はてなキーワード: 減刑とは
はてブで人気記事にあがっていたので、この記事を読んだ時に思ったこと。
俺はよく言われる『戦時下の極限状態の空気では普通の人も容易く残虐になる』って説を支持してるんだけど、その立場からすると、この手の戦時における現場の兵隊の残虐行為批判って、裁判における責任能力有無の問題に似ているように感じるんだよな。
一般的に真っ当とされる判断能力がない状態の人が行った凶行に対して、人はどれだけの責任を負わされるべきかという話。
あえて嫌な言い方をすれば所謂"キチガイ無罪(実際は減刑なども含む)"を肯定するのなら、戦時の空気にあてられて残虐行為に走ってしまった"普通の人"も相応の扱いをしないと筋が通らないと思うんだよな。
この二問題に関しては一貫した見方ができないとアンフェアじゃない?
もちろん、戦時に人は残虐になるという説そのものを否定的に捉えている人の意見は異なるだろうし、どちらの考えが正しいかは実際の戦時の空気を生で体感したことのない俺達では想像の上でしかものを言えないから決着はつかないだろうが(戦中世代の古老増田という存在はこのサイトにいるのだろうか?)。
俺自身の個人的な考えとしてはどちらに対しても、『判断能力の欠場した人間の凶行はあくまで仕方ないことなので第三者が責めるべきではない。しかし、被害者やその遺族などからしたらどんな理由であれ被害には変わりないので、被害者が望むのならば判断能力の有無に関わらず責任を負い罰を受けるべき』と考えている(なので現行法に対してはやや否定的)。
進行中の事案って発表に気を使うんだ。
法的な手段を講じるときは、敵に悟られないよう自分の手札は伏せたいものだし。
(法的手段を講じます!って声高に言いまくる奴はだいたいブラフ)
そりゃ警察だって全容解明のために出金先業者のところへ任意で話を聞きに行くから、業者だってビビるさ。
海外で行われている(ことになっている)賭博への支払い代行とか、探られて欲しくない事情のひとつやふたつあるもんだ。
「詐欺で得たお金があなたの手に渡りました。そのお金がどうなったか、我々は調べなくてはいけません。あなたを疑うわけではありませんが、あなたが善意の第三者かどうかも詳しく調べて確認する必要があります」って警察に笑顔で言われてみ?
全額返金したからもうこの事件とは関係がないし捜査に協力する義務はない、って方向にもっていきたくなるだろうよ。
逮捕された男には逮捕前から弁護士がついていて、カネは回収できるよう協力したいと言ってたので、返金先を町の口座へ変えて直接振り込ませるのは普通にできる。被害者への損害回復に必要なことなら警察も結構協力するから。
逮捕された男にとっても後日減刑の材料にもなるので、町への返金に異論はなかろう。拒否したところで自分の手元にカネが返ってくるでもなし、そもそも「大金を全部使ってみたかった」くらいの動機しかないと聞いている。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000242556.html
電車内でたばこを吸ってるキチガイを注意して、高校生が重傷を負った件。記事では、他の乗客が止めようとしなかったと記事にはある。
こういう事件が起きると、毎度のことだが、びびって何もできなかった周りの人を批判するようなマスコミの報道が出るが、辟易する。
加害者が怖くて他の多くの乗客は皆ビビってしまっただろうが、そもそも日本には助けに入って応戦しても正義マンが傷害罪に問われる可能性があるので、
びびってなくてもその後の自分の生活を考えれば、応戦できない。つまり、刑法36条正当防衛の運用範囲が狭いという問題がある。
刑法36条1項には「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。」とある。
今回の事例では、止むを得ずした行為(相当性・必要性)が認めら得るかは事後で評価され、正義のためにやったのに傷害罪が成立してしまう可能性がある。
もちろん、36条2項により、減刑減免される可能性はあるが、検察官の判断にかかっている。これがアメリカなら、正当防衛は広く認められる。
結局、正義マンがいたところで、正当防衛の運用範囲が狭く、悪人扱いされかねないので、その後の人生を考えると正義マンにはなれない。
日本には、正義マンを育てる土壌がなく、警察も検察も正義マンを求めていないのだから、「他の乗客は止めようとしなかった」みたいな報道は控えて欲しい。
真面目に答えてくれる人がいたので、やりすぎると増田らしくないけどちょっとだけお返事します。あと、全体に増田の言ってることはよく理解できるので、特に異論のないとこは省略するよ。
まず「更生と刑は両立する」のくだりについては、「それは日本の制度がおかしいのでは?」としか言いようがない。わざわざ更生させといて、それから殺す。それに何の意味があるのだろう、って、合理的思考ができる増田は不思議に思わないだろうか。だいたい、裁判でも「改悛の情が明らか」であることが減刑の理由にはなるよね。懲役刑だって、反省態度で仮釈放までの期間が変わる。これは実質的な減刑じゃないかな。駐車違反をネタに「反省したら刑が割引なんてないでしょ」という理屈は、ちょっと納得がいきかねるね。
次に「国家」という仕組みへの不信の話。
国家を信じないなら何を信じるのか、というのは旧きリベラリズムにとっての急所だし。そもそも国家が信用ならないなら、終身刑のほうが不安だ。国家が正しく終身刑をやりとげる、という「国家への信頼」はいったいどこから発生するのか。
実は君はここで、致命的なスキを晒していると俺は思う。
なるほど、立場が変われば見方も変わるものだなあ、と感心しながら読んだ。増田の周りの「旧きリベラリスト」たちは、そこで沈黙したのかなあ。
まず、増田は国家を信頼し、犯罪者を「裁く」目線で物を言ってる(一応言っておくがそれがいい悪いという話じゃない)よね。一方、旧サヨクに共感する私としては、国家というモノにいつ何時理不尽に「裁かれ」「殺されるかもしれない」という目線で物を言ってるんだよ。だから、国家が終身刑を「やり遂げる」ことができないとしても「ああ、やっぱりな」と思うだけだ。終身刑を誤るなら、死刑だって誤るだろう。そして、後者を誤るよりは前者を誤る方が、取り返しがつくだけマシだと思う。だって終身刑を失敗して誤って仮釈放してしまったとしても、誤りが判明したらもう一度収監することである程度取り返しはつくけど、「間違って死刑しちゃったわ(テヘペロ)」だと何をどうやったって取り返しなんてつかないんだから。(ここでも、増田は多分誤って釈放された凶悪犯を想定するだろうね。そして私は誤って殺される無実の囚人を想像するわけだ。これは価値観の問題、物の見方の違いとしかいいようがない。)
ついで、「国家に代わる何があるのか」「それが旧リベラルの弱点だ」と増田は言うけど、現代だって、日常的に人々が信じているのはもっと身近なコミュニティや属する組織なんかであって、「国家」などという漠然としたものによっかかって生きてる人って、霞が関の中にもあまりいないんじゃない? いたらあんなに不正がはびこらんでしょ。ああいう不正って、国家とかそういう漠然としたものじゃなくて、自分の目の届く範囲の狭い狭いコミュニティに殉じるからこそ起きるもんだよね。小さな組織、小さなボス、それに従うから、大きな外から見たら「不正」としか見えないことに手を染めるわけで、彼らがいくら「お国の為」と口にしようと、それは口当たりのいい欺瞞に過ぎないくらいのことは、増田にだって分かってるだろう。
それに、たとえば終戦直後、国家が国家として機能していなかったときも人はそれなりにたくましく生きていたわけで、国家がなけりゃ人はない、なんてことはない。もちろんそれが理想的な社会だったとは別に言わないけど、近代国民国家を〈唯一完成した人類社会の最終形態〉みたいに言うとなると、それは無邪気すぎるんじゃないかなあ。国家に不信を抱くのは、むしろ現在と未来を生きる人間にとっては必須の要件だ、くらいに私は思ってるんだけども。
それから、死刑をする最大の理由はお金だ、って話。増田はそれを「現実的」な立場で語ったつもりなんだと思う。その現実主義を揶揄するわけではないよ。けど、それなら次に述べる四つの点についてどう思うかは聞きたい。
米各州で死刑制度廃止の動き、経費削減のため https://www.afpbb.com/articles/fp/2572851
いや、死刑制度を維持するのって、意外とお金かかるんですよ? 「生かしておく方が金がかかるに違いない」というのは思い込みで、文明社会で人一人殺すというのはそんな簡単なことじゃないんだ。日本とアメリカで事情は違うと思うかもしれないけど、見方によっては日本の方が"殺し方"としてはより丁寧であって、それはつまり「よりお金をかけて殺している」ということでもあるんだよね。
さて、そうやって莫大な経費をかけて死刑を執行して、それで社会に一体どんなプラスがあるんだろう。増田も同意してくれたように、そこには見せしめとしての抑止効果もないし、遺族感情なんて不確かなものは宛にならない。つまり、死刑によって得られるプラスなんて、無いんだ。
一方、終身刑であっても、何割かの囚人がそこで「更生」したとする(何割かの更生は期待できる、という話は前にした)。彼らは自らの体験を語るかもしれないし、それが誰かに影響を与えるかもしれない。「更生」という言葉が語るように、それはプラスの効果であるだろうね。事件の全容が「更生」した犯人自身の口から語られることで、社会にあったセキュリティホールを少しふさぐことができるようになるかもしれないし、見落とされていた福祉の穴が埋まるかもしれない。また、道を踏み外しかけた人が、はっと踏みとどまれるかもしれない。何よりも、重大な罪を犯してしまった人でも、心から後悔し立ち直ってもう一度人生を歩もうと思えるようになれるのだ、というロールモデルを示すことは、社会にとって大きなプラスだと思うが、どうだろう。終身刑にだって、制度としての仮釈放はあるんだよ。
前の項目の中にもあげたことだけど、死刑というのは、犯罪の根源についての追及をそこでストップさせてしまう。なぜそんな犯罪が起きたのか、社会はそれとどう向き合うのか。どうすれば類似の犯罪は防げるのか。そういった議論を、全て、「我々の社会とは共存できないモンスター」のせいにして、封じ込めてしまうのがぶっちゃけ「死刑」という制度なんだよね。そういう目線で死刑と言う制度を考えたことはあった? 非文明社会、非文明国なら、それでいいんだよ。というか、それしかできない。たとえば、文明社会から離れた孤島で、30人くらいのコミュニティで原始的な生活を営んでいたときに、原因不明の殺人が起きたとして、明らかに犯人と分かっている奴がいたとする。そりゃそいつを吊るすしかないよな、なにせ原因が分からないし社会の不安を解消する方法がそれしかないんだから。でも、本当は深掘りすれば、殺人衝動を起こさせる風土病が原因だったかもしれないし、殺された奴に原因があったかもしれない。もっと文明が発達して、いろいろと調べる手段があれば、助ける方法があったかもしれないな、と、増田がその島にいたら思うかもしれない。私もそう思うんだよ。現代の「死刑」が、何もかもを明らかにして、完璧に調べつくして、その上で執行されている…というようには見えない。
いや、死刑議論は哲学だ、なんて言を弄するのは止めにして、もうこれいい加減真面目に考えるべきなんじゃないかと思うんだけど、世界で死刑制度の現況を見てみれば、
……という状況なんだよね。でもって、アメリカもさっきのニュースで見たような状況なわけで。で、君、どっちのグループに入りたいねん! て話なんだよ。こと”人権”という視点で世界と向き合う時に、死刑制度を存置しているということは、マイナスに働く要因ではあってもプラスに働くことは一切無いと言える。ここでも死刑制度は明らかに「高く」ついてるんだよ。死刑制度を擁護することは、実質的に人権問題において、中国やイスラムの側に立ちますよと言ってるに等しいわけで、これがリスクでなくてなんなんだろうと思うわけです。
というわけで、増田が「死刑制度を存置するのは、単に経済的合理性のため」という立場を取るなら、以上4点については反論する必要があると思うのだけど、どうだろう。
私は別に「美しい矜持を飾るためにお金払おうぜ」と言ってるわけじゃないし、別に経済的に合理的だから死刑を廃止しようと言ってるわけでもない。私が死刑を廃止した方がいいと思ってる理由は、全く前に書いたとおりだ。でも、単に経済的な合理性を考えても、実は死刑には合理性がないんじゃないかとは思ってるよ。
https://mobile.twitter.com/hiranok/status/1456466860715634699
ジョーカーの事件に関する話題で上記のようなものを多く見かけて、前回の内容とかなり重複する部分があるのだが少し補足したい。
前回の内容というのは「池田小事件から今年で20年経つが、学校安全以外の影響・変化はあまり語られていない」「宅間を死刑執行して以降あらゆる形で模倣犯が出ている」という感じの趣旨の投稿をちょっと前にして、それが結構大きな反響だったのだが、その中で「それならさっさと死刑にした方がいい」だとか「死刑廃止しても変わらない」だとか、要するに自分が死刑制度反対に持って行くためにこの話をしているのだと一部の人から誤解されてしまった(ちなみに自分は死刑反対派ですらない)ようだが、別にそういう話がしたかった訳じゃない。むしろ死刑制度反対に利用するために、死刑制度を設置しておくと死刑になるために人を殺す犯罪者が現れるというのがあたかも一般論であるかのように語られて、池田小事件以降変わってしまったものの大きさがあまり認知されていないように思える。事実、この死刑制度反対論は日本では一番最初かその次くらいに出る一般的なものだが、最近の海外で起きた殺人事件を調べても、日本よりなりふり構わず速攻で死刑を執行する中国や死刑の代わりに射殺を積極的に行っている欧米の方が頻発してもおかしくないはずなのにそういう話や死刑反対論はあまり出てこない。(スーサイド・バイ・コップという言葉は昔からあったが)
それで上記の事件一覧を確認すると、宅間が異例の早さで死刑執行されたのが2004年の9月。そして死刑になりたいと供述した事件の中で最も古いのは2004年の11月で、それ以降ずっと根付いている。これ因果関係としては、一般に死刑制度に犯罪を誘発する効果があるというよりは、宅間に死刑執行までの犯罪のプロセスとして上手く行かれてしまって以降、そういう流れの犯罪が日本においてのみ作られてしまったという方が正しいのではないか?
次に死刑になりたいという意思で引き起こされた犯罪は死刑制度反対の例としてさらっと引き合いに出されるくらいで、その具体的な実情はあまり出ないので説明しようと思う。
「死にたくても自殺できないなら人を殺して死刑になればいい」という思考回路は広まりすぎて日本の犯罪者に定着しつつあるため、自殺願望からそういう悪魔の囁きに突き動かされて衝動的にやってしまった犯罪者もいるのだが、そういう節のある人は基本死刑執行されるところまでは行かない。突発的な要素が考慮されて、心神耗弱で減刑されることも少なくない。茨木市ひき逃げ事件や心斎橋・イオンでの通り魔事件、さらに仙台のアーケードトラック事件がこれに該当するだろう。まあ人を殺傷するところまで行ってしまっているので無視して良い訳ではないのだが。
もちろん死刑になりたいと確信的に事件を起こした犯人もいる。自殺サイト殺人事件の前上博は窒息と白いルーズソックスに性的興奮を感じる異常性癖の持ち主で、過去100人近くに性的暴行を繰り返していたのだが、一方で犯罪を止められない自分に罪悪感を感じでおり、最後に強制的に自分が死ぬために自殺サイトで繋がった自殺志願者を絞殺するという形で自分の人生を終わりにした。
そして土浦連続殺傷事件や上記に書かれていないが、奈良小1女児殺害事件、大阪姉妹殺害事件、京都・神奈川親族連続殺人事件の特に犯人の事件後の供述や心理、その後の顛末等をwikipediaなんかから一つずつ確認した後で下記の記事を読んで貰いたい。
"怪物"にはしない
2007(平成19)年1月 『方法としての親鸞』(「親鸞」研究会編 永田文昌堂刊) 所収
2004年9月14日、池田小児童殺傷事件という惨劇を起こした、宅間守被告の死刑が執行された。ついに遺族への謝罪の言葉を一言も発することなく。事件発生から三年余り、判決確定からわずか一年足らずの異例の早さだった。大量殺人に飛躍する理由を、彼は「人生の幕引きをする時の道連れが欲しかったから」と語ったそうだが、その人生の幕引きを国が手助けすることになったとは、何とも皮肉なものである。まさに彼の思惑通りになってしまった。
しかし、これで終わったのだろうか。本当にこの事件は終わりなのだろうか。このことに関して、『群像』2004年12月号に、作家雨宮処凛と佐木隆三の興味深い対談が掲載されている。
(中略)
最後まで世の中を呪って、呪い尽くして死んでくれることによって、さらにカリスマ性みたいなものが出た。あれで途中で謝ったり反省したら、一気に宅間嫌いになりますね、宅間信者は。だから、あれは一つの物語としては、信者にとっては完璧であったような。
※参考資料
https://www.google.co.jp/amp/s/w.atwiki.jp/takumamamoru/pages/15.amp
・・・僕たちは、とんでもないことをしてしまったのかもしれない。宅間を怪物のままに、死刑を執行してしまった。それは同時に彼を神聖化する儀式でもあり、新たな怪物を生み出す儀式であったのかもしれないのだ。事実、2004年11月、奈良市内で有山楓ちゃんを誘拐・殺害した罪に問われた小林薫被告は、「早く死刑判決を受け、第二の宮崎勤か宅間守として世間に名を残したい」と語ったという。
この雨宮の言葉に対し、佐木隆三は『汚れた顔の天使』というアメリカ映画を紹介した。この映画は、1938年の作品。マイケル・カーティス監督、ジェームス・ギャグニーが主演のギャング映画だ。
出所したギャングのロッキーは、町の不良少年のヒーローとなる。牧師として不良少年たちの更生に力を注いでいた彼の幼なじみのジェリーは、少年たちを危ぶんでいた。そんな時、裏切り者の悪徳弁護士を殺したロッキーは、逮捕され死刑宣告を受ける。嘲笑うかのように平然としている彼の姿に少年たちは一層感化されてしまうが、そんな彼等の未来を案じたジェリーはロッキーの元へ行き、ある頼みをする。
いよいよ死刑当日。電気椅子に進んだロッキーは、それまでの態度とはうって変わって「おれは死にたくない」と泣き声を上げ始めた。ロッキーの最後を新聞記事で読んだ少年達は、落胆しロッキーを軽蔑しはじめる。本当のことを知っているのは、ジェリーとロッキーの2人だけだった。この作品、実話が元だともいわれている。
あれで途中で謝ったり反省したら、一気に宅間嫌いになりますね、宅間信者は。
雨宮の指摘した通り、私たちは、宅間を人間にしなくてはならなかったのだ。怪物のまま死なせてはならなかった。ANOTHER MONSTERを生み出さぬためにも。
怪物・・・?怪物なんておらんよ。ヨハンは人間だった・・・・。特にミュンヘン大学図書館を炎上させて以降は、彼は人間になるために生きていた・・・そう思うよ。少なくとも人を殺すことを何とも思わない人間を、総称して?怪物?と呼んでいる間は、われわれは殺人という行為をなくすことはできない。彼らを同じ人間と思い、見つめることだ。怪物と呼ばず、われわれと同じ、名前を持つ人間だと考えること・・・・。それが、ヨハンが何であったかを理解する鍵なんです。(『ANOTHER MONSTER』)
過ぎた時を引き戻すことはできない。たとえ過去に返ることができたとしても、宅間の心がそう簡単に変わるとも思えない。しかし、しかし・・・彼を怪物ではなく、一人の人間として見つめていくことは出来る。なぜ人間である彼が、そんなことをしてしまったのか。どんな環境が彼をそんな生き方に向かわせたのかと。それが私たちにできる、たったひとつの怪物退治の方法なのではないだろうか。
前回貼ったものと全く同じコピペで申し訳ないのだが、事件の本質を一番よく表しているものだと思うのでもう一度。この件の死刑執行でそれまで万全だったはずの日本の死刑制度の意味を懐疑的にさせられてしまった訳だが、「反省もなく関係者に暴言を吐き続け」「死にたいと宣言した失う物のない犯人を」「特例措置を認めて異例の早さで死刑執行した」ことで、犯人の希死念慮や思想・主張も含めたメッセージが届いてしまったのではないか。だから日本に突如として現れた彼らのような犯罪者には単に自殺願望だけでなく、ある種の復讐心や抗議の意志のようなものも含まれているのではないかと考える。その意味で、こういう議題でアンチテーゼとして出されるようになった新幹線殺傷事件の小島(無期懲役になるために人を殺した)も同質のメンタリティを持つ犯罪者だと思う。(彼がこれまでの犯罪の慣例を覆して取った選択が今後吉と出るか凶と出るかはまだ分からないが)
最近はこの手の犯罪は下火になってくれているように思うが、こういう犯罪の歴史がある以上また再燃するかもしれないし、その一連の経緯は多くの人が知っておいて損はないはず。(植松の控訴取り下げ死刑確定等もあるし)
最後に、池田小事件に衝撃を受けた自分の個人的感情として「学校の安全管理のあり方が変わった」ということでしか重大性を広めようとしないメディアの方針がどうしても納得できない部分はあった。他の人の記事やコメントから察するに、(他の重大事件と比べて)加害者に焦点を当てた話に中々なってくれないのは、犯人の事件前までの境遇が特殊・異常すぎて典型的な犯罪形成論に落とし込めずに敬遠されているということなのだろう。その一方でコロンバイン高校銃乱射事件と双璧で、「テロ組織・過激派勢力やそれに属するローンウルフですらない、ただのバラバラの犯罪者のままでありながら、社会に影響を与える脅威となりうるレベルで、犯罪の意味や模倣性を与えてしまった事件」だったとも思っている。そういう啓示を与えてしまったこの事件こそ、犯罪者の観点から語り継がれるべきだというのは、くどいようではあるが強調したい。
TPOをわきまえず社会に溢れている性的搾取表現、エロ表現が性犯罪を助長している、というのがフェミニストの言い分。
つまり性犯罪者は「性的搾取表現」「エロ表現」が溢れている環境のせいで性犯罪を実行したということで
介護疲れで親殺しをした殺人犯と同様に情状酌量および減刑の余地は大いにあるはずだ。
そこを大々的にアピールして裁判所から「TPOをわきまえない性的搾取表現に影響されて性犯罪に走った」という判決文を引き出せば
司法の判断が出たという明確な根拠をもって法規制につなげられる。
ツイッターやフェイスブックで「キモオタ」「ネトウヨ」「ミソジニー」「エロ表現の自由戦士」を連呼するよりもはるかに実効性がある。
痴漢をしたのはアツギのタイツ広告の責任、レイプをしたのはスマホに溢れているエロマンガ広告の責任、
この手の性的搾取表現を放置している社会にそそのかされて性犯罪を犯すに至ったのだから性犯罪者は社会構造の犠牲者、
だから減刑あるいは無罪にするべき、という運動を全力で展開する方がいい。
常日頃からエロ表現を潰したい警察・検察は「性的搾取表現に影響されて性犯罪に走った」という判決を裁判所が出しても控訴しないだろうし
性犯罪者とされた側も減刑、もしかしたら無罪になって社会復帰できる。
被害者は責任認定された性的搾取表現を提供している側から賠償を取れるだろう。