はてなキーワード: 面談とは
赤塚福祉事務所が地下1階にあり、新設されていて出来たばかり(2009年に工事)に対して、志村福祉は、昭和42年からあり、平成5年に都市UR計画によって
続いているものであるらしく、所内に入るなり汚らしい印象を受けた。今回は夢の話に始まりそれに終わるといった感じで話は全く進展しないし不毛だった。3年ぐらい前に自立更生免除の
ことでもめていた時代に、健康管理の城戸がいた時代に中谷とごちゃごちゃしたことを話していた面談室での会話となったが、
なんで夢をみるのか・・・といった会話に移り、時折、かれらは・・・、様々な弱みを握っている・・・といった説明が聞かれたが、さらに、信号自体は送っているが何を再生するかを運営は選べない
夢で何を見るかは見る人が決定している・・・ などと要領の得ない会話となり、どのように攻めても、実体がどうなっているのかを言わない感じだった。
当初は病院での打ち合わせで予定していた22日、火曜日の面談は、運営が流したため実現しない。どうしても、7月26日という数字に拘泥している様子。
歯がボロボロ抜ける夢をみることがありますか、などの会話から推測して、おそらく、平成の天皇が、現実に、歯がぐらぐらしてこの世の地獄を味わった人の三次元の様子などを集約して映像データに
まとめておいて何らかの方法でその地獄のような思いをしたことを再生させているのではないか、やっているのは、警察か消防ではないかと考えた。
とある企業の面談で、「reactは運用コスト高いと思うんですけどなんで選定したんですか?」って聞かれてめちゃくちゃ困った話→Web開発の運用コストに関する様々な意見が集まる
https://togetter.com/li/2407336
ここでReactが運用コストが高くないって言ってる人は恐らくプロジェクト経験が少ないか運用経験がないかのどちらかだ
WebサービスというのはフロントエンドのJavascriptフレームワークが必須というわけではない
そのため一定のシステムの規模まではバニラのJavascriptやjQueryと比べてReactは明らかに運用コストが高い
バニラやjQueryでは作れないというのであればそれを説明しろというのがこの面接官の質問の趣旨だろう
色々なプロジェクトを経験しているとReactなんて確実に必要ないようなショボいサイトやレガシーなシステムはよく見る
逆にシステムが完成して運用が始まった事でプロジェクトが解散してフロントエンドエンジニアがいなくなり画面の小さな変更やバグを修正する為にフロントエンドエンジニアを探さないといけなくなっているシステムもそれなりに見たことがある
この質問はフリーランスでスポットで仕事を受けてるようなフロントエンドエンジニアやアーキテクチャ選定に関われないような作業者としてのフロントエンドエンジニアなのか、もっとシステムに深く関わってるエンジニアかを確認するためにはいい質問だと思う
田舎で、車がないと生活がものすごく不便な場所で育った。電車は走っていたけど運賃がとても高かった。
14歳から自傷行為を始めた。母独裁の機能不全の家と学校での孤立がトリガー。
19歳から精神科に通った。週1回の通院が必要な状態。度重なる自傷行為で鉄剤を処方されるような貧血。母との関係は最悪。貧血と精神科の薬の影響で、バイトは半年も続けられない。
20歳で初めての自殺◯遂。トリガーはお金がなく、国民基礎年金が払えないことだった。世間では社保庁の使い込みが話題だった頃。
24歳で発達障害が分かった。作業所に通うようになっていたけど、通院頻度は相変わらず週1回から減らない。自傷も不眠も続く。母との関係も変わらない。親が負担してくれるのは通院費と住民税やら市民税やらの公的なところ。
国民基礎年金は猶予制度を使った。ハロワは家から遠く、片道800円の電車賃が出せなくて通えず。職業訓練とその給付金は親の収入がそれなりだったため利用できなかった。車の免許はお金が出せず、また親の反対もあって取れなかった。
28歳で障害基礎年金を受給し始めた。手続きは全部自分でやった。診断書料だけは母を拝み倒して受け取った。この頃は自分の口座残高が312円だった。
服もカバンも穴が空いて、下着はサイズが合わないものを使っていた。親は海外旅行に行っていた。兄弟はブランド品を買っていた。
29歳でグループホームに入所した。元手は一年貯めた障害年金。通院頻度はまだまだ週1回。これでやっと生活を立て直せるはずが、ホームの運営がどうも杜撰。
突然利用料が値上げされたり、面談の日にちや時間を間違われたり、無理やり引っ越しさせられたりした。いつ住む場所が変わるか分からないし、お金がないので1日1食、着るものも満足には揃えられない。衣食住すべてが不安定。
身長163センチに対して体重は46キロ。しょっちゅう熱を出して風邪を引いて寝込んだ。住民税やら何やらの公的な分は払えるわけもなく、住む場所は離れても親の世帯からは出られなかったため生活保護も申請できなかった。
もとより親の職業が社会的地位としてそれなりのため、申請しても通らなかった可能性のほうが大きい。
33歳でグループホームを出た。通院頻度はまだまだ週1回。軽量鉄骨のアパートに部屋を借りた。とはいえ名義は親だった。帰ってこいとは言われなかった。世帯を出ろとも言われなかった。この頃後の夫となる人と出会う。
最低賃金を保証してくれる作業所に入れたが、法をかいくぐって弱者ビジネスをやっているような場所だった。生産性のない作業で補助金を吸っているような場所。何度もいじめのようなことをされて状態が悪化。貯金も体重も増えない。
35歳で障害者雇用枠のパートについた。通院頻度は週1回から抜け出せない。客からのつきまといに悩んだ。体重は少し増えたが貯金は全くできない。
37歳で「もういい、もう頑張ったよ。これからはボーナスステージってことで、もういいじゃん」と言われて結婚した。その翌年、通院頻度は2週間に1回になった。体重も50キロを超えることができた。
42歳。現在。洗濯をして、掃除をして、買い物に行って料理をするだけの毎日。子供はいない。通院頻度は月に1回になった。
時々、この20年で縁が切れてしまった友人や、私と同じような状況で未婚の人のことを考える。余計なお世話かもしれないけど。
できるだけ簡潔にまとめようとしたけど、やっぱり難しい。20代の、文字通り血みどろの毎日と、30代の福祉制度に振り回された毎日はそう簡単にまとめられない。
書いてないけど結婚するまでの間は暴力や給料未払い、20歳の時以外の自◯未遂も多々あった。必死に生きてきたというより、死なない(死ねない)だけの毎日だった。
今日、厚生遺族年金のあれこれを見て久しぶりに落ち込んでしまった。私のケースだと、週1回精神科へ通院が必要な発達障害持ちの人間が、どうやって厚生年金に入れただろうかと思ってしまう。今だって睡眠薬がないと眠れない。
遺族年金が有期給付になって、夫がいなくなったら私はまた死なないだけの毎日に戻ってしまうのだろうか。せめてその時までに安楽死制度が整っていれば良いんだけど。
今は毎日穏やかだけど、時々、特に今日みたいな日は生きててごめんなさいという気持ちになる。
ごめんなさい、生きてしまって。
5月から始めた転職活動が終わりそうなので、いったんここで思ったこととかやったこととかをまとめておく。
それぞれ広告、ゲーム、メディア、Web、飲食(補助金のやつ)、営業などの割と異業種を渡り歩いてきた。
というのも大学の友人のツテだったり、過去の同僚のツテだったりと紹介やお誘いで入社退社転職を繰り返してきたからだ。
ここで立ち止まって自身のスキルセットを見返してみるとマジでなんもない。
強みといえば過去6社全て異業種であったことから得た経験と知識である。
活かせる職に行けばいいのだが、何処に行ってもどうせゼロベーススタートになると思っているので、面接で何を言っていいかわからん。
だがそれでもそれくらいしか武器がないので、良い感じに取り繕って面接に臨むしかない・・・と思っていた。
登録してヒアリングの面談で上記を伝えたら、凄い親身になって、
「そういった内容より〇〇って言ったほうがいい」
「△△は凄い武器になるのでプッシュしていきましょう」
と教えてくれた。
エージェントには包み隠さず自分の来歴を全て伝えるのが大事だと思った。
正直めちゃくちゃ助かった。
「ご自身で求人リストから応募されますか?それともこっちでガンガン応募しちゃっていいですか?」
と聞かれた。
正直自分で選ぶと選り好みしてしまいそうだったので、エージェントにガンガン応募してもらうことにした。
そりゃそうだ。
定着しない45歳のおっさんなんてどこが取りたがるのか。
俺でも落とす。
というわけで書類だけで50社落とされた。これは盛った数字でもなくガチで50社。今数えたらピッタリ50社だった。
3社ほど物好きな会社が一次面接をしてくれるというので、今流行のweb面接をしてくれた。(カジュアル面談1件)
そして全部落ちる。
絶望する。
これが最初の1か月。
・自己紹介
・志望動機
この辺はなんとなく良い感じで話せるのだが、
などが非常に厳しい。
キャリアビジョンとかいわれても、もうキャリアも終盤に差し掛かっててアンタんとこで7社目よ?ビジョンもクソもないよ・・・。
というの理由で3社とも同じ回答で落ちた。
絶望する。
もうゼンゼロで遊んで全てを忘れよう、と思ってエレンと餅武器の両方を完凸してしまった。
30万円くらいかかった。
あ^~つえ^~
これが45歳である。
草。
とはいえ、自分の弱点はキャリアビジョンとハッキリと明示されたのでそこを補強すればいけるのでは?
手元にノートとボールペンを用意して思いついたことをちょいちょい書いた。
それを文章としてまとめた。
それを言ったら2社ほど一次面接に通った。
余裕じゃん。
と思ったら2次の現場マネージャーや現場スタッフとの業務内容面談で化けの皮が剥がれ2社とも落とされた。
再び絶望する。
さすがに業務内容は取り繕えない。
ゼンゼロをしながら考えた。
言い方1つではあると思うのだが・・・。
と思ってダラダラ他のとこも受けていたら
話が盛り上がって1時間があっという間に経ってしまうほどだった。
何の話かというと、なんとゼンゼロの話である。(ゼンゼロの話から始まりその他ゲームのことも含め)
これマジ?
というわけでQAの現場のリーダー候補としてアサインできることが決まりそう。
正社員ではあるが会社所属ではなく、プロジェクト所属らしいのでちょっと怖いけど。
どういうことなの?識者がいれば教えて欲しい。
あとは条件面と入社時期を人事と擦り合わせる・・・と言った感じである。
何が言いたいかっていうと
・結局は巡り合わせ
ってことである。
クソ長いけど記念に。
仕事でメンタルと体調が死んだ。真の社畜に比べりゃ大したことないけど毎日2-3時間は残業してたし、夜勤もしてた。そんな生活が1年続いたあと、夜勤ばっかりのシフトを見かねた上長が(夜勤ばっかりだと新しい仕事を覚えられる暇もないし人事評価してくれる人と会わないので)異動しよっか、と言ってくれたのだが、そこがマジで最悪で、朝(8-17)、昼(13-22)、夜(22-翌8)のシフトが混在、休みは夜勤明けのみ。昼、朝、夜、明休、朝、昼、夜、明休みたいな感じだった。それだけならまだしも人間関係が終わってた。御局が二人いたし、その御局二人で派閥があって大変だった。社歴は短いが一応御局の上司という立ち位置だったので、都合よく「上司なんだから仕事やりなさいよ」といわれながらも「歴が長い人に合わせなさい」といわれる。それだけでも最悪なのに自分の上司(同性)と完全にウマが合わなかった。もう最悪レベル。とにかく会話の最初否定から入るタイプで、話してて疲れる。考えが古いので「昔はこうだった」とか「残業するのが当たり前」とかが酷かった。大した仕事は任せないくせに「お前は何も仕事してない、やってる事はバイトと同じ、いてもいなくても変わらない」と言い続ける。自分で仕事を探せ、と言いたい気持ちはわかるけど、それで自分で考えてやった結果一からやり直されてたりなんでそんなことしてんの?と言われるのがあまりにもキツすぎてもう振られた仕事以外何もやらなくなった。ちなみにやらなくなる前に、「やり直ししたり不必要なことをしてしまうのは二度手間になるから、自分にも裁量権がある仕事は振って欲しい。勤務時間が合わなくて引き継ぎが出来ない現状、上司さんが何をして欲しいのか、何が終わってないのかとかは把握出来ない」と3、4回伝えている。
御局同様都合よく「○○のくせに/○○なんだから」を言ってきた。上司、地元東京実家暮らし社会人2X年。自分、地元地方一人暮らし社会人3年目。給料だって差があるし、自分が自由に使えるお金にも差があるのに上司と同じだけ購入のノルマを背負わされた(のが問題になって今ようやくノルマ制度がなくなったので結果オーライだが)。ちなみにこのノルマ、達成しても自分には何のメリットもない。ただ上司の評価のためだけ。
そんな生活が続いてストレスになってたのか、体調を崩し始めた。生理が8ヶ月止まった。次に眠れなくなった。厳密には寝れてるけど睡眠が浅いというか。休みが夜勤明けしかなかったのもあって生活リズムが狂ってて、毎日2時間深い睡眠取れてたらいい方って感じだった。
次に家のことが何も出来なくなった。掃除も料理も毎日してたのに、何も手をつけられなくなった。疲れとかじゃなく、気力がない。この頃から家のことが何も出来なくなるから定時で帰る、と自分で決めていて残業はほとんどしていなかったので体力が持ってかれてるということはそんなになかった。はず。ちなみに定時で帰るようになって数ヶ月して、上司が上長(異動させた人より上の人)に自分が仕事しないとチクったらしく、面談させられた。正直に「今家のことが何も出来ない」と言ったら「そんなに家のことってしなきゃいけないの?」っていわれて、キレた。そりゃおめーは妻に全部やってもらってんだからやらなくてもいいだろうね。「仕事が疎かになるなら家のことは手を抜かないと」とか、「現状仕事してないよね?(尚こいつは自分の仕事の状況を見に来たこと無い)」って言われたのがトドメだったというか。自分は生きるために働いてんのに、働くために生かされるの辛いなぁと思い始めてからは早かった。元々体調崩しかけてた時のメンタル不調は悪化が恐ろしく早い。そこから1ヶ月足らずで寝れない食べられないが続き、寝られないから頭も回らずミスも連発するし、食べられないから体力落ちて風邪やら目眩やらで仕事の効率落ちるわで、上司に怒られチクられで悪循環。最終的に夜勤ワンオペ中に涙が止まらなくなって仕事にならなくて、退勤後その足で駆け込みメンタルクリニックした。予約取らないと診察できない、という判断も出来なくなっていた。
結果早々に休職しましょうとなり、休職。だが自分は地元も地方のためそう簡単に帰れなかったし、給料の心配もあって1ヶ月ですぐ復職した。(もちろん主治医には止められた)
かなり低めの条件からの復職ということになった。週2回3時間から。スキマ派遣もびっくりな短さである。異動し、自分の事情を伝えた上で受け入れてくれた新上司の元で復職開始し、1ヶ月ずつ勤務時間を伸ばしていき、ある程度元に戻ってきた頃に休職&1年オール夜勤で遅れていた業務指導も新上司が請け負ってくれて、自分に出来る仕事が増え、1年かけてようやくフルタイム出勤に戻った。残業禁止のホワイトさながらの仕事を続けて数ヶ月、自分もだいぶ体調が落ち着いてきたということで新上司が異動。上司(NEW)が着任するも、退職ラッシュと被ってしまいほぼ来ず、実質ひとりで仕事をやるように。多忙ではあるものの、報連相は欠かさない人で引き継ぎも細かくしてくれる人だった。
そしていま、新上司と上司(NEW)の指導のおかげでメキメキと才能を伸ばし始め、元クソ上司と同じ職位になるための昇格試験に合格し、上司補佐みたいな仮役職でありながら元クソ上司の出していた成果を超え、今月ついに3ヶ月連続元クソ上司超えを達成した。
元クソ上司見てるか??あんだけ仕事出来ないって言ってた人間に追い抜かされる気分はどうだ????
今になってようやく周りも(○○(自分)さんが潰れるくらいってもしかして相当あの人やばい人なんじゃ……?)ってなってきてる。自分を追い詰めた人間を実力で蹴落とすのあまりにも楽しすぎる。メンタル死んで休職したけどバカ強くなった。せいぜいこれからも自分の踏み台になってくれ元クソ上司!!
ChatGPTに数行にまとめてもらった:
「応募者がOpenAI Japanの面接を受けた際の体験についての記録です。応募者は面接プロセスを通過しましたが、最終的に不採用となりました。面接は一般的な外資系のプロセスで、リクルーターとの初回の面談、採用マネージャーとのインタビュー、課題提出、複数人とのループ面接がありました。しかし、面接中にクレジットの付与が遅れるトラブルが発生したり、課題提出後の連絡が遅れたりするなど、対応に不満があったとのことです。応募者は、課題提出から1か月以上待たされた末に不採用通知を受け取り、その後のフィードバックも得られなかったことを残念に思っています。それでも、OpenAIのビジョンには共感を示し、今後の発展を願っています。」
カンニングは卑怯であり、姑息であり、やってはいけないことだ。大前提である。
長いけど吐きたくなった。本当は墓場まで持って行くべきだと、ずっと思っていた。
だけどカンニングのニュースを見て以来、ずっとモヤモヤしていた。過去の清算をしたくなってきた。そんな年齢なのかもしれない。
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私にとってテストの点数なんかどうでもよかった。友だちと遊べて、学校の行事に楽しく参加できればそれでよかった。だけど親は違う。成績が全てだった。普段は優しくて褒めてくれるのに、点数を見たときは怒ってる。だから低い点数なんか取るわけにはいかなくてカンニングした。誰にもバレない上手いカンニングをしていた。
こんなことを言えば「カンニングをするなんてクズ」「性根が腐ってる」「カンニングした奴はぶん殴れ・退学」みたいな意見が出ると思う。そうだろう。自分もそう思う。そう思っててもカンニングはやめられなかった。やめたら点数が悪くなる。そうすると親に怒られる。第三者から指さされるより、自分の母に怒られるのだけは死ぬほど嫌だった。
「なんでこんな低いの?」「なんで勉強をもっとしないの?」「遊んでいるからだよね?」と責められる。
でも当時の私はそれに「はい、ごめんなさい」しか言えなかった。小学生だった当時の自分は「なんで?なんでがわからない」としかならなかった。しかし言えば「ふざけてんの?」と絶対に怒鳴る。怒鳴らなかったとしても頭悪いと思われるという事実が嫌だった。怖くて怖くて怖い。母が自分を否定してくるという事は、小学生の自分にとって死ぬことの次に嫌な事だった。母がキレたときの金切り声が嫌だった。
そして勉強しようと机に向かう。何もわからない。何をどうすれば覚えられるのかわからない。あ、そうだ、聞けばいい、そう思っていたのは最初だけだった。今思えばやらなければよかった。
小3くらいの時、学校の先生に「これがわからない」と聞く。先生は小ばかにしたように「こんなのがわからないの?!」と大声で驚く。クラスメイトに丸聞こえ。クスクス声が聞こえた。「わかんねーから聞いてんだよボケカス」と思った。「ひたすら書けばいい」と言われた。どうしても根本的な説明が欲しくて何度も聞いたが「あー、はいはい。これは教科書のここみて」と言われただけだった。先生はそのまま1軍のグループと一緒に遊んでいた。
また塾で算数の範囲が簡単でどんどんレベルアップして、学校で習っていない割り算に突入した時がある。初めてみる記号でわからない。いつも親切に教えてくれる信頼していた大人が休みだったので、別の人に「教えてください」と言ったら「は?!こんなのわからないの?!」と言われたのが今でも鮮明に思い出す。「えと、初めてみる記号で…」と怯えながら言うと「ぷwwww割り算なんて簡単だよ。ほら6÷2は、鉛筆6本を2人で割るんだよ」と。明らかに面倒くさそうな態度だったから「あ、はい、わかりました」と切りあげた。"割る"という概念すらわからなかった私は適当に解いて採点に出す。全部バツだった。泣きたくなった。全部バツは人生で初めてだったからだ。
中学受験期、受験用の塾に通い始めた。わからないことを塾の先生に聞いた。「この程度で質問しにくるの?こんなとこスルーしていい」と言われた。「この程度もわかんねーから聞いてんだよ」と思った。教えてくれたけど「こんなの簡単。余裕だよ。試験になんかでないよ」と言う。私にとっては本気で悩んで本気でわからなかったことだった。それは簡単なことで質問する質じゃない。自分の質問することは簡単すぎて馬鹿にされる。そう思うようになった。
親に聞く。「塾(または学校)の先生に聞きなさい」と言われた。怒られるかもと思い何度もお願いした。しかし母は上から目線で「ねぇ、なんでわからないの?こんなに説明しているのに?聞いてる?」と言った。私が「どうしてそうなるの?」「なんで?」と聞きすぎたのかぶち切れた。「理由より覚えろ!」
積み重ねによって、わからない→この程度もわからない・簡単と言われるだろう→自分は馬鹿→なら勉強したって意味ないじゃん。といったループになってた。
解説を読んで「なるほど」と思っても、何も見ていないと何もわからない。テキストを解いても見たことある問題だなで終わってしまう。そして解説を見て「あれと同じ問題だったのに覚えていない。自分の記憶力はダメなんだ。自分は馬鹿なんだ」と自分が嫌になる。もっと勉強が嫌いになる。自分も嫌いになる。間違えちゃだめだと普段の勉強で試験並みのプレッシャーを感じていた。そしてもっと勉強が嫌いになって机に向かっても宿題に答えを写す作業だけしてた。
また、父は「遊んでこそ人生。いろいろ遊べ!」そんな人間だったので、私は父親っ子だった。それもあって母に内緒で父と一緒に出掛けたり、買い物をした。バレたときは怒られたが父はヘラヘラしていた。母が父に怒らないようにカンニングをしていたのもあった。私の点数がよければ母は怒らない。父も怒られない。兄弟に飛び火がいかない。
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理科だけは楽しかった。星とか断層とか自然には興味があった。だから塾のテストでも理科だけは点数がよかった。全国順位も高かった。だけど一個だけ点数がよくても塾のクラスは上がらないし、母は「理科がひとつできたところでねぇ…」と言う。中学受験のメインは算数と国語だからと特に褒められなかった。理科のみの受験なんてないからだ。
父は勉強のことを「お母さんに聞いてね」としか言わないのでテストの点数を見せても「点数なんて気にしちゃいけないよ」と言う。励ましだと思うけど当時の自分は母と父、どちらも点数を褒めてはくれなかった。
母はいつも比べる。○○さんは、兄は、テレビのあの子は、同い年なのに、あんたも同じ塾通っているのに。そして仲の良かった友人を嫌がっていた。あの子のお母さん嘘つきだから、あの子貧乏で意地汚いから、あの子は小学生のテストすら0点だから。別に仲いいなら良いけどというが、そんな言葉は嫌いだから言うのだ。
ある時、酷かった国語のテストの点数を書き換えたこともある。先生と同じペンを使ってバレない程度に書き換えた。と思ったがうっすらとバレた。「こんなに間違えているのにこの点数なの?」その時の母の目を今でも覚えている。
母に疑われている。怒鳴られる。○○さんは×点なのにと比べられる。なんで?責めされる。また遊びが規制される。兄弟と比べられる。この子は頭がよくなくてと紹介される。こんな子に育てた覚えはないと言われる。塾の金が無駄だったと言われる。教えてもくれないのに勉強を傍で監視してくるようになる。趣味をバカにされる。
そんなことがドッと脳内を襲ってくる。おぼれて死んでしまいそうな罪悪感と恐怖で吐き気が喉元まで来るが、飲み込む。「そ、そんなことないよ」と答える。大きなため息をされた。冷や汗が止まらなかった。塾のラウンジでみんなが帰宅だと盛り上がる中、テストを見られて責められていた。小学生の頃のある日の記憶だが、今でも思い出すと頭痛と吐き気がする。
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カンニングがひどくなる。塾で一回遠回しに指摘された。親に連絡入っていなかったが、でもやめられない。「バレない方法は」と考え、バレない方法にたどり着いた。でもカンニングには限界があって多少は点数がよくなっても多少で止まる。
でも楽だった。カンニングさえすればちょっと点数が上がる。本当は自分の実力で勝負しようと勉強を頑張った。でもわからない。わからないのにやらなきゃいけない。怒られる。怒鳴られる。金切り声が響いてしまう。頭に全く入らない。やらないといけない何かをこなしているだけだった。
勉強する→わからない→宿題が進まない→進捗を見に来た親に「これしかやっていないのか」「なんで?」と責められる→わかんないと言えば「解説をみてもう一度解くの」と言われる→解説を見たときは理解する→また自力で解くがわからない→解説をみると同じ系統の問題だと気が付き自信を無くす→やる気がそがれて進まない→進捗を見に来た親に…と責められる時間と自己嫌悪の時間になる。
勉強なんて嫌いで仕方がなかった。答えを微妙にアレンジして写すだけの日々だった。勉強時間なんて写すだけなので10分で終わる。10分で終わると親が怪しむので、父が持ってた漫画を借りてこっそり読んでいた。自分の部屋があって良かったと思う。
「私、そばで見ているから」と母が監視しながら塾の宿題をしたことがある。しかし問題を見てもまず何をすればいいのかすらわからない。ずっと悩んでいると「寝てる?」「集中しなさい」としか言わない。怖い。責めてくる。「全然進んでない。なんで?」「なんでわからないの?」と責めてくる。私は「ごめんなさい。わからない」しか言えない。解説をバンと渡される。解説が難しすぎてわからないと母に言う。「文章の通りでしょうが!」と怒ってくる。ますます頭が痛くなって解説が頭に入らない。文字が嫌になる。責められる。そして私は限界に達し「わかんない!うるさい!ババァ!」と叫ぶ。母と喧嘩をして「親になんて態度だ!」と家をつまみ出される。そして「私が悪かった」と泣きながら家のドアをたたく。「勉強しないあんたが悪い」「勉強すればこんなことにはならない」と責めながら家に入れてもらう。そんなのばっかりだ。兄は第一子だから母は優しかった。弟は末っ子だったから母は優しかった。私だけいつもこんなんだった。
でも優しいところもあるからすべてが嫌いになれなくて嫌だった。誕生日は祝ってくれるし、お年玉だってくれる。私の好きな食べ物もわかっていて「あなたが好きな食べ物よ!」と夕飯を豪勢にしてくれることだってある。「男たちには内緒ね」と高級なお菓子をくれることもある。旅行にも連れて行ってくれる。だからなおさら怒らせたくないとプレッシャーがかかった。小学生の頃、勉強の話を家でしたくなかった。みんなで楽しく生活しているのに私のせいでぶち壊れる。勉強して追い込まないとと思っても全然できない。そして誰も見ていないお風呂で泣いてた。勉強のできない自分なんて。何で覚えられないんだ!バカだ!バカ!と自分が大っ嫌いだった。枕が濡れることもよくあった。
小学生の頃には戻りたくない。社会人になった今でも思う。社会のプレッシャーの方が何倍もましだ。
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小学校のテストは授業を聞いていれば簡単ですぐ解けたのでいつも満点だった。でも母は「学校のはあたりまえじゃん」と笑っていた。塾のテストだけを見て、塾のテストだけで怒っていた。
結局、中学受験は面接が重視されるところに受かった。おしゃべりは得意だった。
他の筆記だけの場所は全部落ちた。筆記だけのところはカンニングしていた。でも落ちた。そんな程度の能力だ。私は。カンニングしておいて落ちる。クズでバカだ。
親としては微妙なラインの学校だったらしく「受かって良かった」と言う裏では明らかに嫌がっていた。反抗期がくっそ尖っていた時期に「やっぱそんな学校いれるんじゃなかった」と言われていたのを覚えている。私が大好きな学校のせいにするなと私は怒ったから覚えている。
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中学に入っても母はテストの点数を見てきた。英語が酷くてすごく嫌な顔をしていたのを覚えている。英語は将来必要だとかどうでもいい必要性を1時間述べて、英語を教えてあげると言われたが上から目線だったので、案の定私はキレて断った。
そんな中、中学一年の先生は優しかった。一年が終わる時の面談で勉強が苦しいと相談した時こう言われた。
「君はどんなタイプの子でも仲良くなれる。これほどまでいろんなグループの人と仲良くなれるのは僕の教師人生40年で初めてだ。確かに成績は良くないけど、そこだけで落ち込まなくていいんだよ」そこで初めて勉強以外を褒めてくれる先生に出会った気がする。
「君の友人の**って子は成績がいいから、その子に相談してみたら?」と目から鱗だった。自分は小学生のころから同級生と比べられていたせいで同級生に聞く=恥だと思っていた。人に質問する=恥だとも思っていた。
そこからカンニングをしなくなった。した記憶もないし、していないと断言できる。
成績は悪かったが、学校生活はとても楽しかった。先生たちは私の成績に頭を抱えていた時もあったが「まぁ、君は学校を楽しんでいるからいいか」みたいな感じで責める人はいなかった。学業以外で頼られることも多かった。追試会場でも追試仲間と一緒に先生に「授業が面白くない・わかり辛い。こうしてほしい」と相談することも増えた。そこの校風で職員室がカフェのようなノリで入れるため、おしゃべりが好きだった自分は先生に遠慮なく雑談を仕掛けた。そこからテストの点数が悪いぞお前→じゃあテストどうすればいい?→ここを山にして覚えればいいんだと教えられる→山なら授業のあそこがわかり辛いなどを相談する。
追々々々試くらいまでしょっちゅう行ったことがあるが、先生がバカにしてきたことは一度もなかった。むしろ「君はよく逃げずに会場に来るねぇ」と感心していた。そこから追々々々試に来る、忍耐だけあるバカ共に一から丁寧に教えてくれた。ありがとう先生。
そこから母への反抗期が激しくなった気がする。父方の祖母が亡くなったからのもあった。祖母は戦争体験者で父と似ていて「自由で笑顔であることが一番」な人だった。私はそっち派だった。母からしたら姑としていつも喧嘩していたのは覚えている。
母から何を言われても「うっせぇんだよ!」で返した。小学生の頃は母に怒られたら怯えるしかなかったが、中学〜高校は「世の中は勉強だけで評価されるんじゃないんだ」と感じ、勉強のことしか言わない・認めない母と時には殴り合いになった。
宮脇輝彦という地区担当員は、2019/4/1から何か月か、ケース記録を起案していただけの起案者で、記録の仕方も滅茶苦茶で、肝心なことをしていたときのことを何も記録していないし
内容が終わっているので開示請求したとしても何の参考にもならない
2020,2021,2022/3/31 までは、中谷という担当者が書いており、 「きょうわいぶっけん・・・」と言っているが、狭隘(きょうあい)物件のことであるらしい。板橋区徳丸のマイトピア徳丸が
借りられそうになったが、 狭隘物件(15平米未満である) だからだめである。 なお記録はしていない。
2022/0401 から、 腐乱死栖古俣という地区担当員が処理していたが、 6月10日に、健康管理支援士の小島良二と面談し、保護第2係の藤原氏に交代した。
海自のトップである酒井海幕場が一連の不祥事で19日に引責辞任するが、会見の中で言及があった
「組織文化に大きな問題がある。不正に気付いていたにも関わらず、見て見ぬふりをする体制が一部まだ残っている 」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA125E30S4A710C2000000/
について、本当に一部なのか?という思いがあり、筆を執った。
ニュースのことを知らない人も増田を閲覧していると思うので、ここで海上自衛隊の一連の不祥事についてまとめていく
こちらのニュース動画が一連の不祥事を網羅的まとめていたので紹介する。
https://youtu.be/trZdMdzSs8w?si=JAt9pznKU4TPYBI8
適正評価未実施の隊員を特定秘密を知りえる状態に置いていることが艦艇部隊で常態化していた問題である。
特定秘密とは、「その漏えいが我が国の安全保障に著しく支障を与えるおそれがあるため、特に秘匿することが必要であるもの」を指す。
海上自衛隊でいえば、艦艇が「どんな任務をしているか」や「どこにいるのか」などの情報がある。
適正評価とは、この特定秘密を扱うに値する人間かどうかのお墨付きを与える制度だ。国籍や犯罪者歴、所得状況などをもとに総合的な判断が下される。
といった虚偽申請を行い、実際もらうべき手当よりも多く潜水手当をもらっていた問題である。
営内者や勤務上必要で指定されている隊員以外は、有料で喫食することになっている隊員食堂の食事を、申請を行わずに喫食していたという問題である。
「部下の行為を黙認しながら自分も手続きなしに飲食を繰り返していた幹部については、一階級、降任の処分が行われた」
とする報道もあるので、部隊の一部では常習的に行われていたことが伺える。
潜水艦の新造や修繕を行っている川崎重工が取引先との架空取引を原資として海自隊員に対し、金品の贈与などを行っていた問題である。
こちらについてはまだ全容が明らかになっていないが、十数億円規模の裏金が作られている模様である。
潜水艦については長年、三菱重工と川崎重工の寡占となっており、海自隊員とのコミュニケーションは密接で、癒着が起こりやすい環境であった。
「忙しい」のは当たり前だろと思われるかもしれないが、昨今の国際情勢の厳しさは増田読者の皆様にとっても多かれ少なかれ耳にしていることであろう。
米中対立の激化、地政学的に最前線に当たる海上自衛隊はその矢面に立たされている状況である。
通常任務に苛烈さが増す一方で、多国間協力を推し進めるために共同訓練も数を増している。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20240302-OYT1T50167/
一部の部隊では、通常業務ですら手一杯で、休日も問わず出勤するような有様である。
このような状態で、ガバナンス違反の疑いがあるからといって調査に乗り出すリソースがあるのだろうか。
「後ろ向き」の作業は、隊員への聞き取り、過去にさかのぼった記録の確認、調書の作成などが発生し、解決するまで長期間を要する。
通常業務と並行して取り組む必要があるため、「休めない」どころか「寝れない」事態になりかねず、問題を指摘して是正を行うような余裕は私がいた当時にはすでになかったように感じている。
自衛隊の採用のキャッチコピーは、「国家を守る、公務員」である。
https://www.mod.go.jp/gsdf/jieikanbosyu/details/pamphlet/r5sougouannai.pdf
任期制隊員を除き、曹以上の隊員は定年まで勤めあげることが約束されている。
人生の大半を、自衛隊で過ごすのであれば周りに波風を立てずに、公務員という立場にしがみついておく方が楽だと考えないだろうか。
また、幹部自衛官であれば、候補生学校修業後、幹部名簿をみれば自分の序列がどのくらいで、最終階級はどのくらいか目算が付き、それが覆ることはほとんどない。
だが、多くの幹部は3佐、防衛大出身者や一般大出身者であれば2佐には就くことができる。これは勤務成績はほとんどかかわらず、時期が来れば自動的に昇任するのだ。
3佐であれば、副長や航海長などや艦艇の規模が小さければ艇長を任せられる階級だ。2佐といえば、艦長の重責を担う階級である。
黙って過ごせば自動的に昇進するのに、火中の栗を拾うような真似を誰が行うのだろうか。
海上自衛隊の司令部があるのは横須賀だ。陸自・空自は東京に拠点を設けている。
東京にある司令部は、20%、15%の地域手当がつき、横須賀は10%である。
このように、自衛隊の給与ベースは、「どんな勤務」をしているかよりも「どこで勤務」をしているかの比重が大きい。
また、自衛隊は残業代が出ない。激務であろうが、それを受け入れて残業をする。
地方の基地に転勤したほうが配置によっては激務となるのに、賃金が低下するなどといったことは当たり前の状態である。
これに多少なりとも不満を思っているひとはいないだろうか(私は思ったので退職したが)
ただ批判ばかりしていては建設的でないので、お世話になった海上自衛隊にささやかながらいくつか提言をしたいと思う。
奨学金制度や募集対象年齢の拡大など、自衛隊の間口を広げようとする努力は大変結構なことだと思う。
だが、中途採用はあまり活用されていない。自衛隊の採用年齢は拡大された一方で、技術職である技術曹や技術幹部の採用枠は資格の種類や人数はあまり間口は広がっておらず、待遇も民間と同等かそれ以下である。
民間人が転身しようとなると相当な覚悟が必要な状況は変わっていない。
また、実際に退職をしようとなるとかなり大変で曹士の場合は各地方総監、幹部の場合は海上幕僚長宛ての書類作成が必要である。
また、退職を切り出すとなると引き止めもかなり長く、数時間に及ぶ面談を数回実施があったり、中には
「辞めるというなら部隊の敷居は跨がせない」
逆に言うと、そういった側面が「自衛隊でも」活躍できる人材が集まるのではなくて、「自衛隊でしか」働くことができない人材を集めてしまう一因となっているのではないだろうか。
また、自衛隊では一般の資格が多数取れる一方、それ以上に自衛隊内でしか通用しない資格が存在する。
定年を終えて、退職することには自衛隊のドメイン知識のみしか持たず、自衛隊内では高給取りであった人材が、民間では使い物にならず投棄されるような実態もそこにはある。
一定の再就職のための教育はあるが、任期満了か、定年退職者に向けたもので、依願退職者向けの物はない。また、再就職教育のカリキュラムが豊富か、世相にあったものなのかは疑問が残る。
時代のニーズに合った再就職のための教育を行うとともに、素養教育としても、民間人としても生きていけるようなカリキュラムを組むべきだ。
自衛隊を「いつ辞めても大丈夫」、「戻ってきたくなったら戻ってこい」といえるような風通しのよさが必要ではないだろうか。
理由2及び理由3で述べたが、多くの幹部は年数が立てば自動的に昇任する。これは勤務に対する意欲を削ぐ大きな原因ではないだろうか。
勤務成績もさることながら、昇任の際にはその幹部が、果たして階級に値する人間かどうか、厳しくチェックをおこなうべきではないだろうか。
上記に合わせて、この基準を満たせなかった人間には早期に次の道に進む覚悟を求めていくことも大切だ。
民間のものでエビデンスが弱いが、防衛大学校・一般大卒で3佐の年齢は中央値で35才である。
https://hyakublog.net/nennrei-kaikyuu/
3佐以下の定年を45歳程度まで早めることによって、自衛隊で腐る前に優秀な人材のまま民間に還流したほうが、日本国家のためになるのではないだろうか。
特殊な技能をもったり、慢性的に激務が予想される配置にはきちんとそれに見合った給与体系をとるべきである。
業務にかかわらず特定の地域勤務者に一律で与えるような地域手当が果たして自衛隊員の働きに報いるものなのだろうか。
艦艇部隊ならば海上が主な職場である。なぜ母基地の違いが給与に反映されるのか甚だ疑問である。
十数年間務めた古巣に関することを増田に投稿することは、塩を撒くようなことであり、大変申し訳ないと思っている。
この増田を発端に、何か議論が起こればよいし、起きなければそれまでなのだとも思っている。
海上自衛隊に必要なのは伝統墨守に偏重してきた過去の文化と決別するという強い覚悟である。
海自幹部には潮気が必要とよく言われるが、今回の一件で世間の厳しい潮風をしっかりと受けながらも倒れずにしっかりと復原し、海上自衛隊が風通しのよい組織になることを切に願っている。
開始早々、担任がオタクの子、発達障害じゃないか?という趣旨の発言を遠回しで言って来た。
いつものように15分程度の会話の中で、勉強頑張ってますねとか、友人との小さな揉め事の話しとかをサラッとして終わると思ってたんだわ。
うちの順番が最後だからちょっとゆっくり話せるかな、程度の感覚でさ。
周りの子より幼く、状況説明の喋りや感情のコントーロルが下手で、周りの子とよくモメて、異常なまでに頑固だしで、今までの生活の中で親として一瞬疑うような事は確かにあったが、成長とともに収束して行くもんだと思ってた。
えっ?ってなったけど、否定できなかったわ。
最終的には遠回しの表現ではなく、カウンセラーが〜、支援学級が〜、医師の診断が〜、投薬が〜などどんどん具体的な話しになっていった。
15分とか軽くオーバーしてたよね。あぁ、だからウチが順番最後だったのか、と。
まだ医師の診断を受けてないのでなんとも言えんが、いろんな子を見て来て、今現在親より長く接してる担任が言うのだから割とその可能性が高いのだろう。
親としても心当たりはすごくある。
嘘つきで、生意気で、ずるくて、わがままで、アホだけど、いいやつで、可愛くて、優しくて、思いやりのあるかわいい我が子。
いろんことがうまくできなかったり、怠けたりしてるのをさ、ちゃんとやれとか、この年でこんな事もできないか?なんて叱りつけたりしてた。
ほんとかわいそうなことしてた、本人が一番大変だったんだな、って。まじで申し訳ないわ。気づいてやれずごめんなさい。
これからの人生、友達と仲違いして人間関係に苦しんだり、勉強が大変で劣等感に苛まれたりと辛いことがたくさんあるんだろうな。
見守って支えることしかできないけど、たくましく育ってほしい。
いっつも本人にも伝えてるけど、今後も変わらず愛してる。
幸せになろう。
吾輩は新卒の頃、東日本大震災やリーマンショックといった混乱の中で、社会の荒波に呑まれた。
就労支援なるものを頼りに虫の息で入社した会社は、あっけなく倒産した。その後も派遣会社を転々としながら働いたが、賞与の影は一度も現れた試しはなかった
賞与を求めて転職した会社でも、二年働いても賞与が出ず、ある飲み会の席で私と数名だけが賞与を受け取っていないことが明るみに出て、その後の面談でお暇することになった
その後、大手通信会社に派遣の身分で身を置いたものの、そこで不逞の輩体現たるの上司と18時間も顔を突き合わせなければならず、やがて、うつ病が発現し、さらにADHDとASDの診断が下された。
しかし、私は諦めず、就労支援を通じて障害者雇用で働き続けた。最低賃金の増加の恩恵か、派遣時代よりも給料が上がり、ついに賞与が支給された。三十半ばにして、ようやく手にした初めての賞与である。
生まれてこの方、一度も賞与を貰えなかったことが私の心の刺となっていた。ゆえに、このボーナスは私にとって、非常に感慨深いものである。
せっかくなので何か買おうと思うが、今のところ思いつかぬ、父母には先々の日に送っているため、この手も使えぬ。さて何かあったかな
先日、私が勤めている会社で「上司とのキャリア面談」というものがありました。
もちろん私もチームに部下がいる立場で働かせてもらっていますので、面談をする立場と面談をされる立場で視点の差があることは承知しています。
20代後半から現在にかけて約n年間、降格もしないが昇格もせずに働いてきました。
当時横並びだった面々や私が昇格をさせた元部下たちがどんどん自分を追い越して上の役職に就いていく背中を見送るのは、戦友や育てた後輩たちの功績が評価されたことを嬉しく思う気持ちや誇らしく思う気持ちもありながら、この人たちにできていて、私にできていないことは何なのだろうか?と考えることも多かったなと思います。
過去に、何度か組織の都合で上司も変わっているのですが、直接尋ねてみたこともあります。
「私は何ができるようになったら、昇格候補として検討していただけますか?」
「今の働きでなにか不足していることや、もっとこうしてほしいと思うことはありますか?」
「●●さんの部署でなかなか教育が難しい若手たちがいるので、その子たちが稼げるように教育してくれたら検討しますよ」
と言われたので、言われた通りその年は売上150%を達成し、他の部署で手を焼いていた若手の教育に力を入れ、相性の良いお客さまのお仕事を担当してもらうまでに成果を出しました。
しかしながら、その年の査定フィードバックでは「会社の人事規定が変わったので、色々頑張って成果を出してくれたみたいだけど、こればっかりはしょうがないですね」とのことで、約束を守ってもらうことはできませんでした。
代わりに私のチームで売上を牽引してくれていたリーダー格のスタッフが、私よりも40万近く高い給与オファーを受け、同じ組織の中で昇格となりました。
あれから数年が経ち、昇格へのこだわりも、正当な評価も薄れてきていたのですが、今年の住民税確定通知書を見て我が目を疑うような事実に気付いてしまいました。
コロナで会社の業績が悪かった時期も知っています。あのときたしかに、経営と管理職のボーナスから減らして従業員への割当金額を増やそうという方針になっていたなという記憶もあります。
ただ、去年、上司が代わったタイミングでも減らされているのはなぜだ……?と。会社業績は盛り返してきていたではないかと。
新米上司が困っているときにだいぶ、サポートをしたような気もするのになぜだ…・・・・?と。
しかしながら、直接上司にそんなことを質問するという行為は、あなたの査定結果に文句があります!と言ってしまっているようなものなので、冒頭で言及しました「上司とのキャリア面談」を通じて、情報収集に漕ぎ出しました。
ここまで前説が長くなりましたが、以下は面談の会話記録になります。
一部、個人を特定できそうな情報は伏せたり、フェイクを混ぜたりもしていますのでご容赦ください。
もちろん、フィクションとして読んでいただいても構いません。(楽しんでいただけたら光栄です)
X月X日
私「弊社の管理職はたくさんお金を落としてくれるお客さまのお仕事を担当できるかどうかででしか評価されないじゃないですか。従業員はこういうスキルを身につけた。とかこういう仕事もできるようになりました。という仕事における成長がちゃんと評価と給与に反映されますけど、私は管理職になって8年経って、もうそういう話を評価のフィードバックでいただくことはなくなりました。それでも3年ほど時間をかけて、給与が200万程減少傾向にあります。もしこういうスキルが身についていないから昇格や昇給の機会が与えられていない。とかがあれば教えて下さい」
※これは私よりも管理職経験の短い上司に対して意地悪を言ったような気はします。反省。
上司「えっ、そんなに減ってるの? でもたしかに管理職は収益成果だけで評価されがちですよね」
私(この人がそういう評価をしているのになんで他人事なんだろう……。しかも「えっ」ってことはこいつ昇進してから給料増えてるのか……?)
※私の現上司は前任の上司がX年前に不祥事で地方へ飛ばされたときに、私の役職を飛び越えて上司になっていたパターンの人です。
私「うちの会社は制度的にも昇給機会は年1回、業績連動賞与2回しかチャンスがないので、減った分を補填するには副業も視野に入れるしかないかなと思っているので、会社がもしキャリアのサポートを考えてくださるのであれば、余暇時間の確保とか副業規定の緩和を検討してもらえたらなと思います」
※弊社の管理職は裁量労働制のため、いついかなるときも呼び出されたら業務対応を優先しないといけない不文律がある。
上司「副業については、他の人たちからも要望が増えているところだから、会社としてゆくゆくは考えていく必要があることになるでしょうね。ただ、それとは別に、賞をとるとか、執筆活動をしてネームバリューをつけることで売上を伸ばしていく方向性とかはどうですか?」
私「それって、私個人としてではなく会社名義で名誉の労働ってことですよね? 弊社の規定では賞金や印税は個人で受け取れないルールになっていたかと思います」
上司「そうですそうです! 有名になって名前を売って、たくさん仕事を頼んでくれるようなお客さんを捕まえるって感じです」
私「それでたくさんお金を落としてくれるお客さまを見つけることができるんですか?」
私「なるほど。であれば上司は下位組織が収益達成に悩んでいるのに賞をとったり、執筆活動をして新しい仕事を獲得して分け与えることをしていないのはなんでですか? 選択肢として有効なんですよね? 下位組織のノルマが未達だと、上司も未達になっちゃいますから困りますし給料も下がっちゃいますよね?」
上司「……」
私「別に責めてないです。質問しているだけですよ。私はX年ほど前に違う上司の元で、賞をとったり講演会に出させてもらったり、広報取材を受けたりと社外活動をさせてもらいましたが、仕事を頼みたいので商談させてくださいというお声掛けはひとつもいただけなかったです。逆にうちはこういう仕事ができるので機会があれば発注してほしいです。という協力のお申し出はたくさんいただきましたけど……」
上司「あー……そうなんですね。でも執筆活動はしてないですよね? 本の出し方とかってご存知ですか?」
私「会社の広報からテーマに沿って、売り出したい人材に打診が来るはずです。最近は若い女性や働くパパ/ママが注目株なのでそういう人たちならお声がかかると思いますよ」
上司「なるほどですねー。勉強になります! あっ、そろそろ時間ですね。また何か困ったことがあれば相談してください。おつかれさまでした」
私の収入はこの上司によって、これからもどんどん下がっていくことになるだろうな。ということがなんとなく想像できてしまってとても悲しい気持ちになりました。
楽しいこともつらいことも色々あるけど、なんだかんだ嫌いじゃないなと思えたこの会社を思って1X年近く働いてきたので、給与以外で収入を得るという選択肢を常に近くにおいて置かなかった自分がバカで情けないなと。
そしてこれからも、みんなの背中を見送る人生を受け入れていかないといけないんだなと。
国の施策で今後増えていくだろう、女性管理職候補の方々の未来はどうか明るいものになるようにと願いを込めて。
賢い方ならきっと準備も当たり前にされるだろうと思いますが、女性の管理職を増やそう施策が注目されなくなったとき、一番最初に切り捨てられるのは女性管理職だろうなと思います。
仕事で頭イかれてる時期に産業医面談させられたけど、今思ってもあの産業医クソだったな
増(休んでも自分でカバーしないといけなくて…と話せないまま泣く大人)
医「じゃあなんかあったら言ってくださいーじゃねー^^」
増(泣く大人)
増田も精神科にかかってる。元増田に自分の考えをコメントさせて欲しい
N=1なので話半分で頼む
仕事は続けていて通院で生活指導と薬の処方、産業医面談で仕事上の相談をしている
就活では隠した方がいい
とりあえず電話で遅れることといつ頃着くことになりそうかを連絡しよう
事前のアンケートを元に軽く先生とやり取りをした後おそらくADHDですね。と診断。スムーズにストラテラのジェネリックを処方してもらった。
自分は希望して受けた。資格を持った人の予約が取れるまで1~2ヶ月くらい、検査して結果が出るまでも1ヶ月くらいかかった
鬱っぽいしASDっぽいなと思うこともあるんだけどそこに触れられることは無かったのでこれらの症状はADHD由来のものなんですかね?
自分はASDで仕事も私生活も上手くいかず自己肯定感だだ下がりで二次障害として抑うつになっていた
ASD自体の症状ではなかった(ADHDがそうかは分からんすまん)
診断から数年(その間通院は継続)、仕事で大失敗して荒れて「集中力上げる薬ください!」と強く言ったことで処方してもらえることになった
定型発達者が見てる世界ってこんな楽なのか…チートだろ…と思った
集中できる、仕事の話が分かる、優先順位を付けられる、人へ連絡する必要性が分かる
そして普段使いの鞄に入れるのだ
鞄やポーチを分けようとするとトラブるぞ。その鞄があればとりあえずどこでも行けるようにするのだ
このところホント辛かったので、ホッとした気持ち半分、不安と後悔半分。
5分話して診断書書くだけで6000円ちょい。なんか釈然としない。
そもそもこれまでどうしてれば良かったのか。
まあ、とりあえずゆっくりする。
ぎくりとした。私も数ヶ月前から精神科に通院しているからだ。ADHD疑いで。
ADHD。
子供の頃から忘れ物、遅刻、約束忘れ、すごく多かった。成績は良かった。大学も行けた。就活もして都内大手企業に内定。苦手なことは3倍かかったし、ミスも多くて怒られた。みんなが出来ることが出来なかったが、幸いプログラムが組めた。Excel、VBA、SQL、Python…コイツらのおかげで出世はできなかったが、仕事はできた。
子供が産まれると予定が増える。1人目。まだなんとかなった。癇癪がすごい。子供の泣き声がすると2回警察を呼ばれた。殴ってない。むしろ殴られてた。2才だった。
2人目。
もう全然回らなかった。仕事。家事。育児。びっくりするくらい予定を忘れた。保育園の連絡帳。記帳がないからプールに入らなかったと言われた。ごめん。保護者面談2回忘れてた。PTAの仕事。やらなきゃとわかっているのに手が動かない。もう、もう、ダメだった。
でも障害者になるのが嫌だった。
精神科に行った。病院で薬をもらって飲んだら嘘みたいに頭がスッキリした。毎日未完了のタスクがぐるぐるしていた頭が真っ白になって、タスクに取り組めた。
もう。認めるしかなかった。
この子も苦しむのか。知らずに産んでごめん。友達と一緒に遊んで悪気なく手を挙げたりするって。聞いたよ。私も全く同じことを子供時代にしていた。
ごめん。ほんとに。なんで知らなかったんだ。これから先、すごくすごく苦しいだろう。
私は友達と話す時、会社の同僚と話す時、素で話せたことはない。学習して学んだ適切な振る舞いをして過ごしてきた。だからすごく疲れるし1人になりたかった。今もそう。家族にもそう接してる。良い母の顔でずっと探してる。素の自分じゃ誰も好きになってくれない事を知ってるから。お母さん以外素の私を好きになってくれる人はいなかったから。
こんな文書いて何したいのか。
本当にごめん。ごめん。ごめんよ。
ADHDってどこかに居場所があるのか?薬を飲んで健常者のふりをしても、それは私じゃない。ずっと自分を否定ながら、明るいフリをして、元気なふりをしてこれから先生きていく。子供も。
療育を受けましょう。と、先生は言った。療育。健常者の考えそうなことだ。特性を理解して付き合いましょう。もう、いやだいやだいやだいやだ
ぎくりとした。私も数ヶ月前から精神科に通院しているからだ。ADHD疑いで。
ADHD。
子供の頃から忘れ物、遅刻、約束忘れ、すごく多かった。成績は良かった。大学も行けた。就活もして都内大手企業に内定。苦手なことは3倍かかったし、ミスも多くて怒られた。みんなが出来ることが出来なかったが、幸いプログラムが組めた。Excel、VBA、SQL、Python…コイツらのおかげで出世はできなかったが、仕事はできた。
子供が産まれると予定が増える。1人目。まだなんとかなった。癇癪がすごい。子供の泣き声がすると2回警察を呼ばれた。殴ってない。むしろ殴られてた。2才だった。
2人目。
もう全然回らなかった。仕事。家事。育児。びっくりするくらい予定を忘れた。保育園の連絡帳。記帳がないからプールに入らなかったと言われた。ごめん。保護者面談2回忘れてた。PTAの仕事。やらなきゃとわかっているのに手が動かない。もう、もう、ダメだった。
でも障害者になるのが嫌だった。
精神科に行った。病院で薬をもらって飲んだら嘘みたいに頭がスッキリした。毎日未完了のタスクがぐるぐるしていた頭が真っ白になって、タスクに取り組めた。
もう。認めるしかなかった。
この子も苦しむのか。知らずに産んでごめん。友達と一緒に遊んで悪気なく手を挙げたりするって。聞いたよ。私も全く同じことを子供時代にしていた。
ごめん。ほんとに。なんで知らなかったんだ。これから先、すごくすごく苦しいだろう。
私は友達と話す時、会社の同僚と話す時、素で話せたことはない。学習して学んだ適切な振る舞いをして過ごしてきた。だからすごく疲れるし1人になりたかった。今もそう。家族にもそう接してる。良い母の顔でずっと探してる。素の自分じゃ誰も好きになってくれない事を知ってるから。お母さん以外素の私を好きになってくれる人はいなかったから。
こんな文書いて何したいのか。
本当にごめん。ごめん。ごめんよ。
ADHDってどこかに居場所があるのか?薬を飲んで健常者のふりをしても、それは私じゃない。ずっと自分を否定ながら、明るいフリをして、元気なふりをしてこれから先生きていく。子供も。
療育を受けましょう。と、先生は言った。療育。健常者の考えそうなことだ。特性を理解して付き合いましょう。もう、いやだいやだいやだいやだ