はてなキーワード: セクシュアリティとは
子殺しの上で死体遺棄して母親が逮捕されるのは当然のことでは?父親にも何らかの罪をというのはわからないでもないが。乳幼児の人権を認めてないのは怖すぎる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4721804662898478082/comment/augsUK
性教育で「性交」や「妊娠経過」の知識を得られていたら、母親に責任があるとは思うが、現在の日本では、学校で「性交」や「妊娠経過」を教えることは、文科省により禁止されている。
これは、自民党・公明党が撤廃を拒否している歯止め規定によるもの。
性教育で「性交」や「妊娠経過」の知識を得られなかった母親が死体遺棄をしてしまったのは、自民党や公明党に責任がある。
「乳幼児の人権を認めてない」のは、性教育で「性交」や「妊娠経過」を教えることを禁止している自民党や公明党であり、自民党や公明党に投票した人物の方である。
【質問】
文部科学省が推進する「生命(いのち)の安全教育」では、性交や妊娠経過について教えないなどといった「はどめ規定」があり、性に関する知識と理解が十分に得られない内容になっています。
「はどめ規定」を撤廃し、人権尊重と科学的根拠に基づく包括的性教育を推進しますか?
【自由民主党の回答】
✕(ばつ)
性教育は児童生徒の発達段階を考慮しながら、学校全体の共通理解を図り、保護者や地域の理解を得ることが必要です。不適切な性教育やジェンダーフリー教育などは行わせません。
【公明党の回答】
ー
△:中学校1年生の保健体育科の授業においては、「心身の機能の発達と心の健康」について学習する中で、思春期には生殖機能が発達し、妊娠が可能となることを理解できるようにするため、主に多くの生徒が直面する思春期の体の変化について学ぶこととしています。平成10年の学習指導要領改訂時の背景として、この内容について指導を行う場合に、生徒の発達の段階を踏まえない、いわゆる過激な性教育(性行為をイラストで示すなど)が行われており、行き過ぎた指導にはどめをかけるため、当該規定を設け、その扱いを継続しているものです。
子どもたちを性犯罪・性暴力から守るための「生命の安全教育」については、より多くの教育現場で実施されるよう推進します。
【立憲民主党の回答】
○(まる)
学校教育や社会教育で、男女ともに性暴力の加害者や被害者にならないように、性についての正しい知識を身に付けられる人権としての包括的性教育を推進し、生に対する正しい知識と理解とともに、子どもたちへの犯罪を根絶します。
【日本共産党の回答】
○(まる)
1992年改訂の学習指導要領で小学生から「性」を教える転換がはかられました。しかし、1998年改訂の学習指導要領で妊娠の過程を扱わないとする「はどめ規定」がもうけられ、2003年に都立七生養護学校での性教育に自民党都議などが介入し、自民党国会議員なども加わる性教育バッシングがおき、学校現場の性教育は委縮・後退しました。その結果、多くの子どもたちが性についての知識をもたないまま、互いの心身を傷つけてしまう多くの悩みや問題をかかえています。国連子どもの権利委員会は日本政府に「思春期の女子および男子を対象とした性と生殖に関する教育が学校の必修カリキュラムの一部として一貫して実施されることを確保すること」を勧告しています。「はどめ規定」をなくし包括的性教育をすすめることが強く求められていると考えています。
日本共産党は党綱領で「ジェンダー平等社会の実現」をかかげている政党です。人権とジェンダーの平等を大事にしながら、人間の生理や生殖や避妊についての科学的知識、性の多様性、互いを尊重しあう人間関係を築く方法、自分の心や体を傷つけるものから身を守るすべを学ぶなどの包括的な性教育の推進を提案しています。
【社会民主党の回答】
○(まる)
「性交」の説明なくして、子どもたちが性に関する知識や性暴力や性被害についてしっかりと理解できません。平等・人権の視点を入れた包括的性教育の推進が不可欠です。
【日本維新の会の回答】
○(まる)
「はどめ規定」撤廃が適切かどうかは検討を要するが、性教育については今よりも踏み込んだ対応が必要である。
【国民民主党の回答】
ー
(その他)
授業内容、性教育、生理教育等、学校生活全体を通じて、人権が尊重され、学校と地域が協力して子どもの成長に伴走する環境を創ります。
○(まる)
“性交”や妊娠経過を説明せずして、性暴力や性被害というのが何なのか、ということは子どもたちは理解できません。すでに2009年にユネスコが「国際セクシュアリティ教育ガイダンス(2018年に改訂)」を出しており、ヨーロッパの国々はガイダンスを踏まえて性交や避妊方法を小学校高学年・中学校で教えています。
まあ、「LGBTのような概念を持ち出さない限り、ホモセックスする程度の権利も守られないのか」と考えると、確かに憂鬱な気分にならなくもない。
別に異性愛者だってホモセックスくらい自由にしていいじゃんな。衆道だってそういう文化だったわけでしょ。
https://www.twitter.com/srpglove/status/1540909836275417088
本人としては共産党内部でも伝わるような理屈を戦略として選択しただけなのかもしれないが、「フィクトセクシュアル」のような概念を持ち出してセクシュアリティの一種ということにしない限り、ロリエロ漫画を描いたり読んだりする程度の権利も守られないのかと感じられて、ちょっと憂鬱な気分になる。
まあそもそも、「行き過ぎたジェンダー論のせいで表現の自由が脅かされている」というよりも、
https://www.twitter.com/ogi_fuji_npo/status/1456864014043025409
「セクシュアリティの多様性」を勝手に「対人性愛の多様性」にすり替えたり、「ジェンダー表現の多様性」を勝手に「物理身体に紐づいたジェンダー表現の多様性」にすり替えたりといった態度こそが、まさに直球の偏見であり差別なんじゃないですかねぇ。
という側面の方が大きいというか。ジェンダー・セクシュアリティ論を中途半端にしか理解していない人々が「僕の考えたジェンダー平等とセクシュアリティの多様性」を錦の御旗に掲げてるのが「ジェンダー論」が批判される所以だよね。
ジェンダー論が正しく行き過ぎれば、フィクションの「ちょっとエッチな表現」如きに目くじら立てる人はいなくなるよ。
例えば、古いフェミニズムでは「男に守られるオンナは卒業しよう!一人で生きていこう!」という言説ばかりが持て囃されていた。確かにそれは力強くてかっこよかったけれども、最近は「そうは言っても、自分はイケメンとの恋愛もセックスも好きだし」というフェミニストも現れて、「バッドフェミニズム」という新しいフェミニズムの形も発見されてきた。それはフェミニズムの退化ではなく進歩なわけでしょ。
数日前、ドラッグストアでコンドームを探しまわった体験録を書いた悲しき24歳労働者です。
https://anond.hatelabo.jp/20220528225125
勢いに任せて書き殴りろくに推敲もしないままインターネットの大海へぽいと投げてしまったものの、なんだか恐ろしいことをしてしまったような気がして翌日こわごわ匿名はてなを開いたところ思いの外たくさんの方に読んでもらったようで。コメント見ました。全部見ました。匿名はてなを覗くとき、匿名はてなもまたこちらを覗いているのだ。
サガミオリジナル0.02Lサイズはやはり男のプライドなんでしょうか。白状するとさっぽろ時計台と書きながら思い浮かべていたのはテレビ塔のほうで普通に脳内変換ミスでした。長文乱文すみません、いやほんと、長いっていうのがいちばん多かった。す、すみません。
いやー、なんだかみんなおんなじ文章読んでるはずなのに気になる部分が全員違うって、そりゃそうなんだけど不思議なことだなあとブルーライトが眩しい液晶の前でうっすら笑みを浮かべながらスクロールに次ぐスクロールをしていたら。
「今好きな女の子がいて、のところがスルーされてるのはなぜ? 何度も読み返した」
さすがデュオ!
俺たちが見逃してしまうことに平然と気がつく!
そこにシビれる!憧れるゥ!
女を好きな女の話をしましょう。
えー、いま現在わたくしは好きな女の子がいます。付き合ってはいません。思いを伝えてもいません。
わたしにとっては好きな女の子、向こうにとってはわからない。お互いにとっては毎日LINEをする友達。
仕事が終わらないだとか、三谷幸喜は血も涙もない脚本を書くねとか、コナンが外出するとそれだけで人的及び物的被害が多発するから彼は名探偵になるよりも早急にお祓いを受けたほうが世のため人のためってやつだよねとか、そんなくだらないことをつらつらと話すだけだけど、それで結構満足している。
LGBTというアルファベット4文字がだいぶ世間に浸透し、昨今なにかと話題のセクシュアル・マイノリティ。いや別に話題になろうがならまいがわたしが女を好きな女であることに変わりはないのだけれど。まあ言語でもって共通認識があったほうが話が早いのは確かな人間社会。
わたしは男の子も女の子も好きになる女なので、所謂バイセクシュアルの女性というやつにあたるんだろうなとふんわり思っている。
なぜふんわりかというと、実のところ自分のことを「女が好きな女である」と自覚したのがわりに最近、ここ数年のことだから。石のように揺るがない確固たる意志だとか、テコでも動かんぞ!というがんとした姿勢でもって「好きだ!」というのではなく「いやまあ好き……っすね………」みたいな感じ。
自分のことを定義付けできたのは大学生になってから。女の子への初恋は中学生のとき。憧れの先輩がいた。
週に一度、習い事のためにいつもは乗らない電車に乗るときが、部活も学年も帰り道も違う先輩と2人きりで話す唯一のチャンスだった。
容姿端麗・頭脳明晰・運動神経抜群な先輩は地区でいちばん頭のいい高校に合格した。卒業式の日、制服のボタンを貰った。翌年同じ高校に入学した。廊下ですれ違うたびに手を振ってくれる先輩が眩しかった。先輩みたいな人になりたい。憧れの存在だった。
ただ当時のわたしはアイドルの嵐がめちゃんこ好きだったり、仲の良いクラスの男子と定期テストの結果を競い合って負けたらサーティーワンのアイスを奢るために一緒にショッピングモールに遊びに行ったりと、まあ、なんだ。傍目から見たら普通に男子が好きなんだなあという感じだっただろうし、自分でも男子が好きなんだなあということは疑いようもなかった。
ただ一方で、じゃあこの先輩への説明のつかない気持ちはなんなんだという疑問が胸の奥ーーのほうでキャラメルリボンのようにぐるぐる渦巻いてもいた。
実際サーティーワンの男の子からはサーティーワンの帰り道に付き合ってほしいという申し出を受けた。素直に舞い上がった。けど、高揚のままによろしくお願いしますとシェイクハンドしてしまうのは、なんか、なんか違うよなと思った。
「ごめん」のひと言を伝えるのがやっとのわたしに、サーティーワンボーイは
「おっけ。次のテストも負けねえから」と爽やかに返してくれて、それが告白されたことよりも嬉しかったのを覚えている。
アイスの冷たさが沁みる季節も過ぎて、短い秋をのんべんだらりと過ごしていたある日。地元の図書館で本を貪り読んでいたところ、雷に打たれたような衝撃を食らった。
それは少女小説「マリア様がみてる」との出会いであった。まじ、衝撃であった。
マリア様がみてる、通称マリみてとの出会いはわたしの恋愛観を180度どころか900度くらい変えた。まじ、根底からひっくり返ったのち勢いそのまま何周かした。わたしの精神世界はさながらセカンドインパクト後のような様相であった。信じられん存在感をもってして、わたしの世界を一夜のうちに変えてしまった。
お、女の子のこと、好きになってええんか……。
先輩への憧れを、尊敬とか思慕とかそういう言葉でもやもやっとさせなくてもええんか……。
近付きたいと思ってええんか……。
まじか…………。いや、まじか…………。
もう、絶句であった。
クラスメイトたちがせっせと次の定期試験に向けて勉強しているさなか、わたしはただひとりマリみてを読み漁った。とりあえず全巻読破した。
まじか。うわー。まじかー。
マリみてを読むことに全ての力を注いでいたためサーティーワンボーイとの賭けには再び負け、今度は購買のパンを奢らされた。苦手な物理では赤点を取った。けれどもそれらはマリみての前では些細すぎる出来事だった。
まじかー。
この「まじかー」という思いを3年間引きずったまま、けれども先輩との距離をそれ以上縮めることもできずに、先輩が卒業したあとは何事もなかったかのような顔をして男の子と初お付き合いをしたりしてわたしの高校生活が終わった。
マリみてどころの騒ぎじゃなかった。
盆と正月とクリスマスと創造神と破壊神がいっぺんにこの世にやってきて世界をめちゃくちゃに踏み荒らし、亡き者の命を弔い新たなる生命の誕生を祝福し、一筋の光を灯しては消して灯しては消して「じゃ!あとは自分で頑張って!」と言って帰っていった。
まじ、衝撃であった。
セクシュアリティ、多様な性、LGBT、性別二元論エトセトラエトセトラ。それらすべての言葉や考え方が、自分がどれに当てはまる当てはまらない関係なく、誰もかれもに関係する言葉であるのにも関わらず、わたしは過去18年間何ひとつ知らなかった。
ただ己の直感のみで生きるしかなく、その直感の中に「もしかしたら女の子が好きかもしれん」というものがあり、がしかし、なまじ男子も好きになるがゆえに「いやいや、まあそれとこれとは違うっしょ」という感じで奇跡的な気付きに雑に蓋をしてしまっていたのだった。
と思わないでもなかった。
でも、じゃあ仮に高校時代に「女を好きになる女」みたいなことを調べたとして、わたしが先輩に何がしかアプローチすることはあったのか?先輩後輩の均衡を最後まで崩さなかったのは紛れもなくわたしの選択肢ではないのか?
どうしょもないIFすぎる問いを抱えたまま、とりあえず次に好きな女の子ができるまで、何事も何事もなかったムーブで過ごそうと決めた。
ただ、ちょぴっと知識を得たことで、わたしの「普通」がちょぴっと変わった。
女を好きな女であることをことさらに全面に出すこともなく、かといって、押し込めるわけでもなく。普通に男の子とも付き合うし、好きになったら女の子にも普通にアプローチする。だって好きなんだもん。別にいいじゃんね。
クィアの講義を受け持っていた先生は、セクシュアリティは個人的なもので、そして流動的なものでもあると言っていた。わたしは結構この言葉が気に入りだった。
個人的なもの。わたしだけのもの。流動的なもの。変わってもよいもの。わたしのものだから、変わったって変わんなくなって、誰に文句を言われる筋合いはない、もんもんとしたときは、そういうものがわたしの体の中心にすーっと通っていることを思った。
その「すーっ」を思う効能は、何事も何事もなかったムーブよりもはるかに効き目があった。
いま好きな女の子に対して、踏み込みたいという気持ちが無いわけではない。そりゃ好きだからな。
2人で遊ぶこともある。今度は旅行しようねと話してる。
舞い上がらないわけがない。でも彼女が少なからずわたしを信頼してくれているのがわかるから、それを壊すようなことはできないなーと、綺麗な横顔を見ながら思う。
わたしにとってわたしのセクシュアリティがわたしだけのものであると同時に、彼女にとってのセクシュアリティも彼女だけのものであり、そんでもって関係性というのは両者で作るものだ。お互いを尊重したうえで変容を求めるなら変容を、現状維持なら穏やかに関係を続けていけばいいのだ。
で、わたしは別に彼女に「わたしは男も女も好きです!」みたいな宣言をしたことはない。ので彼女は多分知らないと思う。言うならきっと、女だとか男だとかではなく。必要なのは「あなたが好きです」というただひと言なんだと思う。で、わたしはまだ思いの丈を伝える覚悟がないから言わないだけで。
ていうか別に、宣言とか、しないよね。なんかセクシュアル・マイノリティばかり言う言わないうんたらかんたら色々ありますが、
言う人もいる、言わない人もいる。
わたしのように匿名ツールでなら言えるとか、ざっくばらんな恋バナをする友人には言えるみたいな人も、いや家族や職場に言います、という人もいるだろうし。本当に、人それぞれ。その人だけのもの。個人的なもので流動的なものだから。
だからこう、ネットでも現実社会でも、まじかーまだその段階かーみたいな発言やら意見やらを見かけることは多々ありますが、知識を得た今ならそういったあれこれ全て、わたしの個人的なものを傷つけたり揺るがせたりすることはできないのだよ、と自分に言ってあげられる。ただ、中高生のころのわたしのように、じゅうぶんな情報や知識にアクセスできない若い子たちが不用意に傷ついていないかは心配しているよ。ていうか本当、いちばんはそこだよね。
女性を好きになったことは何度かあるが、男性で明確に好きになった人はいない
ほとんどスカートを履かない女だけど、例えば制服のスカートを履くことに抵抗はなかった
普段は最低限のメイクをして、Tシャツにジーパンとか、そんな感じだ
シンプルなのは性自認どうこうではなく、おしゃれへの興味度合いの問題だと思う
こんな私だが、婚活を始めようとしている
あとは将来の孤独と暇さを考えると、やはり結婚制度というのは長く残るだけの理由はあるのではないかと思えてきたからだ
無理に男と結婚しなくても恋愛していればいいじゃないかと思うが、
もう5年以上何もなく、自分から恋愛にアクションをしていくタイプでもない
女性が好きな女性だからといって、恋愛に前のめりなタイプではない)
そして拘束力の弱めな恋愛関係で、もし40代50代くらいに別れることになったとして、
おそらくその頃もマイノリティであるレズビアン市場で戦う精神力なんて残っていない気がするのだ
人間なんて、そんな簡単に区分で分けられるものでもないじゃないかと思っているからだ
セクシュアリティに関するコミュニティと関わることもなく、自分のセクシュアリティを公言することもなかった
悲しいかな「非モテ」属性なので、なぜ彼氏がいないのか聞かれて困るといった漫画みたいなことも起きたことはない
それに、モテないからこそセクシュアリティが曖昧なだけで、男性から言い寄られて付き合ったりすれば、好きになれるんじゃないか?と淡い期待も持ったりしている
嘘をついて婚活して、それでも時間とお金をかければ、おそらく結婚できると思っている
しかしそれでいいんだろうか
結婚したいと思って時間とお金をかければ同性と結婚できる、それで十分な世間体が担保されている、そこまでいかないと、足りないと思う
一読して、同性愛をめぐる主題の取り扱いの薄さが気になったのだが、筒井亮太の解題に指摘があった。
「[...]実のところ、サリヴァン個人のセクシュアリティの部分は、後続する類書(本書もその例外ではない)において巧妙に回避され、正面きって論じられることが少ない。その点を鋭く指摘したブレッシュナー(Blechner 2005)は、サリヴァンの病棟管理実践をはじめとするさまざまな着想の背景には彼個人の同性愛(とその社会的苦境)が大きく関わっていると言う。ゲイを公言しているブレッシュナーのもとには、サリヴァンが記述しているような患者が多く訪れており、患者たちは周囲の「ホモフォビア」によって傷つき苦しんでいた。その臨床経験も含めて、彼は、サリヴァンの対人関係論を理解する上で、性欲同や同性愛の側面を除外せず、考慮するように強く主張している」(313 f.)
訳者はこの点(巧妙に回避されていること)をどのようにとらえているのだろうと思った(「ゲイを公言しているブレッシュナー」という書きぶり・・・)。
Mark J. Blechnerの論文は、ウェブ上で入手でき、『精神病理学私記』を読み解くのに有益な情報がいくつかあり面白く読んだ。
The gay Harry Stack Sullivan: Interactions between his life, clinical work, and theory
http://www.wawhite.org/uploads/PDF/E1F_2%20Blechner_M_TGHSS.pdf
同性パートナー、Michael Allenによれば街娼であった、を養子としたことや、相互フェラチオ、いわゆる「69」への着目の背景、意味(サリヴァンの著作表紙にみられる陰陽図を模したような白と黒の馬の頭部の図柄)等の下りが特に興味深かった。
調べると訳者はTwitterのアカウントを運用している様子。明らかに個人が特定されうる投稿内容なのだが、同氏を含め特定可能な仕方でSNS運用する心理臨床家は、自己開示をめぐる職業倫理についてどのようにとらえているのだろう。
緊急の呼びかけ > 【署名対象者変更につき4/10まで期間延長】賛同の呼びかけ:トランス女性に対する差別と排除とに反対するフェミニストおよびジェンダー/セクシュアリティ研究者の声明 | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network
https://wan.or.jp/article/show/8254
オープンレターが出るより2年以上前にこういう取り組みがあって、呼び掛け人には小宮友根、清水晶子、山口智美(敬称略、50音順)が含まれている
また、公開して2ヶ月ほどで2715名の賛同者を集めたようだが、今もなお彼ら全員の名前(と所属)を公開しているようだ
> なお、3,342名からの署名が集まりましたが、同一の賛同者による重複署名、氏名の入力 がない署名、氏名ととらえがたい文字列の署名については除外し、有効な賛同者数には含めませんでした
『オープンレター 女性差別的な文化を脱するために』では十分になされていなかった、もとい恣意的に運用されていた不審な署名者の除外は、こちらではきちんと機能したのだろうか?
また賛同人について、まだ全て把握できていないが、もしかして相当数が被っていたりしないだろうか……?
最後に、感覚的な話となってしまうが、この運動の声明文とオープンレター本文と読み比べると、文体から非常に似たような雰囲気を感じた(言い回しにひどく既視感を持った)
「不寛容」を「非寛容」と書きがちな北村センセの例のように、自然言語解析に掛けたら何らかオモシロい一致が見られたりしませんかねぇ
頑なに「専用スペース」に入りたがるトランスジェンダーというのがいて、まあ「そもそも専用スペースなんてものが許容されてること自体がシスヘテロ特権そのものだろ」というシラケた気持ちと、しかし「そんなことでムキになっても仕方ないじゃん。ガキかよ」という賢ぶった気持ちが両方あって、両方わかるんだよな。
「ちょっとえっち」な程度のアニメ絵を頑なに表に出したがるオタクに対しても、大体同程度の気持ちがあるんだよな。
元々ジェンダーエクスプレッションというのはある程度のセクシュアリティとは不可分。物理的身体を通してジェンダーエクスプレッションを行う人々は、例えば肩出しや見せパンのような、古い価値観の人々が見るとぎょっとするような「新しいファッション」を自ら発明することが許されるのに、それ以外のマイノリティによる表現は既存の価値観でポルノ認定して断罪することが許されるという権力勾配は間違いなくある。しかし、じゃあ肩出しや見せパンのようなファッションが、例えば学校や職場のような場で積極的に許されるかと言うと怪しい(とはいえ、例えば「娼婦の服装だ」などというレッテルは貼られないだろう)。まあ、理不尽だろうがなんだろうが、「TPO」というのは往々にしてある。そこはそんなにムキになるところでもないんだけどさ。
ちがいます。
ERでもフレンズでもレズネタが出てきたし、ドラマでレズが出てくる時、圧倒的に多いのは「白人で美人タイプ」でしょ?
統計を取ったことはないけど、「レズのキスシーン」の方が何倍も「ゲイのキスシーン」より多いと思うんだよね、体感的に。
キラキラしたイケメンのゲイキャラは登場しても、性的に描かれるのは断然レズキャラ。
多様性の尊重じゃなくて、本当に単に「美人のレズが見たいだけ」なんだよ。
何せゴリゴリの保守で有名だったFOXのドラマでも、白人の美人レズネタは出てくる。
向こうの有名なネットミームに「gay moment」(gayは同性の意味でレズにもつかう)ってものがあって、それだけレズファンがいる(またはそれを狙った制作者のあざとい展開に「辟易としてる」)ってこと。
後からキャラクターの性的志向を無理やり変えて、それに何の意味があるのか?って。
創作物に同性愛者が出ることが大事〜って理屈なら、グレーなキャラに白黒つけろ(レズにしろ)って要求はそもそも「アウティング」の強要に繋がる考えじゃないの?って。
君たち、セクシュアリティを全然尊重してなくない?って、普通は疑問に思うでしょ。
あれも、実は「レズものが好き」なやつらにとって、エルサってキャラが「ビンビンにレズ妄想に合致した」ってだけの話なんよ。
マイノリティ当事者とかキャラ本人のセクシュアリティのことじゃなくて、自分たちが楽しむためにキャラをレズにしろ、という要求を「ポリコレぶって」無理強いしただけなんだよ。
こんな感じで、アメリカドラマにレズが多いのは先進的だからとか多様性なんかじゃなくて(それも多少あるにせよ)、あれは単なる性的嗜好でしかない。
製作費に出資する側も、そうすれば評価と売上の両方が得られるから、みんなそういう流れになってる。
資本主義は正直だよ。
未だに進化論を否定して「聖書は同性愛を禁止している」って叫ぶ奴が半分いる国だし、国民投票でトランプが大統領になる国だし、黒人への暴力が平然と行われてる国だし。
人権とか根っこの部分で、驚くくらい日本より遅れてることも多い国じゃん。
何でもかんでも「先進的」なわけじゃないんよ。
嗜好を満たしつつ「多様性を重んじてるフリ」ができるから、(美人の)レズは「ポリコレ業界」では重宝されてるわけ。
アメリカのゲームは先進的~とか言う人いるけど、「クィア系の女キャラ」はかっこよくて奇麗な(男からも女からも人気が出る)デザインが多いからね。
エンターテインメントなんだから、本来それが正しいことだと思うけど。
ネタバレになるけど、何を隠そうパーソンオブインタレストこそがそういう「美人のレズカップルネタ」で人気を稼いだ作品なんだよね。
今後、露骨に美人レズ二人の恋愛がピックアップされた話になってくよ。(黒人女警官は、さてどうなるでしょう?)
多様性じゃなくて、BL(の逆)みたいな「嗜好品としてのレズ」なのがよーーくわかると思う。
美人のレズが出たら視聴者としての自分は嬉しいけれど、少なくともこれをポリコレだとか先進的と呼ぶことには抵抗があるし、しなければいけないと思う。
『「就活の邪魔になると思った」赤ちゃんを窒息死させた元女子大生の被告が語ったこと〈両親はまだ1割程度しか私を理解していない〉』
https://bunshun.jp/articles/-/51546
この記事、「被告は、自身をアセクシュアルだとしている。LGBTQのひとつで、他者に対し性的欲求を抱かないセクシュアリティのことだ。風俗のアルバイトの動機としている。」らしいけれど
実際、自称アセクシャルの女性って殆どがこういうタイプじゃないかな。
男に股を開く事もその結果の妊娠や出産にも抵抗の無いタイプが、そこらのヘテロ女と一緒にされたくないという選民思想からアセクシャルを名乗るという。
本当のところ別にアセクシャルでも何でもないんだろうし、普通に男と性行為出来るただの一般女性なのにね。
少なくとも女の場合、アセクシャルなんて存在しないと思うんだよね。
単に受動的なだけで、しようと思えば性行為に抵抗の無い女がアセクシャルを名乗っているっていう。
それと違って男の場合は基本的に性行為には能動的な行為が必要だから、もしかしたらこの世の何処かにはアセクシャルも存在するのかもしれないが。
あと、仮にアセクシャルなる者が存在するとしても、単なる独り身の人間とアセクシャルとでいちいち分ける必要性を全く感じないんだけど。
シスヘテロ対人性愛者の男が自身の加害性を許してもらいたがってる様子には反吐が出るが、しかしフィクトセクシュアル当事者としては、「二次元」や「萌え」という文化が内包するセクシュアリティの部分を漂白されることに対する危機感もある。
「愛する人と人生を共にするのに性別なんて関係ないけど、尻の穴に性器を突っ込むなんて不潔で気持ち悪いよね~」みたいな言説がカジュアルに蔓延して喜ぶ同性愛者はいない。LGBT運動の一部としても、そのような「オシャレに、カジュアルに消費される活動」から落とされる「汚い」部分を、敢えて「まるでチキンレースのように」表現する人々もいるが、それを「ゾーニングを守れ」と安易に断罪して良いとする倫理観は、マジョリティにとって都合の良い価値観だろうと思う。
「大人同士で同意があればセックスしても誰も傷つけない」と主張する人もいますが、それは間違いです。
現実には大学生や新入社員など、20代前半の女性が酒やドラッグで酩酊させられ、「同意」を捏造するという性犯罪の手口が横行しています。
大人同士であろうが、同意があろうが、「生きた人格のある人間を相手にセックスしてもよい」という狂った倫理観を肯定すること自体が性犯罪の蔓延に奉仕しているのです。
生きた人体の内蔵と内蔵を擦り合わせて性的快楽を得るという危険な行為に走らずとも人は生きていけるし、性的に満足することも可能です。
例のオープンレターにはこんな一節がある(以下、引用者による省略は[ ]でくくって示す)。
これって、発端の先生が熱心に「高い倫理」について論じてらした宇崎ちゃんの献血ポスターへのバッシングのことでしょ。もちろん他にもあるのかもしれないけど、メンツ見たら「あ、あの件」ってわかる人にはわかるよね。
これまで赤十字が(女性向けゲームも含む)色々なコンテンツとコラボしてきて『宇崎ちゃんは遊びたい!』とのコラボはその一環だったという経緯、「売血」を問題視しておきながら10回献血すればおしゃれな杯がもらえたりモーターショーで献血すると限定トミカがもらえたりすることには一切言及せずオタク向けコンテンツとのコラボだけをことさらにあげつらう偏り、ポスター擁護派へのバーレスクやらを持ち出した煽り、このあたりにめちゃめちゃ腹が立ったので今でも献血ポスターバッシングに加担した人たちのことは許せてないんだけど、こういうふうにさらっと書かれたらこういった経緯を全然知らない人はスルーしてそのまま署名しちゃうでしょ。
このオープンレターに賛同したらあの献血ポスターバッシングに賛同することになる以上、当たり前だがポスター擁護派の増田は署名なんてできようはずがなかった。
オープンレターの発起人の中には、「金田淳子 やおい・ボーイズラブ研究家」という方がいらっしゃる。普通の賛同署名ではなく発起人の欄に書かれているので、お名前を勝手に使われたのではなく紛れもないご本人だろう。
そうすると、ご自分の過去の言動についてはどう思っていらっしゃるのかなというのは気になるところだ。では、ここで2019年に金田氏が自著の出版に際してなした発言を見てみよう。
なるほど、「ケツの穴が小さい」という慣用句にかけた性的なジョークを披露なさっている。ところで、板垣恵介氏は金田氏の以前からの親しい友人というわけではなく、『刃牙』を元ネタにした書籍の発刊にあたって許諾を取ったという関係の、いわば仕事相手であろう。ということは、金田氏は「仕事相手に対してオンラインメディアで多少性的なジョークを言うのくらいは別に構わない」という立場を採っていらっしゃるわけだ。それ自体はひとつの見識であろうと思う。人には表現の自由というものがある。しかしそのような立場の方が、オンラインでの「遊び」に対してNOを突きつけるオープンレターの発起人に名を連ねていらっしゃるというのは、なかなかに興味深い事態ではないだろうか。
なお、マイノリティということで言うなら、男性同性愛者が苛烈な差別にさらされているマイノリティであることに異論はなかろうと思う。ところで、BLややおいという文化は、彼らを性的に客体化し、消費するものであり、もしも女性を「性的消費」することが女性差別的な文化であるなら、男性同性愛者のセクシュアリティを消費しているBL/やおい文化もまた、男性同性愛者への差別にあたるはずだ。個人的には性的客体化も性的消費も好きにすればいいしそんなのは差別ではないと思うので、女性を性的客体化した表象が問題ないのと同様に、男性同性愛者を性的客体化することを楽しむジャンルであるBLも問題ないと考える。しかし「性差別的な表現」を批判するオープンレターにBLを肯定的に捉える立場のBL研究者が参加しているというのは、「もしかしてBLのことを性的客体化だと認識してないんですか?」という深刻な問題を惹起するだろう。
【追記】金田氏の過去の発言について、『ユリイカ』での荒木飛呂彦氏への発言が取り沙汰されることがある。荒木氏本人に向けて「ディオは[……]何百人もの男たちに慰みものにされてきた」という発言を行った箇所だ。しかしこれはある作品の解釈を論じているという文脈であり、作品解釈を著者に向けて披露することが直ちにハラスメントということにはならないはずである。板垣氏へのアナル発言のように著者本人の身体部位をからかいの種にしたわけではない(なお、アナル云々について「謝罪はされている」という指摘はあるが、「『アナル』の多用」についての謝罪であったので、「仕事相手に向けて性的なジョークを言う」ことそのものへの謝罪ではないように思われる。もちろん氏には「仕事相手に向けて性的なジョークを言ってなにが悪い」と主張する自由がある)。漫画作品にはいくつもの解釈があり得、その中には性的な解釈も当然あるだろう。もしも金田氏が本気でそのような解釈も成り立つと考えているのなら、それを著者の前で論じたとしてもなんの問題もない。男性研究者がある少女漫画――そう、忘れられがちだが『ジョジョの奇妙な冒険』は少年漫画なのである――について「このキャラは男とヤりまくっていると思う」と女性の作者に向けて発言するようなものだろう。仮にそのような解釈が成り立つなら、そういった発言も許されてしかるべきである、と、ゴリゴリの人文系である増田は考える(文学作品の解釈において「作者の気持ち」には何の意味もないことはもはや常識であろう。作者本人にとっていかに不愉快な解釈であってもそれが成り立つことはあり得るはずだ)。
問題発生当初から、周囲の研究者があれはアカハラだと言っていたことに非常に大きな違和感があった。なるほど中傷した人もされた人もどちらも博士号を持っていて、大学に職を得ているアカデミアの住人ではある。しかしそれは「アカハラ」か? 中傷された人は、中傷した人と何らの面識もなく、大学や学会等での関わりもなく、そもそも専門分野がまったく違っていた(日本中世史と英文学って、分野も対象地域も違うから出身大学院や勤務先が同じでもない限り基本的には接点がない)。さらに中傷した人は、大学准教授以外にも作家や弁護士といったアカデミアとは無縁の人に対しても中傷を行っていたことが明らかになっている。
そうすると、これは単に「リベラルやフェミが嫌いなネット民が、リベラル派やフェミニストの言論人に対して中傷を行っていた」という案件ではないだろうか。たまたまネット民と言論人の双方が博士号とアカポスを持っていただけで、本質的にはアカデミアの問題とは思えない。だから問題がないと言っているわけではない。例のオープンレターは増田には「帰宅途中の銀行員が夜道で財布を奪われた事件を『銀行強盗』と呼んで行員の組合が抗議声明を出している」ように見える。いや、確かに銀行員が強盗の被害に遭ってはいるけど、それを銀行強盗とは呼ばんやろ……
そう、発端の先生は学者であると同時に言論人でもある。いくつかのオンラインメディアに社会評論的な記事を書いておられる。そのこと自体にはなんの問題もない。学者が自分の専門知識を活かして言論人として活躍するというのは表現の自由であり、なんら制約を受けるべきではない(呉座勇一氏も似たような立ち位置だったといえる)。
しかし言論人というものは、しばしば見ず知らずの人から口汚く罵られたりあてこすられたりするものだ。たとえば百田尚樹氏は、ご自分の社会評論を発表したことで、非常に大きなバッシングに遭っている。当然それにはなんの問題もない。百田氏の思想や彼の著作を気に食わない人は、たとえ百田氏となんの面識がなくとも、彼のことを痛烈に批判したり、事あるごとに彼の名前を出してあてこすったりするだろうし、それは表現の自由に属する(「百田尚樹はクソッタレの極右だ」「ウィキペディアを参考にして本を書くとか、百田尚樹かよw」「コピペは許されないだって? 百田先生への悪口を言うのはやめてさしあげろ」etc...)。もちろん、性差別や容姿差別はたとえ相手が百田氏だろうと許されるべきではないが、出版された著作に基づくこの種の批判を浴びるのは仕方ない。
これらの罵倒や当てこすりになんの問題もないと思うなら、同じ判断基準を他の言論人にも適用すべきだろうと増田は考える。増田は、百田氏に対するその種の批判は表現の自由の範疇に属するものだと思う。したがって、件のオープンレターには賛同できなかった。
昨今騒がれている署名の偽造については、もちろんオープンレター発起人に悪意があったわけではなく、悪意を持った何者かによる悪戯であろう。そこは同意するし、悪戯の被害に遭って気の毒に思う。
しかし、研究者同士のメーリスで回覧するとかではなくグーグルフォームで広く署名を募った以上は、そういう愉快犯が紛れ込んでくることはどうしたって避けられない。これはネットでの署名活動にまつわる常識であろう。したがって普通は、ネットの署名は「○○筆の署名が集まりました!」とだけ広報し、第三者はそれを1割から2割ほど差っ引いた数字で捉えるものだろう(たとえば、7万筆ほど集まった署名なら、まあ6万人くらいが署名したのかな、と捉える)。
アカデミアに関する抗議声明がしばしば組織(大学や学会)の名の下で行われる理由のひとつは、その声明に信憑性を持たせるためだ。信憑性を持たせるためにはある程度の権威主義が必要になってくる。今回の場合、たとえば大学などの組織が発行したメールアドレスから送信された署名のみ受け付けて、フリーメールアドレスからの署名は弾く、というような手法も考えられた。ところが「マイノリティの声を拾い上げる」というのを信条にしている研究者諸氏は権威主義が嫌いなので、アカポスを得られていない研究者はどうするんだ、とか、在野で活動している人はどうするんだ、といった配慮をしてしまったのだろう。その優しい配慮は学会の運営などでは必要なものだが、今回はそれが裏目に出てしまった。不幸な出来事だったと思うが、しかし信憑性を確保できない以上、ここは個々人の名前を出すべきではなかったのではないか。「○○筆の署名が集まりました」で十分だろう。次からの教訓にしてほしい。
「大人同士で同意があればセックスしても誰も傷つけない」と主張する人もいますが、それは間違いです。
現実には大学生や新入社員など、20代前半の女性が酒やドラッグで酩酊させられ、「同意」を捏造するという性犯罪の手口が横行しています。
大人同士であろうが、同意があろうが、「生きた人格のある人間を相手にセックスしてもよい」という狂った倫理観を肯定すること自体が性犯罪の蔓延に奉仕しているのです。
生きた人体の内蔵と内蔵を擦り合わせて性的快楽を得るという危険な行為に走らずとも人は生きていけるし、性的に満足することも可能です。
「大人同士で同意があればセックスしても誰も傷つけない」と主張する人もいますが、それは間違いです。
現実には大学生や新入社員など、20代前半の女性が酒やドラッグで酩酊させられ、「同意」を捏造するという性犯罪の手口が横行しています。
大人同士であろうが、同意があろうが、「生きた人格のある人間を相手にセックスしてもよい」という狂った倫理観を肯定すること自体が性犯罪の蔓延に奉仕しているのです。
生きた人体の内蔵と内蔵を擦り合わせて性的快楽を得るという危険な行為に走らずとも人は生きていけるし、性的に満足することも可能です。