"中国80万年歴史" 1 件 (0.34 秒)
"中国90万年歴史"との一致はありません。
"中国100万年歴史"約 545 件 (0.62 秒)
"中国200万年歴史"との一致はありません。
"中国300万年歴史"との一致はありません。
"中国400万年歴史"1 件 (0.32 秒)
"中国500万年歴史"2 件 (0.35 秒)
"中国600万年歴史"との一致はありません。
"中国700万年歴史"との一致はありません。
"中国800万年歴史"との一致はありません。
"中国900万年歴史"との一致はありません。
"中国1000万年歴史"1 件 (0.35 秒)
"中国2000万年歴史"との一致はありません。
"中国3000万年歴史"5 件 (0.39 秒)
"中国4000万年歴史"9 件 (0.36 秒)
"中国5000万年歴史"3 件 (0.23 秒)
"中国6000万年歴史"2 件 (0.35 秒)
"中国7000万年歴史"との一致はありません。
"中国8000万年歴史"との一致はありません。
"中国9000万年歴史"との一致はありません。
"中国1億年の歴史"約 9 件 (0.57 秒)
"中国10億年の歴史"との一致はありません。
"中国40億年の歴史"1 件 (0.28 秒)
"中国100億年の歴史"約 3 件 (0.43 秒)
"中国1000億年の歴史"2 件 (0.32 秒)
"中国1兆年の歴史"1 件 (0.39 秒)
"中国10兆年の歴史"との一致はありません。
"中国100兆年の歴史"との一致はありません。
"中国1000兆年の歴史"との一致はありません。



"中国X年の歴史" 2 件 (0.23 秒)

"中国n年の歴史"との一致はありません。




  • 参考

https://ja.wikipedia.org/wiki/中国歴史

https://ja.wikipedia.org/wiki/世界歴史

https://ja.wikipedia.org/wiki/地球史年表

2019-08-22

anond:20190822084741

王朝創業者滅亡
群雄農民反乱から台頭した群雄による征服
前漢ゴロツキ外戚による乗っ取り
後漢地方豪族農民反乱による弱体化・外戚による乗っ取り
王朝重臣皇族同士の内乱による弱体化・異民族による征服
王朝重臣反乱の多発による弱体化・重臣による乗っ取り
王朝重臣農民反乱による弱体化・重臣による乗っ取り
王朝重臣異民族による征服
異民族の王農民反乱から台頭した群雄による征服
ゴロツキ異民族による征服
異民族の王農民反乱による弱体化・異民族西洋日本)による征服共和革命

前漢と明くらいにしか当てはまらんな。

2019-08-09

anond:20190809181508

孫の手


中国西晋時代の書『神仙伝』に登場する仙女・麻姑(まこ)に由来する。

麻姑は爪を長く伸ばしており、あるとき後漢の蔡経が、その長い爪で自分かゆいところを掻いてもらうと気持ちがいいだろうと言い、叱責されたことに因む。のちに「麻姑の手」が訛って「孫の手」と言われるようになった。

民明書房かなにかか

2018-11-18

anond:20181118165837

虎穴に入らずんば虎子を得ず

虎の子を得るためには、虎の住むほら穴に危険おかして入らねばならないことから危険をおかさなければ大きな成功や功名は得られないということ。

後漢の班超が匈奴との戦いで危機に陥ったとき、部下に言った言葉から

「虎子」は「虎児」とも書き、「こし」とも読む。

2018-11-06

anond:20181106104718

イザンベールは本当に救いようがない。

図星を指された私怨いつまでも忘れず、どんな話題にも関係ない話題にもおぎのとか青識とか持ち出す。

あんなの政治家にしたら後漢董卓みたいになるわ。

あ、そこまでの器でもないか

2018-10-06

天高く馬肥ゆる秋という

故事成語について、なんとなくのほほんとした情景を浮かべるのが

現代日本人ではないだろうか。


しかし、それは間違いである。断じて間違いである。

平和ボケ日本人過去の生きるか死ぬかの時代に思いをはせて欲しい。


時は後漢北方騎馬民族である匈奴が秋の間に騎馬を育成して食料を求めて後漢領土侵犯してくる。


漢民族迷惑してたのである。秋にあると憂鬱になっていたのである


天高く馬肥ゆる秋、私もいっぱい食べて元気モリモリ」なんて言っちゃってる奴は

誤用も甚だしい。後漢の人々に誤りなさいっていうこっちゃ。

政治家の誤字、政治家の飴玉なめなめなんて、そんな取るに足らないことに夢中になって

本質を見逃していたら、元も子も無いのである

2018-05-18

anond:20180517162500

中国は度々農民の反乱で国が変わってるよね

まり中国くらいの規模で農民がいたらいけるのでは

秦を滅ぼした陳勝呉広の乱(前209~208)

新を滅ぼした赤眉の乱(18~27)

後漢を滅ぼした黄巾の乱(184)

唐を滅ぼした黄巣の乱(875~884)

元を滅ぼした紅巾の乱(1351~66)

明を滅ぼした李自成の乱(1631)

時代に起こった白蓮教徒の乱(1796~1805)

同じく太平天国の乱(1851~64)

2018-05-08

anond:20180508123147

劉備三兄弟放浪義勇軍しながら黄巾とか董卓とか呂布とかその辺と戦ってるあたりが一番好き

これだと後漢志になっちまう

anond:20180508005900

三国志って初めの方は後漢時代であって三国時代ではなく

三国時代曹操が死んでからなんだよな。

インキャラが一人死んでから時代タイトルにとってるあたり、

まるでドラえもんがだいぶ跡からにならないとでてこないドラえもんみたいだなあと

2018-04-05

anond:20180405204158

わざとらしいな。

糟糠の妻は堂より下さず

【読み】 そうこうのつまはどうよりくださず

意味糟糠の妻は堂より下さずとは、糟糠の妻は堂より下さずとは、貧しい時から苦労を共にしてきた妻は、自分出世した後も家から追い出せないということ。

糟糠の妻は堂より下さずの解説

注釈後漢光武帝が宋弘に「貧賎の知は忘るべからず、糟糠の妻は堂より下ろさず

(貧しい時から友達は忘れるな、貧しい時から連れ添った妻は表座敷から下ろさないほど大事にせねばならない)」と言ったという故事に基づく。

「糟糠」とは、酒かすと糠みそのことで、粗末な食事のたとえ。

「堂」は、住居・表座敷のことで、「堂より下す」は家から追い出すの意。

【出典】 『後漢書』

http://kotowaza-allguide.com/so/soukounotsumawadouyori.html

なんか増田さん意味取り違えてるよね。

苦労してる時の彼女なんて捨てるものなんでしょ

新しい彼女改造人間でも(爆笑

お金の力って凄いわ。

2017-09-02

新末後漢

三国志舞台としたゲームは掃いて捨てるほど出てるんだから、新末後漢初のゲームも少しくらいあってもいいじゃないか

2017-08-01

出典は、詩経ではなく、詩経注釈である

https://anond.hatelabo.jp/20170731142310

詩経が載せる詩句は、以下のとおりであったとされる(邶風第五《終風》第三章)。しかし、数百年も経てば、その意味は分からなくなってしまう。

終風且曀 不日有曀

寤言不寐 願言則嚏

そこで、後漢の鄭玄(AD 127-200)は、第四句「願言則嚏」の意味を「あなたが私を思ってくれたら、私も嚏をするはずなのに。」という意味である解釈し、その旨の注釈を加えた。いわゆる「鄭箋」である元増田のいう「今俗人嚏云人道我、此古之遺語也」は、その「鄭箋」中の語句である

この鄭玄の解釈が正しいなら、元増田がいうとおり、詩経時代から「噂をすればくしゃみをする」という考え方があったことになる。

しかし、この第三句、第四句について、単に「あなたのことを思って夜も寝られず(寤言不寐)、体調を崩して風を引いて嚏をした」という身も蓋もない解釈もある。

この解釈が正しいとすると、「くしゃみをしたら…」の迷信存在は、差しあたって鄭玄の時代にまでしか遡れないということになろう。

もとより、この迷信について、鄭玄の上記解釈を前提とする説明自体は、万葉集和歌と絡める部分を含め、江戸時代から指摘されていたような話のようであり、その点に関する元増田理解を間違いと断じるわけではない。

しかし、ソースをググれば、例えば「《箋》今俗人嚏云人道我、此古之遺語也」と一発で出てくるのに、「《箋》」でピンと来るような前提知識がないと、この点に不正確な部分を残したまま、トリビアとして広まってしまう虞もあろう。

それを防ぐという名目で、深夜にペダンチズムに耽った次第である

2016-01-14

中国歴代王朝対策と結果」に期間と補足を追記してみました。

http://anond.hatelabo.jp/20160113194003

元増田面白かったので期間と()で補足を追記してみました。

王朝期間対策結果
257王が諸侯領地を与え、諸侯世襲でその領地を治める 諸侯の力が強くなって群雄割拠となる
19領地皇帝の直轄とし、皇帝が任命した官吏がその領地を治める 中央集権に対して地方から反発が起こる(陳勝呉広の乱)
前漢225中央は直轄とし、地方皇族世襲としつつ、徐々に皇族の力を削る 皇族の力が弱くなったことで外戚が専横(新朝建国
後漢161外戚の専横を抑えるため、宦官を重用する(皇太后竇氏の垂簾政治外戚に代わって宦官が専横
後漢36宦官の悪政に対する反乱(黄巾の乱)を鎮圧するため、地方豪族たちを登用する 地方豪族が強大化して群雄割拠となる(三国時代
19地方豪族の力を弱めるため、官吏地方人材推挙するよう改める 官吏人事権を握るようになり、上級官職を独占して貴族化する
26後継者争いを防ぐため、皇族の力を制限する 皇族の力が弱まったことで、国を有力貴族に乗っ取られる(高平陵の変)
39皇族の力を強めるため、皇族優遇する 皇族同士の内乱が起こる(八王の乱
12皇族同士の内乱に勝つため、異民族の助けを借りる 異民族に滅ぼされて群雄割拠となる(永嘉の乱
南北朝 84異民族が国を建て、統治のために漢民族同化する 異民族の気風を残す辺境軍閥が反乱を起こして国が分裂する(六鎮の乱)
南北朝 66軍閥の代わりに徴兵制に改めて、辺境防衛を任せる 領土が拡大すると遠く離れた辺境兵士を送るのが難しくなる
29貴族解体するため、試験によって官吏を登用するように改める(科挙教養のみを重視して実務を軽視するような文弱化を招く
289徴兵制では辺境防衛が難しいため、募兵制に改めて辺境軍隊を置く 軍閥化して反乱が起き、群雄割拠となる(五代十国時代
167軍閥が力を持たないよう、中央官吏の力を強める 文弱化して異民族に敗れる
89漢化して弱体化しないよう、異民族の気風を保つ 差別された漢民族の不満が溜まって反乱が起き、群雄割拠となる(紅巾の乱)
276外戚排除して皇帝独裁体制を構築する 暗君が続いて弱体化し、異民族に敗れる
268漢民族統治するために漢化する 漢化して弱体化した国軍では反乱(太平天国の乱)を鎮圧できず、代わって活躍した義勇軍軍閥化して専横

もっと雑にしてみる

春秋戦国時代の戦乱を治めて統一王朝を作る農民反乱(陳勝呉広の乱)を切っ掛けに滅亡
前漢秦滅亡後の戦乱を治めて統一王朝を作る王莽簒奪禅譲)により滅亡
古(千年前)の周の政治理想として無理矢理適用する 農民反乱(赤眉の乱)を切っ掛けに滅亡
後漢新滅亡後の戦乱を治めて統一王朝を作る農民反乱(黄巾の乱)を切っ掛けに滅亡
三国時代の戦乱をほぼ治めてほぼ統一王朝を作る司馬炎簒奪禅譲)により滅亡
三国時代の戦乱を治めて統一王朝を作る劉裕の簒奪禅譲)により滅亡
南北朝時代の戦乱を治めて統一王朝を作る大規模公共事業と大規模軍事遠征負担が原因で各地で反乱が起き滅亡
隋滅亡後の戦乱を治めて統一王朝を作る農民反乱(黄巣の乱)を切っ掛けに滅亡
モンケ死後の戦乱を治めて統一王朝を作る農民反乱(紅巾の乱)を切っ掛けに滅亡
元滅亡後の戦乱を治めて統一王朝を作る農民反乱(李自成の乱)を切っ掛けに滅亡
明滅亡後の戦乱を治めて統一王朝を作る農民反乱(太平天国の乱)を切っ掛けに衰退・滅亡

http://anond.hatelabo.jp/20160113194003

2016-01-13

中国歴代王朝対策と結果

王が諸侯領地を与え、諸侯世襲でその領地を治める諸侯の力が強くなって群雄割拠となる
領地皇帝の直轄とし、皇帝が任命した官吏がその領地を治める中央集権に対して地方から反発が起こる
前漢中央は直轄とし、地方皇族世襲としつつ、徐々に皇族の力を削る皇族の力が弱くなったことで外戚が専横
後漢外戚の専横を抑えるため、宦官を重用する外戚に代わって宦官が専横
後漢宦官の悪政に対する反乱を鎮圧するため、地方豪族たちを登用する地方豪族が強大化して群雄割拠となる
地方豪族の力を弱めるため、官吏地方人材推挙するよう改める官吏人事権を握るようになり、上級官職を独占して貴族化する
後継者争いを防ぐため、皇族の力を制限する皇族の力が弱まったことで、国を有力貴族に乗っ取られる
皇族の力を強めるため、皇族優遇する皇族同士の内乱が起こる
皇族同士の内乱に勝つため、異民族の助けを借りる異民族に滅ぼされて群雄割拠となる
南北朝異民族が国を建て、統治のために漢民族同化する異民族の気風を残す辺境軍閥が反乱を起こして国が分裂する
南北朝軍閥の代わりに徴兵制に改めて、辺境防衛を任せる領土が拡大すると遠く離れた辺境兵士を送るのが難しくなる
貴族解体するため、試験によって官吏を登用するように改める教養のみを重視して実務を軽視するような文弱化を招く
徴兵制では辺境防衛が難しいため、募兵制に改めて辺境軍隊を置く軍閥化して反乱が起き、群雄割拠となる
軍閥が力を持たないよう、中央官吏の力を強める文弱化して異民族に敗れる
漢化して弱体化しないよう、異民族の気風を保つ差別された漢民族の不満が溜まって反乱が起き、群雄割拠となる
外戚排除して皇帝独裁体制を構築する暗君が続いて弱体化し、異民族に敗れる
漢民族統治するために漢化する漢化して弱体化した国軍では反乱を鎮圧できず、代わって活躍した義勇軍軍閥化して専横

2015-04-22

中国十大奸臣

慶父

春秋時代の魯国の公子

兄の荘公の夫人と密通し、その兄が死んだ後に自分差し置いて魯公となった甥を殺した。

代わりに立てた閔公が、慶父の弟である季友を信頼する姿勢を見せると、これも殺してしまう。

自らが魯公とならんとするも、周囲の支持を失い追放され、後に送還されて季友から弾劾され、自害した。

趙高

秦の始皇帝に愛された宦官

始皇帝が亡くなると、丞相の李斯を唆して遺言を書き換え、本来の後継であった扶蘇自害に追い込み、その弟である胡亥即位させる。

功臣を殺し、圧政を敷き、それによって反乱を招くと、李斯胡亥を弑して劉邦に内通しようとしたが、扶蘇の息子と言われる子嬰に殺された。

梁冀

後漢大将軍で、皇帝外戚として権勢を振るった。

傀儡として立てた幼い皇帝に「跋扈将軍」と揶揄され、その聡明さを恐れて毒殺した。

桓帝の代になってようやく梁冀は粛清され、一族も悉く処刑された。

没収された私財は国家租税の半分ほどもあったという。

董卓

三国志演義においても有名な暴君

武力によって専横を極め、悪政暴虐の限りを尽くした。

少帝に退位を迫って献帝を立てた。

董卓討伐の連合軍が起こったが、それを破った。

しか養子呂布に裏切られて殺された。

来俊臣

密告を奨励した唐の則天武后の下、来俊臣は犯罪者を取り調べる役に抜擢された。

凄惨拷問を編み出して、次々に無実の者を死刑台へと追いやった。

ついに来俊臣は、これまで自分がやってきたように密告され、斬罪に処された。

街に晒された死体は恨みに燃える民衆によってバラバラにされたという。

李林甫

唐の玄宗の信頼を受けて十九年も宰相を務めた。

玄宗が気に入った者や、皇太子の周囲にいる者、自分地位を脅かすような人物を次々に陥れて殺した。

死後に庶民に落とされ財産没収された。

温和な顔をして政敵を追い落とす様は「口に蜜あり腹に剣あり」「真綿に針を包むごとし」と評された。

秦檜

南宋において宰相を務め、圧力を増す金との講和を唱えると共に、反対派を弾圧した。

名将・岳飛冤罪を着せて謀殺した。

後世、岳飛が忠臣の象徴とされると、秦檜の名は売国奴代名詞となった。

岳飛廟の前には、秦檜夫婦が縄で繋がれた像が立てられ、訪れる者はそれに唾を吐きかけたという。

厳嵩

明の嘉靖帝は政治を顧みず道教に熱中し、道教祭文に通じていた厳嵩は気に入られて高位に就いた。

そのため「青詞宰相」と渾名された。

賄賂が横行する悪政を二十年に渡って行ったが、やがて勢いを失った。

同じく権勢を振るった息子が処刑されると、家財没収され、庶民に落とされた。

清廉潔白で有名な海瑞の敵役として知られる。

魏忠賢

明の宦官

皇太子乳母愛人となって後宮で影響力を持った。

東林派と反東林派の争いに乗じて権力を握り、大々的に東林派を弾圧した。

全国に間諜を放ち、自分批判するものは全て投獄して処刑した。

周囲には「九千歳」と唱和させ、自らは「尭天舜徳至聖至神」とまで名乗った。

しかし崇禎帝が即位すると罪を糾弾され、絶望して自殺した。

和珅

清の絶頂期を築いた乾隆帝も老いては耄碌し、和珅はその寵臣として長年に渡り政治壟断した。

乾隆帝が亡くなり、嘉慶帝親政を開始すると、すぐさま和珅は死を賜った。

史上最悪の貪官と呼ばれ、当時世界最大の富豪でもあった。

死後に没収された私財は国家歳入の十数年分に達したという。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん