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はてなキーワード: 二項対立とは

2017-08-04

対立煽りなのか天然なのか判断できるのか?

記事ってのは二項対立に持ち込むとか標的を設定して叩かせるとか煽って記事の方を叩かせるとか

言ってみれば記者の手の平でコロコロハムスターのように転がされているのは今も昔も変わらない

しか記者に唆されて感情を発露したからと言ってその感情が嘘なわけではない

からあった感情記者の巧みな筆致によってその感情を剥き出しにされただけのことである

ということは対立煽りのような記事も心の底から本心で書いていたって不思議ではない

すべてがすべて世界衆愚もこんなもんだろって諦め顔で煽り記事を書いている記者ばかりではないはずである

2017-07-27

https://anond.hatelabo.jp/20170727141354

なぜ子供を作るのかって、なぜ直ちに自殺しないのかくらい根本的な問いだと思うけど。それは資本主義経済よりもさらに上の抽象度と優先度でしょ。

会社社員死ぬまで扱き使おうとすればいいんだよ。そして社会がそれを総量規制最低賃金や手当などで規制して緩和してやればいい。それを我慢すれば実害はないと言わんばかりにモラル感情問題に引き込もうとしたり、週や四半期や年単位で動く会社と十年百年単位で動く政治を単純に並列な二項対立に持ち込もうとしたりするのがおかしいんだよ。この間には対立と同時にヒエラルキー関係がある。

2017-06-28

リベラルはクソとか保守はクソとか

二項対立しか考えられない人間が本当のクソなのだよ。

2017-06-23

https://anond.hatelabo.jp/20170622220827

遊びも勉強から真面目にやった方がいいよ。相手示唆していることが分からないことにメリット全然ないし、それを身に付けるには実技しかない。言語能力が発達していれば勉強も軽く済むし。日本語がわからないおじさんは地獄しかない。収入もないし。

勉強と遊びを二項対立に持っていく論法は実は勉強をしない人の言い分で、勉強ができる人は人と対話ができるから遊びができるし、意図理解できて問題が解ける。できない人は指示を明確化されないと解けない、というか解かれた問題を読むことしかできないから、何らかの概念理解できていないように周りからは映る。人間コミュニケーションは細かな意図の組み合わせで、誰かの固まりきっていない意図を汲み取って自分のそれと組み合わせることで新しい意図ができ、それが価値になる。「勉強だけした人」はそれができないので、意図は完成していて単純に手が空いていない仕事を厳密に指示されることしかできない。それがどんなに高度な手作業でも、人間を離れて高度であること自体価値ほとんどない。

から高校では人間との共同作業をきちんと勉強したほうがいいよ。できれば高校では小中で実践してきた協調価値に変える実践に入ったほうがいいよ。おじさんには知識しかいからもうすべてが手遅れだけど。

2017-04-23

謝罪なしに世の中がオタクに歩み寄ってきても許せない

時代が進むにつれて、オタク的なコンテンツ一般社会肯定的に扱われることが増えてきている。

往年の電車男最近では紅白などのNHKや各種民放芸能人ならGacktTMR小林幸子叶姉妹萌えマスコット萌えおこし、最大手なのがクールジャパン

あいうのに対して、いい顔をしないオタクもいるじゃないですか。

否定派の感覚にも色々ありますね。

見ててイタ恥ずかしいからやめろとか、石の裏の虫を太陽さらすなとか、リア充流入してほしくないとか。

私としては、その中でも「オタクに媚びやがって」、って反感が強い。


でも考えてみれば、媚びられて何が悪いのか。

あんまりにも持ち上げられるといつかハシゴ外された時がキツい、というリスクはあるものの、ある程度までなら、オタクが世の中に受け入れられて地位が向上するのは、オタクが生きやすくなることに繋がる。

地位が上がらなくたっていい、そっとしておいてくれれば」なんて言う人もいるけど、その「そっとしておいてもらう」ためにも一定地位必要なんだよ。そうじゃないと叩かれる。

たとえビジネスに利用されてるだけだとしても、利用価値があると思われてる方がオタに一定配慮をしてもらえるようになるわけで、隠遁オタクでも生きやすくなる。(今はまだまだだが今後に期待)

金も回ってきやすくなるしコンテンツも更に充実する。(今はまだまだだが今後に期待)


……っていう、オタク社会に受け入れられるのは双方にとってwin-winだって理屈はわかるけど、やっぱムカつくんすよ。

なんでかってのを言語化すると、一般社会オタクに歩み寄ってこようというなら、その前にこれまでオタク馬鹿にして叩いてきた過去を、非オタ全員がキッチリガッチリ謝罪して清算してほしいわけ。

オタクにも実利があるでしょ、ってんでなあなあで仲直りさせられるのは大変腹が立つ。侮辱の追い打ちだとすら感じる。

人は実利がなけりゃ動かないけれど、実利だけで感情的わだかまり解決することもできないんだよ。

たとえばなにか事件被害を受けた時に慰謝料払われたとして、「払いたくねえなあ~、しゃあねえなあ、この守銭奴がよ」って態度で払われたら許せないでしょ。

誠心誠意の土下座と共に払えと。加害者全員ゲザれと。その上で払うもん払えと。そしたら和解してもいいよと。

オタク一般社会についてもそれが言える。


はあ~、でも一般社会が全員でしっかりごめんなさいすることなんて未来永劫ないんだろうなあ~。

一般社会」というのが捉えどころがないものだってのを差し引いても、大きな集団がみんな謝るなんてありえない。

しかしたら、オタクバッシング報道をしてきたテレビ局の偉い人、政府自治体の偉い人、みたいな代表者反省の弁を述べることはありえなくもない。

でもその周囲とか下部には「上の人は頭下げてるけど自分は悪いと思ってないんで、オタクなんて有害なんで」って雰囲気を出す奴が絶対いるだろう。

そんなんじゃこちとらちっとも許せませんよ。頭下げてる人の隣でお尻ぺんぺんされてるんだから

から、今、私のような一般社会からオタクに対する歩み寄りに反感を持ってる人の一定割合は、その悪感情をずっと抱き続けるはずだ。

我々が死に絶えるころには、もうオタク一般社会に対する恨みなんて持ってないのかもしれないけど。

或いは、若いオタク一般社会から迫害歴史を語り継ぐことで、恨みの遺産を残すことができるかもしれない。

まあとりあえず私は一般社会からもらえるもんはもらうけど謝られない限りは舌打ちをし続けていきます

書いてて思ったけどこれ日韓対立みたいな歴史問題国家問題にも似たようなこと言えそうっすね。


オタク一般社会キッパリ分かれた二項対立として書くのは単純すぎるって言ってくる人いそうだけど知らん。

2017-02-28

http://anond.hatelabo.jp/20170228002241

上野千鶴子って典型的強者弱者に寄り添ったことなど一度もない出生欲の塊ババアで本人もそれに自覚的なので

なぜ今回の移民記事上野擁護出来るんだろう特に上野さんは皮肉を言ってるっていう高度に信者っぽい擁護どうして出来るんだろうなぁとむしろ疑問

上野千鶴子なんて右か左かのアプローチの違いだけで結果見るとと橋本自民党おっさんと変わらないもん(発達障害の子を持つ母親への批判レズビアンバッシングや在日批判など)

移民推進か再分配強化か」っていう二項対立おかしいし既にその点はwanでの上野さんの主張で自己矛盾してて指摘されまくってるところだし

上野の返答も(自分説明不足だったのに)誤読したあなた責任、それは批判に当たらないって感じの官僚文章でうやむやにしようって感じだった

2017-02-18

努力自己責任環境

努力環境によって影響を受ける行動の一つにすぎないのに、「環境努力か」という二項対立を立てて主張をしている人がどういうレベル視点問題設定してるのかよくわからずとりあえず自分の考え方を書くのですが。

生物学などのレベルで言えば、おそらく「生まれか育ちか」つまり遺伝子環境のどっちかもしくはその両方でのみ人間のすべての行動は決定されるわけで。

このレベルだと当然自己責任云々のような話は出てきようがないですし、物理学的にも自由意志とかないので責任などという概念は成り立たないのですが。

反対に「自分には自由意志がある」という自意識感覚を持った人間が集まって作った社会レベル、要するに政治などのレベルで見ると、政策法律などをどう設定するかという問題意識で「自己責任」「個人努力」などの概念が出てくると思うのですが。

この場合そもそも社会存在しないまっさら状態だと生存権所有権などというもの保障されるわけがないので、ある意味全てを自己責任と設定することも可能なわけで、どこから自己責任かというライン恣意的に設定されるものに過ぎないと思われます

そうなると「〇〇は自己責任だ」という言明は意味を持たず「〇〇を自己責任に設定すると社会がこのようにうまくいく」のような言明しか意味も持たないはずです。

要するに「〇〇は自己責任だ、個人努力範囲だ」と「〇〇は環境のせいだ」という意見視点レベルの違いによって両立可能ですし、逆に同じ視点レベルで並び立つような単語じゃないはずなので二項対立で論じれる話じゃないと思うということです。

2017-02-17

http://anond.hatelabo.jp/20170217024656

保育園の件は別に東京圏から離れなくてもある程度郊外に行けばいい程度の話な上に、

東京から遠く離れた那覇とか岡山とかでも同レベル問題が発生してるから単純に首都圏地方だけの二項対立で語れるものではないと思う。

良し悪しは別として、東京通勤できる範囲は他県でも「地方」扱いされないことが多いのも現実だし。

2016-12-18

https://www.buzzfeed.com/satoruishido/hoshino-tomoyuki

妙にブクマ集めてるけど、星野智幸ってアンチ自民な芸風で売ってる人だから

http://www.magazine9.jp/article/konohito/10301/

https://m.facebook.com/sports.instructor.support/posts/667049159984606

二項対立に回収される言葉不毛

「正しいのか、間違っているのか。二項対立に回収されていく言葉不毛です。それを無効化したいと思っていました。そこで考えないといけないのは、結果として対立のための対立のなかで、誰が得をするのか。どんな問題が残り、誰が損を被るのか」

これ、自分負け組になるのが不可避と踏んで「対立なんて無意味だしやめよう」と言い出してるだけだから

これ言う資格があるのは対立に勝った方か、あるいは最初から徹頭徹尾対立無関係だった者だけ

星野にこの台詞を言う資格はないよ

ボロ負けしてる方のチームのメンバー他人事のように審判ヅラ勝手無効試合宣言してんじゃねえよ

2016-12-14

BL趣味市民権が認められるようになって欲しいならただそう書けばいいのに

すぐに二項対立構造に持っていこうとする思考が残念です。

http://anond.hatelabo.jp/20161213102512

2016-10-07

君の名は。』に限らずアニメ絡みの地方論が置き去りにしていること

君の名は。」が物凄い勢いで流行っている。

興行収入は遂に風立ちぬを越え、もう上にはジブリ映画しかいないという状況だそうだ。

 

それ故に、作品情報ネットをやっていると否応なしに目につく。

ツイッターでは「もしかして」「入れ替わってる!?」のコピペが大量に作られ、

pixivニコニコ静画など画像投稿サービスではイラストがひっきりなしに投稿されている。

当然、各種論評も多く、肯定的ものから否定的ものまで、

演出に注目したものから制作体制スタッフ登用など組織論なような話まで、数数多の記事が出ている。

自分ネタバレの類を全く気にしない人間なので大丈夫だが、

事前に情報を触れてしまうことに抵抗がある人はなかなか大変だろうなぁ、と思う。

 

さて、そんななか自分ツイッターとある記事が流れてきた。

記事の名は、こちら

 

君の名は。』が、感動のウラで消し去ってしまったもの

無邪気にこの作品を楽しむことへの疑問

現代ビジネス 貞包 英之氏)

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49807

 

「興味深い見方だった」という肯定的コメントがつけられていたことと、

サイトランキング1位(10月1日当時)に釣られて読んでみたものの、

いざ読んでみると、

 

「ふむふむ。」

「……ん?」

「はぁ!?何言ってるの?」

 

となってしまう、久々に猛烈に反論したい記事内容だった。自分君の名は。」未視聴なのに!

そして、この気持ちをぶつけるところがなかなか見つからないため、

ここでひっそりと所感を書き連ねることにする。

 

※取りあげる記事ネタバレ前提で書かれているため、この記事ネタバレ全開です。

また、重ねて申し上げますが、筆者は原作未視聴です。

公式サイトなどで可能な限り情報収集しましたが、至らぬ点がございましたらご容赦ください。

 

記事主題について

序盤・中盤で「君の名は。」について色々分析しているものの、

この記事の主点はあくま地方論であり、作者の主張はこうである

これはなかなかツッコミを入れたい主張である

特に後半。地方を暗く扱った作品は確かに探せば存在するだろうが、

戦後サブ・カルチャーの潮流として、地方への鬱屈や屈折の描写が常に存在していたかというと、そうは思えない。

地方を賛美することへの反省」など、なおさらである

片方で「地方賛美系のご当地アニメ」を取り上げ、批判しておきながら、

というか、自らが「地方の賛美・消費と並行して」と言っているのに、

さも、地方鬱屈を描き安易地方賛美にNoと主張するのが、

戦後アニメマンガの主流であるかのように扱うのかいかがなものだろうか。

 

アニメ漫画地方を描くということ

アニメ地方を考えた論評は、この記事に限らず最近は非常に多い。

実在風景を背景とした漫画アニメが増えたこと、

それに伴い、聖地巡礼アニメによる町興しが注目されていること、

経済停滞や少子高齢化により地方のあり方の議論が盛んであること、

などが理由として考えられるだろう。

 

しかし、それらの論評で見過ごされていると見過ごされていることがある、と私は思っている。

それは「地方であれ、都会であれ、あくま舞台舞台」ということである

 

原義通りの舞台、つまり演劇での壇上を想像してほしい。

細やかな小道具があり、大きな絡繰りがあり、巧みな照明効果音響がある、

それらが充実しているか、特色だっているかは、作品評価を左右する一要素かもしれない。

しかし、それはあくまで一要素であり、舞台の上で演者が動かない限り作品とはならないのが通常である

 

まりはこうである

地方である、都会である、ということは物語の展開に大きく絡む。

しかし、作品のメインテーマになるまで比重が高くなることはそこまで多くない。

 

ペルソナ4という作品を例に挙げよう。原作ゲームで、アニメ化されている作品である

この作品舞台とある架空地方都市

そこは大型総合スーパー進出し、地元商店街がその影響で衰退している。

要人物の中には、周囲との軋轢が生じている総合スーパー店長の息子や

実家のために地元から離れられない旅館の娘がいる。

こう見ると、まさにこの作品地方の屈折した部分を描いた作品である

 

では、これは記事作者が主張する「地方の軽薄な理想化に一定留保を付け加える」作品だろうか。

自分はそうは思わない。

 

ゲームプレー済・アニメ視聴済を知ってる人なら分かると思うが、

この作品リア充ゲーム揶揄されることがあるくらい、終盤になると仲間の結束が固くなる。

主人公が転校してきてから去るまでの1年間で、彼らは忘れられない思い出を作り、心を強くする。

 

ならば、この作品は「地方暮らしもすばらしい」的な地方賛美の作品だろうか。

それも違うだろう。

 

この作品テーマ公式サイトに明確に書いてある。

「“推理サスペンス”を題材にしたRPG」だと。

まり地方都市性質描写は極めて重要位置にあるのは確かだが、

それとメインテーマ別にあるのである

 

このように、地方である・都会であるというのは、

舞台の基本設定として極めて重要であると同時に、

舞台の基本設定であるが故に、物語主題にまではなかなか上り詰めないことが多い。

その舞台登場人物がどう動くか、どんな出来事に遭遇し、乗り越えるか、

そのような舞台設定以外の重要事項が大抵の作品には存在しているのである

(もちろん、舞台設定全押しのご当地振興系作品もないわけではないけども)。

 

また、舞台装置であるが故に、物語の展開に応じて描かれ方が変わる、ということも起きる。

良い出来事が起きればその背を押すように明るく描かれ、

良くない出来事が起きればその気持ちを代弁するかのように暗さが出るが舞台装置である

そのため、後味が良いラストとなる作品ならば、当然その舞台地域は後味よく描かれることになる。

そして、娯楽作品である以上、漫画アニメで後味が良いラストと後味が悪いラスト

どちらが多いかといえば、それは前者の方である

 

これに加え、

人間、そう簡単地元から移動しない。両親に頼るところが大きい高校生以下ならばなおさら

ということも多くの場合、見過ごされていると感じる。

高校生以下の場合、特段な理由がなければ通学範囲+αが彼らの行動範囲となる。

背景が実在場所に忠実で、聖地巡礼が盛んに行われる作品の中で、

一番舞台が全国に分散している作品として、私は咲が思いつくが、

それは、「全国大会に各地から集まってきた女子高生」を描いているからであり、

個々の人物を見ると行動範囲はそこまで広くない。

 

旅行登山ツーリング即売会遠征趣味である

学校行事である修学旅行部活全国大会など)

・身内の都合です(転校など)

・突然ワープしてました

 

これらのような特段の理由がなければ、登場人物はなかなか生活から離れて動かない。

からそこ余計に、舞台の明るさ・暗さは展開の明るさ・暗さに密接にかかわる。

描かれる街が単一都市圏に絞られるのだから、バッドエンドを目指してない限り、

舞台となる地方物語の展開に連動して明るくに描かれるのである

そこに舞台となる町が素晴らしい、というメッセージが入るかどうかは作品それぞれだが、

記事のようなアニメ地方を考えた論評にありがちな

舞台である=描かれた地方作品の重大なテーマである、という構図は

必ずしも成り立たないと思うのである

 

東京vs地方という二項対立

この記事に対して気になるところがもう一つある。

というよりも、先述した結論としての主張や「君の名は。」の分析よりも

違和感を感じ、反論したい部分がある。

 

それは、全体として東京仮想敵としている所である

君の名は。ハッピーエンドの場が東京であったことの不満、

東京が揺らがなかったことへの不満、

壊滅した糸守の人物たちが東京へ移ったことに対する不満、

そういう東京が良く描かれていることへの不満が文章の端々から漏れている。

東京隕石が落ちて壊滅することを期待してしまった」までくるともはや怨恨の類すら感じる。

 

この観点において、もっと瑕疵があると思えるのは3ページ目のこの部分である

 

物語あくまで散文的に見直せば、『君の名は。』は、故郷のない男と、故郷を失った女が、東京故郷幻想特別な異性を妄想する話といえるのかもしれない。

 

これはもう、誤読していると扱ってしまっていいのではないだろうか。

瀧は東京まれである高校には友人がいて、バイト先もある。

それに付随した人間関係や馴染みの店もある。

ならば、彼の故郷新宿区であるのは明白であろう。

 

東京という町が生まれて150年弱、

高度経済成長期に断絶しているという最も日の浅い解釈をしても40年の歴史がある。

当然、そこで生まれ、育ち、その場所愛着を持っている人が存在する訳であり、

東京まれ故郷のないという構図は非常に抵抗を感じる。

 

というよりも、この作品地方東京の対比が大きな要素でもあるのだから

双方ともに住んでいる街を故郷と思えるような愛着知識

人間関係や行動範囲があるからこそ成立している作品だと思うのだけれども……。

 

もしテロ地震があり、瀧自身や近い関係人物危害があったら、

もしくはアトラス的何かで新宿が壊滅したら、

それこそゴジラが来て東京全部焼き払ってしまったら。

そして、惨事を避ける手段が目の前に提示されていたのなら。

 

きっと、瀧も三葉もお互い逆の立場必死に動くと思うのだが、いかがだろうか。

さも片方に地元愛がないような表現は、私はどうかと思う。

 

地方物語に都合よく変えて消費するな」という意見は、

地方研究している人ならば主張することは正しいと思う。

規模が小さい、独自性があるなどの性質から創作世界において、

物語を進めるための非現実的な設定を地方押し付けられる傾向が強いということは事実である

 

君の名は。においても、神事伝承隕石自治体消滅など、

ファンタジー色の強い部分はほとんど糸守町が担っているし、

栃木弁とも茨城弁とも福島弁もつかないようなアクセント

パロディに満ちた謎の施設人物がやりたい放題するTRICKのような作品は極端だとしても、

地方賛美という面ではこれ以上に多くの意見が出たサマー・ウォーズなど、

悪い言い方をすると、ご都合的に地方が歪められて描かれることは多々ある。

地方を味方する立場活動を行っている人からすれば、良い思いはしないだろうし、

作品に反映するかどうかは別にして、そのような不満があることは受け止めるべきである

 

しかし、それを受け止めるのは制作サイドであり、東京ではない。

そのような設定を組んだのは新海氏、堤氏、細田氏であり、東京が作ったわけではない。

批判の向きは新海氏、堤氏、細田氏、もしくは各委員会、はたまたワーナーテレビ朝日東宝に対して

向かうべきであり、東京に矛先を向けるのは間違っているだろう。

地方を「消費」可能商品に仕立てているのは、(所在大都市かもしれないが)

作者および制作組織であり、大都市のものでは決してないのである

 

地方大都市という二項対立は、研究においても創作においても非常に分かりやすいしよく使われる。

しかし、本記事のように地方の不満は全て大都市が起こしているものだ、

という構図にまで落としてしまうのは、単純化が過剰であるだろう。

不満の捌け口をほぼ全で大都市東京に向けている所が、非常に鼻につく記事であった。

 

まあ、ガルパンひぐらしの扱いもそれ以上に気になったんですけどね。そういう作品じゃないでしょw

2016-08-30

まあでもエロゲのオープニング作ってた新海誠新海誠だし

http://anond.hatelabo.jp/20160829084435

raitu 新海誠の新作アニメ映画「2日間で観客動員約59万人、興行収入約7億7000万円(26日が約3億4800万円、27日が約4億2200万円)を記録」今回は「君の名は。」という中高女子向けの人気原作であることも寄与してるっぽい

この人、「君の名は。」と「君に届け」あたりを勘違いしてそう


それはさておき。

現状のはてなの騒がれ方は、元増田みたいな認識よりももっとずっと手前ではないのか。

近い時期にシン・ゴジラがあったもんだから、それと二項対立を組めばいいんだとしか思ってないバカが「オタクシンゴジ、非オタ君の名は」みたいな構図で安い叩きを量産している。海猿叩く時の文章のまま、タイトルだけ変えたやつ。

童貞の星からメジャー作家まさかの転身」という前提(元増田のいう誤読)にすら到達してないのでは。

2016-08-16

http://anond.hatelabo.jp/20160816122640

なぜその2つが二項対立になるのか、中を端折りすぎて、結論ジャンプした提案をする典型的考える力の足りない例をみた。あと少し。頑張ってくれ。

2016-08-07

シン・ゴジラ

シン・ゴジラ解釈で賑わっているのだけど、私が感じた単純な解釈を置いておきたい。

「私は好きにした。君たちも好きにしろ

総監督である庵野さんから観客へのメッセージしか思えないのですが。

私は思う存分この映画を作った。あとは受け取り手である君たち、好きにしろ、と。

ゴジラ総理政府官僚

まず、ゴジラは「巨大不明生物」であって、決して害をなしたくて歩いているわけじゃない。

なのに、結果として被害を及ぼし、駆除対象となる悲しさ。

最初に、どうしますか?と投げかけられ、静観つまり放置か、駆除か、と複数可能性が提示されているのが好きだ。)

ゴジラ日本政府総理 は二項対立関係にある。

1つ目の解釈

ゴジラ庵野さんのクリエイターとしての本能、才能のようなもの

対する総理官僚)は彼の理性、社会性など。

ゴジラは神だ/悪魔だ/殺せ/守れ ってあんな風に遠くに聞こえてくるイメージなんですかね。

日本社会同調圧力が強いかと思いますので、飛びぬけたものこそ叩かれるだろうし、

その中で自分らしいものを作るのも大変なんだろう。

アメリカ等の方がいっそ自由なのかもしれませんね。

ゴジラゴジラとしてうまいこと共生できればいいのに、そうも行かず。別に破壊したくて破壊してるわけじゃない。

そういう風にゴジラを描いてるなぁーと思ったんです。

悲劇的な音楽、どちらに効果的に使われていたかというと、私にはゴジラから流れる血、そちらの方に目が向くよう

使われていたと思いました。

自分存在は、果たして日本寄与しているのか、それとも害悪なんじゃないのか、そういう逡巡もあったのでしょうか。

それからクリエイターとしての自分ゴジラ)が宿主である総理を殺してしまうこともあったんですね。

それすなわち、エヴァ作成後、酷い鬱におちいった事実のものだと思いました。

ラスト沈黙しているゴジラ

あれ、寝かせてるエヴァ映画のものじゃないんですか?

またいずれゴジラを目覚めさせなければならない。

残り58分何秒…っていう時間提示がありましたが、残りそれだけ作れば完成するのか、もしくはそこまではできているのか。

次世代へのメッセージ

次の世代クリエイターたちよ、臆することなくやれ!!っていう叱咤激励

2つ目の解釈

日本自分で、米国は奥さん

米国の助けがあって、初めてゴジラを抑えることができた。

日本米国は対等で、Win-Win関係でやっていきたい。

まぁ要は今までありがとう、これからもよろしくね、っていう感謝気持ちがあるような気がしたのです。

ラストのしっぽ

あの人のようなやつ、「餓鬼」の表現だと思うのですね。

1.ゴジラ日本 を食らおうと狙っている存在

2.ゴジラ=この映画 を解釈つくし食べつくそうとしている存在=観客

この映画効能

自分がこの映画でいいな、好きだなと思ったところですが。

攻撃射線上に逃げ遅れた人を見つけた→躊躇わず攻撃中止の指示を出す総理

それに対して感情を出さずに退く自衛隊

書類の整備が多く意思決定スピードの足を引っ張る事務処理

 単独暴走を抑止し、団体の総意を必要とする構造になっている。

・不慮の事態が起こっても、代わりを選出し平静を取り戻す官僚

 実に理性的

感想

庵野さん充実してるんだなーって思いました。

2016-07-26

なぜ書いていたのか

以前、3日に一回程のペースでブログを書いていた時期があった。

当時は慣れない土地一人暮らしを始めた時期で、その時に書いていたのは自分のなかのドロドロしたものや、自分の中で処理しきれない葛藤を書いていた。

ドロドロしたもの葛藤と書いたが、要は自分の置かれた境遇に対して一方的被害者面をしながらひたすら周囲への恨みつらみを書いていた。

今思い返すとその時の自分は、自分の身の周りを取り囲む環境や、さらにその周りを取り囲んでいる社会というものを、何か得体の知れない怪物のようなものだ、というイメージで捉えていた。

そしてブログ文章を書くことで、その怪物とどうにか闘っていくのだ、と当時の自分は考えていた。



その後所属する組織が変わることで、社会から隔離されたような不安定身分から、それなりに安定した社会的身分を得ることが出来て、プライベート人間関係でも新たな要素が加わったりするなど、公私ともに安定した生活を得ることが出来たが。その一方で、ブログを書くという習慣はその頃から無くなった。

特に大きかったのは、プライベートできちんと話を聴いてくれる人が出来たことで、それ以来ブログを書きたいと思うことはほとんど無くなった。

自分が何かを悩み始めれば、電話なりLINEでいつでも聴いてくれる人が出来たので、1人で悶々としたものを内に抱え続ける必要が無くなった。


ただそれだけの話なのだが、当時の自分、血を滲ませるようにブログ文章をつづっていた当時の自分はそれを聞いて納得するだろうか。

社会対峙するつもりでブログ文章を習慣的につづり続けるという行為は、公私の生活が安定し始めた途端に消滅してしまったのだと当時の自分が聞いたらきっと、じゃあ自分自分なりに誠実に書いていたそれらのものは一体何の価値があったのだ、と感じて悲しくなったり、社会的身分が安定して私生活が充実したからといって、ひとりで世界対峙する思考を捨ててしまったお前は腰抜けだなどと今の自分のことを責めるだろう。

当時の自分は、周囲への怒りを原動力にして自分を取り巻く環境社会糾弾し続けることが状況を前進させるのだと思っていたし、それが社会にとっても有意義なことだとさえ思っていた。


あのときブログ文章をつづることがいずれ、この境遇から少しでも自分を進ませることにつながる、と考えていた。

あるいはブログ文章をつづることは、このクソ現実を変えるための有意義行為であるかのようにすら感じていた。

それは有意義もなにも、自分が辛いのはこの世界を作ったお前らのせいだ、と自分が苦しいのを自分を取り巻く環境のせいにすることでしかなかったのに。


当時の自分は、自分が辛い状況に置かれることになった大本の原因は自分を取り巻く環境社会にあるのだ、と決めつけていた。

そしてそういう思考の枠組みが、単なる思い込みであることに気がついていなかった。


今振り返ると、当時の自分は、自分を取り巻く世界自分自身とを対立させてしか物事を考えることが出来てない。

社会vs自分、という構図でいつも物事を考えていたし、その二項対立に固執していたのだと思う。

そしてその二項対立から導き出される「社会」というものは、現実自分身の回りを取り囲む、顔の見える範囲での人との関わり方というものから乖離した、自分の頭の中だけで作り出されたものだった。

現実自分の周りにいる、顔の見える人たちとの関わり方に対して責任を果たそう、という考えを持つことは無かった。

そして現実に実際の人々と関わりを持つことを避けてきたために、自分の頭の中で「社会」というものは、ひたすら暴力的衝動に突き動かされて自分のことを搾取する理解不能怪物のようなものだ、という考えばかりが占めるようになった。

そもそも当時置かれていた環境は、今思い返すと、そんなに思い悩んで苦しむようなものだったのかすら怪しい。

一人で勝手に苦しんで、一人で勝手に状況を悪化させていただけだったように今は思える。


当時の自分はどうしてそこまで頑なに自分世界から切り離して物事を考え続けていたのだろうか。

どうしてそのような二項対立は公私の生活が安定することでいとも簡単に消し去ったのか。


けっきょく私は、自分の周りの世界に対して、どうして自分の欲求を満たしてくれないのだと怒っていただけなのだと思う。

どうして自分の欲求に沿った環境を用意してくれないのだ。どうして皆もっと私に構ってくれないのか。そう思っていた。



いくつかの偶然と幸福が重なって、私のその欲求のいくつかは叶えられた。欲求が満たされない頃は赤ん坊のように泣き喚いて不満を表明していたが、腹が満たされオムツを替えられると、また母の胸の中ですやすやと眠り始めた。


から、あぁそうだ、自分たまたま幸運が重なって、母乳で腹を満たされ湿ったオムツも変えてもらえたから、それで泣き喚くのを止めただけなんだ。



たまたま欲求が満たされたから、母に対するギャン泣きを止めただけで、決して自分の足で歩き始めたわけではない。


いま腹いっぱいのうちに、母がいなくても大丈夫なようにひとり立ち出来るようにすることが、今の自分がするべきことだ。

2016-07-24

以前、3日に一回程のペースでブログを書いていた時期があった。

当時は慣れない土地一人暮らしを始めた時期で、その時に書いていたのは自分のなかのドロドロしたものや、自分の中で処理しきれない葛藤を書いていた。

ドロドロしたもの葛藤と書いたが、要は自分の置かれた境遇に対して一方的被害者面をしながらひたすら周囲への恨みつらみを書いていた。

今思い返すとその時の自分は、自分の身の周りを取り囲む環境や、さらにその周りを取り囲んでいる社会というものを、何か得体の知れない怪物のようなものだ、というイメージで捉えていた。

そしてブログ文章を書くことで、その怪物とどうにか闘っていくのだ、と当時の自分は考えていた。



その後所属する組織が変わることで、社会から隔離されたような不安定身分から、それなりに安定した社会的身分を得ることが出来て、プライベート人間関係でも新たな要素が加わったりするなど、公私ともに安定した生活を得ることが出来たが。その一方で、ブログを書くという習慣はその頃から無くなった。

特に大きかったのは、プライベートできちんと話を聴いてくれる人が出来たことで、それ以来ブログを書きたいと思うことはほとんど無くなった。

自分が何かを悩み始めれば、電話なりLINEでいつでも聴いてくれる人が出来たので、1人で悶々としたものを内に抱え続ける必要が無くなった。


ただそれだけの話なのだが、当時の自分、血を滲ませるようにブログ文章をつづっていた当時の自分はそれを聞いて納得するだろうか。

社会対峙するつもりでブログ文章を習慣的につづり続けるという行為は、公私の生活が安定し始めた途端に消滅してしまったのだと当時の自分が聞いたらきっと、じゃあ自分自分なりに誠実に書いていたそれらのものは一体何の価値があったのだ、と感じて悲しくなったり、社会的身分が安定して私生活が充実したからといって、ひとりで世界対峙する思考を捨ててしまったお前は腰抜けだなどと今の自分のことを責めるだろう。

当時の自分は、周囲への怒りを原動力にして自分を取り巻く環境社会糾弾し続けることが状況を前進させるのだと思っていたし、それが社会にとっても有意義なことだとさえ思っていた。


あのときブログ文章をつづることがいずれ、この境遇から少しでも自分を進ませることにつながる、と考えていた。

あるいはブログ文章をつづることは、このクソ現実を変えるための有意義行為であるかのようにすら感じていた。

それは有意義もなにも、自分が辛いのはこの世界を作ったお前らのせいだ、と自分が苦しいのを自分を取り巻く環境のせいにすることでしかなかったのに。


当時の自分は、自分が辛い状況に置かれることになった大本の原因は自分を取り巻く環境社会にあるのだ、と決めつけていた。

そしてそういう思考の枠組みが、単なる思い込みであることに気がついていなかった。


今振り返ると、当時の自分は、自分を取り巻く世界自分自身とを対立させてしか物事を考えることが出来てない。

社会vs自分、という構図でいつも物事を考えていたし、その二項対立に固執していたのだと思う。

そしてその二項対立から導き出される「社会」というものは、現実自分身の回りを取り囲む、顔の見える範囲での人との関わり方というものから乖離した、自分の頭の中だけで作り出されたものだった。

現実自分の周りにいる、顔の見える人たちとの関わり方に対して責任を果たそう、という考えを持つことは無かった。

そして現実に実際の人々と関わりを持つことを避けてきたために、自分の頭の中で「社会」というものは、ひたすら暴力的衝動に突き動かされて自分のことを搾取する理解不能怪物のようなものだ、という考えばかりが占めるようになった。

そもそも当時置かれていた環境は、今思い返すと、そんなに思い悩んで苦しむようなものだったのかすら怪しい。

一人で勝手に苦しんで、一人で勝手に状況を悪化させていただけだったように今は思える。


当時の自分はどうしてそこまで頑なに自分世界から切り離して物事を考え続けていたのだろうか。

どうしてそのような二項対立は公私の生活が安定することでいとも簡単に消し去ったのか。


けっきょく私は、自分の周りの世界に対して、どうして自分の欲求を満たしてくれないのだと怒っていただけなのだと思う。

どうして自分の欲求に沿った環境を用意してくれないのだ。どうして皆もっと私に構ってくれないのか。そう思っていた。



いくつかの偶然と幸福が重なって、私のその欲求のいくつかは叶えられた。欲求が満たされない頃は赤ん坊のように泣き喚いて不満を表明していたが、腹が満たされオムツを替えられると、また母の胸の中ですやすやと眠り始めた。


から、あぁそうだ、自分たまたま幸運が重なって、母乳で腹を満たされ湿ったオムツも変えてもらえたから、それで泣き喚くのを止めただけなんだ。



たまたま欲求が満たされたから、母に対するギャン泣きを止めただけで、決して自分の足で歩き始めたわけではない。


いま腹いっぱいのうちに、母がいなくても大丈夫なようにひとり立ち出来るようにすることが、今の自分がするべきことだ。

2016-07-20

http://anond.hatelabo.jp/20160720141246

いやいやいやいや…

「間違いではない」「正しい話でもない」で矛盾してるって? もう二項対立に寄り過ぎだろ。

あんまり答えは言いたくないけどさ、オスカー・ピストリウスさんを語る増田は「ジョーク」を演出してるわけよ。

ジョーク」は「増田へのレスではない」のよ。

オスカーさんのジョークは「増田へのレスとしては間違っている」のよ。

でも、「ジョークとしてのフリ/オチ」としては間違ってないのよ。

弱音→ザコナメクジ っていうお約束が成立してるからね。

で、「ここ(元増田ではないよ。『場』)」で求められているモノはどっちだったろうね? って所じゃないかなあ。

マトモに相手する必要がある相手かどうかをまず吟味できるようになろうぜ。

一瞬で分かるだろ?

2016-07-09

私が三宅洋平を支持する理由

私が三宅洋平を支持する理由

三宅洋平という人を知っているだろうか?

今回の参院選東京選挙区から立候補していて、演説動画が異例の50万回再生最近ネットでもちょっと話題になっている人物だ。

出馬当時はほぼ無名で全く話題にもならなかったが、演説動画再生回数が増えるにつれ、

多くの賛同批判の声が上がるようになってきた。

特にここ数日は区議会議員ブロガーなどそれなりの有名人批判するようになっている。

政策無茶苦茶だの非科学的だの陰謀論者だのといった具合だ。

私はこれらの批判は至極真っ当なものだと思う。

確かに彼の考えは未熟だ。

根拠の不確かなもの憶測に過ぎない主張も数多い。

ではなぜそれでもなお彼を支持するのか?

それは彼が「自由」と「対話」とに基づいた民主主義を重視する人物に思えるからだ。

彼は3日目の新橋演説でこのように言っている。

「なんか悪の権化とか、安部やめろとか、安部せとかだけでは、

僕は日本の政治は深まらないと思います

そこに、対話を阻害する要因があるんですよ。

本当に、その歴史バックボーンが何で、

彼らが何を言いたいかということを咀嚼して、

同じように自分たちが何を思い、何を伝えたいかを伝える場、

としての、選挙。ていうものを僕は取り戻したいんです。」

安保法制に反対しているといえば「反日勢力」だの「脳内お花畑」だのと罵られ、

安保法制に賛成しているといえば「アメポチ」だの「ナチス」だのと罵られる。

自分を中心とした「敵」と「味方」の二項対立

これは安保問題だけに限らない。

改憲VS護憲原発再稼働VS反原発高齢者VS若年者、正規VS非正規大企業VS労働者、…。

相手の本当の考えなど知ろうともせず、勝手に都合のいい言い分を想定し「敵」を批判する。

「味方」同士でしか通用しない論理で盛り上がり、「敵」から批判には耳を傾けない。

そんな言論が硬直化し教条的となってしまっている現代において、

三宅洋平が語る、たとえ意見が違っても相手尊重するという姿勢相手意見をちゃんと聞き、自分意見をちゃんと言う、

対話」を通じて問題解決しようとする古くて新しい考え方はとても貴重なものだ。

ここで彼が批判されている内容についても少し意見を述べよう。

彼が今掲げている具体的な政策や主張は確かに無茶苦茶だ。

しかしそれは彼の周りにいるブレインダメなだけだと考えている。

政策というものは一人で考えるものではない。

周りの仲間や専門家相談しながら練り上げるものだ。

したがって今の彼の主張が政策ダメダメなのは周りの仲間、そして彼に色々な知識を吹き込むブレインの考えがダメダメなだけなのだ

もし彼がそういった陰謀論を盲信する狂信者なら私は彼を支持しないだろう。

でも彼は「対話」を大切にしている。

彼に「それって本当なの?」と疑問を投げかければ、「それっておかしくない?」と批判を投げかければ、

彼はちゃんと知らべ、考え、そして意見を返してくれる。

対話をすることで考えを改めたり深めたりすることができる。

から今の彼の政策ダメでも、今の彼のブレインダメでも、

これから彼と対話をすることで、

まともで説得力のある現実的政策に変えていくことが可能なのだ

これは特定支援者組織に縛られた他の政治家では絶対にできない。

このような特異性も彼が「対話」を重視しているからこそだ。

というわけで、私は三宅洋平を支持する。

2016-06-06

理性と野性は対立していない

http://anond.hatelabo.jp/20160605113308

まずこの作品の伝えたいテーマひとつが「野性」って概念幻想であるってことなんだよ。

これは元増田もわかっていて、そこが表現されていないと不満に感じたんだと思うんだけど、実は描写されている。

この事は後に触れるとして、まずは

肉食動物の野生状態描写が「凶暴」一辺倒であるかのように描かれ。

についてのフォロー

そもそも「野性」ってなに?

本能」ってなに?

社会から切り離されてジャングルでたった一人で育った人間人格が「本来人間」なのか?

そうじゃないだろう。

自分達が生きている文化環境を含めて、人間人格というものは成り立っている。

そもそも野性(本能)と理性(社会性)は切り離せられないものなんだ。

でも、その社会性が欠落してしまう人もいる。

たとえば精神障害錯乱してしまったら、大通りで裸になったりウンコしたりしちゃうわけ。

でもそれはその人の「本来の」人格ではない。病気が治った後、その人に「あれが君の本性なんだね」って言える?無理でしょ。

ズートピアの野生化しちゃった人達は、薬物によって一時的錯乱引き起こし状態なわけ。

高次的な思考を司る脳みそ一時的に阻害されちゃったとかそういう症状であろうと推測できる。

そんな状態なので「肉食動物の野生状態描写が「凶暴」一辺倒」は「野性」の描写ではないし、

しろ「「野性」とは凶暴なものだ」と思い込んでいる観客へのカウンターになっている。

ニュースメディアはそれを(ニュース映えするので)「肉食動物本能」として騒ぎ立てるが、それはあくまで異常な状態であって、その人の「本質」ではない。

偽りの「本性」だ。

そう、「「野性」とは凶暴なもの」に代表される思い込み否定するのがズートピアテーマであると言っても過言じゃない。


ズートピアでは人種差別やらフェミニズムやらのあるあるジョークが、山のように引用されている。

例えばエンディングで交わされるニックとジュディの会話。

  • ウサギは運転ができないもんな」

これは女性は運転が苦手という古典的ジョークだ。

日本でも男脳・女脳の本がベストセラーになったことがあったけど、その題名って「地図の読めない女性」みたいな感じだったよね。

統計だかでも、女性三次元構造脳内再生するのが苦手みたいな結果が出たとかどこかで読んだけど、そういう傾向があるにしても女性全員がそうだってわけじゃないし、現に女性バンバン車を運転している。

((女性コミュニケーション能力が高いので、男性の運転技術自分よりも上だと持ち上げている/または男性よりも自分が楽をするために男性に運転をさせている結果である、という説もある))

今度は男性側のジョーク


これをジュディが記者会見で言っちゃう

でもこれ、劇中では否定されてたけど本当のことだよね?と思うなら、それは偏見に侵されている(かもしれない)。

上記と同様に変換してみよう。


アウト!!!アウトです。

男性痴漢するのは本能から女性は我慢すべき」理論のあれこれははてなでも頻出しているけど、他の場所でもそうらしい。

男性は性欲を司る視床下部女性より大きいから仕方ないよね……な、わけはない。

なぜなら、すべての男性がそうではないから。

上に書いたように、人は理性と野性との混合体だ。社会に住んでいる以上、一般常識として女性を襲っちゃいけないということは知っているしやらない。

ダメだと言われてやるのは犯罪者と、そういう文化圏に住んでいる人たちだけだ。

そういう文化圏に住んでいても、相手女性が嫌がることはしないという男性だっている。人は相手を慮る能力を「本能的に」備えているからだ。

性欲も他人への共感能力もどちらも同じく「本能的」な脳の機能だ。

人によって強かったり弱かったりする。犯罪者我欲が強くてセーフできず罪を犯すし、倫理観の強さも遺伝的な部分が大きい。

でもそういった「本能」は本人の努力や周囲の理解によって乗り越えられる。

そんな世界がいいよね。というのがズートピアの掲げる「知恵」の力だ。

世界自分用にできていない。

野性の「ありのまま」の自分なんて受け入れてもらえない。弾き出されてしまう。

から生きやすい形に整えた街を動物たちは作り出した。つまり社会だ。

社会は人の集合だから自分の願望と他人の願望が衝突することもある。

そこを折衝して生きていこうというのが理性であり知恵だ。

夢見がちな理想主義ではなく、地に足をつけて一緒に生きていこうという意思だ。

それすら理想にすぎないのかもしれないけど、ディズニー子供に手渡す「知恵の武器」なら少しくらい甘味も混ぜないと吐き出されちゃうから、いい案配だと思うよ。

あともう一つ、見せ場でかまされる男女あるあるジョーク


ニックとジュディが和解するシーンで、感極まったジュディがボロボロ落涙してしまった時のニックの一言

これはストレート事実なんでご存じの方も多いんじゃないだろうか。

  • 「女は涙腺が弱いからな」

よく職場ちょっと叱った程度で泣き出したとか、喧嘩では女性のほうが先に泣き出して何も言えなくなるからズルい、

精神的に軟弱で覚悟がないから泣くのだ、というように思う人も多いらしいですが、ホルモンの影響で女性男性よりも泣きやすいという「本能的」な理由がある。

彼女たちにしても本当は敵の前で弱みを見せたくないし、泣いたら許してもらえると思って涙を流すわけではない。

ただ、身体的な反射なので仕方がないのだ。

ましてやジュディは様々なハードルを乗り越えてきたガチリブで、精神的にもタフであろうとし続けてきた。

そんな彼女決壊してしまい((ニックに対して心理的障壁を張る必要がなくなったという暗示))弱さを見せている状況で、差別的ジョークを放っても許し合える間柄になったという描写なわけ。

ジュディは「肉食本能」を偏見から非難したが、ニックは「涙腺」を分かったうえでジョークにした。

本能」なんてそんな程度のもんさ、とお互いに許し合う。

偏見差別を打ち砕くのには「相互理解」と「共感」が架け橋になるという強いメッセージが放たれている。

 

 

差別ジョーク引用フェミニズム以外にも色々あるんだけど、二項対立でわかりやすかったので取り上げてみた。

社会差別偏見モノのストーリーとして見ればよかったのかもしれない。

その通りですね。

 

 

 

それでも「野性」を解き放ちたいという人のために…………そう、秘密クラブがある。

あそこ実写化したらヌーディストクラブかつ乱パ施設だと思われるし、連中絶マリファナ吸ってんだよね。

一応、アングラ世界存在しているという抜け目のなさ。

2016-04-12

保育園幼稚園の隣に住んでみろよ

保育園の開園を断念して「これはひどい」とかブコメ付けてるやつがいるけど、例外批判(実際には批判にもなってないただの批難ばかり)も甚だしい。

次に出てくる言葉が何かと思ったら「子どもを大切にしない」だとか言うけどさ、実際に保育園幼稚園の隣に住んでみろっつーの。

例えば航空自衛隊のある町の近くに住むと二重ガラスにする補助がもらえたりするけど、保育園にはそういう近隣住民に対しての何か配慮ってあるの?

子どもを大切にする精神」だけを求められるのであれば、是非とも保育園の近隣に率先して住んでくれ。

とか言ったら「会社がー」「通勤がー」とか言いやがるだろ?その程度の関心しかないんだわ、そういう人たちって。

リアル子どもが嫌いになるレベルに達するほど騒がしいぞ。

なんのためのフレックスタイム出勤だよ、と思わざるを得ないくらい朝はゆっくり寝られない。

だって迷惑をかけるんだったら、しかもそれが子どもであるのならば、迷惑をかけないように如何に配慮するのかってのが大人役割なんじゃねーの?

「防音対策をしっかりする→建設費用がー」という問題が出て来て始めて国政に声を挙げられるんじゃねーの?

それ以前の批難しかできない人たちが選挙権を持っていることの方が日本未来の暗さな気がするわ。

そういう大人ができること、配慮することを無視して「日本ノミライガー」とか、驚くほど知性を感じさせない大人という念しか懐かない。

マジで飛行場の方が静かなレベルからね、保育園の隣に住むというのは。

夜勤明けなんて発狂寸前のレベル

そもそも子どもは騒がしい生き物なんじゃない、大人が騒がせている=元気溌剌だと勘違いしているだけなんじゃないのか。

子どもを黙らせるんじゃなくて、静かにならないのならば配慮できる理性を備えた大人対処するものなんじゃないのか。

そういう大人からできるもの、むしろ大人からすべきものを全く無視して「若者ガー」とか何言ってんだ?

その頭の中に詰まってるのは脳みそじゃなくてバラストか?

それとも頭の中まで筋肉痛なっちゃタイプ

保育園問題は確かに重要だ。

重要からこそ、しっかりと環境や実状を踏まえてどうすべきかを考える。

そういう人たちが増えることを願ってやまない。

追記::

「実際に隣に住んでみろ」っていうと「極論ダ―」が現れそうだから、一応付けたしておくよ。

先にも述べたけど「実際に住め」と言われて「通勤通学ガー」と言い訳する奴らなんて、本当は「保育園」に興味なんて1マイクロもないんだ。

ただただ世間話題になったことがらに、インテレサントなものにだけ興味を引かれて、脊髄反射的に批難する言葉が出てきているだけで頭なんて使っちゃいない。

自らの経験や周辺住民の声を聞いて、それらを踏まえてどういうことをしていくか、あるいは為していくか、それが科学的な思考であって、義務教育を終えた人が為し得る考え方なんじゃないのか?

それは面倒だし簡単にできることじゃない。

そういう面倒なことをやってまできちんと「これからどうすべきか」を考える人たちが必要なんだけど、そういうところにお金は廻らない。

このような状況を全く踏まえないですぐに「コドモガー」というのは、そういう短絡的な大人教育されている子どもが最も不憫でならない。

追記その2::(4月12日12時ごろ)

なんか知らんけど沢山ブクマ付いてて個人的には興味深くて考えさせられるものも沢山あった。

批判真摯に受け止めたいし、どんなコメントをくれた人でも全ての人へありがとさん!とは言っておきた。

私は口も悪けりゃ頭も悪い。挙句に文才なんて胎内に忘れてきたようなタイプなので支離滅裂な文はご寛恕いただきたい。

想定していた「私は気にならなかった」系のブコメはやっぱりあった。

もちろん他意はなくて自らの意見を述べているんだろうけど、そこで留まっていれば声としてとても重要ものだと思う。

だけど、そこから一歩進んでしまって、住宅施設や立地などの諸条件を捨象して、結果を「神経質」というような単純化していく論の持って行き方は賢くない。

賢くないと言っているだけで、嫌いだとかダメだとか言っているわけじゃないことだけは理解して欲しい。

もはや忘却の彼方にある「民主主義ってなんだ!?」「これだ!」なんて語られてたけど、あんなのは民主主義とは言わないんじゃないかと思う。

既存イデオロギーがあってそこに邁進していくんでもなくて多数決をするんでもない。

多種多様生き方をしている人たちの声を聞いて、さまざまな問題を語り合って共に解決していくものなんじゃないのかな。

もちろん複雑化していくのは火を見るよりも明らかだけど、日本死ね!って感じて諦めたくねーんだわ、私はね。

そもそも何かに対して「死ね」だなんて良くも簡単に言えたもんだなとは思うけどね、私は口は悪いとは思っているけど「死ね」みたいな言葉は使わないように心がけている。

チラシの裏書きみたいなものから、本当に散文的なものになってるんだけど、常々思うことを書いて筆を降ろしたいと思う。

日本が悪い、社会が悪いみたいなこというけどさ、そういう人たちは何と戦ってんだろね。

追記その3::(4月12日18時くらい)

チラシの裏2枚目。

色々な声が聞けるインターネッツってやっぱり素晴らしいな、と思ってる。

ブコメを読むと「すっごい頭がキレッキレ(いい意味で)な人で弟子入りしたい!」と思うものもあれば「何ちょっとこの人文盲?」って思うものもある。

そして何より感動しているのは「共存」かそういう類のキーワードを挙げている人がいること。そうなんだよ、それなんだよ、これから時代って、と個人的に思ってる。

いずれにしても、どのブコメを読んでも個人の素晴らしい意見で、何かこう勝手カタルシスのようなものを感じちゃってる。

ちなみに増田個人の見解として「こうしたらいいんじゃね?」みたいのは、少しだけ提示したつもり。

もちろん個人の見解(防音対策)はかなりの片手落ち、どころか飛車角を落とした感じ、あるいはキングのいないチェスみたいな(適当

から頭をこねくり回して考えてみたけど、これから述べるところの要約を先に言えば「私個人としての結論はない」これが答えだ。

「は?」かもしれないけれど、ソリューションへの道は集積が第一であって一人の意見に可否を付けることじゃないと思うし(震え声

まず、引っ越した先に保育園があるのと、住んでいたところに保育園ができるのとでは意味が異なる。

極端な例を出せば、基地の隣に引っ越したのか、それとも住んでいたところに基地ができるのかでは意味が異なる。

間違いなく別の観点から斬りかかってくる(例えば命の危機だとか何とかね)人がいるけれど、こういう極端な例を出さなきゃ分からない人がいるからこそ、あえて極端な例をあげてみた。

さて、既存保育園の近隣に引っ越すということは、そういう騒音リスク承知でなければならない。

決して安い金で引っ越すわけじゃないんだから、徹底的にリサーチ必要だ。

個人的経験で言えば、奈良県のS市でその失敗をやらかした。

「やっぱり土いじりしたいっすw」ということで一階の部屋を選択し、気晴らし程度の目隠しと1mくらいの道路フェンス一枚を隔てた向こう側が保育園だった。

演奏会の練習を夏に窓を開け放してやってくれるもんだから夜勤明けなんて寝てらんない。

ちなみに飛行場関係では、勤務地から歩いていける方がいいじゃん!ってことで岐阜県のK市に航空自衛隊の側に部屋を借りて失敗した。

この失敗は、その町にある既存施設がどのようなメリットデメリットがあるのかを考えなかった、単なるリサーチ不足だ。

これに関しては、移住者である私が悪い。そこを選択したのは私だ。保育園迷惑なんじゃない、基地迷惑なんじゃない、自分から迷惑に飛び込んで自分から苦しむ一番ダメパターン

既存保育園が足りないというのであれば新設するか、あるいは増床するかという選択になると思う。

今回の開園中止なんてのは新設するパターンだったわけで、上述した既存保育園とは問題の質が異なる。

新設の場合は、そういうリスクを避けていた人たちに影響が及ぶ。

から新設するのであれば説明しなくてはならないと思う(問題賃貸に住む住民にそういう説明があるのか否かというところだけど、個人的経験がないからどうなの?聞かせて!)

防音設備をしっかりするだとか、お迎えようの駐車場をしっかり設けるだとか、リスクを避けていた人たちがそのリスクを許容できる話をしなきゃいけないと思う。

どうでもいいよって人もいれば、敢えて保育園のない場所を選んだ人もいる可能性はなくはないからね。

こういう話をすると、いろんな考えの人が居て収拾のつかないような議論が続くっていう人もいる。

だけど、それが不毛なやりとりだなんて思わない。

自分の主張をせずに黙り込んで、いかなる困難にも耐え忍んでいくのが美徳なんだろうか。

不毛なやりとりに見えても、実はそこに斬新なアイデアがでるかもしれない。

脱線しちゃったけど、保育園を新たに開園するのであれば、その立地を選んだ条件、なぜそこでなければならなかったのか、という説明はしかるべき事だと思う。

例えば、山の中に大きな保育園を作ってバスで送迎なんて手段もできないことはないだろう。可能性という意味ではね。

経営主体が「私」、つまり利益を出さなくちゃいけない、しか公益に供するわけだから半端な経営計画が起因して倒産して公益に損害を与えてはいけない。

そういう諸条件を吟味して「ここ!」という選択が行われるとは思うわけだけど、公共の福祉のために個人の幸福犠牲になるってのは、いささか頂けない。

もちろんこれが国であれば、そりゃもう判例だとか出ちゃってるからぐぬぬ」と飲まざるを得ないこともある。

法律を作ってるのは国会だけど、その構成員日本国民代表であるから日本人意思として決めた法律だ。

それに反するというのは、自分約束したことを自分で「そんなこと言ってねーし」と言うような、無責任な人だと思う。

だけど、保育園経営主体が「私」となれば、私人私人幸福追求を阻害していいのかって話にもならざるを得ないだろう。

「じゃあどうすんの?」って声が上がるのは当然で、一人で考えるよりも三人で文殊の知恵、十人なら聖徳太子やぞ!ということで、いろいろな声を発するのが大切だと思う。

それらを拾って吟味するのが、我らが国民代表たる政治家!!だと思うんですけどねー。

裏を返せば国民意識政治家として表れてるだけでしょうから政治家う○こなら、国民う○こなんです。

はい、私もう○こです。生きて腸に届きすぎた感じの時のう○こです。

う○こ臭い」と当然のことを指摘して、何かを言ったつもりになったっていいじゃない。何も言わないよりはね。

当然なことかもしれないけれど、その当然なことすら声として発しないと耳を傾けて聞けない人がたくさんいるんだ。

わけ分かんなくなったかもしれないけど、既に述べたように「私の結論はない」からご寛恕ください。

海外の状況ってどうなの?っていうのは、個人的にはブラジルでの経験しかないから海外」とひとくくりにはできないけど、すくなくとも甲高い「奇声」をあげることはなかったように記憶している。

ただそれは、たまーに迎えにいった時の状況であって、常にそうなのかは知らない。

海外での経験がなくったて、Youtubeでnursery schoolとか何とか、そういう言葉検索してみると海外保育園の姿が少しは分かるんじゃないかと思う。

そういうところからも学ぶところはたくさんあると思う。

ところで、どっかの昔の首相ベンサムの最大多数の最大幸福なんて言ってたけど、こんなの私はクソだと思う。

問題をすごく簡素にしてしまうから誤解の嫌いは免れないだろうけど、1億人のうち5001万人が幸せな道であれば4999万人は不幸でもいいのかな?

もちろん1か0かの二項対立で考えるべき言葉じゃないのは分かってんだけど、こうやって簡素化しないと考えられない人っているじゃない?

それでもいいって主張する多くの人は、自分がその最大多数に入れると思ってて、案外4999万人の1人になっちゃタイプ

今の格差社会って最大多数の最大幸福で例を挙げた5001万人と4999万人って感じになっちゃってると思わない?

最大多数の幸福のためならば少数派の幸福侵害してもしかたないんだからね。

倫理学とか専攻した人から怒られそうだけど。

おわり。

2016-02-23

http://anond.hatelabo.jp/20160223135735

増田は「男は敷居を跨げば七人の敵あり」って諺を知らないのかな? ってか女なのかな?

増田は内輪なようでいて、それなりに人はいる。「増田11人説」にもあるとおり、さすがに増田と反増田だけで構成されているわけではない。

似たような意見を持つ人間二項対立のような状態になることはしばしばあるけれども、しかしそこにいるのは同一人物ではない。

実際は思想思考も生まれも育ちも別々の人間なんだよ。でもたまたま意見が合ってしまうことで一人の人間に見えることはママある。

しかし、そのときに思い出して欲しい。「男は敷居をまたげば七人の敵あり」という諺を。

増田に味方がいるのかどうかは知らないけれども、敵は七人いる。

七人が合体して増田を襲っているのだとしたら、『一を以て十を撃つは曰ち走るなり』だ。

急げ、スピード相手を制するんだ! 角速度とかを速めることによって行動をすばやくすれば、今よりより多くの手数を以って対抗することが可能になるだろう。

鍛錬を怠ってはならない。日に10000回の正拳突き等によって速さを手に入れるべし。

2016-02-15

おっさん流行りのゲームをやってみた結果

当方アラフォーおっさん

ゲーム好きが多そうなインターネット関連の仕事をしているが、社会人になってから自分ではほとんどテレビゲームには触れていない。今となっては、子供たちがたまに遊んでいるのを眺める程度のものだ。

そんな俺だけど、最近、ひどいソシャゲ課金問題ニュースになったり、実況動画ユーチューバー扇動されるキッズたちがそんなゲームにハマっていたり、息子の3DS発狂して叩き割るヴァイオリニストがいたり、そういうニュースを見て大人が眉を顰めていたりするのを見て、そういうのはものづくりとしてなんか残念だなぁって思い、ふと思い立ってこれを書いている。

俺は本当は元々ゲームが大好きだった。どうしようもなく好きだった。たぶんここでマニアを名乗れるほどでは無いけれど、ファミコン世代ど真ん中で、小学生時代任天堂に憧れ、ファミコンディスクシステムに埋もれて育った。反抗期メガドライブで道を踏み外し、幾多の良ゲークソゲーにまみれてサターン遊んだ(結局スーファミプレステも持ってたけど)。この世代によくいるエンジニアの例に漏れず、ゲーム好きをこじらせた結果、IT関連の仕事に進んだ。

社会人になってからは大好きなゲームで遊ぶ機会は徐々に減り、いつしかまったく触れることも無くなった。

興味が無かったわけじゃないけれど、ネットWebコミュニティ関連の仕事をしていたら、やたら忙しくて使える時間は限られたものになり、そのうち自分の家庭を持つようになり、結果として一見何も生産されない(ように感じる)ゲームにひとりで貴重な時間を費やすのは勿体無いと割りきって考えるようになったのだ。

仕事でもプライベートでも、どうせディスプレイに向かうのなら何か成果物を残せるか、実際に人との繋がりを作れる仕組みに力を入れようと考えるようになった。それはクラシックホームページだったりECサイトだったり、ブログだったりSNSだったりしたのだけれど、いずれにしても「俺たちのインターネット」は今までと違う新しい世界を作るんだ、という気概のようなもの勝手に持っていたような気がする。つまりゲームを作る側でも無い普通人間にとって、「ゲームで遊ぶ」という行為クリエイティブな行動とは考えなかったのだと思う。

そのうち自分の子も大きくなり、人並みにDSWiiで遊ぶようになった。

でも、うちの子たちがそこまでゲームに熱中しているほうでもなく、妻がゲーム嫌いなこともあって、それほど家庭の中でゲーム話題になることはなかった。俺自身Wiiを見たときに、すごいユーザフレンドリーで簡単に遊べて任天堂はすごいなーって思ったり、子供たちとちょっと遊んだスマブラ面白いなーと感じたりしたことはあったけれど、基本的には世代を超えてマリオに親しむ子供たちの姿を見て微笑ましく思ったり、良い物は良いねって言ってみたり、つまりは親として、第三者的感想を述べるという以上に自分自身がのめり込むような体験が再来するようなことはなく、ああ、やっぱり自分少年の頃感じたあの感動や興奮は、あの時期特有のものだったんだろうなあ、子供たちが今のゲームに同じように感じることはあったとしても、自分自身がもう一度あの感覚体験することは無いんだろうなあ、などと悟ったようなことをちょっと寂しく勝手に考えていた。

我が家はそんな、ゲームにそれほど熱くなっていない一家なので、最新のゲーム機ゲームがすぐ家にやってくるというようなこともなく、WiiUも発売から3年経ってようやく我が家にやってきた。息子のクリスマスプレゼントということで、義母が買って送ってくれたのだ。正直随分とリッチクリスマスプレゼントだと思う。

その半年ほど前、なんかイカがインクを塗るゲームが発売されて話題になっているということは知っていた。俺はホッテントリにそのゲームがしばしば上がるのを面白そうだなーと思いながら眺めていたし、息子もそれが欲しかったのだろうということはなんとなくわかった。

かくして、流行から半年ちょっと遅れて我が家にもWiiUとイカのゲームがやってきたのである

すっかりゲームに興味が薄れてしまったおやじである俺は、息子が喜び勇んでイカのゲームで遊ぶのを温かい目で後で眺めていた。とても面白そうだった。

一台のWiiUでは基本的にはひとりずつしか遊べないので、パパにやらせろよと言うでもなく、オシャレでいいなこれ、っていう程度のことを思っていた。

その穏やかな認識が一変するのは、その一週間後の大晦日のことだった。

12月31日仕事やら親戚の都合やらなんやらで予定が合わず、年越しは妻と子供たちだけが実家に帰り、俺はひとり寂しく自宅に帰って新年を迎えることになった。やり残した掃除を済ませて一息つき、ひとりで年末番組を見る気にもならずビールを飲んでだらだらしていたが、すぐ退屈になってしまった。そこで、なんとなく一週間前にやってきたWiiUの電源を入れ、自分ID登録して息子が遊んでいるイカのゲームをやってみたのだ。

ほうほうどれどれ、操作は複雑そうだが簡単に覚えられそうだ、とりあえずバトルに参加してみるか、しかしこれ音楽カッケーな、と……

かくしてイカを操作し始めた俺は、すぐにとんでもない衝撃を受けることになる。なんせ、俺はゲーム体験歴史が軽く15年は飛んでいる老帰還兵なのだ

操作に慣れるまでのタイムは僅か0.05秒にすぎない、とまではイカないが、少なくとも開始30秒後には俺はなんかすごいものに触っているぞという気になりはじめ、思った方向に画面が動き、自分が向いた方に画面が回り、目の前の画面に映るイカが自分と一体化した気分になり、それを気持ちいいと感じるまでに実に1分もかからなかった。大げさでなく、これはすごいことだ。ものすごいUIだ。

正直、まるでダイナモローラーで全力でぶん殴られたかのような衝撃を受けた。

なんだこれは。

気持ち良すぎる。楽しすぎる。

気が付くと、がむしゃらにわけもわからインクを塗っているだけであっという間に1ゲーム終わっていた。

一体、なんなんだこれは……!!

何も考えず次のバトルに参加し、無我夢中インクを塗った。

3戦、4戦と繰り返しあっという間に30分くらい過ぎてしまった。

なんだか涙が出てきた。ていうか、恥ずかしいことにおっさんの俺はひとりでゲームをやりながらボロボロと涙が止まらなくなってしまった。

別に大晦日にひとりでゲームをやっていたのが虚しくて涙が出てきたわけじゃなかった。自由に軽快に動くイカのキャラを見て、夢中で空間を走り回っていたら、子供の頃、家にやってきたファミコンで初めてスーパーマリオを動かしてまるで自分の思いのままにマリオが走ったときの感動や、自分お年玉を貯めて買った発売されたてのメガドラ似非3Dのスペハリ2がぬるぬる動くところを見たときのことや、ゲーセンで「自分の思うままに3D対戦できるゲーム現実になるなんて!」とバーチャロン100円玉を積んだ思い出なんかが次々蘇ってきた。

とんでもないものを作る人がいる。

任天堂はすごい。このゲームを作った人達はすごい。

素直に尊敬するしかない。すごいものを作るなあ、と。

そうだ、楽しいゲームプレイしたとき体験と感動っていうのはこういうものだ。ありがとう、それを思い出したし、世界過去より進化している。

未来だ。これは未来だ。

かつて夢に見た未来がここにある、そんなことを思った。

だってフィールドを思い通りに走り回り、リアル人間同士がスポーツのように対戦でき、公平で、平等で、みんなが活躍できる。

去年の5月から遊んでいる人達にとっては超今さらな話なんだと思うけど、これってとんでもないデザインじゃなイカ

俺は止まった時間から未来たる現代に帰還したのだ。

良かった、どうやら俺が枯れてしまったわけではなかったようだ。だってゲームで遊んで猛烈に感動したもの。良い物は良い、ていうのはこういうことを言うんだろう。

気が付くと、外は元旦の日が昇っていた。

信じられないことに、どハマりしすぎて正月になってしまったのだ。その時にはその日フク屋にあったギアは全部買い、その時持っていたギアの中で一番イカす組み合わせをコーディネートする程度にはインクの沼に溺れきっていた。ちょっと妻と子供たちには言えないが、ひどい年明けだけどどうしてなかなか気持ち良かった。

大人も子供もおねーさんも同じように熱中するのもよく分かる。

すさまじいゲームバランス運営で成り立っている世界だ。幾多の戦場をくぐり抜けてきた歴戦のスナイパーみたいなマニアと、たかしくん5歳(推定)やさくらちゃん4歳(推定)が同じ世界の上で楽しくワイワイとインクを塗って遊んでいるのだ。よくできたレベルごとのマッチングもあるにせよ、殺イカ鬼みたいなプレーヤー前線で戦っている後方で、たかしくん5歳(推定)がコロコロローラーでインクを塗って喜んでいるフィールド。みんなそれぞれ楽しい世界だ。任天堂からできるっていうことはあるにせよ、ゲームで楽しませるんだ、新しい世界を見せるんだという思いがビシバシと伝わってくる。ガチャですり減るばかりのソシャゲのようなものとは本質的に違う。すごいゲームを作るものだと感心しながら家族の待つ実家に向かった。1月1日、俺の頭の中はカラフルインクでいっぱいで、なぜだか不思議クリエイティブな気分だった。

ところで、上の方にインターネットに関わる仕事をしていると書いたけど、もはや「俺たちのインターネット」的なコミュニケーション特別な思いを抱く時代では無いんだなあ、っていうことを改めてしみじみと思った。

普段仕事でわりと年配の方も使うWebサービスに関わっているんだけど、残念ながら2016年現在の今なお、インターネット特別もの得体の知れない不穏なもの敬遠する層があり、そういう世界がある。世代ギャップだけの問題だけではなく、サービスの内容にもよって向き不向きもある。流通業なんかだと、いまだに「リアルネットの戦い」だとか、「紙媒体Webメディア二項対立」なんていうものがあり、「オムニチャネル」なんていう言葉が持て囃されたりする。

仕方ないんだけど相変わらず、クラシックな層に対して「インターネットの普及」を懸命にやらなければならなかったりする(だいたいインフラの話とアプリケーションの話がごっちゃになっている)。正直ウンザリすることもあるけれど、それが現実だと受け止めている。

しかし一方で、イカのゲームで遊ぶ子供たちを見てつくづく考えさせられるのは、もはやこの世界で成長して大人になっていく今の子供たちにとってはインターネットがそこにあるかどうかなんてことは考えることすら無いし、我々が90年代後半から00年台にかけて見てきたような「俺たちのインターネット」としてネットの場を特別視するようなことも無いのだ。彼らにとって、ネット電気水道と同じようにあたりまえにそこにあって、ゲームをやろうとスイッチを入れれば、仲間や対戦相手が生身の人間であることがあたりまえなのだ

既に、テレビゲームで遊んでいてそれがリアルバーチャルかなんていう議論ももうあまり意味が無いんだろうなあ。それはバーチャルな場を使用したリアルであって、線引き自体がよくわからない。近い将来親になる世代に対してはネットは「普及」するものですらなく、このコミュニケーションスタート地点ですらある世界がいよいよ本当にやってくるのだ。

思うがままに書いたけど、たぶん、ずっとゲームをやり続けてきた人から見たら何年も前から当然のようなことなのかもしれないね

対人で対戦できるFPSTPSだってオンラインRPGだって20年くらい前にはあったし、上に書いたようなネットゲーム体験それからずっと培われてきた技術によって成り立っているんだろうなって思った。

でも、そうやって新しい物好きやマニアの層が開拓してきた技術経験がいよいよ一般層にまで展開されて、子供たちが何も考えずにその世界の上で育っていくという現実に、なんだかもううかうかしてられない危機感と楽しみみたいなものを感じずにはいられない今日この頃

任天堂さんありがとうございます。教えてくれたはてなーのみんなもありがとうスプラトゥーン面白いです。

2016-02-06

3大増田地雷

バカだなぁ 分かってないなぁ で始まる人間がまともに文章を読めていた試しがない

なんJ猛虎弁のノリを持ち込む奴は100増田中、97増田、読解力がついていけておらず語尾は「やで・やぞ・ええで」なので判別がつきやす

二項対立に持ち込む奴はろくな奴がいない

現場からは異常です

2016-01-16

http://anond.hatelabo.jp/20160115205632

逆にこの理屈がよくわからん

相手にも事情があるよねってだけの話でしょ。

人間の話であれば安直二項対立に仕立て上げてレッテルで叩き合うようなの、はてなー嫌いなはずなのに、法人と個人の話になった途端に「あっち側なのか!相手の肩を持つのか!社会悪!」って言われるのは何なん?

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