はてなキーワード: 加害行為とは
なぜはてなブックマークが陰険なネットリンチ殺人コミュニティへと成長したのか
これははてなが検索、エゴサーチをする場としてはマイナーだからです
twitter検索や5chやYoutubeのように、当事者やファンがたどり着く場所ではないからです
はてなホットエントリのトップページから検索欄を使う行為は世間ではメジャーではありません
嘘や間違った情報、誹謗中傷、妄想で増幅する憎悪が書かれても当事者の目に入りにくいサービスなのです
はてブユーザーはその恩恵を十分に受けており、ある種のネットリンチ特権を持っています
はてブの新規ユーザーは細切れでいるでしょうが、ほとんどがホットエントリに付いたはてブに異常性を見出し、ここは自分がいる場所ではないと帰っていくことでしょう
ですから、はてブユーザーは必然とネットウォッチ気質で、専門家でないのに知ったかぶりで、安全圏から無責任で、スノッブで、人気コメント欄一覧にシンパシーを抱く逸材が集まるのです
これに見かねた私は一時期、はてブで言及された当事者にtwitterではてブの書き込みを教える活動をしようかとも考えましたが
こんな悪口があるよと本人に伝えるのも加害行為なのではと思いやめときました
この記事はHagexさんの命日であることを思い出し書きました
多くのはてブユーザーとはてな社はHagex事件で少し萎縮はしたけど反省は全くしてないことがわかったこの4年だったので
はてブは今後も安泰でしょう
参考記事
結構前になるが以前、おぎの議員が出会い目的で趣味に入ってくる事に対する苦言をツイートしていた件からあることを思い出した。大学生の頃のことだ。
一部の女性からの非モテ男性=「ストーカーになりそう」「性的加害しそう」というイメージを持っている人がいる。
多くの非モテ男性は加害欲求など持たないどちらかというと引っ込み思案でおとなしい人が多いとこれまで会ってきた人たちから実感してる。
私も10代の頃に恋愛するチャンスに恵まれないどころか同種のバッシングを女子やその彼氏たちから受けてきたから実感としても分かる。
知人友人の非モテにカテゴライズされる男性たちもどちらかというと優しい人間が多い。
だが、その中に稀に迷惑な非モテ男性の存在があり、白饅頭が言うところの透明化されて存在を認識されない大多数の非モテ男性に変わってそのような迷惑な非モテ男性が強制的に女性の認知に入ってくることによって悪いイメージを持ち他の非モテ男性が色眼鏡で見られる被害が起こっているのではないかと思っている。
私が体験した例について書くと、私は地方の文系大学出身の男。書くのは他学部の1学年下の男子学生についての話だ。
彼はこれから書く事によってよく見かけるようになったんだが、会話を数回したことある程度で名前も覚えていない顔見知り程度の間柄。
彼とは大学生協の新入生オリエンテーションを手伝った際に自分が担当したことで知り合った。
当時、サークルでの悩みがあり私は大学が設けているカウンセラーが常駐している相談室という場所に通っていたんだ。
そこは訪れる学生同士が交流しやすいように待合室が談話室のようになっていて、そこでその彼とも時々顔を合わすことがあった。
多少、引っ込み思案な性格なのかな?という印象を受ける青年で最初は特に印象に残っていなかったが、回数が少ないながら何回か会っているうちに会話の最中に他の人が喋っている時に小さな声で俯きながら「彼女欲しい」と何度も呟いたり女性芸能人の写真を携帯に表示してニヤニヤしているところを見てちょっと関わりたくないなと思うようになった。
当時、私は演劇研究会に入っていて年3回の公演があるため、稽古期間中は授業やバイト以外の時間はほとんど部室棟の閉館時間まで部室や稽古で使用する部屋で過ごしていた。
しばらくたって部室棟で彼を見かけるようになったが、どうやら国際問題について勉強するサークルに入ったようだった。
その頃には彼とは会話をすることはなくなっていたので、興味がないし自分の活動で忙しいこともありそれ以外の様子は知らないままでいた。
私の通っていた大学ではキャンパス全体を使った文化系サークルの合同発表会のような行事があるんだが、私の所属していた演劇研究会はその行事で年度最初の公演を行うため観客の呼び込みや各ステージの準備などを行っていた。
隣の教室は例の彼のいるサークルで研究発表の展示を行っていた。
受付で作業をしていると突然そこから大きな物音がした。何か起きたのかと様子を見に行くと例の彼がパネルを倒し、壁や備品を蹴るなど暴れていた。
その場にいたのが女子が多かったので助けを求められ、柔道経験者の先輩が止めに入り私が守衛を呼びに行った。
彼は暴れながら「なんで彼女できないんだよ!?」「いっぱい女子がいるのにおかしい!」など言っていて、その場にいた隣のサークルの女子が単に暴れている事以上のものに怯えている様子だったのでその段階で何があったのかはなんとなく想像がついた。
その後、対応は守衛さんに任せて私のサークルは無事にその日予定していた2ステージの公演を終えることができた。
行事が終わってから隣のサークルのメンバーに聞くと彼はディスカッションや資料集めなどの活動中にも会話に入らず女子をジロジロ見たり、小声で「彼女欲しい」と呟いたりでかなりサークル内で疎まれていたそうだ。
その後、彼は研究発表を破壊行動によりできなくしたことによりサークルを辞めさせられたとのこと。。
ここで話が終わりになるとよかったんだが、今度は私が関わり合いになるできごとがあった。
当時、私は同じ学部の2学年下の後輩の女子と付き合っていた。2講目の講義で同じものを受講できるものは一緒に受講して昼休みを一緒に過ごすようにしていた。
学内の休憩スペースで一緒に生協の弁当を買って食べたりしていたのだが、ある日、例の彼が私達が一緒に過ごしているのを目撃した。
それから私か彼女をつけているのか私達の近くに座ってニヤニヤ私達を見るということを毎日のようにするようになった。
彼女はそれを怖がっていてその場を離れたり、講義後にお互いのアパートでお昼を食べるようにしたりと行動パターンを変えた。
他にも私の学部は女子が多いんだが、クラスメイトや同じゼミのメンバーと行動するときは女子のグループに私一人もしくはもう一人男子が混ざっている状態になることが多々あった。次の授業が一緒で一緒に移動したりすることがあるからだ。
その際にうしろから例の彼がニヤニヤしながら着いてくるということが何度かあり、他のクラスメイトたちは気づいていないものの私はかなり不快に思った。
その時は私と部長の二人だったので、二人で対応したがとりあえず暴れられても困るため「話を聞いて検討してからにしてほしい」と前置きしてサークルの説明をした。
彼は活動の説明は上の空できちんと聞いていないようで「女の子は何人いますか?」「カップルはいるんですか?」などという質問をしてきた。
正直、演劇が好きだったり、入部当初は演劇そのものに詳しくなくても創作活動をしたいというモチベーションで集まっている団体だったため興味がない人に来られても困ると思ったため、「次の公演が翌月あるのでそれを見てから検討してください」とお茶を濁して帰ってもらった。
部長は発表会で暴れた所にはいなかったが、見学者リストに書いた名前を見て名前を知っているとのことだった。
彼はあちこちの文化系サークルに見学にきては同じような質問をして活動内容の説明にはあからさまに興味がないという態度を取るというのを繰り返しているらしく、サークルの代表者のMTGで注意すべき人物と名前が共有されているとのことだった。そのMTGは彼が来た前日のことだったらしい。
サークル見学だけではなく部室棟に出入りしている女子へのつきまといなどもあったそう。
その日、サークルの活動を終えてアパートに帰る途中に待ち伏せされてキャンパス内で一人になった時に絡まれた。
「何人もいるんなら一人ぐらい女をよこせ」といった旨の事を喚いた挙げ句、暴れだしたため走って逃げて守衛室に助けを求めた。
その後、学生課にクレームを入れて少なくとも私のいる場所には現れなくなり、彼を見ることはなくなった。
これは私が経験した内容だが、他にも彼と似たような行動をする男が2,3人確認されているとクラスメイトから聞いたことがある。
彼のような男との同一視による抑圧によって非モテ男性がやってもいない加害行為で嫌悪や憎悪をぶつけられるのならば大変不幸なことだと思う。
実際に非モテについて話をしている場ではこのような同一視を見かける。Twitterはもちろん、頻度こそ少ないが実生活でも。
非モテ問題に対してよく言われることとして、見た目を整える、自信を持った態度を取るなどのソリューションを白饅頭氏は書いたりしてるがそれは効果があるとは思ってる。
だが、それらの行動を取ることすら許さないほどの抑圧をこのような同一視から受ける事も私も高校までで経験してきたし、見てきたこともある。
このような少数の問題のある人間のイメージがある属性全体に当てはめられてそこからの蔑視が行われる件について考える必要があるのかなとTwitterの男女論に思うことがある。
同種の状況に困っている男性は大変多いと思う。
最後に出会い目的にある趣味や活動に入ってくることだが、私自体はあまり肯定的に見れない部分はあるものの否定はしていない。
その人がその場に敬意を持ってその趣味や活動を好きになって仲間になってくれるのであれば歓迎してるくらいだ。
私が話に出した彼のようにその場にいる異性にしか興味を持たず場を荒らすのであれば来てほしくないので、リスペクトや仲間になれるかで歓迎するかどうかが決まるという事じゃないかと思う。
ただ、非モテ男性は自身のない人が多いため、なにか夢中になれる趣味を見つけそこから自信を身に着けて自己を肯定する力をつけるのはとても良いことだと思っている。
私も非モテだあることを悩んでいた頃は異性からの嫌悪をぶつけられたが、大学で演劇や学業にのめりこんでそこから自信を得てから周囲からの見られ方も変わって、デートしてくれる女性やその中から恋人になってくれる女性も現れるようになった。
男性は同性がうっすら嫌いとすもも氏が言っていて理解できる部分もある。しかし、同じ立場から苦境の外へ導く力があるのもまた同性だと思うので個人的には仲間という関係を他者と築ける状況が必要かなと思っている。
あくまでこれは私の経験からの実感なので、もしよろしければこの経験がマクロな視点からも観測可能なものなのかは興味があるが悲しいかな知識不足で分からないというのが現状だ。
私にとっても、自身の身の危険と一歩間違えれば彼と同一視されていた可能性があるという両面から恐ろしかった経験だったため、誰かに話してみたいと思って書いてみた次第だ。
資本主義経済における商品購買行為は基本的に択一選択の形式を取るからして、個々人の購買というのは不買の裏返しである。
たとえば「明治おいしい牛乳」を買う=「森永のおいしい牛乳」を買わない、ということだ。
このとき購買者は森永社員の雇用安定に対する責任を負うか? 負うわけがない。そもそも商品選択の理由を説明する責任からして無い。
あたりまえだよな。購買者は個々人の自由意思で商品を選択し、選択理由は内心の自由の範疇だ。
しかし不買運動はそうではない。運動は怒りによってしか起こらない。義憤と言ってもいい。
まず明治なり森永なりに対する怒りがあって、その憤怒の発散行為として企業を処罰するために声を上げ、不買運動を扇動する。
これは目的が怒りの発散であり処罰だから、たいして責任のない社員の給料が下がるのは、よくて已むを得ない犠牲だし、たいていの場合はメシウマである。
不買運動を扇動する連中は悪徳企業における善意の従業員に対して責任を負うか?
道義的には負うだろうが、それ以前にまず不買運動という営業妨害なり名誉棄損なり風説の流布なりといった具体的加害行為の責任を考えるのが先だろう。
現在ネット上で私に対する告訴をちらつかせている人物は、その人物の元・妻であると私が称したと主張している。しかし、文章の修正の前も後も、私はそんなことは一言も書いていない。その点に関してだけは明確にしておく。
2022/05/30告訴をちらつかせている人物がいるが、私はその人物の元・妻ではない。繰り返しになるが、最初から私はそのように称していない。本来ならば、セクシャルハラスメントの被害者として、特定されたり好奇の目に晒されるような二次的被害を防ぐために個人情報を曖昧にして書いた。それなのに、告訴をちらつかせている人物からは「自分の元・妻ではないから、このセクシャルハラスメントの被害の話は虚偽」と言われ、私は非常に苦痛を強いられている。痴漢冤罪をピックアップすることで痴漢の被害者の声を掻き消そうとする人たちがいるが、それと同じことをセクシャルハラスメントの被害者に対して行っていると、告訴をちらつかせている人物には自覚して欲しい。
以下の話は、フィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。
ーSLAPP訴訟を準備している人に対する注釈ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最初に発表した時点では無かった「実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。」という一文を、上のとおり書き加えることにした。後に続く部分でも同じ書き加えをした。この、たったの一文を挿入することが、私には耐え難い苦痛だった。私自身のハラスメント被害を無かったことと、皆の前で宣言しろと言われているような気持ちになったからだ。私は今、トイレに行って嘔吐してから、この部分を記している。結局、あの頃と同じく今の私も、保身のために自分の主張を引っ込めたことになる。
ーSLAPP訴訟を準備している人への注釈・終わりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
元・夫が、ある場所で「離婚したとはいえ、元・妻が傷つけられるのは許せない。何らかの対応を検討する」と言っていることを知った。この元・妻というのは、何を隠そう私のことだ。はてな匿名ダイアリーに書いているのだから、隠すも正体を明かすもないが。
「傷つけられる」と元・配偶者が言っているのは、かつて私がある人物から受けたセクハラについての情報が広まって、私が心無い言葉を浴びたり、中傷される状態を指しているようだ。
今になって「元・妻が傷つけられるのは許せない」と言い出すぐらいなら、何故あの頃、言ってくれなかったのか。そう思って、元・配偶者ながら、というか元・配偶者だからこそ余計に、私はゲンナリしている。
私にセクハラをした加害者は、元・夫の仕事上で付き合いがあり、仕事以外のプライベートな時間や場でも私たちと交流が有った、私たちよりも年長の男である。
加害者は、私にセクハラしただけでなく、そのことを仕事仲間などに自ら話したりもしていた。懺悔としてではない。愉快な話としてである。つまり、セクハラをされた時にだけでなく、その後にも継続的に、私は傷つけられ続けている状態に置かれていた。
セクハラされた時、私は「そういうことは止めて下さい」と加害者に対して言ったのだが、私の憤りや恐れや嫌悪の感情をまるで理解しようともせず、軽い口調で「ゴメンゴメン」みたいな感じで誤魔化されただけだった。今でも「もっと強い口調で言えば良かったのでは?」「いっそ殴ったり蹴ったり物を投げつければ良かったのでは?」「何故あの時、もっと適切な反撃ができなかったのだろう」と、自分自身に対して不甲斐無さを覚えて、自己嫌悪に陥ることが度々ある。
さらに私が苦しむ原因になったのは、その頃は婚姻関係にあった現在の元・夫が、私の側に立ってくれなかったことだ。
加害者から私がセクハラを受けたこと、それに対して私は憤りや恐れや嫌悪を感じたこと、加害者へは私に対する謝罪をするように要求して欲しいことを、その頃は夫であった彼に訴えた。それに対する彼の反応は「あの人も悪気があった訳ではない」とか「あの人は昔気質の人だから」とか「あの人は冗談のつもりだったのだから、怒るのも大人げない」とか、概ねそういった言葉だった。漫画『寄生獣』でパラサイトと会話する主人公・新一が、昆虫か何かと話している気分に陥る描写があったが、私も新一と同じような気分だった。つまり元・夫は、加害者の側の人間だった。だったという過去形ではなく、であるという現在形で言うべきだろうか。
会社勤めとか役所勤めの仕事などであればその組織に訴え出て処分を要望するとか、金銭や知識を持っていれば弁護士などに相談するとか、何かしら対処の仕方があったかもしれないが、私は上手いやり方を思いついたり実行したりすることは出来ず、そうこうしているうちに私たちは、元・夫と元・妻という関係になった。
あの頃、彼は「馬鹿馬鹿しい話だ」と言った。近頃の彼は「これまでは馬鹿馬鹿しい話だから取り合わずに放置していたが、いい加減、噂を広められて元・妻が傷つけられるのは許せない」と言っているようだ。私にとっては、あの頃も現在も、少しも馬鹿馬鹿しい話ではなかったのに。
私の元・夫が「馬鹿馬鹿しい話」として放置できなくなったのは、決して私が苦しんでいることが理由ではないことを、私は知っている。元・夫が黙っていられなくなったのは、加害者の男が批判されているからである。元・夫は、あの男のことが大好きなのだ。
最近では、何処の業界や職場でも大なり小なり、セクハラは良くないことであり、するべきではないし、セクハラをする人がいれば止めたり批判するべきであるという意識が浸透し始めた。私にセクハラをしたことを愉快な話として吹聴していた加害者の男と、私を救ってはくれなかった元・夫が関係している仕事の世界にも、少しは変化があった様子で、私に対するセクハラの話を愉快な話とは受け止めてはもらえなくなったと聞いている。
このため、加害者の男は「大袈裟に話して誤解を招いた」と言うようになったらしい。大袈裟?誤解?私にしたことを、そのまま本人が言い触らして回っていたのに、いったい何が大袈裟で何が誤解なのだろうか。
元・夫は、誰に対して、どんな対応をするつもりなのだろうか。私がされたセクハラの話を誰よりも他人に広めたのは、ほかならぬ加害者本人なのに。元・夫は、加害者を批判したり止めたりしてくれなかったのに。まさか、加害者を批判する人たちに対して「元・妻が傷つくから許せない。セクハラについて語るのを止めろ」と言うつもりなのだろうか。仮にそうだとしたら、それを何故あの頃、加害者に対して言わなかったのだろうか。元・妻である私を救おうとしなかったことが知れ渡ると、元・夫としては困るのだろうか。
セクハラの被害者が、セクハラの加害者に対する批判を食い止めるために、よりによって元・配偶者から利用されるという救いの無い境遇を知ってもらうために、理解してもらうために、自分の気持ちを吐き出すために、はてな匿名ダイアリーに書いた。
以上の話はフィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。最初に書いた時には、ここに「どっとはらい」という言葉を記したが、それは、めでたしめでたしという意味らしいので、この先の未来の私に少しでも幸いが有ればと願いを込めていたからだ。しかし今は、私は少しも救われなさそうだと理解したので、その言葉を消すことにする。
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このフィクションの日記に書かれた人間関係が、具体的に誰のことを指すのかに関して、はてブで推察と特定が試みられている。それに対する答えのようなものを記しておく。
以下もまた、フィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。
私は、人物特定に関する推察を肯定、否定のいずれもするつもりは無い。答えは無い。それが答えである。実在の人物・団体・事件には一切関わりはない。
そもそも特定が可能ならば、匿名ダイアリーに書いたりする必要は無く、私も現実の世界で対処しているはずだからだ。
一次的なセクハラが反復的に行われていれば、それを例えばボイスレコーダーで録音するなどして証拠を固めて私も反撃できただろうと思う。しかし、一次的なセクハラが突発的・単発的なものであった場合、被害者は驚きやパニックなど心理的な硬直状態に陥って、証拠固めなど実行できずに終わることが多い。たとえ複数回、継続的に行われるセクハラであっても、被害者が恐怖心で萎縮するなどして理性的に思考するのが困難な状態に陥り、やはり証拠固めをできないことは珍しくない。
私に対するセクハラを愉快な話として加害者が吹聴していたという、二次的な加害行為に関しては、その話を聞かされた人たちの記憶にも残っている。しかし、一次的な加害行為そのものに関する証拠が残されていない状態では、加害者が今になって主張する「大袈裟に話していただけで、事実ではない」という言葉を覆すのは、極めて困難だ。
二次的な加害行為だけに関して言えば、それ自体がセクハラなので、その被害を司法機関などに訴え出ることは理論的には可能かもしれない。しかし、それを仮に私が実行したとしても、やはり加害者は「大袈裟に話していただけで、事実ではない。しかし、たとえ事実ではなかったとしても、愉快な話として触れ回ったことは被害者を傷つけた。だから、そのこと(二次的な加害)については謝罪する」といった、一見すると謝罪に見えるが、肝心の一次的なセクハラ行為については否定する言葉を述べるという手法をとるだけであろう。
私が、何よりも加害者に認めて謝罪して欲しいのは、一次的なセクハラ行為についてなのだ。それなのに、加害者にとっての都合が良い主張を、それを覆す手段も持たないままに聞かされて、挙句の果てには「一次的なセクハラ行為については、認定が困難である」と公的に結論づけられるかもしれない。そう考えると私は、とても精神的に耐えられない。もっと悪い方向に想像を巡らせ、加害者が「むしろ自分の方こそ、セクハラしたと誤った情報を流されて苦しんだ被害者の立場だ」と、SLAPP訴訟などで私を攻撃してくるかもしれないとも思って恐怖すら覚えた。元・配偶者ですら助けにならなかったという、孤立感も私を動けなくした。
こうして私は、自分が受けた一次的なセクハラの被害を決して忘れたわけではないのに、無力感や恐怖感から口を閉ざすことを選ばざるを得なかった。私が口を閉ざしているから、どうせ何もできないと高を括って「大袈裟に話していただけ」と言い張ることで、加害者は乗り切ることにしたのだろう。元・配偶者から「セクハラと思われるようなことは無かったよね?」と誘導され、無力感や孤立感から沈黙することを選んだので、加害者が私のことを何もできない人間と値踏みしたのも無理はない。
加害者の男は、私に対するセクハラを無かったことだと言っている。つまり、私に対して行ったセクハラの話は、加害者の男にとってはフィクションというわけだ。私を登場人物にして作り上げた、馬鹿馬鹿しいフィクションだ。
ならば、と私も考えた。
私が私自身にとってのフィクションを作ったとしても、特に問題は無かろう。今度は私のターンなのだから、私の周囲の人物を登場人物として、馬鹿馬鹿しいフィクションを書いたというだけのことだ。柳美里の作品とは異なり、人物特定もできないように最低限の配慮もしてある。人物の特定ができないということは、私の受けたセクハラは日本の社会でありふれた話なのだ。それに、加害者とは異なり、私は私のフィクションを現実の周囲の人たちに言い触らしたりなどしていないのだから、私の配慮に少しは感謝してもらってもいいぐらいだ。
世の中のセクハラ加害者たちは、私たちのような被害者たちが沈黙しているからといって、セクハラした過去を全く無かったことにできるなどとは思わない方がいい。京極夏彦の『姑獲鳥の夏』の中で、法的に罪に問えない人物に対して京極堂が呪いを掛ける描写があったが、このフィクションも呪いとして書いたようなものだ。呪いが在るのか無いのか私には分からないが。
以上もまた、フィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。一つ目の追記を書いた時には、ここに「とっぴんぱらりのぷう」という言葉を記したが、それは、めでたしめでたしという意味らしいので、この先の未来の私に少しでも幸いが有ればと願いを込めていたからだ。しかし今は、私は少しも救われなさそうだと理解したので、その言葉を消すことにする。
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私は、自分が誰なのかも、文中に書いた登場人物が誰なのかも書いてはいない。私は誰それの元・妻ですとも書いてはいない。
では何故、私はフィクションと銘打って、人物を特定しない書き方をしたのか。それは、これが「普遍的な物語」だからだ。被害者となる人間、なった人間は、私だけではなく誰でもあり得るし、加害者もまた同じく誰でもあり得る。被害者の側に立たないで、加害者の側に立つことを選択する第三者も、同じく誰でもあり得る。だからこそ、読み手に「これは自分のことを書いているのでは」と自問自答して欲しくて、自省を促すために、そういう書き方をしたのだ。そういう意味でならば、読み手に「自分のこと」という思いを抱かせる狙いが有った。想像力がある読み手ならば、性別を入れ替えたりセクハラをパワハラに置き換えたりして、考えを深めてくれることだろうと淡い希望も抱いていた。
しかし、それを「これは自分のことを書いているに違いない。だから自分に対する名誉毀損だ」と決めつけられて、法的な措置をちらつかせることで圧殺しようとする人間が出てくるとまでは思いもよらなかった。それはまるで『ホテル・ルワンダ』の公開に対して「これは関東大震災の朝鮮人虐殺を描いていて、日本人を攻撃している。日本人に対する名誉毀損だ」と言うようなものではないか。
自分のことではないならば「この文章に書かれた人間の同類にならないように、自分は気をつけよう」と省みれば済むことではないか。
私が「ある人物の妻ではない」ことによって、何故「私がセクハラを受けた話」まで無かったことにされねばならないのか。ルワンダの虐殺被害者でなければ、虐殺の被害者ではないと言うつもりなのか。自分たち以外に、この社会を構成している人間が存在しないとでも思っているのか。
仮に、ある痴漢事件で冤罪により罪を問われている人間がいたとしても、それとは別の痴漢事件の被害者に対してまで、被害を訴えたり加害者を批判したとしていることを「これは冤罪で苦しんでいる自分のことを書いているに違いない」と決めつけて「痴漢の冤罪を作るのは止めろ」と言うのは、いくらなんでもおかしいではないか。
セクハラを含めたハラスメントの被害というものは、とても苦しい。それ自体が苦しい上に、顔や名前を出せば好奇の目に晒されて、さらに苦しむ。その一方で、その苦しみを誰か他人に分かってもらいたい、共感してもらいたいという思いも湧く。以前、はてな匿名ダイアリーでは「保育園落ちた、日本死ね!」という記事が書かれたということを知っていた。だから、ここでなら匿名を保ったままで、自分の辛い気持ちを吐き出して理解や共感を得られると思ったのだ。
それを今、私は「お前は自分の妻ではない。だから、お前のセクハラ被害の話は嘘に違いない。正体を暴く」と脅されている。理解や共感を示してくれる人ばかりではないだろうとは予測してはいたが、まさかSLAPP訴訟によって口を塞ごうとする人が出てくるとは思わなかった。
私は、私が救われるために、私自身の物語を書いた。私自身の人生や尊厳を、無かったことにされたくなかったから。セクハラだけではなく、ハラスメント全体を減らしたい、無くしたい気持ちがあったから。たとえ過去の自分は救われなかったとしても、未来の他の誰かが同じような苦しみを味わうことは防げるかもしれないと思ったから。
「この文章は自分のことを書いている。だから許せない」と言う人間は、私が私自身の話を書く行為について、許可や不許可を下す権限が有るのか。例えば「今、そんな文章を書かれると、自分が誤解を受けて困るから止めろ」とでも言うつもりなのか。では、私は、いつになれば声を上げることを許可されるのか。一年後か?五年後か?十年後か?その日は、やって来るのか?文章を修正し始めて理解したが、そんな日が来ることはなさそうである。
この文章を書いた人間である私が、ある特定の人間の妻ではないからという理由で、嘘つき呼ばわりされて、勝手に私の苦しみが無かったことにされるのは、極めて心外である。
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「実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。」という一文を、苦渋の決断とはいえ書き加えたことで、私の文章からは普遍性が失われた。私の文章を読んだ人間の誰もが皆、セクハラを含めたハラスメントの問題を自分自身のこととして受け止めて欲しいという思いから書き始めてアップしたはずの文章だったのに、今の私は、一部の人間をこの問い掛けの対象からは除外しようとしている。とんだ腰砕けだ。私は、セクハラを無くしたいと言いながら、土壇場になって、我が身かわいさの保身に走ったのだ。このクソみたいな自分自身のことを許せない。私にはセクハラやハラスメントを無くすことはできそうにないと思い知った今、絶望しかない。
この文章は、セクハラ行為を批判し、根絶するために記しています。2022/05/30表現を一部修正しました。
昨今の日本の実写映画業界では、監督・プロデューサー・男優たちによる性的加害行為・物理的暴力行為・ハラスメント等が露見・報道されることが続いていますが、そんな中で新たな動きがありました。映画評論家である町山智浩が、自身の行なった『とされる』セクハラ行為について、Twitter上で『反省』または『謝罪』らしきものを表明したのです。
態々『とされる』・『反省』・『謝罪』と二重カギ括弧で囲んで書いたのには、もちろん理由が有ります。町山智浩は、件のセクハラ行為について「話を盛っていた。現実で行為に及んだわけではない」と釈明しているからです。
仮に百歩ゆずって「現実に行なった行為ではない」という釈明内容が本当であったとしても、町山智浩が後輩男性の元・配偶者(現在は既に離婚成立済み)の肉体的な特徴を公然とあげつらったこと、しかも、自分(町山智浩)は彼女の身体を触った経験があるという内容を、笑いながら面白おかしく語ったことは事実です。そして、その町山智浩の語った行為そのものが、紛れもなくセクハラ行為です。
一般企業・地方自治体・教育機関などの職場においてセクハラ防止・根絶の研修を受けた経験が有る人ならば、私の言うことを容易に理解できるでしょう。あなたの会社で上司が「経理の○○君の奥さんがいい身体をしていて、○○君が触っていい』と言うから、オレは触らせてもらった」などと笑いながら話している場面を想像してみて下さい。如何に気持ち悪いか実感できるでしょう。こんな言動は、言っている内容が想像上のことであったとしても、セクハラ行為以外の何ものでもありません。後輩の配偶者に対して性的欲望を向けていることを、堂々と公言する気持ち悪さは、筆舌に尽くしがたいものがあります。
ちなみに言っておきますが、問題の町山智浩のセクハラ自慢話のインタビューが行われたのは、2011年のことです。昭和の話、20世紀の話ではありません。町山智浩のインタビューと同じ頃には既に「セクハラ行為は良くないことだ。止めるべき」という研修を受けていたという人も少なくなかったでしょう(私個人の体験で言えば、そのような研修を受けていました)。
セクハラ自慢話についての町山智浩の言い訳を読んだ時、私は「小山田圭吾が『雑誌QuickJapan上でイジメについて面白おかしく語ったのは、盛っていた。あれは事実ではない』と言い訳したのと瓜二つだな」と強く思いました。小山田圭吾と彼のファンや関係者も、東京五輪という機会によって国際社会にイジメ自慢話が知れ渡り、サブカル系業界人という威光が通用しない場で批判に曝されて初めて、謝罪を述べたのです。
町山智浩も同じです。木下ほうか、榊英雄、園子温etc.のニュースの影響で、マニアックな映画ファン・信者ではない人々も、日本の実写映画業界のスキャンダル関連情報に注目するようになり、このため町山智浩のセクハラ自慢話のインタビューも多くの一般人が知るところとなりました。そういった一般人にはサブカル系業界人としての威光も通用しないので、町山智浩は仕方なく形式的に『反省』や『謝罪』を述べたのに過ぎません。『映画秘宝』の読者やサブカルウォッチャー等にしか情報を知られていなかった状態が続いていたとしたら、これまでと同様に批判の声など無視していたであろうことは想像に難くありません。
支持者集団の内部にいる時には、自分が他人にした悪い行いを鼻高々に自慢していたのが、集団外部の一般社会にまで知れ渡ると、急に自慢を止めて「語ったことは事実ではない。誤解を招いた」と釈明して取り繕おうとする行動様式は、自民党や維新の会などの政治家たちの専売特許かと思っていましたが、町山智浩らサブカル系業界人たちも見倣っているようですね。
それにしても、町山智浩のTwitter上で述べた『反省と謝罪』を読んで、ほとほと呆れたのは「『後輩男性』たちには謝罪しました」と書いていたことです。謝罪ならば、町山智浩が「性的欲望を向けた相手」である「セクハラの被害者となった女性」が先に来るべきでしょう。この期に及んでも町山智浩は、ホモソーシャル的で男尊女卑的なサブカル系ムラ社会の序列を優先して、セクハラ行為の被害者を軽視するつもりなのでしょうか。救いようのない愚かさです。
なお、園子温のスキャンダルが表面化した途端に町山智浩は「自分(町山智浩)は、2006年以降、園子温とは会っていない」と、2006年以降も交流が有ったのにも関わらず、いけしゃあしゃあと嘘をつきました。そんな嘘つきの町山智浩が「セクハラ行為は実行していません」と言い訳したとしても、どれほどの人が信用するでしょうか。
たぶん、次に町山智浩は「自分が批判されるのは当然だが、話を持ち出されると被害者が傷つくので、これ以上、同じ話を持ち出すのは止めろ」と、加害者であるにも関わらず「自分(町山智浩)は被害者の心情に寄り添っている」とアピールする作戦をとるのではないでしょうか。
今回は以上です。2022/05/30表現を一部修正しました。
町山智浩の虚言インタビュー及びそれに基づいて誤った人物評価を記した箇所を含む、既に問題が有ると判明している記事については、はてな社に削除依頼を申請していましたが、2022/05/31削除措置を済ませたとのご連絡をはてな社からいただきました。はてな社にもご迷惑をお掛けして、誠に申し訳ありませんでした。
性犯罪の被害に遭ったけど男だから救われなかったみたいな体験談に対して
「女への憎しみを募らせてる。さぞかしモテなかったんだろう」
男性に対して異常なぐらい加害敵な女性に対しては、同情的な反応が結構見られるんだよね。
過去に男性からセクハラ等を受けたり、酷い男に酷い事された事が原因で
だから厳しい態度を取っても仕方ない……みたいなね。
勿論、そういう女性は同情に値するし、何らかの救済が必要だと思うんだけど、
これが男女逆になると途端に
「モテないからって女を恨むのは男らしくない」と、逆恨み扱いされてしまう。
『加害者は男で被害者は女』という固定観念が根付いてるように感じる。
主観では普通に過ごしていただけなのに、いきなり「キモい」「キモい男」みたいな扱いを受ける。
初めは無視していてもどんどん酷くなる。
その内、仲良くしてくれていた筈の同性の友人も離れていく。
いい加減我慢出来なくなって文句を言ったら、被害者ぶられて、自分が加害者扱いされる。
「お前がキモいから悪いんだ」と、自分自身ですら思う様になり、自己嫌悪が酷くなり、
まともな対人関係が築けなくなる。
自分はこれで、何年も苦しんだし、自サツ未遂も何度も発作的に起こしている。
骨折して入院して痛い目にあって迷惑もかけて正気には戻るけど、
それでも死にたいという願望が完全に消え去る事は無かった。
もう10年以上も前に、とても優しい女性に出会ったことで、昔よりはだいぶ回復したものの、
今でも夜中に「もしかしてこの隣で寝ている人は、俺を馬鹿にするために一緒にいるんじゃないか」
普通に考えれば、特別な財産をもってるわけでもない自分を騙すためだけに、
結婚し、一緒に暮らし、子供を産み育てまでするわけないってわかってるにも関わらずに。
以前、「女だけの街で暮らしたい」というツイートが炎上してたけど
自分も長らく、女性に怯えなくていい男だけの街で暮らしたいと思っていたからだ。
女性が嫌いとか苦手とか、ではなく「怖い」「恐怖」があったから。
自分からすれば、特に交流も無かった女性達からの、主観的で感情的な言動が原因で、
心に深い傷を負い、人間としての尊厳を傷つけられ、女性不信に陥って何年も苦しんだ。
ここまで書いて思ったけど、そんな被害に対して同情されるどころか、
「そんな大した事気にするな、男らしくない」と被害を無かった事にされたり
「女性の方がもっと色んな辛い目にあっている」と自分には関係無い話をされて被害をあやふやにされたり
「お前が女性を怒らせるような事をしたんだろ」と被害者なのに加害者呼ばわりされたり
「キモいお前が悪いんだ」と被害者なのに、加害者に加害行為をさせた自分が悪いと言われる。
見ず知らずの共感も出来ないどっかの酷い男がやった事が悪いからいけないんだと、
実際にされた事と同等か、それ以上に、こうしたセカンド○イプに絶望していたのかも知れない。
そしてこんな愚痴も、「お前が悪い」「女性の方がもっと辛い」と、切り捨てられて終わる。
自分の場合は、主に女性から率先してセカンド○イプをされてきた訳だけど、
全く信用されずにお前が悪いからと言われて終わる。
最近の風潮を考えればこうなるだろうって諦めもある。
自分の被害者感情が心から癒される事は死ぬまで無いというのは仕方ないんだけど、
こうなった原因は自分が男だからか?とか、女だったら救われたのかな?
とか思っちゃうのは、仕方ないのだろうか。
基本魔法がデモフェミア、上級がデモフェミラ、最上級がデモフェミガーみたいな感じ。
しかし、先週はアンフェの成りすましアカウントや、嫌がらせ営業妨害の話がでたけど、「でもフェミガー」けっこう多いね。
ロシアのウクライナ侵略の jus ad bellum なり jus in bellum の違反行為がやばい!ていうニュースで「でもウクライナガー」「でもアメリカガー」「でもNATOガー」と言ってるのと一緒でしょ。
アンフェの自己認識だと論理的で党派性に囚われない合理的な私みたいなのよく見かけるが、デモフェミガーは党派性に凝り固まって、敵と味方という陣営を基本的な思考のベースにしてないと、なかなかでないよね。
あと嫌がらせや営業妨害はいけないと言いつつ、デモフェミガーで「フェミは表現を燃やしてきたがそれはいいのか?」みたいな雑なDD論もやばいよね。
まあ「燃やす」とか「攻撃」とか「殴る」とか、フェミニストなりが通常の表現の自由に属する批評や批判を行った事を「表現規制」するためのアンフェの間の俗用だけどそういう攻撃的な比喩は反撃として「嫌がらせ」や「営業妨害」を惹起するってわからないのかな?
今も件の店は二次加害にあってるけど、そういうの煽ってた人間は反省してるのかね?
まあアンフェの中でかなりの勢力の、表現の自由戦士は表現の自由ではないものを「表現の自由」だと言い張り表現規制ではないものを「表現規制」だと言い張る頭の悪い集団なので、本気で加害行為をあおっていることがわかってないのかもだけど。
「発言や差別意識は現実に人を傷つけ殺すことだってある」という観点がすっぽり抜け落ちてる。反社会的な行為がフィクションにとどまって他へ害を吐き散らさない段階なら目こぼしもされているだろうが、現実へ影響を及ぼし始めたらそんな猶予は一発で吹っ飛ぶ。ヤク決めて飛ぼうぜって歌うロッカーは顰蹙を買う程度で済んだとしても、彼が実際に麻薬をファンに売りさばいたら当然逮捕されるし、なんなら界隈のアーティスト全員に疑いの目が向けられる。快楽殺人者を描いた映画がもてはやされても見ない人は見ないで終わりかもしれないが、模倣犯が一人出ればそのジャンルの映画見に行く人はみんなそういう目線で見られるのを覚悟することになるしだいいちスポンサーがもう金を出さなくなる。別にそれらは「社会的に許容されてる」ってわけじゃない。実害がないならほっとく、実害があるなら取り締まる。そんな程度のさじ加減で、単にスルーされてるってことだよ。そして、「誰もが見られる動画サイトで、他者を傷つけるのでよくないとされる言動を広めてる」のは、すでに社会における明白な加害行為であり、ストップがかかるのは当たり前のことだ。
つまりこれは、”自分らが社会的弱者であることに安住して一般社会ではとうてい許容されない行為を面白がっていたら、その結果コミュニティ全体が危機に晒され、本来無害であったものまで延焼する”…という、例のあのよくある歴史が、いまゲームコミュニティに訪れてるってことなんだよ。そういう状況で「あれぐらい許せ」なんて発言が界隈から出たら、それがどういう結果をもたらすか想像できないか? 「なるほど、あれぐらい許さなくちゃな」ってなると思う? 反対だよ。ホント馬鹿だな。
表現規制の話を見ていると、「私たちは規制を求めていない」「不快であると言っているだけ」「批判をしているのは広告であって作品ではない」「加害行為を誘発する作品は批判されて当たり前」などなど見かけるわけだけど、
そんな人に、ぜひ「昭和天皇コラージュ事件」を知って、考えてほしい。
富山県立近代美術館の企画展で招待された富山出身の芸術家である大浦信行氏の作品にまつわる事件である。
この作品は「遠近を抱えて」というタイトルで昭和天皇の写真と女性のヌード写真などを合成した作品であり、企画展終了後に美術館に所蔵・図録掲載することになった。
ところが、一部県議が不快感を表明し、街宣右翼も抗議活動をした。反対派のある人物は県知事への暴行未遂事件を起こした。
事態を重く見た美術館は肖像権への懸念などを理由に作品を個人に売却、図録は焼却処分することになった。
これに対して大浦信行氏は表現の自由に対して、市民が知る権利を侵害されたとして訴訟を起こした。
原告側は、「作品が他人の権利を侵害したわけではないのだから、部外者の行動を理由に作品の展示を不許可とするのは不当である。」と訴えた。
被告である県・美術館は大浦氏に作品を作るなとも、作品を公開するな、とも言っていない。そして作品を「廃棄」したわけでもない。(図録は処分したが)よって問題ないと主張した。
第一審では原告の主張が一部認められたが、原告被告双方ともに控訴した第二審では「公開すると管理上の問題が発生する可能性があるから」という理由で被告・美術館側の全面勝訴、上告も棄却された。
法曹界では、「表現の自由」の意義を軽視した不当な判決内容である、という評価が一般的である。
この大浦信行氏、あいちトリエンナーレでも作品を発表している。その名も「遠近を抱えて PartII」
そう、あの昭和天皇の肖像を燃やした灰を足で踏む映像作品である。まさにあの写真こそ「遠近を抱えて」である。
大浦信行氏によれば、昭和天皇の肖像を燃やしたのは自分ではなくて美術館だ、ということだ。(繰り返すが作品は燃やされておらず、焼却処分されたのは図録だが)
クリエイターから見れば、作品が燃やされたわけでもなくても、作品の魅力を伝える手段たる図録から排除されることもまた、作品を燃やされることと同等だという事であろう。
もう海外のNPOみたいに、重篤な発達障害と軽度知能障害はTPOが理解出来ないし、
だからこそ、子どもを性的な見ることを許さない社会的合意なんだよな
TPOとフィクションと現実の区別が付く人しか世界にいないのならレーティングもゾーニングも一切不要なのですわ
だけどTPOが理解出来ずフィクションと現実の区別が付かないポリコレで保護を必要としている人ほどその自覚は薄く、
ポリコレがどうたらと騒いだり、実在の人物や企業に実際に攻撃を仕掛ける、
一応日本にもいるけどな、実名で言い切ってる当事者(発達障害の性犯罪者)と性依存症の対応してるクリニック
<当事者 (発達障害の性犯罪者)>
「小児性愛障害以外にも、発達障害や双極性障害、アルコール依存症もある。身体的な疲れ、人間関係のストレス、いじめといったものをうまく解決できずに感じていた“生きづらさ”から解放されたい時の手段の一つだった。そして、やってしまった。こういう言い方は誤解を招くかもしれないが、どうしていいか分からずに、警察に助けを求めたのだと思う。自分の中に残っていた“良心のカケラ”というか、依存症治療で求められる正直さが必要だ、と思えたのだと思う。」。
「僕自身も心理的虐待を受けていたので、子ども心に“大人になったら子どもをいじめるような大人にだけはならない”と誓っていた。それでも、なってしまった。僕が立ち直るきっかけとなったのが、サバイバーの方たちの手記だった。それを読んで、自分がどれだけ深く子どもたちを傷つけてきたかと思った。例えば思春期前に、そういうことについて学んでいたら違ったと思う。また、ゲイ雑誌の中にある男児小児性愛のポルノの広告を見て、自分の居場所というか、“自分は少年愛者だ”という考えが強化されてしまった。一般化することはできないが、やはり自分はすごく刺激を受けたし、妄想を強化して自己正当化してきたことは間違いない。今の法律、規制は、不十分だと思う。たとえフィクションであっても、子どもに性被害を与える表現への規制は必要だと思う」と語っていた。
小児性犯罪の元加害者&専門家と語る【小児性愛障害のリアルと課題】
<性依存症の対応してるクリニックのご意見>
「現実とファンタジーの区別はついている。児童ポルノを見ても、実際の子どもに手をかけるなんてことはない」というのは、典型的な認知の歪みの1つです。自身が子どもに加害行為をしていなくても、それに加担している事実にふたをしています。
また、当院のデータでは加害経験がある者のほぼ100%がなんらかの児童ポルノを見ているという事実があります。
小児性愛障害と診断された者たちは、生まれながらにして子どもへの性嗜好を持っていたわけではなく、社会の中でそれを学習し、身に付け、強化していきます。児童ポルノはその「パンドラの箱」を開けるきっかけとなっている可能性がとても高いといえます。
もしこの社会に児童ポルノがなかったら――そんな“たられば”を言ってもしょうがないですが、子どもへの性嗜好に気づいたきっかけが児童ポルノとの出合いだったというのは、小児性犯罪の治療グループで聞かれる定番中の定番のエピソードです。
そして児童ポルノを通して彼らは「子どもは性的な存在である」というメッセージを受け取り、認知を歪めていきます。見れば見るほど、それを利用してマスターベーションを繰り返せば繰り返すほど、問題行動は強化されていきます。
「児童ポルノがあるから現実の子どもにいかなくて済んでいる。なければ、子どもへの性犯罪はもっと増えると思うよ」というのは、まったく逆です。児童ポルノに触発されて実際の子どもに加害行為をする者もいる、と考えるほうが現実的ですし、そのように語る加害者に私は何人も会ってきました。
加害行為をする前には、トリガー(引き金)があります。クリニックに通院する者たちに「加害行為の前に何をしていたか、どんな状態かだったか」を振り返ってもらうと、子どもとのセックスを想起し過剰なまでにマスターベーションをしたというエピソードがよく出てきます。1日に8回もしていたという者もいました。言うまでもなく、そのときには児童ポルノがセットになっています。児童ポルノは確実にトリガーとなりうるものなのです。
児童ポルノに出合わなくとも、なんらかのきっかけで彼らが子どもへの性的関心を抱くようになった可能性はあります。けれど児童ポルノに出合わなければ、それが強化され認知が歪むプロセスをどこかで食い止められた可能性は無視できません。
児童ポルノと表現の自由について議論するときは、常にその背景に被害を受けている子どもがいることを忘れてはなりません。これを加害者臨床では「ダブルクライエント構造」と呼んでいます。
児童ポルノを愛好するほとんどの人が現実とファンタジーの区別がついていても、その中から1人でも現実に加害をする者が出てくれば、それは対策が必要だということです。小児性犯罪は特にその傾向が強いということが、世界でも明らかにされつつあります。
「長年の加害者臨床の経験から、性犯罪は学習された行動という要素が非常に大きい。普段、暮らしている日本社会の中で学習してきたという結論です。痴漢に関しても同じことが言えます。生まれながらの痴漢はいないし、将来痴漢になりたいという人もいません。社会の中で痴漢になっていくわけです。したがって、小児性愛障害者特有の認知の歪みというものも、日本社会の中にある前提となっている価値観(子どもを性の対象として消費する社会)との相互作用の中で強化されていったものだと考えています」(斉藤章佳さん)
https://withnews.jp/article/f0210824001qq000000000000000W0fp10101qq000023477A
<海外のNPO>
一部の人々は、セックスがどのようなものかを理解するためにポルノに目を向けます。
ただし、ポルノで描写されているセックスは自然でも本物でもないため、混乱や欲求不満を引き起こす可能性があることを理解することが非常に重要です。
例:
24歳の自閉症スペクトラムのゲイリー
ある日ゲイリーが年上のいとこのリックと遊んでいた時、リックはどんな仕事がしたいのかと聞いてきました。ゲイリーはネットで見た動画を思い出します。
その中には、ピザの配達人が女性の家に食べ物を届け、女性と性行為をするという内容のものがありました。
ゲイリーは「ピザの配達人になりたい」と答え、その理由をポルノビデオの描写を交えて説明しました。
リックは最初は笑っていましたが、ゲイリーが本気で言っていることに気づくと、気まずそうにゲイリーを見つめました。
ゲイリーは、彼のいとこがポルノビデオが偽物であったことを明示的に彼に説明するまで、何が間違っているかを何が悪いのかを理解していませんでした。
それ以来、ゲイリーはポルノビデオで発生するシナリオは偽物であることが多いと想定し、他のリソースからセックスについてもっと学ぶべきだと判断しました。
[OCR]SEX ED. FOR SELF-ADVOCATES:
そんな私は、フェミニストに思うところがないわけじゃないが
こういう言説、流行ってるのかな?
「フェミニストじゃないけどフェミニストに賛同します」的なフェミ仕草。
フェミニスト恥ずかしくて名乗れないぐらいなら止めれば良いのにね。
「クソオス」「ジャップオス」「お寿司猫ロース」など行儀悪く差別全開で女叩きに対抗していく彼女達に私は惹かれ、仲間入りをした
だってmann呼びとかリプトンどうこうとか言ってる奴らって、ハッキリ言ってキモいし仲間入りしたくも無いし、惹かれる事なんかないもの。
危ないヤバい口悪い人達に惹かれるって…厨二病じゃ無いんだからさ、キモいよ。