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2024-03-14

同性婚のおもろ解釈たち

https://anond.hatelabo.jp/20240314124031


そら言いたいことはわかるけど、普通に論理をたどればそうはならんやろみたいな、自動車教習所ででてきそうなおもろいとんちみたいな解釈たち。


憲法24条は同性婚について何も規定していないか禁止もしない

しかに笑

俺の東京タワーとの結婚も何も規定してないから、禁止しないで、法律で認めてよね


男性男性女性女性も両性だ

なら右翼右翼左翼左翼も両翼だよね


そりゃ、憲法自体曖昧性のある自然言語規定されてるんだから、ある程度解釈があるのは理解できるし、それこそ自然言語選択した理由なんだろう

だけど、自然言語曖昧性の限界まで解釈を拡大して、普通に考えたら間違ってるようなところまで解釈を拡げるべきだとは思わない

そこにきちんと、改憲という方法があって、それこそが一番直観的な方法名のにも関わらず、全く直観的でない解釈を拡大させるのはおかしいんじゃないか


他になにか別の解釈方法ある?

2024-03-10

ゴリラと犬ならどっちの方が頭がいいのか

人間脱出できない迷路を猫が脱出するという事例がある。この人間個体としてアホすぎただけかもしれんが、猫がある程度賢いともいえる。

猫にクリアできるんだからGPS機能遺伝子レベルでついてる犬ならいわずもがなクリアできる個体一定するいるだろう。

そこで思ったんだが、なんで犬は文明を持たなかったのか。人間並みの道具を作ってそれを行使して犬と人間が対等に種族対立して戦争するみたいなことにはならなかったのか。

私は思う。犬はゴリラ程度と比べれば十分賢いが、その身体性ゆえに、賢さを十全に外的に表現することができなかったのではないかと。

犬や人間には物をつかんで器用に扱うのに十分な長さの指が犬にはない。

これだけでも、いくらちゃんの頭のなかで、人間征服する道具を作り出そうとしても、作れない。人間は「機械を作る機械」を作り、今度は機械にその作業を繰り返させるようことによって、その道具を精緻化させていったが、そういう機械ももっとも原始的な段階のものすら、あの体では作れそうにない。

また一匹すごく賢い犬がいても、その発想を共有する手段としての言語を持たないから、人間がするような大人数による巨大なプロジェクト=文明もできるわけがない。

言語を持たないのもまた脳自体に宿る知能の高低よりも、身体性の問題だ。

人間が持つような言語構成するほど多様な発声が犬の声帯には無理だからということだと思う。

モールス信号なら犬でもできそうじゃん」って思うだろうが、自然言語をすっとばしてモールス信号をいきなり発明してかつ「それをプロコトルとして他者認識の共有を図る」つまり「それ以外の一切の言語を前提として持たずに、モールス信号モールス信号を伝える」のは、人間の知能でも無理ではなかろうか。

そういうわけで、犬ちゃんはそこらの日本語文章も読めずにクソリプするひとたちよりはよっぽど理知的なことを考えていて、人間征服しようと夢想はしているが、この体ではそれができないことこともわかっていて、悟りの境地で人間に従うふりをしているだけなのかもしれません。

2024-02-29

anond:20240228150901

デジキューブはすぐ死ぬし、ポケモンが全世界征服する。(95年だとポケモンまだないか?)

PSが爆発的に売れてソニーゲーム会社になる。

マリオ3Dになる。

FF3Dになる。

ゲーム3Dデフォルト

FPSゲームの主流。格ゲーは廃れる。

画面は全部液晶モニターになる。

FF映画作ってスクエア倒産(エニックスに吸収)

SEGA案の定ハード戦争に負けるが、なんと潰れない!

CAPCOMは当然ある。

サンソフトが未だある。

アイレムが未だにある。

SNKは無い(あると言っていいのか?)

マイクロソフトゲーム会社になる。

最近の若者PCも使えないしキーボードも使えない。という老人の嘆き。

20年以上検索企業がTIを牽引。

AI自然言語でおしゃべりできる。

携帯は小型液晶タッチパネルボタンはなくなる。f

充電もワイヤレス

イヤホンも全部ワイヤレス

何ならイヤホンは本当にケーブルなくなって耳いれる部分だけになる。

誰も現金使わない。

携帯で月300GB通信

ドラえもんの声、いきなり全員変わる。

アニメゲーム大人の遊び。

クレヨンしんちゃん映画は泣けるとかいう風潮。

ロックは老人趣味

ハーレーは老人趣味

マジンガーZゲッターロボの杖が売られてる。

まちおこしで全国に萌えキャラが出来る。

携帯通信上限無しで、ネット動画見放題。

VHSが無くなるのは当然としてDVDのような円盤も壊滅。誰も記録媒体を使わない、動画ネット配信

衛星放送過去遺物で誰も見ない。

ボイパしてるだけの若造が何億も稼ぐ。

ビットコインかいう謎の暗号履歴所有権が900万円する。

誰も物理本を買わない。

完璧に声を変更するソフトウェア技術カメラに売っ釣った見た目を変更する動画技術もある。

文字入力だけで人間と遜色のない声を出す合成音声。

文字入力だけで音声と歌を完成させるサービスが有る。

文字だけで実写写真作れる。

文字だけでイラスト書ける。

文字だけで動画作れる。

AI関連はここ1年で爆裂に伸びたなぁ。

衣料品どころか靴までネットで買うのが主流。(2006年ごろこれやってる知人がいて、めちゃくちゃ驚いたけど、もう本当に当たり前の風景になったな。)

携帯動画通話余裕。

なのにオフィス通勤が主流。

何なら通信環境が整ったので24時間365日、仕事と隣接した生活になる。

2024-02-25

anond:20240225234748

誰も今のようなプログラミングがしなくても良く、誰でも自然言語プログラマーになれる世界を作るのが我々の仕事である

Jensen Huang [Nvidia CEO

2024-02-22

アノテーションツール進化と、命令補完に、AI進化引きずられるのでは

地味で面倒で時間がかかるアノテーション作業

結局、ここの性能がどれだけ良いか自動化出来るかでは。

一度AI認識し始めれば自動化進むが、最初必要になる。

自動化したとして、ツールの癖が出ると、それがずっと引きずられる。

アニメだと、エフェクト名前アノテーションつける人がわかるかとか。

名前つけられないと分離出来ない。

あとは人間がわかりにくい自然言語以外のアノテーションどうするか。


使う側だと、人間が書く短い命令をどこまで裏で補完出来るか。

補完後の命令も表示して、意図してないなら直してもらうとして、人間がわかりにくい自然言語以外のはどうするか

2024-02-18

anond:20240218125000

表現は一意ではないのだから、その人の中で誤解無く解釈が成立するのなら、思考記号列でも自然言語でも構わないと思う

そうではなく、書き換えるという動作がなんであるかを身体感覚として知っているか

コンピュータならそういう解釈物理レベルプリセットして設計されてるからじゃないか

個々の動作プリセットされているというよりは、AIみたいに多くの経験から共通点を見つけ出して学習するような能力人間実装されている、という方が正しそうな気がする

それが「厳密ではない」と言うならそれはそうなのかもしれないけど、結局「究極的には厳密さは多数決によって担保されるしかない」というところに帰着しそう

メタイデア

数学における自然数みたいなもの定義、が形成する概念を、たとえば数式の3という表記が指示する概念が、我々が日常見てる、3個のりんごやひもとその3倍のひもが並べられてる光景や、時計の長針と短針が三目盛り分ずれてるみたいなのから得られる共通世間一般に3とよばれる性質と同じだと思うのは、すでに「解釈」なんだよな。

数学において3、「0の次の次の次の数」と自然言語では説明されるような概念はただの操作対象である記号列でしかない。

その記号列にどんな意味を持たせるかは、「物理現象の中に見いだされる3という性質」以外にもあるかもしれないし、ないかもしれない。

「直線と呼ばれるもの定義」についても、幾何的なイメージ解釈するのも、イデアル?だかで解釈するのも勝手日常生活の個数や順番などとして見出される3の性質も、それと同程度に解釈しかない。

トポロジーなんかが典型的だと思う。あれが示す証明が、幾何的なイメージとしての立法内包する何かに対する性質を示してると考えるのは解釈しかない。

そうすると自然言語認識してる3や△というのは、たとえそのもっと理想的ものを持ち出しても、数学定義にとっては一段レイヤーの低いイデアということになるかもしれない。

数学定義に対して、複数の3や三角形というイデア解釈として結びつくなら、数学定義メタイデアか。

その前は、定義もまたイデアとするなら、3や三角形物理イデア、と物理的を冠して存在する領域区別すればいいのかなとか思った。

anond:20240218092748

突然これらの定義を見せたら, ただの絵や呪文に見えるでしょう

でしょ?それでその定義を(いずれ大数学者になる人も含め)初学者に教えるのには多少なりとも自然言語を使うでしょ?

その自然言語によって形成された理解内容が、数学的にいうなら「一意」である保証はあるの?

定義や一覧表が、定義者の頭の中の観念の「表現」に過ぎないというなら、それはそれで「定義者」と「それ以外」とで観念が一意に共有される保証ってこと?不可知論的だけども。

anond:20240217133852

もっと根源的な問題として、推論規則の「一覧表」があるとして、あるマスの記号とあるマスの記号列の関係それ自体を厳密に記述することは可能なのか?と思う。

はい. もちろんできます. 例えば数理論理学の本などを参照していただければ, 証明体系などの数学定義が与えれらています.

私は「書き換え」のように自然言語を使って表現していますが, これらの操作などももちろん数学的に定義されます. 「操作」とは何かという疑問をお持ちでしたらラムダ計算理論が参考になると思います. そしてこれらの操作は全て計算可能です, 平たくいうとプログラムとして実装できます. これらは全く感覚的なものではありません.

・(その他の部分に関して)

何が問題意識としてあるのかが私ははっきりとつかめていません. すいません.

例えば自然数概念を共有していれば上記概念(証明体系等)は一意的に共有できるものです. 一方で例えば何も共有していない全く無の人にこれらの概念を共有するのは困難だと思われます.

卑近な例でしたら, 数学を全く知らない人に突然これらの定義を見せたら, ただの絵や呪文に見えるでしょう. (私はそれはそうだと思います. 数学に対してどういう普遍性を求めているのか分かりませんが. )

最後に, 哲学的にそのようなトピック議論したいのであれば, 無理に数学言葉を使わなくとも可能だと思われます. 時には数学における言葉遣いが通常の言葉遣いと異なる場合もあります. また度々言及れい事柄のいくつかは様々なな分野で歴史的議論, 研究されているトピックがいくつもあります. いくつかの文献を読んでみて一度整理されると, 誤解, 車輪の再発明を避けることになりますし, あなたがどういう問題, 問題意識を持っているかをきちんと言語化する助けになると思います. それに加えて, これまで人々が様々な学問領域で積み重ねてきた多くの結果に敬意を払うことが重要であると私は考えます.

申し訳ないですが, 一度この議論は終わりとさせてください. 参考になれば幸いです.

2024-02-17

anond:20240217181200

ここまでは、気が狂った理解であり、定義の厳密さには無関係

ここからは、気が狂った理解にはあたらず、定義の厳密さに疑義を挟む余地あり

その境界はどこなの?それこそ恣意的主観的じゃなく厳密に線を引けるのか?別の話っていうよりは分かちがたい問題に思えるが。

「"証明自然言語で書きつつも, いざとなったら形式的文字列に書き換えることができるという前提に立っています" 前提が共有されていない人との間では一意さは共有されない場合がある、ということをどう捉えるか」というのもある。

悪意のない、そして別に狂ってるわけでもない知性的存在(生命に限る必要ないだろう)が、前提を共有してないこと、というのは無理なく想定されることだと思うけどな(知的存在人間以外にいるわけないじゃんという突っ込みはさておき)。

anond:20240216215810

「Aかつ¬Aの証明を得ることができる」に対して、「いいや得られない。お前がそのように見せかけているだけだ」おれの計算(記号処理)手続きこそ推論規則に適っているし正しいと、反論されたら?

また、「そもそもここでいう『得る』とは」どういう意味か?と突っ込まれたら曖昧でなく『得る』ということが『得る結果の具体例ではなく』『どういうことか』記述できるのかという話です。

¬¬A→Aという規則に基づいた結果が

¬¬¬¬¬A→¬¬¬(¬¬A)→A

なんだよ!と言い張られる。もちろん常識的にはおかしいと思えますが、いまは突き詰めたことを言っています

一般には、¬¬¬¬¬Aを書き換えるために、この記号列の一部分¬¬Aに着目して、規則からAと書き換えられるから、この結果を¬¬¬(¬¬A)に代入?して、¬¬¬Aに書き換えられる、という思考プロセスをとるでしょう。

しかあくまものとしては、ここで考えているのは¬¬Aではなく¬¬¬¬¬Aなわけです。

規則通りに書き換えられてない、言い換えるなら同じ規則を使っていないという主張に対して、そもそも同じ規則適用できているということ、規則が同じとはどういうことか自体定義公理に組み込むことはできるのか。

矛盾証明ということはまだその概念記号列で示す余地があるが、規則が同じかどうかという定義もとい「規則」は厳密に定義可能かということです(無定義語として関係性の定義でもよい)。図形が合同か、みたいな合同の概念定義など比べてもまたレイヤーが一段メタ的になっていて厄介というか。「違うのは自明じゃないか!」といっても、自明説明できてこそ自明なのですが、ここでいう同じかそうでないかということについてはそれを根拠だてる定義原理的に無理なんじゃないかと思えてしまます

さきほど『得る』という言葉に突っ込まれたら云々ということを言いました。

ブコメには「自然言語曖昧さで数学をの厳密さ否定しようとしてるだけだ」というのがあります

別に私は自然言語曖昧さを問題にしていません。そこは問題本質ではないです。

しろこうした言葉一般に疑いようなく明らかなものです。「左右」とか「これやあれ」みたいな近称や遠称の概念などもそう思われるでしょう。

しかしむしろこれらの概念には一切曖昧さはないという前提に立っても、これもごく単純な話で、曖昧でないからといって、いままでその概念を持ってなかった知性的存在に対して、「これ」や「左右」といった「概念」を、対面やジェスチャーを使えばいざしらず、記号列を用いて一意に定義できる保証はないよね、ということです。定義の厳密さを担保する必要条件が、記号理学に基づくということにあるのなら、数学を厳密とのたまうかぎりにおいて、当然対面やジェスチャーではなく、これとか同じとかみたいなもっと原始的な部類の言葉まで全て記号で一意に定義できることを示せなければならないでしょう。

あとあなたが↓のトラバと同一だと言ってくれたら以降↓の方のツリーに返信書いて一元化するのでそのつもりで

https://anond.hatelabo.jp/20240216215810

ちなみに関連しそうな話題として自分自身ラムダ式勉強した経験があるけど

1. 変数xはラムダ項。

2. ラムダ項M, Nに対して (M N) はラムダ項。この形のラムダ項を適用ラム適用)という。

という定義があるんだけど、これに基づけば(x x)というのもラムダ項じゃないのって思ってた。

でもラムダ式で(x x)なんて形のは見たことないし、違うんだろうなと。

でも論理的にはなぜ違うのか全く納得できてないので(納得感が正しさにとって問題じゃないとはいえあえて言うが)(x x)だってラムダ式でしょって胸を張って言い張れる。

分かってる人からみれば、そして俺にとっても¬¬¬¬¬A→Aと同程度にバカげた主張なんだが、そのわかってる人にとっても「この規則ならこういうことが言えると思うのに、なんで正解とされてるのと自分が思ってることが違うの?」ってなることはあるはずで、それはこの世で一番数学ができる人であってもありえること。この世で一番数学ができる人さえ規則を正しく適用できていないらしいときそもそも正しい適用とはなんだってなりそうに思うんだが。

anond:20240217105658

望月トンデモなのじゃなくて、数学定義原理的に厳密であり得ないという可能性も否定されないよね。

あと、どんな数学的主張も記号論理学でいう記号列に翻訳できるものなら(逆にいえば翻訳できないもの数学問題としての資格はない)コンピュータ機械的証明が正しいか確認できるっていうけど、

それならなぜABC予想の証明記号列に直さないんだ?それが完了すりゃ紛糾の余地なく白黒はっきりつくはずなのにね?やってるけど難しいからまだできてないってだけ?

そもそも証明論文から記号列に直した「つもりになってる」ある記号列を作ったとして、それがコンピューターが正しいと言った時、記号列が正しいことにしかならなくないか

まり「つもり」ではなく、論文という多少なりとも自然言語の部分をはらむ文と、記号列が厳密の翻訳元と先として対応していることを、この自然言語原理的に介在してしまっている「対応してるか」という問題を解けるのかということ。

2024-02-16

anond:20240216124331

哲学など数学以外のことは専門外のため, あくま数学に関することだけ言及させていただきます.

ユークリッド幾何学言及されているように数学歴史紀元前まで遡りますが, 数学形式化が意識され始めたのは1900年代以降と最近の話です. 主にヒルベルトによって主導されたものだと私は理解しています. (もちろん多くの数学者がこのプログラムに関わってきました. ) 数学形式化や形式主義で調べると参考になると思います.

数学的な内容に関して言及したいことは多くありますが, かいつまんで述べさせていただきます.

(あくまでこれは元の記事が間違っているなどと主張しているわけではないです. 現代数学の考え方や雰囲気の一部を分かっていただければ幸いです. )

現代形式化された数学原理的には決められたルール(公理と推論規則)を用いて行われる一連の手続きです. それらの「意味」が何かは一旦全て忘れてください. ここで公理とはあらかじめ定められた記号列で, 推論規則はいくつかの文字列を用いて新しい文字列を生み出す操作です, 例えば文字列A→BとAが与えられたとき文字列Bを得る操作があります. 定理(数学命題)とはこの操作によって生み出される文字列です. これらの操作数学における証明形式的に記述したものになっています. 論理式などもこの形式化のもとで特定の条件を満たす文字列として定義されます. 例えば論理式Pの否定は¬Pという文字列です. (ここでは否定を表すための記号として¬という文字列を用いています. )

ここまで文字列だけを考えた形式的なものですが, 構造モデルを使うことによってこれらの文字列解釈する(つまり意味を与える)ことができます. (詳細は省きます. ) 構造モデルを定めることによって論理式の意味が一意的に定まります. またそれらの取り方を変えることによって意味が変わることもあります.

これの考え方によって(数学的な)意味形式から分離されています. さらに気になる場合ゲーデルの完全性定理などを見てください.

そして適切な公理と推論規則を定めることにより数学のもの形式的に扱うことできます. その適切な公理はツェルメロ-フレンケル集合論(ZFC)と呼ばれており, 現在数学者はこのZFCを用いて数学をしています. (一部, 圏論などでZFCに収まらない議論があると聞きますが, それらもZFCの適切な拡張を考えることで解決できます. )

まり, これまでに書かれた数学証明などは全てこのZFCを用いることで文字列操作に書き換えることができます.

一方で数学論文普段言葉(自然言語)を使って書かれます. これは本当に全て文字列に書き換えることをした場合, 可読性が著しく落ち, また分量も膨大になるため人が読めないためです. しか証明自然言語で書きつつも, いざとなったら形式的に文字列に書き換えることができるという前提に立っています. そしてこれは理論的には可能であり, 数学の厳密性を担保しています.

定義の一意性」に関してですが私自身が元記事の要点を完全に理解しているわけではないのですが, 数学に関していうとある数学概念定義複数あることはよくあります. もちろんその複数ある定義同値であることを証明されなければなりません. ここで同値というのはある数学対象A定義Pと定義Qで与えられていた時に, 「Aが定義Pを満たすならば, 定義Qを満たす. またAが定義Qを満たすならば定義Pを満たす. 」ということです. 実際に使う際には用途に合った定義を用いることになります. それらは同値なのでどれを選んでも問題ないです.

以上がざっくりとした形式化された数学に関してです. 参考になれば幸いです.

追記: これは筆者個人の考えですが, 数学哲学議論はしっかりと分離してなされるべきだと考えています. もちろん相互交流はなされるべきですが, 両者を混同するのは誤解や誤りの原因になると思います.

数学定義は本当に厳密で一意なものと言えるのか気になりました

たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?

と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?

ここで、これらの言葉意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います

たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。

そもそも数学の根幹部分を支える論理学重要概念である否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います

「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法

そうであるのになぜ上記のような定義公理が厳密なもの認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います

結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。

そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います

どんなに高度な数学表現も究極的には自然言語還元されるはずで(どんな高級言語機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解原理的には五感に根差し感覚的なものなのだから数学記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。

感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。

この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。

ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念直観的)。

数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459

しか抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。

有効である理由リンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます

まり抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。

また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているか確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います

これ自体ある意味抽象のものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます

抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価確認テストをすることが難しくなるでしょう。

といってもそもそもわれわれは相手自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。

頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから

対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。

しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。

反応や発言いくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターン必要と思われ、原理不可能と思います

哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常範囲内で「理解齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。

ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います

あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)

特定公理範囲内において論理的矛盾のないシステム

はいますが、そもそも矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。

たとえ矛盾記号論理の表現記述して定義した気になったところで、じゃあその記号定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義可能なんですかね?と思います

dorawiiより

追記

数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。

でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベース客観的であろうとする学問ぐらいだから別にエントリ詐欺じゃないよね?

a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。

言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ

物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。

言語的なテレパシー論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。

さら追記


イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。

イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。

先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。

語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。

しろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文ごまんとあるんだよね。

哲学において焼き増しは無意味パクリじゃないのよ。

あいブコメつける人って「方向性とかみたいな意味ベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。

ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるからリアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉ベクトルから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。

2024-02-14

anond:20240214191158

こういうこと言うやつは自然言語使わないでほしいよな

一生記号論理とかで喋っててほしい

anond:20240214185559

いわく

自然言語表現することはそもそも数学範囲外です。

なんかこういうやつに限って地頭(じあたま)わるそうというか中途半端なところまでしか数学概念理解できず一生を終えそう。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13293425613

anond:20240214182456

たとえばこの等式の状況は自然言語で表せば、青い玉と赤い玉が一個ずつあったとして、これらに対して二個ある黒い玉とペアを作ろうとしたならば、余りが出ずペアが作れるということだと思います

これだって視覚手法を用いた「証明」じゃないの?

数学って英語でいえば中学の基礎語彙レベル言葉にまで定義がないと難癖つけるのが普通な学問なの?

1+1=2を「証明」する意味はどこにあったんでしょうか?

「1は0の次の数」みたいな定義を使った証明がありますが、私が証明の意義を理解してないからなのかもしれませんが、ただ回りくどく等式を説明してるだけのように見えてしまます

というのも、たとえばこの等式の状況は自然言語で表せば、青い玉と赤い玉が一個ずつあったとして、これらに対して二個ある黒い玉とペアを作ろうとしたならば、余りが出ずペアが作れるということだと思います

ペアにしたとき余りが出ないということは、物体がなんであるかを無視してその数だけを考えたときに、一方と他方の個数が一致しているということでしょう。

今、黒い玉は2個だといったのだから、それと余りなくペアが作れる赤い玉一個と青い玉一個について、物体がなんであるかを無視して、いやこの場合色の違いさえ無視して「玉の個数」ととらえたならば、この個数も2個であるはずですよね。

そして色の違いを無視した個数というのは、色の違いを無視しないで数えた各玉の個数の合計と同値でしょう。

から、青い玉一個と赤い玉一個は合わせて二個である

そして1+1=2というのは上記議論を踏まえた命題「~二個である」を個数に注目して定式化したものにすぎないなのですから上記議論が正当なら、それに定式化されたものとして対応している1+1=2という等式も正しいことになる、と私は考えています

しか上記議論は「証明」とはまた違うような気がします。ですがだからこそ、1+1-2の正しさは別に証明」によってなされるほどのものでもないと思いました。

なぜ「証明」する必要があったのか誰か説明してくれると助かります

に対して常軌を逸した返信が来た。

その説明では「ある」、「ペア」、「色」、「ペアを作る」、「余り」、「物体の種類によらない」についての定義がありません。

こういわれるとさすがに、お前の書き込みにしたって「説明」や「定義」「ありません」等の定義がないんだがって言いたくなるんだけどこいつおかしいんだよな?

2024-02-11

生成AIパラドックスもしくはジレンマ

生成AI作成した文章が適切か、正しいか事実に即しているかといったことを人間検証しなければならない。

自然言語契約書でもプログラムでも同様に。


生成AI作成したコンテンツ真正性担保してくれるサービスは登場するのだろうか。

2024-01-31

anond:20240131143125

そのアプローチは非常に効果的ですね。メイン関数内での処理をシンプルに保つことで、コードの可読性と保守性が向上します。以下にその考え方を反映したサンプルコードを示します。

import json

# ビジネスロジック関数
def business_logic(data):
    # ビジネスロジックの詳細
    pass

# 設定情報ロード
def load_config(config_file):
    with open(config_file, 'r') as f:
        config = json.load(f)
    return config

def main():
    # 設定情報ロード
    config = load_config('config.json')

    # ビジネスロジックの実行
    business_logic(config)

if __name__ == "__main__":
    main()

このコードでは、メイン関数は設定情報ロードし、その情報を元にビジネスロジックを実行するだけです。技術的な詳細は関数内にカプセル化されており、メイン関数はそれらの関数を呼び出すだけです。これにより、コード自然言語を読むような形で読むことができ、技術的詳細は隠蔽されます。また、各関数担当者も明確になります。このような設計は、大規模なプロジェクトやチームでの開発に特に有効です。

[]メイン関数の書き方

メイン関数では主要な処理をざっと実行する。このときに、以下を気をつけると保守性が高くなる。

こうすると、自然言語を読むような形でコードを読めるようになり、技術的詳細は隠蔽するので、担当者をわかりやすく分離することができる。

2024-01-26

anond:20240126183710

そういう言い草に読み取られることを予測してロジックにとらわれず言葉を練るのが定型発達なんだが?

お前は「うんこ食うやつなんて絶対にいない」って発言してる人いたら「いやスカトロとかあるし」とか食って掛かるクチか?

ロジックレベルでは「絶対ない=量が0」ということだが、自然言語の会話はロジックレベルで行われるわけじゃないから。

それを適切に理解できず独りよがりロジックのみによりかかって会話を行使理解しようとするから浮くんだよね

anond:20240126173002

数式だとややこしくなるからこういおうか。

1と1を全部足すことは1を2倍することと等価です。自然言語表現すればなんとか法則に左右されないからよかったね。

2024-01-22

[] 2024-01-22

今日病院へ行きました。お注射です。お注射をしてしばらくは精神があまり安定しないようです。被害妄想を持ったりしてしまます

精神というのは、変動を検出すると不快感を持つような気がします。鬱の時も一定心持ちであればそれなりに安定しますが、いきなり躁になったりすると錯乱するのかもしれません。

そういえば、私はインターネット上に残した自分黒歴史の削除を試みました。

統合失調症自分名前検索すると、誰かが勝手に私のYoutube動画躁状態ときのもの)の音声をテキスト化したものが置いてありましたが、どうやらそのサイト自然言語アノテーションサイトらしく、編集は誰でも行えるようでした。そしてその情報に「著作権侵害です」とラベルをつけて削除してきました。

うそう、あと黒歴史ブログも残っていました。精神錯乱して浮世離れしていた時のブログですが、「フロントカメラ不細工でバックカメライケメンなのは、介入する観察者が異なるからだ!」みたいな意味不明なことを書き、セルフィーまで載せていたのです。

このブログはまだ削除できていません。というのも、Googleアカウントパスワードを紛失したからです。

Twitterにもいくつか精神錯乱時のアカウントが残っているのですが、それらも2段階認証を設定しており、ログインできなくなっているのです。

まあ、黒歴史というのはこのようにして、精神おかしくしている時に生成してしまものだとわかります

ところで、インターネット徘徊していたら、こんな文章を見ました。

まり人生意味を問うても無駄。その代わり人生あなたに問うている」というものです。

もしそれが本当ならば、精神錯乱して残した黒歴史を正常になってから振り返り、「この黒歴史、君自身はどう感じるのか?」と問うていることになります

まったく、人生って本当に性格が悪いですね。私が嫌な思いをしていることがわからないのでしょうか。それともその嫌な経験こそが、哲学的深淵なのでしょうか。

私はその性格上、刺激を欲しがっているのです。SNSをやるのは、誰かから刺激をもらえないかというちょっとした期待に基づいています

でも「いいね応酬」はしっぺ返し戦略的、機械的ものになります。私が誰かにいいねすれば、その分のいいねが返ってくるというわけです。

そんなくだらない刺激のために黒歴史を残すなんていうのは、一体どういうことなんでしょうか。

SNSの繋がりなんて、所詮は浅い繋がりです。オンラインだと、相手リアル存在するものだと忘れてしまう人もいるようなのです。

やはり一期一会というのは、実際にオフラインで対面で会話したことのある相手存在に対する「出会い」に感謝するような言葉であり、私をおもちゃにしようとしているネットトロールとの出会いというのは、そこまで感謝できるようなことではないと思うのです。

インターネット発言すれば、好感を持たれたり、恨まれたり、見下されたりします。しかもその発言が、本来の私の精神状態ではないことだってあります

「私」というものを、他人に誤解されることの恐怖が、SNSにはあります。もはや他人の目を気にして怯える場所です。

から私は、発言する時は匿名性を重視するのです。箴言にも、愚か者言葉数を増やしてしまうことに対する戒めがあるので、実名で語るシーンでは黙っておいた方が賢く見えるのです。

「話すは離す」という言葉もあります。結局、ネットであれカウンセリングであれ、悩みをぶちまけられる場所があれば、精神デトックスになります

そうやってぶちまけた内容というのは、恥ずかしい内容なので、やはり実名と紐づいてしまうと「目」の恐怖を感じます

まあ、浅い繋がりの人たちに「見下すな」と言うのが、そもそも無理なのかもしれません。字下げ増田を「高学歴愚者」などといって嘲笑う人たちがいますが、彼らは人の心を尊重することを軽視し、おもちゃにしています

かに愚者他人から見下されるような行動をしてしまますしかし、それが人間の弱さであり、弱さをお互いに認め合えるようになれば、「お前は愚かだ」などとインテリぶらずに優しい関係になれるのではないでしょうか。

無意味な戦いが世の中には溢れているのかもしれません。私は、愚かな人を守れる存在になりたいです。

2024-01-17

anond:20240117132814

日本語(いや自然言語全般か)って難しいねえ。義務教育国語もっとそういう言葉とその本心関係とかそういうのを教えるべきだと思うんだけど

小説読解なんていくらしても机上の空論しかならんし。

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