はてなキーワード: 母性とは
未だに子供が欲しいという母性本能が全く芽生えない、欠陥女である。
20代の頃あんなに一緒にクラブでワンナイトやらなんやかんややりまくってた友人たちは、今やしれっと立派にお母さんをやっている。みんなすごい。
そういや30くらいの時に先輩たちが「増田ちゃん!今は欲しくなくても、35過ぎると女は本能的に子供欲しくなるから!でもその歳になると妊活まじ大変だから!だから今は欲しくなくても将来のために卵子凍結しときなさい!!」ってめっちゃ言ってたけど、当時の彼女たちの年齢になっても全然本能働いてないわ。
今は楽しく生きてるけど、40代50代になると、趣味とかもだんだん飽きてくるんでしょ??自分の為だけに生きるのが辛くなってくるんでしょ??未来への希望=子を残すことが自分の生きる希望にも繋がってくるんでしょ??
あと誰かが子を産まないと国が詰むしね。私の老後を支えてくれる人財は必要だよね知ってる。
夫と猫と暮らしてる今の暮らしで充分しあわせ。むしろ母となった友人たちの出産や子育ての恐怖談を聞くたびに、ますます子供が欲しいという気持ちは薄れていく。
ちなみにあまりにもヤツらが恐怖談しか語らないから、子供がいるメリットや自慢話をしてくれや!と懇願したところ、彼女らは熟考の末に「メリットは正直ない。でもそういうもんじゃない。理屈を上回る存在」という回答を総じていただいた。
理屈じゃ語れないのなら、感情的に子が欲しいと思えてない私は完敗である。だめだこりゃ。
でも引け目はある。
彼女らがキャリアと家庭の両立やら、子の教育やら、お金のことやら悩んでる姿を見ると、なーーーんの悩みもなく自己中に生きてる自分の幼稚さに不安にはなる。
自分以外の誰かを抱えて生きてる彼女らの方が、人として圧倒的に成熟してるよなーと思う。
世の中のお父さんお母さんみんなすごいよ。
中学1年のときは23~35歳の範囲で女性に対してとてつもなく性的興奮していたし
30歳の今では40~55歳といった感じで、
自分の加齢にほぼ比例するかたちで女性の対象年齢も上がっていっている。
実際、
私の初体験は19歳のときバイト先の41歳パート(バツイチで息子が私と同い年)女性だった。
深夜0時頃無事に脱童貞を完了させたとき、照明の当たり度合いやあるいは疲労のためか分からないが、その女性が今まで見たことないほど目ジワやほうれい線が深く刻まれ、顔全体にやつれたように影が出て、別人のような顔になっているのに気づいた時は「ああ…熟女ってなんて最高なんだ…」と異常に興奮したものだった。
加齢や子育て等の人生経験から、時折どうしてもオバサンくさいリアクションが出るときがある。
性行為が始まったときに勃起したチンコを色気のない母性溢れる笑顔でさすりながら「立派ね~」と微笑ましげに讃えるところとか。
そういうのに私は本当に興奮する。
でも、この性癖や好みが許されているのは、それ自体が健全だからではなく、単に社会がそれを許すよう後付けでルールや風潮を形成していったからに過ぎない。
「ロリコンこそ健全で、年上熟女好きは問答無用の鬼畜で引き回すべき異常者なのは言うまでもない。これに疑問を呈する人間も社会は許すべきではない」
想像しただけで耐えられない。
でも世のロリコンはまさにそんな不自由のなか生きているんだよな。
こういっちゃなんだけど筋金入りの熟女好きでほんと良かったと思う。
女性にはキツイ仕事させない、女性は私服OK、女性は夜勤免除、女性はピアス・ネックレス類OK、女性は異動転勤が少ない、女性の転勤は配慮する(転居を伴う転勤はさせないなど)、女性にはキツイ指導をしない、女性は長髪・茶髪OK、女性は重い荷物持たなくていい、レディースデー(メンズデーなんて聞いたことない)、女性専用車両(男性専用車両はない)、女子大学、女子枠、司法においての女割、女性の受刑者は坊主にしなくていい(男性受刑者は強制坊主)、女性議員の不倫は許される。
挙げればキリがない。国会ですら男性議員はネクタイ着用、襟付きシャツが強制になってる。←明らかな性差別(男性差別)
こんな日本で男女平等なんて無理。日本は母性社会なうえに儒教国家だから、女性は優遇されてる。そりゃ男性側が一斉に反発する。
モモちゃんシリーズがどこかおどろおどろしかったのは民話っぽかったからかなぁ。現実の人生を民話的に語るとああなるんだな。帰りが遅いママに怒ってモモちゃんがお空行きの電車に乗っちゃうエピソードとかはリアル。本当に怖いのは死神が出てくる頃から。
モモちゃんが突然熱を出した原因が牛鬼に影を食べられたからとか、モモちゃん母が牛鬼を説得して牛の本来の菜食主義者に戻してしまうとかのエピソード(うろ覚え)。民話収集家としての松谷みよ子さん自身が源頼光さんの母性愛や妖怪退治に重なっているのかなとか考察するのですが。違うか…
シリーズは読んでいたけど、あかねちゃんが生まれてから、割と存在が薄くなったモモちゃんに自分と妹を重ねて読まなくなったな。
子育てをする動物のメスには、母性神話とは逆に、環境が悪くなると自分の生存を優先して我が子を食い殺す冷酷な行動をする習性が広く見られるが
(母親が死ねば遠からず子供も死んで全て終わりだが、母体さえ生き残れば子供はまた産むチャンスがある、という合理的な判断)
1人1人場所移して絞め殺す判断はできるのに、自分は刃物で手首かいて洗剤ゴクゴクってなんだよ。
隣で首吊れば良いだけなのに。
彼は結婚すると子供を授かり、その娘を溺愛している。娘の方も友人のことが大好きで、父親にいつもべったりくっついているそうだ。
そんな日々を過ごしていると友人はハッとした。彼は自分のことをロリコンだと思っていたが、どうやらそれは違ったらしい。彼曰く「俺は小さい女の子が好きなのではなく、小さい女の子から頼られるのが好きだったのかもしれない。母性愛のような、いや、言うなれば父性愛のようなものがあったのだと思う」。それを聞かされて大いに感心し、もしかしたら自称ロリコンの人のなかにも本当はロリコンではなくこの友人のように父性愛のようなものを抱いている人も居るんじゃないか?そう思ってこれを投稿しました。
ただただ、あなたの自律性と自立性、すなわち尊厳を冒さないように、侵入しないように自らを自制する事だけだ
何事も報いられぬこの世に……神も仏もない、血も涙もない、緑地も蜃気楼も求められない沙漠のような……カサカサに乾干びたこの巨大な空間に、自分の空想が生んだ虚構の事実を、唯一無上の天国と信じて、生命がけで抱き締めて来た彼女の心境を、小生等は繰り返し繰り返し憐れみ語り合っております。
その大切な大切な彼女の天国……小児が掻き抱いている綺麗なオモチャのような、貴重この上もない彼女の創作の天国を、アトカタもなくブチ毀され、タタキ付けられたために、とうとう自殺してしまったであろうミジメな彼女の気持を、姉も、妻も、涙を流して悲しんでおります。
隣家の田宮特高課長氏も、小生等の話を聞きまして、そんな風に考えて行けばこの世に罪人はない……と言って笑っておりましたが、事実、その通りだと思います。
彼女は罪人ではないのです。一個のスバラシイ創作家に過ぎないのです。
単に小生と同一の性格を持った白鷹先生……貴下に非ざる貴下をウッカリ創作したために……しかも、それが真に迫った傑作であったために、彼女は直ぐにも自殺しなければならないほどの恐怖観念に脅やかされつつ、その脅迫観念から救われたいばっかりに、次から次へと虚構の世界を拡大し、複雑化して行って、その中に自然と彼女自身の破局を構成して行ったのです。
しかるに小生等は、小生等自身の面目のために、真剣に、寄ってたかって彼女を、そうした破局のドン底に追いつめて行きました。そうしてギューギューと追い詰めたまま幻滅の世界へタタキ出してしまいました。
ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んで行ったのです。
ただそれだけです。
理不尽に産み落とされ、苦しみ喘いで生きていき、恐怖と後悔に苛まれながら果てていくような、
そんな地獄が、現世には顕現している
「もう無理なのに ですか?」
「後でできないと 知ったら余計に 傷付くんじゃ…」
「そうかも しれません」
「でも 亮介君の 生き方は 亮介君に 決めさせて あげたいんです」
友田は、折々に「ブライアン氏」が「真空」、すなわち、独りの状態になる必要があると言及していることに着目しました。対するセラピストは、その度に、中立または否定的に、これに応じています。セラピストは理論上は、非指示的であり続けましたが、一般の西欧のセラピストと同様、孤独な状態もしくは真空の状態の治療効果について非常に熱心だったわけではないようです。
友田の見解では、「人間というものの真の飛躍もしくは成長は、完全に一人ぼっちであるときに生起する。個人の飛躍もしくは成長を確かなものにするのは、何らかの人間関係においてか、もしくは現実の世の中においてである。がしかし、真の成長がおこるのは、現実の人間関係においてでもなければ現実の世の中においてでもない」
友田はさらに、「このことはまた、禅の真理である。(中略)カウンセリングに関して言えば、ロジャーズ派の技術の真義は、それらの技術がクライエントを援けて完全に一人ぼっちである状態になるようにすることである。」と続けます。
―中略―
母性的尽力的配慮は相手を甘やかしたり、子ども扱いするものですし、父性的訓育的配慮は相手を支配したり、奴隷化するものでしかないわけです。第三自我形成期(第三反抗期)を超えてレベルⅢの人格に到達することは、本人にとっても周りの人々にとっても、大変難しい困難なことでもあります。
「人」ができることは、本当に少ない、殆どない
神でも仏でもならざる我々の手や腕は、あまりにも短く細い
半径85cmの範囲ですら「すくえない」のが、我々という生き物の現実なのだ
だから、できる事は祈り、願い、目の前にいる相手を「人」として扱う事だけなのだ
「物」ではない、「人」として
それは非常に難しい
生きていることは素晴らしい、働くことは凄い、人に優しくできるのは偉い、頑張っている人は美しい
それに沿って生きる事が善いとされる
苦しんでいるなら無理をしなくてもいい、休んでも良い、人にはできないこともある、人にはそれぞれの価値観がある
「やさしい」言葉がある
これも、また「正しい」のだろう
けど、何もかもに納得できないまま生きていくこともある
何が正しく、何が善く、何が良いものなのか分からずに、それでも人生が続いてしまうことがある
「裸も」
今思えば、いつかこうなってしまうと、はじめから解っていたのだと思う。
でも、もし駄目になってしまうとしても、その前にゴールに駆け込むことさえ出来れば、何も問題が無いとたかをくくっていたんだ
ゴールはまだ見えない。あの頃想像していたより、僕たちは長生きしすぎてしまったんだろう。
一時停止ボタンなんかどこにもなくて、力一杯全部を出し切った、その瞬間に都合よく存在が消えてなくなったりもしない。疲れ切ってしまって、戦う気力なんか全然なくなって、勇気と書き棒とか自分を守ってくれるものが全部失われてしまって、映画だったら「終」とテロップが出るような場面が過ぎても、生活は続いてしまう。けして止まらない。
そこからが本当に人間が生きるということなのだろうと、最近はそう思ったりもする。
ドラマが終わって、興奮から冷めて、何も心を守ってくれなくなって、これからはもっと大変な毎日が続くだろう。でも、どんなに苦しくても、心が死んだようになって、痛みも喜びも何も感じることが出来なくなってしまって、何をしても無意味に感じられて、もうダメだと思っても、諦めないで、自分に耐えて、もう少しだけ頑張って欲しい。
小さなころに見ていた者は、まだ何も知らなかった時代のまぼろしなんかではなくて、いまでも見ることが出来るずっとそこにある変わらないものだった。辛くなるからって無理に忘れてしまわなくても良かったんだ。僕は気がつくのが遅すぎた。必要なものを、自分で隠していたんだ。でも、こんな僕でもまだすべてを失ったわけではなかった。
時間が過ぎて、僕の事は忘れてしまっても構わないけれど、僕が今ここに書いている言葉のいくつかをときどき思い出してくれるなら、それより嬉しいことはない。
追伸。今までありがとう。
出来る事ならば、誰も憎まないで生きてください。
正しくないことは悪いことだったのか?
それでも正しさを追い求めたり、苦しむことは悪いことだったのか?
諦めたり、やっぱりあきらめきれないことが悪いことだったのか?
善悪の果実を植えておきながらも、そこから取って食べてはならないとも定める、矛盾したことにすら正しさを与える存在であったという
どうか、本当の幸いを与えた給え