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はてなキーワード: キャサリン・マッキノンとは

2020-01-18

性的モノ化」の議論のまずさ

フェミニズム視点では「胸の大きい女性転職情報のPRに起用する」のはまずいようだ。

 

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/yomogidango0909/status/1218363032004329478

 

上記のような意見を「本当のフェミニズムじゃない」と感じるとしたら、それは間違いである。

それどころか、現在日本フェミニズムの主流やアカデミズムの主張から必然的に導かれる結論である

このような意見はいわゆる「性的モノ化」(あるいは性的客体化、対象化)の議論立脚している。

 

フェミニズムを専門とする社会学者小宮友根と、宇崎ちゃん問題の時にイラスト付きで不適切さを分かりやす解説していたふくろさんによる以下の記事を読んでみよう。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864

性的女性表象の持つ差別性は、フェミニズムの中では「性的客体化(sexual objectification:対象化やモノ化と訳されることも)」の悪さという観点から議論されてきました。

(中略)

たとえばポルノグラフィ批判で有名なキャサリン・マッキノンアンドレア・ドウォーキンが繰り返し主張していたのは、ポルノは「わいせつ(性欲を刺激するもの)」だから悪いのではない、ということでした。マッキノンたちのポルノグラフィ定義には、女性が「人間性を奪われ」「辱めや苦痛快楽とし」「性暴力によって快感をおぼえ」「特定身体部部位に還元される」ような「性的な客体として提示されている」という項目が含まれています。要するに、女性を「性的な客体」として提示することが悪いと考えられているのです。

最初ツイートでの「女性性的記号を利用してPRする」ことへの批判は、上記のように、女性性的記号還元するような悪さへの指摘として正当化できる。

なお、上記引用にもある通り「エロいから悪い」「胸が大きいから悪い」のではない、あくまでそれが表現の中で強調されるなどして、記号として利用されることがまずいのだ。

このように(ブコメでは散々な言われようだが)ツイート批判は、実はフェミニズムとして至って正気批判である

ところが、そこにまずさがある。

 

フェミニズムがこのような批判正気にし得るということは、フェミニズムは、時と場合によっては(件のPRのような)本人の意思に基づいた女性の行動や社会活動をも批判し得る、ということだ。

ここで一足飛びにフェミニズム批判に走ってはいけない、まずはそのような主張がどのようにして正当化されるのかを考えるべきだろう。

 

例えば仮に、件のPRの立案からカメラマンからモデルに至るまで、すべて女性がやっていたとしても、フェミニズムはそれを批判する必要がある。

女性ミソジニーを持ちうるし、性的記号不正利用も行える、レズビアン場合を考えれば女性性的欲望し消費するケースもあることも分かるだろう。もちろん男性との共犯関係もあり得る。

行為者が女性であることで(男女の非対称性から)悪さを軽減することはできるかもしれないが、免除することはできない。

ここで問題になるのは主に以下の2つ。

1.女性イラストレーターや女性漫画家のような表現者が女性をモノ化して表象する場合の扱い

2.キャンペーンガールグラビアアイドル、AV女優風俗嬢等が、自身身体を「性的な客体」に還元する場合の扱い

件のPRは2に該当する訳だが、その悪さはともに「性的モノ化」によって説明できる。

まり表現であれ自分身体であれ、女性性的にモノ化、客体化することが悪いのだ。(※1)

 

ここで「1はともかく2は自分身体自分意志でやってるんだからいいじゃないか」「被害者はいないじゃないか」と反論するならそれは間違いである。

直接的な被害者がいなければいいのであれば1も、宇崎ちゃんやその他のあらゆる表象問題化できなくなってしまう。

問題は、モデルのいないイラストであれ、合意済みの女性自身身体であれ、「女性一般に対するイメージを歪めたり利用したり、モノ化できてしまう、その悪さなである

 

こう言い換えてもいいだろう、「女性」のイメージ女性全体の言わば共有財産なのであり、イラスト女性自身身体もそれを傷付け得る。

例え女性個人合意していたとしても、それ以外の合意していない女性へもダメージが波及するために、女性身体性的にモノ化することは許されないのだ。

従って、個々の女性身体女性表象もまた、女性全体の共有財産だと言えるし、共有財産である限り、個々の女性が(集団の意に背いて)それを好き勝手にすることは許されない・批判される必要があるのだ。 

このようにしてフェミニズムは、女性に対するある程度の自由抑制批判、そしてそれによる全体主義正当化できる、できてしまう。

 

このようなフェミニズムの在り方に対して、フェミニズム自身による更新は難しい。

何故なら上記のような論理は「性的モノ化」のような基礎的な概念から論理的に導出できる以上、その更新フェミニズム全体を大きく変えざるを得ないし、

その過程で、これまでのフェミニズム批判しえていた(主に男性たちの)行為や現状を批判不能にせざるを得ないようなケースも出てくるだろう、そうしたことは、多くの女性フェミニストにとって受け入れがたい。

あるいはアカデミズム側のみのマイナー議論としてはそのような更新も期待できるかもしれないが、運動としてのフェミニズムにそれを輸入することは恐らく出来ないだろう。

例えば件のツイートに対しても、フェミニズムによる(その女性身体を共有財産化する全体主義的な傾向に対しての)批判は期待できない、という事からもそれは分かる。

こうした問題を、フェミニズムはこれからも抱えていかざるを得ない。

そしてそこから目を逸らし続けないわけにはいかない、例えそれが欺瞞でも、解決する能力がない以上は。

 

※1 なお1に該当する女性エロ漫画家フェミニズム肯定しえないことについては以下を参照

https://anond.hatelabo.jp/20200116204747

anond:20200117010735

ほい、屏風

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864

 

フェミニズム専門家社会学者である小宮友根氏とふくろさんの記事

表象の「悪さ」について、たとえば「子どもマンガの中の暴力的行為を真似してしまう」とか「広告表現された差別的価値観を身につけてしまう」といった「現実への悪影響」とは違った水準で考えよう、ということでした。

とあるように「子供への影響」はここでは主題ではない。そしてゾーニング問題もここでは語られていない。

まりあなたの論点は始めから的外れだったわけです。

(付け加えれば、あなた論法性的モノ化の悪さが「子供への影響」や「棲み分けの不十分」に“のみ”起因する場合しか使えない。例え子供に見えないように棲み分けても、別の原因で悪いことになればあなたの主張は意味をなさないのだから

 

さて、この記事では性的客体化について、「「エロいから悪い」という考えとはまったく違う」とある。中身を見てみよう。

たとえばポルノグラフィ批判で有名なキャサリン・マッキノンアンドレア・ドウォーキンが繰り返し主張していたのは、ポルノは「わいせつ(性欲を刺激するもの)」だから悪いのではない、ということでした。マッキノンたちのポルノグラフィ定義には、女性が「人間性を奪われ」「辱めや苦痛快楽とし」「性暴力によって快感をおぼえ」「特定身体部部位に還元される」ような「性的な客体として提示されている」という項目が含まれています。要するに、女性を「性的な客体」として提示することが悪いと考えられているのです。

はい、こういった表現女性エロ漫画家でも用います

で、これらの条件に該当するなら、たとえ「少年誌じゃなく棲み分けた、規制された成年誌」でやってたとしても悪い、というのが彼らの主張なわけです。

ね、わかったでしょ。

もし上記のように表現性質によって性的客体化の悪さを定義しておきながら、非難された途端あなたのように「ゾーニングすればいい」とまったく違う論点を持ち出すなら、それは「自分たちにとって都合が良いかいかで主張を変え、「何が正しいか、間違ってるか」には興味がない。」以外の何物でもないわけです。

 

記事の後半ではふくろさんによるイラスト付きの解説がついてるからじっくり読むといいよ、

女性エロ漫画家表現がここでの指摘に当たらないと主張したいなら、あなたは単なる恥知らずだとしか言いようが無い。

 

ところでこの記事最後にある「法規制より論争を」という主張には私もある程度同意だ。

「論争」というからには互いの主張に論理的検討を加えることになるわけだが、「フェミニズム女性エロ漫画家肯定しえない」というのはまさに、フェミニズムがその一部として持つ「性的モノ化」という論点論理的女性エロ漫画家肯定しえない構造をもっている、という指摘にあたる。

このように論理的検討というプロセスを経ていくことで、フェミニズムは前に進むのであって、指摘や批判をただの悪意だと見誤ったり、「女性エロ漫画家をみてびっくりしてるだけ」などと貶めて、フェミニズムを一切批判されえない神聖不可侵なご神体にすることによってではないんだよ。

 

追記

彼らの議論は時期的に宇崎ちゃんを「性的モノ化」によって批判可能にする目的もあるだろうから、当然この批判エロ漫画だけじゃなく一般漫画も射程に入るものとしてつくられてる。

従って女性エロ漫画家だけでなく、多少なりとも女性性的対象化するような技法を用いて描く女性漫画家もその批判対象に当然なる。

そういう意味では「フェミニズム女性エロ漫画家肯定しえない」でも生ぬるくて、「フェミニズムほとんどの女性漫画家を肯定しえない」と言った方が正確な可能性もあるね。

2019-11-04

anond:20191104142158

Cornellの議論は、ポルノグラフィ危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィ男性レイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプ輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティ世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつ表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別同義語なのである彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィ性差別のものであるという一種イデオロギー依存した議論に対する批判のものである

もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉制限的に定義することによって、そうした一般的議論ではなく、特に女性に対して酷薄もののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象問題は不可避であり、言語行為限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制根拠果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり日本におけるポルノグラフィ製作必然的にそうした女性虐待表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィ表象必然的に(fuckerとしての)男性レイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。

また、Cornellの依拠するポストモダンフェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズム根底目的に対して、一定文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまりポルノグラフィ規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである

そもそもポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定勢力として存在していた。これらは全く女性使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィ概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性性的欲望セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたこから解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタ二項対立接続否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリーム男性製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリーム男性向けであって、女性けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィ必然的に男女を社会的構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。

4. 結び

前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダンフェミニズム見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理ポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。

日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定表現について規制肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィ規制道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノフェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニスト議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。

こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴであるさらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段妥当であるかが問われるべきではないだろうか。

一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制対象となるのではなく、むしろつの職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的正業である認知されることは、その「職場」におけるハラスメント虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーンハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。

以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。

参考文献

キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィ性差別」(青木書店, 2002)

・ドゥルシラ・コーネル仲正昌樹監訳「イマジナリー領域」(御茶の水書房, 2006)

大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)

キャサリン・マッキノン森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)

スーザン・J・ヘックマン著 金井淑子ら訳 ジェンダーと知 : ポストモダンフェミニズムの要素(大村書店,1995)

お前らは全員フェミニズム理解していない

献血ポスターの件でまたあちこち燃えているけれど、フェミニズムについて両陣営がよく理解していないまま戦争しているなあ、と考えていたらふと学生時代に書いたレポートを思い出したので供養しようかと思う。

これは「ポルノグラフィ法規制」に対してのフェミニズム観点テーマであって今回の件とは必ずしも直接は関与しないが色々なところが補助線として使えるのではないかと思うのでもし議論の整理に何らか役立てば。

字数が切れていたので分割。

anond:20191104142158

以下本文

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1. 問題設定

レポートでは、ポルノグラフィとその法規制について、いくつかの観点から検討する。ポルノグラフィは、フェミニズム運動の中でリプロダクティヴ・ライツやセクシュアル・ハラスメントなどと並んで一定地位を占めてきた。一方で、その規制は、日本国憲法21条や米国憲法修正1条にいう表現の自由と正面から激突するものでもある。本レポートにおいては、日本国憲法の射程に限定しつつ、これらがいかに衝突するものであり、どう分析されるべきかを簡単に整理することを目標とする。

2. ポルノグラフィ定義

最初検討されるべきは、規制対象たりうるポルノグラフィいかなるもの定義されるかということである。もちろん、いかなる性的描写ポルノグラフィであって規制対象たりうる、という立場自体不可能ではない。しかし、表現の自由が強く保障されることを前提としたときに、容易には首肯しがたい立場であるということは言うまでもない。表現の自由への制約は可能な限り小さくなくてはならないというのが前提であるとすれば、規制対象となるべきポルノグラフィもそれ自体また狭く定義される必要があるであろう。

まず、一般的ポルノグラフィ定義について俯瞰する。いわゆる四畳半襖の下張事件において、「わいせつ性の判断に当たっては、文書全体としてみたとき、読者の好色的興味に訴えるものであるかどうか否かなどの諸点を検討することが必要で、これらの事情総合し、その時代健全社会通念に照らして、チャタレー事件で示したわいせつ要件に該当するといえるかどうか判断すべきである」という判断がなされており、わいせつ要件(通常人羞恥心を害すること、性欲の興奮、刺激を来すこと、善良な性的道義観念に反すること)をベースとしたうえで、社会通念に照らして文書等のわいせつ性が判断されるという判例を構築している。

判例立場は、わいせつ性が前面に出ているのか否かという観点を取り入れることによって性的対象を扱った作品であっても、芸術的価値の高さなどに応じてわいせつ物該当性を認めないという形で一定の制約を設定しているといえる。ここには、表現の自由との緊張が見て取れる。つまり本来性的表現であっても、直接他者危害を与えるものでない限り、国家によって自由を制約されるべきではない。しかし、わいせつ該当性があるならば、例外的規制することが許されるとしていわゆる定義づけ衡量を行ってわいせつ図画を規制しているものであるといえる。

一方で、Andrea DworkinやCatherine McKinnonはポルノグラフィいか定義たか。それは、実際に彼女たちが起草した反ポルノグラフィ条例に見て取れると考えられる。ミネアポリス市の反ポルノ条例第三条 は、「ポルノグラフィとは、図画または文書を問わず写実的描写され、性的にあからさまな形で女性従属させるものであり、かつ次の各事項の一つまたはそれ以上を含むものを言う。(1) 女性人間性を奪われた形で、性的な客体、もの、または商品として提示されている、(2) 女性苦痛や辱めを快楽とする政敵対象物として提示されている、(3) 女性レイプされることに性的快感を覚える性的対象物として提示されている、(4) 女性性が縛られ、切りつけられ、損傷を加えられ、殴られ、または身体を傷つけられた性的対象物として提示されている、(5) 女性性的服従姿勢提示されている、(6) 女性が、その身体の部位……に還元されるような形で示されている、(7) 女性が生まれつきの娼婦として提示されている、(8) 女性がモノや動物によって挿入された状態提示されている、(9) 女性が、貶められたり、傷つけられた李、拷問されたりする筋書きにおいて、汚らわしいものないし劣等なものとして、または出血したり、殴られたたり、傷つけられたりして描かれ、かつそれらの状態性的ものとする文脈の中で提示されている」と詳細に定義している。最高裁判例の打ち立てた上記基準と比べるとこれは、はるかに明快である

ところでこの二つの定義には、その明確性を超えて、根底的な部分でのポルノ観の相違が明々白々と見て取れる。これは、ポルノ規制日本において考える際にも重大な差異であると考える。

最高裁におけるわいせつ概念定義は、三要件を用いたその定義から明らかに社会的性道徳、善良な性風俗といったもの保護対象としている。つまり、過度に扇情的ポルノ作品市場に氾濫することで、社会を成り立たせている道徳基盤が破壊されることを防ごうという目的である。いわゆるチャタレイ事件控訴審における判決理由中の「かゝる文書猥褻文書として排除せられるのは、これによつて人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動制御否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険があるからである」という文章は、まさにこの懸念わいせつ文書規制するべき理由であるということが念頭に置かれているものであると考えられる。

ミネアポリス市かいくつかの都市で起草された条例は、こうした目的のもとにポルノグラフィ規制しているのではない。それは、McKinnonらの論文や、また、条文そのものから明白である。ここで、ポルノグラフィはまさしく「女性差別」そのものとして認識されている。

ポルノグラフィは、女性を隷属させ、性的対象化objectificationするものである、とラディカルフミニストたちは考える。つまり、「ドウォーキンはいう。『女性従属においては、不平等のものがセクシュアルなものにされる』。マッキノンも次のように述べている。『ポルノグラフィーは女性の不平等をセクシュアルなものにする。それは女性の不平等セクシーものに仕立て上げる。それは、言葉の最も広い意味で、支配服従をセクシュアルなものにする』」 。

ここで、ポルノグラフィに対する定義が、二方向のアプローチを有しうることが示されている。つまりポルノが消費されたときに、社会倫理的道徳的にどのような影響を受けるかという観点と、道徳観点を一切取ることなく、ポルノの中で女性がどのように扱われているか、またポルノを消費する男性女性に対してそれを再演することでどのような危害が生じるか、という観点である

Millの提示した危害原理を素直に適用する限り、後者観点の方が規制根拠としては明らかに優れている。前者において、明白な危害存在していない。先に引用した人類滅亡論などは、まさしく論理の飛躍であろう。一方で、後者アプローチをとるならば、それが証明される限り、実際の危害が生じていると言える。これは、いか表現の自由価値絶対視し保護するとしても、しかしそれを規制する十分に強力な根拠たりえる。次章では、ここで主張される危害について検討する。

3. ポルノグラフィ危害

ポルノグラフィが「危害」を有するものであるならば、それは表現の自由を主張してもなお規制に当たることは言うまでもない。表現の自由に対して強く保護を与えることを主張したアメリカのOliver Wendell Holmes Jr.判事であっても、満員の劇場で「火事だ!」という嘘を叫ぶことをいかなる表現の自由保護しないと明言している 。また、実際にポルノグラフィ一般的危害を生ぜしめないとしても、上記の条文を見るに、発生しうる危害から逆算的にポルノグラフィ定義されており、これは限定列挙であると考えるべきであろう。

もっとも、注意しなくてはならないのは、ここで挙げられたものは、危害を「創作」したものまで範疇に含まれることである。つまり女性傷害を受けるという「現実」の存否にかかわらず、そうした創作は、ポルノグラフィとして定義される。そうした映像が、現実における傷害と必ずしも一致しないことは、あらゆる劇作の前提である 。そして、実際に生じた傷害については、こうした条例法律にかかわらず民事上、刑事上の責任を負わしめることが可能である

危害がどの広さで認識されるべきかということについては、確定的な見解はいまだ存在しないものと考える。元来はMillのいう危害原理、すなわち身体的な危害を指していたものであるが、現代的にはこれを精神的(に深刻)な不快の限度にまで拡大した不快原理offense principleと言われるものまで提唱されている 。もっとも、身体的な危害については明確で客観的基準の定立が可能である一方で、主観的不快およびその深刻性については、客観的判断が困難であり、現行の法システムに馴染むのかという点で深い疑義がある。

ラディカル・フェミニズムの主張する「危害」がそうしたグラデーションの中でどこに位置するものであるかは、詳細な分析必要とする。McKinnonの言明する危害は、ポルノグラフィはそれ自体性差別であり、それによって女性従属化されるということである。そして、そのポルノグラフィ撮影において、また、ポルノグラフィが再演されることによって、女性は「縛られ、殴られ、拷問され、貶められ、時には殺される場合さえある。あるいは、単に犯され、使用されている。視角ポルノに映し出されているあらゆる行為のために、女たちは実際に、縛られ、切りつけられ、焼かれ、猿ぐつわをはめられ、鞭うたれ、鎖でつながれ、肉吊り棒や木からロープで吊り下げられ、あるいは、……放尿させられ、排泄物を食べさせられ、ウナギネズミナイフピストルで貫かれ、喉の奥までペニスで侵され、血や泥や糞便や精液で汚される。……ちなみに、膣にペニスが挿入されるという意味での性交は、そこでは副次的テーマに過ぎない」 。すなわち、ポルノグラフィは、男性女性に対する性欲そのものが充足されるためのものではなく(それは副次的テーマに過ぎない)、もっぱら女性に対して暴行を加え、二級市民化することによって従属せしめることが目的とされ、そのためのプロパガンダとして成立しているものであるとされる。「ポルノグラフィ女性憎悪純粋蒸留物であり、女性経験の中でレイプ女性殴打、近親姦強制売春と結びついている。そのことを考えるなら、ポルノグラフィ擁護して発言する自称フェミニストがいったいいかなる道徳的・政治的原則にもとづいているのか、とうてい理解することができない」 と彼女は断言する。

実際にこれらが物理危害として発生しているのならば、それは全く看過することのできない危害のものであり、規制はされてしかるべきものであるしかし、これらは実際の刑法典、民法典の規定によって補足可能ではないか? という疑問が生じてくる。McKinnonはこれに対して、現実にそうした摘発がなされていないことをもって実質的に法は存在せず、それゆえ国家及び社会ポルノグラフィ公認していると見做される旨主張する。

McKinnonの熱烈なポルノ批判に対し、Drucilla Cornellはポストモダンフェミズムの立場のもと、一定距離を置く。「私たちは、ポルノグラフィ生産に対してとられるべき法的行為措置を、ポルノグラフィの配給に特化してとられるべき行為措置から区別すべきである。私は、この区別が、ポルノワーカーを含めた女性たちが、人格となるプロジェクトを引き受けるのに十分なだけ自己を固体化していく、というフェミニスト目的根本的に寄与すると主張する。この産業女性たちを連帯に値しない不幸な犠牲者として扱うことは、彼女たちの基本的尊重を拒絶することである」 という言葉は、ポルノワーカー女性について、「ポルノグラフィに出演している女性の多くは、子どもとき性的虐待の被害者であった。……自宅から性的虐待を逃れて都会に出てきた子どもたちは、そこでヒモに拾われ、レイプされ、殴られ、麻薬づけにされ、売春ポルノグラフィ従事させられるのであるポルノグラフィに出演している女性の多くは貧しく、たいてい教育を満足に受けていない。ポルノグラフィ存在している社会は、女性経済的に不利な立場に置かれている社会である」 と記述するMcKinnonらを批判対象としている。Cornellはさらに、「私は二つの特殊フェミニスト的な理由からポルノグラフィ規制法律に過度に頼りすぎることに対して懐疑的である第一に、反差別法の基礎としてステレオタイプ女性性を強化すべきではない。言い換えると、キャサリン・マッキノン仕事のように、女性を「ファックされる者 fuckee」か犠牲者に切り詰めたうえで、そのような存在としての女性に対する保護要求するような、文化的コード化された女性性を促進するような法はいらない。そういうわけで私は、マッキノンやアンドレア・ドゥウォーキンのそれのような、ポルノ規制の適切な法的手段としての市民権条例案を拒否する」 と言う。

2016-03-07

キモオタによるフェミニズム概論

フェミニストからキモオタ死ねと言われ、私はもちろんキモオタであるから激昂してクソフェミ死ねと言い返しかけて、そこでふと気がついて困惑した。

フェミニズムとは何だろうか。

私はフェミニズム名前ぐらいしか知らない。しかし知らないものを知らないままにしておくことは、少なくとも私にとってキモオタしからぬ行為である。私は自分に自信をもってキモオタでありたい。クソフェミ死ねと罵られるキモオタであることに誇りを持ちたい。ならばフェミニズムについて知らなければならない。

しかフェミニズムについて知りたかったら何を読めばいいのか。これが意外と分からない。ロールズやセンを読めというのを見つけたので読んでみたが、やはりフェミニズムが分かった気になれない。

そこで手当たり次第に適当にフェミニズム書籍を読んでまとめみることにした結果が本稿である。決して十全ではないが、私同様、フェミニズムをよく知らないオタク諸姉諸兄にとって、フェミニズム理解の取っ掛かりになれば幸いである。

フェミニズムとは

フェミニズムは大きく三種類ある。ラディカル・フェミニズム(以下ラディフェミ)、リベラルフェミニズム(以下リベフェミ)、そしてマルクス主義フェミニズム(以下マルフェミ)であり、それぞれ理論の組み立ては全く異なる。以下順に見ていこう。

ラディカル・フェミニズム

現在のラディフェミ理論的支柱はキャサリン・マッキノンと言っていいだろう。「性の不平等の源はミソジニー(女嫌い)」であり、「ミソジニーの源は性的サディズムにある」(C.マッキノン,"フェミニズム表現の自由",1987,*1)。そして社会に溢れるポルノグラフィ(以下ポルノ)こそが「性差別主義者社会秩序の精髄であり、その本質をなす社会的行為」(*1)に他ならないと喝破する。この諸悪の根源ポルノであるという揺るぎない確信からポルノ法規制を推進する。

ポルノ性犯罪を誘発するという統計的証拠はあるのか。この批判に、しかしマッキノンは自覚的である。誘発するという調査もあり、無いという調査もあると率直に認める。従って彼女が起草した反ポルノ法は「被害をもたらすことが証明されうる物だけが告発できる」(C.マッキノン&A.ドウォーキン,"ポルノグラフィ性差別",1997,*2)。「証明されるべき被害は、強制行為、暴行脅迫、名誉毀損、性にもとづいて従属させる物の取引といった被害でなければなら」(*2)ず、不快に感じた、宗教上の信念を侵しているといった被害は認められない。被害者ではない第三者告発することも認められない。

ポルノには、ホモレズ二次元も、古典文学から芸術作品まで被害をもたらすことが証明される限り全て含まれる。自分が叩きやすゲームマンガだけを槍玉にあげて、自分が叩かれやすい文学や芸術から目を背けるチキンではない。殴るからには全て殴る。それがマッキノである

なお、田嶋陽子はラディフェミを名乗りドウォーキンへの共感を示しているが、ポルノ諸悪の根源とはせず、現実的政策としてはリベフェミに近い内容を述べているため注意されたい("愛という名の支配",1992)。

リベラルフェミニズム

J.ロールズの「公正としての正義」やA.センの「不平等の再検討」をその理論的土台とし、リベフェミは次の点を問題視する。「ジェンダーシステムは、その根を家族における性別役割にもち、事実上わたしたちの生活の隅々まで枝葉をはびこらせた、社会の基礎的構造のひとつ」(S.オーキン,"正義ジェンダー家族",1989,*3)であり、「女性男性重要差異が、家族内で現在おこなわれている性別分業によって作られる」(*3)。

夫婦がともに働いている姿を子供に見せることが教育上望ましいと考え、そして共働きにおいて妻にだけ家事育児押し付けられることは不平等であり、二人で平等に分担するべきであるとする。もし専業主婦なら、夫の稼ぎは夫婦二人で稼いだものとして両者で均等に等分すべきだとオーキンは言う。

このように家庭内賃金労働の不平等の解消によって性差別の無い社会が構築されるとする考えから、リベフェミ女性社会進出を推奨し、出産休暇や託児所の拡充、男性育児休暇取得を推進する。また「子どもたちがなりたい人間になる機会」(*3)を拡大するため――その機会を無知ゆえに狭めないために、性教育重要性を訴える。

なお、「男性を敵視し憎む分派は消滅するだろう」(B.フリーダン,"新しい女性創造",1965)が示すように、フェミニズム男性女性権力闘争化することに否定的立場をとる。

マルクス主義フェミニズム

出産を含む女性の家事育児は明白な労働行為である。にも関わらず男性社会はそれに一切の支払いをしてこなかった。ゆえに女性とは搾取されるプロレタリアートであり、その意味で男性とはブルジョワジーである女性の抑圧は、資本制と家父長制の構造上必然的に生じたものであると喝破し、資本制・家父長制の打倒を訴え、そしてこれが日本の伝統フェミニズムである

女性社会進出に関してはリベフェミの主張とほぼ同一だが、フェミニズムの主要な敵は男性であると断じ、マルフェミでは家事育児という労働に対する賃金の支払いを請求する(上野千鶴子,"家父長制と資本マルクス主義フェミニズムの地平",1990,*4)点で異なる。ただし誰に請求しているのか、また家父長制を崩壊させるために「資本制との新しい調停」を、というが、それが共産制かというとそれも曖昧で判然としない。

日本ではさらにそこに独自思想が入り交ざる。例えば男女混合名簿の推進は「日の丸君が代シンボルとする儀式を撃ちくずす」(河合真由美,"「男が先」を否定することでみえてくるもの――学校の中での性差別男女混合名簿",1991)から良いのだ等、目的が何なのか、いささか混沌としている向きも見受けられる。

その他のフェミニズムと補足

レズビアンフェミニズムブラックフェミニズムエコロジカルフェミニズムポストモダンフェミニズムなど多岐にわたる。マルクス主義フェミニズムの派生であるサイボーグフェミニズム(D.ハラウェイ,"サイボーグ宣言",1985)は読むとつまらないがネタとしては面白い。あとキワモノで言えばスピリチュアルフェミニズムとか。

補足1:クィア理論

同性愛者とフェミニスト関係は、従来男性権力社会に対する「敵の敵は味方」関係に過ぎなかった。そこで登場したのが「フェミニズムと、ジェンダーに関するゲイレズビアンの視点と、ポスト構造主義理論を、政治的ひとつに纏め」(J.バトラー,"ジェンダートラブル",1990)たクィア理論である。これにより統一戦線理論的に張ることが出来るようになった。

補足2:男性差別

リベフェミは広範な男性差別否定するが、アファーマティブ・アクションでの男性差別肯定する。ラディフェミ男性敵視の姿勢を持つが、しかしマッキノンは男性けが徴兵されることは男性差別だとして否定する。「平等とは、ジェンダーの違いではなく、ジェンダーヒエラルキーを問題にし、その根絶をめざすものである」(*1)からである。マルフェミはよくわからなかった。女性兵士に反対しているので、男性差別肯定されるのかもしれない。

フェミニズムが扱う問題

セクハラ家庭内暴力中絶女性兵士等色々あるが、本稿ではオタク、わけてもアニメオタク関係の深い「性の商品化」について取り上げる。

「性の商品化」の法規制

マッキノンは、猥褻として過去に規制された、まさに「性の商品化であるユリシーズ(J.ジョイス,1922)について「ポルノではない」と述べる(*2)。現実の被害が証明されていないからである。「性の商品化」は法規制の理由にならない。

リベフェミであるN.ストロッセンは「子供や妻への虐待強姦日常的な女性への屈辱行為などを正当化する内容が詳細に述べられている」書籍として聖書をあげ、「禁止されない安全思想などほとんど存在しない」("ポルノグラフィ防衛論",2000)とする。そして性教育がかつて猥褻として政府に規制された例を上げ、ポルノ禁止法は政府検閲に利用されると強く批判する。

一方、上野は「性の商品化」だとしてミスコン廃止を訴えるフェミニストについて、彼女らは「法的取り締まりを要求したわけではなく、受け手として「不愉快」だという意思表示権利行使であると言う。そして「性の商品化」は「メディアのなかでも、なんらかの基準がつくられる必要がある("「セクシュアリティ」の近代を超えて",新編日本フェミニズム6,2009)」とする。

ここから見えてくる点として、女性が「不愉快であることが問題なのだということが分かる。「性の商品化」とは何か、それに実害があるかは、おそらく最終的にはどうでもいいのである。さらに求めているのは自主規制であって法規制ではない。自主規制によって発言者は自ら口をつぐむのだから表現の自由は全く関係のない話である

不愉快」による法規制正統性

リベフェミであるマーサヌスバウム嫌悪感を根拠とした法規制を徹底して批判し、ゾーニング妥当性を論じるが("感情と法",2004)、マルフェミである永田えり子は「ポルノ市場が成立すれば、必然的ポルノ市場の外部に流出する。そして流出すると不快に感じる人がいる」("道徳フェミニスト宣言",1997)としてゾーニング効果がないと批判する。

ポルノは「人々に広く不快を甘受させているかもしれない。そして事実不快だという人がいる。ならば、それは公害である」。「性の商品化は多くの人々に対して、確実に何らかの不快や怒りを与えるはず」であるがゆえに規制されるべきだと主張する。

そのような不快感を根拠とした規制は恣意的運用がなされるという批判は当たらない。曖昧な法は他にもあるが、現に警察と司法は正しく運用しているかである。性道徳に根拠が無いという批判も当たらない。「根拠がないということがすなわち不当であるわけではな」く、それは「正しいから正しい」のである

なお、福島瑞穂非実在児童ポルノ規制は法的安定性が保証されないとして反対しており、この永田見解がマルフェミ共通見解でないことは述べておく。が、例えば児童ポルノ法規制に対して日本ユニセフ協会広報室長の中井裕真から司法は正しく運用してくれる旨の見解が述べられており(永山薫昼間たかし,"マンガ論争勃発2",2009)、これがフェミニストの通説でないことは明らかだが、一定存在する見解であるように思われる。

日本草の根フェミニズム

初期の日本フェミニズムには「反主知性主義」があり、「女性であれば(女性としての経験をもってさえいれば)誰でも女性学担い手になれること、専門的なジャーゴンや注の使用を避け」、「プロアマ距離をできるだけ近づけること」が目指されたと上野は述べている("女性学の制度化をめぐって",2001)。

こうした取り組みで女性が声をあげられる空気を作り出すことに成功したが、結果としてフェミニズムは「一人一派」と化した。筆者の私見に過ぎないが、これは同時にフェミニズムと「私」の区別を曖昧なままにしたのではないか。

「私」とフェミニズムが一体化しているとすれば、「私」が不愉快ならフェミニズム上も不公正に決まっている。それが従来のフェミニズム理論と矛盾していたり整合性が取れなくとも関係ない。「「オンナ対オトコ!」なんて言ってるフェミなんて、いないのになぁ」(北原みのり,"フェミの嫌われ方",2000)が示す通り、従来の理論について知識も興味もないフェミニストは珍しくない。知らなければ(当人の中で)矛盾はしない。

理論を欠いた思想は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがちである」(*4)と上野は言う。そのような啓蒙主義者にとって「真理はつねに単純である。(中略)真理を受け容れることのできない人々は(中略)真理の力で救済することができなければ、力の論理で封じるほかはない」。そうして治安警察国家を招き寄せる人々は「反主知主義の闇の中に閉ざされる」。

これは実は上野によるリベフェミへの批判なのだが、筆者にはリベフェミではないところに突き刺さっているように思えてならない。

おわりに

このようにフェミニズム一言で言い表せるような概念ではもはやない。日本の初期フェミニズムはマルフェミが中心であったが、現代日本フェミニストは必ずしもそうではないだろう(例えば堀田碧は"「男女共同参画」と「日の丸フェミニズムの危うい関係"で一部の若いフェミニスト愛国心に苦言を呈している)。

最後になるが、フェミニズムはクソだという見解に私は全く同意しない。職場上司女性社員の尻を撫でることは強制わいせつ以外の何物でもないし、家庭内暴力夫婦喧嘩ではなく傷害である。どれだけ成果を上げようが性別を理由に賃金を低く抑え、出世コースから排除するといった制度の是正フェミニズムが尽力したことを、私は決してクソだとは思わない。

私がクソだと思うのは、……まぁ、書かなくても察してもらえるかと思う。

いささか長い増田になった。この程度の調査力でキモオタとかw という批判は甘んじて受けるしか無いが、とはいえもし誰かの理解の役に立ったのならそれに勝るものはない。

 
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