はてなキーワード: 不自由とは
一昨日に体調を崩して、昨日は少し持ち直した。
今朝、母に抱かれて外の空気を吸い、多分そのまま旅立ったのだと思う。
家に戻ってきて様子を見たらもう呼吸も心臓も止まっていたらしい。
私は実家から1時間弱の場所で暮らしていて、弟から死んじゃったみたい、と連絡を受けた。
本当は昨晩実家に帰るつもりだった。大雨で帰るのは今日に延期した。
犬と最後にふれあったのはゴールデンウィークが明ける前の土曜日だった。
犬は1年前くらいから歩くのが下手になり、半年はひとりで立ち上がることもできない状態だった。
でも噛む力だけは衰えず、老衰で力加減を忘れた分、若いときよりずっと危険だと家族と笑いあった。
いつだかシルバーのバングルに不意に噛み付いて、傷を付けていた。
外につれていくと歩こうと前脚を動かすので、四足歩行の体制になるように支えて歩かせた。
人間の方がよほど疲れると母と笑いあった。
それでも老犬なりに動けないなりに、それなりに元気な老後だったと思う。
とにかく牛乳が好きな犬だった。
犬に牛乳はあまりよくないというのを知った頃には牛乳が大好きな犬になっていた。
老いてからは犬用の粉ミルクに切り替えていたけれど、それまで我が家の冷蔵庫の牛乳を消費しているのはほぼ犬だった。
煮干しの頭が嫌いだった。
頭だけ器用に残して食べていたので、一時期我が家のリビングには煮干しの頭が転がっていた。
鮎を貰って大喜びしていた。
近所のおじさんに冷凍した小さな鮎をよく貰って、人間より良いものを食べているなと笑った。
さつま芋が好きだった。
人間の食べ物にあまり興味を示さなかったが、焼き芋と干し芋だけは盛んにアピールをして食べていた。
抱っこが嫌いだった。
抱き上げると器用に身をよじり、脱出する様子はうなぎのようだった。
個人主義者だった、と思う。
我が家の人間はそれぞれ好きなことを自分のスペースでやるタイプで、犬もそんな感じだった。
好きにしていて、人間が集まったタイミングで犬も参加してきた。
甘噛が直らなかった。
直さなかった。塩対応の犬だったが、人間が帰宅した時は甘噛で出迎えた。それがうれしかった。
お手とおかわりと両手タッチと待てはできた。伏せはおぼえなかった。
目がよく見えなくなったときは家中の隙間や椅子に挟まって助けを呼んでいた。
夏の暑い日は、縁側の下に潜り込んで寝ていた。
よく額の毛に指を突っ込まれて穴模様を作られていた。
換毛期に顔に謎の模様が浮き上がることがあった。
はっきり模様が出たときは、近所の住民にこどものイタズラでペンで書いたものだと思われていたらしい。
キツネみたいな顔だった。
たまに顔がまんまるになっていた。
濃茶色の毛並みなのに、背中は焦げたみたいに毛の先端が黒かった。
しっぽの先端も黒かった。
額と耳の、濃茶色の短い毛がいちばんやわらかくてふわふわの毛並みだった。
犬に会うと尻の匂いを嗅ぎに行くのに嗅がれるのは嫌がって飛び退いていた。
犬よりも人間のほうが好きみたいだった。
亀に恐る恐るちょっかいを出し、猫には負けていたがよく猫を探していた。
そういえば散歩中、我が家の犬と同名の犬に会ったのを思い出した。
散歩で遠くまで歩けなくなっても、家の周りのパトロールは入念に行っていた。
近所の仲の良かった犬たちの中では最も長生きをした。
しばらく前に亡くなったボクサー犬の飼い主が、お供えと言っておやつを持ってきてくれた。
今日は犬の思い出を探して、家族みんな写真をグループラインで共有していた。
古いカメラや携帯を引っ張り出してデータをサルベージしては、思い出を語り合った。
家族は、午前のうちに気持ちを整理したようだった。さっぱりと涙を流して、
写真を見て笑い合って、腐敗を遅らせるために保冷剤を添えた犬に声を掛け、やっぱりたまに泣いた。
今、リビングに安置されている犬のそばにいるのではなく、日記を書いているのは、
犬がまだこの家にいるうちに自分の記憶を書き出さないと駄目な気がしたからだ。
犬は明日には灰なって、もうこの家には帰ってこない。
冷たい犬の額を撫でるたび、その事実が脳に布を掛けるような涙になる。
私は犬のいる家が好きだった。
母と父がリビングで寛いでいて、二人の弟はそれぞれの部屋で遊んでいて、たまに降りてきて会話を交わす。
そして犬は定位置か母の近くで寝ていて、起きたときには、チャカチャカとフローリングを爪ではじく軽快な音を響かせる。
この光景が永遠になれと願った。この家族の揃った家が私の永遠だった。
もう犬の魂はこの家を離れて、明日には身体も無くなってしまう。
今朝、犬は母に連れられて雨上がりの空気を吸い、少し地面に触れて、再び母に抱えられた。
そうして自分の足が動くことに気が付いて、母の腕を離れ、軽快に力いっぱい走って、虹の橋を渡っていったのだと夢想する。
自由に走ることができて大喜びだっただろう。遊びに誘うような笑顔で振り向いてくれただろうか。
犬の友達は向こうにいるし、もとよりひとりでいても困らない性格だから心配はいらない。
私も、この別れは限りなく良いかたちだと思っている。
それでも私は、もっとこの家にいてほしかった。ずっといてほしかった。
家族はもう気持ちを整理できたようだった。水をさしたくないので、
この日記を書きながらひとり部屋で泣いている。私の永遠が終わってしまった。
別れたくないのに引き留められる場所にはもういない。いたって私には手段がない。
納得しているのに受け入れがたい。
去らないでほしい。ずっとリビングにいて、家族みんなに呼びかけられていてほしい。
犬が夜鳴きして、私ひとりが起きてきた夜のことを思い出す。
ずっと記憶にある思い出。
あの月を見たときは、犬と会話ができていたような気がしている。
意思の疎通ではなくて、おもいをひとつにするとか、そういう感じの。
もういない。
欧米でも仕事にフルコミットしているヤツは家庭をぶん投げてるヤツが多いぞ
日本 | 米国 | 中国 | 韓国 | |
---|---|---|---|---|
親(保護者)をとても尊敬している | 37.1% | 70.9%⭐️ | 59.7% | 44.6% |
どんなことをしてでも自分で親の世話をしたい | 37.9% | 51.9% | 87.7%⭐️ | 57.2% |
親の経済的な支援をするが、世話は家族や他人に頼みたい | 21.3%⭐️ | 19.3% | 6.3% | 7.3% |
体の不自由な人、お年寄りなどの手助けをしたことがある | 53.5% | 78.7% | 78.8%⭐️ | 60.8% |
弱い者いじめやケンカをやめさせたり、注意したことがある | 27.2% | 63.2%⭐️ | 54.2% | 50.5% |
私は人並みの能力があると思う | 55.7% | 88.5% | 90.6%⭐️ | 67.8% |
自分はダメな人間だと思うことがある | 72.5%⭐️ | 45.1% | 56.4% | 35.2% |
65歳以上の者のいる世帯数及び構成 | 令和元 (2019) | 昭和55 (1980) |
---|---|---|
単身世帯 | 28.8% (7,369千世帯)⭐️ | 10.7% (910千世帯) |
夫婦のみの世帯 | 32.3% (8,270千世帯)⭐️ | 16.2% (1,379千世帯) |
親と未婚の子のみの世帯 | 20%(5,118千世帯) | 10.5% (1,379千世帯) |
三世代世帯 | 9.4% (2,404千世帯) | 50.1% (4,254千世帯)⭐️ |
その他の世帯 | 9.5% (2,423千世帯) | 12.5% (1,062千世帯) |
https://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2021/html/zenbun/s1_1_3.html
【中学生くらいの頃】
・純粋に子どもが好き。将来はお父さんとお母さんみたいに結婚して子ども産んで生きていくのだろうと思っていた。
というか、子ども欲しいとか欲しくないとか、そんなことはただ考えず漠然と家庭を築いているんだろうなぁと想像妄想していたと思う。
【高校生くらいの頃】
・メンタルがやられ、なんて自分はダメ人間なんだと本当に落ち込む。絶対来世は人間にならないと誓う。絶対に人間なんかなるもんか。自殺は痛いから嫌だけど、本当に消えたかった。
・もしかしたら、いじめられるかもしれないし、人をいじめるかもしれないし。すごく理不尽な目に遭うかもしれないし、悲惨な事故に巻き込まれるかもしれない。可哀想で辛すぎる。そこまでひどくなくても、まぁ生きていれば辛いことがある。そんな酷い仕打ちを我が子にはさせたくない。が、かといって辛いことが何もありません、というふにゃけた人間になっても生きづらいだろうな、と思う。
・自分は子どもを産むことが許されるほど、能力を持っていない。子どもに受け継がれる全ての遺伝子が可哀想。ごめんね。
・絶対に子どもは産まない!と固く決意し、兄弟に子どもを産みたいと言ったら全力で止めてねと言っておく。いや〜止めないよ。と和やかに言われる。
・なんと好きな人ができて、この人に子どもを抱っこさせたい、でも私の子どもは嫌だという大問題に直面。ただ好きな人の子どもは私だって見たい。
・自分の遺伝子が問題なんだよ。でも好きな人に他人の卵子と受精させ子を育てさせること、養子をとることは違う気がする。代理母出産も申し訳ない。その痛み経験したい気もする。なんてわがままなんだ。
彼に失礼。自分のメンタル治せ!いや性分か?自分を愛することで他人を愛することができる!と自分の中の修造が言っている気がする。
・ごちゃごちゃ言いつつ、なんだかんだ今とても幸せで、人と環境と運に恵まれたと感じている。今の人生と同じ人に巡り会えるならもう一度人間をやってもいいかな、と思えるようになった。
・生まれてくる子は絶対大変だ、辛いはずと決めつけてしまっていたが、それは私が決めることではないし、今わかることではない。辛いかもしれないし、辛くないかもしれない。それは本人のメンタルの持ちようにもよるだろうし。まぁそのメンタルの基盤を作るのは、本人の性分と、親がいかに関わるか、周りの環境がどうであるかではあるのですが。遺伝と環境の相互作用。辛いか辛くないか、それは私達の努力も大切ではあるが、それが全てだと思わなくてもいいのかな?と考えるようになった。
・周りの子は経済的に不安を感じて出産を悩んでいた。私も友人もありがたいことに何不自由なく育ててきてもらっており、親がしてくれたような水準で子どもに関わってあげられる自信がない。そう思うと、大学まで金銭的援助ができる自信がないのに産んでいいのか?と不安になる。だって大学のお金まで出してあげたいと思ってしまう。理想としては。
「身の丈をわきまえろ」「脳内お花畑か」「奨学金制度使えばいいじゃないか」と言われそうだが、奨学金を借りない方向で子育てをしたいと考えている為、何不自由なく過ごせる経済的自信がないのなら産まない方がいいのかな?と思っているが、そもそも経済的自信満々で子育てをしている人はごく僅かだと思う。なんだかんだうちも「家計が火の車だよ」と言っていた。親のやりくり力すごい。
・優生思考、資本主義社会のこの世の中で戦い抜ける我が子を産み育てる自信がない。そもそも遺伝子に自信がないのだから、ね。親はちゃんとしていたのに、親に申し訳ない。
・私ものらりくらりと生きているということは、なんとか楽しく生きられる可能性50%、毎日死にたく生きる可能性50%?そもそも人間の人生って白か黒か、くっくり色分けできるものではなくグラデーションなのでは?なので何とも言えないのか?
【今の考え】
・この先100年辛そうだし、子どもが可哀想だからあんまり産みたくはない。しかし彼の人生にも関わることだから、申し訳ない。彼のことを考えると産みたい。多分いいパパになれると思うから。
この国に不可欠な施設なら、なんでキチンと金かけて環境整備しないんだろう?
せっかく、電力逼迫とかで「電力で不自由するのは困る」って意識が沢山の人に植え付けられたのに、
どうせ今後一世紀ぐらいは総人口が減り続けて海岸平野部に土地が余りだすから、避難計画なんか必要ない原発はいくらでも建てられるのに。
原発村には寿命間際の老人しかいないのかってぐらい近視眼的な自滅策ばっかり選択するんだよな。
まぁ、原発の周りに住んでる人達はご愁傷様だけど、事故が起こらないことを祈りながら生きていって欲しい。
案外、ご愁傷様でもないのかな?
経済的な拠り所になってる原発が停止したままだといつ廃止になるか分からんから不安なのかな?
なくなったらそれこそ致命傷だから、どんなボロ施設でも無理矢理にでも稼働して欲しいのかな?
だとしたら既に地獄だ。
確かに馬の気持ちも聞かず、とにかく走れ走れと言って走れなくなったら肉になるのはかわいそうと思う。
しかし、馬はいっぱい走らされるけど、ブロイラーなんかはただただ怠惰に暮らして食われるわけで、その方が無理やり走らせるより幸せなのかと言われると、うーんってなってしまう。
私自身、怠惰な人間なので、例えば古代ローマのグラディエーターと、親の遺産大量に持って働かなくて好きなだけ食える怠惰な生活、どちらがしたいか?というと迷わず怠惰なほう。
でも、そういう怠惰で自堕落なのが死ぬほど嫌いで、自分を高め続け自己研鑽に身を置きたい人がたくさんいるのも知っている。
麦やコメを育て、食うに困らなくなった人間は、家畜と確かに変わらない。
食うために体で働く人間は、競走馬とほとんど変わらない気もする。
水木しげる先生が言っていたけど、「ネコは生きるためには働かない」わけで、ネコは人を使役することで無労働で生きられるようになった。
ハムスターもそんなもので、ただ見た目がかわいいというだけで何もせず生きられるようになった。
これは人間だったら、何不自由なく育て、与え、かわいがるし、健康管理もするし、働く必要もないけど、セックスだけは一生させないという人生。
子供も欲しいなと思う。
かつての人間は神の飼うハムスターみたいなもので、神に愛想つかされたから楽園を追放され、労働をする必要が生じた。
その代わりセックスして子を作ることができるようになった。
女は生みの苦しみもあるわけだけど、それでも喜びは大きい。
やっぱりそう考えると、エデンの楽園にいた頃の人類がブロイラーで、失楽園した人類が競走馬なのかもしれない。
競走馬はメスは半分はいかないかもしれないけど20%くらいはお母さんになれて、オスは1%くらいしかセックスを経験できないけど、それでも怠惰に暮らしてしめ殺されるよりは、戦いに身を置いてセックスを求めたい気はする。
イヴは裸を恥じらう知恵すらなかったけど、知恵の実を食べ恥じらいを覚えてこの世にエロスが生じたわけだ。
パンドラの箱みたいな話になるけど、苦しみと喜びは両方引き受けなきゃいけないのが人生で、そして喜びの質が大きいのは、怠惰に食う寝るできる方じゃないって気がする。
この人生が終わり、ブロイラーに転生するか、競走馬に転生するかなら、どちらを選ぶ?と言われれば、やはりセックスしたいから走るほうを選ぶと思う。
結局は生きるってセックスってことか。
今日、お兄さんは何してる人なの?って聞かれたから心身ともに健康なニートです。働いたことありません。親が食わせてます。みたいなことをオブラートに包んで言ったら
「親御さんに俺は働いてるのに!俺にも金くれよ!って思わないのえらいね、ニートしたくならないの?」みたいなこと言われてむちゃくちゃビビった
そんな発想なかったわ
兄貴のこと、自分の人生の舵を自分で取ることができない哀れなうんこ製造機としか見てない
羨ましいなんて思ったことなかったし
「ニートは実質勝ち組」みたいなのってネット仕草というか現実的な思考じゃないと思ってた
働かずに生きていけるのが羨ましいのかもしれんけどニートって不自由だろ普通に
「ワンチャンいけんじゃね?」若者の間で「ワンチャン」という言葉が流行した深い理由 | ニュースな本 | ダイヤモンド・オンライン
この記事がバズっていて、著者は若者論とか世相を絡めて自論を展開してるけど、結論から言うと、ただ便利だから使われているだけだと思う。
ワンチャンはブコメでもあるとおり、元は麻雀用語だし、今の意味に近い格ゲー用語だとしてもアラフォー世代が普通に使っていた。
麻雀用語時代は「ワンチャンス」と略していなかった。ちなみに同じように「ノーチャンス」、「ツーチャンス」などもあった。
詳しくは麻雀の説明になるので省くが、面白いのはこの時のチャンスは、相手にとってのチャンスを指していたことだ。
「相手にとってはワンチャンスしかないからノーチャンスほど安全ではないが、なんとか見逃してくれ」
この麻雀勢のワンチャンスがいつから使われたかは流石に不明だが、相当古いと思われる。
ところで、アラフォーより上の世代にとってゲーセンというのは色々な属性の人たちを内包する場所だった。
オタク、ヤンキーだけでなく、格ゲー勢、ミニ四駆勢、ボドゲ勢など、おもちゃ屋に来るようなやつがたくさんいた。
今ほどジャンルのボーダーがなく、いろんなゲームをやる人が多かったのだ。
当然麻雀も同じゲームということで格ゲー勢でたしなむ人が多かった。
格ゲー界のレジェンドであるウメハラ氏が雀荘で働き、一時はプロを目指していたことを知っている人も多いだろう。
当然格ゲー勢にもワンチャンスという言葉が広がっていくのだが、ここではっきりと意味が変わる。
格ゲーにおいては「劣勢の状況においても、一度チャンスを掴めば逆転できるような状態があること」を指すようになるのだ。(格ゲーWIKIより)
ピンチな状況であることはもとより、さらにプラスな状況に持っていける状況を指すことになる。
ここが麻雀との大きな違いで、麻雀におけるワンチャンスはプラスの状況には持っていけない。
ここでほぼ今の使われ方と同じような意味になるのだが、この格ゲーのワンチャンを使い出した世代はアラフォーがほとんどである。
「ピンチな状況じゃなくても期待値の低い状況でとりあえずやってみる」
だから繰り返しになるが、ワンチャンの言葉を一般に使い出したのはアラフォーあたりの世代で、そもそもその世代でもゲーム以外では「もしかしたら」程度の意味で使っていた。
とりあえずやってみるとかチャンスにかけるといったような意味の略称言葉がなかったと言うだけの話だ。
ちなみに、今では普通に使われているガチ勢エンジョイ勢みたいな、「〇〇勢」という言葉や、
同じ行動を延々繰り返す「一生」も、元はゲーセンコミュニティの言葉だから、格ゲー勢の言葉は端的に状況を伝えやすい言葉が多いのだと思う。
すぐそういう極論が出てくるのモラハラやり慣れてるのか?
内臓から組織を剥がしてボロボロ、引きちぎれたりろくな麻酔無しに切って縫って局部は痛み、出産で減ったHPをしっかり回復することも出来ずにそのまま毎日一時間二時間ずつ睡眠下手したら一時間ずつも寝られずにトイレも不自由、体を回復しないといけないのに食事もしっかり食べられる状態を得られないまま血液を変換した母乳を日に何度も与えるため貧血状態。言っておくが母乳出てるなら余程の決意や信条や医者の介入等がないと断乳するにも母子の心身に負担をかけるぞ。
そのような状態で一月二月毎日の育児と家事をしているのをパートナーのはずの夫が毎日側にいながら労りもせずに生活は変わらずに世話されているのはどうなんだ?夫はサイコパスかよ?って話なんだが。
夫が激務でも気にかけてることを伝えたり、休みの日なら17時間位寝たら、家のなかで数時間子供をみて妻を少し休ませるくらいはできないかね?毎日とかの話じゃないんだが。
妻が働けば良い、共働きにすれば良い勢諸兄は、身体の肉が切れたりちぎれたりの物理的ダメージありなのに基本的に医者にもかかれない、ホルモンバランス激変で脳にも負荷の高い状態で少しも休みなくデスマーチに突入し一日たりとも休みはなく睡眠時にまで電話がかかってくる数ヶ月を過ごすなか、家族は自分の状態を何も(身体の治りは、具合、何か日常のことなど助けられないかすら)気にもかけないで自分の方が辛いとばかりに真横で無視を決め込まれたら辛くないのか?役割だから当然でひどいと思うことすら非難する資格がないのが当然?
声すらかけないで放置が酷くはないと?
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1. 無償の愛というのは、とにかく穀潰しだろうがニートだろうが衣食住仕事全てにおいてサポートし、とにかく身体が健康になることに全力を捧げてくれ、かつそれに見返りを求めないということです。親と書いているのは、そんな事できるのは親ぐらいしかいないからです。
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2. 強制的というのは、金銭的、物理的などなんらかの制約によってそもそも薬物を入手不可能な状況に置くことです。
最も理想なのはお金を与えないこと。仕事可能になってきて収入が入っても1のサポーターが管理するのが良いでしょう。
難しいのは、この役割は1の方が担うことが多いため、信頼関係をここで損ねてしまうと、逃亡したりしてしまう危険があることです。薬物に手を出す以前の関係が試されます。サポートに入る前に、本人の口からできれば一切のわだかまりは全て吐き出させてください。
サポーターの方は、
とにかく、本人が元気で生きているだけでいいという気持ちになってください。元気で健やかに暮らすことだけに期待して、サポートしてあげてください。本人にもそれが伝わるように、最初にとにかく健康になるだけでいいんだよという姿勢を伝えてください。
間違っても、会社に入ってきちんと働いて…など口にしないでください。離脱期は基本的に鬱状態なので、現状と社会からの期待のギャップに絶望して自殺してしまう可能性があります。
これだけ満たしてもおそらく寛解率は半々といったところだと予想します。
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あと付け加え忘れたのですが、サポーターの方は、自分も病まないように、上記体制になっても金銭的に不自由していないという条件もあります。いやどうせ実家の太さやないかい、と思われるかもしれませんが、実家の太さは1.2に比べると甘いです。太かろうが1,2が無ければ容赦無く薬物に戻り死ぬまで行きます。
追記:
薬物を断った直後というのは、「生きることを楽しむ力」というものをほとんど失っています。
というのも、何かを楽しむことに関して薬物に頼る期間が長すぎたために、人体が薬物以外からの報酬経路を忘れてしまっているのです。
ただ、人間は強いので、そんな赤ちゃん以下の状態からでも、何かを食べては食べる楽しみを、何かをやっては達成する楽しみを、少しずつ作っていきます。これには個人差もあると思いますが、相当に時間がかかるのです。1年というのは、生きるのに最低限度の報酬回路を作るのに必要な期間だと思ってください。
報酬回路から薬物を消すことが目的なので、「自由になったら薬物をやれるんだ…」みたいなものが最初には必ずあるかと思いますが、それが消えるくらい、長い時間が必要なのです。
役者や芸人やバンドマンって下積み時代の苦悩をよく語るけど、売れてないって事実があるだけで実は彼らは別に大して努力をしていない。
下手すりゃ、下積み時代ですらヒモやってとか先輩に完全に食わしてもらってとかの理由で、何不自由のない衣食住は世間の人達よりはるかなチョロく確保出来てたまである(中目黒とか富ヶ谷とか中野坂上で一人暮らしなんて大した苦労人ですこと)。
とにかくみんな、恋愛、飲み会、バイト、セックスばっかりしてて、芸事に打ち込む時間なんて1日あたりにならすとマジで2時間もない。
公務員試験の勉強してるそこらへんの大学生のほうがリアルな話よっぽど目標に向かって努力してる。
でもそんなゾッとするような意識の低さでいても、年数重ねて粘っていると0.5%くらいの奴は本当に売れて食えちゃうのがテレビの世界。
別に心を入れ替えて1日10時間かけて芸を磨く生活を続けてました、とかはなくて、相変わらず時間換算だとチョロっとやってただけ。でも売れる。
しかも死ぬほど売れてからも週休4日で年収1億とかマジで貰えちゃうような凄い世界。
彼らはもっぱら『歯食いしばってるフリ』を見せる生き方しかしてなくて、それで本当に売れちゃった人達が、昨今業界自体がコロナとかで汲々としてきた影響で、徐々に社会人っぽい厳しさに見舞われるようになり(世の中の社会人のほぼ全員が受けてる程度の厳しさ)、
そういうのに耐える訓練なんて今までの人生でほぼ受けてこなかったから病んじゃうのでは?
と想像している。
どうだろ?
子育てをがんばろうがそうでなかろうがうまく育つかどうかは運の要素が強いってことや
気楽にやったらええねん
また、自分は両親に比較的不自由なく育ててもらった自覚がある。それなのに出来上がったのが私なので、親からしたら子育てなんて本当に割に合わない投資だと思う。
ついでに悪いと思いつつも私は私で両親に文句も山ほどある。
お金とか相手とか一旦置いといても、子を産み育てることにものすごい抵抗を感じる。それは突き詰めると「他人の人生に責任を負いたくないから」になる。
目を離した隙に死ぬかもしれない命が自分の手元にあるのは恐ろしい。何気ない自分の言葉がその子の人格に多大な影響を与えるかもしれないことが恐ろしい。私の思想や能力で子どもが経験できることが決まってくるのが恐ろしい。理屈の通らない無茶苦茶な存在と一緒に暮らすことが恐ろしい。
また、自分は両親に比較的不自由なく育ててもらった自覚がある。それなのに出来上がったのが私なので、親からしたら子育てなんて本当に割に合わない投資だと思う。これから先の老後を世話をできる自信もない。ついでに悪いと思いつつも私は私で両親に文句も山ほどある。自分の子どもが反抗期になったり、それが一過性でなかったり、大人になって(そもそも大人になれればだが)夢破れたりしたとき、落胆しないほど聖人でいられない。もしくはあまりにも無関心に突き放してしまうかもしれない。もともと他人の人生に興味が持てないから。
もしくは私にはどうにもできない話だが、タイミングでもその子の人生は大きく変わる。景気や情勢が悪化しているときと回復しているときではきっと全く別の人生になる。今のこの世界に産み落とした上に命を守り愛を注ぎ経験を与えることは、どう考えても私には恐ろしいことに思える。
これだけ言っているが、別に反出生主義でもなんでもない。ただ責任を負いたくない身勝手な個人の行動原理だ。
子どもは可愛いし、育てている人/育て終えた人は心底尊敬する。社会を維持するためには新しい人間が生まれて育たないといけないこともわかる。けれど自分の子どもを育てるのはやりたくない。……それはあまりにも身勝手な話だな? いや、他人が同じことを言っていたとしても別に身勝手だと断罪する気にはならない。そういう考え方の人もいますよね、で済ませると思う。けれど自分で口にするとどうも、自分が負いたくない責任を他人に押し付けているようで、居心地が悪い。
だから、限りなく責任を薄める方向に社会がなればいいのに、というのが今の願いだ。
一人の子どもに関わる大人が増えればいいと思う。たぶん昔は親きょうだいと同居して、家事や遊びや目配りがある程度分散されていたのだろう。今はそんな家庭のほうが少ないだろう。かと言って親と同居したいかといえば私はしたくないので他人にも無差別に勧めたくはない。気疲れして参ってしまうくらいなら人手を諦める、という人もいるはずだ。結局何が言いたいかというと、地域や会社、場合に依っては学校などのコミュニティで責任を分散したいよねという話。
個人単位でできるのは買い物中に幼児が保護者と手を離して歩いているのを見たらちょっとだけ目を配りどこかにぶつかったり迷子になったりしないよう祈るとか、親の話(愚痴でも自慢でもいい。話したいことを話す場になれたらいい)を聞くとか、すごく些細なことからだと思う。もっとハードルを下げて、子の泣き声にキレないとかからスタートする人もいるかもしれない。ガンガン突っ込んでいくのはそれはそれでやっぱり責任取れないから私には無理がある。システムとしてそういうふうになればいいよね(他力本願)
たぶん、私のような素人考えじゃなくそういう専門家もいるのではないかと思うのだが、理想は各々が個として好き勝手生きることで全体として利になったり責任が分散されたりする社会。なればいいよね(他力本願)
薄められた責任の一端ならば喜んで負う。なんとも身勝手でまとまらない表明だな。その歳でそのレベルしか考えてないとか幼稚wと言われそうだと思ってる。けれど最近、そんなことをこねくり回して生きている。