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2021-05-01

弱者男性12年前の最前線から語る

 男性が常に強者で勝者であるとするならば、あの真夏なのにエアコンなんてものはなく巨大扇風機が生ぬるい風をだらだらと放出し続ける倉庫で、全員時給1000円で集められた日雇い現場で、女性にはビール段ボールベルトコンベアの上で景品を貼り付ける仕事があてがわれ、男性にはびろんびろんに伸びきったまさに言い訳程度のコルセット安全靴を装着させた上で、ビール350mlが2ダース入った段ボールを上げ下げする仕事があてがわれた思い出はどう処理すればいいんですかね(挨拶)。

 むろんこの場合女性を憎む……のではなく、日雇いという弱者同士で連帯してそこでボーッと突っ立ってる監視役の倉庫社員をぶん殴る……のでもなく、倉庫社員とも連帯してサントリーを誅して社会主義革命を起こすのが唯一の正解であることは皆さん御存知の通りである

 さて、この増田では2009年出版された澁谷知美平成オトコ塾―悩める男子のための全6章』の内容を紹介する。澁谷は上野千鶴子ゼミ出身であるようだが、いわゆる「フェミニズム」的なテーマではなく、『日本童貞』『立身出世下半身』などを出版している、個人的に信用している書き手である

 目次は次の通り。

第1章 その「男の友情」は役に立つか?

第2章 「僕がキミを守る!」と思ってる?

第3章 非モテはいかにして生きていくべきか

第4章 暴力はなぜ、いけないか

第5章 包茎手術はすべきか否か

第6章 性風俗に行ってはダメ

 2009年の本で、いま論じられているテーマの大体が既に出ていることに驚くだろう。我々は弱者男性問題それ自体だけでなく、議論12年でほとんど進んでいないこともまた嘆くべきだろう。というかこういう話になると非モテ論壇とか言って侃々諤々やってたのが昔のはてななんだよな今の新参は昔のはてなを知らないから困る。失われた10年……。

 それはともかく正直、456章はそれまでの言ってきたことと関連性が薄く、また前の章ほど爆発的に面白いわけでもないので、言いたいことはわかるのだがこの本にいるか?という感じはする。なので、とりあえず3章から見ていくことにする。

 3章の冒頭でいきなり研究者としての特大のお気持ちドロップされていて面白いので少し長くなるが引用しておこう。

ヘテロ男性非モテ現象だけを扱うというと、必ず来るのが「ヘテロ女性非モテの方が、あまり苦しみが言語化されないだけに問題が多い。なのに、なぜあなたヘテロ男性非モテを扱うのか」という反応です。世の中には、Aという現象を扱う人に対して「A以外も扱え」と指摘することがエライのだ、これこそ目配りというものだ、と思う方が多数存在するみたいで、かなりの確率で前述のような発言出会います

が、そういう発言魚屋に対して野菜を売れと主張するに等しい。非モテ女子の話がそんなに重要なら、重要と思う人がすればいい〔澁谷注:私もいつかはしたいと思っていますが、「非モテ女の話の方が重要だ!」って言う人はどうぞお先に。止めませんよ。〕。それに、その手の話が見当たらないということは、苦しみがそれだけ大きいことを表しているのかもしれませんが、苦しみの不在を端的に表しているだけかもしれません。有力な傍証でもないかぎり、言語化されていないということから苦しみの有無を推定することはできないという、当たり前の事実も指摘しておきます。(p.75-76)

 「女性問題を扱え」といちゃもんつけられたことが一度や二度ではないのであろうことが怨念の籠もった書きぶりからわかる。まあ、それは12年後のネットを見ていてもよくわかるところで。

 男性について語れば女性の方がつらいか女性について語れと言われ、女性について語れば男性の方がつらいか男性について語れと言われる。もういい加減そういう「やってる感」を出すための100字ですら余るようないちゃもんはやめにしませんか。お前がやれ。俺もそいつもやったのだから

 澁谷は非モテを3種類に分類する。

[a]恋愛したくてもできないタイプ(内発的非モテ

 a-1 性的存在としての異性との関係性を欲しているタイプセックスをしたい、「女性」の存在に癒されたい)

 a-2 とにかく他者承認を欲しているタイプ(オレを認めてほしい!)

[b]「恋愛」をしたくないタイプ(外発的非モテ

 「恋愛」を押しつけてくる世間や、いま現在恋愛」と呼ばれている行為の中身や、それを統制するルール等々に違和を感じているタイプ(p.90)

 この分類に対して何か意見を言うことは誰にとっても容易であり、それは分類表の絶えざる細分化を招くだろう。むろんその行き着く先は完全に無意味な、総人口分のパターンである。だから、ここでは非モテ男性に最低でも三種類ある、という点を強調しておくことが必要だろう。

 男で、かつ非モテ、という狭く見えるテーマに絞っても最低これだけのバリエーションがある。そのことを非モテ男性当人達ですら大抵わかっていない。aのタイプ非モテ男性が「今すぐ女をあてがうべき」とまでは言わなくても「女をあてがってくれると嬉しいのは確か」ぐらいに思うことは自然であるが、bのタイプ非モテ男性から見ればまったく話が合わず、「非モテの中でも過激野蛮人」と感じられることだろう。それをきっとaは「すかした奴だ」とか「きれい事を言っている」とか感じるだろう。まして女性受け手場合さらに混乱が深まるだろう(男女の非対称性については後で論じる)。

 澁谷は当時の主流であった「経済的問題解決すれば結婚は増える」「機会をつくれば結婚は増える」といった主張を論駁し、「フリーター論壇」が経済について述べたフレームワーク非モテ問題スライドさせることを試みている。その過程で澁谷は「あてがえ論」について、2009年の時点ですでに考察している。

非モテ問題場合、これ〔若年労働者問題におけるベーシックインカム〕を「ベーシック異性」によって解決する発想がありえます女性をもれなく男性に分配する制度です。(p.95)

 澁谷はこの論が全くの荒唐無稽でないことを、19世紀半ばの宗教的コミュニティ、オナイダコミュニティを例に挙げ示すが、結局現代においては不可能であろうと言う。

当然のことながらこれを現代日本でやることは不可能です。「分配」される側の女性の中には、どうしても相手のことが好きになれない人が出てくるでしょうし、男性つがいになりたくない人だって居ることでしょう。そうした女性男性との共同生活セックス強要するのは、現代日本常識においては、「人権侵害」となります

もちろん、男性にとっても全く同じことが言えますあなた好みの女性あなたのもとに「分配」される保証はありません。〔…〕「なんであいつには美人が来て、おれのとこにはそうでないのが来るんだ!」なんていう新手の「格差問題」も生じるかもしれません。(p.97)

 この「格差問題」という未来予測面白い。「チェンジ」なんて贅沢は、限られた資源女性)をやりくりしないといけない政府が許すはずもない。チェンジOKをうたう風俗でも2回目以降は有料だったりするのだから

 個人的にはこの例示こそ「あてがえ論」に対する何よりのカウンターであると感じる。仮に「あてがえ」とガチに主張する人がいたとして、その人に人権を説いても馬の耳に念仏だろうが、こっちの懸念は聞いてくれるような気がするのである

 澁谷は続いて、経済問題における社会保障にあたるものとして、思想セーフティーネットの構築を提唱する。まあそれ自体は正しいと思うのだが、本田透電波男』における主張ほど面白いものではないのでここでは省略する。『電波男』を読め。

暴力的だったり、女性にたいして思いやりがない場合のぞき、ある男性女性から選ばれないのは、その男性のせいではありません。女性にとっての「よき男性像」が特定の偏り――収入学歴一定以上あり、ある水準以上のルックスをしていて、会話が続く――を見せている限り、そこに当てはまらない人や当てはまろうとしてもできない人が出てくるのは当然のこと。それは、男性陣が特定の偏りを持った「よき女性像」を持っており、そこに当てはまらない女性非モテ女性)が出てくるのと同じことです。(p.100)

 おそらくこの記述で多少救われる人もいるに違いない。KKOは来世に期待するしかないが、それはあなたのせいではない。

 ただここで考えたいのは、「暴力的だったり、女性に対して思いやりがない場合」をしれっと除外している点である。そんな男でも「女をあてがわれた」のがかつての日本社会であったことは、澁谷も指摘している。

とはいえちょっと脇道にそれますと、「分配」の方法は問わずに「男性にもれなく女性がくっついた」という現象だけを切り取ってみれば、それに近いものを一九五〇~六〇年代日本に見出すことができます。当時の男性生涯未婚率(五〇歳時点で一度も結婚したことのない人の割合)はわずか一%台でした。九八%の男性が一度は結婚したことがある、つまり女性を「分配」されたことがあったのです。

何故これだけ広範囲の「女性の分配」が可能になったのか。「男女とも結婚して一人前」という社会規範が強かったこともありますが、なにより男女の経済格差が今以上に大きかったことが上げられます

この時代、一部の職種を除いて、女性が一生続けられるような仕事はありませんでした。有名企業就職できたとしても、当時は、女性にの適用される「三〇歳定年制度」によって追い出されてしまったのです。一方、男性には安定した仕事がありました。給料は毎年上がり、先の見通しも明るい、なんといっても高度成長の時代です。(p.97-98)

 ちなみに本書では2005年男性生涯未婚率15.4%という数字を引いているが、2020年には23.4%になっているらしい。

 それに加えて、上で述べた加害性が必ずしも本人の責任ではないということも、90年代以降の精神医学社会学が明らかにしてきたのではなかったか

 とすれば、KKOのみならず、KKKOキモくて金が無くて加害性があるおっさん)もまた、必ずしも本人のせいとばかりはいえず、社会包摂すべき、という話になってくるかもしれない。その際には「ラベリング」「過剰包摂」など、社会学障害者ホームレスなどについて積み上げてきた知見を生かすことができるだろう。というか、福祉現場の人たちはいまもKKOだけでなくKKKO社会の内側へと復帰させるべく頑張っているのではないか

 なぜ、おっさん問題なのだろうか。あるいはより学術的な言い方をするならば、非モテはなぜ男性問題になるのか。本書はその問いに直接的に答えてはいないが、ヒントは与えてくれる。以下は1章のはじめの方の記述である

皆さんは、なーんか気分が晴れない、ってことありませんか? あるいは、漠然とした不安があるとか。原因不明の体のだるさがあるとか。そういった不快状態、つまり精神的に健康で無い状態を「ディストレス」といいます。そのディストレスが、独身男性と既婚男性とで、どちらが高いかを測った調査があります。〔…〕結果は〔…〕二八歳から七八歳まで、どの年齢層においても既婚男性のディストレスのほうが低かったのです(稲葉昭英「配偶関係精神健康」『日本男性心理学』二〇〇八)。男性にとって、そばに異性(=妻)がいる人生は、いない人の人生にくらべて、ハッピーなようです。(p.15)

 澁谷はディストレスと妻帯のどちらが原因でどちらが結果かはこの調査からは分からないと述べるが、続いて妻に感情を見せることによって、夫が精神的に健康になっていくことを示す調査引用し、「つまり女性と一緒に暮らすことがディストレスを低くすると考えるのは、間違っていないようです」と一旦の結論を置く。そして次のように続ける。

ならば、男性女性から精神的なケアを引き出している、といえる。「女性だって同じことでは?」という反論に答えておくと、女性独身か既婚かでディストレスに大きな差はありませんでした。〔…〕統計的な傾向でいえば、男性精神健康女性存在は欠かせないが、その逆はない、ということです。(p.16)

 この下りはまったく読んだ記憶がなく、今回読み返して一番驚いた部分である増田の実感としては「男がいないと鬱病になって死にそうな女」はよくいるが、その逆はあまりいない印象であるが、それはどうやら必ずしも正しくないようである(むろん男がいる=結婚ではないとか、ディストレスが高い=鬱病になって死ぬではないとか、そもそも元の調査やその読解がどうなのか、とかは考えなければいけないだろうがそれはそれである)。

 上の論述は、女性強者弱者フェミニストフェミニストを問わず)による「女に頼らずに男同士の友情で満足すればいいじゃん(私であればそれで満足するのに)」という主張が、必ずしも的を射ているとは言えない可能性を示唆している。もちろん逆もしかりで、「男性夫婦になれば女性だって幸せになるはずだ(俺のように)」という男性の主張が間違っている可能性も同時に発生している。

 ここに性にまつわる問題の隠れた難しさがある。「相手気持ちになって考える」ことと「相手気持ちになって考えたつもり」を区別することは、専門家であっても難しい。さらに加えて、先に述べた非モテ男性の三分類といった差異も隠れている。とにかく、話題への参入障壁が低い(男もしくは女であれば誰でも一家言持っている)わりに、トラップが多すぎるのである。これが2009年から今に至っても議論が終わらないし前に進んでもいない一因だろう。

 こうした非対称性が発生する原因として澁谷は、現在社会において女性男性より相手の話をよく聞くように育てられており、それに対して男性競争的に育てられていることを挙げている。その結果として男性女性に癒やされているし、女性女性に癒やされているのだろう。

 一応言っておくとここで澁谷や増田は「男性と違って女性は人を癒やすべきだ」とか、まして「男は働いて女は家にいるべきだ」とか主張しているわけではない。ただ、そういう傾向がいまの社会にあるようだ、と言っているだけである。それを望ましいとか望ましくないとか考えるのは社会科学の領分ではない。「〈こうであるから〈こうであるべし〉を導くことは不可能である」(ウェーバー)。

 12年後のいま、澁谷の主張に触れると、多くの部分はそのまま現在に流用可能であると感じる。しかし、目配りが足りていない部分もある。おそらく澁谷は包茎手術と高須クリニック関係よりも、男性における経済的問題について語るべきであっただろう。「女はホームレスにならなくて済むからいいよな」「いや危険から女はホームレスになれないのだ」「それでも事実として死ぬでもホームレスになるでもない選択肢がある女は恵まれている」云々のあれである。むろんそれは今だから言えることであるのだが。

 それでも増田が望んでしまうのは、そうした議論が両者ともにマジでクソだと考えるためであるホームレスと実地で接しろとは言わないからせめて、ホームレス女性は本当に少ないのか、少ないだとすればホームレスになるはずの女性はどこへ言っているのか、それはほんとうに「恵まれている」といえるのか、といった事実についての認識は両陣営ともに共有すべきであるし、その時点で認識差異があるならどの点で異なるのかを明らかにすべきである

 そうした仕事を澁谷が12年前に済ませてくれていたら、と思う。思うのだが仕方ないことなので、現在を生きる我々がやるしかあるまい。というところまでは澁谷の背中に乗って増田が到達させたので、ここから先はお前の仕事だ。頑張ってください。たまに手伝いに行くかもしれない。

 

===

 

追記

 バズったので宣伝します。狐火という、この記事や通念における弱者男性というカテゴリーからはみ出す部分はありながら、それでも弱者男性であることを納得せざるを得ないリリック10年以上紡ぎ続けているラッパーがいます。売れろ!

27才のリアル狐火(2010

https://www.youtube.com/watch?v=tmJBGEFXOvU

勇気が欲しい

特に上司が活発で生意気な年下でも

余裕で頭を下げられる

勇気が欲しい

月給25万以上社保険出来ればジムの割引券も欲しい

採用面接から働いている自分想像してネガティブにならない

勇気が欲しい

けど、本当は1つの事を信じて続ける勇気が一番欲しい

31才のリアル狐火(2013)

https://www.youtube.com/watch?v=MRLXZGylQRg

チューチュートレインの一番後ろでしゃがんでるだけの人生でいい

絶対こんなはずじゃなかった

オレこんなはずじゃなかったんだよ

上司に怒鳴られトイレで叫んだ

あんたらステージ上じゃ無力だ」

36才のリアル狐火(2019)

https://www.youtube.com/watch?v=loWcv5VEObM

よく聞かれる

「もし音楽成功したら、サラリーマン気持ち

歌えないんじゃないですか?」

サラリーマン気持ちを歌いたくて音楽を始めていたならどれほど楽だったか

37才のリアル狐火(2020)

https://www.youtube.com/watch?v=z1J8BbnBLyQ

27才までに見ていた夢は全て叶った

生意気な年下の上司はオレのファンになった

2021-04-16

早稲田大学履修登録についての覚書

https://togetter.com/li/1698356

前提

自分が在学していたのは10年くらい前

件の学生国際教養学部で、自分政治経済学部

キャンパスは同じでカリキュラムも概ね社会科学人文科学系なので多少は共通項もあるはず

国際教養は1学年600人くらいで、政治経済は1学年800人くらい

https://waseda.app.box.com/s/mm9excnx8y4qfd92ls95bqzbtx5lpm51

https://waseda.app.box.com/s/6jfnkx02vtydrgbxm8xrzb7mdshufppc

あと「留年」という言葉で誤解されがちだが、早稲田学部基本的に年度取得0単位でも進級はする。その代わり、5年生以上を「延長生」と呼称する。俺は詳しいんだ。

所感

・取りたい講義を取れないのは大学としてどうなのか

→定員分を吸収できるだけの講義数があっても、多くの人が取りたがる特定の人気講義に人が集中したら抽選にせざるを得ない。それは早稲田に限った話ではない。

オンラインからもっと柔軟にしろ

→選外となった希望者にオンライン聴講権限付与するような制度はあっていいと思うが(あるかどうかは知らん)、

いくらオンライン講義とはいえ質問への対応課題の採点、単位認定等は担当教員が行うわけで、限度がある。

その辺は大学教員多忙さに理解のあるはてなブックマークユーザーの皆さんならご理解いただけるかと思いますが…

・定員が多すぎるのではないか

→定員が多すぎるから抽選になるのではなく、募集数を超えて人が集中している講義のみが抽選になる。

・必修が抽選なんてひどい

→例の学生は必修の抽選に落ちたなんて書いてないように見えるんだけど、どこかにそう書いてあった?

必修が自動登録されて、空いたところに教養科目とかを入れるのがよくあるパターンだと思う。

同じ必修でも担当教員を選べるタイプの科目であれば、当然教員や内容によって人気の差は出るので抽選は発生し得る。だとしても全員を受け入れきれない必修科目なんてまずないと思うけどなあ。

抽選留年する可能性があるってこと?

申請した科目が抽選ばかりで、それに落ちまくったらそうなる可能性はある。

ただ科目数自体は確保されているはずなので、本来は2次や3次登録でそういう学生を吸収しきるという仕組みになっている。

件の学生場合、1次で半分以上落ちたとはいえ2次で十分挽回できる範囲のはずなので、なぜベストを尽くさなかったのかという気持ちもある。

件の学生対象履修登録案内

https://www.waseda.jp/fire/sils/assets/uploads/2021/03/Schedule_Spring_CurrentStudents_J.pdf

n次登録が終わった時点でまだ空きのある講義情報現在の履修者数/定員)が掲示板ポータルサイト(全学共通)で提示され、学生はそれを見て次の登録申請を行うのが基本的な流れ。

全てが抽選というわけでもなく、担当教員選考を行うこともあるが、そこは人による。

自分のいた頃は3次登録が終わってもあぶれてる人はかなりレアケースだった記憶があるし、全登録期間が終了して全講義の定員が埋まってるなんてことはあり得ない(必修科目なら尚更)のでどこかしら滑り込めた。

そもそも人気講義は選外になることを織り込んで「取りたい講義」「取れそうな講義」を組み合わせて申請するものなので、件の学生は不運とはいえその辺もちょっと不器用だったのかなという印象。

自分他人のことを言えないタイプ学生だったが)

ただ…推奨17単位で、3次登録申請が全て通っていたとしても合計18単位というのはちょっと履修計画に余裕がなさすぎると感じた。

ってか2次登録は?

窮状を訴えるのに2次登録の結果だけ触れてないのが引っかかるんだけど…申請忘れてたりしないよね…?(他人ことなのに止まらない冷や汗)

先行:0(1科目限定

1次:9/19

2次+3次:5/9+?

大体の人は1次で落とされまくっても2次で半期20単位分くらいの履修を確定させる。(年間取得上限は必修込みで40)

1次よりも2次や3次の方が通る可能性は高いだろうに「1次の登録数>2次+3次の登録数」になっているのはさすがに2次+3次の申請自体が少なすぎるような気がする。

これだけ見ると典型的な「人気講義ばかり申請して抽選で爆死する人」のようにも見えるが、今年の講義実施状況が分からないのでそこは何とも。

とはいえこういう人は少数ながら毎学期必ずいる。自分がいた頃も、履修登録を忘れていて自動登録の必修以外ゼロ単位になった奴がいるなんて話も聞いたことがある。(真偽不明

件の学生は期間内登録自体はしてるようなので憤懣遣る方ないというのは分かる。なので問題抽選云々というより救済措置の方にある。

定員が多すぎるというブコメが多いが、普通に定員を吸収しきるだけの講義数はあるよ。履修登録の度に全講義が定員いっぱいになる学部が回るわけないじゃん。

から登録期間終了後にあぶれた学生を定員に余裕のある講義に受け入れるくらいの融通はきかせてあげてほしい。

個人的に優先してほしいのは

救済措置の設置>抽選システム改善>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>定員削減

って感じ

なんでこうなっちゃったんだろうね

学生へのバックアップ体制不備

自分がいた頃は学部事務所に行けば誰かしら履修相談に乗ってくれたが、今のご時世でそこのバックアップがうまくいってない、行き届いてない、周知されてない可能性は大いにある。

特に抽選で選外になる可能性を織り込んで履修計画を立てる」のは基本のキみたいなものなので、各学部はそこをもっとフォローするべきだと思う。

(選外になる可能性を考慮しろという注意書きはシラバスに明記されていたし、今もされているとは思う)

国際教養の細かい事情は分からないが、一般的に1年生は必修が多いのであぶれることはさほど多くない。

(必修科目が定員超過することはまずないし、そもそも自動登録されることが多い)

件の学生は新2年生とのことなので、去年と同じ感覚で取りたい科目を申請していった結果、抽選で爆死したのではないかな~と思った。

国際教養学部特殊性

従来は2年次に1年間留学する学部だと思うけど、コロナ留学できてない分国教履修登録する学生が例年より増加している可能性もあるのでは。学部内履修学生数の増加に対して開講科目は増えているのだろうか。

↑元記事でも触れているブコメがあったが、

国際教養学部というのは早稲田でも少し特殊学部で、学部生は原則として2年次に海外留学する必要がある。

ところがこのご時世で留学生の行き来が殆どなくなってしまっている。

これは推測だが、

本来であれば留学国外にいるはずの日本人学生が、学部内の講義に集中して抽選が多く発生してしまった

コロナ禍において、急に学部内の講義を増やすことができなかった/オンライン対応で定員を増やすことができなかった

この辺りは要因としてあり得るのかなと思う。

Add-Onlyというのはおそらく国際教養学部独自制度だと思うが、これがコロナの影響でなくなったというのはよく分からない。

↓こういう事情のようだが、それでもよく分からない。

https://twitter.com/naataso_wsd/status/1382293955446902792

ただまあ、政経には元々そんな制度なかったので、救済措置として登録期間終わった後も空きの残っている講義にぶち込める制度作れや!というのは賛成。

確認している情報自分が言えること

コロナ禍で情報が集めにくいという事情もあったとは思うしその点は同情するが、そもそもの履修申請が少なすぎるように見える

1次でどれが抽選になるか分からなくて選外いっぱい出るのは仕方ないし、自分経験がある。ただ2次以降は充足状況が公開されるので、それを加味して計画を立てるんやで。

・1次で半分以上選外になっている時点でシラバス持って学部事務所相談しに行くべきだった

何だったら登録の度に相談しに行ってもいいくら

・2次は…?

2次は…?

・それはそれとして、空きのある講義は何かしらあるはずなので学部側は推奨単位数程度は満たせるように融通しろ

人気講義が既に埋まっている段階ではもはや公平もクソもないので

学部側はモグリもっと寛容になれ

選外になった講義資料を融通してもらうくらいええやろがい。皆大体同じ額払ってんだろ

・履修に限らず学生生活で困ったら早めに学部事務所相談しよう!
なんだかんだでこれが一番大事だし一番言いたいことなのでよく聞いてください
大金払ってんだからどんどん職員迷惑をかけていけ!!!!!
高齢化著しいはてなを現役大学生が見ているわずかな可能性に懸けて何度でも言うぞ!!!
人に!!!頼れ!!!!!頼るのは!!!早ければ早いほど!!!良い!!!

(このご時世でアレだがメールだけでなく直談判も意外と通ったりする)

(この時期は履修専門のアドバイザーがいた気がするけど今もあるんだろうか…?)

一部気になったブコメ

戦略が悪い」という話にしてしまうと「人気のない講義に余裕を持って申し込んだけれど、本当に運が悪く低確率で全部落ちてしまった」人も自己責任になる。あなたは運悪い0.01%から留年ね!で納得できるか…

そもそも人気のない講義抽選になりません!!!!!!!!!!!!ストレートインです!!!!!!!!!!!!!!

人気がなさすぎてマンツーマンみたいになることもあります。(胃痛

からこそ「取りたい科目」を軸に「人気や日程を鑑みて取れそうな科目」を組み合わせて申請すればほぼ問題なく単位数確保できます!!!

オンラインの授業なら物理的に講義室が足りないってこともないはず。何故対応できないのか/調べたら毎年600人以上入学してるのね。それは確かにオンラインでもパンクするわ。でもだから対応できないはおかしいよね。

かにオンラインでもパンクするわ→だからといって対応できないはおかし

パンクするから対応できない」は成り立つだろ???何が言いたいんだ???

上でも書いたけど、聴講生としての視聴権限を与えるのは良いと思うしやるべきだと思うよ。

受講生として受け入れるのであればまた別の話だけど

獲得した科目数の少ない生徒を優先的に当選させればこういう事は無くなりそうだが何故そうしないのか?

履修科目数までは考慮してないと思うが、年次が高い方が優先になるというのはあったと思う(うろおぼえ)。4→3→2→1か4→1→2→3

より良い、より偏りの少ない抽選システムがあり得るのではないか?というのは同意するし、件の学生もそういう主旨の発信だと思う。

授業料ほしさに、教えられる分以上に定員増やしすぎたのかな。

定員100名の人気講義希望者全員が受講できるように学部定員を100名にしました!

かくして不人気講義廃止され、それに伴って学部研究領域も縮小し、研究能力も低下しましたとさ。めでたしめでたし。(これは皮肉です)

総合大学を選ぶメリットカリキュラム選択肢の多さで、カリキュラム選択肢は多ければ多いほど履修希望者の偏りが「人気」という形で生じるわけ。

から登録期間終了後の救済措置や聴講制度の導入には賛成だけど、抽選が発生すること自体はある程度避けられないんですよ。

人気講義なら増やせばいい!って言う人もいるけど、ぶっちゃけ講義の人気なんて楽単か教員個人の人気に拠るところが大きいので、例えば同じ「政治学」をA先生とB先生がそれぞれ受け持ったところで、結局教え方の上手いA先生講義に人が集中するだけなんだよね。

沢山の授業を開講し、管理する立場からすると、「人気科目だけでカリキュラムは作れない」「カリキュラム学問の体系の表現であるから、全体として万遍なく履修登録されて学問を身に着けて欲しいとは思う。

そう思います。人気科目だけでは学部、ひいては学問も成り立たない。

救済措置云々とは別の話としてね。

マイルストーンなんか見て、楽単、人気講義だけ取っていったら、抽選外れまくった時はこうなるよね。過度の集中を促すマイルストーン誌が元凶ひとつ

学生の有志団体アンケート等を基に集計・出版している「マイルストーン」という情報誌があって(毎学期周辺の書店大学生協に平積みされている)、

シラバスと見比べながら大体どういう講義があって、どれが人気で、どれが楽単で、どういう試験方式で…といった口コミ情報を新入生でも入手できる。同学科の友人が少なかったので大変お世話になりました。

ただその一方で、楽単や人気講義への過集中を促した面も否めないとは思う。

今はそれに加えてSNSの発達が一部講義の人気先行に拍車をかけている面もある…かもしれない。

自分時代も人気科目とそうでないのがあって、落ちた科目は他で我慢して、最低限の科目数は確保できたのに、今は違うのか?/ドラフトではないが、ある程度抽選で落ちたら、他を優先的に選択できるようすべき。

そうなってるはずなんだけど、たぶん件の学生はそこで妥協できなかった(orしなかった)んだと思う。

オンライン聴講のようなことができれば他の科目を登録して取りたかった講義に潜る、とかできたんだろうけどね

2021-04-12

anond:20210412100154

この論文も含め、幸福学みたいな社会科学ではだいたい「アンケート幸福だと答えた度数」を、幸福度と捉えているんだけど、確かにそれでいいのかという問題はあるよな。

 

ブータン世界一幸福な国だった理由もそれだし。

国民のほぼ全員が幸福だと答えていたけど、それは王家文化情報統制をしていたせいで、ネット海外情報が入ってくるようになったら世界一幸福な国でなくなった。

それは幸福なのだろうかという。

2021-04-03

Webデベロッパーが苦手

Railsなんかをいじることを覚えて、大学に入ってから数年間インターンWebデベロッパーをしている。

エンジニアというとはてなでは怒られがちだし実際、不正確な用語だと思うので自分職種のことをWebデベロッパーと呼んでいる。)

自社開発のスタートアップとかは特に労働者としては緩いところも多くて楽そうに見えるので、将来は可能ならそういう方向に就職しようと思っていた。

でも何社かで働いてだんだん気づいてきたのだけど、同じ職種にどうにもあまり仲良くなれそうにない人が多い。

うまく言えないんだけど、賢めの男子校っぽいノリを結構頻繁に感じる。ホモソーシャルというのか。

特有選民思想みたいなものを感じる。合理的で賢い俺ら、みたいな。これは同じ学生インターンに限らず、社員に対しても。

そのわりに、口頭で話すとあまり面白くもないし、俺は文系学生なんだけど、人文科学社会科学知識がどうも薄いんじゃないかと思わされることもある。

(これはでも俺も自然科学工学知識が薄いと相手は思っているだろうからあいこかもしれない。)

もちろん、そうじゃない人もたくさんいるというのはわかっているんだけど、技術的には到底かなわないような、確かに頭の切れる人でもそういう性質を孕んでいることは多くて、結構失望させられる。

Twitterなんかでも性格が悪いとしか言いようのないツイートや、明らかに距離感おかしリプライをしていたりする。

Webデベロッパーしか知らないのでこう書いているが、機械学習組み込み系なんかのエンジニアもあまり変わらないかもしれない。

そういうコミュニティに既に多少属してしまっているので、どこにもこんなことを言えないので増田に書かせてもらった。

言葉足らずな感じですまない。俺もまだうまく整理できてない。

2021-04-01

anond:20210401234326

現状、基本的リテラシーとして学校で学んだ国、数、英は何歳でも役に立つだろ。

そういったリテラシー以外に、自然科学系も社会科学系も自分が進む方向次第ではその後の人生でも大いに役立ってるだろう。

2021-03-25

anond:20210324210750

社会科学って超意味あるんじゃん

こういう元増田を見ていると為政者がどうして文系大学を減らしたいのかよく分かる

2021-03-22

anond:20210322165042

社会学法律学経済学と同じ、「社会科学」のグループだよ。

英文学歴史学などの「人文科学」のグループではない。

社会科学も含めて、文系同調圧力が強いと言ったほうが正確だ。

2021-03-15

anond:20210315133310

女性学(じょせいがく、英: women's studies; 仏: études féminines)とは、第二波フェミニズムからまれた新しい学問領域であり、従来の男性中心主義的な学問客観性中立性を問い直し、これまで度外視または過小評価されてきた女性存在経験問題・関心を顕在化、言語化理論化し、これによって従来の知の体系の脱構築を目指す幅広い学際的研究である[1]。

領域としては社会学人類学法学経済学地理学倫理学文学歴史学哲学など従来の人文・社会科学の各領域個別にまたは分野横断的に関わる学問であり、女性研究音楽アート映画メディア等に関するフェミニズム批評さらにはケア倫理エコフェミニズムなど新たな概念提唱されている。

増田が言ってるのもっと雑な世界やろうけど、アカデミックの方もこんな感じやからそんな現状らしいで

2021-02-26

anond:20210226105220

 

 ある民族犯罪率が高くなるのは、通常は郊外スラム所得の低いマイノリティが集中しており、学歴も低いことから真っ当な職につけず、それをギャングリクルートするから

 社会科学的に自信を持って言えるのは、<パンティストリート>に治安についてのエビデンスがなく、他の地域と「価格間取り・住環境などについては完全に同一」であるとすれば、その地区に住んでいる<パンティー人>は社会的成功しているグループであって、犯罪ネットワークとのつながりは薄く、その生活水準も当該国の主流民族と対して変わらないということだね(警戒されていれば絶対に、同じ間取りで同じ値段ということはない)。

 なので、正直コインで決めても、全然問題ないと思うよ。

 

2021-02-25

キサマ等の居る場所は既に上野千鶴子が30年前に通過した場所だッッッ

https://anond.hatelabo.jp/20210201211448

一枚の切り取り画像をみなで寄ってたかって論評していて、誰も引用元の本を読んでいないようなので、前後を引いてみよう。

古市 上野さんは、社会学者であると同時にジェンダー研究者でもありますが、その2つの間で葛藤はないんですか。

上野 ない。どうして葛藤があると思うの?

古市 社会学者というのは、それが社会科学である以上、中立的物事を見るっていう視点必要だと思うんです。一方でジェンダー研究者としての上野さんは、「社会はこうなるべきだ」という社会運動家の意識も入っているんじゃないですか。

上野 いね、キミは。社会科学者って中立的なの?

古市 でも、経験的な現実にもとづいて何かを研究結果として導き出すわけじゃないですか。そういう行為と、ある方向に社会誘導する行為は衝突しないんですか。

上野 正しい戦略を立てるには、自分が戦うべき対象を正確に理解しないと間違ったことをやるのよ。おまけに効率も悪くなる。

 私はね、『家父長制と資本制』という本を書いた時に、それがつくづくわかりました。家父長制も資本制も、私が嫌いな二つの敵。それを分析したら、どこが弱点なのかがはっきり理解できた。

古市 じゃあ、初めにもう戦うべき相手があるわけですね。

上野 当たり前ですよ。だって、問いが立つというのは、そういうことだから問いに公平も中立もありません。

社会学者科学・公平・中立)とジェンダー研究者社会運動家・嫌い・誘導)は、上野の中では相反も矛盾もしておらず、葛藤はないのである。それは社会学の定義に起因するものだろう。

上野 そもそも社会学というものは、自己言及的な学問。つまり自分の言説そのもの現実の一部を構成していくという言説活動ですから、そこは戦略的に考えますよ。これはどういうことかというと、社会を外部から客観的」に観察することはできない、なぜなら誰しも社会の一員であり、社会の内側から見える範囲を照らしていくことしかできない。しかも照らすことによって、社会自体が変わってしまうこともある、というものです。

 だから社会学的に何かを調査分析する、ということは、社会に対し自分が超然として観察者の立場に立つのではなく(そんなことはできない)、自分社会の一員であり、自分がどうやって社会を見ているのか、ということを自問自答しながら進んでいくものなのです。

 この自問自答から全力で逃走しているのが、「社会学」をヒステリックに叩く人々の実態なのではと私は考えています。なぜ逃げるのかといえば、自分はこう思う、と表明すると、時に間違えることもあるかもしれないし、バカにされたりもするかもしれません。そういったリスクから逃げているのです。

 「社会学」叩きをする人々は、やたら人の意見表明を「お気持ち」と、まるで無意味であるかのように攻撃します。それは、実は碌な意見もない自身空虚を糊塗するために、人を攻撃しているのです。それが誤りであることを指摘した学問こそ、フェミニズムでした。「個人的なことは政治的なこと」という。

 だからそういった人々は、「客観的」とか「科学的」といった概念に逃げ込みます個人的なことは問題ではない、客観的科学的でなければならないのだ! ですが、社会科学人文学では、先の図のように、「客観的」というのは成り立たないのです。自分が何者であるかを問い直し続けないといけません。

社会学という学問についての前提が違うから議論が成り立っていないように思える。

引用元古市憲寿『古市くん、社科学を学び直しなさい!!』(2016) pp.73-74 p.76

2021-02-23

anond:20210223085321

木村幹事実認識問題外と言いながら、その後のツイート事実認識自体価値判断で変わるという内容のツイートをしてしまってるわけで、自分は人文社会科学イデオロギー次第のクソだなとやっぱり思ってしまうな。

2021-02-20

弱者力」の計算社会学者にして欲しい

有色人種+50点、女性+100点、LGBT+200点という風に、弱者の中で誰を優先すべきかの基準となる数字弱者力」を社会学者に算出して欲しい。

昨今なにかとネットで叩かれがちの社会学者だけど、複雑化する一方の差別問題へのソリューションになる「弱者力」計算ツールを開発して政府機関企業がこぞって使うようになれば、社会学が役立つ学問であることを世間の多くの人々が認めるようになり、社会学者研究費とポストも増えるはずだ。

理系社会学つーか文系客観的数字を出せない馬鹿から学問ではなくお気持ちでしょ?」

かいDisも跳ね返せる。

社会科学の中では経済学もっとも洗練された計量化ツールを揃えていると思うけど、ある人がどの程度「弱者であるかを測るのは幅広い社会現象が関わるので、これこそ社会学の出番だと思う。

弱者力」の活用事例は、こんな感じ。

政府大企業に対して「総従業員弱者力、合計1万点以上」を義務付けることで弱者エンパワーメントを促進する。

企業は「当社はゲイLGBT+200点)を100人雇うことで法的義務の2倍となる合計2万点を達成しました」とCSR報告書に誇らしく記載できる。

また「弱者力」を使えば弱者同士の利害が衝突した時にも明快なジャッジを下せる。

例えば、トランス女性(男体持ち)が女子トイレを使いたいと主張しているが、シス女性(生まれつきの女体持ち)は女子トイレペニス持ちが入ってくると性犯罪が増えて安心できなくなるので嫌だと主張している、どちらの利益を優先すべきか?

という現代社会アポリア(難問)に対しても、

シス女性弱者力:「女性+100点」=合計100点

トランス女性弱者力:「女性+100点」+「LGBTトランスジェンダー)+200点」=合計300点

以上より、シス女性よりも3倍も弱いトランス女性利益を優先すべきことは明白であるので、女子トイレトランス女性(男体持ち)に開放するものとする。

ここまでネタに見えるかもしれないけど、アメリカ大学入試就職でのアファーマティブ・アクションでは「弱者力」計算をしているはずだ。

例えば、試験で同じ点数の貧乏白人と中所得黒人受験生がいたとして、

白人貧乏なのは+10点だけど、

黒人は+50点だから、中所得黒人を優先的に入学させる

という風に。

(実際はもっと複雑な計算だろうけど)

蛇足だが、こういう「弱者」とタイトルに付けた記事を書くと、増田に常駐しているKKO

「でもキモくて金のないおっさん弱者力0点に計算されて救済の対象にしてもらえないのは特に問題ないんですよねわかります

かいクソリプしてくる可能性が高いので、

KKO VS 資産家令嬢Ph.D.持ちGAFA勤務年収千万女性

というカードで「弱者力」バトルをしてみよう。

資産家令嬢Ph.D.持ちGAFA勤務年収千万女性弱者力 合計100点

内訳

女性+100点(女性は、いかに裕福な家庭で生まれ育ち、高い教育を受け、高所得になろうとも、女体である限り、性犯罪暴力犯罪被害者になりやすく、月経による体調不良妊娠出産負担させられるという強い弱者性を持つ。地上から性犯罪が根絶され、人口子宮実用化し、サイボーグ化により男女の身体の差が無くなるまでは、無条件で+100点)

KKO弱者力 合計25点

内訳

低所得+10点(万人に平等に与えられた24時間所得を増やすためのハードワークに費やすも、娯楽に使うのも個人自由であり、所得はそのような個人選択の積み重ねの結果であるとはいえ環境による有利不利も無いことはないので+10点)

中卒+5点(所得と同じく、自分人生時間を将来の所得を増やすための学習に使うのも、遊んで浪費するのも個人自由であり、学歴個人選択の結果である

診断済み発達障害+5点(発達障害は外見からわかる障害ではないので弱者度は低め。投薬や療育により改善もできる。もちろん治療拒否するのも個人自由。なお一目でわかる身体障害なら+50点)

2型糖尿病+5点(2型は生活習慣病であり不摂生生活をする個人自由行使した結果だから自己責任度が高い。1型なら遺伝性が強いので+20点)

高齢独身+0点(言うまでもなく婚姻個人自由。人には家族を持たず孤独死ぬ自由がある)

以上、KKO弱者力たった25のただの雑魚、いやただのマジョリティ強者であることが客観的に論証された。社会に救済を求めるなら最低でも女性平均の100を超えてからから物を言って欲しいものだ。

もちろん私は謙虚素人なので、本職の社会学者の方々の目には、上述の計量化噴飯もの稚拙計算に見えていることは自覚している。

からこそ、社会現象分析専門家である社会学者に、より客観的な「弱者力」計算仕事に取り組んでいただき成果を社会還元して欲しい。

2021-02-17

anond:20210217083824

なにかの役にはたつかもしれないから合ってもよかろう

自然科学における多様性有用性をむやみに社会科学適用するのは詭弁の始まり

同人誌に毛が生えたような論文雑誌作って学者面してるなら、自分の金で趣味でやってくれ

2021-02-03

社会学だけじゃなくて経済学批判しろ

社会学が内部批判をしていないという話が盛り上がっているけど、経済学はどうなんだ?

経済学者は竹中平蔵高橋洋一八田達夫などをちゃん批判しているの?

管見のかぎり見たことないんだけど。

政治に影響力があり、貧困者をぶん殴るような悪質な政策提案しているのも、

圧倒的に経済学者のほうなんだけど、なんで社会学者ばっかり批判されるんだろうね。

ポエム文体社会学が苦手なのは自分もそうだけど、

経済学者の論説の大部分も、経済学用語でまぶしただけのポエムでしょ。

例えば八田達夫連呼していた「岩盤規制」って、まともな社会科学概念と言えないだろ。


追記

私見では、社会学炎上やすくて経済学がそうじゃないのは、

前者が扱う話題に参入するための障壁が低く、

素人経験や実感だけでも議論できてしまうだけに過ぎない。

あと炎上しているのは全てジェンダー関連だけで、

他の分野ではまったくしていない。

社会学以前にジェンダー話題燃えやすいというだけだろう。



あと社会学者は結構内部批判している印象があるけどね。

何年か前に、北田暁大上野千鶴子批判していたし。

(ただし内容はレッテル貼りだらけのひどいものだった)

anond:20210203222622

社会学って要は社会科学における「その他」全部をとりあえず置いておく箱みたいなところなんです。

批判側にも擁護側にも、「社会」と「社会科学」の区別がついてない人を見かけたなあ。甚だしい誤爆だ。

社会学に自浄作用とか言われても困るんすよ、聞いてくださいよ

社会学って要は社会科学における「その他」全部をとりあえず置いておく箱みたいなところなんです。

大きくなって自立したらほぼほぼ別体系であるはずの小さな学問たちが普通に肩を寄せ合って生きてるんです。

それは社会学のとてもいいところだと思っています

当然ですが個々の分野単位ではどこもちゃん学問としての健全さを保つ努力をしています

しかしながら、たくさんある分野のどっかではやらかすとこが出てくるのです。

個々の界隈が狭すぎて、プレイヤー全員が顔見知りみたいな状態になるのが不可避なのもその原因のひとつでしょう。

それをじゃあお前社会学やってるんだから批判しろよ、と言われてもつらいものがあります

哲学の人に同じ文学部なんだから言語学の人を批判しろ、みたいな話になっちゃうんです。

撮り鉄やらかしアイドルオタクに「批判しろ、同じオタクだろ」って言われても困るでしょう。

から、叩くなとは言わないけど、もうちょい目的語を狭めてほしいのです。

主語がでかいならぬ目的語がでかい案件です。

撮り鉄批判するなら、せめて鉄道オタクぐらいには絞ってほしいんですよ。

2021-02-01

社会学は滅びるべきなのか

 以下の文章は、社会学客観性が無いか学問の体をなしていないか解体すべき、という暴論を見かけて、趣味社会学を学んでいる人間イラッとして書き散らしたものです。専門家によるまともな読み物としては、盛山和夫社会学方法立場: 客観性とはなにか』(2013)、佐藤俊樹社会学方法――その歴史構造』(2011)(たまたまですがどっちも東大系の人ですね)、あるいは以下で紹介する「客観性論文」やそれ関係論文などがあります。ちなみに「岩波科学科学論文」の人に関しては擁護のしようも無いと思います

 たとえば、この宇宙スパゲッティモンスターによって創作されたという誤ったイデオロギーを抱えた科学者がダイナマイト発明したとして、ダイナマイトは誤った発明であるとか、あまつさえ存在しないということにはなりません。それはそれ、これはこれ、という態度が科学的というものでしょう。しかし、誤ったイデオロギー社会学者が抱えることは望ましくないとされます。なぜでしょうか。

 それは社会社会問題が、原子DNAが「存在する」のと同じ意味では「存在する」と言えないことに根本的な原因があります。たとえばホームレス現在社会においては色々な意味問題とされていますしかし、ホームレス人類の定住以前においては間違いなく問題概念として存在していませんでしたし、中世近世においても今日と全く同じ問題としては存在しなかったことでしょう。原子がこの宇宙の始まりから今と同じように存在していたのとは対照的です。ホームレスを扱う社会学が、物理学生物学と比べて胡乱なものに見えがちな理由はここにあります。誤ったイデオロギーを抱えた社会学者は誤ったもの存在するとみなしてしまいかねないのですね。

 しかしだからといって、今日ホームレス問題としてまったく「存在しない」と言い切ることはできないのもまた確かな実感でしょう。原子の「存在」とは別の意味とはいえ社会社会問題は確かに存在」する、と言いたくなります。「実在」と「非実在」のあいだの独特な在り方。社会学者はそのことを「社会実在」のような言葉で表してきました。これはいかにも怪しい物に思われますしか今日における我々が「ホームレスになりたくない」、「ホームレスが怖い」、あるいは「そうしたホームレスに対する差別的見方こそが問題なのだ」と思っているのもまた確かなことです。およそ100年前、そのことを単に思うだけでなく、その思い自体を当時隆盛しつつあった科学方法分析しようと考えた人々がいました。

 マックス・ウェーバーの「社会科学社会政策にかかわる認識の『客観性』」(以下、客観性論文)という1904年論文がありますウェーバー社会学におけるビートルズであり、この論文イエスタデイくらいの重要さと著名さを誇ります。要するに、まともに社会学をやっていればなんとなくは知っているべきもの、という位置づけでしょう。(ちなみにLet it beは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。読んでいないのは許されない)

 とか言いながら私は手元にその本が無いので、ネット記述に頼りつつ思い出した記憶で以下のことを書くことをお許しください。

 ウェーバー客観性論文のなかで社会学者がよって立つべき「価値自由」という概念提唱します。この主張はしばしば「価値判断をしてはならない」とか「価値判断に影響されないデータだけを虚心に扱うべきである」といった主張として誤解されていますしかしそうではなくウェーバーはここで「社会学者もまた人間である以上、何かの価値判断を持ってしまうことは避けられない。そして価値判断は時として認識を狂わせる。しかしだからこそ、社会科学的に取り扱う社会学者は価値判断認識区別しなければならない。そのためには自分の持っている価値判断に対して敏感でなければならないのだ」といったことを主張していたはずです、たぶん。客観性論文については多様な読解や批判がなされている(上に私の手元にその論文が無い)ので客観性論文の内容についてはこれ以上立ち入らないことにします。以下ではその代わりに、客観性論文に関する微かな記憶を頼りにしながら、社会学客観性について考えてみたいと思います

 たとえば次のような主張がなされることがあります。「数字は嘘をつかないが、数字を使う人(社会学者!)は嘘をつく」。けだし名言でしょう。しかし、社会学であるならばもっと深く考えなければなりません。ここでは「ホームレスの人数」について考えてみましょう。ここで名言に従って単純に考えるのであれば次のようになるでしょう。ホームレスの人数は、数学物理における定数のように誤ることなく(それを測り間違うことはあるかもしれないが)存在しているが、それを多いとか少ないとか、それを減らすべきだとか主張する人は誤ることがある、と。

 後半は確かにそうでしょう。しかし、前半は間違っています。たとえば、日本政府ホームレスについての統計を発表していますしかし「国民税金を使ってホームレスの人数を数えよう」という時点ですでに何かしらの価値判断が働いています。そのことは政府サイトに「ホームレス実態に関する全国調査」が載っていて、「鼻くそをほじって鼻血を出した人の実態に関する全国調査」が載っていないことを考えてみればわかるでしょう。こうした極論を言うと、「どちらも数字としては存在するが、後者はただ(未発見物理性質のように)見つかっていないだけだ」と言われるかもしれません。しかしたとえば日本政府ホームレスに関する調査は「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法第2条に規定する「都市公園河川道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所として日常生活を営んでいる者」」を対象にして行われているようですが、ここからはいわゆる「ネットカフェ難民」がその統計から漏れています。これは単なる「測り間違い」なのでしょうか。そうではありません。「ネットカフェ難民」をホームレスに入れるべきか、あるいはそもそもネットカフェ難民」をそもそも問題」とすべきかこそが、ひとつ価値判断であるのです。「ネットカフェ難民」を入れたホームレスの人数と入れないホームレスの人数、どちらが正しいでしょうか?それは重力加速度として2m/s^2と9.8m/s^2のどちらがより正しいか、という問いのようには答えが出そうにありません。

 社会についての数字は、自然科学における定数のようには存在しないのです。つまり社会における事実は、自然科学における事実のようには存在しません。そのような状況で、いかにして社会科学的に扱うことができるでしょうか?

 もしかしたらそもそも可能かを問う以前に、そんなことを目指す必要があるのか疑問に思う人がいるかもしれません。あるいはより直裁に「社会科学的に扱う学問社会学って何の役に立つの?」と聞かれることはしばしばあります。それには多様な答えがありうるでしょうが、私は次のように答えることにしています。「何かの役に立つわけでもないのにやらずにはいられないのが科学の出発点なのだ」と。人間が持つ認識能力や、何かを書く/描く、喋るといった能力は、生存する上での必要から発達したはずです。自分の周囲を見渡す能力や、自分が見た物事他者に伝える能力は、それを持っていない種よりも生存上の有利をもたらしたことでしょう。しか人間は、その必要性を越え出たところまでその能力を、あるいはその能力によって生み出すものを発達させました。それは、芸術とか哲学とか、あるいは科学とか呼ばれるものです。存在しない風景を描くことに、どんな必要性があるでしょうか?死後の世界を思い描くことに、どんな必要性があるでしょうか?そして宇宙の星々の表面を調べることに、どんな必要性があるでしょうか?こういうことを言うと、次のように返されるかもしれません。「芸術哲学生存に不必要かもしれないが、いまのわれわれは科学無しには生きられないではないか」と。まあ、確かにそうです。でも、それは科学根本的な不必要性を否定するものではありません。人間ホモサピエンスは、ニュートン万有引力発見する以前からずっと世界覇者であったではないですか?それでもニュートン万有引力発見したのは、「世界のことをもっとよく知りたい」という、ただ生きるためには不必要知的欲求、こういってよければ人間特有本能からであったはずです。「ただ生きる」ことに飽き足りないのが今の人間であり、そうした人間が生み出したのが芸術哲学科学です。そのうちの科学欲求が、これまた不必要に複雑化した社会のありように向かうことも、私は自然なことだと思っています。先のような問いをする人には、正直に言えば「なぜあなた社会について科学的に分析したいと思わないでただ生きていられるのですか?」と私なんかは思うのですが、これはさすがに社会学に頭をやられてしまった奴の意見でしょう。ほかの社会学者はもっとうまく説明することができるはずです。まあ、そんな可哀想な奴もいるんだなと思っておいてください。でも実際、「社会に対する科学認識って必要?」と言われたら、究極のところ「認識したいんだから仕方ないじゃん?」としか私は返せません。なのでこの問題放置して次の段落に向かいます

 さて、いか社会科学的に扱うことができるかという問題でした。その問題は、社会に「存在する」もの数字が、ふつう科学が扱うもの数字と同じようには「存在しない」、というところから発生しているのでした。より明確に言えば、社会実在は、それを観測する人や社会価値判断を抜きにしては存在し得ないという独特の性質を持ちます。たとえば「ネットカフェ難民」は、ここ二十年ほどの日本労働環境ネットカフェの事情抜きには科学的な意味で「存在しませんでしたし、さらに言えば科学的な意味で「存在」していても、支援団体の人々などが発見ニュース等で取り上げられるまでは社会的に「存在」しえませんでしたし、いまだに政府ホームレス統計には「存在」していない、という状況にあります。そのことは万有引力宇宙の始まり以来、ニュートン発見しようとしまいと科学的な意味で「存在」していた、あるいは今現在未知の物理現象生物現象が、まだ発見されていないだけですでに世界のうちに「存在」していることとは対照的です。

 価値判断抜きで存在し得ない対象を、いか科学的に扱うか。それこそがウエーバー客観性論文のなかで考えたことでした。ここでよくある誤解は、そして絶対に避けられるべきなのは、「社会実在は実は価値判断抜きに存在しうる」と考えたり「価値判断抜きで存在するもの社会学は扱うべきだ」と考えたりすることです。前者が存在しないことはすでに説明しました。社会実在は――それが単なる数字統計であっても――価値判断抜きには存在し得ません。であるからして、後者社会学根本的に否定する思想です。そういう価値判断に影響されざるを得ないもの、すなわち社会社会実在をよりよく知りたいと考えるのが社会学なのですから。それを否定する人に対しては何も言えないということはすでに述べました(あくまで私個人からは、の話ですが。ほかの社会学者はもっとうまく説得するかもしれません)。

 そこでウェーバーが述べたのが「価値自由」でした。社会学者は自分価値判断をわかっていなければならない。より分かりにくく論文に忠実な言い方で言えば、「存在する」ことと「存在するべき」ことを区別しなければならず、科学は「存在する」ことしか明らかにできない。このウェーバーの主張に対しては、それもまたひとつ価値判断ではないか、という主張を投げかけることが可能ですし、一見ただのいちゃもんに見えるその問いは、社会学の中で大真面目に議論されてきました。私の見たところ、この問題は答えが出ない種類の問いなので、取り扱わないことにします。いいじゃないですか、どんな学問だってドグマの一つくらいありますよ。それより重要なのは、「自分価値判断をわかる」ことが、本当に社会実在を扱う上での十分条件であるのか、ということです。それが必要条件であるのは確かにそうであると思います。ある社会学者が「ホームレス問題についての社会学分析」という論文を書くとして(テーマが広すぎますがそれは置いておいて)、その人が「自分ホームレスを望ましい人間の在り方ではないと考えている」とか「というかホームレス気持ち悪い」とか「ネットカフェ難民をホームレスに含めていない日本政府問題である」とかい自分価値判断自覚していなければ、それは社会学研究として成り立たないでしょう。しかし、それだけで十分なのか。社会実在というものは、もっと慎重に取り扱わなければならないものではないか。(実際、客観性論文より後の後期ウェーバーも、そう考えて「理解」を社会実在根本に据えたと私は理解しています[詳しくないので間違っているかもしれません])

 と、ここまで書いて疲れたので一旦筆を置きます。続きは最初に挙げた二冊を読んでください。でも、ここまで読んでくださったあなたに問いたいのですが、私の書いたことは多少なりとも興味深くはなかったですか。社会学はこのような根本的な問いを抱えながら成長してきましたし、まだその途中にあるのかもしれません。私の考えるまともな社会学者はこの文章における中心的な問い「社会実在とはどのようなものか?」に対する、この文章以上に説得的な答えをそれぞれ持っています。そこが人によって違っていいのか、と思われるかもしれません。もしかしたらそこが社会学の駄目なところかもしれません。しかし、おおよその社会学者は確かにウェーバーや(この文章では触れませんでしたが)デュルケームなどが作った社会学歴史の上で考えている、という点では一致していると思います。それこそが社会学共通性であり、知的伝統であるとみなしてはもらえないでしょうか。よろしくお願いします。

どうしてそんなに科学をつけたがるんだ

科学自然科学だけでいいやろ。狭義にしとけ。

数学情報学学問であって科学でない。文学言語学心理学学問でいいやん。社会科学ってなんや科学ってつけるから叩かれるんや。

科学ってつけたいモチベがオラにはわかんないよ…

anond:20210201013117

実際、そういうもの民主主義的な法制定の手続きで決まっていったり、または市場原理で決まっていったりしてるだろ。

学者だって民主主義社会の一構成員で、有権者だったりするわけだから政策的主張があっても別に不思議じゃない。

そして、社会科学分野でそういうもの論文に含まれてくるのはそんなにおかしなことではない。

学者が何かを言ったってそんな簡単に世の中が変わるものではなく、社会の側がその提案採用しなかったら変わったりはしないんだし。

anond:20210201010043

科学手続きをふんだとしても社会科学自然科学のようにはなりようがない。

社会社会科学の成果を取り込んだり、反応したりするものから

また、科学手続きを踏んで分析結果を出したとして、最後結論への持っていき方は難しいところがある。記述するだけなら科学手続きを踏めば十分だが、so what?となる。

実験社会科学アプローチエビデンスをもって政策提案する考え方が最近は出てきているけれど、その提案する方向が望ましいかどうかは科学的に決められるものではない。

価値判断思想はやはり人文学によるものになり、科学的にどうこういえる話ではない。社会科学はどうしても人文学と重なるところが出てくるわけで(社会学は特にその部分が大きいように思う)、それも全部科学手続きでどうにかしろというのはちょっと無理があると思うんだよね。

anond:20210201003548

そう思う人間も居るし、そう思わない人間も居る。

ただ事実として、人文学的な社会学社会需要がある。

正確に言えば、社会科学への需要のうち人文学的なものを求める人が

社会学にそれを求めているってことなんだろうけど。

からなくなることはない。

しろそういう需要をかき集めて勢力は強くなっているかもしれない。

anond:20210201000048

そういう考えに基づくと、社会学って「人文科学」なのか「社会科学」なのかどっちなんだろ

文学部(=人文学をやる学部)にあったり社会科学部にあったり、

工学系の人が近い研究してたりで正直全部を1つのカテゴリにして良いものなのか怪しいって印象。

anond:20210131185208

これはこれで科学偏重主義すぎると思うけどなあ。

社会学を含む社会科学伝統的に「価値自由な、科学的な学問であるべき」と、「規範的な、人文学的な学問であるべき」という対立がある。

WW2まではどちらかと言うと後者が全体的に優勢だったけど

社会はどうあるべきか」を重視しすぎたあまり科学的にまちがった知見につながったと批判されて

歴史学とか経済学とかは科学主義にほぼ全面転向したわけで

でも、社会学はそれで取りこぼされる部分を補完するために後者軸足をおきつづけた。

それは批判されることもあるし、当然デメリットもあるわけだが

社会学が何らかの視点問題があることが「科学的」にわかたからと言って

社会学の意義が毀損されるかというと、そういう話ではないのでは。

しろやるべきはイデオロギーの話では。

2021-01-31

anond:20210131190915

社会学」だけで「自然科学」全部と対比できる存在みたいに書くのはちょっとなあ・・

それは「社会科学」の立ち位置では・・

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