はてなキーワード: 赤の他人とは
現在、40代の自営業の中年独身だが、仕事や投資はまあまあ上手く言ってて資産はX億円くらいにはなった。
手元に残る収入が毎月500万くらいにはなっている。
映画鑑賞以外に特に趣味もなく殆ど金は使わないし結婚にも興味はとっくになくなった。
性欲も特になくなってきて風俗に行くこともめっきりなくなった。
贅沢したいとかってのも特にないので月に100万もあれば、好きなもん食えるし、気に入った部屋に住んで普通に満足行く生活ができる。
老後はサービス付き高齢者住宅に住むつもりでいるので、家なんかもったってしゃあない。車やら時計には興味ない。
それで俺はほとんど使うことのない、この金をどうしたらいいのだろう?って最近思うようになった。
もう貯めてもしゃあないなぁって資産額にはなってきてるし運用に回しすぎてもだし
恵まれない誰かに寄付とか、そんな事するくらいなら眼の前で札束燃やすほうが楽しそうだおともうほど、無能で甘えた奴が死ぬほど嫌い。
そんな感じなんで、妹の子供の学費でもだしてやろうか?って提案してみたけど「なんかやだ」で断られる始末。
家族全員を海外旅行に連れてったって、せいぜい500万くらいしか使えないのでたかが知れてるし、毎年日程をあわせるのも難しいしな。
親族の子に残すか?というと自分の親が残すものの何十倍もの金を残すおじさんと、自分の親との間で挟まれるのもあまりにも可愛そうや。
だから、誰かに残す必要もない金だし、もう金は要らないんだけど、仕事は楽しいから辞めたくないし、貯めすぎて死んだあとに国庫に収まるのも癪だし、どうしたもんだか。
とまあ、そんなこんなで、最近はもっぱらvTuberにスパチャやメンバーシップギフトなげてる。金を捨てるとは、このことやねw
お砂糖は「友達」としての親密さなのか「恋人」としての特別な位置なのか議論されることがあります。しかし、「友達」の間の距離感は、特に曖昧で広範囲に渡ります。それでは、この微妙な関係性について、もう少し詳しく探ってみましょう。
『とも‐だち【友達】の解説互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友 (ほうゆう) 。友。「—になる」「遊び—」「飲み—」
[補説] 2013年10月に実施した「あなたの言葉を辞書に載せよう。」キャンペーンでの「友だち」への投稿から選ばれた優秀作品。』
goo辞書より引用https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%8F%8B%E9%81%94_%28%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%A0%E3%81%A1%29/
"互いに心を許し合って、対等に交わっている人"と"一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人"という表現は、確かに"友達"という言葉で表現されますが、その深さや距離感に違いがあります。
互いに心を許し合って、対等に交わっている人: この表現は、相手との関係が深く、信頼関係が築かれていることを示しています。このような友人は、自分の内面を理解し、支えてくれる存在であり、困難な状況でも一緒に乗り越えてくれるでしょう。また、対等な関係というのは、互いに尊重し合い、意見を自由に交換できる関係を指します。
一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人: この表現は、一緒に楽しい時間を過ごすことができる友人を指しています。このような友人とは、共通の趣味や興味を共有し、一緒に活動することが多いでしょう。しかし、それは必ずしも深い信頼関係があるとは限らず、個人的な問題を共有することは少ないかもしれません。
一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人について話していきます。
「遊び友達」、「喋り友達」、「ゲーム友達」、「ソシャゲ友達」など、これらは特定のコンテンツやゲームで楽しむためにつながっている友達を指します。彼らとは同じコミュニティに所属し、雑談したり遊んだりすることがありますが、それ以上の深い関係はありません。
私生活に入り込むことはなく、お互いの個人的なことには触れず、純粋に趣味を楽しむ相手としての友達です。
これが悪いというわけではありません。むしろ、インターネット上の友達との距離感としてはこれが普通で、健全な付き合いだと思います。それぞれの友達との関係性を理解し、適切な距離感を保つことが大切です。
ですが、インターネット上の友達という距離感を保ったままお砂糖になるケースが見受けられます。リアルな友人とネット上の友人との間に存在する距離感の壁を超えられていない場合、それは誠意があるとは言えません。お砂糖が友人であるか恋人であるかを問う前に、互いに心を許し合うという基盤がないまま、不確かな関係性を築いてしまうことは良くありません。
それでも、それはまだマシな方かもしれません。なぜなら、"フレンドを切ってしまえばただの赤の他人でしかない自分にとって都合のいい遊び相手"という浅い考えで人を見下して、都合の良い相手として付き合っている人々が存在するからです。これは、人間関係を軽視し、他人を尊重しない態度を示しています。このような考え方は、健全な人間関係を築く上で全く適切ではありません。
それぞれの関係性を理解し、適切な距離感を保つことが大人の人間関係です。ですが、人間関係を深め、信頼関係を築くために近づこうとしないまま形だけの関係になっていませませんか?お砂糖という言葉で誤魔化さずはっきりと、どういう距離感で居たいのかを伝えることが大切だと思います。
奇跡的に距離感の擦り合わせに成功したとしても、価値観の擦り合わせという工程がまっています。もはやvrchatの領分ではありませんが、自分の思う価値観の擦り合わせについて書いていきます。
人々が他人の欠点を見つけて大騒ぎし、マスコミがそれを叩き、インターネット上で集団で非難することは、不寛容な社会を反映しています。完璧を求める就職活動や、欠点を許容しない傾向は、生きづらい世の中を作り出しています。
「カエル化現象」という言葉が、近年よく使われています。これは、愛する人の些細な欠点を見つけた瞬間、その魅力が色褪せ、感情が冷めてしまうという現象を指します。しかし、この現象は、私たちが他人に対して持つ過度な潔癖性の表れではないでしょうか。例えば「樽一杯のワインにスプーン一杯の泥水を入れると、全てが泥水になる」という言葉がありますが、人間関係においても同じように厳しい基準を適用してしまっているのです。
しかし、人間は完璧ではなく、欠点を持つことは自然なことです。お互いの欠点を認め、許容することで、より健全な社会を築くことができるでしょう。完璧を求めるのではなく、人間らしさを受け入れることが大切です。それによって、より寛容で、生きやすい世の中になるはずです。
自分は距離が近い人と上手くやっていくコツは「嫌いを許容する」事にあると思います。
人間関係において、「嫌いを許容する」というのは、相手の欠点を受け入れ、それを乗り越えることで、より深い信頼関係を築くことができるという意味です。私たちは完璧ではなく、誰もが何らかの欠点を持っています。しかし、それらを認め合い、サポートし合うことで、互いの絆は強まります。
嫌いな部分を見つけたとしても、それを単に指摘するのではなく、どうすればその部分を改善できるか、またはその部分を受け入れて支え合うかを考え話し合うことが大切です。お互いの長所を認め合い、短所を補い合うことで、関係はより豊かなものになると信じています。
まあ、vrchat民の殆どは指摘すらしない事なかれ主義者ですが。
人との距離が近くなるほどに、相手の嫌な部分が見えてくるかもしれませんが、それを乗り越えることで、より強固な関係を築くことができるのです。そして、それは人生において非常に価値のあることだと思います。
ですが、現実はそう甘くはありません。
SNSの普及により、私たちはいつでもどこでも人と繋がることができるようになりました。しかし、その結果として、人と深く関わり合うという行為が希薄になってしまったのではないでしょうか。かつては、人間関係を築くことは時間と労力を要するものでした。しかし今、私たちは「人間関係に対して代わりがきく」という新たな現実に直面しています。嫌いな部分を持つ人間関係を見つけたら、簡単に切り替えて新しい関係を探すことができるのです。
このような状況は、人間関係の価値を軽視する傾向につながりかねません。一つの関係に問題が生じたとき、解決する努力をする代わりに、新しい関係を求める方が容易になってしまったのです。しかし、これは本当に良いことなのでしょうか。人間関係においては、困難を乗り越えることが成長につながる重要な過程です。簡単に関係を切り替えることは、その過程を省略することに他なりません。
私たちは、SNSがもたらす便利さと、人間関係の深さを保つことのバランスを見つける必要があります。人との繋がりを大切にし、一時的な不快感や問題を乗り越えることで、より強固で意味のある関係を築くことができるのです。それは、メタバースの時代においても変わらない人間関係の本質であると言えるでしょう。
タイトルの通り。末端のケースワーカーやってるけど最悪。そろそろ異動かなってくらいにはやってる。年度末を控えてるけど、正直今年で終わりじゃなかったら辞めてると思う。
何が嫌かって言うと、命を預からされるところとやりがいがないところ。あと制度が古過ぎるのが目につくところ。そこに付随する様々なイライラ。
人を見下しちゃいけないって道徳で学ぶけど、一人一人寄り添って真面目に対応してると持たない。最初は真面目に話聞いてたけど、酷い目に遭うことも多かったし気持ちの面で負担感があった。今はナマポほとんどをクズだと思ってるし、人生の価値は年数とかじゃないなって思った。あいつらが80年生きてこっちがその半分にも満たなかろうが、間違いなくこっちの人生の方が総合的な価値も世間への貢献も上だと思う。
配属されたらいきなり担当させられて、あれこれ相談に乗ったり時には厳しく赤の他人の生活のお世話をさせられる。100は行かないけどそのくらい。みんながみんな手取り足取り教えないとってレベルじゃないけど、一人で生きていけないような奴は全然いる。
そんなことする意味ないくない? 言うこと聞かないで好きに酒飲んだり勝手に退院したりして、それで死んだら公務員が悪いんだって。叱る以外になにしろってんだよ、20超えて自分で出来ない、理解しようとしない方が悪いだろ。親族も文句言う前に引きとって手前でやれよ。誤嚥で施設が訴えられてのあったけど、あんな感じのことなんかよくある。養えない支えられない、そのくせ一丁前に訴えはする親族。生きてるうちは親族の役に立たないし地域住民のお荷物だけど、せめて死後に親族のゴネる理由になれたのは生まれて来た意味があったのかもね。
なんで知らねえやつの人生背負うんだよ、金と介護とかの手間を消費するだけの人生なのに。
あとやりがいもない。大体のこっちがやるのは家に行って話聞いて、金出せる出さないの話するだけ。何でもかんでもとにかく金が出るか聞かれて、例えばテレビの修理代は出せないって言ったらすぐゴネゴネ。大人しく諦める人ももちろんいるけど、面倒臭いやつはとことんワガママ。議員連れてくる時もある。そう言う時はもっと面倒臭い。
楽だから金出すって言ったって税金なんだし、それに一回金出すとズルズル文句を言うから基本は渋る。でもまたゴネ始める。普通の人って欲しいものあったら働くなり節約なりすると思う。それをまず職員にゴネ続けて目標達成しようっておかしくね? 働けよ。仕事よりゴネるの楽なのは理屈はわかるけど、他の住民の皆さんは働いてそれを実現してんだよ。なんで当然のようにあれもこれも要求できるのか教えて欲しい。
引越し代、マッサージ代、タクシー代とかは自治体が待つことが多い。引越しはこの中だと要求されることは多くても金出すことはすくないか。
意味わかんねえ。引越しなんか普通の家はそうそうしねえし、マッサージなんて受けねえ。タクシー使わねえと病院行けないなら、入院かお看取りのある施設でもどうぞ。
あと制度の作りが甘い。と言うか性善説すぎるから悪いこと考えてる人に対して後手に回るし、古いから最近のお金の流れの実情に沿ってない。
て言うかみんな言えば働くって前提だから、病気ですって言われるとまた手間かかる。ちょっと腰が痛い、体がだるい、気持ちが乗らないですぐ病院の先生は診断書書くから、そうなるとこっちはお手上げ。病気ですって言われたらもう何も言えなくなる。
そんくらい通院して我慢しながら仕事してる人もいますやって言ってやりたい。でも言ったら揉めて面倒になるから任期ギリギリまで見逃すのが一個人から見たら一番楽、でそれが横行する。
不服審査とかも簡単にやれてスラップ訴訟みたいに出来るし、それでこっちの体力使わされるのもしんどい。制度の悪用に弱いのはどこもそうかもだけど、こっちは不正受給やらなんやらある上に、税関係みたいに本人の意思をガン無視して差押とかまだはできないのが歯痒い。
色々言ったけどセーフティネットに頼る人間がみんな嫌いなんじゃない。障害があっても出来るだけ働いてる人もいるし、高齢でフルタイムは無理だけど調整しながら頑張ってる人もいるし、シングルマザーで逃げて来た中仕事と子育てに奮闘してる人もいる。
自分にできることをやった上で、冷静にこっちに相談を投げかけて欲しいし、実際にあったこと、貰った金をちゃんと言って欲しい。これって無茶言ってないと思うんだけど。これが出来ないから社会の爪弾きなんだろうけど。
確かにこの制度がなくなると治安悪化ってのが見えてくるので、何かしらの形で必要なのはわかるけどもっと縮小していいんじゃないかな。それか事務系の公務員じゃなくて、警察とかそう言フィジカルに長けた人がやるのがいいと思う。言ってわからない平均未満の人間なんだから、暴力で躾をやってもおかしくないと思う。
先月まで子供関係の伝票処理してました! みたいな人がいきなり来て金返せとかヤクザ上がりと揉めるのってめっちゃ辛いと思うし辞める人がいても不思議じゃない。でもそれで辞めちゃうって生活保護の連中が生きてることによる外部不経済だろ。なんでこんな連中のせいで人生を狂わされるのかわかんねえ。
総じて気に食わないことばっかり。他の仕事も気に食わないなってことはそりゃあるけど、この仕事の不快感はまた別だなと思う。俺の税金がこんな無駄遣いされてるなってのを見るのはやるせない。その分社会保障費が減れば家計に余裕も生まれるし、子どもだってもっと持てたかも。貧困の問題で切り捨てるのか! みたいなこと言う人いるけど、こんな連中のためにみんなが共倒れする方が馬鹿らしい。こんな連中に税金泥棒って言われると鏡をくれてやってその分収入認定してやりたくなる。もっと金締め上げて生きていけなくするべきだ。
全体の割合でいくと年寄りばっかなんだけど、若い時備えてなくて死ぬ間際は生活保護って本当にムカつく。俺たちが老いた頃には亡くなってるだろう制度に乗っかってオムツ代貰って偉そうに。しかもたまーに仕事の仕方とかで説教してくるやついるんだよな。いやそろそろ人生の総まとめの時期だろうけど、人に説教できる人生じゃないじゃん。
障害に関しては一括りにすべきじゃないと思う。身体、知的と大体はそのお母さんの世帯とかは生活保護と別制度で手厚くして欲しい。知的の人ってすごい素直なんだよ。仕事をする意味が収入以外に日中活動の確保とか社会とのつながりとか、他の側面でやるべきって事情もあるけど、結構ちゃんと仕事してこっちに報告してくれる。普通に話して普通に言ったことを聞いてくれるから、話をしてて全く困らない。噛み砕いたりする時や、メモにまとめて渡す時もあるけど、別にそう言う個別対応は苦じゃない。あの時やってくれたとかでその後ゴネることはないし。
精神障害者はもっと働けって思う連中や、処方された薬を自己判断で飲まずに困ってるようなのが多くて最悪。ここの連中も割と職員からは嫌われてると思う。うつとかでも作業所に行くなりしてくれてればまだわかる。仕事をまだやろうって意思を感じるし。
後結構いるのは発達もあるのかもだけど、精神的に辛いですってゴネまくって仕事をしない若い奴ら。20代で家にいて、いざ訪問すると普通にゲーム機とかあんのね。こいつらゴミだなって思う。このまま一生制度に世話になるんだなって、何も生み出さねえ国民ガチャのハズレ。
あと人格障害の連中は本当無理。比喩じゃなく死んで欲しい。一番手間がかかるし、精神的にも負荷がかかる。無理と言って理由を述べても、自分の納得する答えが得られるまで延々電話したら窓口に来たりする。仕事もしないし友達も家族もいなくて暇だから。大体家族は手を引いてることが多い。病院やらも出禁になり、関わりがあるのが生活保護と障害の窓口だけになるけど、こっちは出禁までは出来ない。聞く価値のない話を丁寧に繰り返して時間を取られて残業する羽目になるのはもらえる金より精神的な負担が重くて辛い。
後ヤクザとかすぐ怒鳴るタイプの連中。こう言うのに性別関係なく担当をつけるのは社会の進歩だなぁと思ったのも束の間、お尻を触ったりするような奴がいるらしくそれじゃ意味ないなって思った。てかそんなのあったらすぐ通報したらいいのに。職員の尊厳の問題なのに何を躊躇ってるのかわからない。
実際こいつらも言い合いになると本当体力使う。たまに病院でもらった薬転売してるやつとかいるし。
普通の国民の生活とかなり切り離されてるし、他に色々日本に問題があるからこれも取り上げられないけどこれも早く直した方がいい問題だと思う。
帰り道、乗り換えのために電車を降りたら、おじいさんがなにか助けを求める感じでなにかしゃべっているようだった。
自分はノイズキャンセリングイヤホンをしているので何を言っているかはわからなかったが、一応イヤホンを外した。
どうやらA駅まで行きたいらしい。そのためには、15分ほど乗り換えのために歩く必要がある。
夜だったし、相手は高齢だったため、道順を話しても行けないだろうと考え、乗り換え先まで送っていくことにした。
自分の向かう先もA駅だったが、駅まで送り届けたら別の車両に乗りたいと思ったのでそのことは黙っていた。
乗り換え前の駅を降りるところで、切符が見つからないようだった。
駅員さんがどこの駅から乗ってきたか聞いても、行き先のA駅と答え、怒っている。
自分もA駅が行き先であることを伝えたりと少しだけフォローをするも、ついさっきそこで会った人なのでほぼ何もわからない。
自分がそこであって道案内するつもりであることを伝えたので、駅員さんは配慮してくれたようで、改札は出られた。
駅員さんとまともなやり取りを構築できていなかったのをみて、危ない人かもとすこし警戒することにした。
それでも弱ったおじいさんだ。荷物を持ち、傘をおじいさんにさし、腕に捕まらせながら、駅まで歩いた。
なんとなく雑談みたいなことをしながら、特に問題も起きなかった。
ここで自分は帰るつもりだったが、先程の駅員さんとのやり取りを見ていたので、一人で乗せると切符を無くすだろうと予想した。
案の定、切符を買うことも時間がかかりそうだったので、切符代はこちらが持ち、切符を渡す。
改札を入ったあとに、切符を預かった。しかし、同じ駅まで付き合うのだから、自分の行き先が同じ駅であることを伝える。
すると気分が悪いと怒られた。わざわざ遠回りして手助けしてくれる人と思っていたら、帰り道のついでに手助けしている人だったのだから、まぁそうだろう。
謝罪をしつつ、自分は性格も悪いし性根も腐っているから、隠してたと話した。自分の行き先を伝えないことで途中で離脱しようと思っていたのだから、自分の都合で相手とって都合の悪いことをしたし、それをやりきれなかったのだから仕方がない。
おじいさんが不快感を伝えたあと、自分は不快なら去ると伝えるが、カッとなっただけでもう怒りは収まったようだった。
そのあとは無事最寄り駅まで送り届けた。
途中、おじいさんの家で飲もうと何度も誘われたが、断った。
それでも別れ際は何度もお礼を言ってくれた。おじいさんにとって、そこまで悪いことではなかったようだ。
自分はなぜ、こんなことをしたのだろうかと考えた。
人助けのいいところは、人助けをしなかった罪悪感を持たずにすむことかもなぁと思った。
人助けしたからってあまり気分になるわけでもないし、より面倒なことに巻き込まれていってもおかしくない。
見ず知らずの人を助けるのが倫理的に正しいのだとしたら、倫理は都合のいい人を作りたいだけの倫理的ではないものに思えてくる。
年配の方を助けることはあまりないので、案内する側は事前に道順を想定していないと安全な道を通れないとか、つかまりやすいように腕を出してあげることが大切だとか、意外と捕まる力は強かったなとか、日常ではできない経験だった。
自分にとってプラスのことかどうかで考えたらスルーしたほうがいいようなことだったが、繰り返しの日常の中に非日常のフラグが立ったことが一番大きな価値かもしれない。そしてそれは、なくても構わないものだった。あったらあったで面白がれればいい。
追記でコメントを拾われてる。独り言と言うか、どこかで見てるかも知れない神様への発語にすらお目を通していただけたようで慶賀の限り。アドレナリンいっぱい出てそうで楽しそうだ。 増田 メタ
この増田への 【追記あり】教養って文化資本に恵まれた奴がマウントを取るための道具... 言及だ。
私は以前から、はてなブックマーカー達は上から目線が過ぎるのでは。と思っていた。
増田など名もなきブログ筆者に対して、現実の赤の他人には決して言えないような暴言を聞こえよがしに言うことがある。
ブクマカは通常、言い返されない。
何を言っても、受忍される。
メンヘラ女子というか女性の大半は多かれ少なかれ似たような傾向がある
基本的に幼稚で我儘な癇癪持ちがそのまま加齢して図体だけデカくなったものと思ってもらって構わない
子育て経験ある人なら分かるだろうけど、子供ってさ、どんなに「良い子」でも
不機嫌をアピールして親に思い通りに行動させるってことをやる事があるのよ
男の子供の場合、早い段階で不機嫌アピールが(親や祖父母以外には)通用しなくなって
「不機嫌になる→逆に怒られる」って現象が発生するようになる
で、「不機嫌では人は動かせない」と早い段階で学習する
でも女の子供の場合、逆に「不機嫌になる→もっと不機嫌になる→親が折れる」って現象がしばしば発生する(赤の他人、例えば先生とか)
そうすると、「不機嫌アピールを強化すれば人を動かせる」と学習してしまうケースが出てくる
で、さらにその中の一部の女性は親以外の他人も不機嫌で支配しようとする
膨れたり泣くくらいだとまだ普通なんだけど、中には自傷行動や自殺アピールに至るケースも出てくる
親からの扱いの男女差が原因かな
だから女より男が甘やかされる文化の国だとメンヘラ気質の男もいたりするらしいね
だから殴って育てろとは言わんが、今の大の大人である女性にすら、まるで大人子供(アダルトチルドレン)に接するかの様に
ヨシヨシして持ち上げて色んな責任を(関係無い男性に押し付けつつ)回避しながら負担を減らされた状態でイキっても
まだまだ足りないのかサベツサレテルー!!ジョセイサベツー!!キモイー!!などと喚いておかわりを欲しがる女性を見ていると
さすがにもう少しばかり厳しく育てた方が良いと思うわ