はてなキーワード: プリセットとは
Immersive Translateっていう翻訳ツールというかブラウザ拡張機能が便利すぎてヤバい
正直な所、今夏のパワハラ関連の話題の中で前知事の基本的な態度に非常に衝撃を受け、議会全体からの否認(後援していた維新を含む)を受けるという事態に対しこのようなこともあるのだなと思いながら、その時点では然るべき手続きであると認識していた。
公益通報の法制度上、直接直ちに該当しうるかどうかという点については微妙と思っていたこともあったが、パワハラに関してそれなりの証言(当人を含む)があったことなどから、相応に正しい手続きの末の決定だと認識していた。
だが、現況の兵庫県での状勢を見るに、再選の可能性がむしろ十分にあり得る、ということにショックを受けている自分に気がついた。
肯定的な意見の大本になっていたのは、自殺した当人の(言及は避けるが)非違行為があったこと、クーデターを目論んでいたということだった。
一番最初にこの意見を見たときには、いわば『陰謀論』の典型的なものとして、考慮に能わないと一蹴した。
だが実際には、この意見はどんどん広まり、マスコミが報道しないことで、マスコミがこのクーデターに乗せられているがために今更手のひらを返せないのだ、マスコミは信用できない、という意見を取り込んでさらに広がった。
結果として選挙情勢で凄まじい追い上げを繰り返し、対立候補もリードを保ってこそ居るが実際に猛追をされているという報道が出ている。
自分は兵庫県民ではないし、今回の選挙に対し何かを言う立場には直接的にはない。無論住んでいる国のことではあるということで、アメリカ大統領選よりは間接的にものを言える立場なのかもしれないが。
ただ、『陰謀論』という典型例について一蹴することだけではおそらく、現況の状況を見誤りかねないと感じた。
正直に言えば未だにクーデターなどの状況は疑わしいとは思う。ただ、パワハラの問題がやや問題の周縁に終始していたという感触は確かにあった。
常に全ての証明が図れるものではないのだから、これだけ周縁にパワハラの問題が一定の事実として証明できるのなら、その本丸もそうだろう、と考えた。
あとは、当人が一貫して道義的責任を否定し続けるという極めて超越的な態度を取り続けたということに対して、『普通なら』ないし『政治的には』謝罪することの利益が、しないことを上回るだろうにもかかわらず、それをしないということに、非常に反感を感じていた、というところがある。
それはつまるところ、今回の猛追において、おそらくは兵庫県民の方々が改革を推し進めた(とする)斎藤前知事を信用しうると感じたということや、自殺者が(外部に発出した内容とは無関係だが)非違行為を行っていたということをもって、その文書の内容もおそらくそうだろう、と考えたことと、大差がない。
自分で組んだプリセットに依存しているという点で、結局自分が反対しようとしている行動と大差がないという状態は矛盾していて、愚かしい。
その反対しようとしている理由が推測と感情であって、それが世間に取り残されているというのならなおさら、その感情を矯正する必要がある。
ハリスがアメリカで全面的に敗北を喫したように、自分の視界の範囲内ではなく(それが主要なメディアに収まるものであればなおさらに)、自分がアクセスできていないメディア内の状況を見た上で判断する必要がある。
例えば現在は、非公表の会議の内容を開示したであるとか、自殺者のプライバシーを侵害するであるとか、そういった適正手続きの保障ということを、おそらくは、重視していない。
世間ではパワーハラスメントについて非常に敏感ではあるが、公務員などの「不適切な行動を取っているとされる」相手に対しては、おそらくは、重視されていない。むしろ、必要なものとも認識されることがある。
またやってしまった。金曜日に油断して朝まで起きてたから今日は夕方に目が覚めた。
もうこの時間からなにをやっても無駄というずっしりとした重い気分と、逆になにもできないならもう好きなことだけして遊んじゃおうという開き直り。
昨日の夜風呂に入ってないからとりあえず風呂に入るかと思ったが少しメールだけ見ることにした。
スリープしていたパソコンのブラウザには昨日の朝方に最後に見てたページがそのまま表示されていた。
そうだった深夜のテンションで昔の色んなバンドの動画を漁ってて最終的にトランスレコードに行き着いていたんだった。
80~00年代くらいまでの日本の音楽シーンは混濁しててとてもおもしろい。特にインディーズ界隈は宝庫なのだ。
ソドムの動画を再生してそこからまた止まらなくなった。ソドムはハードコアからハウスまでものすごい変化が大きい。今まであまり知らなかったのでとても興味深かった。
ソドムからジャパコア系が気になり検索しはじめた。右手のないマサミという伝説のパンクロッカーがいてブルーハーツの歌のモデルにもなってるそうだ。
「ちょっとの雨ならがまん」という80年代のジャパコア、パンク界隈のドキュメンタリーがある事を知る。見てみたい。
そのへんの流れからINUの町蔵に流れて最近の町田康の活動を追う。「くるぶし」という短歌集がめちゃくちゃ良さそうなので購入した。
https://gendai.media/articles/-/129641
町田:つまり、エモーションってのは本来複雑怪奇なものなんだけど、それを人工的に一方向に持っていって、ある種の効果を狙って市場のニーズに応えようとしてるのがいまのエモなわけですよね。それってぶりっ子ですよね?
率直な視点かつ、町田がぶりっ子(エモさ)を否定してるわけじゃなく、むしろできるなら自分もそれやりたいと思ってそうなとこが面白い。
種村は色んな言葉を切り貼りして工夫を凝らすことはするけど町田はパンクロッカーらしく短歌も一発勝負みたいな感じで作るらしい。
穂村 どういうこと?
町田 つまり、自分のなかになにもないのに、プリセットで粗いもんだけ引用してそれらしく拵える。自分のなかのNGですけどね。
中島らもと町田康は日々の生活に寄り添った同じ言葉が何度も出てきたりするんだけど、それが好ましいってとこが似てる。
中島の場合は記憶が飛んで同じ話をしちゃってるみたいなのもあるけど。
というようなのをあれこれ追いながらまったく別軸でジブリのことも調べてた。
高畑勲と宮崎駿どちらからも評価されていたという近藤喜文という人を知る。(耳をすませばの監督)
どちらもこの方が入らないなら作らないというほどの取り合いをしたこともあるらしい。
こんな二人から求愛されまくったら相当にしんどそうだ。よく逃げ出さずに最後までいたなと関心する。
その近藤喜文さんがとても好きな漫画家ということで高野文子の名前が出てる情報も得た。
気になったので注文した。
町田康の短歌集に高野文子の漫画。なんだか昭和のサブカル感あふれる週末だがきっとこのふたつは時代を超える良さがあるのではと期待している。
もうすぐ誕生日を迎えて33歳が終わるので、いい機会だと思って平成初期生まれである自分のロマンス観の奥底に眠る作品について、水面まで引っ張り上げて雑語りしてみた。なお性別は男。
GL:これ
ガールズラブと項目を立てておいてなんだけど、実は未だによくわからない概念(もしかして期待して読みに来たかもしれない人がいたらゴメンなさい)。とりあえず自分のステートオブジアートとして率直な気持ちを残したいと思う。
BLの方で書いたように、筆者は昔からティーン向けの少女漫画や少女小説を摂取していたので、(少)女同士の関係性は友情(たまに愛憎)のものとしてプリセットされていた。なので女と女の距離が近くても「ああそういう感情ね」として頭の中の知っている感覚にラベルを振り分けていた。そこに特別な名前を付けることはなかった。ただ「友情・親愛」と。
その後、オタクとして成長すると共に、だんだんと百合という概念が男オタクの間に伸長してきたが、百合市場が出来上がるのを横目に眺めるだけで、自分自身がどうこうということはなかった。
覚えている限りだと、高校生の時(2006年くらい?)にオタク同級生の間で少女同士の関係性を題材にした漫画だったかラノベが友人の男オタクの間で流行っていたと思う。なんだっけ……4コマ漫画で……メガネの女子の眼の前で授業机の中から大量の煮凝りがぬぽって落ちるシーンだけは覚えているんだけど……。当時は百合という言葉は使っていなかった気がするけど、可愛い女の子同士がいちゃいちゃしているのがいいんだ、みたいなことを言っていた気がする。自分はそれに対して、特に思う感情はなかった。いや、逆に今更?という感情だったかも。なぜならば既にその場所は訪れたことがあったから。
自分が初めて少女同士の恋愛にも似た感情のやりとりを意識したのは、小説だった。図書館で借りてきたとある作家の小説で読んだS(エス)といううら若き乙女同士の関係。女学校に通う少女同士の疑似恋愛。そこにあったのは上辺は花畑を舞う蝶のように煌めき美しいが、内側に潜ると内蔵のようなヌメついた湿った感情だった。疑似恋愛、嫉妬、そして混じる疑似ではない気持ち。
そんな作品を読んできていたので、かわいい子とかわいい子がかわいいことをしている、みたいな作品に喜んでいるオタ友がどうにも幼く見えてしかたがなかった。
そうして百合とかGLとはあまり仲良くないまま、女同士の関係は友情というフォルダに入れて今の年齢まできたのだけど…………ただ……心の中で唯一引っかかっている、消化できなかった少女同士の関係があった(過去形)。それが恩田陸の小説「蛇行する川のほとり」に出てくる若い女子高生二人の関係性だ。
タイトル | 蛇行する川のほとり |
作者 | 恩田陸 |
本作は、高校美術部に所属する女子部員たちが、野外音楽堂で行う演劇の背景美術を仕上げるために夏休みに川のほとりにある合宿を行うというシーンから始まる。(一応)主人公の毬子は憧れの美術部の先輩である香澄さんに合宿に誘われ、有頂天で彼女が主催する合宿に参加する。本来ならば年頃の少女たちの楽しいお泊り会となるはずだったのだが、香澄さんをはじめとする他の参加者は、彼女に何かを企んでいるような、隠しているような態度を取る。次第にただの楽しい合宿ではないことが分かってきたころ、毬子本人が忘れていた幼い頃にあった事件が浮かび上がり彼女の過去を照らしてくる。そして過去を失い、少女は大人になる。
本作のあとがきで、作者の恩田陸は「私が感じていた『少女たち』を封じ込めたいと想って書いた」と記している。その言葉の通り、本作には様々な「少女」が登場する。まだ大人と子供の奇跡の狭間をうつろう毬子、過去を持たない完成された香澄、彼女の相棒で天才肌の絵描き芳野、一足先に大人へと羽化した真魚子。4つの章を通じて彼女たちは多様な顔を見せる。無垢でいながらも自分でも把握していない秘密を握っている毬子、どこまでも独立して半身の芳野にすら内心を明かさない香澄、優れた美術家の観察眼で本質を見抜きながらも最も大切な自分の中の香澄への気持ちに気付いていない芳野、そしてとある事件がきっかけでその輪に無理やり入れられた真魚子(まおこ)。章ごとに語り手が代わり、一つの側面の形質は、語り手へと姿を変えてると主観となる。
本作には、登場人物のうちに公式に女女カップルと呼べる組み合わせが存在する。香澄と芳野だ。常に二人で行動し、二人で一日を過ごし、どこでも二人の世界を作る。互いに互いを引き立て合うようなお似合いの二人。しかし二人は望んで一緒にいるわけではない。過去を共有してしまって、もはや離れられないのだ。お互いに過去という鎖を結びあってしまったと言っても良い。しかし、少なくとも芳野の方は、共に鎖を結びあった相手が香澄で良かったと思っている。
門外漢の自分が考えるに、多分世の中のGL?百合?好きは、芳野編を大いに好むと思う。そこで繰り広げられるのは、互いに誰よりも近く、親密で、そしてお互いに内面の99%まで理解しているのに、その残りの1%が、相手への愛が本当にそこにあるのか分からないという愛の物語だ。芳野編の、今まで無意識に避けてきた香澄の肖像画を描くことで、自分の中の気持ちを形作るという展開はとても美しいものがあると思う。
ただ、自分はこの二人の関係性は処理出来ていた、と思う。友情、親愛、そして強い愛情と。自分が最も咀嚼できなかったのはもう一つの組み合わせ、毬子と真魚子の方だった。
同級生の中でも子供っぽい毬子と、級友に先駆け一足先に大人になってしまった真魚子。恋愛面でもお子様な毬子と既に大学生の恋人がいる真魚子。正反対の二人は対極に位置するからか、親友同士であった。香澄と芳野という二人と比べると、一生離れずに共にある彼女たちに対し、高校生の間は親友でも卒業したら普通に進路が離れ疎遠になり、それでもたまに会ってお茶をする、というような関係だろう。仲良しで大好きだけど、互いに混じり合う程に近いわけでもなく、恋人よりも好きというわけでもない。そう、それだけなら十分に理解できたんだ。
物語の後半、とある事情により毬子の代わりに真魚子が合宿に参加することになる。自分が一番よくわからなかったのがそこだった。毬子が事情により参加できなくなるのは分かる、でもあんな事態になったとは言え、真魚子が嫌っていた香澄たちのところに単身乗り込むようなことをするのか、と。だって毬子と異なり彼女にはなんにも過去の事件に因縁が無い。だからいくら毬子に頼まれたからって、わざわざ事態を究明するために乗り込む必要はなく、ほとぼりが冷めるまで、物語が閉じるまで放っておけばいい。しかし、彼女は乗り込んだのだ。
この機序がずっと咀嚼できていなかったのだけど、最近、もしかし自分の考えは順序が逆であるかもしれないと気が付いた。頼みを受けて乗り込まねばならないほど、本当は彼女にとって、親友は本当に大切な存在だったのだ、と。誰よりも冷静で頭が切れる真魚子であっても、いや毬子の親友の彼女だからこそ動かざるを得なかったのだと。その時、すとん、と腑に落ちた音がした気がした。
香澄と芳野の唯一無二の分かち難い強固な結びつきとはまた違った、同級生の親友というどこにでもある女子高生の毬子と真魚子の結びつきも、それはそれで一つの思春期の素朴な輝かしい感情の頂点なのだと。
1.子供の頃、家の中で遊ぶことが多く、外で遊ぶ(運動を)ことをしていなかった。
単純にただ走ったり、自転車に長時間乗る、などの行為で改善される場合が多い。
子供時代から極端に運動が不足=運動に関わる神経や脳細胞が発達していない人
などは大人になってからの運動でいわゆる運動神経を成長させることが出来る。
人間の運動に関わる能力と空間把握能は深く関わっていて、一般に運動神経を発達させるほど空間に関する認識も向上する。
これはもちろん元々のプリセット能力によって変化するものなので子供の頃から外遊びをしないような人でも空間把握に優れた人がいる。
また、その逆も真である。
しかしながら、上述の三項目を満たすような人ならば、運動神経の発達により改善する場合もあるのでワンチャンある。
ただ、極端に運動不足な人が運動神経を発達させるにはかなりの運動時間を取らなければならないと推定される。
週末に1時間程度、走るくらいでは全く足りないはずだ。
日本ではあまり知られていないかもしれないが、英語圏では任天堂のアクセシビリティの欠如を非難する記事やコメントは珍しいものではなくなってきた。
特にNintendo Lifeのこの記事はかなり強烈だ。(https://www.nintendolife.com/features/soapbox-zelda-tears-of-the-kingdom-straight-up-fails-in-just-one-respect-accessibility)記事の本文だけでなくコメント欄もぜひ読んでほしい。
C5/C6麻痺を持っているゲーマーの男がゼルダについて書いた記事だが、彼はTears of the KingdomがBreath of the Wildと比べてアクセシビリティの面でどれほど進化しているか期待していた。しかし期待しても無駄だったようだ。彼は2019年6月にKotakuが青沼英二にしたインタビューを引用して青沼を非難する。
青沼:ボタンを配置する時は、プレイヤーに感じてもらいたい特定の方法があるので、非常によく考えて配置しています。キーの割り当てなどのカスタマイズをプレイヤーに自由にさせてしまうと、ある意味、開発者としての責任をすべてユーザーに丸投げしているような気がします。私たちはゲームをプレイするとき、すべての人に楽しんでもらうことを考えているので、プレイヤーにもそれを体験してもらいたいと思っています。しかし、プレイヤーが自由なカスタマイズを望んでいることも理解しています。
彼は上記のインタビューを引用した上で「青沼はそれを認めながらも、その指摘をはぐらかし、結局何もしなかった。青沼さん、同業他社(your peers)が何をやってるか見てみろよ。」と青沼を非難している。ここでいう同業他社とはソニーやマイクロソフトなどの大手プラットフォーマーだけでなく、EAやUbiなどのソフトウェア会社も含まれるだろう。彼は身体障害者専用のゲームをわざわざ作ってほしいと言ってるのではない。ただ単に、他社のゲームでは普遍的に実装されているキーコンフィグを設定メニューに追加してほしいだけなのだ。任天堂のディレクター、プログラマー、UIデザイナーは2023年になってもキーコンフィグすら満足に実装することができない。5,000億円もの利益を稼いでいながらそのためのプログラマーすら雇えないのか?一部の人はSwitchの本体設定でキーコンフィグをいじればいいと言うかもしれないが、それだとゲームを切り替えるたびに設定も変えなければならないし(一応、本体ではボタンプリセットを5個まで保存できるが)、QTEなどの状況に本体設定は反映されない。ゲームソフトの内部にキーコンフィグを実装するか、あるいはSwitchの本体設定によるキーコンフィグをソフト1本1本に対して保存できるようにすれば解決するだろう。
だが同業他社と比べた時の任天堂の劣後はそれだけではない。たとえば、ソニーとマイクロソフトは障害者用のコントローラーを開発、販売している。(ソニー:Access コントローラー、マイクロソフト:Xbox Adaptive Controller)
任天堂は?任天堂は何もしていない。厳密には周辺機器メーカーのHoriがSwitchで使える同様のコントローラーを販売しているが、任天堂本体は何もしていない。歴史を遡ると、任天堂はこの分野で業界の先頭を走っていたことがある。Nintendo of America(つまり京都本社ではない)は過去にNESで使える障害者用のコントローラーを開発していた。(https://ablegamers.org/history-of-accessibility-in-gaming/)だが今の任天堂は、再三繰り返しになるが、何もしていない。The Game Awardsという大きなゲーム賞がある。この賞では2020年から「Innovation in Accessibility」という項目が新設され、ゲームにどんなアクセシビリティ設定が実装されているかで評価される。それ以降、ソニーやマイクロソフトのゲームはこの賞を受賞したりノミネートされたりしているが、任天堂はノミネートすらされたことがない。この分野で任天堂のゲームは誰にも推薦されないのだ。
ちなみに、任天堂のこうした姿勢は他にも奇妙な事例を生み出している。ファイアーエムブレム 風花雪月では、Switchの携帯モードで遊ぶと文字が小さすぎて文章を読むことすらできないと指摘されている。(https://kotaku.com/the-text-in-fire-emblem-three-houses-is-too-damn-small-1836822715)別のメディアもこの問題を取り上げていて、そこではなんと3DSのファイアーエムブレムよりも字が小さくなっていることがわかる。(https://www.thegamer.com/fire-emblem-three-houses-accessibility-problem/)
これはかなり滑稽だ。テレビモードと携帯モードを切り替えられることはSwitchの最大の特徴の1つであるにもかかわらず、任天堂自身がその特徴を侮辱的に扱い、結果的に携帯モードを無意味にしているのだから。任天堂の経営者は「ハード・ソフト一体型のビジネスモデル」が云々とよく発言しているが、実際のところハードとソフトは大して統合されておらず、Switchの特徴は機能不全に陥っている。むしろPCゲームの方がハードウェアのことをよく考慮しているだろう。PCの場合、さまざまなハードウェアの組み合わせに対応する必要があるため、設定メニューで画質やUIなどを自由に変えることは当然の機能だからだ。
最後に、一番上で紹介したNintendo Lifeの記事の最後の文章を引用しよう。
「私は以前、任天堂はゲームをアクセシブルにすることをただ思いつかなかっただけだと思っていが、それは間違いだった。真実は、私たちの提案と嘆願は認識されているだけで、現時点では、開発者は積極的に障害のあるゲーマーを排除することを選択している。Tears of the Kingdomは、これまでで最も見え透いた嘘の例だ。」
任天堂の経営者は「任天堂に関わるすべての人を笑顔にする」などと表明しているが、彼らが実際にやっていることはかなり軽薄なのだ。
プリセットとネットで見たセッティング丸パクリで漫然と使っていたマルチエフェクターに出来立てほやほやの中本をぶち撒けた。動転しすぎて水洗いしつつ、乾くのを待つ間泣きそうになりながら部屋の掃除をした。シールドとかヘッドホンのとか諸々のコードが絡まってた所にぶっかけて、なんかベタベタが取れない。泣きはしなかったけど、せめて辛旨オイルを入れる前にこぼしていたら、いやそもそももっと部屋を整理していれば、いやそもそも中本を机のキワに置かなければ、とか考えてたら発作的にマジの絶叫が出た。マルチは壊れた。
バラして油取り除けば直るかなと思って分解してみたけど肝心の基板にネジ外すだけじゃ辿り着けないし、その奥でどっかが外れたっぽくてカラカラ言ってる。事態が余計悪化した。
少し冷静になったあとZOOMのサポートページで修理について調べたけど、一回バラしちゃってるし不具合の理由にカップ麺ぶち撒けましたと書くのも恥ずかしい。保証効くのか分からんけど保証書もどっか行った。
仕方なくアンプの埃を払って今となっては物足りない音のギターを弾いている。つまみを捻ってカッティングにはこのカリカリ感が良いかなとか試しつつ、ワウを踏みたくて仕方がない。
エフェクトが恋しくなって、Youtubeで色々と調べた。自分は今恐らく歪みとワウと、出来ればディレイとリバーブを欲している事が判明した。
ここまで分かったからコンパクト買い揃えて並べたい気もするし、金ないからまたマルチ買って安く抑えたい気もする。大枠の欲求は分かっても種別ごとのモデルの違いがほぼ分からんから何を選んだら良いかも判断しかねるし。ワンランク上げてGT-1買っちゃうか、いやそれならコンパクトをずらりと並べるか。
大切なものゎ失って初めて気がつくんだょ、、、
侍道っぽいこと、マルチエンディングであること、アクションが仁王ライクらしい以外は、事前情報無しでプレイ
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13293425613
みたいな主張、ようは「数学的に証明されたら感覚的なことではない。感覚じゃない事実なことを示すために証明するんだ」みたいな主張に対する違和感から始まってんだよね、元増田は。
いや、定義自体が、人間にインプットされた「同一/非同一」とか「書き換える」みたいな原始的な観念/身体感覚に依存してる部分が多少なりともあって、このプリセットが全人類で同一か確認する術が不可知なのだから、
「感覚をあいまいなもとみなし、そこから『全く』逃れるために証明するんだ」という考え方は、誤りだろって突っ込みたい動機から始まってるんだよね。全くじゃなく、程度問題だろ、全く感覚の影響を排除できてるというのは思い上がりだろっていう。もちろん厳密であろうと努力する態度は尊いと思うよ。
表現は一意ではないのだから、その人の中で誤解無く解釈が成立するのなら、思考は記号列でも自然言語でも構わないと思う
個々の動作がプリセットされているというよりは、AIみたいに多くの経験から共通点を見つけ出して学習するような能力が人間に実装されている、という方が正しそうな気がする
それが「厳密ではない」と言うならそれはそうなのかもしれないけど、結局「究極的には厳密さは多数決によって担保されるしかない」というところに帰着しそう
定義と表現が別ではないというなら、そもそも数学者が定義を考える最中の頭の中の、定義にあたる思考内容は、やっぱり記号列を想起してるときの記号列そのものってことか?
ならたとえば「→」ならばという記号や、もっと直接的にはゲーデル文の一覧表みたいなので記号列を頭のなかで想起して記号列の書き換えについて定義するのだろうし、他人が書いた→が使われた記号列や一覧表を規則としてみれば、それに従った書き換えもまたできるわけだけど。
だとしたら「書き換える」みたいな操作はどうやって身に着けた?全く言語的でそれ以外には一切よってないのか?