「スーザ」を含む日記 RSS

はてなキーワード: スーザとは

2020-01-19

anond:20200119084928

good評価中古ハードカバー買ったらまあまあ綺麗、日本で「可」程度だったけど

本の裏側、ミカエシ?の部分をめくると

愛するメアリーへおめでとうジョンとスーザンとか書かれてた

重い!重いよ!

そんなもん人に売ったりするなよ。自分処分するか消せよ……って思った

図書館の本だったっぽいのも交じってた気がする

2019-12-12

anond:20191212131854

小説は全部スーザンキャルビン博士の回顧の形式で進んでくんだよ。

なんかの話と混ざってない?

ああ1話目の幼いキャルビン博士と子守ロボット出会いはそういう風に終わるけど。

仲のよかった子守ロボットが売られちゃって、探しにいった幼い頃のキャルビン博士工場で危ない目にあって、彼女のことを覚えてたロボット彼女を救う。

そんでキャルビン博士ロボット心理学者になったの。

そこから彼女が生涯にわたってロボットたちの心理研究し続けて、あっごめん、めっちゃネタバレじゃん。

2019-11-04

anond:20191104142158

Cornellの議論は、ポルノグラフィ危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィ男性レイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプ輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティ世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつ表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別同義語なのである彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィ性差別のものであるという一種イデオロギー依存した議論に対する批判のものである

もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉制限的に定義することによって、そうした一般的議論ではなく、特に女性に対して酷薄もののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象問題は不可避であり、言語行為限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制根拠果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり日本におけるポルノグラフィ製作必然的にそうした女性虐待表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィ表象必然的に(fuckerとしての)男性レイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。

また、Cornellの依拠するポストモダンフェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズム根底目的に対して、一定文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまりポルノグラフィ規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである

そもそもポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定勢力として存在していた。これらは全く女性使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィ概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性性的欲望セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたこから解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタ二項対立接続否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリーム男性製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリーム男性向けであって、女性けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィ必然的に男女を社会的構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。

4. 結び

前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダンフェミニズム見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理ポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。

日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定表現について規制肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィ規制道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノフェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニスト議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。

こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴであるさらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段妥当であるかが問われるべきではないだろうか。

一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制対象となるのではなく、むしろつの職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的正業である認知されることは、その「職場」におけるハラスメント虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーンハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。

以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。

参考文献

キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィ性差別」(青木書店, 2002)

・ドゥルシラ・コーネル仲正昌樹監訳「イマジナリー領域」(御茶の水書房, 2006)

大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)

キャサリン・マッキノン森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)

スーザン・J・ヘックマン著 金井淑子ら訳 ジェンダーと知 : ポストモダンフェミニズムの要素(大村書店,1995)

2019-08-11

スーザンネイピアさん人気だな

最近アニメ記事スーザンネイピアさん出すぎだろw

大変だな。

2019-07-19

高校野球吹奏楽

私はずっと吹奏楽をやっている

夏になると吹奏楽OBなので現役が自分大会に集中出来るように、自分達の大会が近くなればホールに合わせて音作りをしている金管の子達の唇が壊れないように土日だけでも手を貸してくれないか?と声が掛かる。

現在の子達も今私が所属している市民楽団と母校の常任指揮が一緒だから交流があるし、とても可愛い後輩達だから協力したいが、現役時代のことを思いだし腹が立ち応援を手伝ったことはない

なんで吹奏楽部はこんなにも野球部の為に力を割かなければいけないのか?野球はそんな偉いのか?そんな気持ちを現役時代を思いだしながらツラツラと書く。

私達の部は全国常連ではないが、年によっては全国に行くし、アンサンブルでもソロでも毎回そこそこまで行くので県外から吹奏楽部に入るために受験をする子達が居たし今もそうである

部員皆、自分大会メンバーになれるように努力しているが編成の関係上全員が大会に出れるわけではないので、基本的には大会メンバーから漏れメンバー野球応援をして居るが野球部保護者会の人達に人数が少ないと文句を言われていた。

私達だって自分達の大会練習の合間を縫って応援しに来ている。

なんで朝の5時とかに集合して野球大会会場に向かってろくに音出しが出来ない中で何よりも音量だと言われながら朝イチから自分では納得できない汚い音で楽器を吹かなければいけないのか?

太陽が出れば金管はどんどん熱を持ちピッチが合わなくなるし、持っているのも辛い位楽器が熱くなることもあった。

クラリネットは外に出したくないからとプラ菅で吹いていたらいつもと違う楽器でしょと保護者会の人達に言われ、禁止され、天気が良ければ日射し、多少雨が降っていれば雨に大切な楽器を傷付けられて泣いていた。

かに送迎はしてもらっていたが、頼んできているんだから足を用意するのは当たり前だと思うし、応援しに行っても飲み物一本ですまされて、思い返しても納得できないことばかりだった。

文句を言うなら吹奏楽部に頼まず野球部で人も楽器を揃えて欲しい。

プラ禁止と言ったクラリネット、キチンとしたものは安くて30万~上を見たら切りがないし、メンテナンスだって必要ものなんですよ?

もっと音だしてとトランペットの子に言ってたけど反響なんかないスタンド必殺仕事人ソロでそれ以上音出せって?充分響いてますよ!!納得できないならアンプマイク持ってきて!

ホルンの子は熱持った楽器のせいで手が低温火傷みたいになってるんですよ?知ってますか?

時間応援の為に座っているチューバスーザに立てって強要しないでくれませんか?その楽器見た目通り大きいんです、重さもあるんですよ。

先輩達や私達の大会の結果や、2000超えのキャパで1日複数公演を有料でも埋められて、それを十何年も継続出来るだけの実力がある部活から新しい楽器購入の時学校からの部費や毎月徴収していたお金で賄い切れない部分を支払いしてくれる企業スポンサーも居た。その事を考えるとよっぽど野球部より期待されてるのに?なんで?ってなる

野球部やその保護者達は無償で引き受けていることに感謝をして欲しい。

吹奏楽部は吹奏楽部の本来部活努力している中で、頼まれたから引き受けている。

考え方のやり方に納得できないならなんで頼むの?自分達で楽器の準備も演奏して欲しい

野球部の為の吹奏楽部ではない

吹奏楽部は吹奏楽部として一人一人が夢や目標を持って吹奏楽部に入部している。

ほとんどが全国金賞っていう夢だ。

野球部と同じように大会で次に繋がるようにその時の全力を出す。

より全力の力を引き出すために毎日基礎連やパート連、大会が近いなら合奏をしたり、合宿をしたりやっていることは何一つ変わらない。

それを知って欲しい。遊んでいるわけじゃない、真剣に、全力で楽器演奏している。

泣くなら悔し涙じゃなく喜びの涙を流したい

文化部と言われているけど、部内でオーディションして大会に出れるか出れないかまったり、金賞でもダメ金なら次への道がなくなったり、

本当に何一つ変わらないと思う。

私達の努力は私達の為の努力で他の部活の為の努力ではないのになんで野球部吹奏楽部は吹奏楽部が浪費させられるのがまかり通るのか…

楽器演奏が華やだから欲しいって理由ならば、野球部内の有志や野球応援をしたいって人を募って応援団を作ればいいのにそれをしない理由は?なんで?

何一つまとまらないけども、そろそろ終わりにします。

2019-07-10

anond:20190710140951

スーザンボイル、美人友達が例のオーディション動画見せてきて、凄く複雑な気持ちになった。

君のような綺麗な子は見た目で悪く判断されるようなこと一生ないんだろうね…って。だからこういう動画に対しても、純粋気持ちで感動できるんだねって。持ってる人って真っ直ぐで羨ましいわ。

2019-05-24

ヴィーガニズムアニマルライツへの違和感メモ

「スー・ドナルドソンらは、先住民族土地ヨーロッパ人植民地支配したのは不正であるという例を引き合いに出し、野生動物は領内で社会を作る利益を持ち、侵略者から彼らを保護するために主権を認めるのは有効であると指摘している。」

人間権利動物に拡大するというより、先住民族権利野生動物と同格に置いたという感じ方をしてしまうのだが俺だけ??

救命ボート問題

もし救命ボート転覆して人間赤ん坊と犬のどちらか一方しか助けられないとしたらどうするかと聞かれて、PETA動物倫理的扱いを求める人々の会)のアウトリーチ・コーディネーター、スーザン・リッチは「はっきりとは分からない…赤ん坊を助けるかもしれないし犬の方を助けるかもしれない」と答えた。動物権利哲学者のトム・レーガンは、たとえ犠牲になる犬の数が何匹であろうが、赤ん坊の方を助けるべきだと述べた。これはカント以来の伝統的な義務論の延長上に権利論を展開した、レーガン立場を示すものと言える。」

差別を全く行わない立場なら、犬を助け赤子を見捨てるのは倫理的問題ないはずでは?

人間を常に救うのであれば、種差別を行っていることになるのでは?

人間だけを特別視する宗教的な考えを拒否すれば、重度脳障害または重度知的障害を持った人間を、同等の精神知的レベル動物峻別することが困難になる、とシンガーは表明する」

まり知的障害者は同程度の知能の動物と同格に扱ってよいことになる。

別のところでシンガーは、痛覚を感じない障害もつ人間は、痛みを感じる実験動物より実験対象として適格であるような意味のことを述べている。

こういった考え方は差別的ではないのか?

anond:20190522224201

2018-12-30

anond:20181230205202

日本でもうまい人はうまいけど売れないからなぁ

海外でもそれは同じで、奇跡的に顔が良くて上手い人が売れてるやん

スーザンボイルだっけ?あれ典型的やけど、ドラマが荒れば一瞬売れるけど、その後どうなった?

そういうもんやと思うで

2018-12-14

[]パワーカップル

1980年代アメリカで使われはじめた言葉で、「恋愛ドラマの主役のような誰もが憧れる素晴らしいカップル」を指す。

英語では「スーパーカップル」とも呼ばれ、典型的には「セレブ同士の結婚」や「有名芸能人同士の結婚」がそうみなされることが多い。

スーパーカップルに比べるとパワーカップルのほうがやや社会的地位評価されているかもしれない。

以下は2012年芸能ニュース

スーザンさんは夫ロバート映画プロデュースを4本以上手がけており、2人はビジネスでのパートナーシップと、プライベートライフを見事に両立している、数少ないハリウッドパワーカップルだと言える。

http://japan.techinsight.jp/2012/02/07braune_robert_downey_jr_baby_bo.html

3人の養子と3人の実子を育ててきたハリウッドきっての“パワーカップル”と言われてきたブラッド・ピット(48)とアンジェリーナ・ジョリー(36)が、ついに婚約したことを今月14日に発表した。

https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20120424/enn1204240720002-n1.htm

それが日本では、2013年新書夫婦格差社会』によって、「高学歴・高所得共働き夫婦」を指す言葉として広まる。

「昔は夫が働けば妻は専業主婦となったが、今は夫が高収入でも妻は仕事をやめないので収入ますます増え、ウィークカップルとの貧富の差が広がっている」という趣旨で、

この時点では年収などに明確な基準はないし、「勝ち組カップルが羨ましい」というような論調でもない。

高収入共働きカップル」という定義が先にあり、その後、各自がそれぞれに「自分が思う高収入とはこのあたり」と基準を示していったわけだ。

たとえば2015年野村総研『なぜ、日本人の金融行動がこれから大きく変わるのか?』では、

20~50代の共働き夫婦で合計年収1千万円以上の「パワーカップル

2017年のニッセイ基礎研究所定義では、

夫婦ともに年収700万円超の世帯を「パワーカップル」(全体の0.5%)

2018年の三菱総合研究所定義では、

パワーカップル」は共働きで、夫の年収が600万円以上、妻が400万円以上で世帯年収が1千万円以上の夫婦を指す。(全世帯に占める割合は1%程度)

といった塩梅なので、必ずしも「徐々に基準が下がっている」というわけではないし、

年収1000万以上の共働きカップルでも1%しかいないのだから、いずれにせよ超マイノリティには違いない。

2018-10-18

毒親だと思っていた

これから書くことは、たとえ増田だって書く気はなかった。なぜなら、今毒親に苦しむ人を殴る文章からだ。

だけど、ビ・ハイアの件を知って考えが変わった。

毒親だと思っていた、この一言に尽きる話をこれから書きたい。

私の母は子供を殴る母だった。本人は躾だと言っていたが、例えば弟がした悪さなども姉である私が監督していなかったのが悪いという理由で殴られた。

から子供の頃の私は母が背後を通るだけで殴られるかもしれないと思って肩をすくめる生活をしていた。私の背丈が母に追いつく頃になると殴られなくなり、以前殴られたことを訴えると母の記憶からそれは消えていた。

私は殴らない父が大好きだったが、殴る母を止めなかった時点で同罪なのだと気付いた時、父もまた嫌いになった。

私は両親の悪口を口はばからない10代に育った。両親は私の口から周りの人へ伝えられる悪口に何度苦虫を噛み潰したことだろう。だが、私は両親が大嫌いだったのだ。悪口を言うことを何も悪いことだとは思っていなかった。

また、両親、特に母とは何度も怒鳴り合いの喧嘩をした。特に私の進学についての喧嘩は深刻だった。両親は女の私に勉強をして欲しくはなく、高校進学でも大学進学でもぶつかった。その度に私は両親を納得させるだけの材料を(嘘でも)用意した。高校進学の時は、大学には行かないから好きな高校に行かせてくれ、と。大学進学の時は、入学金だけ用意しえてもらえれば後の学費生活費は自分でなんとかする、と。

そして私は大学進学を機に家を出た。

自分も怒鳴らず、母の怒鳴り声を聞くこともない生活は初めてで、アルバイトと授業で忙しかったが、非常に穏やかな生活だった。最初の頃は。

スーザン・フォワードの「毒になる親」という本に出会ったのは多分この頃だったと思う。涙を流しながら読んだ。非常に得心のいくことばかり書かれていたと思うが、その内容は今となっては正直あまり思い出せない。

私の穏やかな大学生活はあまり長くは続かなかった。精神調子を崩し、授業に出るのが困難になった。生活がかかっているのでアルバイトだけはなんとか続けていたが、それすら休みがちになってしまった。

精神科にかかり、主治医はこの現状を両親に連絡するべきだと主張した。

私はそれを拒んだ。両親に、やっぱりお前には無理だったと言われるのが嫌だった。しかし、現状は困窮していき両親に病気のことを明かすことにした。

連絡は父にしたが、私は冷たい一言覚悟していた。だが、父はゆっくり直していけばよい、と予想外の返事をしてくれた。

そして私は投薬治療を受けながら、両親から金銭的援助も受けて6年かけて大学卒業した。

だが、大学をなんとか卒業できても就職はできなかった。私はその頃一人で生きて行く気力もすっかり失っており、卒業後は実家に戻り両親の元に身を寄せることにした。

あんなに嫌いで飛び出した家にまた戻ることがとても皮肉に感じられた。

そう、私はここまで両親に支えられててもまだ両親のことを受け入れることができていなかった。

しろ両親のせいで精神病になり自分の送りたかった人生から程遠い人生になってしまったと嘆いていた。

それから7年ほど、引きこもり、良くなったと思って働いては調子をまた崩して引きこもることを繰り返し、最終的に自殺未遂までして入院もした。

その長い間、両親とは時々ぶつかりつつも私は親に甘えて実家暮らした。何度仕事で失敗しても、帰る家があった。でも、親に対する感謝気持ち暮らしていたのではなく、この家にいるから私は治らないと思って暮らしていた。

そんなある日ネット何だか奇跡を起こしてくれて、私のここまでのどうしようもない身の上を承知の上で結婚してくれる相手を見つけることができた。そして私はまた家を出た。

それから一気にとは行かないが、パートナーの支えもあり上り調子回復し、今では幸せ生活を送っている。

そんな環境になって思うことは、私の両親は私が思い込んでいたほどの毒親ではなかったということだ。自分が辛かった時はあまり気づいていなかったが、肝心なところでちゃんと支えてくれていたのは両親だった。私が結婚して家を出ると言った時も心配こそしたもの最後には快く送り出してくれた。

正直な話、これをもって私の両親はちゃんとした親だったとまとめるつもりはない。子供を殴り、事あるごとに自尊心を削ってくる親であったことは事実だった。

しかし、私の人生の全てを邪魔するほどの親ではなかったこともまた事実だ。

少なくとも、私は私の両親をもう毒親だとは呼べない。

この感情を何と呼べばいいのかわからない。許しでもなく納得でもなく受容でもなく、でもその間にある何かだ。あえて名付けるなら、解毒かも知れない。

私の辛さは無かったことにはならない。でも、それを恨む心は消えた。

もちろん最初から何も辛いことがなかった方がずっといい。けれども、私は両親を毒親なのだと思うことによって余計な寄り道をしたような気がしてならない。

2018-05-13

つらみ

将来への不安死ぬ事への恐怖、結婚できるかどうかとか、そういったものだけを普通の人は「つらいきもち」として認識しているらしいことにここ数年やっと理解が至った。自分場合はそれとはまた別の正体不明の「つらいきもち」も存在していて、これも含めて一般的な「つらいきもち」だと認識していた。みんなもそうなのかなぁと思っていたけど、違ったっぽい。これじゃ普通の人とは微妙に話が噛み合わない上に誤解されるわけだなぁと。

自分自分で、なんでそんな斜め下の解釈するんだと腹が立つ事がよくあったけど、その「斜め下」の解釈がむしろ一般的であって、自分が運悪く例外的経験をしてきた事で認識が違ってしまっていたらしい。

そしてこれまでは、自分のこの「つらい」の正体を正確に把握できた事がなかった。何故かと言うと、気持ちの原因を思い出すことが精神的に非常に苦痛だったため。

原因というのは家庭環境、養育環境のことで、学生時代にもこれについての問題意識はあった。

ふとした切っ掛けでスーザン・フォワードの「毒になる親」と出会って実際に読もうとしたけど、冒頭の数ページ読むだけで精神的に不安定になってしまい、結局その時はそのまま先には進めなかった。大学卒業後も同じことを4年くらい繰り返していた。

でも一人暮らしを始めて2年経ち、転職をしてという直後から半年間立て続けに起きた出来事対処する一環としての取り組みの結果、最近では「つらい」の比較ちゃんとした輪郭と、具体的な内容と原因が把握できつつある。「毒になる親」も最後まで目を通すことが出来たし、関連する他の書籍にも手を出せている。


自分の「つらいきもち」の正体は自分歴史的経緯から来るものだという事が確信できた。ただ、その歴史的経緯自分に対して現在無意識適用しているのは自分自身だという事も段々分かってきた。

一言で表すなら「毒親の影響」ということになるけど、もう少しちゃん表現するなら次みたいになる。(まだちょっと分析甘い)

認識できている範囲の話だけど、これらが自分の「つらい」のキモのように思っている。

毒親」ってワードを使うとすぐケチ付けてくる人間いるから面倒だし、言葉暴力的ストレートから別の表現必要だと思わなくもないけど、それでもこの単語は凄く的確な表現だと思う。

幼い頃から刷り込み自己否定などの「毒」を植え付けて、親と同じ空間におらず暴言を吐かれていない瞬間でも、自主的自己否定を繰り返すよう教育することで、大人になったり独り立ちした頃には苦しみのたうち回り…みたいな。のたうち回るような元気が残ってる人がどれだけいるのかって話だけど。

虐待によるトラウマを除くと、毒親による影響で特に大きなものは親を自分に内在化してしまうことだと思う。これにより何が起こるかというと、自己否定デフォルトとしてしまうことが挙げられる。

この自己否定ポジション的には超自我かにあたるもので、本来なら自己否定なんかじゃなくて規範としてどちらかと言うとポジティブな物として機能しなくちゃいけないんだけど、親が精神的に未成熟だったり自分人生課題に対して答えを出せていないとかで不安定な場合は、「毒」を規範として植え付けられる結果になってしまうのかなと。

それがどのようにして植え付けられるのか、憶測込みだけど文字に起こしてみると案外悲しい感じになった。

思考するだけだとそんなでもなかったけど、文字に表してみるとやっぱりこう、悲しいというか、しょうもないというか、酷くがっかりする。

休日に少しでも長く寝てたり、病欠したり、平日に休暇を取ったりすると

とか頻繁に怒鳴られてたけど、あれは完全に自己紹介だったなと思う。当時はそう思う余裕は無かったなとも改めて気が付いた。

うちの場合問題の中心は父親だったんだけど一方の母親は何をしていたかというと、俺をかばうどころか、フォローするどころか、傍観をするどころか、「あの人がおかしな事をするのはお前のせいだ」と罵ってくるタイプ人間だったので、自分の両親は味方ではないという認識だった。問題のある人間問題のある人間とくっつくんだな、という気持ち

兄弟は妹がいるけど、妹は味方というよりは共通の敵を持つ他勢力みたいな認識だったな…。

去年会って話をした時には、当時俺に対して「哀れだな…」と思っていたらしい。それは俺を庇って同様の被害を被るよりずっと利口だと思うし、去年妹と会話をして結果的問題改善が進んだし、妹が逞しく成長してくれていてむしろとても助かったと思ってる。「こっちに来るんじゃねえぞ、そのままいけ…!」みたいな。ありがとう

少し前まで、どんな些細なことであっても何か考える度に最終的に「死にたい…」という結論に結びついていた。

去年あたりから自分の親は毒親だった」と認識でき始めて、更にここ1,2ヶ月は「毒親」と濁すんじゃなくて、自分経験させられた事を「親から虐待だった」と自分に対して説明することができるようになってきた。

昔と比べてかなり進歩したと思う。昔ならそんな認識は恐ろしくて出来なかった。自分はそんな酷い目には遭っていないと思いたかったんだと思う。

そして少しずつだけど、自分のことを大事にするという概念が掴めてきているような気がする。

自分のことを大事にするといえば、最近また新たに気付いた事があって、これは個人的にはかなり収穫だと思ってる。近いうちに効いてくるはず。

初めの方で書いた「その歴史的経緯自分に対して現在無意識適用しているのは自分自身」の事なんだけど、これについての現時点での理解ちょっと整理したいと思う。

大きく2つあって、1つ目は、この記事中で何度か出てきている「自己否定」「毒」という存在の在り方と、これがそもそもどこから来ているかについて。

自己否定が起こるのは自己評価が低いためだと思う。じゃあ、自己評価が低いのはなぜ?という話になってくる。

自分欲求ちゃんと満たしていないためだというのはあるかもしれないけど、自分場合はそれよりも重大で根本的な問題として、延々とされ続けた親の否定的刷り込み存在が強いと思う。

から虐待人格否定を受けることで幼い子供自己認識は「自分は無力な人間ダメ人間」となり、それがそのまま人生脚本となり、無意識にそのように振る舞ってしまいそのような人間になる。

それを精神的に未熟な親が自己有効感を得るエサとして利用(虐待人格否定)し、それにより子供は更に自己無力感に陥り…という、子供にとって悪夢のような悪循環が発生する。このサイクルが「否定的刷り込み」の実態であり、毒親子供に植え付ける「自己否定」や「毒」の正体なのだと思う。

この強い自己否定感、自己無力感は、親が自身無力感精神的な不安定さをカバーするために押し付けられた親自身問題であり、こう認識してしまうともう親に対して「ぶっ転がすぞ」という気持ちでいっぱいになる。

以前は親に対してこんな認識を持つどころか「もう人生だめだ…死にたい…」となっていたのでこの気持ち進歩だと思う。

まり自分に対する自分認識は、無意識に親の自分へのニーズを反映したものであり、自分自分を正しく認識した上で自分に下している判断ではない。

内面化した親のニーズ自分を見ていたのだ!(強調したい部分)

毒親内面化してしまっている」という表現書籍ブログで何度か見かけていて、ただ実際どういう状況になっているのか全然理解できていなかったけど、この考えに至ってようやく合点がいった。であれば、ひたすらに自己否定をしてしまうのも納得がいく。親の抱える問題を解消できない限り自己否定は続くんだと思う。

からしたら本来自身が頑張らない限り親が死ぬまで未達だし、親が死んだ後であっても、内面化した親(のニーズから見て未達なので、子供無限自己否定し続けることになる。

自己否定の原因を正しく特定して認知を変えないと死ぬまで自分否定し続ける。

こんなの「毒」じゃなかったら何だっていうんだ。現代呪いじゃん。洗脳とも呼べるのかもしれない。まぁ「刷り込み」って「洗脳」の呼び方変えたようなもんだし同じようなもんか。

2つ目は、やり場のない感情とその矛先について。

ここひと月ちょっとは、過去に親との間にあった出来事と当時の自分感情を、出来る限り思い出して言葉として書き出すという事をやっていた。

これによって狙っていた事は、自分意思だけでは思い出し切れないトラウマ記憶に近い時系列記憶に迫り、文字に起こして認識することで「過去出来事、終わった事象」として自身に印象付けようとしたのと、あわよくばトラウマを芋づるで掘り当てて、当時の自分解釈現在自分解釈認識を上書きすることでトラウマを軽減、解消する事だった。

精神的な負荷が高いから嫌だったんだけど、EMDR以外では1人で出来るもの現実的っぽそうなのがこれしか無かったので、今の自分であれば精神的に安定している時なら回復にそれほど苦労しないと判断して挑むようにしている。

結果的にはまだ解消に至ってはいないけど、認識できていなかった事を認識することが出来た。

自分自分感情無視していた事に気が付いた。これ文字にすると厨二臭くていやだな。

無視していた感情というのは、具体的にはある期間の横暴を働く親とそれに対抗できない自分に対する強い憤りなんだけど、当時の自分ストレス発散の手段を親に奪われた挙句愛玩動物の延長みたいな扱いを受けていたので、感情を解消したり発散する機会が無い状況だった。

自分意思表現すると「立場を思い知らされる」ので、あまりの怒りと無力感から自分の机に伏してバレないように動物みたいな唸り声を上げたりしていた。趣味生き甲斐も取り上げられ仲間とも断絶されて、ストレスから肌も顔も荒れ放題、耳は切れて黄色ブドウ球菌に侵されてリンパが垂れ、首筋もあかぎれのように切れてしまい、腕の皮も荒れて剥け落ちてという有様で、生きているのがひたすら苦しかった。

病院には行っていたけど、治癒スピードよりもストレスによる身体破壊が早くて当然なかなか治らなかった。鼓動が早くなっていて体温も通常時より高く感じていたので、自律神経失調症にもなっていたなと思う。これまでで一番白髪が多かったのもこの頃。友達からは「お前、なんか覚醒するんじゃねえの」みたいな軽口を言われてちょっと救われた。高2〜3の頃だったと思う。

これを書いていると、今すぐ家を飛び出し実家に乗り込んで、徹底的に仕返しをしてやりたいという衝動自分の中に確認できる。この期間は同じく家庭環境が複雑な友達が支えてくれていたお陰で、問題を起こさず自分も生き延びる事ができた。その友達との連絡は今はもう取れなくなっている。まだ生きていてくれると嬉しい。

この記憶を思い出した事で付随する感情も引きずられて出てきて、この時に気が付いたのがここ数年ほとんど自分の怒りらしい怒りを認識していなかったという事で、なんというか新鮮な気持ちになった。感情が揺れ動くのがなんだか嬉しくて、ちょっとクワクした。

「怒りを感じていなかった」というのが実は大問題だったと思う。

この怒りの矛先は本来親に向けて抵抗するために利用すべきだったものなんだけど、利用できていなくて、そして最近ありありと思い出せたという事は当時のフラストレーションが解消されず残っているという事になると思う。解消できていないのならそれを感じなくなってしまっていたという認識おかしくて、じゃあ認識できなくなっていたそれはどこに向かっていたかというと、これはまだ検証中ではあるんだけどどうやら自分自身に向かってしまっていたっぽい。怒りの矛先が自分に向かうことで、自己否定を一層強化してしまっていたんじゃないかと思う。

しんどいのは親に向かうはずの感情の向き先が自分になってしまっていたため」と考えてみるようにした所、体が以前よりも軽くなり、洗い物が出来ない、風呂に入るのがつらいなどの恐らく精神的な問題が急に改善されだしたのは大変嬉しいんだけど、ネガティブな側面として最近色々な事にすぐイライラするようになってしまって困った……。これは多分……親に向けるべきものが溢れてコントロール出来ていない的なものかな……と思ってる。

でもこれは創作活動転用できるエネルギーだと期待しているので、自己否定改善と併せて、またしょっぱいながら活動を再開していけるんじゃないか自分には期待をしてる。

まり何が言いたいかというと、動けない、簡単な事ができない、しんどいという状態は何かしらのネガティブな強い感情無意識自分に向かうことで強いストレスを生じ、そこから起こる精神的な問題なんじゃないかと思う。と書いたところで気が付いたけど、よく見かけるような文になったし、そんなに発見ではなかったかもしれない。でもこれまでの情報との紐付けができたので、これはこれで知見かもしれない。

最近の取り組みは方向性は間違っていないと思う。例え間違っていても、死ぬまでに目的を達成するためにも引き続き認知の歪みを直す取り組みを続けたい。

「やりたい事をやらないのが苦しい」のは当然だけど、「やりたい事をやるのも同じように苦しい」というのは異常だし、このままじゃ今度こそ気が触れるかもしれないので、出来るだけ早く絶対にこの状況を脱したいです。おしまい

一人暮らしを始めて転職して、そしてまた引っ越した際には保証会社を使ったので住所を自分からは伝えていない。確認可能らしいけど。

ゴミ親父は前々から借金していた事が去年発覚して、その際に出向いて縁を切ってきた。俺のこの先10年間と俺の収入を返済に充てたかったらしい。ぶり転がすぞ。

母親は発覚直後もほとぼりが冷めてからも、問題には触れようとしない他力本願ぶり。あんたは昔から自分にとって都合の悪い事はどんな些細なことからでも逃げるよな。いや、借金父親独断からその点だけは間違っちゃいないけど自分が住んでる土地?家?が担保にされてるのにそれは無いでしょう。

みたいな状態なので、実家はもうどうにでもな~れという気持ち。妹ちゃん脱出がんば。応援してる。

早く人間になりた〜い

2018-02-17

anond:20180217035036

くだくだ言ってるけど、この物語キモいと思われてるのは「返礼として庇護者を愛すること」「自発的庇護者を、唯一無二の相手として愛すること」をハッピーエンドポジティブものとして描いていることなんだよ。

私たち毒親持ちは、返礼として、自発的に(という建前で)傅くことをを親から要求されるんだ。そして「自発的に」その希望に反することをすると抑圧が発生する。スーザフォワードを読んだならダブルバインドくらいわかるだろ。

毒親は決して自分が悪役だとは思ってない。そういう魔女集会みたいな物語を美しいと思い、規範化し、そして子供それから逸れると抑圧し始める。これは愛である形容しながら。

別に私たちハッピーエンドあなたたちの物語強要することなんてしない。ただ私たちが考えるハッピーエンドは、わかり手が言っていたように、子供達が庇護である魔女から愛を受け、そしてそれを以って外の世界に開いていく、自分人生を作っていくことなんだ。庇護者と2人で閉じていくことではないんだよ。そういう物語が美しいという感覚もわかるけどさ。

このハッピーエンドについては趣味の違いだから別にどうしろとは言わないしいう権利もないさ、ただこういう趣味人間がいるってこともちょっとはわかってやってくれよ。

とりあえず追加、言及先の増田へ。

わざわざやってきて創作物キモい文句つけてるキチガイと思ってるかもしれん。

そのへんはちっとすまんとは思ってる。

しかしそうではないんだ。私は絵師さんたちにわざわざ名指しで文句つけるような悪趣味な真似はせんよ。しかし目に入った創作物について感想独り言的に述べる権利くらいはあると思ってる。そして、絵は好きだけどストーリーは少しアレだなという感想を持った。

その感想を頭おかしいように言われるのは心外だ。それにはそう思うだけの私の理由があるんだ。

そして増田よ。クリエイターとして、それらの感想おかしものとして何も考えずに棄却したり、自分創作物に対するネガティブ感想を全て不当なものとして処するのであれば、あなたと話すことは何もない。しかし少し思うところがあるのであれば、あなたの考えももっと聞いてみたいと思う。私の言いたいことはそれだけだ。

anond:20180216151153

わかり手氏の例のツィートについて非常にモヤモヤしていた者として言及させていただく。

まず、氏の「魔女毒親」という見方的外れであることについては元増田同意である。ただしそれは、元増田の言うような「魔女集会タグイラストストーリーはない」からではない。むしろ魔女集会イラストは深い物語性をはらんでいるが故にあれほどの盛り上がりを見せたのだと考えているが、それについては後述する。

氏の抱いている「毒親」の概念は、「息子を溺愛し、子離れできずに子に害をなす母親」といったものだと思われるが、これは「毒親」の語源となったスーザン・フォワードの「毒になる親」やそこから発展した議論にみられる毒親像とはいささかのずれを感じる。そこで語られているのは、自身人格からして非常に未熟で、子供への愛情他者に対するものではなく自己愛に近い、それ故に子供独自人格意思尊重できず抑圧したり無視したりしてしまうという親の姿である。このような毒親にとって子供とは「彼氏」のようなパートナーとしての存在ではなく、自身社会に受け入れられ、社会で称賛されるための道具であり自分の一部であるとも言える。何より、こうした毒親子供の成長・成熟を望まないことも多い。子供いつまでも自分支配下にあることを望み、その望みに反して成長を遂げようとする子供に対しては敵意をむき出しにして虐待に走ったりもする。

これに対して魔女集会タグにおいては、大前提として子供は「自分を守るほどに強くたくましく成長する」ことを何より望まれている。「母を愛する子の当然の行為として母を守る」のではなく、母から独立した上で、自身意志として彼女を愛し守ることを選択するよう望まれているのである。この「自身意志として」という点が魔女集会モチーフの最大のキーポイントである。息子や娘としてでは意味がない。彼らが生みの親を愛するのは当然である(とされている)のだから。それは、養い子がほとんどすべての場合「捨て子」である要因にも通じるだろう。

魔女集会イラスト魔女たちはしばしば、ツンデレ言動をみせる。彼女が拾い子を養うことにしたのは、中には子を気に入って可愛がるために傍に置くことを望むケースもあるが、多くは「気まぐれ」であったり「ふとらせて食う」ためであったり「下僕としてこき使う」ためであったりと、「愛情動機ではない」ことが本人の口(モノローグ含む)から語られる。にも拘わらず、長じた子供は「自分意志で」彼女を愛するようになり、その愛によって恐ろしい魔女もついデレてしまう、というのが基本的な構図になっているのである。ここまででも、魔女集会モチーフに込められたストーリー性の存在は明らかである

さらに、「魔女」「捨て子」というキャラクター属性についても考えてみたい。まずは「魔女」についてである

上記のごとく、魔女たちはツンデレである。子を拾う以前から彼女らは孤独であり、人間社会から(時には同族社会からも)隔絶された存在である。そうした彼女らが子を拾って育てることを「愛情からではない」と殊更に強調するのは、彼女らが「愛情より子を育てること」を世界からあらかじめ禁じられているからに他ならない。白日の下を歩く人間にとって、魔女からの愛は呪いと同等であり、忌むべきものなのだ彼女らは人から愛されないと同時に、人を愛することも禁じられた、二重に孤独存在なのである

一方、養われる子の側もまた、孤独存在である。元より天涯孤独であったり、不慮の災難により親を失ったり、何らかの偏見から共同体を放逐されたりして、他者から物理的な庇護精神的な愛情の両方を失った状態にある。さらにそれは一時的ものではなく、将来にわたってもそのような状態にあることがあらかじめ定められた存在として描かれる。そのような状態で、彼はこの世でただ一人、自分を愛し守ってくれる可能性のある存在としての魔女出会うのである。失われた愛護魔女に求めるよりほかはないのは言うまでもない。魔女が親の仇であったりして表面上は魔女罵倒するシチュエーションもよく見られるが、彼が魔女庇護を受けなければ生きられない存在であることが動かせない以上、そのことは二人の関係性にスパイスを添える程度の要素でしかない。

愛を与えることを禁じられた魔女にとって、その禁にもかかわらず自分に対して愛を求める養い子の存在はかけがえのない存在となる。愛護を失った少年にとっても、禁を犯してまで愛を与えてくれる魔女はかけがえのない存在である。こうして互いにオンリーワンである二人が強固に結びつき、愛を与え合うようになる過程をBefore/Afterの2つの描写によって想起させること、それこそが魔女集会タグに込められたストーリー性なのである

なお、上記の論とは独立した別の要因として、「過程を描く」以上、不老であったり元からある程度の年齢であったり、せいぜい少し老ける程度である魔女を養い子の視点描写するより、子供から大人へのシフトが発生する養い子を魔女視点描写するほうがよりドラマ性を感じさせることになるだろう。そのため、作品群の多くは魔女視点描写されており、描写されるストーリー魔女側にやや傾いたものとなるようである

以上をまとめると、魔女集会で会いましょうというタグは、

「愛を与えることを禁じられた魔女が、その禁にもかかわらず自分に対して愛を求めてくれる存在出会い、彼の求めに応えて愛を与えることで彼を成長させ、その返礼としてより大きな愛を彼から与えられる」

物語である結論付けることができよう。

長文失礼。

2017-09-18

毒親という言葉起源とは何ですか?

onimotu1478さん2015/10/1215:30:36

毒親という言葉起源とは何ですか?

共感した 0

閲覧数:86 回答数:3 違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

tg777littleさん 2015/10/1315:23:16

スーザン・フォワードというセラピスト(心理カウンセラー)の方が起源です。

著者「毒になる親」により、さらに広まっていきました。

それから毒親という言葉日本でも知られるようになりました。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13151366868

Toxic Parents by Susan Forward. Bantam Books, Inc.,1989

https://www.amazon.com/Toxic-Parents-Overcoming-Hurtful-Reclaiming/dp/B000U2Z0WQ

毒親(1989~)

2017-07-12

SPY/スパイ(2015)

ジェイソン・ステイサムに釣られてみたら、ステイサムはわき役で、

主役はメリッサ・マッカーシー演じる太った40代女性スーザンだった

スーザンはCIA分析官で、ナビゲート役として結構優秀なんだけど、

実はスパイとしての身のこなし、判断力も超一流だった!というくだりでめっちゃクワクした。

カンフー映画とかでもあるけど、平凡な人が実はスゴイ使い手!ってのはワクワク要素あるよな~

しずちゃんみたいな感じの同僚にして親友ナンシーとのキャッキャウフフも超かわいい

衣裳も色々用意されてて、パーティ会場で迫力あるドレス姿が素敵だし、

ちゃんと魅力的な女性としても描写されてていい! とってもキュート

カンフー映画ばりの厨房での斬り合いもカッコイイ!

いい意味でだまされた映画だった

監督は今回の女性ゴーストバスターズを撮った人という事で納得

2016-12-12

またまた寒く増田なったっ灘巣膜撫佐たまたま回文

スーザベネットから

Twitterフォローされたらなんか認められた感あるわよね。

おはようございます

街の美術館の前にスケートリンクが出来ていて日曜日は大賑わい。

何故かこの街のみんなのスケート靴持ってる率の高さと言ったら全国屈指かもね。

私は持ってないけど。

だけど、

スケートはしたことがあるわよ。

いつもの増田みたいにすいすい滑ってるわ~。

楽しいわよ。

最初は手すりにつかまっていなくちゃ立てなかったのに

慣れてくると、

まあ、よたよただけど滑れるようになるの。

仔鹿が産まれてきて、初めて立ち上がる感にも近いし

これがクララガタッタカーンのゾーンの域なのね。

私感じちゃったわ。

でも、また冬終わって

1年経つとまた滑り方忘れちゃうのよね。

ここのスケートリンク

ナイター営業もやってるから

とても夜も賑やかなの。

会社帰りの人たちが一杯引っかけた後に

滑りに来るのよ。

千鳥足の人たちが滑るもんだから

危なっかしいったらありゃしないわ。

でも、みんなうまく上手に滑ってるのよね。

不思議と。

酔っ払ってるふらふらと、

氷の上に立ったときのふらふらが

打ち消し合わされて上手に滑れるのかしらね

ま、私は酔っては滑らないけど。

うふふ。


今日朝ご飯

バナナだけです、そんなバナナ

なんか、自分バナナ買ったの久しぶりかも。

こないだ観た映画主人公バナナを美味しそうに食べてるから

食べてみたいなって思ったのよね。

今日デトックスウォーターは、

我らのジャスコにスィーティー売ってたのでそれ買ってきたわ。

珍しいものたまには売ってるわよね。

でも、またやってないけど。

明日使ってみるわ。

なんかさ一時期、世の中が

スィーティー味だらけになったことなかった?

流行ったわよね!

生スィーティーで感激しちゃったから買っちゃったわ。

のしみ。

ま、今日はホッツプラムウォーラーよ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

またまた寒く増田なったっ灘巣膜撫佐たまたま回文

スーザベネットから

Twitterフォローされたらなんか認められた感あるわよね。

おはようございます

街の美術館の前にスケートリンクが出来ていて日曜日は大賑わい。

何故かこの街のみんなのスケート靴持ってる率の高さと言ったら全国屈指かもね。

私は持ってないけど。

だけど、

スケートはしたことがあるわよ。

いつもの増田みたいにすいすい滑ってるわ~。

楽しいわよ。

最初は手すりにつかまっていなくちゃ立てなかったのに

慣れてくると、

まあ、よたよただけど滑れるようになるの。

仔鹿が産まれてきて、初めて立ち上がる感にも近いし

これがクララガタッタカーンのゾーンの域なのね。

私感じちゃったわ。

でも、また冬終わって

1年経つとまた滑り方忘れちゃうのよね。

ここのスケートリンク

ナイター営業もやってるから

とても夜も賑やかなの。

会社帰りの人たちが一杯引っかけた後に

滑りに来るのよ。

千鳥足の人たちが滑るもんだから

危なっかしいったらありゃしないわ。

でも、みんなうまく上手に滑ってるのよね。

不思議と。

酔っ払ってるふらふらと、

氷の上に立ったときのふらふらが

打ち消し合わされて上手に滑れるのかしらね

ま、私は酔っては滑らないけど。

うふふ。


今日朝ご飯

バナナだけです、そんなバナナ

なんか、自分バナナ買ったの久しぶりかも。

こないだ観た映画主人公バナナを美味しそうに食べてるから

食べてみたいなって思ったのよね。

今日デトックスウォーターは、

我らのジャスコにスィーティー売ってたのでそれ買ってきたわ。

珍しいものたまには売ってるわよね。

でも、まだやってないけど。

明日使ってみるわ。

なんかさ一時期、世の中が

スィーティー味だらけになったことなかった?

流行ったわよね!

生スィーティーで感激しちゃったから買っちゃったわ。

のしみ。

ま、今日ソルティープラム・ホッツウォーラーよ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2016-11-23

今日見た夢。

若いころ僕はジョージルーカス映画学校に通ってて、

当時クラスの授業ではスターウォーズプロップ作りのお手伝いがあった。

でも僕は人より才能が乏しく、すぐにやることがなくなっていた。

(才能のある人たちはどんどん仕事が与えられた)

僕のテーブルにはスーザンという女の子がいて、彼女もやることがなくなった組の一人だ。

僕らはやることがないのでテーブルに散らばったプロップ材料掃除することにしたんだけど、

メンバー作業に応じた配置になってるから材料を移動させるな、作業中なのに触るな、余計なことするなとめちゃくちゃ怒られる結果になった。

時は流れ僕とスーザンは結婚し、小さなホテルオーナーになっていた。

何十年かぶりに当時のスクール同窓会があるとのことで、僕らのホテルが会場に設定された。

僕は当時の同級生たちと雑談をして、掃除してすごく怒られた話をした。

今となっては雑談として話できるけど、スーザンはあのことがとてもショックだったらしく、今でもスターウォーズは見てなしい、話だってできないから注意してね、と説明した。

その後ホテルスタッフと裏庭にある焼却炉に向かった。

ゴミを運ぶのにトラックがいるなと会話をした。

ここで目が覚めた。

2016-03-02

家事代行ベアーズ採用サイト創業秘話から、微弱で絶妙なひっかかりを感じる。

http://www.happy-bears.com/career/company/story.html

創業者である高橋夫妻が商社勤務時に香港に赴任してた時はメイド比較安価に利用できて、デキるフィリピン人家政婦スーザンのおかげで妻もイキイキ働いてたと。

ところが日本に戻ってきて第二子を産んだら、フィリピン人メイド日本じゃほとんどいないし、手伝いのいない妻がくたびれ果てててた、という内容。

当時妻は第二子出産家事育児に追われていましたが、共働き検討していました。

そこで、香港と同様のメイドサービスを探したのですが、そこで直面したのが、日本には家事育児を気軽に頼む習慣も、

行き届いたサービスも無いという事実でした。唯一存在した家政婦紹介も、当時は一部のお金持ちのためのものしかなかったのです。

疲れ果てた妻は、香港で活力にあふれていたとき彼女とは別人のようでした。

スーザンのような人が日本にいてくれたら、恐らくこうはなっていないんじゃないか。

夫のお前は家事子育て手伝ってなかったんか、奥さんだけがへとへとか、とちょっとツッコミたくなってしまった。

まぁ、実際は第二子産んで仕事に復帰するのは死ぬほど大変だしメイドサービス使えたらそりゃ楽にはなるだろう。でも、夫の言い草他人事っぽくて面白い

創業時はそれが当然な世の中だったのだろうし、夫婦の間で夫は家事育児は手伝わない方針ってんなら、他人が口出しすべきことではないが

女性をメインターゲットにした企業採用広告と考えたら、今時なら「妻も僕もヘトヘト」ぐらいにした方が、すっきり読めるのになと。

これだと、昨今のPC事情的には、採用広告としては満点ではないのかもねーとか思った。

もしくは、片切真人のようなパワハラ常習・男女差別者をうっかり役員に据えちゃう程度の脇の甘さが透けて見えるようなところだったりして

2016-01-05

[] Lazysusan

名詞中華料理店にあるような回転式テーブルのこと。

「怠け者のスーザン」のことではないので注意。

2015-12-03

☆☆遠回りまみれの青春タイプの人 福満 しげゆき

モテないのではない モテたくないのだ! ! カラスサトシ

食肉の帝王 (講談社文庫) 溝口

夜の経済学 飯田 泰之

あらためて教養とは (新潮文庫) 村上 陽一郎

プラットフォーム ブランディング 川上 慎市郎

キャリアデザイン入門〈1〉基礎力編 (日経文庫) 大久保 幸夫

作家は行動する―文体について 江藤

出会う」ということ 竹内 敏晴

科学宗教 (サイエンスパレット) Thomas Dixon

生きることのレッスン 内発するからだ、目覚めるいのち 竹内 敏晴

得手に帆あげて―本田宗一郎人生哲学 本田 宗一郎

小倉昌男 経営学 小倉 昌男

パイロット 万年筆 カクノ FKA-1SR-GYF 細字 グレー PILOT

疑う力 (PHPビジネス新書) 西成 活裕

レトリック人生 ジョージレイコ

リーン・スタートアップ エリックリース

☆なぜ、「怒る」のをやめられないのか 「怒り恐怖症」と受動攻撃 (光文社新書) 片田 珠美

広告なのにシェアされるコンテンツマーケティング入門 谷口マサト

鉄道が創りあげた世界都市東京 矢島

会社の値段 (ちくま新書) 森生 明

☆反解釈 (ちくま学芸文庫) スーザソンタグ

アーカイブ ヘルプ
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん