はてなキーワード: 形式的とは
ちげーよ。ほんとに馬鹿だな
「もちろん、証拠の問題がありますから、かりに法的に処罰が可能だとしても実際上は難しいでしょう。しかし、ここで考えたいのは、そのような捜査上の現実ではなく、大麻取締法の条文上、そもそもそのような処罰が法的に可能なのかという問題です。」
って書いてあってその後に続く論証は「証拠があっても違法じゃないから法的に処罰は不可能」って言ってるの
「これは大麻の購入や所持なども同様で、カナダが大麻を合法化した以上、カナダ国内において行われ、カナダ国内で完結している大麻の購入や所持などは合法であり、それが形式的に大麻取締法が規定している行為であっても日本法から見て「みだりに」行われたものではないと考えるべきです。」
ここが形式的違法性論と実質的違法性論の話を一般人にわかるように言い換えてあるところ。
法律を書いてあるとおりに読むと形式的違法性論的な「違法だから違法」と言えてしまいそうだけど
実際には条文にある「みだりに=(違法性)」の解釈が海外での行為については違う
自民党は立憲民主党などとの比較で保守政党とされるが、実態としては保守であり革新なんだよ
例えばアメリカでは、共和党と民主党とで定期的に政権交代しているが、自民党は共和党的立場と民主党的立場の両方を実質的に包摂してしまっている
自民党タカ派が政権を持っているときと、ハト派が政権を担っているときがあり、それが日本の政治における「左右の振れ」になっている。
実質的な話はともかくとして、形式的に、民主主義的選挙制度がありながら一党が政権の座に居座り続けているという状況の実例を知りたいなら、Wikipediaで「一党優位政党制」の記事を見れば、実例が記載されている。
無知に訴える論証 (Argument from ignorance)
否定派「大麻を法律で解禁したとして日本の治安が今の状態を保てるとは到底思えない、だから大麻解禁はありえない」
論点先取 (Begging the question)
否定派「大麻が悪なのは、使用者自身が証明している、鏡を見てみろ」
循環論法 (Circular reasoning)
否定派「大麻は悪だ、なぜなら大麻は日本において違法だからだ」
誤った二分法 (False dilemma)
否定派「大麻解禁による未来は既存のジャンキー達が堂々と外で吸い出して治安が悪化するか、ゲートウェイドラッグとしてさらに入り口を広げて薬物犯罪を増やすだけだ」
・そんな二択あってたまるか
単一原因の誤謬 (Fallacy of the single cause)
否定派「殺人を犯したこの男は、過去に大麻を所持していた容疑で逮捕されています、故に大麻は殺人を引き起こします」
・いわずもがな
否定派「大麻等のドラッグで人生を狂わせる、狂わされることは反道徳的だ、故に大麻は全面的に禁止すべきだ」
自然主義的誤謬 (Naturalistic fallacy)
肯定派「大麻はもともと地球に自生している生物だ、野菜、肉を食べるのと同じだ、何も悪くない」
動くゴールポスト (Moving the goalposts)
→否定派「その実験にしようした大麻の品種だけでは?アメリカの研究でしょ、日本人においてもそうだと言える証拠は?サンプル数が少ない、もっと多くのサンプルで実験すれば
科学の不完全性に訴える誤謬 (Science was wrong before)
→否定派「でも結果が覆って危険性が実は高かった可能性もあるよね?だって何百年も天動説が信じられてたけど科学の発展によって覆ったじゃん」
本物のスコットランド人なら (No true Scotsman)
否定派「でも純粋に大麻を解禁したいと願っているだけなら、そんな喧嘩腰で言ってこないよね普通。やっぱ大麻吸いすぎて攻撃的になっちゃってるんじゃない?」
否定派「君大麻解禁派なの?最終学歴どこ?え?高卒?wほらな、大麻解禁派の連中は揃いも揃って低学歴なんだよな、だから誰も相手しねえよ」
井戸に毒を入れる誤謬 (Poisoning the well)
肯定派「スティーブ・ジョブスは素晴らしい人間だ、そしてスティーブ・ジョブスは大麻を吸っていた、俺も吸っている、故に俺も素晴らしい人間だ」
同情論証 (Appeal to pity)
否定派「運転手が大麻を摂取した状態に起きた交通事故で家族を失った遺族のことを何も思わないのか」
肯定派「あのセレブもあのセレブも大麻を吸っている、大麻が悪いモノなわけない」
「大麻吸ってるジャンキー共に品がいいと思うか?あいつらはいつも汚い格好をして所得の大部分をドラッグにつぎ込んでいて貧乏だ、大麻が良いモノなわけない」
年代に訴える論証 (Chronological snobbery)
肯定派「え?未だに大麻は違法とか言ってんの?価値観古すぎでしょおっさん」
「大麻肯定派の大多数が違法なのに毎日ブリってる犯罪者集団だ、そんな連中と議論する意味も価値もないね」
生徒への暴力行為が暴かれて、学校関係者が形式的な謝罪に終始しているけど無理もないよ。
だって普通に肉を食うのが習慣の俺たちが、どっかの外国から「肉を食うのはとんでもない残虐行為だ!」とかいきなり非難されて「謝罪しなければ先制核攻撃も辞さない」とか脅されたらとりあえず形だけでも謝罪するしかないもん。
だけど、いくら非難されても脅されても、俺たちが肉食ってることが悪いことだなんて思えるわけないじゃん。
学校関係者だって同じこと。生徒への暴力行為がなぜいけないのかなんて、これからいくら謝罪しようが何しようが、理解できるわけなんかない。
だって学校教育の仕組みって、何年も前からずっとそういう国の方針を忠実に守って続いてきたもんなんだから。
生徒は学校に管理されるためにいるもので学校が生徒のためにあるのではない。
どんな理不尽な校則や指導でも、決められたものは守らなければならない。
ずっとそうやって教えられてきたじゃん。
何やっても無駄なんだよ。一回すべてを完全に破壊して再構築をしない限り。
https://anond.hatelabo.jp/20220507073623
ほんとそれ
自然着床した受精卵にヒトと同等の、あるいはそれに準じる人権を想定するのは、最も無理が無い解釈だろう。放っておけばいずれヒトに至るのだから。
この論理でやってるならもしこの判決が出るならアメリカの再生医療は中国に完全に置いていかれるね。
そして胎児や受精卵はDNAが違うので、女性の一部ではないし、女性の付属物でもない。他人の命を女性に無条件に与えていいのかと言う問題でもある
形式的には胎児は女性の体に寄生している別人格の付属物なので、女性がそれを引き剥がそうと自由じゃない?他人の血液を無条件に与えられながら生きてるのは胎児の方。生きたければ勝手に1人で生きたらいいのでは?それこそ父親が引き取って。
言論や表現の自由も「右派のもの」になってしまった。30年前には左派が標榜していたようなものがどんどん右派のものになっていく。
渡邊先生も時々ダメなことを言う。左派は現在でも表現の自由の断固たる味方で全く変わりはない。
性的表現が表現の自由を意味していた(正確にはそのように錯覚させていた)のは、「貞節」の規範がそれなりに強く、そうした表現が露出する場所がごく限られていた30年前までの話。男性側も、そうした性的表現を素直に喜ぶより「けしからん」と言っていた人間が多かった時代。「島耕作」「ゴルゴ」などのマッチョな漫画ですら、セックスについては女性から積極的・主体的にアプローチするという描写になっていた。
現在は「貞節」規範は消滅し、ネット上で性的なコンテンツは膨大に溢れており、性的表現が自由を意味する時代はすでに終わっている。逆に、男性の女性に対する性的な視線が、女性の主体的な発言を表現を抑制するような時代になっている。「たわわ」は男性の性的欲望そのものの漫画で、女性の主体性は表現されていない。表現の自由がこれまで通りだったら、男性マジョリティの表現の自由でしかない。だから、真の表現の自由を実現しようとすれば、公共的な場面における性的な表現には一定の規制が必要になる。これが現在の左派の立場だ。
憲法に拠って「たわわ」を擁護する学者や弁護士も、形式的な表現の自由に居直るばかりで、その限りでは正論も含まれているが、実質的な表現の自由についてはほとんど無関心である。たとえば男性が多数の会議で、その中心にいる男性が下ネタ混じりで爆笑を誘いながら持論を展開している時に、そこに女性が割って入って主張することは事実上困難であり、言論の自由は奪われている。表現の自由戦士たちは、下ネタ混じりの発言も「言論の自由」であり、女性も発言の機会は十分に与えられている、と開き直るのだろうが。
丸山真男『日本の思想』を読んでいるのだが、海外比較としての日本人の思考様式や精神性の解釈が非常にしっくりと腑に落ちる。
この本の書かれた年代は古いが、現在のSNS政治トピックスにおける論戦の様相などにも適用できる程度には、日本人というものの精神性の核をとらえているように思える。
例えばこれ
(2)推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直観的解釈を絶対化する結果となる)、
(3)手応えの確な感覚的日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、
(4)論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引下げる批判様式、
(5)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」゠牽強付会として反撥する思考、
1-5まで、スタンスの左右を問わず現代のtwitterやはてなブックマークでもよくみるような批判様式だと思いません?
これらの思考様式の背景にある要因もいくつか挙げられているが、私が面白いと思ったのはキリスト教圏との対比。
キリスト教圏では唯神論に対する反発(対立軸)として市民社会や思想が発展した背景から、思想それ自体を神格化して同じ轍を踏まないために、思想の形式的不備を市民が監視する構造が浸透している。
一方で日本においてはそういった背景がないため、「思想」それ自体を道具の一つのようにプラグマティックに取り扱う傾向がある。矛盾する思想でも状況に応じて使い分ければよい。思想の中身はさておき、その思想を適用すると何が便利なの?という発想である。思想それ自体の形式(建前の正当性)を重視するキリスト教圏との大きな違いがここにある。
なお中国は儒教の影響が支配的なのでまた別ということになっている。日本のこの柔軟性は神道がそういった特性であったことも背景として挙げられている。
日本人は「物分かりがよい」という表現もなかなか味わい深いと思った。
引用にあるような「感覚的な便益を重視し、抽象化・体系化や論理的整合性に価値を見ない」という評価と、「物分かりが良い」という評価は一見矛盾するようで、そうでもない。
道具として使える程度に理解することにおいては日本人は早い。なぜなら既存の価値観との整合性を気にしないから、(便利である限りにおいては)新しい考え方に対しても衝突したり反発したりせず、すぐにとり入れることができる。その際には、既存の価値観を拡大解釈する(へえ、外国人はこういう考え方をするのか、でも日本のこの考え方と一緒のものと解釈できるな)という様式が使われやすい。既存価値観と同一視するという輸入様式はまさに抽象化だと思うのだが、抽象化を自然に行うため逆説的にそれに価値を置かないという精神性が成立しているということだろうか。
一方で抽象化・一般化された思想体系を戴くことを嫌う。それは思想体系を一度決めてしまうと前述の拡大解釈による柔軟性が損なわれるからだろう。
日本人の精神性は「そういう考え方もあるよね〜」を地で行っており、その意味で非常に包摂力が高い。包摂力の高さを維持するために、統一基準を作ることを嫌う。イデオロギー嫌いがイデオロギーである、とも言えるか。とはいえ新たなイデオロギーから影響を受けないわけではなく、拡大解釈や意図的な誤訳によって、既存の価値観と同居させる形でイデオロギーを解体して取り込むのである。
個人主義やリベラリズムやフェミニズムなどが、日本になじまなさそうで、でもやっぱりなじみそうな(それらにまつわる論戦において、各論ごとに各人のスタンスが右派なのか左派なのかも判然としない)のは、それらの思想の各論での実利については認めており、慣習としては取り込んでよいと思いながらも、原理原則として戴くつもりはない、というイデオロギーが影響しているようにも思える。
貧乏人どもはアホだから、高所得者が実際どれだけ税金を負担してるか、知りもしない。
たとえば年収300万だと、年間60万円くらいの税金を納めている。(社会保険料も実質的に税金と同じだからここに含める)
「年収が10倍だから税金も10倍だと年間600万円。まあ累進課税があるから、だいたい年間800万円くらいか?」
と思っているだろう。
正解は、「年間1200~1300万円ほど税金を取られる」。
いいか、総支給額じゃないぞ。手取りでもないぞ。自動的に天引きされる額が1300万円だ。
それでもまだ多額のお金が残るから十分じゃないか!というアホも非常に多い。
あのな、この収入が死ぬまでずっと保証されてるなら、たしかにそうだよ。
でも来年どうなるか分からないのよ。今年たまたま年収3000万円でも、来年からゼロになる可能性だってあるのよ。
一口に「金持ち」と言っても、資産家と高所得者では全く意味が違うことを理解しろ。ストックとフローの違いだ。
代々の資産家で、株式などの資産が10億円あるけど無職なので今年の収入はゼロでした・・・という人は「低所得者」扱いで課税もほとんどない。
一方、ずっと貧乏だったが商売でたまたま当たって今年の収入はいきなり3000万円になりました・・・という人は「高所得者」扱いで多額課税。商売がすぐピークアウトして来年からまた低所得者に戻っても、すでに払ったこの税金は戻ってこない。
つまり何が言いたいかと言うと、日本は古くからの資産家・権力者はずっと富を保てるような仕組みになっており、成り上がりの新興金持ち(特に小金持ちレベル)はなるべく潰されるように設計されている。
要するにフローへの課税が凄まじい。ストックへ課税するもの(相続税など)もあるけど、その回避策がいろいろ用意されているのは貴族の流れを汲む人たちを見れば分かるでしょう。
さらに言うと、雇われサラリーマンなら、まだそれだけで「済む」とも言える。
しかし法人を立てて自分が株主・経営者だと、負担はそれだけでは「済まない」。
まず社会保険料は2倍だ。会社負担分も実質自分が払ってるのと同じだからね。
さらに法人として利益が出れば、そこにも各種税金がかかる。法人税、法人県民税、法人市民税、事業税、etc. むちゃくちゃ搾り取られる。
これを主張すると、「資本家=悪」「会社=悪」「金儲け=悪」みたいに考えている頭の悪い共産主義者がこう言ってくるのが定番だ。
「そのカネは従業員を酷使して搾取したカネだから、多額の課税されて当然だ! いい気味だ!」
みたいに言ってくる。
あのな、世の中の会社のほとんどは従業員なしで社長一人のみか、あるいはせいぜい家族しか従業員がいない超零細企業がほとんどなんだよ。
形式的に法人なだけで、実質的には父ちゃん母ちゃんでやってる自営業なの。街の八百屋とかと同じなの。
つまり、誰からも搾取なんかしてないの。頑張って働いて、それに対してお客さんが喜んでお金を払ってくれてるから稼げてるだけ。お客さんに喜ばれない商売だったらすぐ潰れてるんで。
「経営者なら経費使いまくりだったり、いくらでも節税できるんだろ!」と言ってくるアホも多い。
あのな、税制ってものすごく上手く出来ていて、何をどうやっても同じくらいの税金が取られる仕組みになってんのよ。
国もよくある節税策とかそんなことは百も承知で、抜け穴なんか全部ふさがされてるのよ。
そういう事実も知らずに、「会社経営=従業員から搾取=悪」みたいに単純に考えてる小学生レベルの低能が多くてマジでうんざりするわ。
話が脱線したが、とにかく高給取りはすでに応能負担しまくりで、それどころか各種手当や助成金などは全て打ち切りというダブルパンチを食らっている。
それでも雇われサラリーマンなら高給取りでもまだ負担がマシなほうで、経営者(株主)だと非常に厳しい課税などの嫌がらせがすごいことをより多くの人に知っておいてほしい。
プーチンが、ついにウクライナ内部に樹立された「人民共和国」の独立を承認した。
これは一連のウクライナ戦争において、今までで最も重大な回帰不能点(ポイント・オブ・ノーリターン)だ。クリミア併合よりもその重大性は大きい。
クリミアとドネツク・ルガンスクの何が違うか。それは「戦争前の地位」だ。
戦争前、クリミアはウクライナ内部において「自治共和国」の地位を有していた。ロシアのクリミア併合は、このクリミア自治共和国が「クリミア共和国」としてウクライナからの独立を宣言し、その後ロシアとの併合条約を結んだ、という形式になっている(ロシアは連邦制の国であり、国内にいくつもの共和国がある。タタルスタン共和国やサハ共和国、チェチェン共和国あたりが日本では有名だろうか。したがってクリミアも、併合後は「クリミア共和国」としての地位を享受している)。
ある国家内の自治領域が独立宣言を行うこと自体はよくあることだ。たとえば、ソ連の解体も、ソ連に属していたウクライナ共和国やベラルーシ共和国といった連邦構成共和国がソ連からの離脱を宣言するという形で行われた。ユーゴスラビアの解体に際しては、スロベニア共和国やクロアチア共和国といったユーゴスラビア連邦内の共和国が独立宣言を行い、それを西欧諸国が強引に承認するということもあった。
もちろん、クリミアの地位は共和国よりも一段劣る「自治共和国」であり、ウクライナ憲法は国土の不可分性を謳っていたのだから、クリミアの「独立」が上の先例と並べられるかという疑問は出てくる。しかし、それに先立つ2008年に、自治共和国よりもさらに劣る「自治州」の地位にあったコソボの独立宣言を、コソボはセルビアの領土だと明記されたセルビア憲法に背く形で欧米や日本が承認した以上、「なぜコソボ独立はよくてクリミア独立は駄目なのか?」という反論にもそれなりの説得力があった(ウクライナ憲法は守らねばならないがセルビア憲法は守らなくてもよい、というのはセルビア人への蔑視や差別意識があると言われても仕方ないのではないか?)。
だが、ドネツクとルガンスクについては話が違う。これらの地域は、ウクライナ戦争前にはなんらの根拠も持っていなかった。ウクライナ共和国内のドネツィク県とルハンシク県に過ぎなかった(ウクライナ語のオブラスチは「州」と訳されることが多いが、「県」でも間違いではない)。戦争中に親露派武装組織――つまりロシアの手先――が占領した領土を「自治共和国」だと勝手に宣言したにすぎず、ウクライナは当然それらの地位変更を認めていない。
つまり、満州国だ。あれも、中華民国において確立された自治領域ではなかった。関東軍が占領し、溥儀を傀儡に立てて建国を宣言した。プーチンのしていることは関東軍と同じだ。
クリミア併合までは、「欧米が認めたコソボの独立と同じことをしているだけだ、それの何が悪い?」と、いちおうは国際法に則った言い訳ができた。ドネツィク・ルハンシク両県への軍事介入も、「あれは現地の武装勢力が勝手に騒いでるだけで、ロシア正規軍は何も関与していない」という白々しい建前をいちおうは貫いていた。ここまでは、色々とツッコミどころはあるだろうが、最低限の国際的な建前を意識した行動だった。
それが、ドネツク・ルガンスク両「人民共和国」の独立を認めたことで、ついに越えてはならない一線を越えた。他国の領土に勝手に樹立された政権を承認する。これは明白に国際法を踏みにじる行いだ。なんの言い訳もできない。ロシアは完全に無法国家になった。
もともとかの国に遵法精神など期待する方が無駄だったといえるのかもしれない。しかし少なくともこの半世紀、ロシアは国際法を建前としては尊重しようという姿勢を見せようとはしていた。その姿勢すら見せようとしなくなったというのは、やはり重大な転換点といえるだろう。
そして、世界には、「紛争によって勝手に宣言された自称自治州や自称独立国家」が多く存在する。今回のプーチンの独立承認は、それらにも影響を及ぼさずにはいられない。
真っ先に思いつくのは、沿ドニエストル共和国だ。モルドバ領内のドニエストル川左岸地域が、ソ連解体とモルドバ独立をきっかけに自治を宣言した。その後、独立を宣言し、ロシアが事実上の後ろ盾についてはいるが、あくまで国際的にはまったく認められていない。
あるいは、北キプロス・トルコ共和国の例を挙げてもよい。キプロス共和国内でトルコ系キプロス人の武装勢力が(トルコ軍の協力を得て)占領した土地を勝手に「共和国」と宣言したが、当然トルコ以外にはまったく認められていない(余談だが、国内に非承認国家を抱えた紛争中の国がEUに入れてしまったのは本当に制度のバグだと思う。ギリシャがゴネるから入れざるを得なかったんだよな……なお、国連が提案した南北再統合案を蹴ったのは南側な模様)。
もっと言うと、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦では、セルビア人勢力が占領した土地に勝手に「スルプスカ共和国」を建国した。現在、ボスニアにおいてスルプスカ共和国は連邦を構成する共和国として認められてはいるが、コソボと違ってその独立は承認される見込みがない。戦争前には存在しなかった国だからだ。内戦時にクロアチア共和国領内で樹立されたスルプスカ・クライナ共和国も、最後まで国際的に承認されることはなかった(なお、スルプスカ・クライナ共和国はクロアチア軍の大攻勢によって崩壊し、数百年にわたってクロアチアに居住してきたセルビア人が大量に難民として流出することになった。ザ・民族浄化の典型例である)。
ドネツク・ルガンスク両「人民共和国」の独立が、これらの紛争地域にどのような影響を及ぼすのかは何ともいえない。国際的な監督下に置かれ主権が制限されているボスニアの一部であるスルプスカ共和国や(現在のボスニアは高等弁務官が民主的に選出された政府高官の罷免権などを持っているので実質的にEUの保護国であり主権国家とはいえない。なんで国連入れたの?)、国連による再統合交渉が続けられ、かつ形式的にはEU加盟国の一部である北キプロス・トルコ共和国に与える影響は小さいかもしれない。だが、何も影響がないということはありえないだろう。
そして世界のどこかには、未来のドネツク・ルガンスクがあるはずだ。ロシアの行為は、それらの地域で独立を夢見る人びとにとっての範になる。本当に、越えてはならない一線だった。
なお、このへんの危うさを一番わかっているのが中華人民共和国である。かの国は、コソボもクリミアもアブハジアも南オセチアも、一切承認しないという態度を貫いている。チベット人やウイグル人に対してジェノサイドを行い台湾への締め付けを強めているだけに、一方的な独立宣言の恐ろしさをよくわかっているのだろう。もちろん中華人民共和国による少数民族への抑圧は決して宥恕されるべきではないが、しかしコソボの独立は認めながらアブハジアの独立を認めようとはしないどこかのダブスタ国家に比べれば、遥かに道理というものをわきまえた行動ではないだろうか。日本政府は今からでもコソボとアブハジアに対して一貫した態度を取ってほしい。
教養になったは、さんきゅー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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真のスコットランド人論法(しんのスコットランドじんろんぽう、英語: No true Scotsman)、または純粋さに訴える論証(英語: appeal to purity)は、 非形式的誤謬のひとつである。普遍汎化に対する反例を提出されたとき、トートロジーを用いて反例を除外することで主張を防衛しようとする行為をさす[1] [2] [3]。普遍汎化を放棄したり反例を否定する証拠を提供したりせず、客観的な基準の代わりにレトリックを用いて汎化を修正し定義上その特定の反例を含まないようにする[4]。このレトリックは「真の、純粋な、正真正銘の、真正の、本物の」など感情に訴えかけるだけで本質的な意味のない純粋さの形容という形をとる[5]。
目次
1 例
2 使われる例
4 脚注
5 関連項目
例
哲学教授のブラッドリー・ダウデン(英語版)は、反駁された汎化の試みに対する「アドホックな救助」としてこの誤謬を説明している[1]。以下はこの誤謬の簡略化された一例である[6]。
B: 「私の叔父はスコットランド人だけど、粥に砂糖を入れていたよ。」
A: 「でも、真のスコットランド人は粥に砂糖を入れないんだよ。(But no true Scotsman puts sugar on his porridge.)」
使われる例
真のスコットランド人論法は主張者が以下の条件を満たしたときに使われたといえる[7] [3] [4]。
特定の都合の悪い反例を定義的に除外するよう変更した主張をする
レトリックを用いてその変更を隠す
純粋さへの訴えは、一般的に、肩入れしている集団の擁護に関連している。スコットランド人と見なされている誰かが凶悪な犯罪を犯した場合、スコットランドの国民の誇りの問題が危機に瀕していると想像できる。このとき、あるスコットランド人が犯した罪が他のスコットランド人と関連付けられる(これは関連性の誤謬である)ことを恐れ、この特定の構成員や行動がグループに所属することを否認する動きが出てくるかもしれない。「真のスコットランド人はそのようなことはしないはずだ」というのである。すなわち、「そのようなこと」をする人はトートロジー的に(定義的に)グループから除外され、そのグループのよい性質に対する反例にならないようにするのである[4]。
ロバート・アンダーソンは、「真のスコットランド人は……」というフレーズは必ずしも誤謬ではないと主張している。それは、このフレーズに含まれる「真」という用語の構文的文脈に依存するのだという[7]。
一般に、「真のスコットランド人」論法は「スコットランド人」にあたるものが文が指す対象と相容れない場合には正しい可能性がある。例えば、菜食主義は肉を食べないことであると明白に定義されている。したがって、「真の菜食主義者は肉を食べない」は「私の友達は菜食主義者だが、肉を食べる」に対する間違ってはいない応答になりうる。肉を食べることはベジタリアンであることと語義からして相容れないからである[8]。