はてなキーワード: 交番とは
1 犯罪が起きてもストレートで逮捕して取り調べるわけではない
2 一回くらい110番したくらいでは、頭が壊れたオヤジが出て適当なこといって電話を切る。
3 むかついて、何度か交番や本署に足を運ぶと、向こうもしつこいと感じるのか、知らんが
追い詰めるだけ追い詰めると、よく分からない全然理解できない行動に出る。
4 結果として、ある日突然、加害者が消えるといった、結果論としていいことは起きる。しかし
逮捕はされない。
5 概ね犯罪被害発生日から、5~8回ほど、しつこく交番や本署に行かないと、そういう必殺技は
発動されない上、本当にストレートで助けてあげる人は、平成時代も国家についてきた、苦労してそうな
やつか、昭和時代のことを知る60歳以上の老人個人と決めてかかっており、自分たちの時代のことを
知らない若者に対しては、つっけんどんな対応をとるか、何回もしつこく刺激すると、根負けして、逮捕は
しないが、当人にとって都合が良いであろうような、何でも屋みたいな対応、つまり、脅しなどを行い、
加害者が同じマンションから退去するなど、魔法みたいなことが起きる。
6 風俗店詐欺被害にあっても、被害者がたとえば新宿署に足を運んだ、捜査員に被害状況を説明したといった
努力点を評価し、その他、被害実態があまりにひどい、被害者がわめいていて、とんでもない被害を受けた
などの場合だと、捜査員が風俗店に脅しの電話を入れる結果、結果として風俗店から、「すいませんでした
お金返しますので口座番号を教えてください」といった電話が入る
警察の仕事は、こんなのばっかで、めっちゃ腐れ過ぎてて、要は努力点と結果論だけがあるようで、ストレートに
捜査してた昭和の警官から見ると、許されないくらい分からん仕事をしている。
要は、もう日本語を使って調べるのはやってなくて、怪しいことしかしてないんだよ。相手するのも、事案云々
お前は世間から嫌われているという狂気が、日本の全女に帯有されていた。
昭和の平成もいつの時代も、あった。犯罪をした奴はそういう感じで周囲から
怒鳴られていた。その、世間から苛められるのが当たり前だった犯罪者が今東京にいるし
お前、子供のとき、父親や先生からぶっ飛ばされてたコンプレックスでもあるんじゃねえか?
まあお前が子供のとき、お前は世間の全女から嫌われていたからな。お前みたいな陰湿で悪事をする奴は
父親からはぶっ飛ばされるし、母親からは叱責されるし、友人からは苛められるのが普通だった。
あまりに悪質な奴は、国家が目をつけて暗殺するのもやっていた。その現実的な空気が、昔は当然だったが
いつのまにか消えた。
これマメな
高校生のころ、お金はなかったが参考書がほしかったので、本屋で万引きしていた。
その日もトートバッグの中に参考書を何冊か入れて、店を出ようとしたところ店員に声をかけられた。
ガタイがよく、制服を着た警官は、怖かった。警官に引き渡され、近くの交番まで連れていかれた。
周りの好機の目が痛かった。
警官から事情聴取され、状況を話すと、警官が面倒くさそうに言った。
どうやら、店員が声をかけたのが店から出る前だったので、万引きとして成立しないとのことだった。
すると、警官は本屋に電話をかけて何やら話し合い、電話を切ると「念書を書けばいいから」と私に言った。
二度と店に入りません、という念書を書けば、それで済むということだった。
ボールペンを渡され、警官がパソコンで打った例文を見ながら、私は紙にそれを写していった。
このとき、反省している素ぶりをしなければ、と思い、手が震えているふりをすると警官は私の腕を掴んで、「これで人生が終わるわけじゃないから!大丈夫だから!」と激励した。
念書を書くと解放され、私は電車で家に帰った。母親がテレビを見ていて、さっきのことは夢だったかのように、すぐさま日常に戻ってきて、不思議な気分だった。
このことは誰にも言わなかったが、唯一、その頃付き合っていた彼女に「こんなことがあって」というと、「バカじゃないの」と呆れられた。そのせいか、程なくして連絡が取れなくなった(彼女は同級生じゃなくて、コンパで知り合ったOLだった)。
万引きから二ヶ月くらいが経ったときだったか、私の腕を掴んだ警官が、パトロールをしているのを一度だけ目撃した。
警官と目が合うと、お互い「あっ」となり、警官は軽く会釈をして通り過ぎていった。
ニュース見てるだけで当時のことが鮮明に思い出されてフラッシュバックする虐待サバイバーは自分だけじゃないんだなと思った。
個人的にしんどい事件なので必要以上に見聞きしないようにしていたが、母親が逮捕されたというニュースを見かけてすごく驚いた。
純粋に「母親もDVをされていたと聞いたのに、なぜ逮捕されるのか」という疑問だった。
母親逮捕のニュースへのコメントで、母親も悪い、なぜ助けられなかったのか、なぜ黙って見ていたのかと糾弾している人が沢山いるのを見てすごく心が傷んだ。
同時に、普通はそう思うだろうなと思った。
ごく普通の家庭で育って、普通の環境で生きてきたら暴力や恫喝による絶対的な支配というものには遭遇しないだろうし。
北九州の事件を引き合いにしてる人もいた。あれは犯人が意図的に共犯にさせていたけれど、根本は同じだと思う。
わたしと母が加虐されていた時代、家庭内暴力やドメスティックバイオレンスという言葉は一般的じゃなかった。浸透してなかっただけかもしれないけど。
母が紫に腫れ上がった瞼を氷嚢で抑え、私を幼稚園から連れ出したその足で交番に駆け込んだこともあった。
警官が「夫婦喧嘩には、警察は口を出せないんですよ。」などということを言っていたことをハッキリと覚えているし、母の絶望にくれた顔もよく覚えている。
加虐者は、小学校に上がったわたしを殴ることはあまりしなくなった。私が殴られないように立ち振舞っていたというよりは、母が一身に請け負うようにしていたというのが正しいと思う。
椅子を引く時に不愉快な音がしたとか、足の爪の形が気に入らないとか、そういう些細なことで加虐者は暴力を振るう。
それを無理矢理に止めて自分の方へ暴力を向けさせる母はいつも震えていたし泣いていた。
わたしは一切の動きをやめて、無表情に徹していた。感情を出すと更に殴られるのを知っていたから。
未だにあの時のことを思い出すと手が震える。あの、一度握られたら誰かを傷つけるまで収まることのない拳を自分へ向かうように仕向ける母のことが信じられないとさえ考えてしまう。
野田市の虐待死事件で母親も逮捕されたニュースを見て、それに付けられたコメントを読んで、
あの時母が死んでいたら私も逮捕されて、同じように糾弾されていたのかと頭をよぎった。真面目に考えれば、未成年なのでされていないと思う。
けど殴る父を、母の口が裂けて鮮血がぼたぼたと床に流れ落ちるのを、止めもせずに「床が汚れていると更に機嫌を損ねるから」という理由で、雑巾で拭っていたあのときのわたしは保身だけを考えていた。
「掃除をしていれば、いい子だと思われて私は殴られないかもしれない」と小狡い考えを持っていた。
今回の野田市の虐待死事件で母親が有罪となるのなら、この時の私の考えも明らかに罪になる。
結果母も私も死ななかったが、もしあの時母が死んで、父が逮捕されたなら、私はそのまま生きていたとしても「自分も裁いてくれ」と考える日が来たように思う。そう考えてしまうと一概に母親の逮捕に異を唱えることも出来ない。重ねて見てしまう点はあっても、彼女はわたしではないから。
20年近く経ったわたしですら、ニュースを見る度苦しさが募る。
ワイは知らない人と挨拶はして良いが
仕事はいつもどおりクソ忙しいので結局終電で帰ってきて、日付変わってからようやく駅についてさーゲオ行って買って帰るぞー!と思ったら帰りの道端に財布落ちてて、あら、サイフ、いいですね、というか一刻も早くバイオ買いに行きたいのにうわあめんどくせえ!金落としてんなばか!と思いつつも見ちゃったものはしょうがないので拾って駅戻って交番行って、すいませーんつうても誰も出てこなくて、おい早くバイオ…と思いながらもっかい大きめにすいませーーん!つうたら奥から明らかに今居眠りしてましたみたいな小太り警官がほえーとか言いながら出てきたので財布を押し付けて、また急いでゲオに行ってほほほ売り切れてなかった良かったとZ版手にとってウホホと思いながらレジでポンタカード出してスキャンしたら店員が「あらお客様!!」言うて、えもしかして気づいてなかったけどずっと延滞してたのあったのか?とか思ってうわーと思ったら、なんと、前回セルフレジ使ったとき、お釣りを取り忘れていたらしく、お釣りを返していただきました(笑)
(ちなみにおつりは数百円)