はてなキーワード: 齟齬とは
https://blog.tinect.jp/?p=87082
まず、次の文章を読んでください。
リンダは三一歳の独身女性。外交的でたいへん聡明である。専攻は哲学だった。学生時代には、差別や社会正義の問題に強い関心を持っていた。また、反核運動に参加したこともある。
では、次の質問に答えてほしい
リンダは銀行員か、それともフェミニスト運動に熱心な銀行員か、どちらだと思いますか
複数の主要大学の学部生を対象に実験を行ったところ、八五~九〇%が、確率の論理に反して二番目の選択肢を選んだのである。しかも呆れたことに、この連中はとんと恥じる様子がなかった。
あるとき自分のクラスで「君たちは、初歩的な論理ルールに反していることに気づかなかったのかね」と怒ってみせたところ、大教室の後ろのほうで、誰かが「それが何か?」と言い放ったものである。
ブコメに解説がならんではいるんですけど、この問題のミスリードについて指摘しているブコメが見つからなかったのでとりあえず指摘しておきますね。
設問「リンダは銀行員か、それともフェミニスト運動に熱心な銀行員か、どちらだと思いますか」
質問の内容を好意的に受け取るとするならば、この場合、当然確率が高いのは前者です。
なぜなら、後者はお互いに共通する条件にさらに新たな条件が加えられているからです。
では次の設問だとしたらどうでしょう。
設問「リンダは普通の銀行員ですか、それともフェミニスト運動に熱心な銀行員ですか、どちらだと思いますか」
この場合、先程の問題とは異なりただの銀行員から「フェミニスト運動に熱心な銀行員」を除外する必要が出てくるので、先ほどとは確率に齟齬が生じてくるはずです。
しかし、ここに誤解であり齟齬が生じていることをし指摘できているブコメは残念ながら見受けられませんでした。
数で置き換えてみることにしましょう。
この場合、リンダが銀行員である確率は8ですので、銀行員かつフェミニストである確率6が銀行員である8を超えることはありえません。
つまり、リンダが「銀行員」である確率に対して、リンダが「銀行員かつフェミニスト」である確率が超えることはありません。
ここで設問を「リンダは普通の銀行員ですか、それともフェミニスト運動に熱心な銀行員ですか、どちらだと思いますか」に変えてみるとどうでしょうか。
ここで聞かれているのは、先程のニュアンスとは異なり、リンダが「普通の銀行員であるかどうか」という問題に置き換わっています。
つまり、比較すべきは銀行員の中のフェミニストであるかどうかという問題に置き換わっているわけです。
すると、銀行員である確率8のうち、フェミニストである確率が6だとしたら、フェミニストではないただの銀行員である確率は8-6の2でしかありません。
つまりこちらの視点で言えば、リンダが「ただの」銀行員である確率は2でしかなく、「フェミニストの」銀行員である確率6のほうが高くなってしまうわけです。
その他の確率である2に対して言及しているブコメはありました。
しかしながら、その部分については設問に触れられてはいませんので、たとえその確率が99であったとして、今回は考える必要はありません。
まとめると、「設問が悪い」に尽きるわけですが、残念ながらその指摘を行えているブコメを発見することはできませんでした。
そういう意味では「1.直感で信じたものを覆すことはほとんどない。」が実証されているということにもなるわけで、とかく人間のバイアスは難しいものだということの理解にしからないのだなぁと感じた所存でございました。
どちらにしても、「自分が正しい!」と相手に理解を示そうともしなかった人は、反省したほうがいいのではないかなと思いました。
普段はROM専で、SNSでリアルタイムに反応をもらうことに不慣れでつい舞い上がってしまい、更新ボタンを押す手が止まらなくなってしまった。
また、フェイクは入れまくっていたけれど、身バレするのがホッテントリに入って注目されるようになってから怖くなった。
自分の精神衛生の悪化を感じたので、勢いで消した。私にはSNS上でオープンな発信者になるのは早かったみたいだ。
だけど、どうしてもお礼を言いたくてのこのことまた出てきてしまった。
6月11日現在における今年度の寄付総額は約130万円、寄付件数は79件。
7月13日現在では総額305万3千円、件数は149件! 倍増! すごい!!
自分の投稿がどれだけ貢献したかはわからないけれど、寄付してくれた方々に対して厚く御礼を申し上げます。本当にありがとう。
https://utf.u-tokyo.ac.jp/project/pjt83?pg=400&page=1
読んでみると、過去に授業料免除を受けていたという人が恩返しとして寄付しているのが結構多いのが分かる。
https://utf.u-tokyo.ac.jp/project/pjt83?pg=400&page=1#project-tab03
あとは3つおまけ。
まず大学側の要因として挙げられるのが次の2つ。
私も今回調べるまで、自分の研究科以外の寄付基金の存在を知らなかった。修学支援基金も含めて。自分もお世話になってたのにね……。
OB・OG向けにたまに郵送するニュースレターという形でOB・OGへのアウトリーチする基盤はある。
現役の学生からお金を搾り取ろうとする前に、OB・OGへの寄付の働きかけを強化する手段はあるんじゃないのかな。
関連して第2に、学部・研究科ごとの独立性が高くて、「東京大学」としての寄付の呼びかけに失敗している。
夫は別の学部・研究科の出身なので、ニュースレターを私の出身のところと比較できるのだが、どちらも自分たちのところの研究のための基金の情報しか載っていない。
ふるさと納税における各自治体みたいに、寄付金を巡って本部と各研究科が競争しているような状態なのかもしれない。
あるいは、授業料免除のような学生全体に関わる経済的困難層向けの修学支援は東京大学の本部としての活動になる一方で、OB・OG向けのアラムナイ活動は学部・研究科の所管になっているように見えるから、そこで齟齬があるのかもしれない。
他方で、卒業生側に目を向けると、卒業生には寄付をするインセンティブがない。
寄付をすることに対して、アイデンティティ上の満足や実利など自分のためになる何かがなければならない。
多くの東大生OB・OGには、寄付に対するそうした対価は存在しないと思う。
アメリカの有名大学には寄付による入学枠がある。寄付することが、そのまま自分の子どもの利益に繋がる。
賛否はあると思うけど、その寄付金を使って貧乏人の子どもが入れるようになるならば、うまくできた制度設計だと思う。
でも、これは私立大学だからできることだろうし、東大でそんな制度が採用されるとはとても思えない。
※補足:ハーバード大学やスタンフォード大学などのアメリカの有名大学のほとんどは私立大学。
でも、はてなーは公共心が高くて、公共性への貢献からアイデンティティ上の満足を得られるであろうから、皆さんからの寄付には勝手に期待している。
②なぜ親と折り合いの悪い層にこだわるのか
これは、実際にそういう人を知っているから。金銭面で決定的に仲違いしたから。その人は大学からも去ってしまったから。
大学院に行きたいと言っていたけれど、結局コンサルに就職した。私が知っている中でもかなり天才と呼んでよいほどの頭の人だったのに、ものすごくおもしろい研究をしたはずだったのに、本当にもったいない。
セクシャルマイノリティーの立場から授業料値上げについて書いていた学生のnoteを読む限り、最近でもこの問題が解決してなさそうで非常に残念だ。
私の場合、分かりやすい経済的困難層だったことと、進学には反対したけどなぜか書類の準備には協力的だった親がいたことはすごく運がよかった。
親との折り合いが悪くて授業料免除制度からこぼれ落ちてしまうような学生をどう救うかの問題が解決しない限り、いくら支援制度の充実を掲げたとしても、学生の自助努力の水準を上げる授業料の値上げは行うべきではない。
③最後に。自分のこれまでを褒めてもらえたことはうれしかった。その一方で、危うさも感じた。
やっぱりみんな学力によるメリトクラシー(能力主義)にとらわれすぎだと思う。
特定の能力を持っている人はそれにふさわしい場所に行けるべきという考え、あるいはそれが実現された社会は、最終的にはその能力を持たない人を苦しめることにもなりうる。
学力という一つの能力のみによる純粋な選別装置として大学を機能させることと、社会全体の平等は別の話。
能力によって個人レベルでの格差を乗り越えることができたとしても、社会全体の格差は残り続ける。
世代間の社会的流動性が高ければそれはそれで問題ないのかもしれないけれど、それでもやっぱりいま・この世代において個人レベルで「負ける」人は発生する。
特定の能力による勝ち負けの発生自体をなくさないと東大ヘイトも負け組ヘイトもなくならないんじゃないか。
もちろん個々の能力ごとに勝ち負けが発生するのは避けられないけど、いろんな人のいろんな能力が尊厳をもって扱われて、トータルでみたら引き分けだとみんなが感じられるような社会になってほしいと心から思う。
だから繰り返しの主張になるけど、大学生への経済的支援だけではなく、若者向けの支援も、かつて若者だった人たち向けの支援もやるべきというのが私の立場。
「東大生は社会的に有用だから他を差し置いて特に支援されるべき」ではない。
個々人が寄付という形でその思いを表明するのは、個人の善の構想の中にある自由な選択。
でも、公的に税金を使ってやるべきような正義の話なのかは分からない。
それに、社会的に有用になることを東大生に押し付けることも適当ではないと思う。
社会貢献のためにみんな働いているのか? ジョブズは社会貢献のためにiPhoneを作ったのか?
そうではないだろう。
人々が自由にその能力を発揮して、自分の何らかの価値のために働いて、それが結果的に社会の役に立つ。それが一番健全。
最初から社会のためになんて言ってるやつはうさんくさい。個人の感想だけど。
この投稿以降は再び社会の片隅でひっそりこっそり生きる生活に戻ります。
誤字脱字は直すけど、それは何卒ご容赦を。
WEB広告のマーケターの仕事をしているんだけど、AIイラストの誕生以来仕事の効率化が進んで本当に助かっている
イラストにこだわらないといけないジャンルは知らないけど、「広告のアイキャッチとしてちょうどいいイラストが欲しいなぁ」ってくらいのときに人間の絵師に発注するって考えはほとんど湧かなくなってきている
数年前はちょっとしたアニメ系のイラストが欲しいときには全部人間の絵師に発注しないといけなかった
社会性の欠片もないやつばっかりで本っっっっ当にうんざりするよ
こちらとしてはとにかく料金システムが明瞭で社会的な常識を持っていてやり取りがスムーズで後からギャーギャー喚かない人に依頼したいだけ
でも、こんな社会人として当たり前の簡単な条件すら達成できない奴が蔓延ってるのが絵師界隈なんだよね
俺が経験した例だとこんなのがある
ある広告にイラストを使いたいと思いTwitterフォロワー数数万程度の絵師に発注
事前の条件合わせの段階でこちらは譲渡できる分の著作権の全譲渡と著作者人格権の不行使を盛り込んで契約書案を作成した
先方の絵師は著作者人格権の不行使契約に難色を示したから「もらったイラストを広告で使用するにあたり改変とかもするからですよ」「改変の度に著作者の許可取りとかやってらんないので不行使契約を結んでほしいんですよ」と説明
結局絵師は著作者人格権の不行使を飲んでくれなかったので、じゃあ今回は縁がなかったということで残念ですが仕方ないですねという感じで流れた
これだけならまぁ別に普通のビジネス上のやり取りなんだが、この絵師はなぜかやり取りの後怒り心頭になって「こんなことなら仕事を受けなければ良かった!」「不愉快な思いをした!」ってTwitterで暴れ始めた
無論、やり取りにあたってはビジネスマンとして丁寧にへりくだって応対したのにも関わらず、だ
曰く、せっかく仕事を受けようとやり取りしたのにその時間がすべて無駄になった、無駄になった時間は返ってこない上に無給なのはありえない、頼むから契約内容は事前にわかるように書け、とのこと
お客様じゃなくて受注側が言ってるんだぜ、これ……
幸い俺のケースではやり取りの文面や社名までは晒されなかったけどTwitterを見てみるとそういう具体的なやり取りまで晒すようなやつはごまんといる
単なる意思疎通の齟齬や前提の共有不足ですぐプッツンしてすぐ晒す
すぐ被害者面
そしてそれを社会人経験もロクになさそうな連中が囲ってよしよしよしよし慰めてさらに増長するという悪循環
ちなみにこれは後から知ったことだけど、どうも絵師界隈の間では「著作者人格権は大切!不行使契約は絶対に結ぶな!」みたいなことを宣伝して回ってる勢力がいるんだってな
っていうか普段二次創作やってるような連中がよくもまぁこんな偉そうなことを言えたもんだよな
ここまで酷いやつは珍しいにしても、殿様商売気質なやつはかなり多い
「お前それ社会人として取引先に向かって投げかけるような言葉か!?」ってびっくりするような言葉遣いに遭遇するケースを何度も体験してきた
「社会人として対等な立場でまともにビジネス上のコミュニケーションを普通に失礼なくやってくれ」
よく言えば芸術家気質の人が多いってことなんだろうけどこちらからすれば社会人失格の人間に頼むなんて冗談じゃない
マジで面倒くさいんだよ
少なくとも俺の扱う仕事の分野においては割とマジでもう一生AIイラストだけでいい
絵師はAIイラストに仕事を取られたくなかったらもっとサービスの質を上げるべきだと思うよ
絵のクオリティだけじゃなくてクライアントの要望に寄り添う態度や姿勢をもっとちゃんと磨きなよ
失礼のないコミュニケーション、クライアントにご満足いただくためのホスピタリティ、法的な知識の習得、支払い金額や方法の明瞭化……
やるべきことは山ほどあるだろ
頼むから世の中の大抵の社会人が普通にやっていることをやってくれ
まぁ個人的には絵師が滅びるならそれはそれでいいかもなぁなんて思ってるよ
とにかく「おかしなこと」を言わないように気をつけていればそのうち政権交代が起こるから。
ずっっと同じ政党が政権を維持するというのは、あんまり好ましくはない、と感じてる人は多いはずなのよ。
だから、もしも今、第2自民党てきな?ちょっと左寄りのだけどそれほど変なことを言い出さない「まともな政党」があれば、どっとそこに票が流れ込むんだよ。
でもさ、年がら年中ヤバイことを言ったりやったりするじゃん。
そりゃ、お前らの身内では大盛りあがりするよ。
でも、大多数の人たちには全然響くわけないようなことばかり言ってるの。
それをわかっててやってるならまだいいんだろうけど、いやこれわかってないんじゃないの?
と疑問に感じるときが多々ある。
これは国政ではないけど都知事選とかさ、神宮の話とか持ち出したりして、もう完全にズレっぷりを発揮するわけじゃん?
いや、どうでもいいって神宮なんか、というかそんな話すっかり忘れてたわ、って人ばかりだよ。
でも、お前らはそれに気づくことが出来ないじゃん。
おんなじようなやつらが傷の舐めあいしながら集まっててエコーチェンバーになってるのに気づけてないから、
神宮のことをぶち上げたら支持率上がるはずだ!!とか思い込んでるわけじゃん。
でも、実際にはそんなことないだろ?
でもでも、それをわかってないからお前らは「あれ???」ってハテナマークでいっぱいになるんだよ。
あのさ、とにかく「普通」でいいんだよ。
都知事にしろ国政にしろ長期政権は良くないのはわかりきってるんだよ。
腐敗まではいかなったとしても色々な齟齬が生じているのは当たり前の話なんだから。
でもでもでも、それをたくせる「普通」or「まとも」な政党というのがないんよ。
そこをわかって欲しい。
そういうところを考えれば、色々と考え直す部分も出てくるはずなんだよ。
お前らは未だに栄光の民主党政権のことを忘れられていないんだよ。
なんか政局が動けば、あのときのようになるはずだ、とか漠然と夢を見てしまってるんだ。
例えて言えば、一度宝くじで10億円当たった人が、全部使い切って無一文になってしまったあともいつかもう一度10億当たるんじゃないか?と無意識に考えちゃてるようなもん。
そんなわけないじゃん。
目を覚ませ。
今のお前たちでは国民には認められない。
なぜならお前たちは「ヤバイ」というレッテルをすでに貼られてるからだ。
難しいよ、これはもちろん。
簡単ではない。
でもがんばれ。
もう一つ
親友本人は「友達に自分の口から話すために安定期に入るまで親にしか言ってなかった」という認識なのに夫が勝手にそこらじゅうに吹聴してる
ここに大きな齟齬があると思っている
ここまで考えると、増田夫の言っている
「まあ妊娠はソイツにとっても当事者の話だし、どこまで妻の意に沿うかって難しいよね」
という意見の意味も通じるだろう。あくまで伝聞を重ねた上で状況から考えるに、妻側と旦那側で同じように行動しているようにも見えて、詳しくない人間が口を出せる範囲ではないのだ
(言っとくとオープンレターはうさんくせーと思ったから署名してないんでオープンレター勢の責任を擦り付けないでね。「オープンレターで◯◯って言ってたろ!」とか言われても困るからね)
こういう事案に関しては,2つの矛盾する立ち位置があるように思う。
こんなん,別に大学関係者じゃなくたってちょっと考えれば矛盾してるってわかるんだけど,草津の件が起きるまでみんな本気で冤罪の可能性を考えてこなかったんだね……とビビってる。
阿部幸大さんの「クロだった場合でも現時点でのリンチが遡及的に正当化されるわけではない」という発言は,文脈抜きでそこだけ読めばめちゃくちゃ正論なんだけど,そうすると「告発をみんなで支援しよう」みたいな運動は基本的に慎むべきという話になるし,私はそれでいいと思ってたし思ってるんでまあ別にいいんだけど,皆さんはそういう立ち位置でいいんでしたっけ? って言いたくなる人が一定数いるんだよな。
で,まあ,積極的義務と消極的義務とを照らし合わせて考えたときに,「告発を見捨てる」は積極的義務の不履行(他人を助けない)に過ぎないけど,「無実の者をネットリンチする」は消極的義務に背いている(他人を害する)わけだから,まあ個人としては現行犯とか自分も見たことありますとか告発者が教え子なので立場上味方をしてあげないととかそういう場合じゃない限りは見捨てる側に全振りしといたほうがいいんじゃないのと思ってます。他人を助けないことより無実の他人を害する方が悪いでしょJK。
でも皆さんってこれまでそういうご主張でしたっけ? それはそう。さすがにオープンレターに署名とか草津町長をバッシングとかしてきた人たちに関しては,今回の小山(狂)の告発に乗っからないのは首尾一貫性が取れてなさすぎるから「恥を知れ」という感じ(もちろん,「草津の件で反省したので今後はああいう告発に乗っからないようにします」と反省している場合は,草津の件で反省した結果として今回の告発に乗っかっていないということなので,まったく問題ない。無法なネットリンチの過去を反省できてえらい!)。
逆に,草津の件で事実確定前のバッシングに反対してた人たちは,今回の告発も事実が明らかになるまで静観すべきだと思う。これだけバッシングしておいて,実は神山翼さんは無実でした,みたいな話になったらどうすんの? 草津と同じパターンよ。そういうネットリンチは良くないっていうのが草津の教訓じゃなかったの?
(草津は胡散臭い告発だったが,今回の告発には迫真性があって真実っぽそうだから支持,というのは危ういと思うよ。町長をレイプ犯呼ばわりしたメディアは草津の嘘つき町議の主張にリアリティを感じて報道したわけだし,自己判断で真実だろう運転をするのは良くない。インターネッツ教習所で免許取り直そう。沈黙は金だよ)
被告発者のリアル友人が,「あいつはそんなやつじゃない!」って弁護すること自体はいいんじゃないかなーって思うけど,どうだろう。仲の良い友達が悪いことしたって訴えられてたら,「あいつはいいやつなんだ」」って言いたくなるのは人情じゃない? もちろん,告発者を嘘つき呼ばわりしたらそれは積極的な加害になっちゃうけど,「私は彼/彼女の無実を信じる」と発信すること自体は,直接的な加害にはなってないわけだから別にいいのでは。
え? フェミニストの皆様はそういう弁護をセカンドレイプと呼んで非難してきた? ああ,そういう過去の発言があると大変っすよねえ。
そういった過去の発言との齟齬が,多くの人の憤激を買っている面があるというのを,いい加減一部のアカデミアの人は認識すべきだと思うんだよな。一部のアカデミアっていうか,フェミニズム研究者だよ。「女性は悪事を告発する側」っていう前提で色んなものごとへの対応基準を設定していってまわった結果,悪女の存在とか嘘つき女性の出現とかで自縄自縛になって苦しんでるようにしか見えない。
(とある有名人の性犯罪疑惑について「もちろん彼が無実の可能性もあるので,現段階では軽々しいことは言えないが」というエクスキューズをつけただけでセカンドレイプだというご指摘をいただいたこともあるぞ。ちょっとでも冤罪について考えたことがあればこんなアホな発言はできんだろ。どうも女性論客は弁護士とかを除くと冤罪への危機感が薄い傾向にあるように思う。大崎事件とか東住吉事件とか湖東病院事件とか徳島ラジオ商殺し事件とか,女性が人殺しの濡れ衣を着せられた事件だっていくつもあるんだが……)
とにかく,「女性の感情」を判断基準や行動基準にするのをやめろ。公平性とかそういうのをもっと大事にしろ。女だろうが男だろうが当てはまる原理原則を設定しろ。簡単なことなんだから。
これはマジ。「twitterはインテリのパチンコ」って10年以上前から言われてるから。
SNSで身を持ち崩すアカデミシャンはマジでパチンカスと何も変わらん。SNSとの適度な距離は才能が要るやつなので,才能がないやつはSNSやめたほうがいい(SNSの才能がないことは何も悪いことじゃないから恥じなくていい。むしろパチ中になって評判落としたり論文落としたりすることを恐れるべき)。
それをそのままの形で己の作品として発表すれば悪評を得るだろう。
ではここでその諸問題、「なぜ文章のパクリは忌避」されるのか。
それについて考察しようと思う。
そこで私がその作品から、富士山に対する描写をそのまま引用すればパクリとされる。
それはその「文章」を無断で引用したことを咎められるのであって、「富士山」そのものを流用したこと事態に問題は生じない。
すなわち「富士山」との表象を描写すること自体には、「パクリ」とする概念が存在していないのである。
ここで述べたいことを平易に、そして換言すればこういうことである。
なぜ文学作品の文章を光景として捉え、その文章を描写することは禁止されるのか?
ということである。
詭弁的に述べれば、こういうことだ。
「私はその文章をパクったのではない、私はその文章を光景として読み取り、私が感じたままにその文章を描写しただけである」
その理由こそが、この諸問題としての根源的なものであり、すなわち「パクリ」という行為は、文章を盗む行為ではない。
それは、作者の感性、思考を盗むことに他ならず、端的にも形而上学的に述べれば、それは作者の「魂」を盗むことである。
つまり、富士山としての描写自体に「パクリ」としての表象が生じないのは、富士山としてその表象を捕らえた際、そこには個々人において異なる情動、思考、感性が働くことに由来する。
自分が認識した事象を正確無比に相手に伝えるのは不可能である。
なぜなら知覚した事象を言語化する際に、ノイズが生じることは不可欠だからである。
仮にこうしたコード化によってもノイズが発生しないのであれば、それは他者と自己を境界線が存在しないことに成り、それは他者の存在を消失させてしまうことにつながる。
よって、他者としての存在とその存在性の認識こそが自己認識における伝達として生ずるノイズとしての証明であり、故に完璧な意思疎通は不可能である。
実際に自分が認識したものを完全に換言するのもまた不可能である。
ここで本題に戻ろう。
彼らは実際、事象に対する見事な描写に評価を与えるのではなく、
仮に富士山としての事象、光景が、文字として表せるコードとして定義化されたとしよう。
すると橙色をR132・G90・B18として示せるように、富士山も同様に共同認識のコードにより共通の形で表記することができるだろう。
その際において、富士山を示すコードを流用しようと、橙色の場合と同様、そのコードを”パクリだ!”と批判されることはないだろう。
文章の引用、パクリとされる行為は文章を盗むのではなく、作者としての”ノイズ”を盗むのであり、人は意思の疎通として害となる、その”ノイズ”に価値を置いている。
人間は巧みに描写された事象を求めて作品としての文章を読むのではない。
それは正確さに欠ける、個々人として個人的な感性と称される”ノイズ”を読む行為に他ならないのだ。
つまり、人はノイズを読み得ようとすると同時に、その”ノイズ”の出処を正確に知ろうと欲するためである。
それはすなわち、”ノイズ”の正体が判明しておらず、その”ノイズ”としての概念自体をアニミズム的にも崇高する謂れを持ち得ているからである。
これこそ換言すれば、
「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ…」
「そろそろ車買えば?めちゃくちゃ便利だぞ。まぁ金はかかるけど、運転気持ちいいぞ。テクニック磨け。車オーナーになってこそ一人前だ」
車の代わりに代入できるのが日本男にとっての女(特に結婚)だ。弱者男性は車がゲットできないなんて人権ない、みんな乗ってるのに、と嘆く地方人みたいなものだ。
しかし。
女は自分が人間だと知っている。小さい頃からどんなにお前は人間ではないと扱われてもなお、人間だから男とも心の通った恋愛をして、便利なモノじゃなくてパートナーとして男と付き合おうとする。が、上記みたいな男が多いので絶望する。絶望して男嫌いになったり「頂き」になったり。最初から「賢い()」女は男をATMとして扱い、私は良い育ちで性的にも家事にも便利ですよと所有欲を煽り「お互いに」便利グッズとして生きろと迫ってくる。
女はモノ扱いが嫌なら働いて自分を買い戻し人間に戻るしかない。男も男の暴力性やATM扱いが嫌なら、誰かのことを所有しなければ男ではない世界を否定すべきだ
まず結論を書いておく。
「電話で社外の人と合意を取り付けたら、合意内容を、関係者をccに入れて相手にメールしろ」
言いたいのは、それだけだ。(当然だと思った人もいるだろう)
以下、具体的な状況を見ていく。
ドラマ「セクシー田中さん」の製作過程で問題が生じた大きな原因が、原作者が求めた条件「(ドラマオリジナルとなる終盤では)原作者があらすじからセリフまで用意する」「用意したものは原則変更しない」「場合によっては、原作者が脚本を執筆する可能性もある」が十分に履行されなかったことなのは、衆目の一致するところだろう。
日テレ報告書では、この条件について、「許諾の条件として伝えられていたとの事実は確認できなかった」としている。つまり、「言った言わない」論争が発生している。
この"条件"を主導したのが、小学館の社員B氏である(小学館報告書での呼称。以下同じ)。B氏は、映像化関連の部署に所属している。この部署が長いのか、日テレX氏(担当者Y氏の上司)とも8年程度の面識があった。
そこで4月25日、社員Bは、小学館社内で芦原氏に面談し、ドラマオリジナル部分についてはできるだけセリフを多く入れたロングプロットを書いてそれを脚本家に脚本化してもらうこと、それでもうまく脚本にできない場合はご自分で書く場合もあるが良いかと尋ね、その覚悟があることを確認した。社員Bが、できるだけキャラクターのセリフを多めに書くことで、脚本家が芦原氏のつくるキャラクターのセリフを替えることができなくなると説明したところ、同氏はすぐに理解した。
そして、B氏は、日テレX氏にこれを伝える。
社員Bは(6月)9日、日本テレビ社員X氏に電話で改めて、ドラマのオリジナル部分は芦原氏が詳細プロットを書き、これを受けて脚本家が起こした脚本を了承しない場合は脚本を自ら書く方法を提案し、脚本家に失礼にならないよう了承を取ることを求めた。
これに対して日本テレビ社員 X 氏は、芦原氏に書いてもらうことはありがたいと賛同し、脚本家にもうまく話しておくと回答した。
なお日本テレビ社員 X 氏は、「もし脚本が芦原先生の意図を十分汲まず、芦原先生の承諾を得られないときは、芦原先生に脚本も書いてもらうこともある」と言われた記憶はないと否定している
おそらく、日テレ側は「脚本」「詳細プロット」という言葉を、提供されるフォーマットについての言葉として理解しており、原作者やB氏の意図する「原則変更しない」という意図では捉えていない。
実際、この後の日テレ担当Y氏のメールでは「具体的に頂けるほうが良いと思います」と言っており、「詳細プロットや脚本=具体的な表現方法での提示」として捉えている。さらに続けて、「こちらからもそのご提案を受けて、案だしもさせて頂ければと思います」と「原則変更しない」を認識していない発言を続けている。
(なお、このメールを受けた小学館の担当者A氏も、「案だし」を咎めず、また、自分のメールでも「脚本もしくは詳細プロットの体裁でご提案」とフォーマットとして書いているので、同じ捉え方をしていた可能性がある)
ここから伺えるのは、小学館B氏が日テレX氏に電話で伝えた意図が日テレ側に正しく伝わらなかったこと(もしかすると、小学館A氏にも伝わっていない)。
そして、その連絡が、2人の電話でしかないため、2人の記憶違いが生じたら、どうしようもなくなることである。
もし、B氏が電話で合意した(と認識していた)内容を、A氏をCCに入れて日テレ側にメールしていれば、「原則変更しない」という点についての双方の認識の齟齬にもっと早く気づけ、悲劇は防げたのではないだろうか。
もちろん、他にも多くの問題点はあったし、日テレ側にも問題もあった。しかし、一番の問題点として感じたのは、肝心の所で、「言った言わない」が生じていることであり、その原因となったのはB氏の仕事の仕方である。
なお、社員Bが電話ですべてを終わらせていた問題については、小学館の報告書にも書かれている。
しかし、同報告書は「日本テレビ側が原作者の意向を代弁した小学館の依頼を素直に受け入れなかったことが第一の問題」と主張するために書かれており、小学館側のコミュニケーションの問題とはしていないことから、論点をずらしている。
社員Bは大抵、日本テレビ社員X氏と電話で交渉したようであり、文章になった資料の提出はなかった。本委員会において認定根拠としえたのは、社員AへのLINEメッセージである。日本テレビ社員 X 氏との電話交渉についてもより詳細な記録があれば事実経過の理解に役立ったと思われる。また、膨大な業務をこなしながら、日常行うのは大変かもしれない。 しかし交渉過程の記録はビジネスの鉄則である。記録がなければ、万一担当者に事故があればその成果は継承されない恐れがある。
多くの会社では、日報・日誌等で経過を報告し、上司・同僚と共有するのが普通である。そこから問題点の指摘を受けることもある。
しかし、小学館の社員A氏(芦原氏の担当編集者)の立場からすると、他部門の管理職(と思われる)B氏が、頭越しに漫画家に進め方を提案し、テレビ局とも勝手に交渉し、口頭でしか共有してくれない…なんて、たまったもんじゃないよな…。
コンビニのレジで「あ」と口に出しそうになって止める。まただ。買った覚えのない飲み物がレジ打ちされている。
買おうとしていた緑茶の横にあったのだろう、よく知らない健康によさそうで美味しくなさそうな飲料を、間違えて持ってきてしまったのだ。
もちろんそんなことを店員さんに言い出せるはずもなく、さも当然のように買ったものを受け取って、会計を済ませる。言い慣れた「アリガトウゴザイマス」は崩し過ぎのネイティブの発音よりよほど聞き取りやすい。緑茶よりも5割増しほどの値段だったその飲料は、不自然に苦かった。
この苦味と求めていた味の差が、つまりは私と世界のズレの距離なのだろう。物理的に冷蔵棚の隣に配置されていたのだろうから、ペットボトル一本分がそのズレと言えるのかもしれない。いずれにせよ、最近は世界とピントが合わないことが増えてきた。
物を間違えて手に取る、通り抜けられると思った隙間で身体を強かぶつける、単に平地で躓く。視覚のズレだけではない。電車で聴こえる他人の話し声はもはや何の言語かわからない。日本語だったとしても外国語のように響く。
体感としては、自分という電球と世界というソケットの接続が悪くなったような、そんな表現がしっくりくる。もともと噛み合っていなかったものが、どんどんその齟齬を大きくしていっているような。
どん、と後ろから通行人にぶつかられ、地面に膝と左手を強く打ち付ける。美味しくない飲料は全てこぼれ、アスファルトに小さな離島の絵を描く。私を倒した男はそのことに全く気づかなかったように前方に去っていく。自信に満ちた背中で。
あるいは私は、この世界から拒絶されて、消え去ろうとしているのかもしれない。それは、世界を拒絶し続けてきた私には相応しい末路のような気もするのだ。
一部追加
自分はただ娯楽を貪るだけの非生産的な行動を趣味とはカウントしたことがなかったので、ここでは無趣味と記載させていただきました。
またはてな匿名に投稿させていただいた理由としましては、はてな匿名ダイアリーが弱者男性の溜まり場となっているのを他のメディアから知ったため、弱者男性論にカテゴライズされるであろう下記の内容を投稿しようと決めた次第です。これに関しましては想像以上に批判やこのおじさんへの共感が多く、間違っていなかったなと感じています。
自分(20代後半)とともにセット売りされて来た上司(40代半ば)のおじさんが本当に見てて辛かった
代表的な部分で言うと
3.そのおじさんと同い年のプロパーとの差(プロパーは結婚、出産をし自宅の購入を進めている)
自分もこのまま田舎の工場でブクブクと太り月20万弱の手取りで無味無臭の、落ち目はあっても浮き目のない排泄物以下の人生が日常になってしまうのではないか
と思わされたことだった。