「二項対立」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 二項対立とは

2020-09-18

anond:20200918082606

まあ例としては不適当でも、そんな二項対立にするほど「マスク必須」なものでもない。「できるだけ多くの人がしている」ことに意味があるのであって、一人二人がしていようがしていまいが変わらない。

二項対立っぽく書かないと伝わらない人がいる、という苦労は分からなくもないが。

2020-09-15

anond:20200915164306

三体自体事柄を単純な二項対立的に描くのがうまくて、ファンタジー感さえ伝わればサラサラ読める感じした

2020-07-24

フェミニスト潜在的トランスジェンダー差別者

第3波フェミニズム以降フェミニズムマルクス主義の考え方を導入してる(性的搾取とかが分かりやすいけどバリバリマルクス主義用語フェミニズム転用している)

そしてマルクス主義を取り入れたことで階級闘争も取り入れた。フェミニズムの中の階級闘争とは当然男と女対立である。男という抑圧者に対して女が社会的格差是正するために階級闘争を仕掛けるという構図である

しかマルクス主義でも同様だが二項対立で考えようとした時どちらにも与しない勢力というのが現れることがある。このような勢力排除されるかどちらかの勢力に取り込まれることになる。

さて男とも女とも言えない勢力と言ったらなんだろうかと考えるとトランスジェンダーだろう。体と心の性別が異なっておりはっきりと男か女かを断言することはできない。このような勢力男と女対立構造を考える上で邪魔理論的には存在してはならないことになる(当然これは私自身の意見ではない)そのような勢力が現れた時フェミニズムマルクス主義的考えを持つ限り彼らを徹底的に排除することになる。こうなった時もはやフェミニスト差別と戦うものから差別をする側になる。

2020-07-21

脱コルへの違和感

ここ最近日本の脱コル(韓国の脱コル運動についてはよくわからないため、ここでは日本限定した)への違和感最近高まってきているので、ここで整理する。

声を大にして言いたいが、このエントリを書くのは誰のためでも何の妨害でもなく、私のため、私の思索のためである

1. 「男性化」ではないという主張

脱コルを推進する人達一人称は「俺」。短髪にメンズものファッションしか彼女達はこれは男性化ではなく、機能的な格好・他者に媚びない表現方法を選んだだけであると主張する。しかし、ラディカルフミニズムの文脈における「女性性の徹底的な無力化と破壊」は自明に「男性性の入手と強化する」と同義ではないのか?なぜなら女性ではない男性男性ではない女性、と二項対立で論じてきたのがラディフェミからだ。違うとすれば、女性性を破壊した後には何が残るのか?性のないニュートラル自分

2. 脱コル漫画主人公達、たいてい可愛い

脱コル漫画最近いくつか目にする。韓国で脱コルに取り組んでいる人達が書いた漫画日本語訳である。 

えてして、主人公がそこそこモテかわいい設定なのである

これには少々ずっこけた。

モテて、周りの男性から綺麗、可愛いと称される子なんてごく少数。女子の大半はフツーである(当たり前すぎる話だ)。女性の美しさは男性から消費されるだけだ、要らない、美しくなくていい、美しさを追い求めることは男の奴隷となることなのだ、というラディカルな主張のわりにヒロインモテ可愛い子、というおきまりの設定にハテナが浮かぶ。「走っていく女性」が1番反響を呼んだ漫画だと思うが、そこでは1人の可愛いモテそうな女の子メシアの如く女性達を導き闘う。女性を導くリーダー存在として、女性のうち少数しかいない可愛い子を設定していることは、脱コル漫画として自己矛盾を起こしている。漫画の内容としては「美しくなくていい女性」を追い求めているのに、作者も読者も、ヒロインをつとめるのは可愛いくて美しい女性普通である、というお決まり価値観から抜け出せていない。可愛くなく美しくない女性が大半なのに。可愛い子じゃないと、美しくないと画がもたないから?説得力がないから?だとしたら「全ての女性は美しくなくていい」はどこまで説得力があるのか。「不細工」と自称する女性の脱コル漫画もあることは知っているが、あくまでも体験記。ドラマティックな展開の脱コル漫画を2本ほど読んだがどちらも可愛いモテ女子だった。うーん…

脱コルについてもう少し考えていきたい。

2020-07-17

anond:20200717004001

てかそもそも二項対立の男女という軸が強すぎて人格なんて見てらんないんだろ

2020-07-15

anond:20200714032032

遺書の宛先間違っていますよ。

遺書はこの期に及んで戦闘機105機2兆4800億円をポンと買おうとしているお国に宛てるべきだろう。

 

増田の苦悩は痛いほどわかる。俺もだ。

からこそ、すまないがGoToキャンペーン賛成VS反対のような安直二項対立に落とし込まないでいただきたい。

 

指定された旅行会社や予約サイトで予約しないと割引対象外となるGoToキャンペーンで、観光業界の末端まで補償が行き渡るとは到底思えない。

 

今こそ全業界一丸となって政府に向けて「自粛補償はセット」と言うべきではないか

俺たちもう精一杯やってるよ、お国は俺たちに求めてばかりじゃないか。分断はこりごりだ。

2020-06-04

こばるさん(@sha_k_br)のブログを読んでの感想

私は、ただの通りすがりである

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今までは、ただ荒れている海を時たま平和なところから眺めていただけだった。

そして、たまたま見かけた漂流物に対して思ったことを気まぐれに書いて見ようと思った。

ここから書くことは、現段階書いている私には公開するかもわからない文章であり、該当のブログ記事に対して思ったことを気ままに書くだけなので何かを伝えるというつもりは一切ない。自分のなかのことを整理しようと思っただけのことで、こばるさんが何を思おうと私は興味はないし、これを読めというつもりもない。

発端はそのブログであっても、おそらくは私の思ったことまとめに終始すると思われるからである

以上のことを踏まえて読むかを決めてもらいたい。

これは自己保身という人もいるかもしれないが、私にそのつもりはない。

匿名で、なんの影響を被ることもない場所で、ただ書き散らかす文章から一切の重みはないということを読んだ人皆に伝えるという意図の、私の責任感の表れと取ってほしい。この文章はただの電子ごみだ。

さて、まず該当ブログurlを貼らせてもらう。

ヌメさんへのネットリンチに加担し続けている人たちへ

私は、このブログ題名名前があがっている方のCFにまつわる問題を時たま眺めていた。最近出来事などの一連も一通り見ていたつもりではある。

私には、一切法律的知識CF知識はないため、収支報告を求めるものに、「まあそりゃあ疑念が湧いたら事実確認をしたくなるよね」程度のことを思うことしかできない。これは、お使いに行かせた子供お金をちょろまかしていないか確認したい、というような感覚と似ているのでCF適用できるのかは私には判断はつかない。

私はここで、この方の問題について白黒をつけたことを書くつもりはない。あくまで、こばるさんのブログについて思ったことを書くというつもりだからだ。

このブログ記事は「CFした方がネットリンチをされている」という前提で書かれている。(題名からしてそう)

なので私がそのことについて書くということは、その前提に対して物申すということになってしまう。

そうなると、私の考えたいことと外れていくと思うのでとりあえずそこは保留にしておく。

以下、本文を引用しながら書いていく。

ヌメさんへのネットリンチに加担し続けている人たちへ。

あなたたちは愚かです。

優しさに賢さが追いついていない人、賢さに優しさが追いついていない人、その両方が見受けられます

優しさに賢さが追いついていない人は、大局を見る能力がありません。「優しい」という自己イメージに捉われて、その表面的な振る舞いからはみ出す勇気がないだけの愚か者です。

賢さに優しさが追いついていない人は、あなたが学んできた知識を、愛情を持って世界還元しないところを見ますと、やはり愚かだと思います

あなたのための寛容な世界づくりを、自ら放棄し続けているあなた方は、全く賢くありません。

声を上げる人の、精神高潔さを知りなさい。

そしてあなた自身の恥を知り、愛を知りなさい。


正直言うと、私はこの「優しさ」や「賢さ」という言葉が何を指しているのかがわからないため、ここは飛ばす。

ただ、「寛容な世界づくり」という言葉から弱者にやさしい世界をということなのだろうかということを何となく推察するに、この人々は強者に当たるのだろう。そのあとの、声を上げる、などは最近話題トーンポリシングもろといった感じである。これ以降のところで語気語調で判断するな、といった内容のことが書いてあることだし。

トーンポリシングに関しては、議論の場は対等な人同士が様々なものを用いて議論をするという理想があるが、そこにも権力関係があるのだということを自覚しよう、といったものであると私は認識している。(何かで読んだ、何だっただろう…)

恥を知り愛を知る、は、まあちょっとよくわからない。思いやりだろうか。悔い改めるとかだろうか。

あなたは愚かです。しかあなたの愚かさは許されます

5年後、10年後に、あなた自分自身の行いを恥じたとき過去あなたの行いを誰も責めてはいけません。

もちろん、今あなたがそれを行なっているならば、咎められるでしょう。法に基づき裁かれることもあるでしょう。

あなた積極的または消極的加害行為が、今、あなたからの加害を受けている人の心の安寧よりも、優先して認められることはありません。

しかし、あなたの今の幼稚さは許されます

あなたはかわいそうです。然るべき手段で裁かれた後、あなたあなた自身からも許されることを願っています


これはまあ、おおむね一般的な考え方であるように思われる。罪は裁かれ償いをしたら一種チャラである。あとは良心問題

まずあなたは、あなたが何に依らなくても、あなた自身が当たり前に存在してよいのだということを、深く理解してください。

これはまず一番最初に、あなたの心の底の底に置いておくべきあなた自己肯定感です。

あなたが今それを得られていないなら、とても悲しく、残念なことです。

自分自身の心を明かし、賛同でなくとも肯定されることが、あなた世界を信頼できる根拠になるということを、ぜひ知ってほしいと思います

自分自身の心を明かす勇気を、あなたの愛する、信頼できる人に向けてください。

その信頼が報われたときあなたあなたのための自己肯定感を得られるはずです。

その経験を得たとき、その自己肯定感や誇りが、他者にとっても同じ、誰にも脅かされてはならないものだということを、想像できる人になってください。


ここはいささか唐突に思われた。なぜここで自己肯定感の話なのだろうと率直に思った。

自己肯定感がないからこそ、曰く「愚か」な行為をしているという考えであるのかと推察するが、「自分自身の心を明かし、賛同でなくとも肯定されることが、あなた世界を信頼できる根拠になる」という点では、賛同/肯定をされた時点でその賛同/肯定されたものが、結論として善であろうと悪であろうとその内容はかまわないように受け取られる。

それとも、「愚か」なことであってもその自己肯定感が生まれたらばそれ以降回心できるはずといったようなことなのだろうか、私には少々やはり呑み込めない。

ある層に受けることを言ってしまったらその承認におぼれてしまい、そこから抜け出せないこともあるのではないか、等々考えてしまう。

まあやっぱりよくわからない。

また、「中立」の立場をとり、自分を冷静だと思っている方へ。

あなたが行動をしない限り、あなたは無敵です。

あなたが何かを決めない限り、あなたは誰にもジャッジされることはありません。

あなたは、いつでも世情に合わせて、怒られないための「正解」を選ぶことができます

あなた卑怯です。安全場所で、物事を見定めているつもりになっている自分自身のことを恥じてください。

あなた対立する勇気を持っていないのなら、あなたは有力な参謀にはなり得ません。

そのことを理解し、自身のことを省みてください。


私としてはここが一番の山場であった。ここで、こばるさんは他者に対して「対立する勇気」求めている。

私はここが一番引っかかった。

意見を表明する勇気」ではなく、「対立する勇気」であり、「中立」、決めかねるという一つの判断否定していると思うからだ。

以下は、浅い知識によるものから最初に書いたことを思い返して、あまり真に受けないで読んでもらいたい。

私は、この言葉を読んだとき、エポケーという言葉を思い出した。

エポケーは、判断停止や判断中止とも言われる。これは、懐疑的もの見方として生まれもので、常識などを棚上げし、事実を見るというようなことである。「これまではそうだった、だからこれからも違いない」ここに対して待ったをかけるようなものと私は習った記憶がある。思考停止とも違うということも。

判断を停止するということは、結論を下すことを中止するということで、こうだった場合にどうなるかといった想定をしてその場合結論としてはどうなるか、と考えることをやめるわけではない。

判断停止をし、意見表明をしないということは確かに叩かれるものがないという点で「無敵」かもしれない。

しかし、むやみに敵を作るような行為は慎んだほうがよいのではないだろうか。対話可能と思えないのならば、口をつぐむということも選択肢に入って来るのではないだろうか。そこで人は絶対意見を言わねばならないというのは酷であると私は思う。

立場を明らかに意見を表明できないのは、冷笑主義でもない限りそれ相応の判断停止の理由があるのではないか

または、明らかにするほどのことではないという一種の”判断”でもあるだろう。

ここをおして判断を迫るのならそれ相応の論拠を明確に提示していく必要があるだろう。

また、全貌を知らないままに下した判断には危険性があるのではないかと言いたい。

ヨクシラという言葉があるが、ヨクシラで首を突っ込み盲目的に突っ走るというのは恐ろしいことである。むやみやたらに判断を求めたらいいというものではないと考える。

ただ、これはヨクシラで判断を下し動いている人々に対して判断を下し行動することをやめろといいたいのではなく、その判断に基づいて物事を見ることに固執しかねない、という危険性を留意しておくべきではないかという意味であり、柔軟性があるのなら、意見を表明するという言語化を通して自身の考えをまとめることができ、それを叩き台にしていろいろの人との対話をすることで自身の知見を深めることができるため、それ自体をすべて悪いとは思わない。

これはヨクシラでない人であっても同様のことがいえると思っている。固執することは恐ろしいことである

そして、これらの話はどちらか、いずれか、なんらかの想定されるコミュニティに与するという話ではないと思う。

私は、「対立する勇気」という言い方にどうしても、二項対立ですべてを説明しようとする姿勢が見えてならない。

人々はそうそ一枚岩ではないだろう。学校クラスの分裂ですら、賛成反対と大きく分けてみた中をのぞけば、容易にその中の分裂が見える。

「有力な参謀」という言い方も、ある組織構造を持った何かを想定しているように思える。

ここ以降は、声を上げるリスクについての説明などで、黒人男性黒人若者に対し言っていた言葉彷彿とさせるものだった。

以降に関しては特に思うところはない。しいて言うなら、「数は力」という言葉と、黒人差別意識させること自体だろうか。(全体な気がしてきた)

「数は力」に関しては正当性があると思ってのこの書き方なのかもしれないが、それはマイノリティマジョリティの流動にしかならないのではと思ってしまう。

数は結果であることが望ましいのではと、素朴に思う。まあ、綺麗事なのはわかる。正当に数を得られるように頑張ってほしいものだ。

政治について学んでおらず、社会学に関しても知見が浅いので、これは当たらないかもしれない。(田中角栄しかでてこない程度の知識である。)

黒人差別意識させる書き方をしてることが引っかかるのは、これは黒人差別と同じものではないからだ。

ここからは本格的に蛇足であるが、考えたので残しておく。

ネットリンチは悪いものだ。

差別だって犯罪だってそう名のつくものは悪いものだ。だってリンチ差別犯罪からネットリンチ批判することに是非は問われないだろう。

ただ、ネットリンチというレッテルを誰か他者に貼ることはどうだろうか。

私は、この悪者としてのレッテル他者に貼ることが端的に言って怖い。

これを叩かれるのが怖いということだとは勘違いはして欲しくない。

ここでは、叩かれることは問題ではない、他者レッテルを貼ることが問題なのだ

それをするのは、覚悟必要だ。

その時周りなどは関係ない。私とその人との問題しかない。間違っていた場合のことを考え、極力それをしないように努めなければならないと私は考える。気分としては推定無罪、のような感じだ。自分責任を取れないと思うから責任を持って私はどちらに加担することもしない。

私は当事者でもその近くでもないからだ。

誰かが言ってるから、そんなことで自分の行動を決めてはならない。

大勢迎合することも好ましくない。責任に欠ける。

こばるさんのこのブログ記事は、前提がもう、ネットリンチというレッテルを誰かに貼っている。

想定されているだろう個別具体的な人々はいるのだろうが明確にはされていないから、私にはわからない。ネットリンチは無くさねばならない。

しかに当該の方にネットリンチと(法的、公的に)されることをしている人はいるのかもしれない。

それならば、その人は然るべき罰を受けるべきだ。

私もそのネットリンチをしている人々に対してのみに当てられたものだったら特に何も言おうとは思わなかった。

しかしこの記事では、ネットリンチとこばるさんが思うものについて、ネットリンチだと断定しない人間(中立)への批判がされていた。

私はそこにとても引っかかりこんな長文乱文を迷いながら書いている。

繰り返しになるが、ネットリンチだと判断するのは、ネットリンチ批判するその個人がしなければならないと私は思う。少なくとも、公的な場で決まりきっていないなら、そうなる。

それはしかし、「どう見ても正しさの欠片もないもの」と「正しいけど程度として問題があるように思えること」など、いろいろなものがあるのではないだろうか。私刑は正しいことではない。

少なくとも私は、ネットリンチというレッテルは、どこまでいったら貼って良いものなのかの知識はない。

こばるさんはそのような発言をして批判をするのなら、せめて、明確にネットリンチがなされていると自分が思う根拠を示す必要があったのではないかと思う。

このブログは、黒人差別問題彷彿とさせる。

しかし、黒人差別と同等なほどに、誰がみても、正当性を持って、ネットリンチと言えるものなのだろうか。こばるさんがネットリンチだと思っているものは。

ネットリンチというレッテルを使わずに、自分が目に余ると思う行為をしてる人たちについての問題提起をするということだって、一考の余地はなかっただろうか。ネットリンチとされなくても、人道的に嗜められるべき行為などはある。

私は少なくとも、一連を見てて何に義があるかというのは、簡単に言えるものではないと思っている。

いろいろなひとがいろいろなところでいろいろのスタンスで話してるのを見かけるからだ。

そこまで注視してない私ですら様々な意見を目にするのだからもっと様々な人がいるだろう。

私が見てる中にも、見てない中にも、ネットリンチに当たる行為があるのかもしれない。

ただ、私は誰かから困っていると言われたら、然るべき対応を、としか言えない。

手に余ることをするのは、無責任だ。

デマの流布をしないことが、一番私としては誠実な態度だと考える。

こばるさんの想定には私のような問題を外部から眺めている人間などが入ってないのかもしれない。ただ、この書き方はあまりにも広範な人を巻き込んでの批判ではないかと思う。

声を上げることそのもの正義、ではないと私は思う。

後半の論調的にはネットリンチ気づきつつ口をつぐんでいるサイレントマジョリティーを想定されているようにも感じられたし、基本的にこのブログ記事は、正義は我にあり、と信じて書かれているように思われる。

なので、正当な判断をしたらきっとこばるさんの側につくとこばるさんは信じているのだろう。

個人的には、正義は我にありと信じてやまない、揺らがない態度というのは、少々怖いものだと思う。

たとえ考えが変わらなく思えても、問い続けることは大事ではないだろうか。

乱文なので、また編集をすると思います。ここまで読んだ人がいたら、お疲れ様です。文意通らないとこあるかもだけど許してちょんまげです。

頓珍漢なこと書いている気もするけど、暫定的に。

2020-05-24

大声コンテスト

誹謗中傷させろー、俺は間違ってない、正義だ」みたいな人って見かけない

けれど、逆側の「誹謗中傷はよくない」「僕はこんな変わった意見を持ってます」ばっかり

勝手二項対立を作って当たり前のことばっかり言って、こんなことで自己満足を得る

今回の件だけじゃないけど、これって道徳の授業と変わらないよね

子供小児性愛者、どちらかの人権剥奪しなければならない」という究極の選択を迫られたら、そりゃ小児性愛者の人権を諦めるしかないと誰もが思ってる。

からそんな二項対立のもの批判しなければ小児性愛者の人権は守れない。


小児性愛同性愛も同じ」と「小児性愛同性愛は違う」はどちらも同程度にバカ発言だが、「どちらか一方を破棄しろ」という究極の選択を迫られたら前者を破棄するしかない。理由上記と同様。

から我々は「小児性愛同性愛には、同じ文脈で語るべき部分とそうでない部分がある」という事実を指摘しなければならない。


マイノリティの味方をする我々は慎重に言葉を選ばなければならない。そうした上で、異性愛者・成人性愛者のようなマジョリティは決して倫理的責任を追及されないという特権構造批判しなければならない。「あなた方が言葉を選ばなくても済むのは、それ自体特権だ」と指摘しなければならない。

2020-05-23

正義は必ず勝つ」と教えられた子供自民党を支持する

1 自民党政権与党である

2 政治世界において勝利とは政権与党になることである

3 正義基準勝利することにおくのなら政治的な正義政権与党が手にするものとなる


うーむ……思いついた時は我ながら暴論だとは思ったが、人類史衆愚政治集合体しかないことを考えるにこの屁理屈は大筋として間違ってはいない気がするな。

そもそもをして、勝利以外の何を持って正義証明されるのかという命題に対して人類は未だにマトモな答を用意できておらず、その癖をして子供正義と悪という単純な二項対立から道徳教育を始めようとするなら、どうしても「正義はかならず勝つ」という暴論を吹き込むことになるのだろうな。

恐ろしい話だ。

この話を少し飛躍させれば、戦隊ヒーローウルトラマンを見て育った子供自民党応援しているので、もしもそれが間違っていると言いたいなら特撮ヒーロー放送をまずは辞めさせるべきだとすら言いきれそうだな。

いやはや……そもそも子供に対して何を持って正義を教えるべきなんだろうな。

そもそも正義とはなんだろうな。

君たちは賢いんだろ?

教えてくれよ

2020-05-20

anond:20200519235915

コウモリ童話おもいだした、あれって、何でも二項対立思考にしたがる・させたがる洗脳教育だったんだな。。。

2020-05-12

ミルクボーイ「オトンの称号

内海「どうもーどうも ミルクボーイですー」

駒場内海「お願いしますー ありがとうございますー」

内海「あーありがとうございますー ねっ 今コンドームいただきましたけどもね」

駒場内海ありがとうございますー」

内海「こんなん なんぼあっても良いですからね」

駒場「一番良いですからね」

内海「ねー有り難いですよ ほんとにね」

駒場「入れておきましょう」

内海「ゆーとりますけどもね」

駒場「いきなりですけどね うちのオトンがね 誇れる称号があるらしいんやけど、その名前ちょっと忘れたらしくてね」

内海「誇れる称号忘れてもうて どうなってんねそれ」

駒場「でまあ色々聞くんやけどな 全然からへんねんな」

内海「分からへんの? いや ほな俺がね オトンの誇れる称号 ちょっと一緒に考えてあげるから どんな特徴ゆうてたかってのを教えてみてよ」

駒場「オトンが言うには、人生で一度もセックスしたことないらしいねん」

内海「ほー、え、ほーお?それって童貞やないか、オトンセックスしたことないって童貞やないか。え、本当にオトン童貞なん?」

駒場「俺も童貞かと思うやけども、でもこれちょっとからへんのやな」

内海「まぁーわからへんよな」

駒場「なんで俺がここにおるかわからんねん」

内海「そうやなー」

駒場「オトンがいうには、オカンのことが大好きやねんって、毎年夫婦旅行いくねん」

内海「あー ほな童貞と違うかぁ 夫婦ラブラブなのにセックスしたことない訳ないもんね」

駒場「そやねんそやねん」

内海「そんなにラブラブなら夫婦の営みがあって、お前がここにおるわけやからな、ましてや妻帯者でお前がおるのに童貞なわけないわな」

駒場「そやねんな」

内海童貞っていうのは結婚はおろか恋愛すらできない、誰にも好かれなかった人の称号から オトンが童貞を名乗ってたらそら病気よ」

駒場「そやな」

内海「あれほなもう一度詳しく教えてくれる?」

駒場「なんであんなに上司ソープに行けって言われるかわからないらしいねん」

内海童貞やないかい! ソープに行かせたい人間なんて童貞以外いないんやから 北方謙三先生童貞につける薬はソープやっていうてるやん でも俺はね あれは非童貞童貞ピュアな心をしらずに経験則アドバイスしてるからやと睨んでんのよ 俺の心は惑わされへんよ 俺惑わしたら大したもんや」

駒場「まあねー」

内海「ほんであれよーく考えたらね いざ女の子を好きになって、初体験スムーズに済ますにはどうしたらいいかを教えとるねん 俺は何でもわかってるけど譲れないものがあるの そんなこと言われるオトンは童貞や!そんなもんは」

駒場「分からへんねんでも」

内海「何が分からへんのこれで」

駒場「俺もオトンは童貞やと思うてんけどな」

内海「そうやろ」

駒場オカンが言うには オトンと相性は最高って言うねんな」

内海「ほな童貞ちゃうやないかい! 相性いいって、つまり身体の相性やないかい 童貞はねー まず女性との相性が存在しないか童貞なんや

駒場「そやねんそやねん」

内海「な? そう段々女性はおろか人との関わりがなくってくるから 最後孤独死を迎えてしまうねんあれ」

駒場「そやねんそやねん」

内海「そういう運命から

駒場「そやねんな」

内海童貞ちゃうがな ほな もうちょっとなんか言ってなかった?」

駒場子どもの頃 みなそうだったらしいねん」

内海童貞やないかい! 陽キャ陰キャもみんな最初童貞だったんや そして大人になって童貞童貞二項対立が生まれるんよ 童貞よそんなもん」

駒場「分からへねんだから

内海「なんで分からへんのこれで」

駒場「俺も童貞と思うてんけどな」

内海「そうやろ」

駒場「オトンが言うには パリピオフパコとき絶対ぶっていうねん」

内海「ほな童貞ちゃうやないかい オフパコ童貞の出番なんかありせんのよ」

駒場せやねん

内海童貞はね 前世カルマを背負って来世ではイケメンに転生したい非モテ修行僧やねん」

駒場せやねんせやねん

内海「俺はワンチャン解脱できるかもと貫いとんねんあれ」

駒場せやねんせやねん

内海童貞ちゃうがなほな ほなもうちょっとなんかゆうてなかったか?」

駒場ネット上とかで 女性に嫌われてるらしいで」

内海童貞やないかい! 童貞ネットどころか憲法でも人権軽視されてるんやから な? フェミニストがもう一段声をあらげようもんなら 俺は逃げるよほんま 童貞絶対

駒場「分からへねんでも」

内海「なんで分からへんのこれで」

駒場「俺も童貞と思うてんけどな」

内海「そうやて」

駒場「オトンが言うには その称号いうたら皆ひれ伏すやっていうねん」

内海「ほな童貞ちゃうやないかい オトンのこと全く分からんけど そんな権威だけはないねんあれ な? 水戸黄門のように正体告白したら 告白した時瞬間周りからまれるがな」

駒場「そやねんそやねん」

内海「ほな童貞ちゃうやないかい ほなもうちょっとなんかゆうてなかった?」

駒場「俺が思うに 俺は捨て子だったかもしれんへんねん…」

内海「それはいったらあかん! オマエさんは親御さんの顔が浮かぶのよ ね? お前はオトンとオカン愛情たっぷり注がれて育ってんやから、そげなこといったらあかんねん」

駒場「そうかー」

内海「浮かぶちょっとモアイ像に似てる顔だけ 童貞勘違いに決まりそんなん」

駒場「でも分かれへんねん」

内海「分からへんことない お前はオトンとオカンセックスして生まれたの元気なモアイ男の子 もぉ」

駒場「でもオトンが言うには かくゆう私も童貞でねって言うねん」

内海「ほな童貞やないかい! オトンが攻殻機動隊のゴウダのように童貞と言いはるんやから 童貞やがな」

駒場「そやねん」

内海「先ゆえよ 俺がお前の出生心配してる時どう思っててんお前」

駒場申し訳ないよだから

内海「ホンマに分からへんがなこれ どうなってんねんもう」

駒場「んでじいじが言うにはな」

内海「じいじ?」

駒場「オマエは竹からまれたって言うねん」

内海「いや絶対ちゃうやろ もうええわー」

駒場内海ありがとうございましたー」

2020-04-25

anond:20200423225909

抗体のありなしで就ける職が決まる

抗体ありのコーディネーターと抗体なしのナチュラル二項対立世界に向かうのか

なんか胸熱

種割れスーパースプレッダー的なwww

2020-04-14

COVID-19 ソリューション主義解決策にならない

COVID-19の疫病は特異な歴史的コンテクストに現れました。まず、グローバル資本主義自由民主主義の折り合いをつけるには他に解決策(ソリューション)がないと30年間も信じてきた後で、人類は自らに課した昏睡状態からしだいに目覚めつつあります。状況が改善するかもしれないが、急激に悪化するかもしれないという考えにもはや誰も驚きません。

他方で、これまでの4年間、ブレグジットトランプ大統領当選ジェレミー・コービンの登場と失脚――じきにバーニー・サンダースも同じ運命をたどることになりました――といった出来事からグローバル資本主義がかなりしぶといものだということが見えてきました。世界主義から排外主義へ、ネオリベラリズムから社会民主主義へ、イデオロギーがたんに変わるだけでは、社会的経済的な諸関係は変わりませんでした。資本主義の完全な作り直しという課題に直面して、かつてはあれほどラディカルに見えたイデオロギーが無力で陳腐ものであることが明らかになりました。

現在健康上の緊急事態をどう考えるべきでしょうか。COVID-19の引き起こし危機世界を変えて開放する可能性に希望を抱く人は、すぐに失望することになるかもしれません。私たちの期待が過剰だというのではありません。ユニバーサルベーシックインカムグリーンニューディール政策妥当だし、まさに必要ものです。ですが、私たちは現行のシステムのしぶとさを過小評価し、また同時に、思想が堅固な技術的・経済的インフラなしで世界を変える能力過大評価しています。そうしたインフラがあってはじめて思想作動させることができるのに。

ソリューション主義国家

ネオリベラリズム」のドグマ諸悪の根源とみなされることが多いですが、このドグマであらゆることの説明がつくわけではありません。知的には「ネオリベラリズム」には似ているものの、これとはまた別の悪について、10年ほど前から私は指摘しています。それは「ソリューション主義」といいます

このイデオロギーは、ポストイデオロギーであることを標榜しており、グローバル資本主義が生み出す問題矛盾解決しながらこれを動かし続けるために、いわゆる「実践的」な、個別対応策をまとめたものを勧めます。そして驚くべきことに、こうした対応策には美味しい利益がついてくるのです。

ソリューション主義もっと有害帰結は、スタートアップではなく私たち政府がもたらします。ソリューション主義国家とは、その前の時代監視国家人間的になりつつもより巧妙化したもので、二重の使命を帯びていますイノベーションを引き起こす人々(デベロッパーハッカー起業家)は御しがたい存在ですが、これらの人々がその能力既存リソースを〔現在グローバル資本主義とは異なる〕他の社会組織を作る実験に用いないよう、ソリューション国家は気をつけていなくてはなりません。AIクラウドコンピューティング恩恵を十全に受けたいのなら、資金的に余裕のあるスタートアップを作らなくてはいけないようになっているのは、偶然ではありません。逆にそれは意図的政治的努力の結果なのです。

その帰結。非商業的なしかたで社会を編成する制度を生み出す可能性があり、既存体制転覆するおそれのある試みは、頓挫する。そういったものは胚子の段階で殺されます。そういうわけで、ウィキペディアの流れをくむ団体はもう20年以上現れていません。とにかくデータが欲しい多国籍企業世界を完全にデジタル化してゆく時代に、国家自分の分け前を手に入れようと目論んでいます監視が完全に行き渡ったことに加えて、企業世界デジタル化してきたことで、諸国政府市場を利するかたちでソリューション主義的な数々の介入を進めることができるようになりました。

ナッジ (nudge)の技術ソリューション主義の完全な実践例です。ナッジのおかげで、問題の原因は変えないまま、取り組みやす作業の方に集中することができる。それは、個人の行動を不可変の現実(それいかに残酷現実であっても)に「合わせる」という作業です。

ソリューション主義者のみなさん! COVID-19はソリューション主義国家にとって、9/11テロ監視国家にとって持っていたのと同じ意味を持っていますしかし、ソリューション主義民主主義的な政治文化に対して示す脅威は、〔監視国家よりも〕陰険はいわないまでも、より微妙ものです。

COVID-19の危機にさいして中国韓国シンガポールがとった独裁主義的な戦略評価されました。3国ともに、市民が何をしてよいか、してはいけないか決めるために、アプリドローンセンサーの展開をトップダウンで決定しました。西洋民主主義的な資本主義擁護者を標榜する人たちは予想通り、すぐさまこれらの国を批判しました。

エリートの臆見をもっとも雄弁にうたう詩人たるユヴァル・ノアハラリがファイナンシャルタイムズコラムで表明した代替案は、シリコンバレープロパガンダマニュアルからそのまま出てきたようなもので、知識によって市民自律的にしよう! というものでした。

人道主義的なソリューション主義者はみんなに手を洗ってほしいと思っています。それがみんなにとって、社会にとってよいことだと知っているからです。中国政府暖房電気を切るぞと脅したように、みんなを力ずくで束縛するよりは、そのほうがよいと思っているのです。このような言説は、政治アプリ化〔アプリ市民監視し行動を制限する方向性〕にたどりつくだけです。手洗いの奨励をめざして作ったアプリがその人道的な見地によって報酬を受けたとしても、そうなるのです。

認知行動的な介入によって市民自律的にしようというハラリの呼びかけは結局のところ、キャス・サンティーンリチャード・セイラー代表されるようなナッジ擁護者が推奨するステップとたいして変わりません。こうして、過去数百年で最大の健康上の危機への政治的対応は、石鹸や手洗い槽の自販機というかたちで「実践的な」言説に還元されてしまます。これはサンティーンセイラーが〔共著の『ナッジ』で事例として紹介しているアムステルダム空港の小便器の形をめぐる思考〔小便器の底に蠅の絵を印刷するというナッジにより、男性利用者トイレの床を小便で汚す率が大幅に減るというもの〕の系統にある発想です。

ソリューション主義者の想像の中では、あらゆる中間団体制度は、歴史と同様、政治のシーンからほぼ消えてしまったので、他にできることはあまりないのです。ハラリやサンティーンのような人たちにとっては、世界本質的に、消費者としての市民企業政府で成り立っています労働組合アソシエーション社会運動、そして感情連帯で結びつけられたあらゆる共同的制度のことをこの人たちは忘れているのです。

知識による自律化」というお題目古典的リベラリズム根底にあるものですが、今日ではひとつのことを示しているだけです。もっとソリューション主義を、ということです。だから諸国政府は、去年私が「生存のための技術」(survival tech)と名付けたもの(つまりスペクタクル(見せ物)としての資本主義が、その主要な問題を緩和しつつ続くようにするデジタル技術の総称)に大金投資するものと予期しておかねばなりません。そうやってソリューション主義国家自分が「中国の道」は採らないことを標榜しつつ、自己正当性を強化することになります

ポストソリューション主義政治のために

この危機から脱するためには「ポストネオリベラリズム」の政治必要なだけでなく、とくに「ポストソリューション主義」の政治必要です。まず、スタートアップか、中央集権的な計画経済か、といった人為的二項対立はもうやめてもいいでしょう。この考え方は、私たち今日イノベーション社会的な協力を考える仕方を規定しています

新しい政治的議論の中心となる問題は、「社会民主主義ネオリベラリズムのどちらの勢力市場で競合する力を制御できるか?」ではなく、「社会的な協力と連帯の新しいかたちを追求するうえで、デジタル技術がもたらす巨大な機会をどの勢力が活かすことができるか?」でしょう。

ソリューション主義」とはだいたいのところ、「他に選択肢はない」(There is no alternative)というマーガレット・サッチャーの有名なスローガンを応用したものにすぎません。このようなロジック残酷実践できるものではないことを、左翼思想家は過去40年間にわたって明らかにしてきました。とはいえ、〔このサッチャー的なロジックが〕破綻していても、政治的権力を持つようになるうえで支障はなかったのです。結果的に、私たちの暮らす技術的な世界は、市場支配する世界秩序を逸脱するような試みはぜったいに制度化されることがないようにできています私たち議論輪郭〔つまり議論の組み立て方〕そのものが、そのような〔逸脱の〕可能性を排除してしまっています

COVID-19への技術的な対応策を考えるさいに直面する困難は、ポストソリューション主義的な政治方向性私たちにどれほど必要か示していますイタリアのような国では――私はローマで外出制限の3週間目に入るところです――提案されるソリューションは酷いほどに野心を欠いたものです。私生活公衆衛生あいだで妥協点をめぐって議論が繰り返されており、さらには、これはハラリが示した方向性に従うことですが(「反抗または生存」を参照)、「生存のための技術」を使ってスタートアップイノベーション引き起こしやすいようにしなくてはいけないという議論になっています

他の選択肢はどこに行ったのかという疑問が浮かぶのはもっともなことです。なぜ公衆衛生のために私生活犠牲にしなくてはならないのでしょうか。テクノロジー企業通信事業者が作った現在デジタルインフラが、それを提供する会社ビジネスモデルにかなった利益をもたらすようにできているからなのでしょうか。

現在デジタルインフラは、私たち個別消費者として識別し、ターゲティングを行うようにできています集団の行動についてマクロレベル匿名情報提供するようなインフラ実装する努力があまりされてきませんでした。なぜでしょうか。そのような〔匿名データ分析をする必要について検討した政治的プロジェクトがなかったからです。非商業的なしかたで社会を編成する形態の中でも、とりわけ〔社会主義的な意味での大規模な〕計画ネオリベラリズムが用いる手法ではなかったからです。社会民主主義を信奉する人たちのなかでも、そのような手法を用いるべきだと主張する人はいませんでした。

現在デジタルインフラは残念ながら個人が消費活動をするためのインフラであり、相互扶助連帯のためのインフラではありません。デジタルプラットフォームと同様、現在デジタルインフラは、アクティヴィズム、人の動員や協力といったさまざまな目的に使うことはできますが、そのような使い方は、たとえそう見えていなくても、高くつくことになります

ネオリベラリズム的でもなくソリューション主義的でもない社会秩序の基盤としては、これはじつに脆いです(さらにこうした基盤には、消費者スタートアップ起業家とは違う働きをする人が必ずいなくてはなりません)。アマゾンフェイスブック、あるいはあなたがお住まいの国の通信事業者提供するデジタル基盤のうえにこの新しい秩序を建てる誘惑にもからますが、そうしてもろくなことにならないでしょう。それは良くてソリューション主義者が跋扈する新しいフィールドになるか、悪くすれば、監視と抑圧に基づく全体主義的で押し付けがましい社会となるでしょう。

この危機事態権威主義的な体制よりも民主主義がうまく収拾できると熱く説く声が、左翼方面からさかんに聞こえてきます。このような呼びかけは無意味ものに終わる可能性があります現在民主主義民主主義的でない私的権力行使にとても依存しているので、名ばかりの民主主義になっているからです。これぞ「民主主義」と考えるものをほめたたえることで、潰れかかっているスタートアップの見えない持ち分を意図せずほめたたえたり、スタートアップほどには無害でなくソリューション主義国家構成するテクノクラートの持ち分をほめたたえたりすることになります

もしこの生ぬるい民主主義がCOVID-19を生き延びることができるのなら、私企業権力から完全に自由になるためにポストソリューション主義の道をまず選ばなくてはならないでしょう。そうしなければ権威主義的な体勢への道へまた踏み出すことになります。それは「民主主義価値」、「規制機序」、「人権」について、以前にもまして偽善的なエリート支配を許す道です。

エフゲニー・モロゾフ

Covid-19, le solutionnisme n’est pas la solution

*ナッジとは、「行動経済学行動科学分野において、人々が強制によってではなく自発的に望ましい行動を選択するよう促す仕掛けや手法を示す用語」(株式会社日立総合計画研究所

2020-02-11

現代になって年齢の割合が変わり、「女」と「男」の定義が変わった。だから軋轢が起こる。

価値観(言葉概念の)アップデートは、一見若い人たち向けのアップデート」に見えて

実際は「年寄りの為アップデート」に過ぎない。

言葉というのは、結局多数決で決まる。たとえ「ありがとう」という言葉が、「有難う、存在することが少ない、貴重、希少故に感謝する」

という原義があっても、100人のうち99人が「お前死ね」という意味で使えば、その言葉意味は完全にひっくり返る。

1970年代までは、「30代以下の男女」というのは全人口の50%を超えていた。

それまでの「男」や「女」というのはつまり、女だと肌が綺麗で、妊娠能力があり、艶やかで頬が赤らんでいて、血色のあり頬や肌に張りがあり、胸のしぼんでない女性。男は活発に動き、筋肉があり気力に満ち溢れ

金を沢山稼ぐ人を指していたわけだ。

そこでステレオタイプの「男」と「女」のポスターコピーライトを張ったとしよう。もちろん炎上しない。そのステレオタイプは、当たり前の女と男の形だからだ。

しか2005年を過ぎると、「30歳以下の男女」は30%未満になっている。2014年には27.6%

つまるところ、70%以上の男女……それも50、60代あたりが多い。2020年さらに減っているだろう。

現代において、「男」や「女」に定義されるのはつまり、女だとXXの染色体を持ち、(自分染色体意識することはないと思うので)若しくは女としての自認を持ち、ひょっとするとちょっと男っぽくなってるかもしれない。肌は皺があっても、妊娠能力があっても、血行が悪くても、胸がしぼんでいても女性という定義になる。そう『大多数が』思っている。

男だと、活発に動けなくても、筋肉が無く無気力でも、金を稼がなくても、働いていなくても、とりあえずXY染色体を持っていて、男としての自認があればよいと感じる。

そこに、「若い男のステレオタイプ」「若い女のステレオタイプ」を張ったとしよう。「筋肉があって元気が無くちゃ男じゃない」とか「肌が綺麗じゃないと女じゃない」とか。

大炎上するだろう。それは「若い人たち価値観」であって、「老人たちの価値観」ではないからだ。

刺激されるのは購買意欲でも、消費欲でもなく、嫉妬や妬み・怒り。

その感情は、「実際の私たち定義」によって正当化される。これこそ「ポリティカルコレクトネス」の正体ではないか

一見ポリティカルコレクトネスは「これからを担う子供たちへの優しい弱者の為の価値観」を担っているように見えるし、ともすれば「実情に見合っていない、ただの綺麗ごと」そうみなされている。

ニートが居てもいい、女っぽくなくても、男っぽくなくても、金をかさが無くても、無気力でも、不幸に片足突っ込んでぬるま湯で生きようとも

それはその人の人生で、素晴らしいモノなのだと。

でも実際は違う。つまるところ「これからにゆ強者たちによる自己肯定価値観」で、「実情に見合っている、ただの醜い現実なのだ

ふざけるな、と思う。言葉概念は、それをこれから使っていく人たちの為にあるはずなのに、ただ消費して貪っていく人たちの為に使われている。

まぁここで二項対立を作っても意味がないとは思う。憎しみを煽っても、怒りを煽っても、圧倒的に少数派である個人」は勝てない。

結局自分たちにできる事は、自分たちの生き方も正しさも、言葉定義も、自分で、自分の為に主体に決めていく事だ。

ポリコレという言い訳は優しく肩を叩くが、未来に連れて行ってはくれない。

行き過ぎた本物の個人主義が何をもたらすかはわからないけど、生きる道はそこにしかないんじゃないかと思う。

二項対立、しちゃうよね

ウヨvsサヨの罵り合いとかさ。

こういう二項対立な分かりやすすぎるラベリング蔓延して、その結果カオスになるのって、皮肉だよね。

男vs女とか、日本vs海外とか、年寄りvs若者とかも全部そう。

なんでそんなラベル貼って罵りあってんのよ?って思うっしょ皆。

もっとグラデーションになっていて、

もっと他の要素(軸)も絡まっていて。

レーダーチャートというかさ、ベクトルのように表現される筈でしょ。

かに便宜上、二項のように言うことあるよ?

でもそういう言い回しが使われ出すと、蔓延ちゃうんだよね。

いつしか多くの人が(誰もが?)、二項しかないように思い込んで。

社会全体で、そういう共通認識を育み始めるんだよね。

数字ってさ、6-7桁までしか一度に記憶できない、って言うじゃん?

概念の分類ってさ、一軸・二値でしか捉えられないんだろうね。

個人限界がその水準だとは思わないのよ。

多くの人にとって「よく考えれば」グラデーションになってる。複数軸ある。

でも、共通認識として社会が保持できる容量は、二項ラベルしかないんだろうね。

いざ議論の場において、レジスタに乗らない、って感じかな。

で、そういう社会の言説からフィードバックを受けて、自分構成ちゃうんだよね。

ウヨとサヨ、2つあるらしい。俺はウヨだ(あいつはサヨだ)。」みたいな。

から冒頭に戻って、わかり易すぎてそうなったものが、カオスな論争を生むんだね。皮肉だね。

上から目線でディスってるというより、世の欠陥というか、人の世の限界なんだろうなと。

2020-01-04

バカおしゃべりクソ野郎ちょっとした教養

僕はゲットーみたいな地域に生まれて、もちろん貧乏生活してたのでドラマに出てくる幸せ家族を見てると、これは物語に出てくるかなり作られた別のものだとずーっと思ってたし、幼稚園の集合写真は1人だけ汚い服を着て写ってるのを見るとまーまー切ない気持ちになるけど、昔の事をどうこう言っても仕方が無いので話のネタになるなーぐらいの気持ちでいる。

こんな家に生まれたのでまともな教育は受けた事がなかったし、高校は行ってたけどバカ学校最近少子化の影響で廃校になるような学校だし、肉体労働している父親背中を見てたので学校勉強大学行く意味がわからずに高校卒業して働き始めた。本当に会社で働くまでサラリーマンと呼ばれる人はどうやって金もらってるのか本当に理解出来てなかった。もちろん親に何も恨みはない。この文章漢字とか句読点かいろいろ間違ってたら無学のおかげなので重箱の隅を突かないでほしい。

からお金の掛からない遊びの一つというか悪癖で普段から雑談(ゴシップは嫌い)が止められない。友達にもおしゃべりはお金を使わない娯楽って話してるぐらいに人と話すのが苦痛ではない。とにかくおしゃべりしてる。マンション掃除のおばさんと世間話し、同じマンションに住んでる大家さんの愚痴結構聞かされその結果、自分の部屋の騒音もなぜか他の部屋がうるさい事になってた。会社掃除のおじさんにも話しちゃうし、警備員さんとも冗談言ったりするし、同じフロアの他の部署人にも話し掛けるので時々びっくりされるし、ついでに言うと今の職場は人とコミュニケーションが取れる人って条件で入社できた。

人と話すといろんな事を教えてくれる。先日も美術館で茶碗見てた時も、元々の品の無さから出てくるボキャブラリーで「やべぇ、カッコイイ」って言ってたら知らないおばさんがいちいち話してくるのでマウンティングかな?と思ったけど茶碗はなんで高いか聞いたら、古いから高いのも重要だけど、誰が持ってたか重要な要素だって教えてれた。ババアいいやつじゃんって思った。

普段物語よりもドキュメンタリーが好きなのと何か関連性というか好奇心が強いか誰も知らない事を知りたい。何でもいい。この間美容師さんが女性の前髪の切り方の話をしてくれて面白かったし、濁すけど悪い仕事してる人に警察が取り調べするときあるあるとか、先日も中古車販売してる社長ロシア中古車売るのは危険みたいな話とか、若いラッパー最近のかっこいい曲を教えてくれたし、友達会社は一部上場企業なのに殴る蹴るのブラックだとか、原発作ってたおじさんが昔は工期が長いので完成までの時間に新しい技術工事を何度もやり直すとかいろいろ教えてくれる。正直何でもいい。許されるならヤバい何かの取引現場とか見てみたい。

お金は無いけど時々金を貯めて海外に住んでた。アメリカで住んでたマンスリーアパートレビューサイト酷評されて、この地域で唯一のゲットーって悪口書かれるような所に数ヶ月居た時も、もちろん英語中学生未満で隣の怖そうな黒人ヒスパニックの2人の部屋に何度かお呼ばれして怖かったけど、なぜかおもてなししてくれたし、中学生未満英語なのにUber運転手には普段日本人シャイだけど、お前はよく喋るので面白いって褒めてもらえたし、Uber繋がりだとメキシコ運転手にもなぜかインスタグラムアカウントフォローされた。メキシコの風俗街は怖かったけど、近寄ってきたポン引きにお使い頼んだのを思い出したけど、未だにメキシコは何語かよくわかってない。一緒にアメリカ行ってた友達は、いつも僕は英語が全く話せないのに買い物行って欲しいもの買ってきて、店員冗談言ってるの面白いって笑ってた。そんな感じなので行きつけのドレッドヘアーの見た目が怖い黒人店員は、店のそばを通る時に目が合うといつも手を振ってくれて、最終日に「お前が居なくなると寂しい」とか言ってた。

最近、いろんな友達からコミュ力が異常だって言われた。謙遜とかそういう話じゃなくて本当に大したことない。好きで喋ってるだけだし、何も損得がなくてその場だけの娯楽程度だ。もちろん不愉快って思う人もたくさんいるだろうぐらいには認識してるし、僕の事を良く思ってない人が居るのも知ってるしモテない。僕のオナニー程度のおしゃべりに付き合わせてるだけで逆に申し訳ないぐらいの気持ちだ。

でも、海外は別として日本自分がそう言われるのは説明できる。

今は勤め人だけど、ちょっと前までフリーランスとして働いてたので、時間自由にあったから部屋で本を読んだり、テレビ観たり、ネットしたりしてた。余談だけど、友達貧乏で家に辞書しか無かったのでそれを読んでたら、友達漢字とか言葉に詳しくなってた。僕は昔働いてた会社の雇われ社長が本を読めって言ってたので実践した。バカから人の話ちゃんと聞いた方が絶対に良いと思ってるし、経験則だけど人の話を聞かない凡人以下は大抵破滅してる。前に読んだ本にフランス問題文化資本格差が書いてあって、貧乏の子供の自分金融資本もなければ、文化資本も無いのは人生なすぎる。

その結果友達には、

「僕の知ってる中で一番品がないけど、教養が一番ある。」

って言われた。褒められるためにやってないけど、無学の僕が褒められるとか少し嬉しかった。

前に韓国行ったとき民泊現代アートやってるおばさんにも、普段パーカーのフードを被る様なファッションなので、見た目はギャングみたいだけど話してて飽きないって言われたし、この間乗ったタクシー運転手目的地に着いたのにメーター倒しまから話を最後まで聞かせて欲しいって訳の分からない事を言い出した。

何が言いたいかと言うと、人間遺伝的に性格(性質)がある程度決まってるって話を読んだので、コミュ力が無い人はダメだなんて二項対立をしたいわけじゃなくて向き不向きだけの問題っていうか個性の違いだ。偏差値32のバカでも時間があれば本読んでるだけで人様から教養あるって褒められるし、会話すると間違いを正してくれたり、何か新しく気が付くきっかけを与えてくれる神も現れるので、コストゼロ毎日ちょっとずつ賢くなる気がする。高校生の時に底辺高校からお前はバカから学校来なくて良いって言われたけど。嫌味言われそうだから先にキャップしとくと、金は無いけど時間がたくさんあるおかげでバカでも知識付いて良かったって話をしたいだけだ。周りの友達の方が全然すごいし尊敬してる。

問題はいつもニコニコし過ぎて、子供が書くお父さんの似顔絵のようにほうれい線が同世代と比べて圧倒的に深くなってしまった事だ。

2019-11-04

anond:20191104142158

Cornellの議論は、ポルノグラフィ危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィ男性レイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプ輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティ世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつ表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別同義語なのである彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィ性差別のものであるという一種イデオロギー依存した議論に対する批判のものである

もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉制限的に定義することによって、そうした一般的議論ではなく、特に女性に対して酷薄もののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象問題は不可避であり、言語行為限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制根拠果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり日本におけるポルノグラフィ製作必然的にそうした女性虐待表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィ表象必然的に(fuckerとしての)男性レイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。

また、Cornellの依拠するポストモダンフェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズム根底目的に対して、一定文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまりポルノグラフィ規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである

そもそもポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定勢力として存在していた。これらは全く女性使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィ概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性性的欲望セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたこから解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタ二項対立接続否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリーム男性製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリーム男性向けであって、女性けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィ必然的に男女を社会的構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。

4. 結び

前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダンフェミニズム見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理ポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。

日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定表現について規制肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィ規制道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノフェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニスト議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。

こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴであるさらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段妥当であるかが問われるべきではないだろうか。

一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制対象となるのではなく、むしろつの職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的正業である認知されることは、その「職場」におけるハラスメント虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーンハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。

以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。

参考文献

キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィ性差別」(青木書店, 2002)

・ドゥルシラ・コーネル仲正昌樹監訳「イマジナリー領域」(御茶の水書房, 2006)

大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)

キャサリン・マッキノン森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)

スーザン・J・ヘックマン著 金井淑子ら訳 ジェンダーと知 : ポストモダンフェミニズムの要素(大村書店,1995)

2019-10-30

anond:20191030184156

楽なんだよね、相手の言う言葉と反対を言えばいいわけだし。

脱構築が叫ばれて久しいわけだけど、近代において物語を生むのは二項対立、そして打破なんだよ。

夏目漱石こころも男同士の友情という一種自分他人二項対立が、一つの女性を追う事によってその壁が打破され

物語が生まれるし

ハリポタマグル人間対立物語のかなめで、最終的に協力するよね。

対立しなきゃ物語は始まらない。反対に言えば、物語を生むために安易対立するともいえるけど。

でも単なる同意ってつまらないじゃないか。その先にあるのは安定と退廃で、未来はない。

俺も何でも対立してくる人間は嫌いだが、ようはバランス大事だよね。

2019-10-25

フェミニストミュンヒハウゼン症候群一種に分類するべき

https://ja.wikipedia.org/wiki/ミュンヒハウゼン症候群

患者病気創作もしくは既に罹患している病気をことさら重症であるように誇張し、通院や入院を繰り返す。一つの病気問題解決したり、虚偽が見破られたり、小康状態に陥ると新たな病気を作り出す。重篤患者と見せかけるために自傷行為検査検体のすり替え偽装工作などを繰り返し行うことがある。

患者怪我病気という口実を利用して周囲の人間関係操作することを目的にして、同情をかったり、懸命に病気と闘っている姿をことさらアピールする。また、病気のものに関わる関わらないに関係なく独特の世界を作り上げるエピソード創作する虚言癖を伴うことが多い。患者エピソードによる病歴は多彩であり、多種多様な既往歴を話すことが多い。ただしそのエピソードや時期に関しては曖昧なことが多く、時期や内容も話す相手によって異なることが多い。

 ミュンヒハウゼン症候群詐病重症版なので、厳密にいうと違う。しかし、現代において「病気」というのはADHDASDのように弱者属性の一つとして認識されており、そこにフェミニズムを代入することは可能である

留意してほしいのは、ミュンヒハウゼン症候群は実際に病気を持っていた場合でも、そこに誇張や嘘が含まれていると診断される場合があることである

患者=フェミニスト被害者 病=女性差別 

代入してみる。

フェミニスト女性差別創作もしくは既に罹患している女性差別をことさら重症であるように誇張し、通院や入院を繰り返す。一つの女性差別問題解決したり、虚偽が見破られたり、小康状態に陥ると新たな女性差別を作り出す。重篤被害者と見せかけるために自傷行為検査検体のすり替え偽装工作などを繰り返し行うことがある。

フェミニスト怪我病気という口実を利用して周囲の人間関係操作することを目的にして、同情をかったり、懸命に女性差別と闘っている姿をことさらアピールする。また、女性差別のものに関わる関わらないに関係なく独特の世界を作り上げるエピソード創作する虚言癖を伴うことが多い。フェミニストエピソードによる女性差別は多彩であり、多種多様な既往歴を話すことが多い。ただしそのエピソードや時期に関しては曖昧なことが多く、時期や内容も話す相手によって異なることが多い。

こうすることで、具体的なエピソードが思い浮かぶだろう。代表的なのは、「子宮検索事件である

そのフェミニストはある日、「子宮検索するとエロ画像ばかり出てくる」とツイートした=誇張。そして仲間内から同情をもらうよう求めた。

しかしその虚偽が見破られ、「子宮 エロ」でセーフサーチを外さないといけない事、つまり虚偽が発覚した=偽装工作

しかし発覚後は開き直り、それは当たり前だろと言う=内容も話す相手によって異なることが多い

そしてまた新しく次々と差別ネタ投稿している。

「実際に女性被害に遭ってる」という反論をする人も居るかもしれない。

しかに、セクハラ被害、性被害を受ける人は実際に居るが、それは男女共にそうであり女性だけに限定されるものではないし、両方社会の協力の元解決される問題だ。

仮に二項対立で比べるのならば、現状男性女性を比べると、女性の方が男性より幸福であり、一方責任その他の多くが男性押し付けられていて、

フェミニスト一方的被害者意識というのは統計的には実証されていない。現状労働環境が整ってないと言われているのに、その労働に多くの男性従事していることを社会進出していると呼ばれていても、

現状は地雷原を裸で歩かされているにすぎないのである女性被害に遭っている事は、フェミニストの正しさを実証するものにはならない。

フェミニスト発言の多くが攻撃的で、合理的で無く、論理的担保を持っていない。現状に即してないものである

そればかりか、上記のような虚言、ダブルスタンダードが多くみられ、反応も病的である

フェミニスト思考病気であることを認識し、まずはその合理性論理性、統計的な正しさを検証対処していく事が大切であり、

フェミニスト自身自身の過ちに気づき精神科受診し適切なカウンセリングを受けるべきだと考える。

anond:20191025125143

そのくだらない二項対立にあてはめないと何も理解できない頭の病気は治らないの?

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