はてなキーワード: 形式的とは
数学の必然性は実は人間の言語分析能力によるものなので、言語能力が異なる宇宙人とは、数学的語彙が共有できない可能性があるんですよね~
なぜ数学と言語能力が関係するんだ?と思う人は、以下のノーム・チョムスキーの有名な、無意味な二種の文を見ればわかってもらえるかもしれませんね~
・“Colorless green ideas sleep furiously.”(「無色の緑の考えが猛烈に眠る。」)
・“Furiously sleep ideas green colorless”(「猛烈に」「眠る」「アイデア」「緑色」「無色」)
前者は文法的には正しいが意味が無い文で、後者は文法的に正しくないから意味がない文、ということはわかっていただけるかと思います。
しかし、上記二種の文は、両方とも経験的には何も想起させないがゆえに、経験的には同様に意味の無い文です。
ということは、経験こそが認識の基礎、基底であると考える人にとっては、二種の文の違いを説明することができないのですよね~。
なぜならそのどちらも経験することができず、経験による理解が基底であると主張するのだから、経験的基底において違いのない(意味のなさ、指示対象が存在しないという点において同質という意味)上記二種の文の本質的差異(基底的差異)を指摘することができないのですね~
現代の言語哲学、そして現代論理学の基礎を作ってきた哲学者たちは、数学の必然性がどこから来るのかという問題について、
文の経験的理解よりも前に、文の文法的分析が先に行われる(そして数学的必然性は、文法分析に基づく理解そのものから正当化可能である)ことを示すことによって、
前経験的(アプリオリ)に論理や数学の必然性の正当化が可能であることを証明してきたんですね~
例えば上記二種の前者の文でいえば、経験できないにもかかわらず文法的に正しいことが理解できるのは、まず文法分析が先に行われ、その後意味の解釈に失敗するから無意味なのであって、その逆ではないのですね~
そして数学で扱われる文、例えば2+2=4は、なんらかの経験を前提せずとも、形式的な理解(つまり文法的理解)から正当化可能であるがゆえに必然的(=非偶然的、または前経験的)なのですね~
そして例えば上記二種の文とは別の有意味である文「無職の緑色のジャージを着た男性が猛烈に眠る」であったとしても、まず文法的理解が先に行われたあと、その意味解釈を行うことができるがゆえに有意味なのですね~
プログラミング言語だって、まずどれが変数で、その変数に何が割り当てられているかといったセマンティクスよりも先に、シンタックス的分析が行われますよね~
だから、数学の必然性は実は人間の前経験的な言語分析能力によるものなので、言語能力が異なる地球外生命体と遭遇した時、数学的語彙が共有できない可能性ももしかしたらあるのかもしれませんね~
なぜなら我々の理解する必然性とは、我々の言語分析能力に基づくものであって、よそから来た宇宙人にそれが期待される理由がないからですね~
ここからは、気が狂った理解にはあたらず、定義の厳密さに疑義を挟む余地あり
その境界はどこなの?それこそ恣意的主観的じゃなく厳密に線を引けるのか?別の話っていうよりは分かちがたい問題に思えるが。
「"証明は自然言語で書きつつも, いざとなったら形式的に文字列に書き換えることができるという前提に立っています" 前提が共有されていない人との間では一意さは共有されない場合がある、ということをどう捉えるか」というのもある。
悪意のない、そして別に狂ってるわけでもない知性的存在(生命に限る必要ないだろう)が、前提を共有してないこと、というのは無理なく想定されることだと思うけどな(知的存在が人間以外にいるわけないじゃんという突っ込みはさておき)。
これは本質的な問で、哲学では「規則の問題」あるいは「規則のパラドックス」として知られる古典的な問題意識です。「規則の問題」の議論では足し算などが例として良く用いられますが、ここでは形式的な証明を例に説明します。
形式的な証明体系において、「推論規則」あるいは「公理」は無限種類あるため一覧表を作ることができません。そのため通常は「推論規則型(rule schema)」や「公理型(axiom schema)」と呼ばれる、無限個の論理式をひとつの式で代表したものを使って有限っぽく表示します。例えば、ツリーにある「 A と A → B が証明可能なら B が証明可能」というのは規則スキーマです。これは A と B がどのような論理式でも使える規則型であり、(A と B を具体的な論理式に置換して得られる)無限種類の規則の集まりを有限で表現したものです。例えば「x=0 と x=0 → x^2=0 が証明可能なら x^2=0 が証明可能」は規則の例です。
そして問は、まさに規則型や公理型から規則を得る方法はどうして合意できるのか、ということだと思います。例えば「x=0→x^2=0 と x=0→x^2=0→-x=0 が証明可能なら -x=0 が証明可能」はさきほどの規則型の形に当てはまらないものなのですが、この "事実" を全員が了解しているのがどういう理屈によるのか、というのが問です。そしてこれは正しく「規則の問題」です。
ここからは私見ですが、「規則型から規則を得る方法について全員が一致する見解に到れる」というのは幻想でしょう。ただ、現実に数学を営む上では「規則型から規則を得る方法について数学者の見解は一致している」と思い込んでもこれまで大きな問題を生じてはいないので、問題が生じるまでは別に気にしなくていいのではないか、という感じではないかと思います。元々の問であった教師と生徒の例についていえば、数学者コミュニティに近しい立場である教師がコミュニティの流儀を教えている、ということになるのではないでしょうか。
現代の数学者のほとんどは形式化された数学の体系であるツェルメロ-フレンケル集合論ZFCを使っています.
言及されている通り, ゲーデルの不完全性定理によってZFCが無矛盾であるならばZFCは自身の無矛盾性を証明することができません. ZFCが矛盾している可能性はあります. ZFCの無矛盾性に関しては, 一方でZFCを用いて多くの数学者が数学をしている中でまだ矛盾が見つかってないという傍証もあります.
仮に矛盾が見つかってしまった場合, その後の方向性はいくつか考えられます:
1. その矛盾の証明をよく調べて, その原因を取り除いてZFCより弱い新たな数学体系を構築する.
これに関しては普段の数学をする際にフルでZFCを使っているわけではないので, 合理的なZFCより弱い体系を見つけることができればこれまでの数学を続けることができるかも知れません.
この場合は数学がどうなるか想像がつきません. 数学にとって大打撃になると思います.
他にもZFC以外の別の数学の形式的な基礎づけを与えようという動きもあります. またZFCより改善させるような新しい体系, 公理形を見つける方向の研究もあります.
右や左すら、現実の感覚と結びつけず、つまり対面で「右とはこっちだよ」と具体的に指さしで説明することなく、言葉や記号のみで形式的に定義することは不可能ですね。
ヒルベルト流に右や左自体でなくその関係性から定義したとしても、おそらく現実で右と呼ばれる方向かその逆か一意に定まらない定義にしかならないでしょう。
それなのになぜより高度と思われる数学の概念を現実の感覚によらずに定義できるというのか欺瞞を感じるわけです。
ちなみに磁極とか電流の向きとかで説明しようとするのは、その方向を向いているものの具体例をあげているだけで定義とは言えないでしょう。
感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。
この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。
「言葉の意味とは何か」という問いが一般的であることが了解されたとき、それに対して与えられる解答として未だにしばしば出会うものがある。
それは、言葉の意味を何らかの心的なイメージ(心象)であるとするものである。たとえば、「赤」という言葉の意味とは、この言葉に出会ったときに心の中に生ずる赤い(物体の)イメージである、といった具合である。
こうした考え方を基礎とする「意味の理論」は、その洗練度はさまざまであっても、どれも根本的に誤っている。
言葉の意味に対するこうした考え方(「意味の心象説」とでも呼ぶことができよう)は、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』のなかで徹底的に批判したものであり、その批判は決定的なものであるとみなすことができる。
そして、意味の心象説を批判するにあたって、ウィトゲンシュタインがフレーゲに多くを負っていることは疑いが無い。
フレーゲが主として問題としたのは、数学の哲学、特に算術の基礎づけにおいて、心理的な要素を持ち込むという当時の風潮(心理主義)であった。
『算術の基礎』においてフレーゲが出した問いのひとつは、「数詞、たとえば『5』、の意味は何か」というものである。
言葉の意味とは心的なイメージであるとする、フレーゲ以前に伝統的であった答え(=意味の心象説)の弱点がもっとも鮮明に現れるのは、フレーゲが出したような問いに、その答を当てはめようとするときである。
(言語哲学大全)
さて、元増田は、"語の意味"は究極的には個人の経験、感覚から想起される心象に基礎づけられる、と主張しているのだから、元増田は「意味の心象説」論者です。
意味の心象説論者は、以下のプロセスを経て、言葉の意味を理解します。
1.何らかの言語表現を(音、または視覚、触覚から)受け取る。
2.言語表現に紐づく心象を、こころの中に想起させる。(この時点では、言葉の意味はまだ理解できていない)
3.こころに浮かんだ心象にたよることによって、言語表現が表そうとした"意味"を理解する。
では、元増田は「三角形」をご存じでしょうか?(三角形の意味を理解しているでしょうか?)
意味の心象説論者は、以下三つのプロセスを経て、言葉の意味を理解する、という主張に同意するでしょう。
1.『「三角形」をご存じでしょうか?』という言語表現を、視覚から(もしくは聴覚から)受け取る。
2.かつて、どこかで経験した「三角形と呼ばれたなにか」を、こころの中に想起させる。
3.こころに浮かんだ「三角形」を参照することによって、"三角形の意味"を理解する。
「三角形の意味を再確認」できましたね?では、あなたが想起させたその三角形は、どのような三角形でしょうか?
もしも、あなたがこころに想起させた三角形が、正三角形だったとしましょう。
もしそうだとするならば、直角三角形は三角形ではないということになります。
なぜならば、
・「語の意味は個々人がこころに想起させたイメージである」と(『意味の心象説』論者が)主張するならば、
こころに浮かんだ三角形(正三角形)と異なる図形(直角三角形)は、"意味が異なる"がゆえに、三角形ではないと主張しなければならないからです。
逆も同じです。直角三角形を想起させたのならば、正三角形は三角形ではありません。また、「直角三角形であり、かつ、正三角形であるような三角形」は存在しません。
ところで、あなたがこころに想起させた三角形とはどのような図形なのでしょう?
仮にどのような"三角形"であったとしても、「その図形と異なるにも関わらず三角形であるような図形」は、容易に示すことができるでしょう。
もしもあなたが「私は、あらゆる三角形を含む集合そのものと、集合に含まれるひとつひとつの図形を想起させることができるがゆえに、三角形の正しい意味を理解している」などと言い逃れしてみたとしましょう。
その時、私はこのように問うことができます。「あなたがこころに想起させた図形の集合の中の、一つ一つの図形すべてが、"同じ"三角形であることをどのように知るのですか?」と。
「意味の心象説」論者は、語の意味は個々人の心象に基礎づけられる、などと主張します。
しかし、三角形の意味を心象に浮かぶ図形に求めるならば、異なる性質を持つ三角形を示されたときに"三角形の意味"を説明することができず、
無限の三角形を連想できるなどとうそぶいた場合、「では、あなたの(無限の)心象にうかんだうちの、二つの"異なる三角形"が、"同じ三角形である"ことをどうやって知るのですか」と問うならば、
「意味の無限後退」に陥るのはむしろ「意味の心象説」論者のほうであることになります。
なぜなら、その人は三角形の意味を心象に浮かぶ図形に求めたのだから、心象に浮かぶ二つの三角形が"同じ言葉(三角形)"に対応することを、またさらに心象に求めなければならないからです。
つまり、あなたが主張する「三角形の意味」=「"三角形の集合"の心象」のなかに、実は四角形がまぎれこんではいないでしょうか?という疑いをどのように晴らすのでしょうか?
(この時あなたは、三角形の形式的定義を利用して証明したい、と思うことでしょう。しかし、「三角形の形式的定義」に含まれる語彙は、本来感覚によって基礎づけられると主張したのは『意味の心象説』論者自身です。)
ここで示された無限後退は、あくまでも「意味の心象説」がもつ問題によるものであり、
言葉の意味の厳密な定義を求める方法が、(ほかの)なんであるにせよ、「意味の心象説」がその役目を果たさないことだけは明らかです。
話を元に戻します。
何をするにせよ、少なくとも、語の意味を(さらに限定すると、数学的語彙の意味を)感覚、心象に基礎づけようとする方法が誤っていることだけは明らかでしょう。
哲学など数学以外のことは専門外のため, あくまで数学に関することだけ言及させていただきます.
ユークリッド幾何学に言及されているように数学の歴史は紀元前まで遡りますが, 数学の形式化が意識され始めたのは1900年代以降と最近の話です. 主にヒルベルトによって主導されたものだと私は理解しています. (もちろん多くの数学者がこのプログラムに関わってきました. ) 数学の形式化や形式主義で調べると参考になると思います.
数学的な内容に関して言及したいことは多くありますが, かいつまんで述べさせていただきます.
(あくまでこれは元の記事が間違っているなどと主張しているわけではないです. 現代の数学の考え方や雰囲気の一部を分かっていただければ幸いです. )
現代の形式化された数学は原理的には決められたルール(公理と推論規則)を用いて行われる一連の手続きです. それらの「意味」が何かは一旦全て忘れてください. ここで公理とはあらかじめ定められた記号列で, 推論規則とはいくつかの文字列を用いて新しい文字列を生み出す操作です, 例えば文字列A→BとAが与えられたときに文字列Bを得る操作があります. 定理(数学的命題)とはこの操作によって生み出される文字列です. これらの操作は数学における証明を形式的に記述したものになっています. 論理式などもこの形式化のもとで特定の条件を満たす文字列として定義されます. 例えば論理式Pの否定は¬Pという文字列です. (ここでは否定を表すための記号として¬という文字列を用いています. )
ここまで文字列だけを考えた形式的なものですが, 構造やモデルを使うことによってこれらの文字列を解釈する(つまり意味を与える)ことができます. (詳細は省きます. ) 構造やモデルを定めることによって論理式の意味が一意的に定まります. またそれらの取り方を変えることによって意味が変わることもあります.
これの考え方によって(数学的な)意味は形式から分離されています. さらに気になる場合はゲーデルの完全性定理などを見てください.
そして適切な公理と推論規則を定めることにより数学そのものを形式的に扱うことできます. その適切な公理はツェルメロ-フレンケル集合論(ZFC)と呼ばれており, 現在の数学者はこのZFCを用いて数学をしています. (一部, 圏論などでZFCに収まらない議論があると聞きますが, それらもZFCの適切な拡張を考えることで解決できます. )
つまり, これまでに書かれた数学の証明などは全てこのZFCを用いることで文字列の操作に書き換えることができます.
一方で数学の論文は普段の言葉(自然言語)を使って書かれます. これは本当に全て文字列に書き換えることをした場合, 可読性が著しく落ち, また分量も膨大になるため人が読めないためです. しかし証明は自然言語で書きつつも, いざとなったら形式的に文字列に書き換えることができるという前提に立っています. そしてこれは理論的には可能であり, 数学の厳密性を担保しています.
「定義の一意性」に関してですが私自身が元記事の要点を完全に理解しているわけではないのですが, 数学に関していうとある数学的概念の定義が複数あることはよくあります. もちろんその複数ある定義が同値であることを証明されなければなりません. ここで同値というのはある数学的対象Aが定義Pと定義Qで与えられていた時に, 「Aが定義Pを満たすならば, 定義Qを満たす. またAが定義Qを満たすならば定義Pを満たす. 」ということです. 実際に使う際には用途に合った定義を用いることになります. それらは同値なのでどれを選んでも問題ないです.
以上がざっくりとした形式化された数学に関してです. 参考になれば幸いです.
追記: これは筆者個人の考えですが, 数学と哲学の議論はしっかりと分離してなされるべきだと考えています. もちろん相互の交流はなされるべきですが, 両者を混同するのは誤解や誤りの原因になると思います.
登山道というほどではないけど山の道って感じの道はあるじゃん?舗装されてて車も通ってるけど、道の外側に建物があったり誰かの庭だったり軒先だったりとあからさまに誰かの土地感があるわけじゃなくて、藪や木が果てしなく広がってる感じで突き進もうと思えば進めるようになってる道。
かりにそうじゃないとしたら、誰かが持ってる山の部分に国だのなんだのが勝手に道を敷いていることになるんだから不自然だ。
で、仮に森林地帯のうちの、道も、道じゃないところも、公共の土地という点で共通なのだとしたら、なぜ道は自由に通行してよく、そうじゃないとこは入っただけで違法なんて扱いをデフォルトにしたのだろうか?
どっちも公共の地面なんだから、原則自由に通行できるようにすればよかったんじゃないの?
自然保護目的で踏み荒らされたくない場合に限って国だのなんだのが個々に決まりを作るというブラックリスト方式のほうがルールとしては素直でシンプルだと思うのだが。
地面自体、人が移動するために存在しているという側面があるのに、道以外の地面を移動のために利用してはいけないとは不自然だろう。地面による二次元的な移動ではなく、そのうちのごく一部分の道による一次元的な移動しか許していないのはただ不便さを増しているだけだろう。
そもそも、すべての土地に所有者がいるという前提に立っているのがおかしいと思う。
「国有林」という概念があって、これは明治維新の際に藩有林、社寺有林、所有が明確でない森林を継承して成立したという。
「所有が明確でない森林」というところに注目してほしい。あたかも不明なだけで所有者がいるみたいな言い方だけども、これには正真正銘「誰の土地でもなかった土地」が含まれていたのではないか?
つまり誰も存在を認識していなかった土地があったはずで、これを伊能忠敬が作った日本列島の海岸線の地図という、日本の土地全体を俯瞰的にとらえる手段のおかげで、その地図から誰かの土地だと確定している部分を全て取り除けば、それ以外の場所は全て所有が明確でない土地として間接的に存在を把握できるようになったというところだろう。実際は誰も見ても足を踏み入れてもいない土地(誰に帰すべき実効支配性がない土地)なのに。
(もし全宇宙の地図があったら、その何万光年先の直接見たこともない空間について「ここは俺の土地だ」と主張するようなものだ。伊能忠敬は日本列島においてこのバカげた主張を形式的に可能にした。)
そういう土地を無理に国有林化しただけの話ではないか。もっと素直に「誰の土地でもない土地」と別区分にすればよかったのではないか?
誰の土地でもない土地というのは、誰にも占有する権利はないということだ。ゆえに誰が移動の用に足を踏み入れても問題ないということになる。
誰の土地でもないので、ぶっちゃけそこに勝手に家を建てても問題はない。早い者勝ちだ。ただし別の人がその家を打ちこわししても問題ない。問題ないというのは語弊があるなら「その家を建てた人がその土地での所有権を根拠に狼藉を主張することはできない」ということだ。
つまりこの場合器物破損だし、この公有の空間のなかで先にいた人を後から来た人がそこを自分のお気に入りの場所として見出し喧嘩になったら暴行罪だし、というように、個々の事例に合わせて既存の法律で裁くべき問題ということになる。
頭でっかちに「すべての土地は誰かの土地だ」という固定観念ありきで法律を作ったために、はっきりいってスマートじゃない法体系になってると思う。
なぜ「誰の土地でもない土地」と別に難しくもなんともない概念を素直に受け入れられなかったのだろう?
dorawiiより
↓なんかchatgptっぽくね?
ゲーデルの第1不完全性定理は、形式的な論理体系内での数学の特定の命題に関して「証明できない」ということを示しています。この定理によれば、ある論理体系内で自己言及的な命題を含む場合、その命題が真か偽かを証明することはできないということを意味します。
つまり、ゲーデルの第1不完全性定理は、「この命題は証明できない」という命題を考えた場合、それが真か偽かを判断できないことを指摘しています。したがって、特定の命題が「証明できない」ということは、その命題が現実には真か偽かになっているかどうかを示すものではありません。
ゲーデルの第1不完全性定理は、形式的な論理体系の限界を示すものであり、数学や論理学の基本的な性質を理解する上で重要な結果です。しかし、この定理が特定の命題の真偽を示すものではないため、その命題が現実に真か偽かを判断するためには、他の手段や情報が必要です。
ウィトゲンシュタインの思想とゲーデルの不完全性定理には、いくつかの類似点があるかもしれません、それぞれ異なる観点から論理と数学にアプローチしています。
ウィトゲンシュタインの「論理空間」の概念は、言語や記号による表現の枠組みや制約を強調し、言語や論理の限界について考察しています。彼は「言語ゲーム」という概念を導入し、言葉や文脈の中での意味の理解に注目しました。ウィトゲンシュタインの主張は、言語や論理の使用が特定の文脈やルールに従って行われることを強調し、その文脈やルールから外れた場合、意味が崩壊する可能性があるというものです。
一方、ゲーデルの不完全性定理は、数学的な形式的論理体系に焦点を当て、その体系内での命題と証明可能性について論じました。この定理は、特定の命題がその論理体系内で証明できないことを示し、論理体系の限界を示唆しています。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13286033693
この線だとX氏が1月に突然エージェント会社を辞めた理由が釈然としないのですっきりしないな
Xが飲み会、示談交渉(形式的なもの)、弁護士誘致まで含めて全て仕掛けていて、それが1月に伊東とエージェント会社にバレてクビになり、メガンテとして文春、新潮にタレこみ、文春は回避したが新潮は採用してしまったという線が各自の言い分や行動を組み合わせると一番矛盾がない。
「弁護士が2人交替した」こともこれで説明がつくし(Xが連れてきた弁護士とX本人(弁護士資格あり)が「交替した」2人に該当)、そのXと過去に別の裁判で敵対した加藤弁護士が出てきて「伊東側の言い分が変わった」のも説明がつく。加藤弁護士はXの息がかかっていないと証明出来る人であるし、彼が出てくるまではX氏主導で伊東本人の意に沿わない交渉が行われていたのも容易に想像できる。
発達障害で自由意志が薄弱で他責思考な私は、このように相手の自由意志を尊重して自由意志に対する要請をしてくる相手が非常に苦手で、こういう要請を正面から受け止めるととても生きていられないと思う。
けれども、それが社会のスタンダードである以上遭遇機会も多いので、「内的には自然現象であると割り切りつつ、外に対しては意志と責任の存在を装う」ことで一時しのぎ的に対応している。つまり物を失くしたら「ごめん」と謝るし形式的な対策はするけど、心の中では徹底的に自責を避けて、例えば薬が合ってないかもな、などと考える。人間がお互いを自然現象であると合意して回るような社会ならこんな心労は無いのにと思いつつも、実際そうでないのだから今ある社会に合わせるしかないというのには同意する。というより、現状の社会がこうであることも、他者に自由意志を要請する人間が居ることもまた、今のところの自然の流れなのだと思っている。
意思と責任の物語にうまく参加できないことを認めてもらい、部分的に社会から降りて心の平穏を得るというモデルは、(私の個人的な意見だけど)そんなに魅力的じゃない。
自然現象=宿命ではない。自分の意思も他者の意思も自然現象であり、自然現象だからこそ分析して利用/回避/あるいは克服できると認める。自由意志なんて尊い幻想は捨てて、使える道具を全部使って人間をハックする。全員が人間をやめて、平等な自然現象として相互作用する。そういう社会が良いなと思う。医学化ってその流れの一部なんじゃないかな?
まあ、思い通りに行かないよね
その新商品について圧倒的に一番長く時間をかけて考察しているのは間違いなく自分だけれど、色んな人のその場の思いつきみたいなもので、どんどん仕様が変わっていく
もちろん、どんなに時間をかけて深く考察しても、一人の人間の視点からでは死角ができてしまうのはその通り
いろんな角度から参考意見を言うのはいいけど、それをどうやって商品に取り入れるか(取り入れないか)の判断は、一人の人間に任せないとツギハギだらけになってコンセプトが瓦解するに決まっているじゃんか
……という話を前提に
結局、オレが思ったのは思い通りにやりたければ偉くなるしかないってことなんだよね
しかも組織構造上の形式的な上下だけじゃなく、人間同士の力関係も含めた実質的な権力の話ね
組織でものづくりをする以上、思い通りにやるにはパワーが必要って当たり前の話
もっとも、完全なパワーなんて社長であってもそうそう持てるものじゃないから、どうあがいても組織でものづくりをする以上、100%自分の思い通りのものを作るなんていうのは多分幻想
どうしても思い通りにやりたいなら、結局ひとりでやるしかないんだろうね
オレはもう畑を変えたから関係ないけど、世の中のものづくりに関わっている人はほんと、みんなようままならない気持ちと戦っていると思うよ、ほんと