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はてなキーワード: 言論の自由とは

2021-05-08

anond:20210508220956

賛同が得られるかは知らんが、当然してもいいんじゃね?

どうみても言論の自由やろ

バカ発言

バカ無知は頻繁に適当なでまかせを言ってるけど、彼らにも一応言論の自由はあるからこれはしょうがない。ただバカ発言に耳をかすな!壁に向かって喋らせておけ!全ての発言に対して真面目に検討する必要はない。もしあらゆる発言に対して検討する必要はあるというならまず俺は5000兆円欲しいからこれについて検討してくれ

2021-05-06

言論の自由を守りたい

侮辱罪や名誉毀損罪言論の自由を奪ってる

2021-04-14

anond:20210414193502

政権擁護に限らないが、政権擁護には間違いなくいる。

民主主義社会の定めだね。ネトサポ利権貪るやつも国民には違いなく言論の自由はある。無論きちんと反論しない政権擁護おかしなことをするやつの好き勝手にされる。

2021-03-30

anond:20210330080150

言論の自由威力業務妨害を一緒にしちゃダメだよ

メーデー集会の真ん中で枝野演説中に拡声器でヤジ飛ばしたら、あっちでやれって排除されるのと同じこと

日本の往来のど真ん中で「天皇のアホ!カス!」と言っても変な目で見られる程度だが

中国天安門広場で「くまのプーさん中共ファシスト共!この国は自由なきディストピア!」

北朝鮮平壌で「金正男人造人間19号デブ!肥太った無能!」って叫ぶと

逮捕されたり殺される

から日本はまぁ、言論の自由はあるってこと

2021-03-29

anond:20210329160649

価値人間が発した言葉でも口に出せば相手側にはダメージがあるのがよく分かる

為政者言論の自由を封じたいはずだわ

2021-03-28

anond:20210328110112

なんか微妙コメントついてて笑った

雑に書き散らしてて申し訳いからせめて追記しておくわよ

grdgs そうやって自分が高みから見下したつもりで冷笑的に言論の萎縮を図るのって気持ちいいみたいですね。一部の人にとって。普段言論の自由が何より優先って言っている人はよくそういう態度とりますよね。

言うほど高みか?どちらかというと、人間認知能力なんて良くて生活圏の把握くらいしかできないんだから自分も含めた99%の人間はその場の感情に振り回されながら殴り合うしかないという前提は共有されるべき、的なことを言いたかったんだけどね。

実際、元増田はかなり高度なことを要求していて、まず『一枚岩ではないアンチフェミに対し解像度を上げて理解』しつつ『アンチフェミの根幹にあるフェミニストへの不満を掬い上げ』『フェミニズムへの反感を無くす(=アンチフェミを無くす)』ことが必要だと説いている。非常に建設的な提案だと思うが、同時に非常に非現実的理想論でもある。なぜかというと、まず一度敵である認識した相手、ここでいうアンチフェミ(もしくはフェミニスト)を、感情度外視して冷静に理解することはスーパーマンでないと成しえない特殊技能からだ。ほとんどの人間自分と相反する意見を見ると強い嫌悪感を催して攻撃か逃避に走るしかなくなる。

からさまな攻撃に見えなくても多くはこれに当てはまる。例えば、はてなで定期的に行われる「ブクマカ属性当てはめゲームをしているだけで差別のものには興味がない」みたいな指摘はわかりやすい。より正確に言うなら、ゲームを楽しんでいるというよりは「自分感情に任せた攻撃」という体裁の悪い行為既存反差別の枠組みを使って自他から覆い隠した結果生じた矛盾、ということになるのかも。要は社会的正しさや合理性経済性、伝統etcといった既存第三者的理論研究権威を掲げているからといって、イコール冷静な議論を試みていることにはならないのだ。

ともあれ、活発に活動する動機を持ったほとんどの人間が、普段生活過去経験から強い問題意識をもって活動を始めている以上、こうした攻撃からは逃れられないと言っていいと思う。

でも、それを否定したいわけではない。ほかのブコメにもあるように、「それでも何か意味がある」と信じて殴り合いの仲裁に入るのも泥沼でもがき続けるのも、自分は決してやめるべきではないと思うし、そうした人間のおかげでこれまでも社会が変わってきたんだろうという実感がある。

ただ、だからこそ元増田が求める冷静さはあまりナイーブで、ともすればちょっとした出来事大衆失望して理想を全て投げ捨てかねない不安定さを感じてしまって、つい口をはさみたくなってしまう。結局のところ考え方の好みの問題なんだが、これも『冷笑的に言論の萎縮を図る』ことになっちゃうんかね。

「東アジア反日武装戦線」の初心と過ち

韓国発の映画『狼をさがして』は何を描いているか

太田昌国 評論家編集者

 韓国発のドキュメンタリー映画『狼をさがして』が間もなく日本で公開される。金美禮(キム・ミレ)監督2020年作品で、原題は『東アジア反日武装戦線』という。映画が描くのは、1974年から75年にかけての出来事――「東アジア反日武装戦線」(以後、「反日」と略す)を名乗る人びとが「連続企業爆破」を行ったこと――とその背景である

歴史像と世界像が一新されてゆく時代のただ中で

 描かれる時代は、アジア太平洋戦争日本帝国敗戦してから30年近く経った時期に当たる。活動を担ったのは、敗戦から3~5年経った頃に生を享けた、当時は20代半ばの若者たちだった。いわゆる「団塊の世代」に属する。その彼ら/かの女らは、敗戦以前に日本がなした植民地支配および侵略戦争責任を問うた。同時に、戦後過程はすでに30年近い長さに及んでいるにもかかわらず、日本がその過去清算することもないままに、改めて他民族に対する加害国と化している現実に警告を発した。手段として使ったのは爆弾だった。

 その標的はまず、戦前絶対無謬の存在として日本帝国を率い、戦後は「平和」の象徴となった昭和天皇に向けられた。だが、「お召列車」の爆破計画が実現できなくなった後は、戦前戦後を貫いて繁栄する大企業に的を絞った。

 戦後日本象徴する言葉は、長いこと、「平和民主主義」だった。それは新憲法を貫く精神でもあると多くの人びとが考えていた。

 天皇戦争責任が問われることも裁かれることもなく始まった戦後は、「一億総無責任体制」となった。この体制の下では、日清戦争以降、断続的にではあっても半世紀もの間(1894年1945年アジア太平洋地域戦争を続けた近代日本実像を覆い隠し、この戦争全体像を、最後わずか3年半の「日米戦争」に凝縮して象徴させることが可能だった。広島長崎の「悲劇」を前面に押し出し米軍占領下の沖縄辺境ゆえに無視して、日本全体があたか戦争の「被害国」であるかのようにふるまった。「反戦平和勢力」の大勢も、そのことに疑いを持たなかった。

 1960年安保闘争の時にも、1965年日韓条約反対闘争の時にも、戦前日本帝国がなした対外政策と関連づけて現在分析する言動ほとんど見当たらなかった。すなわち、日本社会総体として、近代日本が持つ「植民地帝国」としての過去をすっぽり忘れ果てていたと言える。

 1960年代後半、この社会思想状況はゆっくりとではあっても変化し始める。日本は、高度経済成長過程で目に見える形での貧困は消え失せ、急速に豊かになった。この経済成長最初の基盤となったのは、1950~53年の朝鮮戦争による「特需景気」だとする捉え方が常識となりつつあった。

 時代はあたか米国ベトナム侵略戦争の渦中で、沖縄を軸に多数の米軍基地があり、インドシナ半島輸送される米軍物資調達地でもある日本は、再度の「特需景気」に沸いていた。近くに住むアジア民衆が苦しんでいる戦争によって自分たちの国が総体として豊かになっていく――この際立った対照性が、とりわけ若い人びとの胸に突き刺さるようになった。

 加えて、米国でのベトナム反戦運動は、黒人先住民族インディアン)の権利回復の動きと連動していた。植民地主義支配人類史に残した禍根――それが世界じゅうで噴出する民族問題の原因だとする意識が、高まっていった。

 「東アジア反日武装戦線」に所属した若い人びとは、それまでの歴史像と世界像が一新されゆくこのような時代のただ中にいた。彼ら/かの女らは、日本近代史と現在が孕む問題群に、「民族植民地問題」の観点から気づいたという意味では先駆的な人びとだった。

「重大な過ち」の根拠を探り続けた歩み

 「反日」はこうして獲得した新たな認識を、すぐ実践に移そうとした。当時刊行された「反日」の冊子『腹腹時計から鮮明に読み取れるのは、次の立場だ。「そこにある悪を撃て! 悪に加担している自らの加害性を撃て! やるかやらないか、それだけが問題だ」。政治性も展望も欠いた、自他に対する倫理的な突き付けが、行動の指針だった。「反日」が行った、1974年8月30日東京丸の内三菱重工ビル爆破は、8名の死者と385名の重軽傷者を生み出す惨事となった。

 「反日」にはひとを殺傷する意図はなかった。事前に電話をかけて、直ちに現場を離れるよう警告した。だがそれは間に合わなかった。しかも、なぜか「反日」は三菱爆破の結果を正当化し、死者は「無関係一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表した。映画の前半部で、この声明文がナレーション流れる

 多くの人びとはそこで「引く」だろう。半世紀前の当時もそうだった。それゆえに、彼ら/かの女らは、日本では「テロリスト」や「血も涙もない爆弾魔」の一言で片づけられてきた。

 その責任の一端が、「反日」そのもの言動にあったことは否定し得ないだろう。だが、実はそこにどのような内面の思いが秘められていたのかということは、路傍の小石のように無視されてきた。そんな渦中にあって、獄中の彼ら/彼女らは初心を語ると同時に、自らが犯してしまった重大な過ちの根拠を探り続けた。獄外には、その試行錯誤を〈批判的に〉支え続ける多様な人びとの存在があった。映画『狼をさがして』は、これらの獄中・獄外の人びとの歩みを74分間の時間幅の中に刻みつけている。

過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない

 画面には登場しない「主人公」のひとりは、「反日」狼部隊大道将司である。彼は2017年5月、長らく患っていた多発性骨髄腫で獄死したが、死刑が確定してのち、彼はふとした契機で俳句に親しむようになった。生前4冊の句集にまとめられたその作品は、人間関係自然とのふれあいも極端に狭められた3畳間ほどの独房にあっても、人間はどれほどの想像力をもって、ひとが生きる広大な世界を、時間的にも空間的にも謳うことができるものかを証していて、胸を打つ。それは、ひとを殺めたという「加害の記憶悔悟」を謳う句において、とりわけ際立つ。

 映画でも紹介される「危めたる吾が背に掛かる痛みかな」もそうだが、他にも「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ」「春雷に死者たちの声重なれり」「死は罪の償ひなるや金亀子」「ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな」「いなびかりせんなき悔いのまた溢る」「加害せる吾花冷えなかにあり」「秋風の立ち悔恨の溢れけり」などの秀句がある。

 「反日」のメンバーの初心と、結果としての重大な過ちを冷静に振り返るこの映画制作したのは、韓国映画監督キム・ミレとその協力者たちである。ふとした機会に「反日」の思想と行動を知ったキム・ミレ監督がこの映画制作したのは、「人間に対する愛情、その人間を信じること」からだったという(「『狼をさがして』――金美禮監督に訊く」、東アジア反日武装戦線に対する死刑・重刑攻撃とたたか支援連絡会議=編『支援ニュース』420号、2021年3月6日)。社会正義のために、加害国=日本搾取され殺された東アジア民衆の恨みと怒りを胸に行動した結果、数多くの人びとを死傷させてしまった、つまり自らが加害者になったという事実に向き合ってきた「反日メンバーに対する思いを、かの女はそう語る。

 だが、その裏面には、次の思いもある。彼らは「長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向き合って生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも『加害事実』に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを質問するようにしてくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。」(キム・ミレ「プロダクション・ノ-ト」、『狼をさがして』劇場パンフレット所収)。

 74~75年当時の「東アジア反日武装戦線」のメンバーからすれば、韓国の人びととの共同作業は「見果てぬ夢」だった。日本自分たち戦後の「平和民主主義」を謳歌している彼方で、韓国および北の共和国の人びとは、日本植民地支配を一因とする南北分断と内戦、その後の独裁政権の下で呻吟していたからだ。

 そんな時代が40年近く続いた後で、少なくとも韓国では大きな体制変革が起こった。表現言論の自由を獲得した韓国新世代のなかから、こんな映画をつくる人びとが現われた。キム・ミレ監督は、この映画日韓関係の構図の中で見られたり語られたりすることを望まないと語る。過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない。日本韓国も、どの国でも同じことだ、と(前出『支援ニュース』および2021年3月18日付「東京新聞」)。

脈打つフェミニズム視線

 最後に、もうひとつ、肝心なことに触れたい。この映画を際立たせているのは、女性存在だと思われる。

 刑期を終えたふたりの女性が、生き生きとしたその素顔を見せながら、獄の外から窓辺に寄ってきた猫との交友を楽し気に回想したり、かつて自分たち闘争に大きく欠けていたものを率直に語ったりする。前者の年老いて元気な母親は、娘が獄に囚われてから、娘と自分たちを気遣う若い友だちがたくさんできたと笑顔で語る。二人は自宅の庭を眺めながら、「アリラン」を歌ったりもする。

 キム・ミレ監督らが撮影する現場に付き添う姿が随所に見える女性も、長年「反日」の救援活動を担ってきた。撮影すべき風景、会うべきひとについて、的確な助言がなされただろう。

 死刑囚の獄中書簡集を読んで、あん事件引き起こしたひとが自分と変わらぬ、どこにでもいるふつう青年だと知って、縁組をして義妹となったひとの語り口もごく自然だ。女たちの運動を経てきたと語るかの女の言葉を聞いていると、獄中の死刑である義兄とは、媚びへつらいのない、上下関係でもない、水平的なものだったろうと想像できる。

 そして、もちろん、韓国人のキム・ミレ監督女性だ。弱い立場にある労働者現実を描いてきたかの女は、男性の姿ばかりが目立ち、男性優位の価値観が貫いている韓国労働運動の在り方に疑問を持ち、スーパーで働く非正規女性労働者が大量解雇に抗議してストライキでたたかう姿を『外泊』(2009年)で描いた。日本でも自主上映されたこ作品に脈打っていたフェミニズム視線が、『狼をさがして』でも息づいていることを、観る私たちは感じ取るだろう。

2021-03-26

LGBT差別されたくないなら精神障害者扱いするなって主張するのやめろよ

その表現精神障害者当事者がどれだけ傷つくか想像力もないから、差別されるんじゃないですか?

精神障害者扱いするなってどれだけ傷つくかわからないんですよね、それって相当酷いですよ。

精神障害は原因が分かってきてるけど、同性愛とかトランスジェンダーとか、そっちの方がはっきりしてないんですよ。

なぜ同性愛者が誕生するのかはっきりしてないのに、なぜ精神障害者と同じにするな!という言葉で誰かを傷つけるんですか?

自分たちが傷付いたからと言って他の誰かを傷つけていいんですか?

私は生まれ性別と体が違う!と言い出す人はあなた方が言う精神障害者だと思いますし、同性に性的に興奮する人もちょっとおかしいなと思ってますよ。でもそれを異常だって言ったら怒るじゃないですか。

言論の自由もないんですよ。だいたい精神障害者の中には鬱とかも含まれますよね、どの精神障害者だと思って同じ扱いするなと言ってるんですかね、統合失調症あたりですか?そちらさんだって知りもしない知ろうともしないくせにずいぶんな言い方しますよね。

見えないんですよ結局精神障害者同性愛者もトランスジェンダーとやらも。

年金貰おうが雇用枠があろうが生きづらさは別にLGBTの方が精神障害者の方が上とか下とかないんですよ。

なぜ誰かが傷つく表現をやめないんですか?そちらがやめないんだったらこからBL漫画たくさん買うし、手を繋いでる男同士がいたらBLだーって思うし女の子同士の友情百合表現することはやめないしトランスジェンダーの人をおかまだおなべだと言うのはやめませんよ。

2021-03-24

anond:20210324132758

全く同感で、問題は「理のある意見」を明らかに越えた意見までフェミニズムの一貫として一部の「フェミニスト」(括弧付き)により主張されている点では。

それ自体言論の自由があるので認めるべきだけど、他の社会運動であれば団体が「同調しない」なり表明するよね(同時に政府企業に主張を通すべく活動(交渉)する)。いい加減それがない活動ってどうなの、とは思う。

2021-03-12

かわいい禁止令はアンチヒューマニズム

ブクマの上位に挙がっていた「かわいい人にかわいいと言うのは、僕としては結構ありえない 」って記事だが、

これに同意できない。(記事URLhttps://note.com/yasuharakenta/n/ne19f1e86e899

痴漢とか、通り魔とか、「おかしてー(犯したいの意)」とか言うのが駄目ってのは同意、当たり前だが。

私が同意できないのは、他人容姿言及について。

記事はかなりまとまりがなくて、主張が曖昧なので批判しにくいが、

容姿言及に関しては、

・付き合いたいのなら容姿のことに言及するのは方法として上手くない

相手性的に眼差されることによる恐怖を与えるからよくない

とか多分そんな感じのことを主張していると思う。

(注:元記事モテ戦略をメインで扱っているが、容姿への言及自体の悪性も割と強く主張している。)

で、考えるまでもなく、これらの主張の正当性は状況や人に依存する。

見ず知らずの人に急に「かわいい」とか言われても怖いだけなのは当然。

でも、インカレサークル新歓で気になる異性にアプローチすることは自然なことだ。

というかそういう飲み会をするようなインカレサークルは、

普通手っ取り早く好みの異性を見つけるための場所だろう(知らんけど)。

また人の恋人観なんてのはかなり多様で、精神的に分かりあうのを大切にする人もいれば、

とにかく好みの容姿を持つセックス相手を見つけたい人もいる。

後者場合だったら、欲望むき出しのアプローチがむしろ上手くいって、

丁重に接するのは面倒がられるだけかもしれない。

例えば元記事の場面でもこういう風に盛り上がる場合もある訳だ。

先輩「かわいいねー」

後輩「えー、そんなことないですよ」

先輩「いや、かわいいって!」

後輩「そうですかー笑?ありがとうございます!」

先輩「やっぱり自分のこと可愛いと思ってるんだ笑!」

後輩「はめないでください笑」

こんなのは自分でも書いててちょっとキモいけれども、

似たような光景を見たことのある人はいくらでもいるだろう。

飲み会の場でこういう軽薄なやり取りは、アイスブレイキング機能もあるし、

なにより彼らはこれを楽しんでいる。楽しんでいる人にとっては、

「人にかわいいっていうのは結構あり得ない」とか言って、

勝手に慮った態度で冷や水を浴びせてくるやつの方がよっぽどキモい

ここには「本当は君はこんなコミュニケーションを求めてないはずだ」っていう

決めつけがあるし、実のところそれは自分の願望を投影してるだけ。うっせぇわって話。

あと元記事には「かわいい」と言うのは「やりたい」と言うのと同じなんて書いてあるが、

これは目を疑うレベル妄言。美しいものに感動したことはないのだろうか?

また馬鹿らしいだけでなく、容姿言及する人を性欲に支配された粗野な人であるかのように

レッテル張りしてる意味でかなり悪質でもある。

TikTok性的コメントだっていつも不快なわけではなく、喜ぶ人だって沢山いるだろう。

それを容姿への肯定理解して喜ぶ人もいれば、内容はどうであれバズることに快感を感じる人もいるし、

かに相手してもらえること自体に喜ぶ人もいる。

twitterに裏アカ女子なんてのが沢山いることからしてもこんなことは明らかだろう。

ただ勿論、容姿への言及に傷つく人もいて、だから問題は傷つく人がいるからやめるべきなのかということ。

世間には快より不快の除去を優先するのが当たり前と考える人結構いるが、そんなルールはない。

そして容姿への言及によって生じる快不快はどちらもときに重大で、人生を変えてしまうほどの影響をもつこともある。

これは相対的立場をとって、どっちつかずでごまかそうというのではなくて、私たちは容易にそういう人たちを想像できるし、

場合によっては知ってさえいる。

キモくて性的コメントであれ、容姿を褒められ、それをきっかけにファッション美容に興味が出て、

自己変革に成功した人だっているだろう。「良心的」な人間の「良心的」なコメントでのみ人は良く変われるなんてのは

人間アンビバレントなあり方を無視している。キモいけど嬉しいことだってある。

勿論、容姿への言及不快精神を病む人もいるだろうが。

で、ここまで来ると、この問題はよくある多様性の受容の議論と相似であることに気づく。

まり自分にとって不快だけれども、他人にとって快だから存在を受け入れようという話。

から私は人には容姿への言及をする自由があり、それは悪いことではないことを受け入れるべきだと言いたい(一応言っておくと私は他人容姿には基本言及しない)。

勿論、同じ論理を使って、容姿への言及不快な人にとっては「容姿への言及があること」が不快で、「容姿への言及がないこと」が快なのだから

容姿への言及をしたい人は、「容姿への言及がないこと」を受け入れるべきだと論理的には言えるのだが、

実際にその論理が受容され、浸透することはないだろう。

なぜなら容姿への言及は明白な悪でなく、人のコミュニケーション自由(≒言論の自由)が保証されることは明白な善だからだ。

ヘイトスピーチでさえ直ちに規制されなかったのだ、言論の自由価値理念的にも実際的にもどこまでも重い。

一応注意しておくと、「容姿への言及自由を受け入れろ」ってことで、「自分に向けられたそれを受け入れろ」って話ではない。

まりあなた容姿言及されて不快であれば、それに苦言を呈すのは自由だが、

相手社会的悪事をなしたわけではなくて、相手あなたにとって不快発言をしたに過ぎないということ。

そしてそれを喜ぶ人もいることを認めるべきだということ。

自分にそういう発言が向けられるのを予防したかったら、そういう禁止令を確立しようとするのでなくて、

自分で予防策をとるしかない。例えばゾーニング

まり、そういうことを言う人間と同じコミュニティに属さないというのが一番簡単だろう。

あとはそういうのが嫌な人間だということを常々アピールしておくとか。

(注:会社上司から言い寄られるとか、バイト先の客がしつこく絡んでくるとかは対処しにくいが、

これらは粘着的な気質ストーカー気質問題で、容姿への言及がなくなったところで解決しない。)

こう言うと、「何故被害者側が労を取らなくてはならないのか」とか

「私のメンタルでは無理」とか言う人もいるかもしれないが、

そういう人は世界自分のためにできているわけではないことを受け入れなくてはならない。

記事のような主張を、何故か個々人の精神尊重するヒューマニズム的な考えと捉える人もいるようだが、

それは明確に誤りで、自己中心的な排他思想に過ぎない。

とかなんとか色々書いた挙句、私の根底にある考えがうまく表せていない気がするのでここに文脈無視して書くが、

私は他人と関わるときにしばしば生じる想像を超えた事態――例えば、人と話すうちに一度も考えたことのない内容が口から流れ出たり、他人の思いがけない側面が表れたりするーー

に遭遇するとき、強く人間の魅力というものを感じる。異質な人間を許容することはときに誰も悪くないのに悲劇をもたらすことはあるけれども、

私は人間同士の交わりから生じる偶然にはそれを差し引いても余りある価値があると思っていて、

記事のように異質な人間範疇を狭め、無毒化しようとする考えは受け入れがたいのだ。

2021-03-11

チャーチル名言自分自由に好きなことを言える、というのが言論の自由だと考え、誰かに何か言い返されると激怒する人たちがいる」

今も昔も変わらないのだな

「誰もが言論の自由を支持している。賞賛されない日はない。しかし、一部の人の言う言論の自由とは、自分けが自由に好きなことが言えるということである。誰かに言い返されると激怒するのだ。」

Winston Churchill “Everyone is in favor of free speech. Hardly a day passes without its being extolled, but some people’s idea of free speech is that they are free to say what they like, but if anyone says anything back, that is an outrage.”

https://www.goodreads.com/quotes/17797-everyone-is-in-favor-of-free-speech-hardly-a-day

https://www.getreading.co.uk/whats-on/whats-on-news/piers-morgan-meghan-churchill-quote-20031718

2021-03-09

anond:20210308231702

少なくともあの国民主主義レベルは相当下だろ

こんな法律がすんなり通ってしまうくらいだぞ

http://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2021030880090

社説韓国与党懲罰的損害賠償法の制定強行、ロシアフィリピン並みの言論統制国になるなんて

 国際新聞編集者協会(IPI)のバーバラトリオンフィ事務総長は「メディア懲罰的損害賠償を求めることができる法律が導入され、言論の自由制限されるならば、韓国を『コロナ流行期にメディア規制を導入した国』のリストに追加する」と述べた。韓国与党共に民主党メディア報道に最大3倍の懲罰的賠償を課す法案の制定を推進している。「フェイクニュースを防止する」という名分だが、実際には批判的なメディアにさるぐつわをはめる意図だ。

 IPIは全世界100カ国の新聞放送発行人編集者らが会員として加盟している最も影響力があるメディア団体だ。現在IPIの言論統制リストにはロシアフィリピンタイカンボジアヨルダンルーマニアアゼルバイジャンなど17カ国が含まれている。トリオンフィ事務総長は「これらの国はいわゆる『フェイクニュース防止法』を言論統制手段として使っている。韓国問題となる状況であり、注視している」と述べた。世界10位以内の経済大国であり、民主主義である韓国独裁・低開発区と並んで言論統制国の汚名を着せられる格好だ。

 ロシア公共安全に深刻な問題を生じさせる誤った情報を流布した場合、最大1億5000万ウォン(約1440万円)の罰金を科し、国家に害となる文章を削除しないウェブサイト遮断する法律も制定した。ハンガリーコロナ対策妨害する情報を広めた場合罰金懲役刑を科す法律を可決した。何が誤報で害に該当するのか基準すら明確ではない。

 文在寅ムン・ジェイン政権が推進している法律も同じだ。虚偽または不法情報で損害を受けた場合懲罰的賠償を命じるとしているが、それを判定する基準がない。インターネットフェイクニュースけが対象だと言っていたら、メディアポータルサイトも全て対象に含めた。

 常にフェイクニュースを広めた張本人はむしろ与党関係者だ。今回の法律を推進する与党タスクフォース(TF)団長聴聞会で虚偽の写真を使い、企業経営者攻撃した。文在寅大統領は「日本福島原発事故で1368人が死亡した」と述べたがフェイクニュースだった。「外国製薬会社韓国ワクチン契約を早く結ぼうと言っている」という保健福祉部長官の言葉事実ではなかった。そんな勢力が逆にメディアを掌握しようと棒切れを振り回し、大韓民国言論統制国へと向かわせている。

2021-03-07

anond:20210306213555

たとえば私は天皇制廃止すべきだと考えているが、世論調査では天皇制に反対する人はずっと一割を切っている。周囲の人間ランダムに選べば十人中九人以上はこの点で私と考えが違うわけである。まあ日常生活でいきなり天皇制の話をする機会は少ないが、先日の代替わりだの改元だのの騒ぎの時には、自分が少数派であることをあらためて意識させられた。特に天皇問題については、過去右翼の襲撃のような直接的暴力による脅迫があり、言論の自由が大きく損なわれたことを知っておくべきだろう。「じゃあこっちはどうなんだ」をあまり振り回したくはないが、ポリティカルコレクトネスなどによる言論不自由懸念するのであれば、日本社会にはびこる天皇をめぐる言論不自由にも一通りの知識と関心は持ってほしいと思う。

右翼の極一部、恐らく一人か多くても数人、が襲撃とか脅迫とかしたところで、それを国民とかメディアが受け入れる段階がないと言論不自由とはいえないと思うんだが、、、だって国民のほぼすべてが自由主義者でもたった一人の過激派がいたら事件は起こってしまうわけで

その点ポリコレは大きな流れになっちゃってるよね

そこがポリコレ極右過激派立場上の違いだよ

報道機関ってなぜ武装しないの?

言論の自由を守るのは命がけだ!」とか、いつも同じことを言い続けている割には丸腰で何の対策も取っていないよね。

米国では(基準を満たせば)私企業も私設部隊を作ったり、傭兵を雇うことができる。

朝日新聞襲撃事件だって、私設部隊がいれば抑止力になれたはず。

分かりやすく言えば、ゲームバイオハザード3に出てくるアンブレラの私設部隊U.B.C.Sのような武装組織

2021-03-06

シグロ氏の発言について、ある左翼かつリベラルから見た感想

この記事が注目を浴び、多くのブコメが集まっている。

"カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ"

https://toyokeizai.net/articles/-/414929?display=b

まず、私は自分が大別すれば「左翼」かつ「リベラル」の立場にあることを自覚している。左翼定義リベラル定義の困難さ、特に現在日本で「リベラル」が「左翼」の言い換えのように使われて混乱が生じていることは十分承知しているが、そのあたりに触れるといくら前置きをしても足りなくなるので、要するにここを見るような人間たちがイメージする「左翼」であり「リベラルであると考えてもらえばいい。ただし、左翼かつリベラル、というように私はこの両者は区別している。区別した上でどちらでもあるということだ。参考までに、最近やってみた下記サイトポリティカルコンパスでは、

https://www.idrlabs.com/jp/political-coordinates/test.php

61.1% 左派, 72.2% 自由主義者

という結果だった。これを見てもわかるように「左派」と「自由主義」(リベラル)は別軸である混同している人は気をつけてほしい。

そういう一人の人間として、件のイシグロ氏の発言への感想や疑問を書いてみる。

まず、社会制度の大枠を議論したり決定したりする際に、感情より科学的なデータエビデンスが重視されるべきだというイシグロ氏の意見には私も異論がない。陰謀論フェイクニュース似非科学歴史改竄代表されるような事実軽視は、それが誰によるものであれ批判したいと思う。私は左派だが、左派の中にこの種の問題がないとも言わない。

たとえば近年では、日本共産党などがHPVワクチン副反応被害者立場に寄り添うあまり、反ワクチン的な言説を許してしまっている(自分で言わないとしても、運動内部のそういう言説をはっきり否定しない)ことを歯がゆく思っている。誤解している人もいるようだが、日本共産党本来ワクチン否定的ではない。HPVワクチンについても、むしろ導入を行政要求したりしてきた。しか副反応被害を訴える声が上がり、裁判になってその原告支援する立場となると、原告側の科学的根拠が弱い言説に対しても必要以上に寛容になっているように見える。それが被害を訴える原告の「感情」を優先したためなのか、あるいは裁判運動を進める上での利害を計算したためなのかはわからない。そのあたりは人によっても違うだろう。しか現在出ている科学検証の結果が原告側に有利ではない以上、主張はデータを軽視しつつ苦痛の強調など感情に訴えるものになりやすい。イシグロ氏が言う「科学エビデンスより感情が優先される」問題として私が連想したのはこのような例だ。

この件で一応私の意見を言っておくと、副反応を訴える人にはなるべく広く補償適用しつつ、HPVワクチン自体は普及を進めるべきだと思っている。副反応裁判原告団体については、補償範囲を広げる運動としては支持するが、同時にHPVワクチンの勧奨再開に反対したり、さらには反ワクチン的な主張をする人物が混じっているのが支持できない。また便宜的に日本共産党名前を出したが、私は共産党員ではなく関係も薄い。共産党に限らずHPVワクチン訴訟原告支援する左派政党や団体に共通する問題として挙げた。

しかし多くの部分で、私はイシグロ氏の発言同意できず疑問を感じる。そもそも現状認識が私とは大きく違うように思うからだ。たとえば次のような部分だ。

"小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラル進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思いますリベラル側の人たちはこれまでも本や芸術などを通じて主張を行ってきましたが、そうでない人たちが同じようにすることは、多くの人にとって不快ものかもしれません。

しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です。

リベラル側の人が理解しないといけないのは、ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許ではなく、誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけないということです。"

ここは私には非常に疑問が湧くところだ。何よりわからないのは、いったいいつどこの世界で「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」になったのかということだ。

シグロ氏が住むイギリスのどこかにはそういう特殊場所もあるのだろうか。まあおそらく、イシグロ氏が属するコミュニティの大半が教養ある「リベラル」で、そこでは「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」はほとんど目につかず、その声が抑圧され死に瀕しているかのように錯覚してしまったのだろう。しかしイシグロ氏自身が言っているように、アメリカでは半数近くの人が一時的にであれトランプを支持し、イギリスではブレグジット派が不正ではない投票で多数を占めてしまったのだ。「リベラル進歩的な考えを持つ人たち以外の声」は十分に力を持ち、各国の舵取りに影響を与えている。

語ることがリベラル専売特許に見える世界とは、イシグロ氏を取り巻く知的文学芸術を愛する少数のインテリ世界のことでしかないだろう。イシグロ氏もそれを自覚はしているようで、だからこそ「縦の旅行」というようなことを言う。しかしその狭いインテリ業界での経験一般化し、世界全体がそうなっているかのように語ることこそがまさにインテリ傲慢であり、相変わらずその狭さに無自覚発言だとは気づいているのだろうか。

シグロ氏と違い、私は左翼でありリベラルである自分のような立場日本社会で主流になり、語る権利を独占しているなどと錯覚できたことは一瞬たりともない。たしかに近い考えを持つ人の集まる場所というものはある。しかしそういう場に足を運びながら、その場を一歩踏み出せば「世間」は全く違うのだと常に意識している。「縦の旅行」などするまでもなく、日本社会で「普通に」暮らせば、全くリベラルでない人、左翼蛇蝎の如く嫌っている人、そもそもそういう言葉も、そういう違いがあることも知らない人などに電柱並みの頻度で出会うのである

たとえば私は天皇制廃止すべきだと考えているが、世論調査では天皇制に反対する人はずっと一割を切っている。周囲の人間ランダムに選べば十人中九人以上はこの点で私と考えが違うわけである。まあ日常生活でいきなり天皇制の話をする機会は少ないが、先日の代替わりだの改元だのの騒ぎの時には、自分が少数派であることをあらためて意識させられた。特に天皇問題については、過去右翼の襲撃のような直接的暴力による脅迫があり、言論の自由が大きく損なわれたことを知っておくべきだろう。「じゃあこっちはどうなんだ」をあまり振り回したくはないが、ポリティカルコレクトネスなどによる言論不自由懸念するのであれば、日本社会にはびこる天皇をめぐる言論不自由にも一通りの知識と関心は持ってほしいと思う。

自由民主主義」の社会享受してきたと語るイシグロ氏は、部屋で文章を書くだけでなく、デモに参加し、街頭で語ったりビラを撒いたりしたことがあるのだろうか。それは自由民主主義を維持するための不可欠な活動の一つなのだが。やってみるとわかるが、街頭では温かく応援してくれる人だけでなく、口汚く罵ってくる人にも出会う。私の知人の中には、突然殴りかかられてけがをした人さえいた。手渡したビラを一目見るなり舌打ちして破り捨てる人もいる。私たちはその断片を拾う。それでも受け取ってくれるだけましとも言え、多くの人は避けるように通り過ぎていく。「自分とは違う世界がある」どころか、周囲の人の大半は自分とは違う考えだが、それでも少数者として声を上げていくことは無意味ではないはずだ、と私は自由民主主義社会で日々自分に言い聞かせている。

日本左翼をやっていると、自分投票した候補者当選することも少ない。民族的性的、その他さまざまなマイノリティ権利擁護運動に関わっていると、そもそも多数決に任せれば無視されるのが当然、そういう世界いか存在認識させ、主張を届けるかというのがあらゆる活動第一歩になる。言うまでもない前提だ。

上記のイシグロ氏の発言で何度読んでもわからないのは、「多様性」についてわざわざ「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味多様性ではなく」と言っていることだ。これは何なのだろう。イシグロ氏はここで、「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」と「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」をあえて対立させ、前者より後者多様性重要であるように言う。前者の多様性と同時に、それに加えて後者多様性も、というならまだわかる。しかし、少なくとも多数決投票勝利したことのあるような「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」の声を「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」の声より優先して聞こうというような提案が現状の「多様性」をどれだけ高めるというのだろうか。

また、「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語る」という記述を読んで私が疑問に感じるのは、これはいったい誰が、どの立場から語るのだろうか、ということだ。翻訳問題などもあるのかもしれないが、これを読むと、その人々の世界を外の人間が「誠実に」語ることのように読める。たとえばイシグロ氏のような作家ブレグジット支持者の内面世界を誠実に想像して描くというようなことなのだろうか。

しかしそれは、その傍で言われている「誰もが語る権利」と矛盾する。「語る権利」と言う時、マイノリティ運動の中などでは特に当事者が自ら語ることを重視する。当事者心中を非当事者想像して代弁することは推奨されず、場合によっては本人の言葉を奪う行為として非難される。トランプ支持者やブレグジット支持者にしても、たとえばイシグロ氏のようにもともと思想立場の違う作家いかにも理解ありげに、「あなたはこんなふうに思っているのでしょう」とばかりにその思いを代弁したら多くは反発するのではないか。だから原則としては、その声に耳を傾けたいなら、非リベラルと言われる人々に語る場を保障し、自ら直接語ってもらうのが正しい。

その上でイシグロ氏は、そうして語る場を提供して耳を傾けた時に飛び出してくる言葉が、「○○○人はゴキブリ、この国から出ていけ」や「同性愛者は天罰を受けて死ね」だったり、静かな口調で確信に満ちて語られる「あなたがたは皆ディープステート洗脳されているのです、ぜひこの資料を見てください」だったりした時にどういう反応をすべきか、どこまで現実感をもって考えているのだろう。この発言が単なる綺麗事に見え、それゆえ面白くないのはこのあたりの現実に何も触れていないからだ。

シグロ氏は「誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と言うが、これは理想論原則としては全くその通りであるしか現在問題になっているのは、その「誰もが語る権利」を尊重した結果次々と湧き出してくる陰謀論ヘイトスピーチへの対処現実的にどうするかということなのではないか。先日話題になったツイッター社のトランプアカウント凍結なども、この原則現実の間で行われた苦渋の選択だった。こういうリベラル原則現実とのジレンマは、「寛容は不寛容に対して寛容になるべきか」といった形で長く議論されてきたテーマでもある。それで言えば、トランプ陰謀論支持者に向き合いつつ、あえて寛容の原則に立とうと語る下の記事の方に私は感銘を受けた。

"「トランプ陰謀論」が今なお5000万人を魅了するワケ。『白人ナショナリズム』著者、渡辺靖に訊く"

https://finders.me/articles.php?id=2529

私はリベラルだが、この問題についてはここまではっきりと「寛容」に立つとは言い切れない。ヘイトスピーチ規制にも慎重派でありつつ、現実的にやむを得ないとも思っている。各国の法規制方針を見ても、それぞれの背景に基づく大きな違いがある。現時点で何が妥当判断しにくい難しい問題なのだ。「私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と書斎で言い放つだけでいいならそんなに楽なことはない。

また、いくつかのブコメが触れていたが、たとえばトランプ支持者が陰謀論を信じるのはそもそもシグロ氏が言うような「感情優先」のせいなのかというのも疑わしい。選挙の敗北を認めたくないという感情陰謀論を信じさせているのだ、というのはあくまでも外から解釈で、本当に信じている人にとっては陰謀論は「事実」そのものだ。実際、陰謀論を広めている人はしばしば「まずは事実を知ってください」と言う。誤情報さらされ、修正機会がないまま信じ込んでしまうという現象特に感情からまなくも起きる。平凡な思想感情的に主張する人もいれば、陰謀論を冷静に信じる人もいるのだ。トランプ支持のような現象を「感情優先」として批判するのは、陰謀論フェイクニュースのような誤情報の浸透をどう制御していくかという問題に対してあまり有効でないように思う。

ちなみに、トランプ支持者やブレグジット支持者に向き合ってその声を聞こうとした研究取材はすでに数多く行われていて、下の記事のように日本記者によるものさえある。

"トランプ支持者はなぜ熱狂的に支持しているの? とにかく彼らに会い続けた記者が、これからも語り合う理由"

https://www.nhk.or.jp/d-navi/note/article/20210208.html

シグロ氏が自宅でなぜリベラルは非リベラルの声を聞かないのかとぼんやり嘆いている間にも、実際にトランプ支持者の家を訪ねて話を聞こうとしているリベラル寄りの人間は山ほどいるのだ。イシグロ氏は「リベラルが」ではなく「自分が」ご近所の非リベラルの声さえ聞いてこなかった、と言うべきだろう。主語を大きくしすぎてはいけない。

続きはこちら↓

https://anond.hatelabo.jp/20210306213813

2021-03-05

ネトウヨにとっての「言論の自由」とは

自分が言ったことを批判してはならない

自分の言ったことに責任を取らない

 

とする意見を見かけたが、実際、そういう人がいるのだろうか?

普通は、恥や罪悪感を感じて、自ら行いを改めると思うのだが・・・

2021-03-03

どの発言が許されないかなんて裁判で決めろよ

anond:20210302093544

LGBTは嫌いだ」と言う権利があるのかとか、それとも差別なのかとかあるけど、本当にしょーもない話。

だいたいこの法治国家で、裁判も経ずに素人がいいかいかを決めようってのが、本当にバカげている話でしょ。

日本法治国家なんだから相手の口をふさぎたかったら、裁判を起こせよ。それ以外これに関して言うことないっての。

一応最近言論の自由に関する裁判があったからその顛末を書いておく。

内容は、あの竹田恒泰ツイッターで「韓国はゆすりたかりの名人」とか発言してたのを受けて、戦史・紛争研究家山崎氏竹田のことを「人権侵害常習犯差別主義者だ」と発言したことで、竹田名誉を傷つけられたとして山崎氏を訴えたという話だ。

結論としては竹田請求棄却。つまり裁判の結果問題なしとなったということだ。

もうこれで結論出てるでしょ。つまり「どっちの発言も許される」ってこと。

もちろん個人としてその発言を許す許さないは好きにすればいいよ。でもそれは個人の感想で、日本社会としてはどっちも許されるってことなんだよ。

一応補足しておくと、竹田発言が許されるかはこの裁判の争点ではないか不明だし、これはあくま東京地裁判決から、今後も同様の判決が下されるかはわからない。

ただ、裁判やってみなけりゃ「許されない発言」なんて言えないし、裁判やったところでたぶん許されるんじゃないの?ってこと。

それを素人議論で決めようなんて、学級会根性が過ぎるでしょ。ここが法治国家だって理解してほしいよ。

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