はてなキーワード: 一義的とは
https://anond.hatelabo.jp/20200322025040
They walked along by the old canal
A little confused, I remember well
And stopped into a strange hotel
( ・3・) ふたりは古い運河に沿って歩いた。少しまごついていたのをわたしはよく覚えている。そしてふたりはネオンの輝く奇妙なホテルに入った。
――「奇妙なホテル」とは?
( ・3・) ホールにフランク・ザッパの蝋人形でも飾ってあったんじゃないか? ああ、この strange というのは unfamiliar ということだな。――ネオンの輝く見知らぬホテルに入った。彼は夜の熱気に打たれるのを感じた。まるで運命のひとひねりと共に走る貨物列車がぶつかってきたようだった。
( ・3・) 夕暮れの公園にいたふたりが歩きだす。ネオンが光っているから、あたりはもうすっかり暗くなったんだろうな。「わたし」の記憶によると、少しまごついていたようだが……。
――「わたし」が出てきましたね。
( ・3・) ふたりの背後に忍びよる謎の人物……。落ち着かない心の内までお見通しとは、たいした観察力だ。
――……。
( ・3・) いや、分かってるよ。賢明なる読者諸氏ならば、「わたし」の正体は説明せずともお分かりになるはずだ、ってことだろ? 分からないとおかしい。ナボコフの『 』を読んで、「 」と「 」とが同一人物だと気づかないようなものだ。
――『 』は読んでいないのですが……。
( ・3・) だから少しは本を読めって。ただしまともな本だぞ。『死にたくなければラ・モンテ・ヤングを聴きなさい』みたいなのは読書にカウントされないからな。
――話を元に戻しましょう。
( ・3・) 三人称の物語だったはずなのに、一人称の「わたし」がぱっと現れて、さっと消える。聴き手は混乱するんだけど、何事もなかったかのように、彼と彼女との物語が続いていく。
――はい。人称の問題は後で見直すとして、脚韻についてはどうでしょう。
( ・3・) 1行目と2行目、canal と well は母音が合っていないんじゃないか?
――子音しか合っていません。脚韻は、強勢の置かれた母音以降の音が一致しないといけないので、この箇所は韻を外していることになります。そのうえ、1行目と2行目とでは旋律も違います。
( ・3・) 違ったっけ。
――違うんです。第一スタンザでは、1行目・2行目・3行目はきれいに韻を踏んで、旋律も同じかたちでした。ところが、第二スタンザでは、1行目・2行目で母音が揃わず、canal は上昇する旋律、well は下降する旋律です。というか、"I remember well" のところは、はっきりした音程がありません。そこだけ語りのようになっています。
( ・3・) 例の「わたし」が出てくるところだな。ひょっとしたら、わざと韻を外して、旋律も外して、「わたし」に対する違和感を際立たせようとしているんじゃないか?
――わざとかどうかは分かりませんが、定型から逸脱することで、聴き手の注意を喚起する効果はあると思います。
( ・3・) となると、韻を踏まないことにも意味がありうるわけだ――あれ、6行目と7行目、train と fate も韻を踏んでいないぞ。
――6行目は train ではなく freight train の freight が脚韻にあたります。
( ・3・) まず列車の概念があって、それからより具体的には貨物列車、という思考の流れではないんだな。まずフェイトという音の響きがあって、その響きが無意識の言葉の渦からフレイトをひっぱり出してくる。それから列車の概念がフレイトにくっついてやってくる。意味が音を追いかけているみたいで面白いな。
A saxophone someplace far off played
As she was walkin’ by the arcade
As the light bust through a beat-up shade
( ・3・) どこか遠くでサックスを吹いている人がいた。――これは順番をひっくり返さないとうまくいかないな。――彼女がアーケイドを歩いていると、どこか遠くからサックスが聞こえてきた。くたびれた日よけから光が差し込み、彼は目を覚ました。
――まだ覚ましてはいません。
( ・3・) ――彼は目を覚ましつつあった。彼女は門のところで盲人のカップにコインを入れた。そして運命のひとひねりのことは忘れてしまった。
( ・3・) 夜から朝になった。どこか遠くでサックスを吹いている人がいる。時を同じくして、彼女はどこかへ歩いていく。そしてまた時を同じくして、夢うつつで横になった彼の部屋に光が差す。一行ごとに場面が切り替わって、映画みたいだ。
( ・3・) どこかへ歩いていく彼女は、そのまま消えてしまう。盲人のカップにコインを入れる、というのが何か象徴的な行為なんだな、きっと。運命、盲人、テイレシアス、と連想が働くせいでそう感じるのかもしれないが。
――何を象徴しているんですか?
( ・3・) 何かをだよ。メルヴィルの白鯨は何を象徴しているんだ?
――何かをですね。
( ・3・) そう。ある行為や対象が何を意味するのか一義的に定まらないとき、その行為や対象は象徴性を帯びるんだ。ひとつ賢くなったな。
――とはいえ、門のところの盲人は運命を告げるわけではなく――
( ・3・) それどころか、彼女は運命のひとひねりなんて気にしてないんだな、ちっとも。
――強い。
( ・3・) 強い。運命に抗う者は悲劇的な最期を遂げるが、運命に関わらない者はいつまでも幸せに暮らすんだ。――じゃあ、ありがたい教訓も得られたことだし、次に進もうか。
――その前にひとつだけ。わたしが面白いと思うのは、彼女が去っていくのを誰も見ていない点なんです。まず、どこか遠くのサックス奏者は物語に関与しない。
( ・3・) 音だけの出演。
――部屋では彼はまだ寝ている。そして門のところの盲人には――
( ・3・) 彼女は見えない。なるほど、興味深い指摘だ。きみ、名前は?
――……。
( ・3・) 名前は?
( ・3・) アルトゥーロ、ありがとう。そんなところにも彼女の強さというか、優位性が表れているのかもしれないな。
He woke up, the room was bare
He told himself he didn’t care
Felt an emptiness inside
To which he just could not relate
――ハーモニカの間奏を挟んで、ここからは後半です。彼と彼女とがいっしょにいる、あるいは少なくとも近くにいるのが前半でしたが、ディラン先生のハーモニカを聴いている間に、彼女のいた世界は彼女のいなくなった世界に変わってしまいました。――では、どうぞ。
( ・3・) 彼が目を覚ますと、部屋は熊だった。
――クマ。
( ・3・) 「かすみの間」「うぐいすの間」みたいに、「グリズリーの間」だったんだよ。泊まった部屋の名前が。
――真面目にやりましょう。
( ・3・) 彼が目を覚ますと、部屋は空っぽだった。彼女はどこにもいなかった。どうってことはないと自分に言い聞かせ、彼は窓を大きく押し開いた。心の内に虚しさを――
――虚しさを?
( ・3・) 虚しさを感じた。で、その虚しさというのは、彼がどうしてもリレイトできない――
――He just could not relate to an emptiness inside ということです。
( ・3・) どうしても関わることのできない虚しさ?
( ・3・) おまえが引きたいというのなら。
――ランダムハウスにちょうどいい例文が載っています。I can’t relate to the new music of Miles Davis. マイルス・デイヴィスの新しい音楽はわたしにはしっくりこない。――1972年に『オン・ザ・コーナー』を聴いた人はそう感じたかもしれません。そもそも1967年の『ソーサラー』からして、もう調性は不
( ・3・) 自分自身の虚しさとうまくつきあっていけない、と考えればいいのか。――どうしてもなじむことのできない虚しさを感じた。運命のひとひねりによってもたらされた虚しさを。
( ・3・) さっき "he was wakin' up" のところで「まだ目を覚ましてはいない」って添削が入ったのは、このスタンザの "He woke up" が念頭にあったからなんだな。
――そうです。ここではっきりと目を覚ます。
( ・3・) 彼女はいなくなっている。大丈夫だと自分に言い聞かせるってことは、大丈夫ではないわけだ。窓を開けたら心の内に虚しさを感じた、のくだりはなんだか分かる気がするな、感情の流れが。ぐっときたぜ。
――まず部屋が空っぽだという状況が語られる。でも本当に言わんとしているのは、彼の内面が空っぽになったことです。開いた窓のところに立って外と内とを画定することで、内面という言葉が自然に導かれています。
( ・3・) きみ、名前は?
He hears the ticking of the clocks
And walks along with a parrot that talks
Hunts her down by the waterfront docks
( ・3・) 時計がチクタクいうのが聞こえる。言葉を話すオウムを連れて歩く。水夫たちがやってくる港で彼女を捜す。また彼女が彼を見つけてくれるかもしれない。どれだけ待たなければならないのか。もう一度、運命のひとひねりが生じるのを。
( ・3・) 時計の音が聞こえてくるのにあわせて、時制が現在形になった。ここからは彼にとってまだ過去の出来事ではないんだな。
――彼女のいない現実が、一秒ごとに動かしがたいものになっていく。コンクリートが固まるみたいに。
( ・3・) 「言葉を話すオウムを連れて歩く」は何を意味するんだ? アメリカ文学で鳥がしゃべるといったら、ポウの「ザ・レイヴン」だな。死に別れた恋人と天国で再会できるだろうかと訊くと、鳥は「二度とない」と予言するんだ。
――このオウムは実在するんでしょうか? どこからともなく現れましたが。
( ・3・) そこを疑うの? 「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」「エヴィデンスは?」みたいなものじゃないか。
――いえ、そうではなく、おそらく肩の上、耳元でオウムが話しているわけですよね、彼女を捜して歩いている間ずっと。それは暗喩ではないかと思うのですが。
( ・3・) おじいさんは暗喩としての山へ暗喩としての柴刈りに行きました。
――「周囲の人たちの話が、オウムの言葉のように空疎に聞こえてしまう」を暗喩的に言い換えると「言葉を話すオウムを連れて歩く」になりませんか?
( ・3・) 心ここにあらずだから、「よう、調子はどうだい?」と声をかけられても、「ヨウ、チョウシハドウダイ」と聞こえるわけか。まあ、そうかもしれないな。
To know and feel too much within
( ・3・) 内面を知りすぎてはいけない、感じすぎてはいけないと人は言う。わたしは今でも信じている。彼女はわたしの双子だったと。しかしわたしは指輪をなくしてしまった。彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた。運命のひとひねりのせいで。
( ・3・) 「わたし」が出てきたな。二番目のスタンザでは存在をちらっと匂わせる程度だったが、ようやく正体を現した。
( ・3・) そう。三人称・過去のかたちで物語が始まり、彼女がいなくなって時計の秒針が意識に上ったときから三人称・現在になる。そして今、一人称・現在で「わたし」=「彼」が胸の内を明かしている。
――すべて過去形で書くこともできたし、すべて三人称、あるいは一人称で書くこともできたと思うんですが、どうしてそうしなかったんでしょう?
( ・3・) なんだか「学習の手引き」みたいになってきたな。時制が変わるのは、彼女の不在が彼にとって現在の出来事でありつづけているから。人称が変わるのは――そうだな、最後のスタンザの心情は、客観的に、距離をおいて語れないんじゃないか。まだ傷が生々しくて。
――第四スタンザの「部屋は空っぽだった」から「窓を大きく押し開いた」のあたりはハードボイルドの流儀で、あまり感傷的にはなるまいという抑制が働いているんですが、最後のスタンザになると――
( ・3・) 抑制が外れて、ついでに三人称の仮面も外れる。他人の物語であるかのように体裁を保っていたのが、保てなくなる。こういう効果を生むためには、人称の変化が必要だったんだな。
結論をまずかくと狐の人は文章をろくに理解できてないし、論証は雑でおよそまともに評価できる点が一つもありません。私が「小宮友根の文章を読んで反論せよ」という問題を出した大学教員なら、理解力も論証も雑すぎて、さらに知ってる知識を喋りたいのか余事記載とでも言う部分もあり不可としたいが、お情けでゴミだけど長い文章を書くことはできてるので可にしようか迷う感じですね。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20191212/1576136093
まず、初手のビキニアーマーに関して。
普通「私は第二次世界大戦の軍用機といえばゼロ戦くらいしかしらない」と言ってる人が第二次世界大戦の軍用機(日本のみならず各国の)について何か発言していたら、無知な人が抱くイメージの1サンプルにはなっても、その妥当性に関しては「全く耳を貸す必要がない」と判断します。
https://anond.hatelabo.jp/20191222150200
実際ビキニアーマーは1つや2つでなくメインビジュアルで全面に押し出されることは少なくとも、確実にオタクカルチャーに根付いてます。
そして、提示されたイラストに「主人公の性別を選択してください」に引っ張られてか、オタクカルチャーが商業化して30有余年という時間的な長さ、さらにジャンルもアニメ、ゲーム、漫画、など多種多様なのにゲームの主人公選択の問題に矮小化しています。絵は読解できても文章は理解できてないのかもしれません。沖縄の貧困問題を議論してるのに日本の貧困率を出してきたり、「安室奈美恵は沖縄県民だけど超金持ちハイ論破!」とか言い出す人かもしれません。
だから、出てくるキャラクターの露出度の問題なのに、それにまったく答えきれていません。
さらにナーガ云々は意味不明です。フィクションの中のお話と現実が区別できてないと言わざるを得ません。
詳細はこちら↓
https://anond.hatelabo.jp/20191222154831
男女の露出度の差に関してはたとえば
http://www.jp.square-enix.com/DFF/character/
を見ると、あからさまに男性キャラより女性キャラの方が露出度が高いのが見て取れます。
まあ、職業だ、なんだと設定の違いとか言い出すかもしれませんが、たとえば0年前後に流行ったMMORPGだと職と性別だけで一義的にグラフィックがきまってました。
以下2つは韓国産ですが日本でも広く受け入れられたMMORPGです。
リネージュは君主、ナイト、ウィザード、エルフが皆女性キャラの方が露出度が高かったです。
職 | 露出度 |
---|---|
ノービス | - |
ソードマン | - |
ナイト | ○ |
クルセイダー | - |
マジシャン | ○ |
ウィザード | ○ |
セージ | ○ |
アーチャー | ○ |
ハンター | ○ |
吟踊 | ○ |
アコライト | - |
プリースト | - |
モンク | - |
シーフ | ○ |
アサシン | ○ |
ローグ | ○ |
マーチャント | - |
ブラックスミス | ○ |
アルケミスト | ○ |
女性キャラの方が露出度が高いのは「○」同等は「-」男性の方が高いのは「☓」のつもりでしたが男性の方が露出は高いのは一つもなかったです。
さらに言えば最近のキャラクターの外見をカスタマイズできるゲームだと女性キャラは男性キャラと比べ露出度が高い傾向がありますね。
ビキニアーマーの件も『アレサ』や『ラングリッサー』はそれこそ男性はフルアーマーなのに女性はビキニアーマーの良い例ですし、ゲームにおける露出度の差もオタクのくせに社会学者より詳しくないって驚きですね。
「このような顔を消されたキャラクターが描かれた事例が、この数年間の炎上であったことはない」
この文章は呆れますね。「炎上の背景にある性的客体化の表現技法」の話なのが理解できてません。
というか、これが反論になればそもそもビキニアーマーに関しても、炎上案件にビキニアーマーはなかったで反論は終わりです。
なんというか文章を理解できてないので、有効な反論ができていませんね。
この手法を多様する漫画家としては桂正和あたりが浮かびますし、ポル産アニメの「神田川JET GIRLS」では多用されてますし、そこまで露骨でなくとも、胸やお尻などをアップで写して主人公の視線がそこに集中している事を表現するのは漫画アニメで多用されていますね。
オタクなのにやっぱり社会学者よりオタクカルチャーに詳しく無いみたいで本当呆れますね。
繰り返します「炎上の背景にある性的客体化の表現技法」の話なので、その起源がオタクカルチャー外にあるかないかは問題ではなくて、オタクカルチャーにそういう表現があるかどうか?と言う話です。「定番」とか適当な言葉使って誤魔化してません?
それこそ「神田川JET GIRLS」にも出てきましたし、正直この人、本気でオタクカルチャーになど興味がないのではないかと不安になります。
人文科学なり社会科学を大学で学べば「である論」と「べき論」の違いは初歩的な段階で習うかと思います。もちろん、区別が難しい事例もありますが、この小宮友根の文章は「である論」なのに「べき論」だと解釈してる段階で、正直問題外なんですけど。
もう、いい加減、こういうまともな理解力も知識も論理的な思考もできない「オタク」代表の人は完全スルーするくらいがいいんじゃないかな?
煽りでも何でもないので教えて欲しい。
「反社会的勢力は時代とともに移り変わる」←これ正論じゃない?戦後間もない頃は今でいう反社会的勢力が闇市を立ち上げて、国民に物資が行き渡るようにしたわけでしょ?その時代は少なくとも反社会的勢力ではないわけだよね?
もっといえば江戸時代に「切り捨て御免」とかやってた物騒な連中だって、当時は反社会的勢力どころか士農工商でいえばハイエストソサエティに位置していたわけでしょ?
それを追認するだけの閣議決定がなぜここまで叩かれるのか、さっぱり意味不明。
それに、ウチの会社でも契約書に暴排条項を入れているけど、あれだって一義的に決めてしまうと、必ず抜け道をついてくる勢力がいるはず。そうすると、無理にフィックスするよりは、フレキシブルに運用するほうが良いともいえる。この意味でも、閣議決定は理にかなっている。
それがなぜ叩かれるのか。安倍憎しの感情論で突っ走っているだけのように思えて仕方がない。
反安倍は一度冷静になったほうが良い。
わかる範囲で。
はてなブックマーク民は、知らないことを知らないと言えない人間が多すぎ。
なお、筆者は機関投資家勤務、SBI証券に口座はあるけれど(機関投資家勤務なので)売買は出来ない立場。なので、個人のトレーディングには詳しくないところはある。
個人で利用できる株式の売買執行市場は、東京証券取引所と、他に私設取引所(PTS)。これらは個人も機関投資家も利用する。
他の売買方法としては、ToSTNeTの利用、証券会社との相対取引、証券会社等が提供するダークプール等もある。ほぼ機関投資家のみが利用するし、利用できる。
今回の減少は、SBI証券で、プリセットの設定のまま、成り行きで売買したときに起きる。
SBI証券で売買する個人は、株を発注するとき(便宜のため、売りオーダーにする。)、スマート・オーダー・ルート(SOR)をONにしたままにすると、東証か、PTSの中で一番良いプライスの市場で売買される。
そこに、従来は「Immediate or Cancel」条件で執行されていたので、発注数量のうち一部でも執行できれば執行して(partial fill)、残りはキャンセルする執行方法だった。
これが、「Time in Force」条件、つまり、一定時間は「成り行きのまま板に晒す」という方法に変えられたことと、加えてその残存時間があまりに短い(日経によれば何百ミリ秒)こと、これが問題となっている。
Time in Force条件そのものは一般的にも使われる取引で、まあ、ノンビリと成り行きで板に晒しておくという意味になる。
ただ、その残存時間がミリ秒の世界になると、実質的には機関投資家のうち高速取引業者(HFT)しか取ることのできないオーダーということになる。
A市場とB市場(例えば、東証とPTS)の値段の差をついて、A市場で安く売られている証券を買ってB市場で売ることそのものは、悪い行いではない。
これが流動性の提供につながるし(市場が繁盛する、という意味)、市場間の裁定取引が働くことで値段が収れんするから。
ただ、今回SBIがセットしてた設定は(SORで、TIF設定で、しかも非常に短時間のTIF)事実上、高速取引業者(HFT)のみがテイクできるさや抜きで、不公正という感じはする。
※なお、TIFの残る時間がもっと長い時間だったとしても、結果的にはHFTがオーダーを取るとは思う。結論はかわらないと思う。
SOR設定かつ短時間のTIF設定を、利用者にわかりにくい形でプリセットにしていた点は、道義的な非難は浴びると思うが、金融庁や監視委員会が処罰する法令上の理由までは無いと思う。
形式的な該当条文は無い。誠実公正義務くらいしかない(第三十六条 金融商品取引業者等並びにその役員及び使用人は、顧客に対して誠実かつ公正に、その業務を遂行しなければならない。)。
とはいえ、個人投資家も、オーダーの際の条件(SORなのか、TIFなのか、Fill or Kill(一部出来なら約定しない。)なのか etc.)、細かい取引条件は自ら確認する注意くらいは負わないといけないと思う。
一義的には、金融商品取引法で定め、開示が求められている裁量執行方針に反していないのか、という形式面になる。
https://search.sbisec.co.jp/v2/popwin/info/home/bm_171129_16.pdf
問題となる可能性があるのはSOR対象銘柄の選定のプロセスの妥当性があると思う。
SOR対象として、東証以外の市場(=PTS)に回していた銘柄が、本当にそれで良かったのか? 発注者の利益のみを考えた選定だったのか?(あるいは、PTSに参加するHFTに便宜を図ったりしていた形跡がないのか。)。こういう検査は、やった方がいいと思う。
あと、SOR時の利用条件変更の同意の取り方は、不誠実だったと思うので、行政指導がされる可能性はあるかも。
HFTに明らかに有利な執行体系を、特にSBIが使っているXマーケット(個人投資家とHFTが両方利用する市場)で残しておくのは、不誠実かと思う。
明確な法令違反事項ではないが。
海外では、HFTだけだオーダーを取れないように、スピード制限があったりするので、取り入れるべきだと思う。
・速いコンピュータを使っている。
・東証が提供する、東証の処理サーバーのラックの至近に、サーバーを設置する権利を借りて、東証の近くでオーダーを処理している。
たぶん、そう。 HFTが居ないと売買量が減り、個人を含めた参加者の売買がやりにくくなる。
例えばダークプール(証券会社内部で、証券会社が抱える顧客のオーダーを、内部でぶつけて、約定させる。)での取引情報を、一部のHFTが得ているのではないか?という噂は常にある。
ダークプール内での大口オーダーの流れ(例:売りが強い)を見て、つまり市場にオープンになっていない情報を見て、市場で有利執行をしているのではないか?という疑念はある。
「セクハラは笑って許すのがいい女」的風潮はクソだなと思うし、
世の中アップデートしていくべきだとも思うけど
最近の性表現にまつわる流れには釈然としないものがあるのでつらつら考えた。
なお公共の場に置く表現や少年マンガの表現はゾーニングや配慮が必要だと思うが、
R18指定の表現、同人表現、深夜番組なんかはそこまで厳しく基準を設ける必要はないと思うし、
某弁護士みたいにゾーニングされた場所から引っ張り出してくるのもマナー違反だと思っている。(後述)
とりあえずグラビア的表現とセクハラ表現は別々にかんがえるべきじゃないかなと思う
・グラビア的表現 「性的だ」と感じる我々の眼差しを故意に喚起しようとするような表現。宇崎ちゃんや秋葉原の広告はこっち。グラビアアイドルの水着写真もこっち。
・セクハラ表現 物語の中で登場人物にセクハラ行為を行わせる表現。漫画でのスカートめくり等はこっち。セクハラ=性加害行為。
(結論を先に言うならば、これらはどちらも性表現であり、適切にゾーニングされるべきものである。)
「少年誌のセクハラ表現は真似する奴が出て来るからそれ自体が問題だ」という主張がたまに見られるけれど、
物語の中でセクハラ行為がきちんと「許されない物として扱われている(報復が為される、周囲から非難される等)」場合、
子どもにとっては「セクハラ行為は駄目だぞ!」という教材になるのではないかとも思う。
なので今の段階ではセクハラ表現を無くすより、教材として活用していく道を模索する方が建設的かなと思うし、実際時代の変化と共にそうなってきているようにも思う(これはただの個人的なイメージ)。
その一方で加害者が報復や非難をきちんと受けていればセクハラ表現がOKなのかどうかはまだ考える必要があるよな~と思う。
(「漫画みたいにちゃんと報復すればいいのにw」というクソ意見の蔓延→報復できないタイプの現実の女性が泣きを見ることになるからだめかな~…。)
世の価値観がアップデートされていくにつれ(実際に存在するセクハラおじさんが淘汰されていくにつれ)少年誌からはなくなっていくべき表現なのかもしれない。
さっき『「性的だ」と感じる我々の眼差しを故意に喚起するような表現』と書いた。重要なのはこの故意性だと思う。
どういうことかというと
作者が、「鑑賞者に「エッチだ!」と喜んで貰おうと思って描いた表現」は、グラビア表現であり性表現ってことなんだよ。
宇崎ちゃんの作者さんだってエロ広告の絵師だって、大きなおっぱいをみんなに喜んで貰おうと思って描いてるはずで、その努力を無視して「性的じゃない!」と否定するのは逆に表現者に対して失礼だと思う。
宇崎ちゃんの作者はそういう意図で描いてないのでは?とか言い出すのもナシだと思う。一般女性より過度に不必要に大きく作為的に描かれたおっぱいに向かってそんな擁護し出すのは流石に欺瞞でしかない。
でも宇崎ちゃんの作者は作者で、献血ポスターの依頼が来たときに、「自分のイラストから一般人がどんな印象を受け取るのか」ということを想像できなかったのなら、創作者として致命的に想像力が欠けてるんじゃないのと思う。
うーん…それとも忙しくて編集者に丸投げだったのかなぁ。同人作家なら性表現の責任は基本的に同人作家本人が負うべきだけど、商業作家の場合、作家の性表現をどのように取り扱うかは編集者に責任があるかも。
(勿論作家本人の同意なく掲示されたような場合はその限りではない。その時は掲示した者が表現者として責任を負うべき。)
一方グラビア表現を見て性的だと感じる我々の「眼差し」について、私はこれを責めるべきとは思わない。
なぜなら我々には内心の自由があるためだ。
グラビア的表現が女性に対する実害に結びつくのは実際のセクハラ行為の道具として用いられた時(絵を指して「この子おっぱい大きいね~」と女性に向かって言う、など)であって、鑑賞者が内心で何かよからぬ事を考えた時ではないんだよね。
内心でどう思ってようがそれを人目のある所で表明しないし危害を加えないようにするのがまともな大人というものだと思う。
裏を返せばセクハラしてきたおじさんに対し「コイツマジ気持ち悪いな死ねばいいのに」と思うのも思うだけなら自由。
ちょっと良いなと思っていた先輩の家の本棚に宇崎ちゃんの漫画を見つけて「うわー…こういうのが好きなんだ…」と思うのも自由。
たまたま本屋で見掛けた知り合いがジャンプを買ってるのを見て「うわ…」と思うのも自由だ。
特にオタクは他人からどう思われても構わない人達なので女性に内心でこう思われたとしても全然気にしないだろうな。
でもそれでいいよね。
オタクはそのまま自分らしく生きればいいし、女性側は逆に近寄るべきでない人を見分ける目印として活用すべきだ。それがお互いのためなんだきっと。
なお今週のジャンプ(居間に放置されていたもの)に限って言えば、性的な表現としていくつか見られたのはこちらのグラビア的表現だった。(下着姿、湯気で局部の隠れた裸、女性同士のベッドシーン未遂)
「2次元女性の綺麗に完璧に鑑賞用として整えられた裸体に慣れ親しんでしまうと現実の女性に勃起できなくなる可能性があるので少年誌に2次元のグラビア表現を載せるのは教育的に問題だ」みたいな意見も、わからなくはないんだけど、実際にそういうデータがあるか私は知らないので、なんとも言えないなぁと思う。
これは「(2次元に限らずあらゆる物語に登場する)イケメンの性格の完璧さに慣れ親しんでしまうと現実の男性を愛せなくなる」という意見と大差ないと思うし、データが無いならどちらも邪推でしかないと思う。
ただデータがあってもこういうのは自己申告でしかない以上正確性に疑問がのこるし、心配な親御さんだけ気を付けてあげれば良いのではという感じかな。親御さんが気を付けても友達ネットワークから回ってくる場合もあるのでもうそこは運だろうなぁ。
私の中で結論は出た。
セクハラ表現もグラビア的表現も、どちらも性表現であり、適切にゾーニングされるべきものである。
だが、この世から消し去るべきとまでは思わない。
例えばそれはチョコレートやコーヒー、煙草、精神安定剤のように。
ただ性表現を楽しみたいならゾーニングされた場所でやるべきだよ。これは2次元エロに限った話ではない。
やめた方がいい。本当に。
オタクの中には「ゾーニングしてたのに引っ張り出されたんじゃ意味ないじゃん=ゾーニング無意味じゃん=公共の場にエロ持ち出してもいいってことじゃん」と考える人達が出て来ている。
グラビア的表現について故意性を強調したのにはもう一つ意味があるんだった。
現実に居る胸の大きい女性、ミニスカートを履いた女性、制服を着た女子高生は、
例え男性の目から性的に見えたとしても、“「性的だ」と感じる我々の眼差しを故意に喚起しようとしている”わけではないということ。
それはただ持って生まれた体型であり、ただのファッションであり、学校に指定されてるから仕方なく着ているものなのだ。
そういう眼差しを故意に喚起しようとしてファッションを選ぶ場合も、ないわけではないけれど、恋人のためやお金を払ってくれる客のためであって、少なくとも見知らぬ人間のためではない。
それだけははっきり書いておきたいと思う。
「局部が見えているかどうか」みたいな分かりやすい指標は別として、昨今の性表現について“「客観的に性的に見えるかどうか」でゾーニングしようとする試み”には限界があるんじゃないだろうか。
ツイッターの有志が取った統計によるとオタクと20代一般男性でさえ宇崎ちゃんポスターに対する感じ方は違ってたらしいじゃあないか。
表現を観賞側がどう捉えるか、解釈するかなんて一義的なものになどなり得ないんだから、新たに客観的な基準を設けても新たないちゃもんを付け始める奴が表れて堂々巡りになるだけだと思う。
だから上に書いたような表現者自身の主観に基づいた基準で、まず表現者が自主的にゾーニングするべきなんじゃないの?と私は思うのだ。(勿論その「主観」に欺瞞がある場合はその都度批判されるべきだけどね)
これは表現者にとっても決して悪い話じゃないと思うんだけどな。
宇崎ちゃんポスターなんて、表現者が不特定多数から「エッチだ!」と思って貰いたくて描いてるのが明らかなのに、性的じゃないと言い張る嘘が嗅ぎつけられるから批判も沢山寄せられるのであって、
そもそも表現者が自主規制してれば文句つけられることも減るだろうし、令和の一般人ならオタクの味方をすると思う。そうなったら私もオタクの味方するんだけどなぁ。
それにしてもツイフェミ寄りでもオタク寄りでもない意見は全然歯牙にもかけられないんだなぁ…って軽く絶望感を感じるね。
反論もほとんど来ないから自分の論のどこが悪いのか自覚することさえできなくて悲しいよ。
私は結構本気でここが着地点だと思うんだけどなぁ…
子ども子育て支援法では、特定保育・教育施設として、認可保育所、地域型保育事業(小規模・家庭的・事業所内)、認定こども園、幼稚園(給付型)などがある。
運営事業者は、株式会社、社会福祉法人、NPO法人、個人(個人運営は、都市部だと、家庭的保育事業でもない限りないと思う)など様々だ。
また、運営している園の数もまちまちで、株式会社だから多くの園を運営しているというわけでもない。(割合としては多いけど)
子ども子育て支援法は、個人給付のため、園数が増えれば増えるほど収入が増える。
また、株式会社は人件費比率が低めな傾向があり、利益を上げる。
認可保育所ではこの利益を30%以上保持することは許されない。
(そもそも、そこまで余る設計にしていないし、余るなら職員の給与や施設充実などに充てろということ)
しかし、弾力運用という制度があり、自治体と協議することで、新設園の整備資金などに回すことが出来る。
(確か、地域型保育事業だと協議すらいらない。これが地域型保育事業の増えた理由ともいえる。)
その場合、多くの園を経営することで、規模のメリットを享受し、利益を上げ続けることが出来るという算段なのかもしれない。
そのため、現在、株式は有象無象の勢力がひしめき合って、新規開所を競っている。
【良いところ】
株式会社の園は、組織的経営をしていることが多く、園運営に対する費用対効果で効果の方が高ければ、費用徴収はするが、保護者へのサービスも結構してくれることがある。(例えばオムツの処理など)
そのため、保護者と園側のルールが明確で、延長保育料などの費用負担が明確なことが多い。
【悪いとこと】
・保育士不足になると一気に回らなくなる。
採算性の点から、各園の保育士の配置をギリギリにしている傾向がある。
保育所は子どもの大きさに合わせた狭い設備のなかで、大人が働いており人間関係によって、大量退職などが起きることがある。
そうなったときに、一時の赤字を被ってでも保育士を配置するということが出来ない法人が多い気がする。
たぶん、貯めた給付費を前述した新規園の整備費用に回していたり、事務費とか委託費とかいう名目で本部へ吸い上げているからだと思う。
拡大路線を取っている法人がほとんどのため、営業推進部隊はいるが、管理部門が脆弱だったり、前述の人材確保能力・資力がない本部のことがある。
特に子ども子育て支援新制度(H27)以降に、拡大しはじめた法人はその傾向がある気がする。
昭和時代から運営している事業者などは比較的、安定した経営基盤があり、また地元にも根ざした園が多い。
新しい法人も比較的しっかりしていることが多いが、余裕は無い場合がある。
東京近郊以外の法人(京阪神や九州・四国)、一部北関東の法人が都内近辺に進出しているイメージ。(社会福祉法人に限らないか。)
【良いところ】
・余裕のある考え方をしてる。
古くからある園では、運営が安定していることが多く、余裕を感じる。(特に単園または2~3園位を運営している法人)
【悪いところ】
・トップの考えが古かったり、組織として機能不全を起こしていることがある。(特に組織としてのコンプラ面)
福祉とはこういうものだという考えが強い園や、逆にビジネスライクを超えたルールへの厳格性を求めてしまうことがある。
その場合、雇われ園長や主任が問題であるならいいのだが、法人のトップや実務担当者がそういう考えだった場合に、修正することが難しい。(株式のように風評や採算などを超越することすらある)
複数の園を運営している場合、本部機能が脆弱なことがある。また、地方の法人は株式会社に比べてレスポンスが遅い気がする。
また、東京都近辺のニーズを把握しきれていないことがある。(例えば園のルール。株式だとそこは考慮してくる。)
ここで気を付けてほしいのは、株式だからダメ、社福だからダメということではないという点。
認可保育所と幼稚園が違うように、地域型保育や認定こども園も全く違うものであることを知ってほしい。
①幼稚園
一義的には教育施設のため、教育カリキュラムが充実しています。特に絵画や図工、音楽系は保育所などに比べると熟す回数の差だけの効果は期待できます。
一方でほとんどの幼稚園は私立のため、児童が付いていけなかったとしても、徹底的にフォローするということ点では認可保育所に譲る気がします。
これは先生のスキルというよりも、幼稚園はあくまで私立学校であり、出来なかったり、したくないのであれば、園に来なくてもいいですよというスタンスが見受けられるためです。
そのため、事前に保護者にも行事への協力や費用負担を求める園が、認可保育所に比べて多い傾向です。
なお、預かり保育を行っている園が多くありますが、夏休み期間中はやっていない園も多くあるので、働きながら幼稚園に通わたい場合は注意が必要です。
幼稚園と認可保育所のいいところどりのような位置づけですが、結構曲者です。
確かに教育をしつつ、保育も行うという高い理想があり、それを実践している園もあります。
気を付けなければいけないのは、認定こども園は昔は幼稚園だった園が多いということです。(認定こども園は民主党政権時代に高い理想と待機児童解消に生まれた制度です。)
①で書いた考えの法人が認定こども園になった場合、産休を取るときに、実質的な退園勧奨をしてトラブルになったりしています。
今は下の子が生まれて育休を取ったとしても、育休が終わったら復帰するんだから、上の子は育休中も継続して同じ園に通えるというのが現行制度です。
しかし、3歳児神話でもないのに、「一義的には子どもは親が見るべき」という考えのもと、トラブルになったりします。
…何考えているんだろうね、こういう法人。そんなことしても少子化が加速するだけで、最終的には園が運営できなくなるのに寄与するだけなのに。
(この考え、保育園の運営法人でも持っている人がいて、考えを変えるのは大変なことなんだなと思うことがあります。)
いわゆる保育園です。入所可能年齢が低く、預かる時間が長いこともあり、一義的には生活の場であり生活を覚え、人とのかかわりを経験していく場と考えられています。
そんなの当り前だろうという人がいるかもしれませんが、例えば育休明け1歳児で預けたとして、一日12時間くらいいたりするのです。
しかも、大人のように社会のルールや、人との会話・接し方、食事の仕方、靴の履き方…
(もちろん一日の食事のうち2回は家だからとか色々ありますが、働いている親が土日にしていることを毎日保育士がしているわけです。)
そのため、教育(幼稚園のところに書いた絵画や音楽とか)という点では、どうしても熟す回数に差があります。
近年はそこに力を入れる園も増えましたが、一日12時間いる中で、そういったことを行うには、子どもも慣れる時間や訓練が必要ですし、保育士側にも相当なスキルや経験が求められます。
ということは、登園前やお迎え後、土日の保護者にもそれなりの余裕やスキルが求められるという点に注意してください。
(幼稚園は保護者に対して、元々求めています。保育園だけでやれば幼稚園並みの経験、教育が出来るというわけではないということです。)
つらつらと書いてしまいましたが、要は保育所や幼稚園を申し込むときには口コミや友達の話だけでなく、ちゃんと見学に行くんだよ!ってことです。
Cornellの議論は、ポルノグラフィの危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィは男性をレイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプを輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティの世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的な手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつの表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別は同義語なのである。彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語と行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィが性差別そのものであるという一種のイデオロギーに依存した議論に対する批判そのものである。
もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉を制限的に定義することによって、そうした一般的な議論ではなく、特に女性に対して酷薄なもののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象の問題は不可避であり、言語と行為を限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制の根拠は果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語と行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり、日本におけるポルノグラフィの製作が必然的にそうした女性虐待を表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィの表象が必然的に(fuckerとしての)男性をレイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性の従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。
また、Cornellの依拠するポストモダン・フェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判の対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズムの根底的目的に対して、一定の文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムにコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまり、ポルノグラフィの規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性と被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである。
そもそも、ポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから、女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定の勢力として存在していた。これらは全く女性が使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィの概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性の性的欲望、セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたことからの解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタな二項対立の接続が否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリームは男性が製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリームは男性向けであって、女性向けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィが必然的に男女を社会的に構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。
4. 結び
前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダン的フェミニズムの見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理はポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。
日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定の表現について規制を肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史を判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィの規制は道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制を検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳を可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害が現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からのアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制を正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノ派フェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニストの議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり、特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念が同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。
こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴである。さらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在の規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力や虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段が妥当であるかが問われるべきではないだろうか。
一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制の対象となるのではなく、むしろ一つの「職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知が必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的に正業であると認知されることは、その「職場」におけるハラスメントや虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーン・ハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。
以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。
参考文献
・キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン著 中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィと性差別」(青木書店, 2002)
・ドゥルシラ・コーネル著 仲正昌樹監訳「イマジナリーな領域」(御茶の水書房, 2006)
・大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)
・キャサリン・マッキノン著 森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)
いやさ、投下12時間後位に見たらノーブクマ2煽りトラバだから、こんなに大漁になってたの気付かなかったわ、めんごめんご!
あと、文章雑なのはごめんなさいその通りです、完全片手間&やっつけ仕事です。まあ、言い訳と言われればそれもその通りよ。しっかし3行目から消して適当な文言入れ忘れてるし、小見出し2つ目も入れ替えるの忘れるし、かといって今から手直しも卑怯っぽいから、直すに直せなくなったなこれ
一応ケツに「反転可能性」と書いたので、やや牽強付会に最大限、愛トリに寄せたつもりではあるが、他人の思考をトレースするの難しいっすね
では皆様の二枚舌(あるいは信念による鉄面皮)をご覧ください。
name | 某献血のイラスト問題について | 某トリエンナーレのアート問題について | 短評 |
---|---|---|---|
id:aomeyuki | 献血は困っている人を助ける為の良い行いだから、そこで発生する「モノ化」は甘受せよってロジックが増え始めてるけど、それこそが性や身体への搾取の具体例なると思うんで、それを広めて大丈夫かな。 | 自分は「日本人」ではあるけど、「日本」ではないのでよくわからない話だった。それと憎悪や嫌悪も人間が内包している当たり前の感情や感覚なので、それが外側に出てしまう事を殊更に避けるのも不自然。 | その「よくわからない」から出るそぶりを出せるかよ |
id:SweetGiraffe | これは日本赤十字も『複数女性と性交渉を持たず体重がそれなりにある若い男性』に寄り添った広告は打てなくなる。残念だが2019年では『人の命』より『政治的な正しさ、ポリコレ』の方が重くなってきてるのだ。 | 『表現に対する嫌悪感』は、あいトリも献血ポスターも同じでしたね。 | |
id:kyo_ju | すげぇ。ビリーバーだ。 | 釣りかそのぐらいかは見抜こうぜ | |
id:memomizawa | なぜこの絵がエロいと思えるのか、他の絵はなぜエロくないか、考えていくと美術って面白いと思いませんか?そこには文脈がある。我々は性によって生きている、存在しているということもまた事実であるのです… | 日本に対して絶望したり、憎悪したりすることない?この主張だと公的な場では愛国的な作品しか見れなくなるよ。誇りに感じている日本の歴史を振り返れよ。 | ほら、「みんな憎んでる」としか見えてない |
id:onigashira_3 | 追記読んでも主語がデカいなとしか思わなかった。個人の話を男女の話として語ってるだけ。 | ||
id:kiku-chan | 複雑な問題なのに、単純化したブコメ星がつくのな。/ 戦略として「思考停止」って言葉を使わないほうが言葉は届いたのかな? 丁寧に言っても届くべき人には届かないようにも思うが | 日本の過去の過ちに言及すると「反日だ!ヘイトだ!」と騒ぐ人の思考が見えた気がする。 | そりゃそれを見せようとして訳でな |
id:myogab | とは言え、切りが無いよなあ…。襟足や首筋や足首にフェティッシュを見出す者も定番として、古来から居たわけでな…。裸にペイントしたような「服」は画力が無いよな…とdisりながら潰してゆく方向かなあ。 | 苦痛があるのは理解するが、被害者特権を振りかざし更なる弱者により酷い苦痛を与える事を容認する事には無理があるわな。弱者の恫喝はサヨクだと批判してきた事だろ。建前は守れよ。まず救う事によって救われようよ | それ結局弱者トーナメントっすよね。あなた基準では後者の方がまだ強者だとおっしゃってるだけで |
id:mimoriman | 貞操逆転世界をみんなに読んでほしい。原作はエロ同人らしいんだけど、商業化で女の子が主人公に。男性が性的な目で見られまくる世界に転移してしまう話。正直ここまで女性はエロと密接に生きてきたのかと衝撃だよ? | 言葉尻をつかまえてるブコメ多いけど、たぶん若い子はこんな考えの人多いよ。自国ディスしまくりのインテリ層の大人に辟易しながら成長したんだよ。 | 今の若い衆、そんななの? |
id:pikopikopan | 最近性の教育が適切でないから、無駄に傷ついたり傷つけたりして、結果殴り合ってるのではないかと思い始めてる。 | ||
id:tomoya_edw | 「性的消費」という文言への思い込み強いね。この絵の対象世代はとっくに意識変わってるのにな。思考停止はどっちなんだろうか、女性という性はそこまで特別扱いか?この作品ですらその部分の捻りがあるのに。 | 思考停止という言葉は嫌い。誰だって考えている。同じ言葉とて受け入れられるタイミングは異なる、そういう経験あるでしょう。党派性は雑フィルターだと思っている、普段は働かせていないと脳みその負担がでかい。 | とはいえ、何のフィルタもなしに世界を受容することが出来るかというと |
id:tatsuya_memo | 宇崎ちゃん、ワンピース、セーラームーン。挙げられた個々の例へのスタンスはどうあれ増田主張の骨子は理解できるはずだし、特に男性は深く受け止めるべき。意識しないと無自覚に女性差別し続けるよ。自戒を込めて。 | 例のポスターは表現の自由が侵害された案件ではなく、ミラーリングのつもりなら不適切。萌え絵を扱った美術展に展示されていたとしても誰も文句言わないだろう。その他ツッコミどころ満載で頭の悪さが溢れ出ている。 | ところがぎっちょん、美術展にも放火あったんだなぁ |
id:RRD | この議論からポジショントークしかできないアニメアイコンを排除して欲しい。まずはそこから。 | そもそも「日本」ってなんだ? ってところから考えるのが思考だよ。こいつは間違いなく、「日本」とはなにか考えたことがないことが文章からよくわかる。 | 考えたことない人、ちっすちっす。いきなりアイコンだけで排除しろって、それ考えてやってるの? |
id:mohno | 思考停止しないで聞いてほしいが、「不快なものだから否定するのはおかしい、表現の自由」という看板を掲げていたあいちトリエンナーレを応援してた太田弁護士が自分が不快なときに看板下ろすなよ、と言ってるんだ。 | そもそも「あいちトリエンナーレ」は実施前から「男女平等じゃないくらいものすごいことが起きる」と“認識してやったこと”だから、“予期せず話題とされた”であろう「宇崎ちゃん」と比べるものでもないんだよね。 | そこまで細かいフレームを比べだすと、凡てモノは比較できなくなるのでは |
id:Ayrtonism | この意見に賛成の人も反対の人も、一行一行に反応するのを止めて、一旦最後まで読んで、胸の中に収めて、咀嚼して、消化してみてほしい。それくらいよくまとまっている。自分もすごく参考にしたい。 | 最初っから前提が全く理解できないので、全編通して全く理解も共感もできない。「日本に対する憎悪を煽っている」という自分の勝手に設定した前提を疑わないことこそが「思考停止」そのものじゃん。 | 理解できないんじゃなくて理解したくないんでしょ?宇崎ちゃんがエロ、って自分の勝手に設定した前提じゃないって言いきれるの? |
id:deep_one | 非実在に対して「性的に消費」とか言われてもな。しかもあのレベルで。 | そう来るか。当たり前だが元を崩せないから内容は無茶苦茶だな。 | そこがこの芸の弱点よ・・・ |
id:asx | 個人としてあの手のイラストは好きじゃないんだけど、ただの「お気持ち」だと自覚してるからなくせとは思わない。基準があるようでない「性的消費」を印籠にこの手の議論をするのは悪手なのでは。 | 「思考停止」という言葉、左右フェミその他問わず結局「自分と意見が違う人間は間違っている」とイコールで使われすぎで、この単語を見ただけでそっ閉じしたくなる昨今。 | 正確には「この思考に従って停止せよ」って話よね |
id:EnergeticDuck | セーラームーンはSMを連想させるので公に出すな、まで言うならまだしもフェミニストから同じ熱量で上がってきた事は無いので、お気持ちでしょう。自分を善人の顔した利己主義者だとも振り返って頂けませんか? | "日本を憎むことは普通の事なんだよ、という教えが公的の場におかれていることが問題なんです。" 子供の自己肯定感とかに関係しそう(アメリカ人のアメリカ肯定感つよそう | USA!USA!が大前提だからなあいつら・・・ |
id:kyoto117 | 「性的に消費」という言葉の定義がよくわからない。性を意識する部分を強調した描き方をしたポスターが問題なのか、それを使うことが問題なのか、ポスターを見て「性的に消費」することが問題なのか。 | 単に文字遊びをしたいのか、事象を皮肉りたいのか、だとすれば対となる元ネタとしてこれを採用した意図は何か、つまるところどういう効果を企図したのか、全てにおいて不明瞭。わかりやすくいうと覚悟が足りない | 無名者に何の覚悟の在らん。迷陽迷陽无傷吾行 |
id:grdgs | あの絵が性的欲情を狙って描かれているのは明らかだからな。一応言っておくが性的がすべて駄目ではなく議論の余地はあるってこと。議論のスタートにも立たず「オキモチダー!」ってそれこそお気持ち思考停止だよね。 | あれを作った人・支持する人は日本を憎んでいるという発想が間違っている。「憎んでいるに違いない」というお気持ちだよ。被害妄想。批判=増悪と単純につなげる雑な「思考停止」多すぎ。 | 自陣以外に正しいお気持ちはないらしい |
id:world3 | 話の前提がおかしい。献血ルームは日本赤十字の管理する私的空間であって公共の場ではない。 | なんだかよくわからんけど、元ネタの出来が悪いから改変後もイマイチ。 | すまん、こういう時はすべて改変者がへっぽこなせいだ・・・。元ネタ悪くない |
id:teto2645 | ただ単に面倒で図々しい人。 | なるほど。思考停止という言葉には普通に考えれば自分と同じ考えにたどり着くはずなんじゃ低脳どもが、という意味がある訳ですね。わかります。 | まあ、左側の前衛史観に立つとそうなりがち |
id:amematarou | あれを東京オリンピックの公式キャラにして世界に発信する事を考えてみてよ。公的な機関がやる事じゃないって思わんのかなぁ? | こんな奴がいるから、漫画やアニメにオリジナルの天皇が出てくる作品が作れないんじゃないの? | 漫画でオリジナル天皇出てくる筋が見えねぇ・・・ |
id:ug_idol | sexual objectification の概念なんて馬鹿には理解できない | ||
id:right_eye | でもそれを言うならアイドルやガーリーな服等も性的消費だし、性的消費を肯定する女性向けの媒体(女性誌のモテファッション特集等)も全てアウトと思いますが、なぜポンチ絵ばかり?思考停止せず答えて貰えますか? | 検閲を是とする気も少女像を否定するつもりもないが、「これは日本人に向けたものではない」「これは日本否定ではない」という主張には説得力がないと思う。明らかにその要素はあるし、あった上で表現の自由が必要。 | 「萌え絵はあなたに向けたモノではない」 |
id:tikuwa_ore | うん、いいから、黙って病院に行け。脳の。自分がモデルになってるワケでもない単なる「絵」を、「女性」という共通点一つのみで自分と同一視するんだから、マジで病気以外の何者でもないワケだが。 | 表現の不自由展については「国家・自治体は国益を損なう表現に対し公金で支援する必要はない」「民間企業や個人が自費でやる表現に国家が口出ししてはいけない」でいいんだよ。 | |
id:kincity | 「女性は社会からどう見られたいのか」って人間として見られたいんじゃないの?男は精子を供給するだけの存在と見られたいの?/「黙って病院行け」←君がな。君女が男より犯罪率高いてデマ流して撤回もしてないだろ | まぁ昔はそこらじゅうでフィリピンとかに憎まれててそれが雑誌に載ったりカジュアルにしてたんだけどね。古本屋行ってごらん。 | じゃあ、昔はいっぱいあったからヌードカレンダー復活させようぜ!って違うだろーッ! |
id:laislanopira | ……。 | あるいは一番正解かもしれない | |
id:inferio | 北拳見て現実の人間殴るヤツはそいつがキチガイだ。エロい絵見て現実の人間に危害加えるやつもそいつがキチガイなだけ。自分が不快に思う以上の意味を持たない主張に社会正義のような絹を纏うやり方は不誠実だ | まず旧日本軍ていうのがキチガイカルトに民衆がハックされた状態なわけで、そんなもんに唾を吐きかける表現が今の日本の何を傷つけるのか分からない。オウムのテロの行状くさして展示してるようなもんやろ | オウムほど彼岸ではなくない旧軍?ってか、その孫曾孫に至るまで謝罪のため拝跪せよって話なんすけど先様は |
id:udukishin | だったらスナックとかキャバクラとか接待する店を非難しろよ。あっちは「実在する人」が性的に搾取されてるぞ。「生活のため」?ならイラスト関係者や漫画家は?他の職業にしろ?それならスナックとかも同じだろ! | あーなるほど「それ敵増やすだけだからやり方考えよ?」と言いたいのか。それはわかる。 | そこまでどっちかに肩入れしたいわけではない |
id:LittlePenguin | 新宿二丁目のポスターに修正が求められるのと同じだね。制限かけたい人々がいる。 http://murapo.sakura.ne.jp/pl2/?p=84 | 弱者ランキングが始まったようですね。併せて性的消費で女性は弱者なのかBLについて https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1910/23/news105.html | [後で読む] |
id:mutinomuti | 増田が性的に搾取されていると感じる公的なコンテンツは許されない(´・_・`)まで読んだ | 読んでないけど思考停止するなと言う人の多くが思考停止してあらかじめ自分の考えたストーリーしか提示できないので読む価値は低そうである(´・_・`) | 逆もまた言えなくはない、という話なので、そこが読めれば見る価値が低いことはある |
id:mukudori69 | あの絵自体は明らかに、胸を強調するための構図・彩色・視線誘導だよ。性的魅力を強調するため以外の目的あるんだろうか。性的魅力の強調度合いは露出や肌面積で一義的には表せないと思う。 | してやったりと思ってるのかな。苦笑しかないけど。公的な場って何回も自分で書きながら意味の差異を考えなかったの?…書いてないのか。しょーもな | 自分で書いておきながらその共通性も考えなかったの?しょーもな |
id:quick_past | サヨ叩きしてる愛国者連中や、少数者を社会から追い出してコスト削減したがってるネオリベとか、これもだけど行き着く先は欲望を好きな時に開陳できる、ケンのいない北斗の拳なんだが、それでいいわけか? | だから、なんども言ってる通り、ちゃんと、相手の言葉を、一度でもいいから、真っ直ぐ、聞いて、知って、その上で解釈して、それから自分なりに考えたことを、書いてください。一度でいいから、脳味噌を通して。 | 君も、条件反射じゃなくて、一度でいいから、脳味噌を通して。 |
id:cha9 | ファンやタニマチらによる一大性的消費コンテンツ、男性の裸体丸出しの大相撲が公共放送で毎日お茶の間に届けられてる異常な国ニッポンに関して増田はどう思ってるんやろ。伝統だしセーフは無しな、元は丸裸なんやで | 不自然な文章だなと思ったら改変後の主体がおかしい。比較で揶揄するならフェミ弁護士の双極になるのはガソリン脅迫犯や電凸やった奴ら。で日赤や漫画作者に当たるのが表現の不自由展。日本語不自由やと思考停止の例 | 何らかの表現を葬ろうとした段階で同じでは。フェミ弁の双極はあえて言うなら名古屋市長?付け火して煙喜ぶ連中よ |
id:frothmouth | 🤔 フェミニスト学会とかで、この絵は性的ポイント何点とか基準を作ったらどうだろう?80点以上はフェミニスト的には禁止とか?もちろん、社会の側はそれに従う必要はないけど... | パロディなのか真剣なのか | 7:3位っすね正直 |
id:mouseion | 自衛官をイケメン化するのも辞めて欲しい。僕はごつごつしたラグビーの稲垣選手みたいな自衛官の方が大好きです。むしろ野人系推してけよ~。 | アゴラの読売記者のネトウヨがね、この間僕を名指しで日本語不自由なのか“バカサヨ”って発言してるのよね。そのリテラシーの欠片もない不自由な発言を僕は評価したい。左翼がバカなら右翼はもっとバカなのだとね。 | ごめん誰か解説して |
「児童相談所 拉致 静岡市」などと検索すれば、当事者(親)が発信する記事を閲覧することができる。Twitterで実名発信すら行っている。
彼らの主張と、裁判所の認定事実とを対比しながら読めば、恐ろしさが伝わってくると思われる。
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判 決
(第1,第2 省略)
第3 争点に対する判断
前提事実に加え,後掲の証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
ア 原告Q1は,原告Q2及びQ9との同居を始めた平成19年2月頃,Q9が時間を守らないこと,嘘をつくことを矯正させる必要があると考えて,原告Q2との間でQ9へのしつけの方法について話合い,その結果として,原告らは,Q9が小学校に入学した同年4月頃から,Q9が上記の点について原告らの口頭での指導を守らなかった場合には体罰を与えることとした。
原告らの体罰は,当初は頭を軽く叩く程度であり,その後顔を平手打ちするようになり,同年6月頃からは,Q9に木製の子ども用バットを持ってこさせて,臀部をバットで叩くことなどがあった。
(甲4,75,原告Q1本人)
イ(ア)Q9の所属するクラスの担任であるQ12教諭は,平成19年4月頃,Q9の顔に痣があったことから,その痣について聞いたところ,Q9は,タンスの角にぶつけたと述べた。Q12教諭は,その後,Q9の顔の別の位置に痣があることを発見した。
Q12教諭は,同年5月下旬頃,Q9が忘れ物をして登校してきたため,どうしたら忘れ物をしないようにできるか尋ねたところ,Q9は泣き出して,自分で学校の支度をしていることのほか,原告Q1は殴るので恐いこと,原告Q2はQ9を守ってくれなくなり,原告Q1と一緒に怒ってばかりいるが,以前はそうではなかったことなどを述べた。そこで,Q12教諭は,Q9に対し,先生はいつも君の味方であり,先生が守ってあげるなどと述べた。
原告らは,同月31日,本件小学校の担任教諭と保護者との間での連絡帳に,Q9から,先生が守ってあげるという発言があったと聞いたが,その発言の真意の確認を求める旨の記載をした。
(イ)本件小学校のQ13教頭は,同年6月5日,原告ら宅を訪れ,原告らと面談した。その際,Q13教頭は,虐待の疑いがある場合についても適切な対応をとる必要がある旨述べ,原告らは,今までQ9はしつけを行われずに育ってきており,Q9を良くするのは今しかないこと,しつけの方針として,悪いことをしたら殴ること,虐待を疑っていることは理解していることなどを述べ,Q12教諭の上記(ア)の発言について,Q12教諭からの直接の謝罪を要求した。これを受け,Q13教頭は,一旦本件小学校に戻り,Q12教諭と共に再度原告ら宅を訪れ,Q12教諭の上記(ア)の発言について,誤解を招く発言であったとして謝罪した。
Q9は,同日以降,Q12教諭に対し,先生が来てくれてから殴られなくなったと述べた。
(ウ)Q9は,同年6月29日,右大腿部,右肩に赤色の跡があり,Q12教諭が,Q9がプールに入る際にその跡について聞いたところ,Q9は,原告Q2から叩かれたと述べた。
また,Q9は,同年7月2日,右目の下部に痣があり,Q12教諭からその痣について聞かれたところ,原告Q2に殴られたと述べたが,Q13教頭からその痣について聞かれた際には,Q9は転んで怪我をしたと述べた。そこで,同日,Q13教頭が原告ら宅に架電したところ,原告Q2は,Q9が2日続けて許せない嘘をついたことから原告Q2が殴った,私も人間だから感情的になると述べた。
原告Q1は,同月3日,本件小学校に架電し,Q13教頭に対し,原告らは冷静にQ9をしかっていること,同じ状況であれば原告Q1であっても殴っているはずであり,原告Q2も同じ方針であることなどを述べた。これに対し,Q13教頭は,殴らないで育てることをまず考えるべきであるなどと述べた。
(エ)Q12教諭は,同月4日,原告らから,本件小学校の教育方針等についての意見が記載された手紙が送付されたため,同日午後3時頃,原告ら宅を訪問した。その際,原告ら及びQ12教諭が居間にいて会話をしていたところ,原告Q2は,一旦居間を離れてQ9の部屋に行き,Q9を叩き,居間に戻ってきた際に,「今私,Q9のこと,叩きましたから,守って下さい。叩きました。嘘ついたから。」などと述べた。
その後,本件小学校のQ14校長,教務主任及び生徒指導主任が原告ら宅を訪れ,原告Q1から,学校で行う教育と家庭で行う教育の区別をしたガイドラインを示してほしいという要望があったため,Q14校長がガイドラインを示す旨述べて,同日午後8時30分頃にQ14校長らは原告ら宅を離れた。
(甲11,17,18,乙ろ2の12,乙ろ15,証人Q13)
(2)本件一時保護に関する経緯
ア Q14校長は,同月6日,静岡市教育委員会に対し,前記(1)イの経緯を報告した。静岡市教育委員会は,同月10日,静岡市α区の要保護児童対策地域協議会(児童福祉法25条の2参照)の定例実務者会議において,Q9を要保護児童として提示し,Q13教頭が前記(1)イの経緯をまとめた報告書(乙ろ2の12の1ないし6丁)を提出した。上記会議に出席した静岡市児童相談所の所員は,同日,本件小学校に対し,Q9は保護を要する児童であるため,今後Q9に痣等があった場合には児童相談所に通告するように指示した。
イ Q9は,同月13日の登校の際,左顎及び左目下部に痣があり,Q14校長がその痣について聞いたところ,Q9は,嘘をついたことを原告Q1に怒られて殴られたと述べた。そこで,同日「Q14校長は,静岡市児童相談所に架電してQ9について通告した。また,同日のプールの授業の際,Q9の大腿部及び背中に痣があることが確認された。
静岡市児童相談所は,同日,上記通告を受け,子ども虐待対応の手引き(平成19年1月23日付け雇児総発第0123003号厚生労働省雇用均等・児童家庭局総務課長通知。乙ろ2の10)及び静岡県中央児童相談所等作成の家族支援ガイドブック(乙ろ2の11)に基づき,上記アの会議に参加していた所員等による緊急受理会議を開催し,Q9に行うべき支援及び援助の内容を判断するための虐待処遇アセスメント指標(乙ろ2の6)で判定をしたところ,虐待の程度は,5段階の上から2番目(打撲,広範囲の軽外傷等)であり,調査格付は,生命を脅かす(又は高い可能性がある。)状態として,直ちに立入調査を行うこととなる「R-1」と判定された。また,静岡市児童相談所のQ15主任主事(ケースワーカー)等の所員3名が,本件小学校に立入調査をして,Q9の顔から足にかけて痣があることを確認し,Q9に聞き取りをしたところ,Q9は,原告らからは,Q9が時間を守らないという理由で毎日殴られること,原告Q2の方が多く殴ること,原告Q1からはおもちゃのバットでいろいろなところを殴られ,原告Q1から殴られた際に血が出たことがあることなどを述べた。静岡市児童相談所は,上記立入調査をした所員からの報告を受け,上記虐待処遇アセスメント指標及び所員の合議に基づき判定をしたところ,Q9の支援・援助格付は,直ちに一時保護が必要となる「AA」と判定された。
静岡市児童相談所長は,Q9に痣があり,Q9も原告らから殴られていることを認めたこと,本件小学校から,家庭訪問をした後も原告らからの虐待が継続していることが確認できたことに基づき,Q9を一時保護し(本件一時保護),その後に原告ら宅に架電し,原告らに対して本件一時保護をしたことを告げた。
Q9は,同日,静岡市立静岡病院のQ16医師の診断を受けたが,同医師作成の診断書には,「全身に打撲によると思われる皮下出血を認める」として,〔1〕両下眼瞼,〔2〕左顎部,〔3〕右肩甲骨上,〔4〕左大腿背側,〔5〕右下腿膝下部前面及び〔6〕両殿部について,「いずれも鈍器,または靴による打撲跡と考えられる」,「上記外傷について全治一週間と診断する」との記載がある。
静岡市児童相談所は,同日,静岡県中央児童相談所の一時保護施設にQ9の一時保護を委託した。
(甲11,乙ろ2の4ないし6・12,乙ろ15,16,乙は3の1・2,証人Q17,証人Q13)
(3)本件一時保護開始後の経緯
ア 原告らと静岡市児童相談所は,本件一時保護が開始された平成19年7月13日以降,電話等でやり取りをしたが,次のとおり,原告らは,Q9に対する体罰は虐待ではなく,親である原告らの意思を無視して本件一時保護を継続することは不当であるとの意見を繰り返し述べた。
原告Q1は,同月20日,静岡市児童相談所のQ15主任主事との電話で,虐待はしていない旨述べ,暴行が肯定されると考えているかとの質問に対して「ええ,肯定されますよ。当たり前じゃないですか」「一時的な感情だとかそんなことで虐待を繰り返してきているわけじゃないんだ」,「責任ある体罰っていうのだってあるんだ」などと述べ,静岡市児童相談所のQ18統括主幹との電話で,同月27日,「Q9をおたくらに任せますけど,やつが20歳ぐらいになったときにまともな,私らが考えているような大人になってなかったら,抹殺しますんで。おたくらも含めてよ。」,同月30日,「子どもがこう,おれらの考えてたとおりに教育できなくなったときに,おまえらどういう責任とる。とらなかったときは,おまえ,リンチしてもいいか」,同年8月1日,「根本からお前らの育て方とか教育論が間違ってるのに,何で間違ってる奴らと俺らが話し合わなきゃいけないんだよ。」などと述べた。また,原告Q2は,同年7月23日,Q18統括主幹との電話で,「私達は少なくとも体罰は体罰だって考えてるんですね。私の思う虐待と言うのは自分の憂さ晴らしですね。」,「体罰っていうのは暴力とは違う」などと述べた。
静岡市児童相談所のQ19主任主事(心理士)及びQ15主任主事は,同月20日から同年8月31日まで,一時保護施設を訪れてQ9と面談,行動観察,心理テスト等を行った。Q9は,同月8日以降の面接で,原告らと会いたくなく,施設から帰りたくない旨訴えた。Q19主任主事は,Q9について,同年9月20日開催の静岡市健康福祉審議会児童福祉専門分科会児童処遇審査部会に「現段階では,本児の家庭に対する拒否感が強く,両親と距離を置き,守られた環境下で,本児の話に耳を傾け,個別には母性的で受容的な対応が望まれる。」,「これまでの養育環境により本児の情緒面での成長が阻害されてきた結果が示されており,今後,両親の養育態度に改善が望めないようであれば,家庭との分離はやむを得ず,児童養護施設への入所が適当であると考える。」との心理診断の結果を提出した。同部会では,Q9の入所措置の承認を求める申立てを行うことに異議は出なかった。
静岡市児童相談所のQ20所長は,上記の原告らの発言,心理診断の結果及び上記部会の結果を踏まえ,原告らによる暴力が継続される可能性が高く,Q9も帰宅を拒否していることから,児童養護施設への入所が適当であるとして,同年9月25日,入所措置の承認を求める申立て(本件申立て)をした。
(甲11,14,乙ろ7の1ないし7)
イ 原告らは,同年9月28日,静岡市児童相談所を訪れ,Q20所長,Q17参事(平成20年4月1日に静岡市児童相談所長となった。以下「Q17」という。)等の所員と面談した。この面談の際,Q20所長らは,本件一時保護の経緯や,Q9については児童虐待防止法2条1号所定の暴行が行われたものと判断していると説明したが,原告らは,「体罰と虐待はこれ別物ですから」,「しつけの段階で,あざができるほどたたかなきゃいけなかった」などと述べてQ9の返還を求め,静岡市児童相談所はこれに応じなかった。
(甲9,10,乙ろ7の10)
ウ Q20所長ら及び原告Q1は,本件承認審判及び本件勧告がされた後である平成19年12月21日,静岡市児童相談所で面談した。原告Q1は,本件承認審判の「二度と虐待に該当するような体罰をさせない」という文言から,虐待に及ばない体罰については容認されたものと解釈している,体罰を主体にしない努力はするが,目的によっては必要なこともあるなどと述べたのに対し,Q20所長は,しつけ自体を否定するわけではないが,体罰を伴うしつけは子どもに心理的な影響があり好ましくない,本件勧告を受けて,静岡市児童相談所からの原告らに対する指導方法について年明けに提案する旨述べた。また,原告Q1が,原告らがQ9の通学している安西小学校に面会等を申入れることは問題となるか確認したのに対し,Q20所長は,今の状態だと問題となる旨述べた。
静岡市児童相談所は,平成20年1月頃,上記の提案として,Q9と原告らの家族再統合に向けた「ご両親への支援プログラム」(以下「支援プログラム」という。)を作成した。支援プログラムでは,〔1〕目標は,「Q9君が安心して生活できるような家庭づくり。」であり,〔2〕方法として,原告らが静岡市児童相談所を訪れ、概ね1か月に1回2時間程度を目安に面接を実施し,面接以外にも課題の提出をお願いすることがあること,〔3〕2月から3月頃にQ9の気持ちを確認し,写真やビデオレターなどを通した親子交流を始めること,〔4〕Q9が原告らに会いたいという気持ちを確認し,5月から6月に児童相談所内で原告らとQ9との面会を実施し,6月から7月初旬に親子での外出を実施すること,〔5〕面会・外出時の親子の様子,Q9からの外泊希望を確認し,児童相談所所員による家庭訪問を実施した後,7月初めに家庭への外泊を開始すること,〔6〕外泊が繰り返される中で,良好な親子関係が認められ,引取り後の支援のあり方について共通理解が得られれば,家庭引取りとなることが記載されている。
Q20所長ら及び原告Q1は,同年1月11日,静岡市児童相談所で面談した。静岡市児童相談所のQ21心理士が支援プログラムについて説明するなどしたところ,原告Q1は,支援プログラムは本件勧告を無視したものである,原告らは体罰をしているのであって虐待や暴力ではない,一時保護自体間違っている,おれは日常生活の中で普通にやっていく中で必要であれば絶対体罰は使う,まずはQ9を帰してもらいたいなどと述べた。そこで,Q20所長は,再度提案をする旨述べた。
Q20所長ら及び原告Q1は,同月24日,静岡市児童相談所で面談した。Q17が,本件勧告に基づいてQ9を帰宅させるためには,虐待に該当するような体罰はしないことが条件になる旨述べたところ,原告Q1は,裁判所は原告らが虐待をしていないと認めており,Q9をすぐに返してもらった上で静岡市児童相談所による指導を受けるというのが原告らとして譲歩案の全てである,静岡市児童相談所が原告らの意見を聞かずに一方的な主張をしているなどと述べた。
(甲9,10,乙ろ5の2,乙ろ7の11・12)
エ Q9は,平成19年12月31日,静岡ホームで転倒して頭を打ち,CT検査をしたが,脳に異常は認められず,頭部挫傷と診断された。
静岡市児童相談所は,原告らに対し,上記転倒事故を通知せず,原告らは,平成20年3月7日に静岡市個人情報保護条例に基づき開示を受けた文書により,上記転倒事故の発生を認識した。
(乙ろ1)
オ 原告Q2は,同年2月1日,静岡市児童相談所に対し,Q9の毎日の詳しい言動や様子を報告しない理由等の回答を求める質問状を送付した。また,原告らは,同月8日,静岡市児童相談所を訪れ,本件抗告棄却決定に対して特別抗告を申し立てた旨伝えるとともに,親権を行使するとして,Q9の毎日の一時保護施設及び小学校での言動を報告することを求めた。さらに,原告Q1は,一時保護期間の7か月でQ9の身長が2.4センチメートル,体重が1キログラムしか増えていないという理由で,Q9への精神安定剤等の投与を疑
「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。 」
日本国憲法第31条に明確に規定されているこの言葉は、いくらか人によって解釈が違う。例えば刑事罰に於いて犯罪者に対し口頭での罰や晒し刑などは当然存在せず、また誹謗中傷の類は生命或いは自由を奪うものではないとして、ネットリンチを正当化するものがいる。(ただし31条に関係なく名誉毀損罪として訴えられるケースは多々ある)不倫報道が出れば当たり前のようにネット中で罵詈雑言が書き込まれ、しかもそれが正義などと囃されたりする。
何度も人に言ってきたことだろうが、上記の通り法律の手続きなくして個人個人が他者を不当に罰することは法律上認められるものではないことを忘れている人間が少なからずいるようである。ネット私刑と言ってネット上での私刑行為を問題視する動きもあるが、時折それはネット上でのみ私刑が行われるというような、問題をある概念に閉じ込めてしまう不可思議なロジックを感じることがあるためここに明言しておきたい。ネット以外でも私刑というのは存在する。
姦通が行われて、復讐のために一方が他方を害するというのはときおり聞く話である。(弁護士局部切断事件((某大学の法科大学院に通う青年が、妻の浮気相手である男の局部を切断した事件))が一例)ただ、この場合は強姦されたと勘違いした男側の凶行だったそうだが、率直に言って、強姦であっても私刑が認められるということはありえない。強姦だから、大切な人を殺されたから、自分の尊厳を著しく傷つけられたから……感情的には理解できる理由だし、被害者の権利などを損なうつもりもなく、また加害者を守ろうという意志もない。ただ私刑がいけない。というより、これらは私刑でもなんでもなく明確な「犯罪」である。当然、それを行った人間は(さらにいえば、そこが正当な法治国家であるなら)他の犯罪者と同様に裁かれる。
ただし、裁判において情状酌量がないわけではない。例えば尊属殺重罰規定違憲判決(実父殺害事件((実父から恒常的に性交渉を迫られて、父との子供まで出産し夫婦同然の関係を強いられていた女性が父親を殺害した事件)))のさいには被疑者側の事情や心情などを斟酌して、合憲違憲の判断に関わらず、すべての裁判所が能う限り量刑を軽くする方針を示し、その過程において尊属殺の法令を見直し違憲に至ったという事例があるし、平たく言えば、裁判官だって鬼ではない。同じ犯罪であっても同情の余地がないものは重刑となるし、上記の通り減刑されることもあるだろう。
一体なにが言いたいかと言うと、被害者、あるいは被害者親族と加害者間に於ける私刑は、それが行われた時点で法律上明確な「犯罪」として認識され、刑法に則った判決が下されるということ、第二に、私刑という観点からのみ指摘できる事由ではないこと、第三に一般的にそれは個人と個人との事件であるということである。親族を殺されたものが復讐のために加害者を殺せば当然罪に問われるし、そのさい殺害に至った様々な問題(メディア・リンチ、経済的、精神的な救済の不十分)が見直される。さらに言い及ぶなら、すべての復讐殺人などをなくそうというのは極端に言ってすべての犯罪をなくそうと言うようなもので、私刑のような一義的観点から捉えられるものではないものの、明確な「悪行」として判断できる事由として扱える。
栃木実父殺害事件がどれだけ同情の余地があろうと無罪になることは決してない。あの京都認知症母殺害心中未遂事件でさえ、刑は執行されたのである。さきほど法律は鬼ではないと言ったが、だからといって温情に充ちているわけでもない。設けられた基準の範囲内で酌量するだけのことである。
ところが、第三者がアジテーションの如く私刑を推進したり、「この事例に於ける私刑はいいけど、この事例に於ける私刑はダメ!」などと何故か私刑を差別化しているような人間をままみる。全部駄目だ。
ネット以外でも私刑があるとは言ったものの、それが私みたいな一庶民にまで広がってくるツールはだいたいネットで、こんな日記を書き出したのも「不倫をしたやつにはこうしてやれ!」という攻撃的な文体とともに男性器(おそらく偽物と思われる)を女性がジャンプして踏みつけ続けるという奇天烈な動画を見てしまったからである。最初も私は「なんだ、過激なジョークだ」と笑っていたが、それに寄せられた一連のコメントを見ても冗談ごとではないようだった。しかも動画を投稿した人の(動画自体は拾い物らしいが……)発言が「女の方が男より二倍浮気をしやすい。だから、女が浮気したときは熱した金属を流し込め」などというもので、ひどく戦慄した。もちろん、こんなものは広いネットの世界におけるごくごく一部の一例にしか過ぎない。だからネット上、引いて現実でこのような復讐が認められているなどとは思わない。
けれども、どこかしら皆「悪人なら攻撃したっていいだろう」と思うところがあるかもしれない。しかし、それは間違いである。どんな理由があるにせよ悪行は悪行である。「あいつムカつくから攻撃してやろうぜ」というのと全く変わらない。いじめられる方が悪いなどと言って逃げる場合もあるが、いじめ自体が悪いということに変わりがない。どれほど正当化したところで絶対の誤りである。
世間は非常に大きなうねりを持った流動的な性質があるので、一個人の考え方だけが改まってもしようがない面がある。だからこそ線引が難しい。私刑を撲滅したいからと言って一人ひとりの言論や行動に政府や法律が過干渉すれば、それはディストピアである。ただ、逆説的に言及すると、ディストピアにせざるを得ないような民衆が力を持っているのも考えもので、人によっては、ある程度制限された世界のほうがずっと平和のように思うかもしれないのである。それはネットによって個人個人が情報発信能力を持つことで、なんの権力も地位ももたない一般人も、言動や論理性、道徳的な真偽など情報発信するものに必然の悩みを抱えなければならないからこそ、より切実に考えられるべき問題なのである。ネット私刑なんてものは、人々が出す機会もなかった攻撃性や偏狭な視点が顕在化した結果生まれる単語であり、その本質には一部の人間が私刑を……もっと悪質であれば、自分のストレスの発散のために他人を陥れることを良しとしていることにある。それに対抗するためには、その考えを持つ個人を糾弾するのではなく、その考え自体を批判しようという姿勢が大事だ。「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉には深い含蓄が込められており、この私刑問題を考えることによって再確認することができるだろう。
こういうことを聞いて少しは反省するもの、この考えに肯い「そうだそうだ」と声を上げるもの、犯罪者がいるなら石を投げるのが正義だと考えるもの、いろいろいるだろう。もしこの文章を見て少しは私刑を改めようと思ったとき、こういう風に考えてみてほしい。
「自分は知らず知らずのうち、こうした行為をやってしまってはいないか」と。
私もそうするようにしている。これは悪いんだなー、なんて悪いやつだ、と考える前に自省する。これがとても重要である。窃盗をしたものを馬鹿だと笑ってみても、よくよく思い出せば幼少期に、冗談ごとで済まされたとは言え窃盗じみた行為をしていたかも知れないし、いじめは良くないと憤る人が、いじめまがいの行為を無意識にしてしまっていたということもありうる。罪を犯さない人は理想的だが、そうそうそんな人は現れない。ぜひ、私刑を嫌う人も考えてみてほしい。「私刑を嫌った結果、私刑を行う人々に、また私刑じみた行為を働いてはいないだろうか」。殴る、蹴る、罵詈雑言を吐く、情報が消えづらいネットに個人情報を流す、ありもしない話をまことしやかに流布する……。こんなものはすべて私刑である。
余談だが不倫事件で話題になったベッキーと川谷絵音氏の事件で、ネット上に不倫が許せないあまり過剰な罵詈雑言が散見されることに苦言を呈していた増田へ、「不倫したいからそんなこと言うんだろう」とか「不倫しなきゃいいじゃん」とか、「人の性だから仕方ない」とかいうコメントがつけられていて驚いたことがある。きっとあの増田にとっても予想外のコメントだったと察されるが、それらのコメントを見てどのようなことを思ったのだろうか……。
「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。 」
日本国憲法第31条に明確に規定されているこの言葉は、いくらか人によって解釈が違う。例えば刑事罰に於いて犯罪者に対し口頭での罰や晒し刑などは当然存在せず、また誹謗中傷の類は生命或いは自由を奪うものではないとして、ネットリンチを正当化するものがいる。(ただし31条に関係なく名誉毀損罪として訴えられるケースは多々ある)不倫報道が出れば当たり前のようにネット中で罵詈雑言が書き込まれ、しかもそれが正義などと囃されたりする。
何度も人に言ってきたことだろうが、上記の通り法律の手続きなくして個人個人が他者を不当に罰することは法律上認められるものではないことを忘れている人間が少なからずいるようである。ネット私刑と言ってネット上での私刑行為を問題視する動きもあるが、時折それはネット上でのみ私刑が行われるというような、問題をある概念に閉じ込めてしまう不可思議なロジックを感じることがあるためここに明言しておきたい。ネット以外でも私刑というのは存在する。
姦通が行われて、復讐のために一方が他方を害するというのはときおり聞く話である。(弁護士局部切断事件((某大学の法科大学院に通う青年が、妻の浮気相手である男の局部を切断した事件))が一例)ただ、この場合は強姦されたと勘違いした男側の凶行だったそうだが、率直に言って、強姦であっても私刑が認められるということはありえない。強姦だから、大切な人を殺されたから、自分の尊厳を著しく傷つけられたから……感情的には理解できる理由だし、被害者の権利などを損なうつもりもなく、また加害者を守ろうという意志もない。ただ私刑がいけない。というより、これらは私刑でもなんでもなく明確な「犯罪」である。当然、それを行った人間は(さらにいえば、そこが正当な法治国家であるなら)他の犯罪者と同様に裁かれる。
ただし、裁判において情状酌量がないわけではない。例えば尊属殺重罰規定違憲判決(実父殺害事件((実父から恒常的に性交渉を迫られて、父との子供まで出産し夫婦同然の関係を強いられていた女性が父親を殺害した事件)))のさいには被疑者側の事情や心情などを斟酌して、合憲違憲の判断に関わらず、すべての裁判所が能う限り量刑を軽くする方針を示し、その過程において尊属殺の法令を見直し違憲に至ったという事例があるし、平たく言えば、裁判官だって鬼ではない。同じ犯罪であっても同情の余地がないものは重刑となるし、上記の通り減刑されることもあるだろう。
一体なにが言いたいかと言うと、被害者、あるいは被害者親族と加害者間に於ける私刑は、それが行われた時点で法律上明確な「犯罪」として認識され、刑法に則った判決が下されるということ、第二に、私刑という観点からのみ指摘できる事由ではないこと、第三に一般的にそれは個人と個人との事件であるということである。親族を殺されたものが復讐のために加害者を殺せば当然罪に問われるし、そのさい殺害に至った様々な問題(メディア・リンチ、経済的、精神的な救済の不十分)が見直される。さらに言い及ぶなら、すべての復讐殺人などをなくそうというのは極端に言ってすべての犯罪をなくそうと言うようなもので、私刑のような一義的観点から捉えられるものではないものの、明確な「悪行」として判断できる事由として扱える。
栃木実父殺害事件がどれだけ同情の余地があろうと無罪になることは決してない。あの京都認知症母殺害心中未遂事件でさえ、刑は執行されたのである。さきほど法律は鬼ではないと言ったが、だからといって温情に充ちているわけでもない。設けられた基準の範囲内で酌量するだけのことである。
ところが、第三者がアジテーションの如く私刑を推進したり、「この事例に於ける私刑はいいけど、この事例に於ける私刑はダメ!」などと何故か私刑を差別化しているような人間をままみる。全部駄目だ。
ネット以外でも私刑があるとは言ったものの、それが私みたいな一庶民にまで広がってくるツールはだいたいネットで、こんな日記を書き出したのも「不倫をしたやつにはこうしてやれ!」という攻撃的な文体とともに男性器(おそらく偽物と思われる)を女性がジャンプして踏みつけ続けるという奇天烈な動画を見てしまったからである。最初も私は「なんだ、過激なジョークだ」と笑っていたが、それに寄せられた一連のコメントを見ても冗談ごとではないようだった。しかも動画を投稿した人の(動画自体は拾い物らしいが……)発言が「女の方が男より二倍浮気をしやすい。だから、女が浮気したときは熱した金属を流し込め」などというもので、ひどく戦慄した。もちろん、こんなものは広いネットの世界におけるごくごく一部の一例にしか過ぎない。だからネット上、引いて現実でこのような復讐が認められているなどとは思わない。
けれども、どこかしら皆「悪人なら攻撃したっていいだろう」と思うところがあるかもしれない。しかし、それは間違いである。どんな理由があるにせよ悪行は悪行である。「あいつムカつくから攻撃してやろうぜ」というのと全く変わらない。いじめられる方が悪いなどと言って逃げる場合もあるが、いじめ自体が悪いということに変わりがない。どれほど正当化したところで絶対の誤りである。
世間は非常に大きなうねりを持った流動的な性質があるので、一個人の考え方だけが改まってもしようがない面がある。だからこそ線引が難しい。私刑を撲滅したいからと言って一人ひとりの言論や行動に政府や法律が過干渉すれば、それはディストピアである。ただ、逆説的に言及すると、ディストピアにせざるを得ないような民衆が力を持っているのも考えもので、人によっては、ある程度制限された世界のほうがずっと平和のように思うかもしれないのである。それはネットによって個人個人が情報発信能力を持つことで、なんの権力も地位ももたない一般人も、言動や論理性、道徳的な真偽など情報発信するものに必然の悩みを抱えなければならないからこそ、より切実に考えられるべき問題なのである。ネット私刑なんてものは、人々が出す機会もなかった攻撃性や偏狭な視点が顕在化した結果生まれる単語であり、その本質には一部の人間が私刑を……もっと悪質であれば、自分のストレスの発散のために他人を陥れることを良しとしていることにある。それに対抗するためには、その考えを持つ個人を糾弾するのではなく、その考え自体を批判しようという姿勢が大事だ。「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉には深い含蓄が込められており、この私刑問題を考えることによって再確認することができるだろう。
こういうことを聞いて少しは反省するもの、この考えに肯い「そうだそうだ」と声を上げるもの、犯罪者がいるなら石を投げるのが正義だと考えるもの、いろいろいるだろう。もしこの文章を見て少しは私刑を改めようと思ったとき、こういう風に考えてみてほしい。
「自分は知らず知らずのうち、こうした行為をやってしまってはいないか」と。
私もそうするようにしている。これは悪いんだなー、なんて悪いやつだ、と考える前に自省する。これがとても重要である。窃盗をしたものを馬鹿だと笑ってみても、よくよく思い出せば幼少期に、冗談ごとで済まされたとは言え窃盗じみた行為をしていたかも知れないし、いじめは良くないと憤る人が、いじめまがいの行為を無意識にしてしまっていたということもありうる。罪を犯さない人は理想的だが、そうそうそんな人は現れない。ぜひ、私刑を嫌う人も考えてみてほしい。「私刑を嫌った結果、私刑を行う人々に、また私刑じみた行為を働いてはいないだろうか」。殴る、蹴る、罵詈雑言を吐く、情報が消えづらいネットに個人情報を流す、ありもしない話をまことしやかに流布する……。こんなものはすべて私刑である。
余談だが不倫事件で話題になったベッキーと川谷絵音氏の事件で、ネット上に不倫が許せないあまり過剰な罵詈雑言が散見されることに苦言を呈していた増田へ、「不倫したいからそんなこと言うんだろう」とか「不倫しなきゃいいじゃん」とか、「人の性だから仕方ない」とかいうコメントがつけられていて驚いたことがある。きっとあの増田にとっても予想外のコメントだったと察されるが、それらのコメントを見てどのようなことを思ったのだろうか……。
何か別の事を考えたり思い出したりしてるんだと思う。
作品の展開を目の当たりにしながら、
同時に「この演出ってあの時の自分の体験と同じ感じがするな」とか。
或いは「ココで描かれる人間関係ってあの事件と同じだよな」とか。
作品を構造分解して、自分の記憶の中にある別の何かと突き合わせて、
そこから「自分独自の感想」みたいな物を導き出しているんだと思う。
そうでなければ、誰であろうと一義的で単調な感想になると思うよ。
その「分解」と「突き合わせ」のマッチングが絶妙なんだと思う。
なんというか「一見意外だけど言われてみると確かに納得できる」みたいな。
一律、一義的ではないということだね。
ヘイトツイート踏みつけパフォーマンスの件で、ブコメが9割くらい否定的だけど、なんかもにょるなー。
文字数少ないから、いちいちエクスキューズもしてられないんだろうけど、Twitter社がヘイトスピーチを放置している(アカウント凍結の基準が不鮮明で事実上野放し)のはたしかで、かつヘイトスピーチの定義も明確になってるし、
http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken04_00108.html
https://mainichi.jp/articles/20170206/k00/00e/040/213000c
それに該当するツイートが出されてて、その上で「それヘイト違うだろ」というツイートまで出てるのはたしかに問題だ。
だが、まず一義的に責められるべきなのは、ヘイトツイートを野放しにしているTwitter社で、サヨクだ、しばき隊だなんだと責めるのは、アンチ反差別になっているように見える。
もちろん「他者の言論を踏みつける」(というか、そもそもモノを踏みつける)というパフォーマンスが嫌悪感を示すのは理解できるし、それをドヤ顔でアップしたり、ヘイトではないようなのまで出してるのは問題で、そういった余計な論点を生み出した時点でこのパフォーマンスは失敗してるんだけど、日野ビンタ事件で「暴力は絶対悪!」といってたブクマカは、ヘイトスピーチという暴力より、踏みつけという暴力の方を問題視するのか。
基本的に特異な運命に巻き込まれて戦っている人のアイデンティティは
職業とは直結しなくて当然なのにどうして職業や身分所属をみんな気にするのかしらね。
555 オルフェノクなので法的には死人で人じゃなくなっているから普通の職業に就けないだろう。
電王 学校には行っていない様子だがまだ高校生の年齢で、店を親から継いだ姉と二人きり他に身寄りがないので姉の手伝いで働いている。
OOO 政治家家系の御曹司だが親に反発して家を飛び出した人間で金は一義的な問題ではない。最低限の金があれば困らない暮らしを心がけている(明日のパンツ)。
キバ ファンガイアとのハーフで生活の糧も含め人間界に紛れて暮らしていくための手立ては母親から与えられていた。
ゴースト 高校生で寺の跡継ぎだが最初に殺されてしまい、生き返るために戦っている。幽霊だから職業には就けないし生活のために働く必要もない。生き返ってもまだ学生だし。
http://anond.hatelabo.jp/20170613181216
「あのー私どもは、特区ーで、判断する場合に、その自治体からですね(咳払い)、そういう提案があって、その中身について判断して、最終的には事業者は公募で決まっていくわけであります。そのなかで、今治市から、そういう、必要な教員を確保しているというふうに聞いているわけでありまして、その点も含めてですね、その点も含めて、早期実現性があると判断したわけであります。」
「ほんとむちゃくちゃな答弁なんですけどね、じゃあ今治市が確保しているって説明したって言うんなら、一体どこで説明したんですか。私が見てるヒアリングではないですよ(レジュメには書いてあるけど議論はされてない)。確保しているっていう説明は。じゃあ確保しているっていう説明は何回もされていた協議の中で出てきたとしましょうや。それだったらね、どの事業者が確保してるんですかって聞くのが普通なんじゃないですか。違うんですか。」
「確保しているというのは、先ほど申しましたとおり、ワーキンググループに対する資料できちっと出ております。えーそれからワーキンググループ等の議論、えー議論等については、あーそれはあのー(オホン)、それぞれの専門家が(エホン)議論していただいているところでありまして、えー議事要旨等で明らかになっていると思います」(ワーキンググループはろくに議論してないんだって)
「じゃあその説明は、今治市が確保したということでよろしいんですか。」
「ありえないですよね。ありえないですよ。公立大学作る計画だったんですか。今治市が確保しているってありえないでしょ。」
「わたくしどもは、そういう提案を、その実際に聞くのは自治体から、そういう提案を聞いてくるのでありまして、その自治体がそういうふうに確保しているといっているわけであります。」
「そんなのでどうして実現性があるとわかるんですか。おかしいでしょう?今治市が、市立大学の教員を確保してるんですかそれじゃあ。そういう説明があったの?担当者どうなの?藤原審議官どうなの?」
「あの大臣が答弁されたとおりでして、私ども今治市を一義的にヒアリングしておりまして、今治市が事業者候補の方々とさまざまなご議論をされて、今治市の責任で、ご説明あるいは、資料を作られたと考えております。」
「じゃあ早期実現性があるということで、その事業者候補がどこで、どういう教員を確保するのかということを、聞いていたと、藤原さん、そういうことでいいんですね。」
藤原(こんな「加計ありきではない」から始まってる撤退戦をなぜ反対していたこの人がやらんといかんのだろうね)
「その段階で、どちらの事業者ということは当然、その法的なプロセスはございませんけども、今治市のほうで、さまざまな議論を、さまざまな事業者とされていたということだと思います」
「これもね。破綻してます。こんなので早期実現性なんていったら馬鹿にされますよ!一方は京都産業大学が、事業者としてわかっている、どういう教員が確保されるかわかっている、にもかかわらず早期実現性は今治市がある。どういう判断してるんだって言うことになりますよ。これとんでもないことになってますよほんとに。もう一問聞きたいんですが、あの私これ、つまりね、これ平成30年開学をゴールとして、加計学園ありきで、具体的な構想を今治市と何度も協議していた、その情報が内閣府の中でごちゃまぜになっちゃって、大臣の答弁作るときにね、思わず教員の確保まで書いちゃったんじゃないかと思わざるを得ないんですよ。何度も協議していた、本来1月4日以降、事業者公募してからしかわかりようの無いはずの、教員の確保を、早期実現性の根拠に挙げるような答弁書を、内閣府が作ったっていうこと、それ以外説明つかないと思うんですけど、加計学園ありきで協議して立ってことでしょ。そうでなきゃ説明つかないですよ。」
「これはあのーえーっとですね、今治市のワーキンググループのヒアリングをごらん頂くと、今治市から聞いているわけです。その中で、配布資料、添付されている資料の中で、必要な教員72名とはっきり書いてあるわけでして、我々は今治市からですね、ヒアリングをうけ、あのヒアリングをさせていただいたときに、今治市として、あの責任を持って出して、出していただいている、資料を私どもは受け取っているということであります。」
田村(笑いがこらえられない)
「あのーこれ、今治市は確保できないんです!何度も言いますけど、当たり前のことですけども、そんなので早期実現性を判断したと、ありえない答弁だと、虚偽の答弁をしているといわざるを得ません。(以下山本大臣と加計孝太郎氏の関係について)」
これ加計学園は公募するまで決まってないよ、っていいながら、加計学園の出してる情報を基に実現性を判断したっていっているって言う話ね。っていうか諮問会議に提出されてる資料の濃度が違いすぎるんだよね。
これ今治市の大学設置にかかる経済波及効果とかもこの週末読んでみたんだけど、出してるのはいよぎん地域経済研究センターっていう伊予銀行の子会社なんですけどね。
http://www.city.imabari.ehime.jp/kikaku/kokkasenryaku_tokku/siryo01.pdf?1
まず算出根拠が愛媛県の産業連関表なんだけど、一番波及効果が大きいとされている237億円の施設整備効果(それ以外の運営効果は22億円)を受注してるの岡山のアイサワ工業と大本組でしょ?もうその時点で愛媛県の産業連関表使ってるの意味不明だし、就業誘発者数とか直接効果は岡山にいくわけでしょ。今治の悲願なんだーとかいってるけど、結局バブル期に整備しちゃった高等教育用地にとにかく何でもいいから来てもらって、開発公社の赤字を市に転化したいっていう目論見なんだと思うと泣けてくるぐらい今治市民バカにされてるでしょ。いよぎんの取締役には、岡山理科大の学長、前愛媛大学学長の柳沢康信さんがいるし、アイサワ工業の親戚の逢沢一郎議員は、加計学園からの不正献金問題で揉めた過去もあるし、もうどこ見ても関係者だらけで笑えてくるんだけど。
どうもブコメを眺めていると、国家戦略特区制度が民主党時代にも存在して、加計学園の獣医学部を推進に切り替えたのは民主党政権時代だ、という認識の人がたくさんいるようです。最初、なぜ制度の見直しを民主党政権時代にやらなかったのかとか言ってるときは、わかってない人もいるんだな、という認識でしたが、どうもたくさんいるらしい。
アベガーギワクガーと言ってるはてサは、第一次安倍政権で特区を許可しなかった理由を思いついたら教えてくれ。ついでに玉木雄一郎の獣医師会からの献金も調べてくれると助かる。
ちょっと検索しても、「そもそも今治を教育特区にしたのは民主党」とか、「民主党政権時代に方針転換した」というような論説がたくさん見つかりました。どうやらその辺のブログでそう思い込んだ方々がたくさんおられるようです。前者は完全な事実誤認で、今治しまなみが教育関連で構造改革特区になったのは、平成18年度で、対象事業も小学校設置に係る校舎土地の自己所有規制の緩和なので、まったく獣医学部は関係ありません、これは余談。民主党政権時代の方針転換というのは、構造改革特区の提案に対する回答が、CからFになったということでいいのかと思うのですが、これはCは対応不可、Fが提案の実現に向けて提案内容を満たす措置の検討を行う、ということになっています。これについては後述。
都合の悪いことは民主党時代に決まったことにしたい人たちは簡単に時空を捻じ曲げるのですが、国家戦略特別区域法の成立は民主党政権時ではなく、第二次安倍政権の平成25年12月です。ですので、問題がある制度ならなんで民主党政権時代に廃止しなかったんだという主張も、第一次安倍政権にやらなかったのはなぜ、というのも当然もう時空が捻じ曲がってるので、ご確認どうぞ。それまでの加計学園の提案はすべて構造改革特区です。国家戦略特区の意思決定は、これまでの構造改革特区と違い、形式上総理の専決になっています。以下は平成25年10月の法案提出時の予算委員会質疑です。
「総理が、私が直接担当する場所、これが実は上側の、特区諮問会議、こう書いてあります、総理を長とすると書いてあります。ここで物事を決める。そのときに、関係大臣を入れる入れない、きょうも朝の新聞にちょっと一部出ていましたが、話がありますが、ここにあるように、もともと、関係大臣は必要なときに来てくれ、こういうことでやっていたんですね。
さらに、実はもっと大事なのは、三者統合本部とここに書いてあります。今は統合推進本部という名前で法律をつくられているようでありますけれども、この問題については、私ども自民党の中で議論したときには大議論になりました。
みんなが大変な批判をしたのは何かというと、この三者統合本部で、特区担当大臣と地方の代表、そして民間の規制改革を唱えている代表、この三者で物事を決めていくということになっていたにもかかわらず、ここに、総理は入れるわ、関係大臣、つまり抵抗大臣になるかわからない人を入れるという案だったんですね、最初。それで、我々の自民党の中での議論で、それはとんでもないということになったわけであります。
そこのところで私ども今非常に心配しているのは、そうはいいながら、この統合推進本部、下の方で、三者でやるところですが、そこにやはり担当大臣をお呼びになるのではないのかというふうに我々まだ懸念をしているわけでございまして、ぜひここは、関係大臣の話を聞くのは総理のおられる諮問会議で十分なわけですから、この下の統合本部は、まあせいぜい事務方に来てもらって、いろいろな議論をする、詰まった議論をする。その上で、ここはここで決めて、それを特区の諮問会議に上げて、そこで必要なときには総理が御判断されて、担当大臣を呼んで、関係大臣を交えて物事を決めるという形が私はあるべき姿ではないのかなということで、こういう意見が自民党の中でも多いわけであります。
この点について、総理の見解をお聞きしたい。これは、つまり、みずからドリルとなって、自分の場でやろうということで今つくりつつある国家戦略特区での法案でありますので、総理のかたい決意を聞かせていただければというふうに思います。」
「国家戦略特区ごとに設ける統合推進本部は、国家戦略特区担当大臣そして関係地方公共団体の長及び民間事業者の三者により組織する方向で検討しております。
御懸念の関係大臣についてでありますが、ちなみに、安倍内閣には抵抗大臣というものは存在をしないということは申し上げておきたいと思いますが、この関係大臣については、三者の協議により、具体的な事業の推進等のため、必要な場合には協議への参加を認めます。当然これは、見識、専門的な知識を有する所掌する大臣が入って、その所掌する立場から意見を開陳することは必要だろうと思います。そうした議論をするのは、これは妨げないわけであります。むしろそれは必要なんだろうと思いますが、意見を述べる機会を与えることとしますが、大切なのは意思決定でありまして、この意思決定には加えない方向で検討をしております。
これが国家戦略特区の特徴。要は、ごちゃごちゃ反対する省庁の代弁者になるような大臣は意思決定プロセスから外す、とこう宣言されている通り、国家戦略特区は総理の意思で進むものですので、当然、最終的な説明責任は総理にあるわけです。これに対して、構造改革特区の意思決定プロセスはどうなっているかをみます。
私個人としては構造改革特区が特段優れた制度だと思っているわけではないのですが、いちおう構造改革特区の制度の概要を考えますと、これは小泉政権時代に導入されたもので、ヒントは中国の経済特区ということですが、沿革はまぁどうでもいいでしょう。
構造改革特区では、まず地方自治体が、民間実施主体などと連携するなりして、構造改革特区計画を策定し、それを内閣総理大臣が認定する、というプロセスですが、構造改革特別区域法の第4条において、関係省庁の長の同意が必要とされています。つまり総理1人の意志では決められず、関係省庁の長、つまり大臣が同意しなくてはなりません。また同意しない場合には、その理由を回答することになっています。加計学園の提案が当初Cだったことに対する文科省の意見は以下のようなものです。獣医師の要請は、国全体での需給をもって考えるべきであること、さらに、地域偏在に対して、獣医学部の有無があまり関係していないこと(獣医学部があれば産業獣医師不足になっていないかというとそうではない)、四国の獣医師への意識調査で、四国で教育を受けても四国に定着しないと思う、という意見が最多であること、他の県では、産業獣医師、公務員獣医師の待遇改善などで、受験者の増加や早期退職の減少がみられたことなどから、現状で行える対策をまずとってみては、という指摘です。この最後のところが基本線だと思うんですが、なぜ産業獣医師の不足に対して、待遇改善という話にならないのかはなはだ不思議です。駒崎さんが保育氏の待遇改善を求めているのは承知しているのでだまってましたが、保育士だっていっしょで有資格者の多くが働いてないみたいな現状があるときに、はたして試験回数を増やす、という対策がどの程度有効なんだい?とは思わざるを得ないのですが。話がそれました。
それから文科省の回答が民主党政権時代の平成22年にCからFに変わりました。この理由は、一義的には口蹄疫の流行があったからです。口蹄疫の流行を受けて、平成22年6月18日に「新成長戦略」が閣議決定されていますが、その中で、感染症対策に取り組むライフサイエンス分野の充実がうたわれているため、「提案内容を満たす措置を検討」する、ということになっているのです。これが菅官房長官が前政権で閣議決定された、といったことです。このFになったあと、今治市側から、「獣医師の育成という文言は新成長戦略には出てこないけど、具体的にはどういう内容なのか」と再度聞いているように、別に獣医学部の新設が閣議決定されたわけではありません。
なぜ野党議員が利害関係者とされているのかがわかりませんが、彼らが獣医師会らの献金+要請によって獣医学部の新設に反対したり、あるいは地元からの要請によって、新設に賛成したり、それは当然いろいろあるでしょう。利害関係者の代弁者という側面は国会議員にはあります。利益相反の申請が必要とされる事例でも明らかなように、利害関係者は一切関わるな、ということではなく、利害関係にある人だということを明らかにしておくことで、説明を求めることになるというものです。福島のぶゆき議員が言っていましたが、逆差別があったとすれば、それも当然問題です。ですから意思決定の過程がわかる資料を早急に法令にのっとって公開していただければと、考えているところです。
ちなみに玉木議員が日本獣医師政治連盟から100万円の寄付を受けていた、ということですが、それで玉木議員は、獣医学部の新設に対して、影響力を行使できる立場だったのでしょうか。また高井議員も同様ですが、彼は獣医学部の新設の推進ができる立場だったのでしょうか。とうぜん、野党の一議員に過ぎない彼らもまったくの無力ではないでしょうが、日本獣医師政治連盟から50万円の献金を受けている獣医師問題議員連盟の鬼木誠議員、30万円の献金を受けている下村博文当時の文部科学大臣、100万円の献金を受けている林芳正当時の農林水産大臣、50万円+18万円の派閥のパーティ券とセミナー参加料を買ってもらってる麻生太郎財務大臣らと比べてどれだけの影響力があったのでしょうね、という不毛な話になるので、およしになったほうがよろしいかと。要は誰がどのように、空白地域縛りや平成30年4月開校縛りをいれてきたのか、という経過がわかる資料を、ちゃんと提出していただければ、野党は即座にだまりますよ。
追記
小池晃議員の質疑よかったですね。文科省の意見に対応した、原案の段階では、やはり「空白地に限る」文言はなかったんですね。真偽不明のものには答えない、としか言えない状態でしたが、誰がこの文言を入れることを決めたのか、大事な問題で、違法性の話じゃないらしいので、どうぞ正々堂々と是非是非本物の方を提出していただければ、疑いが晴れるのではないでしょうか。だいたい今日の読売で前次官とされる告発者も腹が決まってるだろうし、名前を出して公開してくるんじゃないですかね。