はてなキーワード: コーネルとは
「この程度の試験でいい成績取るためにそんな勉強に時間かけんの!?」って驚くくらい。
東大1人しか受からない高校で1年間必死こいて勉強してようやく中央経済受かった程度のThe凡人の俺ですらそう感じる。
渡米して短大入ってから、コーネルに編入しても自分がサイヤ人になったような感覚でずっといられてる。
多分、東大受かる知能の日本人がアメリカで生まれ育ってたらハーバードでもコロンビアでもUCバークレーでも余裕で受かって、天才の名を欲しいままに学者でもNASAでも投資銀行マンでも選ばれしエリートに当たり前のようになれると思う。
検索だとGoogleで検索しても引っ掛からなくなり、日本語だけでなく英語でも引っ掛からなくなってきている。
サーベイ論文が無いかはチェックするが、あるジャンルとないジャンルはある。
ないと自分で探すことになる。
論文はまだGoogle scholar、Dimensions aiで検索すればいい。(Microsoft Academic Servicesはなくなってしまった。)
問題は企業が絡んだ場合で、世界中でどれだけの企業が参入しているかってのは探すのに苦労する。
あと流行りではないものも苦労する。例えば画像処理で機械学習使ってない物がどこまで進んでいるか探すのは今大変だろう。
Evernote、超整理術、ツェッテルカステン、コーネル式ノートといったのは過去話題になった。
だが、いまいち良くなった気がしない。
Webクリップは便利になったが、溜めた後の整理方法は全然進化していない。
はてブ?はてブで整理できている人がいるなら、どうやっているか教えて欲しい。
1つずつ、どのまでが事実か、筆者の考えかの整理や、数式をMathematicaで確認やら、図の作成やらをしないと後で使い物にならない。
Evernote、GTD、ポモドーロ、コーネル式ノート、etc、色々出ていた。
そういう名前がついていなくても、はてブのような話題になっているサイトをいくつか見ていれば、必要なものをおさえておけるっていう時代もあった。
問題が発生したらネットで検索したら解決するとか、質問すれば解決するって時代も多少あった。
自分に限って言えば、今だと、arXiv、Nature、Scienceなどの最新のを追いかけるという、なんというか戻ったのか戻ってないのかわからないようなことになっている。
論文でわからなければ、作者の発表資料、動画など補足資料がないか探している。
そしてウォッチ対象でないサイトに登録されていたり、新しい雑誌やジャンルが出たら2,3年気づかないということも普通にあり、率直に困っている。
Googleアラートのような単語がわかっているものを勝手に探してきてくれるサービスに坦々と単語を追加していくしかないのだろうか。
「あとで読む」というのも結局読まない。
貯めたデータがいつか活用されるかというとあまりそんなことはない。
後から自分が活用できるように、まとめをしていないと結局使えないなというのが率直な感想だ。
正直、みんなどうしているのだろう。
アウトプットしている人に情報が集まると言われていたが、実際にやってみると、フォロワーは増えるが良くなった気がしない。
・主人公が発電機を見に行かないのでノームが修理のために店外に出て死なない
・主人公が説得に失敗したせいでノートンが怒ってスーパー外に脱出を計画しないのでノートンとバイカー+その他が死なない
・主人公がジムに非常時に照明を付けるよう指示しないのでドラゴンと虫襲撃イベント時にサリーが死なないしジョーも大火傷しない
・ドラゴンと虫の襲撃イベントが無いのでハティが絶望して服毒自殺しない
・ジョーが大火傷をしないので薬局探索イベントが起こらないのでボビーたちが死なない
・薬局探索イベントが起こらず主人公がMPから遺言を聞かないのでモラレスとドナルドソンが首吊り自殺をしない
・主人公がジェサップ二等兵にアローヘッド計画について尋問しないのでジェサップがリンチで殺されない
・主人公がスーパー脱出を計画しないのでオリーがカーモディを射殺しないしコーネルとマイロンとオリーが怪物に殺されない
Cornellの議論は、ポルノグラフィの危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィは男性をレイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプを輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティの世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的な手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつの表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別は同義語なのである。彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語と行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィが性差別そのものであるという一種のイデオロギーに依存した議論に対する批判そのものである。
もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉を制限的に定義することによって、そうした一般的な議論ではなく、特に女性に対して酷薄なもののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象の問題は不可避であり、言語と行為を限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制の根拠は果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語と行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり、日本におけるポルノグラフィの製作が必然的にそうした女性虐待を表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィの表象が必然的に(fuckerとしての)男性をレイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性の従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。
また、Cornellの依拠するポストモダン・フェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判の対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズムの根底的目的に対して、一定の文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムにコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまり、ポルノグラフィの規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性と被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである。
そもそも、ポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから、女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定の勢力として存在していた。これらは全く女性が使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィの概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性の性的欲望、セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたことからの解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタな二項対立の接続が否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリームは男性が製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリームは男性向けであって、女性向けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィが必然的に男女を社会的に構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。
4. 結び
前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダン的フェミニズムの見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理はポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。
日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定の表現について規制を肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史を判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィの規制は道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制を検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳を可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害が現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からのアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制を正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノ派フェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニストの議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり、特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念が同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。
こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴである。さらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在の規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力や虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段が妥当であるかが問われるべきではないだろうか。
一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制の対象となるのではなく、むしろ一つの「職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知が必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的に正業であると認知されることは、その「職場」におけるハラスメントや虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーン・ハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。
以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。
参考文献
・キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン著 中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィと性差別」(青木書店, 2002)
・ドゥルシラ・コーネル著 仲正昌樹監訳「イマジナリーな領域」(御茶の水書房, 2006)
・大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)
・キャサリン・マッキノン著 森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)
ということでキリスト教思想史研究やってた人が研究不正で懲戒解雇された件について、報告書に目を通した上でちょっと書きます。
この「写し」というのはどういうことでしょうか? 資料そのものを調査委員会が求めなかったのはどういうわけでしょうか?
歴史学者にとっては常識なのですが、他の分野の人にとってはどうかわからないので、解説してみます。
これは人というか研究分野によるので、安易なことは言えません。文学と哲学と社会学と人類学と歴史学と言語学とでは使う資料がぜんぜん違います。
で、この被告発者の研究手法は、近現代を扱う歴史家の多くが採用している手法だと思います。近現代史を扱う人たちは、
を主に史料として使います(「史料」ってのは、歴史を記録したナマの資料のこと。「資料」と呼ぶと後世に書かれた二次文献なんかも含む)。あるいは、上に書いたようなものをまとめて出版した本とかを使います。
これらの史料の特色とは何か……それは、
ことです。
公文書館というのは、「お役所の書いた書類を保管しておく施設」のことです。これはどのくらいかというと半永久的にです。普通の文明国ならどんなに細かな書類でも公文書館に保管されていて、(民主国家の場合は)数十年して機密解除されたり(独裁国家の場合は)体制が崩壊して民主化したりすることによって「申し込めば誰でも読める」状態に置かれます。これによって我々はソ連時代の領収書なんかをロシアの公文書館で読むことができるわけです。ソ連ですら公文書を保管して後世の我々に見せてくれているというのに……いや、これは余談でした。
当たり前ですが、それらはその国(あるいは地方)の公的な記録であって、自分のものにして持ち帰ったりすることはできません。ではどうするか。多くの歴史学者は
などの手段で史料を入手して研究しています(ちなみに写真撮影もカネを取る公文書館は結構ありますね。日本だとどうなんでしょ)。
昔の人が書いたものも、本とかなら古本屋さんとかで流通しているのを買うことができるかもしれませんが、稀覯書でなかなか手に入らなかったり、古雑誌のバックナンバーとか揃えるの無理ゲーだったりするので、図書館に所蔵されているのを使うことが多いです。近場の図書館に置いてない? 相互貸借もさせてくれない? そういう場合は当たり前ですが所蔵している図書館がある街まで行きます。その図書館がある街というのが新幹線が必要な距離だったりパスポートと航空券がないと行けない距離だったりすることも稀によくある(歴史学者の研究費は旅費と本代に消えていく運命なのです……)。そして、辿り着いた図書館でカメラをパシャパシャやったりコピーを黙々と取ったりするわけです(最近はスキャナーが普及してくれてマジ嬉しい)。
なので、調査委員会は「一次資料の写し」を求めたわけですね。たとえ彼が清廉潔白な研究者であったとしても、一次史料の原本なんてふつうは手元にないわけですから。
しかし、本来、彼は「一次資料の写し」を提出する必要などありませんでした。自分の論文を黙って調査委員会に提出すればよかったのです。なぜでしょうか?
もちろん分野によります。心理学みたいに人を対象とした研究だとしっかり実験ノートつけるように言われるかもしれないし、考古学とかは発掘時の状況を克明に記録しておくことが重要だったりするかもしれない。でも、少なくとも近現代史みたいな分野では、実験ノートをつける、という習慣はありません。
私は一度も、理系で求められるような意味での実験ノートを書いたことはないし、書けと言われたこともないし、書いていないことを理由に責められたこともありません。もちろん史料をノートに筆写したりはしていますが、そのノートだって別に厳密なものではない。普通の研究においてノートは使いますが、それは高校までのノートと一緒で、鉛筆で書いてもいいし、好き勝手なやり方で書いていいし、なんなら途中で破ったりしてもいいごく普通のノートです。最近はノートじゃなくてパソコンとかを使って研究上のノートを取ってる人も多いんじゃないかな(手書き疲れるもんね……)。
なぜか? と言われれば、
です。
つまり、「もとになった資料」というのは、理系のように自分の実験室の試験管の中にしかないものではなく、別の誰かが保管してくれているものなのです。
理系の学問において標準化された改竄不可能な形で実験ノートをつけなければならないのは、自分の実験室の試験管の中にしかオリジナル資料がないからですよね? しかし文系の場合は、少なくともここまで説明した近現代史の場合は、オリジナル資料はどこかの政府が管理している公文書館とかどこかの大学の図書館とかに保管してあるわけで、そこに辿り着くまでの情報さえ明記してあればそれで十分なのです。これはドイツ連邦共和国のベルリン連邦文書館の何々というファイルに保管してある何というタイトルの史料だ、とわかれば、チェックのためにはそこに見に行けばよいし、これは19世紀に書かれたほにゃららという新聞に載っていた記事である、と書いてあれば、その新聞が所蔵されている図書館を探して読んでくればいいわけです。
なので、別にどんな方法でノートを取ろうが自由なわけですね。最終的に読者がその元になったデータを見つけられるようにしておけばいいわけだから。
ゆえに、歴史学の論文や著書には膨大な注がつけられます。引用した史料のそれぞれについて「どこに保管されている史料なのか」「なんという本の何ページに書いてあることなのか」ということを書かないといけません。
なかには、史料が自分の手元にある場合もあります。多くの場合それは「昔の人が出版した商業出版物」なので(たとえば、極端な例ですが『わが闘争』)、他の誰かも持っていることが多いです。もしそういう史料で捏造とかしちゃうと「俺もこの本持ってるんだけど、お前が引用してる箇所見つからなかったよ?」という怒られが発生します(なお、捏造ではないですが誤訳指摘は受けたことがあります。コワイ! でも覆面査読なのにこの文献の誤訳を指摘できるってことはあの人しかいないじゃん……ってわかっちゃう! 文系の世界、基本的に狭い!)。「むっちゃ少数しか発行されなかった自費出版の本」とかが典拠になっている場合もあります。こういう史料を典拠にするのも仕方ない場合があるんですよ……典型的には、そこまで有力ではなかった政治家とか在野の知識人とかを研究したい場合、彼らが出してる本は全部自費出版というのがありえます(あと、言語学とかだと、たとえば与那国島の方言を研究したい場合に一番の参考資料になるのは与那国島のお年寄りが自費出版した方言辞典だ、みたいな例がありまして……与那国町が進めてる辞書出版プロジェクトむっちゃ楽しみ)。ごくごく稀に、古本屋で歴史上の人物が書いた手紙の山をまるごと購入できた、みたいな奇跡があって、モノホンの一次史料が研究者個人の所蔵になっている場合があります。これはねえ……もう本当に個々の研究者の良心を信じるほかないよね……若手研究者だと色んな大学を移り歩くこともあるだろうから今所属してる大学の図書館に寄付しろとも言えないしね……原史料出せって言われたときにすぐに見せられるようにしておいてね、定年退職するときは勤務校の図書館に置いていってよ、とお願いするくらいしかできない感じはあるよな……
さて、長々と書いてきましたが、要するに、捏造を疑われた研究者がきちんと注で出典を書いていれば、彼は論文を調査委員会の人たちの前に突きつけて「ここに出典書いといたから、見に行って確かめてこい」と言えばそれで済んでいたのです(それが生データにあたるものなので。実際、今回の調査委員会はドイツに問い合わせたりしていますね)。もっと言えば、彼本人から話を聞く前に、調査委員たちはまず典拠との照合作業を行って、彼が誠実に引用したこと、つまり彼が研究不正に手を染めてはいないことを確認してくれていたでしょう――もしも彼が潔白であったならば。
しかし今回の件では、注に不備があったので調査委員たちは注から出典を辿ることができませんでした。そこで被告発者に「写し」を求めた結果、元となる史料がそもそも存在しない、捏造されたものであることが判明したわけです。
注をしっかりつけろよ! まことにごもっとも。特に今回のケースは注の多い学術書であり、注の不備は申し開きができません。しかし、しかしです、この背景には、日本の出版事情が絡んでいるのです。
今回の被告発者は、学術書のほかに新書も書いていました。多くの新書には、参考文献リストはありますが注はありません。そして日本には、「研究者が書いた真面目な学問に関する本だが、注がない」というのが一定数あります(一応言っておくと、ここではauthor-date方式みたいな「厳密な意味での注じゃないけど、ともかくも出典を示す機能を担っているもの」も含めて注と呼んでいます)。実はこれ、文系のあいだでも問題視されていることなのです。
文系の学者が書いた学問に関する著書には、明白に書誌情報として区分されているわけではないですが、いくつかの区分があります。第一にいわゆる狭義の「学術書」。むっちゃ小難しい語彙で書かれてて、先行研究とか新規性とかに逐一言及して、参考文献を何十ページも載せてたりするやつです。読者は同じ学者、あるいはその卵。これで注を省くのは論外です。第二に「教科書」。これは学生さんとか初学者向けに易しく書き、内容には特に新規性を求められておらず、包括的な参考文献はなくとも読書案内がついていればそれでよし、という感じでしょう。注は別になくたっていい。
そしてこの2つのあいだには、「一般向け」という広大なグレーゾーンが広がっています。
あなたが読書好きで、少々お硬い本にも興味があるのなら、中公新書とか講談社選書メチエとかそういったレーベルを聞いたことがあるでしょう。岩波書店や青弓社や社会評論社といった出版社の名前を聞いたことがあるでしょう。実はこの辺、色々な種類の本が入り交じるグレーゾーンなのです。
これらのレーベルで真面目な学術書を出版する人もいます。講談社選書メチエでも、末尾にビッチリ注がついてたり参考文献リストがあったりするやつあるでしょ? ああいうやつ。一方で、こういうレーベルを一般向けの概説書・入門書を書くことに使う人もいます。よく中公新書で、包括的なタイトルで薄めの本を見ることがあるでしょ? 今回の『プロテスタンティズム』もそれですね。そして、一般向けの解説を書きながら、さり気なくその中で新しい見方を提唱したりする人もいます。学術的な新規性のある内容を、一般受けしそうだという理由で限りなく一般向けの本の体裁で書く人もいます(最近のやつだと『姦通裁判』マジお勧め)。
さて、こういう本を出す上では、内容は著者の完全な自由にはなりません。編集者は、もちろん学術的に正しい内容を求めているのでしょうが、彼らにとって重要なのは「売れること」です。そのために「一般向けにもうちょっと柔らかい言葉遣いで書いてください」とか色々と内容に介入してくるわけです。文体くらいなら別に構わないかもしれませんが、彼らの中にはこんな要求をしてくる人もいます。「注なんてつけたら一般読者に嫌がられます、注は省きましょう」
こうして生まれるのが、「学術的に新規性が高く面白い内容を扱っているのだが、注がない」という一般書の群れです。
もちろんこういった本にも参考文献はあり、「注はないけど、典拠を探しながら読めば典拠がわかるような書き方になっている」本もそれなりにあります(たとえば、はてな太郎の説によれば、と本文中に書いてあれば、注がなくても参考文献リストではてな太郎が書いた『増田の研究』という本を探し出せる)。ただ、やっぱりそれは注がある文献の出典表示の厳密さに比べれば一段劣るわけです。
これに関しては、研究者も出版社もそれぞれに問題があります。研究者サイドは簡単に「注を省け」なんて要求に妥協すべきじゃないし、そもそも「著書を出版する」ことが、博士論文を見るためにはわざわざ学位を授与した大学か国会図書館に行くほかなく出版して書店で流通させることが最も良い研究成果の流通のさせ方だった時代であればともかく、各大学がリポジトリを持っていていくらでもディジタルに研究成果を公表できる時代にあって本当に重視されるべきか考え直す必要があるでしょう(でも、欧米の出版社でも学術出版は盛んなので、これは日本だけの問題じゃないんですよねぇ。今でもオックスフォードやケンブリッジやハーバードやコーネルといった有名どころのUniversity Pressは学術書を出版しまくってます。学術書が研究業績として重視されるのは人文系では割と世界標準なので……)。
一方で、出版社は注をもっと重視するべきです。というよりも、日本の出版社やジャーナリスト、ノンフィクション作家は注をつけなさすぎます。先日、ボブ・ウッドワードがトランプ大統領についてのルポルタージュを出版しましたが、体裁も内容もおおよそ学術的とは呼べない一般書そのものの本なのに、きちんと出典を示す注がついていました。出版社は、学者に注を削れと言うべきではなく、ノンフィクションを書く作家や記者たちに注をつけろと言うべきでしょう。
とはいえこれは一朝一夕にはいきません。そもそも知の折り詰めである「新書」という形態が割と日本独自のもので、そういう一般と学術を橋渡しするレーベルが広く一般読者に読まれていることの重要性というものを鑑みると、簡単になくせとか言えません。私も色々お世話になってるし。人口1億人ちょいの書籍市場ではどうしたって限界があり、色々な本を出すのではなく折衷的な本を1冊出すのが経済学的には最も合理的という考え方だってあるでしょう。ただ、やっぱり一般書にも(それこそ講談社ブルーバックスや岩波新書レベルにも)注を入れるようにする、というのは必要だと思うのですよね。
さてここまで「注がない本」問題について解説してきました。でも何が一番言いたいかというと、
これ。これに尽きます。注はちゃんとつけよう。もしもあなたが捏造者でなくとも、研究不正をしていなくとも、実験ノートをつけない我々の業界において潔白を証明してくれるのは注だけなのだから。注だけが資料の実在を証明してくれるのだから。本の売上よりも、あなたの保身のことを考えよう。あなたが、部屋が汚いとかハードディスクがお亡くなりになったとかパソコンの買い替え時に行方不明になったとかの色々な理由で、史料の「写し」を紛失する日はきっと訪れる。そのときに、これまでのあなたの研究の誠実性を証明できるのは、人文系の学問においては、注だけなのだ。
以上です。駄文に長々と付き合ってくださりありがとうございました。続きはanond:20190511125053で。
最近のカーナビは高性能だ。音声対話ができるAI、ミキが積まれていて、どこに行きたいか、どんな場所を探したいか、訊いてみたらすぐに答えてくれる。GPSを使ったゲームにも連動してて、今いるところの近くにまだ行ったことのないポイントがあると教えてくれたりもする。ドライブレコーダーにも対応している。
僕はミキと会話をするのが好きで、休みの日はほとんどドライブをしている。
「はい、リストアップしました。オススメはオコーネルダイニングです。ここから約1キロ先にあります」
「ありがとう、じゃあそこへ案内してくれ」
そう言ってミキはカーナビの画面にルートを表示し、案内を始めてくれる。
ミキに勧められて行ったレストランは確かに美味しかった。口コミの評価で案内してくれたんだから、外れようがない。
そして車に戻ると、僕はまたミキに訊く。
「そのレアモンスの星いくつ?」
「6個です」
僕はこの適度に話ができて、余分なことは言わないミキが好きだ。
ミキとはずいぶんいろんなところに行った。県内で走っていない主要道路はないし、隣県のメジャーな観光地も制覇している。ただ、ミキと一緒に走り出してからもう10年近く経ち、メンテナンスのために寄るディーラーでは、そろそろ車の買い替えを勧められはじめた。
けれども、僕にはそれはいい気がしなかった。夜、パーキングで一休みしている時に、なんとはなしにミキに話しかけてみた。
「僕と君との付き合いはだいぶ長いね」
「君とはいろんなところに行ったよ。夏の湘南海岸とか覚えてる?」
「7年前に行ったところですね。太陽の光を浴びた海が綺麗でした」
「見えてたの?そうか、ドライブレコーダーの記録か」
「はい」
「草津温泉に行ったのは?」
「3年前の冬ですね。道路が凍っていて、だいぶ慎重に運転されていたことを覚えています」
「たくさんありますね。一番遠出した時で、300キロほどでしたか」
「あの時は楽しかった」
「はい」
「ところで、車の買い替えが近いんだ」
「それは妥当だと思います。寿命の過ぎた車に乗り続けるのは危険です」
「で、新しい車は安全のために新規格のカーナビを積むことが法で義務付けられてる」
「はい」
その言葉に、僕はついカッとなった。
「安全!?ミキは今でも十分安全だよ!それなのにジャンクになっていいの?!」
結局、ミキはただのAIなのだ。今までのドライブはみんな、僕の一人相撲だったわけだ。
それがわかって、僕はミキに興味をなくした。
新しい車の新しいAIは、常にネットワークのバックアップがあり、どの車に対してもネットワーク越しに同じAIが対応するらしい。それに、運転もほぼ自動でやってくれるそうだ。そうすることで、渋滞や事故などを未然に防ぐことができるようになるらしい。
きっと僕はこの新しい車が気に入らない。そんな予感がある。けれども、今のままミキと同じ車には乗っていられない。だから、車は買い替えることにした。
そうして納車の日。僕は10年選手の車に乗ると、ミキにディーラーへと案内するように言った。そして一言。「今日でお別れだ」
そう言っても、ミキの反応は返ってこなかった。
新車の納車と同時に車を下取りに出す。僕はミキに何も言わずに車を降りた。そうしてディーラーのメカニックが僕の車に乗り込み、奥のドックへとゆっくり車を進めていく。
でも、ミキを乗せた車がドックの陰に隠れる時、ブレーキランプが光った。1回、2回、3回、4回、5回。なんだか、普通のブレーキとは違う気がした。
「それは多分、愛してるのサインですよ」
「え?」
「そういうラブソングがあるんです。いーなー、私も恋したいなー」
米国とカナダの研究チームがそんな調査結果を社会心理学の学会誌に発表した。
調査は、米ノートルダム大学と米コーネル大学、加ウェスタンオンタリオ大学
の研究者が実施した。その結果、男性の場合、協調性が高いという意味での
「いい人」は同僚に好かれるなどの利点もあるものの、
協調性の高い男性はそれがあだとなって「給与明細に反動が出る」といい、
「協調性という点での人の良さは、給与には直結しないようだ」としている。
一方、女性の場合、協調性のない態度が男性のようなメリットには
結びつかないことも分かったという。
この研究は各国で反響を呼び、例えば、オーストラリアのシドニーからは
「企業社会では無情になる必要がある。弱い所を見せれば付け込まれる。
それが現実だ」との声が寄せられた。
ミック・ジャガー(The Rolling Stones) ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス中退 シド・バレット(Pink Floyd) ロンドン芸術大学 ブライアン・メイ(Queen) インペリアル・カレッジ・ロンドンにて物理学博士号取得 ジェリー・ハリスン(Talking Heads) ハーバード大学 トム・ショルツ(Boston) マサチューセッツ工科大学 ブルース・ディッキンソン(Iron Maiden) ロンドン大学クイーンメアリー校 グレッグ・グラフィン(Bad Religion) コーネル大学にて生物学博士号取得 スティング(The Police) ウォーリック大学中退 スチュワート・コープランド(The Police) カリフォルニア大学バークレー校中退 アンディ・サマーズ(The Police) カリフォルニア州立大学ノースリッジ校中退 デクスター・ホーランド(The Offspring) 南カリフォルニア大学 ブラック・フランシス(Pixies) マサチューセッツ大学アマースト校中退 ジョーイ・サンティアゴ(Pixies) マサチューセッツ大学アマースト校中退 キム・ディール(Pixies) オハイオ州立大学中退 デイヴィッド・ブライアン(Bon Jovi) ラトガース大学中退 アンソニー・キーディス(Red Hot Chili Peppers) カリフォルニア大学ロサンゼルス校中退 グレアム・コクソン(Blur) ロンドン大学ゴールドスミス校 デーモン・アルバーン(Blur) ロンドン大学ゴールドスミス校 アレックス・ジェームス(Blur) ロンドン大学ゴールドスミス校 トム・モレロ(Rage Against the Machine) ハーバード大学 リヴァース・クオモ(Weezer) ハーバード大学 ブライアン・モルコ(Placebo) ロンドン大学ゴールドスミス校 トム・ヨーク(Radiohead) エクスター大学 ジョニー・グリーンウッド(Radiohead) オックスフォード・ブルックス大学中退 エド・ブライアン(Radiohead) マンチェスター大学 コリン・グリーンウッド(Radiohead) ケンブリッジ大学 フィル・セルウェイ(Radiohead) リヴァプールジョンムーアズ大学 マナブ・オシオ(LIV) ユニバーシティ・オブ・トーキョー入学辞退 ブラッド・デルソン(Linkin Park) カリフォルニア大学ロサンゼルス校 デイヴ・ファーレル(Linkin Park) カリフォルニア大学ロサンゼルス校 マイク・シノダ(Linkin Park) アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン中退 ジョー・ハーン(Linkin Park) アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン中退 クリス・マーティン(Coldplay) ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン ジョニー・バックランド(Coldplay) ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン ガイ・ベリーマン(Coldplay) ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン中退 ピート・ドハーティ(Babyshambles) ロンドン大学クイーンメアリー校中退
1 ハーバード大学 (私立)
2 ケンブリッジ大学 (王立)
3 エール大学 (私立)
5 オックスフォード大学 (王立)
7 シカゴ大学 (私立)
8 プリンストン大学 (私立)
9 マサチューセッツ工科大学(私立)
10 カリフォルニア工科大学 (私立)
11 コロンビア大学 (私立)
13 ジョンズ・ホプキンス大学 (私立)
14 デューク大学 (私立)
16 スタンフォード大学 (私立)
14 :名刺は切らしておりまして:2009/09/07(月) 08:28:37 ID:ng9v4fp6
ハーバード大 年間 37,012ドル 四年間 148,048ドル
エール大 年間 36,500ドル 四年間 146,000ドル
プリンストン大 年間 35,340ドル 四年間 141,360ドル
スタンフォード大 年間 37,881ドル 四年間 151,524ドル
マサチューセッツ工科大 年間 37,782ドル 四年間 151,128ドル
カリフォルニア工科大 年間 34,584ドル 四年間 138,336ドル
コロンビア大 年間 41,316ドル 四年間 165,264ドル
ペンシルバニア大 年間 38,970ドル 四年間 155,880ドル
ブラウン大 年間 38,848ドル 四年間 155,392ドル
ダートマス大 年間 38,679ドル 四年間 154,716ドル
コーネル大 年間 37,954ドル 四年間 151,816ドル
シカゴ大 年間 39,381ドル 四年間 157,524ドル
ノースウェスタン大 年間 38,461ドル 四年間 153,844ドル
デューク大 年間 38,975ドル 四年間 155,900ドル
ジョンズ・ホプキンス大 年間 39,150ドル 四年間 156,600ドル
ワシントン大 年間 38,864ドル 四年間 155,456ドル
ジョージタウン大 年間 39,212ドル 四年間 156,848ドル
http://colleges.usnews.rankingsandreviews.com/best-colleges/national-universities-rankings/
断ったけど、日本の大学院で博士課程 授業料タダ、助教授兼任(給料出る)というオファーはあったよ。私立な。
ちなみに、スタンフォード大学 : 私立
MIT : 私立
よくわからんが、営利目的の私立と、公平をもっとうとする国立の差じゃね?特待生とかは私立のほうが多いだろそら
民進党の蔡英文主席が来日して熱烈講演。「2012年は政権奪回」
「(2009年3月)15日に来日した台湾の野党、民進党の蔡英文主席は都内で講演し、馬英九政権の経済政策について「台湾の主権を犠牲にする恐れが大きい」と述べ、中国寄りの政権を批判した。蔡氏は民進党初の女性党首で、来日は昨年5月の就任以降初めて。17日まで滞在し、日本の与野党有力政治家と会談予定」。
その講演会に出席した。
米国コーネル大学で法学専攻、ロンドンLSEで法学博士。国際法に滅法明るく、台湾へ帰国後、十数年、政治大学などで教鞭を執った。
李登輝政権で、大陸委員会主任委員(閣僚級)。李総統の「中国と台湾は特殊な国と国の関係」(1999年7月)発言は、彼女が起草したと言われる。
その後、総統府国策顧問、民進党から立法委員に当選、副首相を歴任した。
立法委員(国会議員)時代に、一度インタビューしたことがある。台北の青島路にある議員会館で、流ちょうな英語だった。
まったく「政治家」を感じさせない清廉の人。おかっぱ、痩身で庶民的。どこに秘めた闘志があるのだろう?
蔡英文主席の小学生時代に父親が日本語の達人だったので、日本留学をさせたがり、家庭教師は日本語。だから蔡女史は日本語もかなり喋る。
今回の来日は民進党議員団六名に秘書、スタッフ数名を引き連れ、しかも元駐日代表の羅福全、前代表の許世楷両大使も同席するという異例の陣容だった。
会場には台湾から随行の記者団、テレビカメラ数台。黄文雄、金美齢、田久保忠衛氏らの顔も。随行団のなかには旧知の粛美琴・前立法委員もいたので、「新しい肩書きは?」と訊くと「民進党中央本部主席室特助」(党主席オフィス主任のような意味だろう)。
さて、蔡英文女史がなぜ野党党首になったのか。
ちょっと歴史を振り返る必要がある。昨年三月、陳水扁総統の不人気と党内挙党態勢の出遅れにより、総統選挙で与党・民進党は国民党に惨敗、候補者だったベテラン政治家・謝長挺は責任をとって党首を辞任した。
直後から党内セクト争いが激化し、党首選挙には党内調和派のシンボルとして、この蔡英文に白羽の矢がたった。対抗馬は「台独大老」(独立派の顧問格長老)の辜寛敏(リチャード・クーの父親)だった。辜寛敏とも、台北で何回か会っているが、つねに饒舌で熱心で、とても80歳台とは感じられない。
蔡英文は党首選挙の結果、選ばれたわけだが、しこりを残さないためにも辜寛敏は、「あなたを孤独にはさせない」とエールを送った。
さて東京での蔡女史の講演は最初、台湾語で始まったが、すぐに北京語に切り替わった。日本語への通訳はベテランの林さん。
以下は講演要旨。
「台湾は民主主義国家であり、主権を有する。台湾の未来は台湾国民2300万人が決める。過去八年間の民進党政治の成果は“台湾人意識”が成長したことだった。1999年、李総統の「国にと国との関係」発言以来、台湾人としての意識が広がり、馬英九さえ、選挙キャンペーン中は台湾人意識を強調した。ところが、馬総統は就任以来十ヶ月の間に、この重大な「台湾人意識」を希釈化させた。公的に発言しなくなった。台湾人意識という常識が崩れつつある」。
また「民進党八年間で確立された多元的価値の定着、言論の自由、人権、開かれた社会、文化的多様性が、危機に頻しており、前から遅れていた台湾の司法システムにパワーハラスメントと恫喝を感じるようになった。台湾の司法制度は国民党の権威主義時代にあった体質でもあり、今後、台湾の民主が後退する懸念が大きい。
「このまま馬政権が中国と接近を続けると次世代台湾人は自らのアイデンティティと(自由民主国家にとって重要な)選択の余地を狭まる恐れがある」。
「経済的困窮、景気後退の苦境が出現し、民進党時代の八年間の成長がとまった。中小企業の再建はなされたが、国民党は大企業のための政策が中心であり、国民経済にとって最重要の雇用が台湾では産まれなくなる。国民党は中国がすべて、台湾の主権を犠牲にしても、中国へ傾斜すれば、かえって不安が広がる。両岸関係の安定を馬政権は目指すとしているが、不安、対立を惹起させ、むしろ両岸関係を不安定にする懸念のほうが大きい」。
「対日関係で言えば、民進党時代八年間にヴィザの相互免除、運転免許証の相互承認など両国関係は素晴らしいものだった。日本外交の基本である『自由と繁栄の弧』を積極的に民進党は支持してきた。
国民党は日本重視と強調するものの、心情的に対日コンプレックスが深く、つきあいは表面的になりがちとなるだろう。
これから日本に望みたいのはFTA(自由貿易協定)の締結、アジア共同市場へのプロセスで台湾の参加を支持してほしいこと、そして安保での協力関係である」。
▲尖閣諸島の帰属は?
最後に質疑応答に移り、小生も挙手して質問したのは「尖閣諸島の帰属問題」。
というのも、日台関係良好なりといえども、両国に突き刺さる最終的難題は、この領土問題である。
いかに親日的な台湾独立派諸氏でも、多くは「尖閣諸島は台湾領(或いは中華民国に帰属する)という法律解釈をするからだ。
蔡英文主席の回答。
「政治の側面が強調されすぎて法律的側面が欠落している、国際公法に照らせば尖閣諸島(釣魚台)は台湾に帰属することを十分に証明できる。」
つまり直裁には言わなかったが、尖閣諸島は中華民族に帰属するという立場を示唆した。このポイントだけは民進党と日本人との心理的政治的乖離である。
ともあれ蔡英文女史。主席就任前後は、痩身で学者肌の才媛だが、はたして政治の修羅場に乗り出して大丈夫かと不安視する向きもあったが、爾来十ヶ月が経過。蔡英文主席はバイタリティに溢れ、演説はしっかりと理論的なうえに、巧みなユーもらを含ませるなど、人間が豊かに成長したようでもあった。
この前宮台真司の本を読んでいて「バニラ」っていう考え方は面白いと思った。最初に選んだバニラを好きになるのと、いろんな味を体験した後でバニラを好きになるのは全然違うっていうやつ。詳しい内容は覚えてない。
それで、最初の印象に引きずられて一度も試さずに批判していることって多いんじゃないかなって思った。それと、ネットでも同じことばっかりしていて、いつもと違うことを全然していないなって思った。
たとえば・・・そうだな。講義を受けるときのノートの取り方とか普段気にしないと思う。ノートかルーズリーフか。たまにA4のコピー用紙とかノートパソコンで取っている人がいる。ああ、教科書に書き込んだり配布資料に書き込む人もいたか。すごいと思ったのはデジカメだけ。でも、デジカメ+ボイスレコーダーが最強じゃね? って少し思った。両方持ってないから試せないけどね。
ただ、もっと効率の良いノートの取り方があるのではないかと思い、様々なメモ用紙で試したりした。マインドマップやコーネル式を試した。書きやすさではA4のコピー用紙が一番だけど、まとめやすさ(後から見直しやすい)からいうと普通の大学ノートがいい。基本はマインドマップ形式で書くのが一番だけど、形式にとらわれすぎると時間がもったいないかなって気がする。後から見直すのがノートの意義なんだから薄い字とかダメ。濃いえんぴつ、もしくはペンを使用したほうが効率いい。文字を間違えても塗りつぶせばいい。修正液とか時間の無駄。だけど、長文をノートに書く場合はこの限りではない。などなど。。
ノートの取り方も、黒板+発言を書けるだけ書いたり、パワーポイントも極力書いたりしたこともあった。疑問や意見を書いたり絵を描いたり。大抵の内容は本を読めば書いてあるから、名前とかその分野の専門用語、大雑把な概念を書いたりとか。。
やっぱり、いろいろな方法でノートを取っていると最初の頃とは全然違うって実感した。というか、ノートの意義とかノートの取り方とか小さい頃に教えてくれればよかったのに。。なんか、「黒板に書かれたものをすべて写せ」ってずっと思い込んでいた。
会社入れば記述形式とか調査方法とか規格化(形式化?)されているのかもしれないけど、そうじゃなかったらいろいろ試してみればいいと思う。
あー、はてなでも試してないことたくさんあったっけ。何か探してみよう。
こんなアニメはイヤだ!(宮崎駿×Ζガンダムの場合)の続きです。そろそろネタ切れで、2つしかいいのが出てきませんでした。
今年でそれぞれ94歳と84歳になるブラン・ブルタークとベン・ウッダーは、老人ホーム「スードリ」での生活を送っている。お世辞にも快適とは言えない「スードリ」での生活で、車椅子でようやく動けるほどのブランと、身体は至って元気だが少しだけ痴呆気味のウッダーの唯一と言っていい楽しみは、互いに身を投じ生還した太平洋戦争の話に華を咲かせることであった。2人は、静かだが堅い友情で結ばれていた。
しかし、幸せな生活も長くは続かない。施設所長ナミカー・コーネルによる介護保険の悪用が発覚してしまった「スードリ」は取り潰されることとなり、2人は別々の介護施設への転居が決まる。別れを嘆くウッダーに対して、ブランは家族にさえ内緒にして手放さなかった土地と家を持っていることを明かし、良かったらそこで暮らしてみないかとウッダーに提案する。
ブランの提案をウッダーは快諾し、2人の新たな生活が始まった。しかし、グローバル資本主義によってムラ的コミュニティの崩壊した地方では近所付き合いなど皆無に等しく、役所から紹介してもらった訪問型の介護サービスに連絡を取ると遠いという理由で断られ、また、あてにしていた年金支給も高齢者医療制度による実質の減額で苦しいものとなり、2人は現実の辛さに直面することとなる。
さらに、しばらくもしないうちにブランは脳溢血で倒れ、あっさりとこの世から去ってしまった。ブランの死を伝えるために家族に電話するウッダーであったが、「なんでそんな家と土地があることを隠していたんだ!」という第一声がウッダーに追い打ちをかける。
土を盛りパイプ管をひもで結わえた十字架を挿して庭に作ったブランの墓の前で、ウッダーは手を合わせながら、この悲惨な現実を世に知らしめるために、爆弾を積んだ軽トラで厚生労働省に突っ込む自爆テロを決意するのだった……。
――オレだってがんばってるんだよォ――
東京都多摩市議会議員ジェリド・メサは、まだ若いながらも市長の座を虎視眈々と狙う野心家である。昨今の多摩市では、老朽化し入居者も減るニュータウンを取り潰し、大規模なごみ焼却施設と最終処分場を建設する計画が持ち上がっており、周辺自治体も巻き込んだ、議会、住民、環境保護団体などが入り乱れての混乱の只中にある。
ジェリドは同期議員カクリコン・カクーラーとともに、市長ジャミトフ・ハイマンおよび所属する与党政党「ティターンズ」の重鎮議員バスク・オムの息のかかった建設賛成派の急先鋒を務めていたが、大学時代から環境保護活動に参加している恋人マウアー・ファラオとの仲は険悪になる一方で、頭を悩ませていた。
そんな折、建設反対を訴える対立政党「連邦」のやり手議員であり、大学時代は空手部の先輩でもあったライラ・ミラ・ライラが謎の死を遂げる。これに大きなショックを受けたジェリドは、ティターンズの先輩議員ジャマイカン・ダニンガンに事の真相をを問い詰める。そこでジャマイカンの口から出た言葉は、家族の誘拐・拉致による反対派への恐喝、それでも従わない場合の毒ガスによる殺害など、賛成強行派による恐ろしい手口の数々だった。
非道の一端を担っていた自分を恥じ、汚名挽回を誓ったジェリドは、内部告発の準備を進める最中で、メラニー・ヒュー・カーバインの経営するごみ処理プラント建設会社アナハイム・エレクトロニクスと市長ジャミトフとの癒着の、決定的証拠を掴む。単純な告発では握り潰されてしまうとのマウアーの忠告を受け、あくまでティターンズ内部からの瓦解を目指すことにしたジェリドは、壮絶な化かし合いの政争に身を投じることとなる……。
[上層ノンマニュアル][階級][文化的再生産]裕福な家庭の子が進学で有利
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私は短大のときの私と何か変わった訳でもないのに、扱いが変わる
極東ブログ: [書評]私、おバカですが、何か? 偏差値40のかしこい生き方(深田萌絵)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/07/40_f9f8.html
本当に食べていくだけで精一杯だったんです。そんな鼻つまみ者扱いが、
大学が決まっただけで「あ、早大生なんですね」って周囲は好意的に受け入れてくれるようになったんです。
決して「早稲田大学が日本一の大学です!」、「学歴がすべてです!」なんて思っているのではなく、
ある程度の大学にいるというだけで、社会的な信用度が大きくなり、
有名大学って入ってみるとお得な身分だなって、つくづく思います。
それまでの「え、○○短大卒なの?」って眉をひそめられていたのとは違う現実を突きつけられる。
社会って、不思議な世界で、私は短大のときの私と何か変わった訳でもないのに、大学の看板があるだけで扱いが変わるんですね。
「社会は、人々に機会を均等に与えるべきだ」という理念があるはずなのに、現実はまったく違います。
でも、大学の看板ひとつで、今まで得られなかった幸運やチャンスが巡ってくるなら、有名大学に行くのって悪くありません。
[フィンランド教育][ゆとり教育][詰め込み教育][つめこみ教育]
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東京六大学(慶應義塾大学、東京大学、法政大学、明治大学、立教大学、早稲田大学)
MARCH(明治大学、青山学院大学、立教大学、中央大学、法政大学)
大東亜帝国(大東文化大学、東海大学、亜細亜大学、帝京大学、国士舘大学・國學院大學)
大学難易ランク一覧(2009度用大学ランキング 代々木ゼミナール)
「WKMARCH」「日東専駒」「大東亜帝国」から「学ぶ力は生きる力、生きる力は学ぶ力」へ 代田恭之氏
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