はてなキーワード: 60年代とは
これは見るたびに当時の認識のひどさに爆笑してしまうのだけれど、奈良ドリームランド開園時のPVには、ジャングルクルーズで「人食い土人」だの「土人の部落」だのの言葉が乱発され、「見世物」になっている様子がよく分かる。
https://www.youtube.com/watch?v=7r7et5aQkRc&t=3m55s
https://www.youtube.com/watch?v=7r7et5aQkRc&t=4m40s
「あっ!人食い土人!」
じゃねーよwと思うのだけど、そういう時代だったのだということである。
これは1961年の開園当時ということで見ると、歴史的にはまだ華青闘告発を迎える前のことであり、その華青闘告発があった1970年あたりを境目として、日本人の差別意識の問題は急速にクローズアップされていくのだけれども、それはまた別の話。
書いてることは概ね間違ってないけど、結論は間違ってる。
大衆がシンプルでキャッチーな音楽を求めるという見方は全く間違っていないし、実際にその理屈のもとで大成功を収めたベリー・ゴーディ・Jrという人物がいる。彼はもともとジャズが好きで、ジャズ中心のレコードショップを開いていたのだけれど、売れるのはより音楽的に簡素で演奏技術も高度でないドゥー・ワップやダンス向きのジャンプ・ブルースやロックンロールで、自分が売りたいものが全く売れなかったという苦い経験があり、そこから“リズムが豊かでわかりやすく楽しい音楽を作る会社”であるモータウン・レコードを創設し、ミラクルズ、スプリームス、ジャクソン・ファイヴといったミュージシャンを輩出していったという経歴がある。
音楽理論的に高度であるということが音楽的に優れている、という見方は極めて安直で、音楽理論的に高度な音楽は音楽理論的に高度な音楽なのであって、優れた音楽であることとは直結しない。
アメリカ、及び現代の音楽史を語る上で、アメリカの黒人奴隷(強制労働者)が生み出したブルースは欠かせないけれど、ブルース自体はごく僅かなコード進行からなる、元増田の言葉を借りて言うなら“音楽理論的に低レベルな”音楽だ。けれども、ブルースが持つ音楽的価値というのは極めて大きなもので、黒人がより高度な音楽教育を習得するようになった1950年代以降においてもシンプルなギター演奏だけで音楽を作り続けるレッドベリーやライトニン・ホプキンスといった黒人ブルース・シンガーの評価は続いていたし、更には彼らの直系の影響下にはウディ・ガスリー、ボブ・ディランといったビッグネームがいて、彼らについてはもはや言うまでもない。
それに、理論的高度さを追求する人間はシンプルな音楽を“低レベル”であると見做している、というのも違う。
例えば増田の言う現代音楽の分野で成果を残しているフランク・ザッパのキャリアはドゥー・ワップやリズム&ブルースといったシンプルな黒人音楽の内面化から始まっているし、生涯に渡ってこうした音楽に興味を持ち続けていた。ロックの文脈ではアヴァンギャルド、ノイズ、シューゲイザーの先駆者であるルー・リードもボビー・ルイス、アイズレー・ブラザーズ、ファッツ・ドミノ、フレディ・キングといった50年代の黒人ポップスの愛聴者だったし、日本でも山下達郎のジェームズ・ブラウンはじめ60年代のソウル・ミュージックの愛好ぶりはよく知られているところ。
というように、わざわざ結論を書き直すまでもないけど「音楽理論的に高度な音楽だけが優れた音楽であるというわけではない」ってこと。
>アーティストでも、若いころは電子音バリバリの歌を歌っていたのが、歳を取るにつれアコースティックな静かめの曲ばかり歌うようになったとか
これのわかりやすい例にロッド・ステュアートがいて、彼も年齢を重ねるに連れてビバップ以前、あるいはポップス寄りのジャズ・スタンダード(わかりやすい音楽)を積極的に採り上げてカヴァーしてます
なんか、ひょんなことから月蝕歌劇団(という小劇団が都内にあると思ってほしい)の公演を見に行って、それ以来なんか芝居づいている。
これまで演劇なんてぜんぜん興味がなかったのに。
いくつか劇場に足を運んだところで、もう1回くらい観ればもっと色々と見えてくるものがあるかと思い、また月蝕歌劇団に足を運んでみた。
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演目は『ねじ式・紅い花』と『盲人書簡−上海篇』の2本立て連続公演
(前回の観劇の記録は
https://anond.hatelabo.jp/20170925212923
を参照のこと)
ということで、自分のログを兼ねて、また観劇記を残しておくことにする。
御用とお急ぎでない方は、しばしお付き合いを。
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ただし。
自分は舞台観劇についてはとことん素人なんで、これから書くのは、通りすがりの素人が見た印象批評くらいのつもりで、紹介文としての情報は期待しないでほしい。
(というか印象批評というワードも小林秀雄みたいで偉そうだな。ほんとに感想文くらいの感じで、ひとつ)
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■全体として
歴史の長い劇団というのは知っていたけれど、今回は公演100回記念とのこと。
で、旗揚げ時代からのライバル劇団その他のビッグネームが集結した大プレミアム公演だったらしい。
普段は若い女性主体の “少女歌劇団” っていう感じの劇団なんだけど、今回はキャストの年齢が大はばに高めだった。
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ちょっと変わった構成をしていて、1つのシーズンというか公演期間を前後に分けて、2種類の演目を上演する。
さらに各演目について前座というか露払いというか、出演キャストの歌唱ショー、寸劇、詩の朗読その他をまとめたパフォーマンスとして “詩劇ライブ” というのがある。
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なので、フルで鑑賞すると1シーズンで合計4演目。
これを多いと思うか、アリだと思うか。
いろんな作品世界が見られてオトクだとも言えるし。
リハーサルやシナリオの練り込み等々のリソースは分散されるから内容的に落ちるものになるかもしれないし。
自分が見たところ、器用な高能力キャストと、まぁそうでもないキャストでうまく仕事を振り分けて、不満を感じさせない作りにしている感じだった。
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順番に見ていってみると。
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先に不満点を言わせてもらうと。
演目『老人と子供のポルカ』の歌唱。
左卜前役のベテランキャストがカンペ片手に左右のキャスト(岬花音菜、慶徳優菜)を振り回して大暴れ。
休みなく次の曲『本牧メルヘン』が始まり、そのまま岬花音菜がマイクを握るが、息の上がった彼女にはキーが低すぎた。
おかげで貴重な戦力(岬)を空費。
トリの白永歩美がキッチリと『バフォメット(と、あとなにか悪魔がもう一柱)の歌』(詳細不明)で締めてくれたのが、せめてもの救い。
ハプニングなら再発防止策を取ってほしいし、プロットなら、申し訳ない、あれに快哉を送るハイなセンスは自分は持ち合わせていない。
しかし。
詩劇ライブというのがファンミーティング兼同窓会だというのなら。
いとしの大スターがいつにないハジケっぷりを開陳したほうがファンサービスとしてのお値打ち感は高いのかもしれない。
と、思って周囲を見回してみると、自分と同じか、あるいはさらに年配の観客がホクホク顔で舞台を見守っている。
ハテ、招カレザル客ハ自分ノホウデアッタカ。
うん、わかった。
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■後半の前座『詩劇ライブ 暗黒少年探偵団』
詩劇三傑(←たったいま自分が決めた。はるのうらこ、岬花音菜、そして白永歩美の3人)のパフォーマンスがたっぷり見られたので実に良し。
はるの嬢は前回と同じギター伴奏かと思ったら、ギターからキーだけもらって、ほぼ独唱。それでいてピッチは正確、ハイノートも申し分なく出ていたし、なんというか、 “このヒト、ひょっとして劇団の隠れた屋台骨なのではないか?” という予感がさらに強まる。
(↑それは本編でガツンと証明されるんだけど)
なぜ合唱のときは控え(それはもう、あからさまな控え)にまわるんだろう?
リハーサルの負荷をソロに集中させるためか。
岬花音菜はカッパの舞。そして小阪知子を舞台に引き出してカッパの相撲。
あいかわらず、この人は歌って動いてが実に良い。
そしてトリは白永歩美。
朗読、歌唱と大活躍。
いつ見ても、この人は安定しているなぁ。
はかなげで、あやうげで、その状態のままガッチリ安定しているという不思議なキャラクター。
そういえば『Those ware the days』に日本語歌詞をつけたものを歌ってたんだけど、受付で立ち読みしたセットリストにそんなのなかったぞ、と思って調べてみたら、『悲しき天使』なんていう日本語版があったのね。
知らなかった。
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さて本編。
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■前半の本編『ねじ式・紅い花』
つげ義春の原作、『ねじ式』『紅い花』『女忍』『沼』『狂人屋敷の謎』をまとめて1つのストーリーにしてある。
実を言うと、前回の公演を見たあとに、某氏から、
「なに、月蝕歌劇団が面白かったって? それじゃアレだ。主催の高取英のアレ読んどけアレ」
といって勧められたのが、『聖ミカエラ学園漂流記』(小説版と戯曲版)。
前回の公演を観たときに、
「この人の持ち味は “奔放に見えて実は緻密な複数世界のマッシュアップ” だろうな」
と感じていたのが、この本で確信に変わったのだけど。
原作が2作品や3作品なら、例えば2つの世界の登場人物が呉越同舟で共闘する、みたいな展開もあり得るけど、さすがに5作品同時となるとメドレー形式にならざるを得ない、という感じ。
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さて、もう1つ、高取氏の特長と思ったのが、ストーリーに必ずクライマックスを用意する、という点で。
(それが、エンターテイナーとしての氏の本性によるものか、それとも “客にはなんとしてもカタルシスを持ち帰ってもらわないと次につながらない” という興行師としての冷徹な計算によるものか、そこまではわからない)
それが、つげ義春の茫漠としたアンチクライマックスな世界とどう折り合いをつけるのか、そこに興味があったんだけど。
これが『紅い花』を中心に最小限の改変を加えただけで、見事に全ての原作が一斉に収束に向かうオチといえるオチになっているのは、さすが。
最後にはねじ式青年が『パーマー・エルドリッチの3つの聖痕』(P. K. ディック)みたいに無限増殖するあたりの幻想テイストが高取氏らしい。
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あと、前回公演みたいな「身捨つるほどの祖国はありや」的な大きな主題は今回は抑制されている。
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助成金云々の楽屋落ちは生臭いので忘れたことにする。
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そして、この劇団特有の時間がゆがむ感覚をまた味わう。
今回は、サヨコの祖父の楽屋オチ的な台詞。
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「最近、嵐山光三郎が書いたんですがね、松尾芭蕉は忍者だったんですよ」
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えーと、嵐山光三郎の “芭蕉忍者説” は2000年代なんですが。
高取氏の作品世界が戦前、戦後、昭和30年代、1960年代、1980年代みたいに複数の時代を放浪するように、劇団自体も、60年代、80年代、そして2000年代の全ての時代に存在しながら、どの時代にも存在しないような不思議な立ち位置。
それが、この劇団の持ち味でもあり。
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あ、あと、狐舞の意味がやっとわかった。
なんのことはない、 “ここから現実感と見当識がゆるんで、心象風景と象徴劇が始まりますよ” という演出効果だ。
多色発光LEDを掲げた葬列も、夜光塗料の試験管をもった少女たちも、おそらく同じ。
少女漫画で「なんでクライマックスに花びらが飛び回ってるの?」とか訊かないでしょ? アレと同じだ。
そういえば、最近の子供は漫符(怒りの青筋とか緊張の汗とか)がわからないケースが多いらしい。
つまり自分は月蝕の鑑賞において子供だったわけだ。
というあたりで。
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そして、問題の↓
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■後半の本編『盲人書簡−上海篇−』
あー、うん。
むかし『草迷宮』(寺山修司)を観て途方に暮れたことを思い出した。
あるいは、さらにむかし『原始人』(チャーリー・ミンガス)を聴きながら、
「これは良い音楽なんだ、良い音楽なんだ、みんながそう言ってるから良い音楽なんだ」
と歯を食いしばっていたことを思い出した。
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はっきりしたこと。
自分に “前衛” を受け止める感受性はない。
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それでも、なんとか受容を試みてみる。
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(1)1930年代の第二次国共合作を背景にした不穏で混沌とした上海共同租界。
(2)明智小五郎と小林少年という、戦前・戦後の言ってみれば “陽のヒーロー” をどす黒く改変したキャラクターと、堕落した母親としての小林少年の母。
(3)白痴の少年と娼窟の姉妹がからむ、不快にユーモラスな人物群。
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この3つの人物群を主なストーリーラインとして、失明した小林少年を中心に “目明きと盲(めしい)、世界が見えているのはどちらか” という問いを主題として話はすすむ(ように見える)んだけど。
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途中、影を喪失した少女、みたいな挿入話をはさみながら、ひたすらグロテスクなストーリーとも言えないストーリーの断片が続く。
クライマックスは小林少年と恋人(?)のマサ子の再開を中心にしながら、全てが虚構の中の虚構、悪夢の中の悪夢、という入れ子の構造をあからさまにするところで、唐突に終わる。
最後の最後には第四の壁も突破して現実のキャストの名前まで出てくる。
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うーむ、書いておいてなんだが、なんの説明にもなっていない。
ねぇ、寺山修司って、ホントに70年代、80年代の青少年のカリスマだったの?
(今度、『書を捨てよ云々』でも読んでみるか……)
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可能性としては、今どきの若者がP. K. ディックやら筒井康隆やら読み慣れてるせいで、 “崩壊する現実” やら “虚構の中の虚構” を普通においしく摂取しているのに対して、当時はその種の超現実的な幻想悪夢ワールドが知的にトガった青年だけの愉悦であったとか。
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ま、さておき。
これ以上はどうにも言いようがない。
自分にとって確かなことは。
ということ。
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さて。
キャスト、演出その他については、以下の通り。
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■白永歩美
女忍コジカの息子、宗近と小林少年を好演。
このヒトが、登場するだけで舞台が猟奇的でビザールな空気になるような、言ってみれば “嶋田久作” 的な怪優でありながら、それでいて結構な美人サンである、というのは劇団にとって大きなアドバンテージなんじゃなかろうか。
劇団のカラーを一人で体現しているような。
ビジュアル、演技、歌唱、トップの名称は伊達じゃない、って感じ。
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というか。
実のところ、トップというネーミング自体はどうでもいい。
それがプリマドンナでもソリストでもエースでも四番でも同じことで。
その種の人に求められるのは才能でも鍛錬でも、ましてやプロデューサー/ディレクターの寵愛でもなく。
それは「いつ、いかなるときでも、自分が前に出ていってなんとかする」という思考形態だと思う。
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例えば才能、というか生まれつきの資質なら。
前回の公演には高畑亜美という彼女に負けず劣らずのビザール美人さんがいた。
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例えば技能なら。
前回の公演で、白川沙夜というキャストは、ストーリーテラー、コメディリリーフ、仇役という3つの仕事を3本の腕で同時につかんでブンブン振り回して大暴れしていた。
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でも、彼女たちは今回はいない。事情は知らない。
いっぽうトップには「事情により今回は出演しません」という選択が無い。
脚光も浴びる、注目もされる、そのかわり劇団の出来が悪ければ矢オモテ、火ダルマ、槍ブスマと。
群像劇主体の劇団で、ある程度は負荷が分散するにせよ、あの細っそい体にかかっている重責を想像すると、なんというか、なんというか。
長くなった。
ともあれ、健康にお気をつけて。
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■川合瑞恵
前回までは “作りようによっては、いかめしく見える” ビジュアルを活かしたワンポイント役だったのが、今回は『女忍』パートのキーとなる女忍コジカに大抜擢。
これが大根だったら目もあてられないところを、実に器用に演じきってしまった。
本職はモデルさんだと思ってたんだけど。違うの?
芸能関係って器用な人が多いのよね。
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■岬花音菜
演技はさておき、まずは狐舞。
今見ているのがカラダのオモテなのかウラなのか、腕なのか脚なのか分からなくなってくる超絶変態空間機動がひっさびさに大炸裂!!
これだ! これが観たかった!
いや、じつは、このところモヤモヤしていた。
「いや、たしかに踊りも歌も演技も良いけど、ここまで追っかけるほどか?」
でも、たしかに思いちがいじゃなかった。
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そこには、たしかに岬花音菜がいた。
およそ2ヶ月前、片目の猫の舞で自分の脳味噌をブチ抜いた岬花音菜が。
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ちなみに。
あとから取材を試みたところ。
あの一連の動きは、ボランティア(アルバイト?)のダンス教室で子供たちに最初のウケを取るために編み出した動物踊りがオリジナルだとのこと。
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するとなにか。
自分の鑑賞眼は子供レベルか。
まあいいけど。
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というか、彼女の狐舞に視線をもぎ取られ、ねじ式青年と女医のベッドシーンの大半を見逃していたことに、劇場を出てから気がついた。誠に申し訳ない。
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さて。
キャストとしては『紅い花』パートのシンデンのマサジ、『盲人書簡』で白痴の少年を担当。
この演技、周囲の評価はウナギ昇りだろう。
じっさいTwitterを中心にネットを見ると、彼女と慶徳優菜の評価はウナギ昇っている。
ただ。
自分としては評価は保留としたい。
なぜって?
あまりに、あまりにもハマり役すぎて、いま見ているのがキャラクターなのか、それともキャスト本人なのか、観劇素人の自分には判然としないから。
(これ、自分の中では笠智衆と同じ位置づけだ)
大竹しのぶがアニーを演じたり、同じ劇団でいえば白永歩美がピーターパンを演るのとは、意味が違う。
『紅い花』ではプレ思春期の少年のいら立ちを、『盲人書簡』ではスケベなアホの子を、と、いろいろ打ち出しているのは分かる。
分かるけど、いずれも、まずは本人あっての効果であって。
このあと彼女は “月蝕きっての永遠の少年役” として存在感を増していくのだろうか。
それもアリだと思うけど。
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■慶徳優菜
『紅い花』キクチサヨコ役。
だけど彼女の評価も保留。
理由は岬花音菜と同じで本人そのものだから。
その意味では、娼窟の妹と小林少年の想い人のほうが、本人のポテンシャルがよく分かる気がする。
そっちの方はというと、うん、悪くない。
ただ、これは自分の思い込みかもしれないけど。
なんというか彼女は “月蝕、次世代のプリマドンナ育成枠” というのに完全に入っている気がする。
この直感が正しければ、それはおそらく本人の十分な資質と劇団の目算があってのことだろうけど。
なんかモヤっとする。ほかの新人も若手も、ひとしく頑張っている(ように見える)のに。
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■はるのうらこ
なんというか、詩劇ライブのときは “ひかえめな、でもシャレのわかるおねーさん” というオモムキの彼女。
キーとなる配役のキャスティングが多いから、信頼の厚いキャストなんだろうな、という以上の認識はなかったんだけど。
(そしてそれは、ねじ式青年という大役を見ても動かなかったんだけど)
これが。
『盲人書簡』娼窟姉妹の姉役。実にすごい。
あのフワっとしたキャラが、女の嫌なところを全部集めて煮詰めたようなキャラクターに大変身。
慶徳優菜をサポートに娼窟パートのカラーというか空気を完全に支配していた。
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あと、些細なことだけど。
キーアイテムとなるタバコをチャイナドレスに入れ忘れたか、取り出せなくなったか。
取り出そうと悪戦苦闘して2秒。
見切りをつけてアタマの中でプロットを切り替えるのにコンマ2秒。
架空のタバコをふかして場面転換の決め台詞につなげるまでの時間の空費がわずか2.2秒。
はるの氏にとっては迷惑な賞賛かもしれないけど、ここの所作の切れ味に地味に鳥肌が立った。
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■宍倉暁子
彼女が登場すると、そこだけ別の照明があたってるようだった。
さらに今回の千本桜ホールより少し大きめの劇場向けにチューニングされた、よく通る発声。
今回集結した “夢のベテラン勢” の中では、彼女が出色だった。
彼女だけは気になって調べたら、舞台を中心にTV、映画と活躍の現役大ベテラン。
たしかに分かる。
自分の外見と所作が人にどう見えるか、何十年にもわたって掘り下げていないと、ああは行かないと思う。
『紅い花』では漂泊の釣り人。すこし困り顔の茫漠とした旅客でありながら、マサジのカウンターパートとして要所を締める。
『盲人書簡』では軍人と密通する小林少年の母として、実に汚ならしい堕落した母親像を体現。
教科書的に言えば寺山修司の作品世界に通底するコンプレックスというかオブセッションというか、ともかく “その部分” を実に彼女一人で背負って担当していた。
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■大久保千代太夫
今回最高の当たり役の一人。
犬丸は尾張織田と敵対している設定だけど、人物造形はおそらく美濃のマムシこと斎藤道三がベースだと思われ。
自分に襲いかかった刺客を手籠めにして側室にする一代の梟雄らしい悪太郎ぶりと、戦国武将の透徹した死生観が、もう全身からみなぎっていた。
『盲人書簡』の方は。
うーん、自分の中では “生ける舞台装置” としての黒い苦力(クーリー)の集団は、なんというか、全員が均質な筋肉質の没個性の集団だったんで、あの巨躯が逆にマイナスにはたらいた気がする。
こればっかりは、いたしかたなし。
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■小阪知子
影の殊勲者にして功労者。
前説とカッパ相撲のときから(自分の見立てでは)この人は切れ者だろうな、と思ってたんだけど、今では確信に近い。
馬鹿をやる、それもビビッドに馬鹿をやれる人間は、なんというか、切れる。これは自分の持論。
自分が見るかぎりでは、月蝕歌劇団キャストのベテラン高位職者(?)には2つのカテゴリがあって。
1つは白永歩美、岬花音菜のように “スタア” 役を仰せつかってスポットライトを浴びる職種。
もう1つは、前回公演の鈴乃月葉や今回の彼女のように “ひとり10役をこなしてストーリーラインを維持する” という重責の担当者。
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■若松真夢
薄い眉、暗く沈んだ眼。白永歩美が陽のビザールだとしたら、彼女は陰のビザール美人。
もっといろんなキャストで見てみたいと思った。できれば和装で。
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■城之崎リアン
詩劇ライブのみに登場。OGか。
そりゃ、男女問わず固定ファンがガッツリと付いたことは想像にかたくない。
問題は、貴公子以外にどんなキャストをやっていたのか、想像がしにくいことで。
もっと昔から見ていなかったことがくやまれる。
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■登利忌理生
前回の中村ナツ子に続き、今回の「なにものだ! このひと!」ワクに期待のダークホースが登場。
自分は茶髪に偏見があるようで、「えっとぉ、学校卒業の記念にぃ、オーディション受けちゃいましたー!」みたいなハスッパな外見と、そこから飛び出す恐ろしい長セリフと演技巧者ぶりのギャップに舌を巻いた。
本当に何者だ! と思って調べてみたけれど、月蝕以前の芸歴がまったく引っかからない。
あれか。学生演劇出身か。
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■音無ねむ
今は、まだ大部屋女優といった立ち位置。
(たぶん。自分が調べた限りでは、まだ無名)
何者でもない。
何者にも、まだなっていない。
だけど、あの男に引けを取らない長身とキリっとしたマスクには、絶対に活きる使いみちがあるはず。
実際、『盲人書簡』の “新聞朗読笑い男” には何とも言えない味があった。
(キャスティングの認識、間違ってないよね?)
陵南の田岡監督ふうにいえば、「体力や技術を身につけさせることはできる。だが、彼女をでかくすることはできない。立派な才能だ」ということ。
まずは、その長身を恥じるような猫背をやめて、胸郭を開いてまっすぐ立つところから、カンバレ!!
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■J・A・シーザー(と音響)
ふむ。ふむふむ。
エンディング、こんな感じかにゃ? 間違ってるかもだけど。
(いま手元にGarage Bandしか無いんで大変)
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Bm....................BmM7(←Daugかも)
寺 の 坊 ん さ ん 根 性 が 悪 い
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Bm.............Bm........F#m..GM7
守 り 子 い な し て 門 し め る
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F#m.........Bm........F#m......Bm.E
ど し た い こ り ゃ き こ え た (か)
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(間奏2+4小節)
E.................Bm.......Bm.......Bm.......Bm
+--------+--------+--------+--------+--------+--------+
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Bm.......D/A...GM7..........Bm.D/A..E..
守 り が 憎 い と て 破 れ 傘 き せ て
.
Bm.......D.....GM7.......Fm#......GM7
か わ い が る 子 に 雨 や か か る
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Fm#.........GM7.......Fm#......GM7
ど し た い こ り ゃ き こ え た か
.
(間奏4小節)(以下同じ)
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メジャーセブンに合わせて変えたか。
採譜するまで気が付かなった。
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えー、日本のニロ抜き音階(いわゆる田舎節)で作られた民謡/童謡に、7th、9thがタップリ乗ったモダンコードをあわせて。
さらに、それを流行りのリズムパターンに乗せると、こう、実にカッコいいニューエイジ/ワールドミュージックになるのは皆さんご存知のとおり。
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こういう音楽はみんな大好き。ボクも大好き!
この種の音楽の嚆矢は自分が知る限りYMO(実質、坂本龍一)で、80年代ではあるけど、このスタイルが「教授(坂本)のパクリじゃ〜ん!」と言われなくなったのはEnigmaやDeep Forrestが日本でワサワサ紹介されて一般化した90年代のような感じがしていて。
(“姫神せんせいしょん” や喜多郎については、当時ノーマークだった自分に語る資格はない)
問題は、J・A・シーザー氏が、何故この時期にこの種のスタイルをぶつけてきたか、だ。
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本公演エンディングの『竹田の子守歌』はJ・A・シーザー氏の手になるものではないとの指摘がありました。
お詫びして、訂正します。
以下、上記の誤りを前提にした言及をカットします。
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でも、今回のエンディングが実にイイ感じだったことは確かで、これからもこの路線はアリなんじゃないか、と思った次第。
うん、自分に言えるのはそれだけ。
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最後に音響について。
なんか、今回の殺陣は斬撃の効果音のタイミングがやたらと良かった。
何か条件が変わったんだろうか。
ただ、いつもながら思うのは、客席一番奥にコントロールブースを置かないで、それでもあのレベルの音響を維持できているのは、それ自体が奇跡に近いことだ。
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ただ、生きている動物の仕込みはさぞかし苦労しただろうな、と。
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んー、今回の月蝕歌劇団はこんな感じでした。
全体としてどうなのかって?
うん、良いところもあれば、首をかしげるところもある。
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まずは。
自分はもともと聖子ちゃん、キョンキョンのころから、それほどアイドルが好きではないので、フレッシュなキャストのライブ感、というのにはそれほど重きをおかない。
なので、(おそらくは)キャストそのものに入れ込んでほしい、という劇団の方針には同意しかねる。
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しかしながら。
高取英氏の作品世界。これにはどーしても、どーしても不思議な引力を感じでしまう。
結果として、スケジュールが合って演目の印象が良ければ、これからも足を運ぶような、そんな感じがしている。
というあたりで。
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また機会があれば。
、
JR北海道が自社の経営努力だけでは道内鉄道網を維持できないというニュースを読んで思った。
「かつての賑わいが失われた」などといった、寂れた街に対して使われる言葉は果たして本当に正しいのだろうかと。
ということは、8年前の日本はどの時代の日本よりも人口が多かったということになる。
しかし、まもなく廃線を迎えようとしている北海道の街や、日本全国の過疎地と呼ばれる寂れた街が
8年前に賑わっていたとは到底思えない。
「かつての賑わい」とはきっと高度経済成長期のことを指すのではないかと思うが、
人口ピラミッドが山型で、働けば働くほど幸せになれるという希望があったのかもしれない。
その時代背景を考慮しても、現在の地方都市のシャッター商店街に人がごった返すほどの賑わいがあったとは、
23区に隣接する街に住み続けている自分にはどうしてもイメージできない。
田畑が広がる風景から、段々と宅地化が進み、巨大な団地までもが建設されていく様子が写し出されていて、
寂れた街はその逆のことが起きたはずであるが、変化の加速度はこれに及ばないと思う。
なぜなら、街の大きな変化を経て形成されたベットタウンの構成メンバーは、日本全国から集まってきた人であり、
ある特定の数市町村の全人口50%以上が集団移住したなどといったことはありえないからだ。
日本全国の小さい街から、少しずつ、少しずつ人が減り、その街と共に老いた人々が、
自身の体力の衰えと過ぎ去った時間に対する切ない感情を乗せて、少し大げさに「かつての賑わいが失われた」
などと言っているだけであって、実際のその街は、昔と比較して、実はそれ程変化していないのではないかと思ってしまう。
まずタイトルを見て多くの護憲派、いわゆる憲法改正絶対反対、憲法9条は日本の宝と骨の髄まで考えておられる方は
なんだこのレッテル貼りはだとか、これが差別主義者のネトウヨの典型的な書き込みだと考えるだろう
2ちゃんねるやニコニコ動画といったアンダーサイトでは気に食わない相手や反論へアスペという
この書き込みもそのガラクタの一片でしか無いと思い込むだろう が、
護憲派がアスペ 正式名称アスペルガー症候群だというれっきとした2つの根拠がある
まず、憲法9条という物は簡単にいえば、武器の所持や軍の所持、国の武力行使を先制攻撃されるまで”一切の禁止”をしている条例である
しかし、自衛隊を見てほしい。どこをどう見ても上から下から見ても武器を所持している
勿論戦車だって持ってる。これを軍隊と言わずして何と言う?どうして憲法9条があるのに軍隊があるのだ?
それは朝鮮戦争が勃発し、最高司令官マッカーサーが日本に自衛が必要だと判断して軍の限定的所持を認めたからだ。
このままでは日本は共産圏に飲み込まれ、アメリカは極東に進出できない・・・!
日本だけが問題のある国だと思っていたので軍備を持たせない憲法を施行した、
これでアメリカにとって平和が訪れたと思っていたのだが、戦争が始まってしまったので自衛組織を創設させた
なのでもうこの時点で、憲法9条は"死亡した" 今更解釈がどうだとか時既にお寿司 なんちゃて。
では何故そんな死体 9条を変えても変えなくても何も変わらないのに護憲派は拘るのか?
アスペルガーの人は文字や文脈を文字通りに解釈してしまう傾向がある。というかする。
失礼します という言葉を聞けばなんでこの人は謝罪しているんだ・・・?と思ったり平気でする
そんなのが 武器の所持や軍の所持、国の武力行使を先制攻撃されるまで”一切の禁止”をする憲法9条が消えてしまう・・・
と思った時、自衛隊が存在している時点で無意味な憲法を盲信してしまうのは筋が通っているではないか。
そもそも法律通りに物事が進むなら誰かが誰かに死ねと言ったら侮辱罪、ツイッターのアニメアイコンは著作権法違反だ。
でも誰も罪の意識はない。文字通り解釈したら法律違反になるんだけどね(笑い) 刑務所パンパン!
世の中法律のように文字通りにはいかないのである、国にとって都合の悪いジャーナリストがちょっとスピード違反をしたり、
誰でもやるような細かい違反を粗探しして別件逮捕するし、大麻ドッキリの男も"物議をかもしたので"スピード逮捕された。
彼ら9条改正絶対反対派は決まって "日本は悪い事をした" ”ネトウヨは低学歴...”
確かに、60年代の学生デモでは東大紛争など、高学歴の若者が左翼思想に溺れていた印象だ。
意外に思われる方も多いかもしれないが、発達障害は知的障害やLDと違い、勉強はできる人間が残念ながら存在するのだ
テレビでたまに見る頭が逝ってる学者は大抵アスペだと思って良い。
しかし先でも述べたように、文字通り解釈したりする上、一度学んだ物は絶対に正しいと考える癖がある。
俗に言う、マジメ系である。
それで別に数学や理科では困らない。寧ろ有利だ。問題は "歴史の授業"である
そもそも歴史と言うものは数学などとは違い、人の思惑や解釈、都合の良いように変えられるものなのだ。
アメリカは戦勝国、日本は敗戦国 敗戦国は戦勝国の傀儡化する。これは必然である。
"原爆を落として無実の人々を何万人も殺した。" "民間人を火炎放射で生きたまま殺した"
なーんて歴史を知って良い気分になるか?無論違う。
そこで、今でも論争が続く南京大虐殺や、日本帝国主義が如何に悪の帝国であったという事をあったなかった関係なく
戦勝国にとって”絶対”にあったことにしないといけないのだ。正に "歴史は勝者の小説" なのである。
そんな人によって解釈が違ったり、こうだという事にしたい思惑の歴史の授業を、
"文脈を文字通りに解釈" ”間違いを許さない”アスペルガーの人が学んだらどういう思想を持つか。
後は言わなくても解りますよね?
これで大半の護憲派がアスペルガーという障害者であることが理解できたと思います。
良識のある皆さんは気の狂った9条改正反対派を少しでも減らすため、選挙に行き、安倍さんを断固支持しましょう!
KTBR!
(この匿名ポストは、口下手な俺が近しい人間に近況をまとめて報告するための書き込みなので、「ワケわからん」という人は、無視してほしい)
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別の人ってのは、そうだな……あるところで、超っ絶美形、お耽美系おまけにXジェンダーという、やたらキャラが立ってるモデル兼役者さんを見かけたと思ってほしい。
そのヒト、ビジュアルと毒のあるキャラを買われてライブや芝居の客演に引っ張りダコで、思わず本人を確認しにライブハウスに行ってみたのよ。
期待にたがわぬ超絶美形だったんだけど、本題はこの人ではなく(いや、このモデルさんも追っかけるつもりだけど)。
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「ほんとかぇ?」と最初は思った。
その劇団、サブカルとか下北沢とか、そういうのを全然わからん俺でも知ってるくらいの有名劇団で。
旗揚げ公演のときは、ギラッギラのお耽美系女優でキャストを固めていて、そこにサブカル大好きティーンが「あ~ん、お姉さまぁ~」とかいって群がってるような感じで。
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で、その女優さん。
いっつも学ラン、学帽のショタ扮装で、ほんとうに純朴な少年みたいなキャラで、セリフ回しもトツトツとしているし、どっちかというと「あ~ん、お姉さまぁ~」とかいって群がってるサイドのヒトじゃね? と思ってた。
あるときまでは。
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ところがね。
とあるライブのゲストパフォーマンスで2人がコンビで出演した時。
そのままユラっとたちあがって身体を動かし始めたら、いきなり周囲の空気が変わったのよ。
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もうね。
ダンサー。
超ダンサー。
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ボディコントロールの精度とダイナミックレンジがハンパじゃない。
スタイルとしては、最初は土方巽的な暗黒舞踏の系譜かな、と思ったんだけど、見てると洋モノのコンテンポラリーに近い感じ。
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でも、それにしてもね。
ああいう動きは、それこそモーリス・ベジャールなんとかカンパニーとかに10年くらい所属しないと出来ないんじゃないの? まだ若いのに。
そう思ってチャラっと調べたら。
母娘2代、姉妹そろっての舞踏家ファミリーで、子供のころから母君の手ほどきを受け、美大に進学して上京してからは、もう在学中から現在にいたるまで、
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個展で踊る
有名ミュージシャンのMVで踊る
ミニマルミュージックのセッションでゲストパフォーマーとして踊る
そして、誰からもお座敷がかからないときは自主活動として踊る。
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踊る踊る踊る。スキあらば所かまわず踊りだす、踊りの国の踊り姫であることが判明。
(いやマジメな話、ソロのフリーランサーってどこで仕事を取ってくるんだろう?)
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ほかにも。
その女優さん、最初は普通のチンマリした女の子だと思っていたら、ネット上に、背中出しのコスチュームでプロに撮ってもらった宣材写真があって。
もうね、肩甲骨の自由度と張り付いてる三角筋の厚みが、完全にアスリートのそれ。
いやもちろん、シルヴィ・ギエムみたいに絞りに絞った体型ではないけど、学ランの扮装に完全にダマされてた。
完全に本職のダンサー。
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というわけで、がぜん興味がわいたんで、その“伝統の小劇団”の公演を予約して、行ってきましたよ、もう。
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もうね。
シンガー。
超シンガー。
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少しかすれた、でもよく伸びるアルトで、ピッチとアインザッツをガチキープしたうえで、朴訥な少年みたいなキャラクターをいい感じにのっけてくる。
ほぼ本職のシンガー。
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ところで、ここまで劇団の女優、女優と書いておいて、演技に一言もないのは。
だから、客演の寸劇とかで短く少ないリハーサルではアドリブがきかない。
(在学中に自主制作の映画に1本出ているらしいが、内容までは知らない)
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・ただし、所属の劇団でガッチリ稽古をすれば、プロ水準の演技はできる。
実際、主役級のキャスティングを的確にこなしていた。
少なくとも、演技といえば映画とTVしかみたことのない俺にはそう見えた。
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という感じ、なのかなぁ。
(ダンスになると手持ちの材料ですごい振り付けをするのと対照的)
ともかく、その意味ではキャスティングが当て書きとハマり役に限られる感じで、「アクトレス! 超アクトレス!」とは言えない感じ。
まだ今のところは。
案外、早い時期にその域に到達するかもしれないけど。
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劇団の公演自体はおおむね満足。アートでビザールで猟奇的な感じ。
そこで今度は彼女が時おり客演しているバーレスクチームのパフォーマンスに行ってきましたよ。もう。
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で、見てきた印象を簡単に書くと、
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・ダンスを見て、
やはり動きのキレすさまじき。
チップばら撒き、飲み代払いまくりなれど、かぶりつきで見た。元は取った!
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・ダンスが終わって
話を聞こうとしたら、追っかけが周りを取り囲む(俺も含む)。
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もともと芝居好き。
劇団オーナー氏の文芸思想面に共鳴、心酔、ならば何も言うまい。キャリアとか。
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・余談、『草迷宮』以外にも女力士がいるらしい。寺山修司好みのモチーフらしき。
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というあたりで。
……興奮冷めやらぬ中、この3ヶ月の自分を振り返る。
自分は何をこんなに、このダンサー(と周辺の人たち)に入れ込んでいるのか?
あれだ。
何が楽しいかというと、若い人たちが劇団やライブで頑張ってるのを見ると、その、あれだ。
大森望とか小林よしのりがAKBにハマっているのを「自分の娘みたいな年頃のアイドルに入れあげるって、それはどうよ?」とか思ってたのがね、これが自分がハマってみると、
_人人人人人人人人人人_
> スッゲー楽しいの <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
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そしてね。
この歳になって「和風アングラもいいな」という自分を今さら発見した。
夢野久作とか寺山修司とか麿赤児とか唐十郎とか横尾忠則とか佐伯俊雄とか『ガロ』とか古屋兎丸とか、そういう日本の猟奇的な世界とは無縁で生きていくものだと思っていたんだけど。
これがねぇ。若い人が過去の作品群や事件を掘り返しながら、自分にしてもまだガキだった'60年代の新宿的世界をガチでやろうとしているのが面白くて。
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ほかにもね。
その女優さんと美形モデル氏を起点に人脈をイモづる式に掘っていくと、面白い人たちが出てくるわ出てくるわ。
誰に頼まれたわけでもないのに、全身を蛍光色にペイントして街角にくり出してフォトセッションをやってるギャルの集団とか。
どこから出演料が出るわけでもないのに、「調香師の貴婦人と助手たち」みたいな架空のストーリーでコスプレ衣装合わせをして、参観料を取って企画として成立させてるコスプレイヤーとか。
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みんな“何か”になりたくて、
“何か”をしたくて、
でも、それが“何か”はっきりしていなくて。
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みんな若さにまかせて、アルバイトを掛け持ちしながら、もがいてる。
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おお! こりゃ、リアル日本版『レント』(と、その元ネタの『ラ・ボエーム』)の世界じゃないのよ!?
いいねぇ。じつにイイっすねぇ。
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この歳になると、知り合いで創作的なことをやってる人間は、
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・その周辺で稼げる分野に落ち着くか(←俺のことだ)、
・完全に足を洗って別の仕事を見つけるか
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どれかになるんだけど、まだ、そのどれでもない状態でやっている、やれている人たちが、まぶしくて、まぶしくて、もう。
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この女優さんにしてもね。
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っていう流れに乗る前に、
っていう流れに乗る前に、
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多少無理をしてでも金と時間を作って四方八方にコネのある舞踏家に師事して、それをテコに国内でも海外でもいいから名前の通ったダンスカンパニーにもぐり込むことを最優先にするだろう。
その後は、
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・一般人にも名の通ったポジションを取ることを最終目標に、有名振付師のゴーストから経験をつむか、
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・彼女の母君みたいにレッスンプロとして“ダンスを見たい人”より“ダンスを演りたい人”を客にするべく、行政とかに売り込みをかけるか、
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・あるいは、ヨーロッパみたいにハイカルチャーに一定の需要がある国にイチかバチか、飛び出してみるか。
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……10年後、20年後も踊っていたいなら、これくらいしか選択肢はないんじゃなかろうか。
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でも、おそらく、それじゃ満足できない何かがあって、それに衝き動かされているんだろう。
(と思ったら、海外留学が決まったらしい。いいぞ、行ったれ行ったれ!)
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ま、ともかく。
独立起業という名の引きこもりになって、はやЖ年。なんか世界がせまくなる一方だった自分の生活が彼女ら彼らのおかげでムチャムチャ彩り豊かになった。
この人たちには、いくら感謝してもしたりないが、直接言うとキモいので、ここでこっそり発言。
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なんかひょんなことから月蝕歌劇団の公演を観てきた。
『怪人二十面相 黒蜥蜴復活篇-ガス人間第二号とフランケンシュタイン-』
『ピーターパン 月蝕版』
自分にとっては初めての月蝕歌劇団。
忘れてしまわないうちに記憶を記録に変えるため、レビューを残しておくことにする。
(月蝕歌劇団を知らない人は目の前の箱でググってほしい)
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■全体として
これ、過去の演目を見る限り、そう間違ってはいないはず。
自分のボキャブラリでいうと、ボルヘス、池澤夏樹、イタロ・カルヴィーノ、筒井康隆、このあたり(マルケスは積ん読状態なので知らん)。
『怪人二十面相』やら『ピーターパン』やら、もとからマジカルな舞台設定の既存作品をさらに2つも3つもカットアップ、マッシュアップして、"魔法世界の中で、さらに有りえねぇ超現実が起きる"ある意味なんでもありの“ごった煮”的な世界設定を作って、舞台の制約が許すかぎり絢爛豪華なスペクタクルに仕立てる。
で、そこに昭和風俗をまぜ込んで(たとえば突然、山口百恵のワンフレーズが出てきたり、吉本新喜劇的なシークエンスが乱入してきたり)、さらに'60年代新宿のアングラシーンの楽屋オチ、「唐十郎と李麗仙が~」みたいなネタをチクリ、チクリと混ぜ込めば月蝕歌劇団になる。
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あと、これはどうかな……はずれてるかもしれないけど。
60年安保、70年安保的な新左翼の臭いと、その文化の“祭りの終わり”みたいな寂寥感が通底しているような気がする。
自分が当時のアングラシーンの空気と政治的な空気を混同しているだけかもしれないけど。
でも、“岸信介”とか、“ロシア革命”とか、そういうワードはちらほら出てくる。
2演目とも、終盤クライマックスにマシンガンの乱射をきっかけに急速に話が収束するところも、かならず流血をみるところも、まあ、ほら、いろいろと。
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ともかく自分にとっての月蝕歌劇団はそんな感じ。
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あと、演目の間に『詩劇ライブ』というのがあって、基本は歌唱ショー。短い芝居と群舞。
キャストの紹介も兼ねている、のかな?
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良かったかって? うん、良かった。
ただね。
大正末期(1910年代)の冒険小説、明智小五郎シリーズが戦後(1945年~)に伝奇ロマン化したものをアングラ時代(1960年代)の空気感で舞台化しようとして、当時の若手(高取英、1985年)が古豪となって2017年に上演した作品世界に、どの時代の気分で接すればいいのか、混乱するところはあった。
寺山修司とかが登場する楽屋オチに、どの時代の気分で笑えばいいのやら。
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良かったところは……、
舞台は超現実的なんだけどプロット自体は、なんというか、それぞれの人物群が自分たちの課題の解決を目指して動くような、破綻も不条理も無いオーソドックスな作り。
ときどき舞台袖で狐舞が始まったりとか、解釈に困るような隠喩的な演出が入るほかには、ストーリーを楽しむのに支障はない。
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くわえて、これは自分が舞台観劇の初心者だからだろうけど、衣装と舞台と演技と、つまり色々と作りこんだ箱庭を見ているような感覚。
これが新鮮。
そりゃ、どんな超現実もCGでリアルに作ってしまうハリウッド映画はすごいけど、いっぽうで、いろいろと“作りもの感”のある世界を、19世紀の見世物小屋のパノラマのぞき窓みたいに見ている感覚が良い。
(どうしても想像できない人は、映画でいうと
あたりを思い浮かべてください)
同じビジュアルスペクタクルでも、モデリングとレンダリングが古びてしまったら一気に観る価値がなくなってしまうVFXではなくて、どんなに古びても観ていたくなる、吊り操演とミニチュアと火薬の特撮みたいな。
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で、そこに少女歌劇団(厳密には若手女性主体の歌劇団)の、なんというか、キャッキャウフフ感がのっかってくる。
実際、終演後にはチェキの時間があったりと、アイドル公演的な。
(昨年だか一昨年だかに『アリスインデッドリースクール』を観たときにはチェキと握手会があったけど、そういうのって少女演劇のスタンダードなのか?)
というわけで、全体として
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1)呪術的なストーリーテリング
2)箱庭的な幻想感
3)若い娘さんたちが頑張ってる感
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が、それぞれX軸、Y軸、Z軸に広がって立体的にホンワカした気分になってくる。
これで役満。いい気分。
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■岬花音菜
歌、ダンス、芝居、3枚そろって超人。
もともと彼女がアンテナに引っかかったから舞台を観に行ったわけで。
行く前は「ひょっとしたら芝居が弱いかなー」と思ってたけど、そんなことはなかった。
純朴ショタ(少年探偵団の小林少年)からガラッパチ女子高生まで演じ分けていた。
いま確認したら、全体の振り付けもやってる。スゲェよこの人。
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■白永歩美
上に書いた岬花音菜嬢がトップか一枚看板かと思ったら、すごい人がいた。
白永歩美。
OG客演なのか、現役トップなのか、よくわからん。(そもそも一般的な意味でのトップと、月蝕歌劇団の“ヒロイン”とか“トップ”の意味が違うのかもわからんが)
動いて良し、喋って良し、歌って良し。加えて舞台向きの強力な眼と唇、長い手足その他ビジュアル。
ピーターパンになって最後は飛ぶ(榊原郁恵ばりとは行かないけど)。
普段は何やってる人だ? 専属か?
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■白川沙夜
コメディ、アクション、ストーリーテリング、怪盗紅あざみのパートはほとんど彼女一人で回していた。
アンサンブルも彼女が周囲をブン回している感じ。(いや、周りが抑制しているのか? そこまでの鑑賞眼は俺にはない)
イヤそりゃ紅あさみ役なんだから当然といえば当然なんだけど、そういう長時間の高負荷に耐えられるキャストなんだから、信頼性の高い人なんだろう。
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■新大久保鷹
で、この人。
発声から演技まで、一人レベルが違った。
いや、レベルというのとは違うな。
キャラクターの性格と感情と現在の意図がわかりやすい、演劇らしい演劇をしていた。
キャリアの違いか。
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■河合瑞恵
この人というか、この人を見て思ったことを書く。
河合瑞恵さん、男役として帝国軍人とラスプーチンを好演。なんだけど、それとは別に幕間のライブで『夢は夜ひらく』(藤圭子)を歌っていて、これが実に良かった。
そこで気が付いた。
いや、大人の女性のキャラクターは出てくるのよ。でも、『二十面相』の誘拐少女の母親にしても、『ピーターパン』のアレクサンドラ皇后にしても、設定上の年齢よりは10歳か20歳は若いキャストが演じてる。黒蜥蜴も紅アザミも、おそらく。
少女とショタと男役とサポートの男優だけで構成されていて、大人の女性の存在がすっぽり抜け落ちてる、この劇団。
いつもそうなのか? そういうコンセプトなんだろうな。暗黒タカラヅカだし。
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■嘴音杏
上手い、凄い、空気も変わる。専業で本業なんだから当然か。
ただ、ほかのキャストが黒を基調にした演出で、おそらく劇団のストック音源をバックにJ・A・シーザーの幻想世界や女心とかを切々と歌ってるところに、パーソナルカラーの赤コルセットと赤ドレスで生バンドの高音質2MIXをバックにブルースをゴリゴリ歌って月蝕歌劇団を3分間だけ痴人倶楽部にしてしまった感じがする。
良いか悪いかは別として。
芝居は。んー、良しあしが言えるようなキャラクターじゃなかった。
政治的に正しくない、だけど、ある意味では由緒正しい戯画化された“インディアン”だったので。
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明智小五郎+α役。オフの顔を見たら、アラかわいいお嬢さん。ベテラン主体の劇団だったら、小林少年をやっててもおかしくない。
客演らしい。
「美丈夫ですか? やりますよー」といってこなせる彼女みたいな人が、実は隠れた高能力者なのかもしれない。
だってあれよ? 明智小五郎と黒蜥蜴といったら、つまり天地茂と丸山明宏よ? そういうダークで苦みのあるキャラを演じて象徴的にせよベッドシーンまでこなす。役者ってすごい。
そういえば高畑亜美さん。一緒に観劇した元同僚が「あの黒ボンデージの人は役者魂を感じる」と言っていた。
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■北條華生
緊縛師をエキストラで連れてきたのかと思ったら、そのままシレっと芝居を初めて、V・フランケンシュタイン博士を演じきってしまった。しかもうまい。
調べたら緊縛師ではなくて緊縛もこなす役者さんだった。みんな多芸なのね。
吊るしのとき、役者の影で見えなかったけど、1/2なり1/3なりのプルアップ・システム(滑車みたいに距離2倍、荷重1/2にするロープワーク)をやってるはずで、一瞬、芝居が停滞したように見えたけど、あれでも相当手際が良かったんだなと後から思った。
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■はるのうらこ
北條さんのロープワークもさることながら、吊るしというのは吊るされる方にも技量がいるわけで、ハーネスをガッチリつかんだまま気絶するという難しいことをやっていた。
男役。
悩める青年将校をきっちり演じきっていたけれど、華奢なのはいかんともしがたい。女性役であらためて見てみたいと思った。
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■中村ナツ子
な!に!も!の!だ!? こ!の!ひ!と!
Web/エディトリアルデザイナー、ライター、イラストレーター、Photoshopper。
チャラっと調べてみたけれど、原稿(というか体当たりルポ)もロゴデザインも依頼主のテイストに合わせて手堅くこなす。
役者で声優。前説もこなす。となりの知乃さんにも目配りしながら観客席と当意即妙のやり取り。
舞台にも立つ。しかも端役じゃなくてしっかりスポットのあたる役どころ。
これでJavescriptとSQLが書けたらホンマモンの超人や。
こういう人が一番まぶしい、そして怖い。
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足りぬ足りぬは工夫が足りぬ。いやそうなんだけど、せめて南部十四年式拳銃は用意してほしかった。ポスターにもあるんだし。
ネバーランドの崩落シーン。大道具の意地と苦労がしのばれる。というか、そのための柱だったのね。
周囲の柱といい、中央の小部屋といい、随所に設けられたピットといい、演目に合わせて必要十分な空間の設計がなされていることに、いまさら感心する。
意地と苦労といえば、ピーターパンの飛行シーンも、無くても成立するだけに、「これをいれねば!」とウィンチを仕込んだ意地と心意気がうかがえるよなぁ。
ところで、いま調べたら、中央の小部屋は常設みたい。
なるほど、上手と下手のほかに中手があると、バーン! と登場するシーンとかに便利だよね。
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『絶対運命黙示録』『私の中の古生代』(←だったっけ?)しか知らなかったんだけど、「ほかにどんな曲があるんだろ」と思ってたところ、つまりはこれこそがシーザー節だった。
主旋律の音域を広く取ってロングトーン多用おまけに変拍子の幻惑的なスタイル。
これがそのまま歌手泣かせの難易度となって跳ね返ってくるわけで。ノリで合わせていたら絶対にロストする、ブレスで死ぬ、超絶覚えゲーみたいな世界。
こりゃ役者さんが大変だろうと思った。
あと音でいえば、既成の歌謡曲のダビングもの、J・A・シーザー氏の打ち込み音源、ボーカル無しで舞台で歌うもの、ボーカルありの既成曲で舞台でも歌うもの、マイクあり、マイク無し、古いローファイ音源と新しいハイファイ音源、とバラバラのチグハグだったのが気になった。
歴史の長い劇団だから地層のように多種多様な音源が混ざってるんだろうと想像するけど、どこかで専門家がDAWで新録して整理しないと、大変なことになると思う。
あとマシンガン銃声のポン出し、キャストにトリガーを渡せるような仕組みはないものか?
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……んー、こんなところか。
機会があったら、一度は観てみても良いと思います。そこでハマるかハマらないかは、あなた次第。
自分? チャンスがあったら、もう何回か行こうと思ってる。
まさに、ブルマーについて「なぜそれが使われてきたのか」という研究が出版された。
おそらく制服についてもほぼ同じ論理で読み解けると思うので一読を勧める。
http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-3410-0
女子体操着であるブルマーは、ブルセラブームを契機に批判を受け、1990年代半ば以降に学校現場から急速に姿を消した。消滅の社会的背景はこれまでも断片的には語られてきたが、では、腰に密着して身体の線があらわになる服装が、なぜ60年代に一気に広がり、その後30年間も定着・継続したのだろうか。
地道な資料探索や学校体育団体、企業への聞き取り調査を通して浮かび上がってきたのは、中学校体育連盟の存在だった。そこから、中体連の資金難、企業との提携などのブルマー普及の背景を解き明かす。また、受容の文化的素地として、東京オリンピックの女子体操が与えたインパクト、戦前から続くスカートの下の2枚ばきの伝統などとの関連も検証する。
ブルマーは導入当初から性的なまなざしにさらされてきた。にもかかわらず、学校現場でブルマーが存続してきたのは、ブルマーをはく女子の身体に女子修身教育の幻を見る戦前回帰派と、美と健康を見る戦後民主主義派とが思わぬかたちで共謀していたためではないかと指摘する問題提起の一書。
オタクは自由で放任主義な右翼と親和性が高く、いろいろと口うるさい左翼とは親和性が悪い。
左翼は、その攻撃性でオタクを敵に回した自らの愚かさを悔いるべきと言う言説を最近良く見かける。
その言説について思うところを描いていく。
ヘイトスピーチや所謂「言葉狩り」については、間違いなく左翼と呼ばれる人たちが中心になっている。これらについては、人権の基本である「他人の人権を侵害しない」という原則の問題でもあるが、チャタレイ裁判に関する憲法学界隈からの反論(1)や、大日本帝国時代の児童文学や新聞の規制が言論統制そのものに変化していった前例が示すように、原則、否定するべき物ではない。
また、宇宙の戦士に対して、ファシズム的と言う評価(2)や、さらば宇宙戦艦ヤマトのラストシーンに対しては、それぞれ「軍国主義的」について言及があったことは確からしい(3)。
漫画関係の表現規制で真っ先にやり玉に挙げられる「悪書追放運動」では「軍国主義への回帰」と言う表現が使われてきた(4)。
これらの理由から、オタクが左翼的言説を嫌うことには一定の理由があることがわかる。
チャタレイ婦人事件からずっと、右翼はむしろ表現の規制側に回っていた。猥褻物や公序良俗を使用した最高裁の判決に対しては、保守派を批判する側の法律学者の方からこそ強力な批判が行われていたことを思えば、左翼が表現の自由に不寛容と言うのは、この手の表現の自由に関連する議論の実状からかけ離れているように思える。
悪書追放運動以来漫画の規制では政府与党が応援してきた。悪書追放運動の主体の一つである主婦層の応援をしていたのは、逆コースまっさかりだった当時の政権与党である。
所謂「左」が表に出ていたのは事実だが、思いっきり「右」がそれに乗っかっていることもまた事実なのだ。
84年の衆議院予算委員会で、マンガを規制するための法律の導入を求めたのは自民党の政調副会長だった三塚博氏だし、中曽根総理もそれに大いに賛同していた。
漫画関係でも、保守派の麻生議員とかは、漫画の規制に積極的な人だし、東京都でのマンガの規制が著しく深刻化したのは石原慎太郎が都知事だった期間だ(5)。
漫画に対して公序良俗に関するとして出版禁止のための法整備を実際に行ったのは自民党だ(6)。
つーか、なぜかよく言われる「左翼の側が、オタクの趣味をポルノ呼ばわりして規制している」と言う言説とは裏腹に、実際にオタクの趣味をポルノ扱いして規制しようとしているのは保守政権側のほうが明らかに多い。ってか、実際何度か規制に踏み切っている。
ついでに、戦前でも児童文学の表現に著しい規制が付けられていた。
表現規制の問題を見ていると右も左もオタクとは親和性が悪そう。
それどころか、この10年の間は、マンガの表現規制は保守の側から行われている。
だと言うのに、どう言うわけか保守層が放任主義と誤解している意見が不自然なほど目立つ。
幾度か、マンガの規制の法制化がされるときに反対に回ってきた共産党の立場がない。いや、共産党もちょくちょくマンガの規制するよう求めてはいたから濡れ衣ではないのだが(7)、法制化を阻止するために動いた(8)という一点においては、力が及んでいたかはさておき、むしろ表現の自由については無理解というわけではない。
にもかかわらず、左翼は教条的で何でも規制する頭の固い連中で、保守派は様々な価値観を認めてくれる懐の深い存在という、表現規制の法制化の歴史を紐解くと真逆としか思えない、訳の分からない言説が結構広まっている。
……本当に、どう言うことなの?
理由を考えてみると、実際の活動は兎に角、左翼系の攻撃の方がオタクの方に印象に残りやすかったのが問題なのではないだろうか。悪書追放運動の発言や、ウルトラセブン第12話、ジャングル黒べぇの封印や、さらば宇宙戦艦ヤマトや宇宙の戦士への批判(小説の批評・批判自体はまっとうな活動なのだけど)等、人気作品への影響が大きいこと為、実際の活動量以上に目に付く機会が多かった。
特に、ウルトラセブンの「第12話は欠番とする」と言う趣旨の文言は、兎に角目立つ。簡単に閲覧可能な人気シリーズに、「抗議による封印」の痕跡がポツンと残されているのは、イヤでも目立つ。
また、政府肝いりの団体でも、悪書追放運動の折りは基本的に「左翼」に同調する言動をとっていた。
恐らく、「左翼」の認識が悪くなったのは、ここら編が原因だろう。
その上で、90年代後半から2000年代初頭の「サヨク=人権を御旗に自由を侵害しようとしている連中」とか言う、自由主義史観発のいい加減な認識が、雑な認識と化学反応を起こして、いい加減な認識を加速させたと言うのが実状ではないだろうか。
00年代前半からの10年、警察や保守政権の側からによる表現規制が著しく深刻化していた時期に、そちら側からの影響が殆ど省みられていない現状を鑑みるに、自由主義史観発と言うか、小林よしのり発の「人権を美旗に世界の均質を試みている」と言う趣旨の認識の影響は少なくない気がする。
余談だが、戦前の表現規制に対する反省と言うことで使われた「言葉や表現が問題ではなく、実際に差別をなくすことこそが重要だ」と言う考えが、この保守派への契合に対する触媒になっている節があるのは中々興味深い。
実質的に、差別を助長していたり、差別に根ざしている表現を使い続けることによる、現状の肯定や差別の強化自体は問題にされてしかるべきだ。
キチガイと言う言葉が使われなくなったために、統合失調症の人の気持ちが幾分か楽になったと言う証言もある。言葉を狩っただけで問題が解決されるわけではないが、差別に使われるメインウェポンを使用禁止にすること事態を無価値と断定することも、非常に問題がある考えのように思える。
一方で、一片の理が合っても問題があるのは事実。だからこそ、チャタレイ裁判以降、多くの憲法学者は表現規制そのものを問題にしてきたし、前例がある以上、この手の批判は積極的に行われてよい。
兎に角、「表現を規制する要理も、現状の改善の方が重要」と言う言説が「表現は問題ではないのだから、どんな差別的な表現を使い続けたってかまわない」と言う理屈の正当化に使われ、惹いては、差別語を平然と使い続ける側の心強い理論武装になってしまっているのではないか。
いい加減話を終わらせるために、まとめに入る。
「どんな表現にも寛容な保守と、教条的で表現の規制を押し進めようとする左翼」と言う、表現規制の歴史に多少なりとも興味が有れば噴飯ものの理屈がネットの世まかり押し通ってしまうのは
・60年代の悪書追補運動の折りに、法制化を進める活動家よりも、直接行動を行う「左翼」側の活動の方が目立った
・「セブン12話」や「宇宙の戦士」批判など、容易な「左翼の抗議による作品の封印」の戦果に容易にアクセス可能
・00年代前半、個人サイト全盛期に自由主義史観初の雑な政治認識が流行した
・「表現だけではなく、現状を変える事こそ重要」と言う、それ自体はまっとうな言説の悪用
と言った要素が、悪魔融合を果たした結果ではないだろうか。
(1)浦辺法穂「全訂 憲法学教室」161~163ページ、岡田信弘「憲法のエチュード」86~91ページ
(2)ロバート・A・ハインライン「宇宙の戦士」483~484ページ
(3)牧村康正・山田哲久「「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気」第4章栄光は我にあり、広がりゆく波紋、第10段落
(4)長岡義幸「マンガはなぜ規制されるのか」100~102ページ
(5)長岡義幸「マンガはなぜ規制されるのか」177~180、196ページ
本来、三大命題の二つ目を書きたかったところだが、こちらの問題を先に論じさせてもらう。
この論考は以下のURLにたいする一人の若者からの反論である。
https://togetter.com/li/1080097
以上の新聞記事で、上野女史は「経済を犠牲にしてでも、平和国家として衰退すればいい」と主張している。
この主張にたいする批判等は、本職の社会学者に任せるとして、ここでは私の純粋なる反感について述べていきたい。
上野女史は無邪気にも、戦後日本を「平和国家」としてとらえている。
この考えはまったくの見識違いといわざるをえない。
そもそも、戦後日本の社会体制は1940年代の「総力戦」体制を「経済最優先」の形として再編したものである。
扶養控除、源泉徴収、終身雇用制、護送船団方式のすべてが元々「戦争を想定して」造られたものだ。
1950~60年代には、「高度経済成長」の美称の裏で、世界でも稀にみる学生運動、市民運動、社会不安が吹き荒れていた。
70~90年代にかけては、家庭や企業に社会体制のガタが入り、人々を「死へと誘う」システムへと変貌していった。
これが少年非行やいじめ、過労死などの狂気的な状況を引き起こした。
戦後日本とは、世界的にも稀にみるただの「ゆたかな社会」である。
まったく「平和」でも「民主的」でも「自由」でもなかった。ただただ「ゆたか」だっただけである。
しかも、「ゆたかな社会」は90年代~2011年にかけて完全に崩壊した。
最後に、原発事故とともに社会の安全神話が吹き飛んでしまった。
この事実について語らない者はすべて、今の時代にたいして不誠実である。
それはギデンズやバウマン、ジョッグ・ヤングなどを見てもらえば分かるが「流動的、効率的」である。
企業におけるセーフティーネットが「生産性や自己実現の神話」の名のもとに縮小され、
政府が担っていた安全保障は「構造改革」の名のもとに縮小され、
監視カメラやSNSの監視なしに、人々は安心して生きることができない。
不誠実な脳科学や認知神経科学、AI研究によって人間という「私」の特権性が失われ、
人々は常に失職と人間的尊厳の消失を心配するようになっている。
そして、このような多様な人々が同じ町で同じように暮らしている。
このように、後期近代社会とは
当たり前だったものがすべて崩れ去り、人間を永遠の虚無へと投げ出すのである。
このような状況では、人々は二つのレベルの不安を抱えることになる。
である。
人生の多くを占める活動である仕事にふさわしい「対価」が支払われなくなってしまった。
一方、ただ一日中、パソコンを見つめて投資とやらというギャンブルをするだけでも「対価」を得られる人々もいる。
「不当な地位にいる!」
「ふさわしい金額、敬意をもらっていない!」
という相対的剥奪感を抱かせる。
また、後期近代の社会はいわゆる「コミュ力」の高い人々が成功する。
軽薄に仕事にたいする敬意なく、強者に追従する人々が「評価」され、グローバルエリートとして出世していく。
そして、仕事に真面目ながらも報われない弱者は常に「自己批判」と「変革」を迫られる。
二極化する現実に人々は「私は人間らしい扱いを受けていない」という存在論的不安を抱かせる。
そして、人々はつねに不平不満をもらすのだ。
「私はこうなれたのに……」
「私もこうしたかった……」
ここでは深く述べないが、この可能性としての私=‹他我›にたいする深い怒りの感情が現代の社会不安の核心にあるように思う。
上野女史は「みんな貧しくなる」ことによって、この怒りを無くせるなんて無邪気にも思っている。しかし、それは不可能である。
この感情こそが永遠の虚無において、私を生きることのできる唯一の鍵だからである。
――常に人々に嫉妬を抱かせながら、その嫉妬を用いて欲望を加速させる。そして、その嫉妬を全身に受ける者は高笑いしつづける。
このような後期近代のグロテスクさに最初に抗議をあげたのが赤木智弘だった。
彼はある論考で「夢は戦争」とドゥルーズ的な集団自殺の理論を主張した。
今や「戦争」こそが「富裕層」を富ませ、「貧困層」を殺すことを知っているからだ。
加藤智大、植松聖などの社会的自殺者は、情報として処理され資本となる。
そして、情報となった「自殺」は「貧困層」による社会転覆の不可能性を解き、
後期近代において、「自殺」こそが「富裕層」へのもっとも積極的な「支援行為」なのだ。
防ぎようのない「天災」によって、
この瞬間を心の底から待ち望む。
109が崩壊し、秋葉原が灰塵に帰し、大手町のサーバーがダウンし
白金の御婦人たちが焼け出され、お台場の子どもたちが押しつぶされるとき、
そのときに来るのが、
東のいう変質したファシズムなのか
知ったことではない。
相対的剥奪感や存在論的不安に晒されることなく嗤いたいのである。
そして、私は嗤いながら確信する。
ふと「演歌って持って20年くらいなんだろうな」ということを思ってしまった。
先日職場で新年会に参加させられたのだが、その際におっさん世代(40-50代)のカラオケを聴いてたのだが
80-90年代のJ-POPを中心に歌っていて「演歌」という選択が一切ないのだ。
考えてみたらすでに職場で管理職をしている世代は60年代~団塊ジュニア生まれで、
その時点で既に演歌というジャンルは「おじさんおばさんが聴くもの」という認識が生まれているはずだ。
その「おじさんおばさん」世代はすでに「おじいさんおばあさん」世代になっている。
高齢化社会とはいうが、その高齢者も20年もすれば自然減が続出する。
おじさん世代にとっても馴染みない演歌というジャンルはあるときを境に一気に衰退を始めるのではないだろうか。
歌番組は基本的に専門の番組を持ち、JPOPやロック等異なるジャンルとは一緒になることはほぼない。
テレビ放送はBSか深夜にひっそりとやっているカーテンと照明しかないどシンプルな背景の音楽番組くらいだ。
あのシンプルな背景が他ジャンルにはない「昭和から一切変化を許さない」排他的な雰囲気を物語っていると思う。
先週運転してたらラジオからとある大物演歌歌手とベテランのDJが主演のリサイタルの告知をしていた。
その中でベテランDJが「皆さん、このリサイタルではリクエストは送らないでください。私たちが責任を持って選曲します」
とのことだった。要は素人のリスナーがリクエストしたセットリストで曲の雰囲気をぶち壊すことをして欲しくないんだそうだ。
お金を出してくれる来場者に全精力をかけるというプロとしての意気込みは感じるが、一方で傲慢さを感じる言い方だと思う。
視聴者すべてにヘコヘコする必要はないとは思うが、今の立場で金払ってくれる人たちの前でふんぞり返っているよりも
少しでも若年層にアプローチをかける手段に講じたほうが演歌というジャンルの寿命を延ばすためにもいいと思う。
ところで前々から不思議に思ってるのだが、演歌のCDってどのアーティストもフィギュアのレビューサイトみたいな背景に
『逃げるは恥だが役に立つ』というドラマが流行っている。
要約すると最初は便宜上の契約結婚を交わして夫婦がだんだんお近づきになり「本物の夫婦」になる話だ。
好きでもない相手と同棲状態になったり、なかば無理やりお近づきになり、付き合っていくうちに本物の恋仲になる。
そういうお話をバリエーション含め、あなたはいくつも知っている。どれも人気作だ。
少女向けコミックのそれ系統は最近じゃ一月に一作は実写映画化されてるし、
男性向けの場合は落ちものだとか、ハーレムものだとか呼ばれている(まあただハーレムの場合、「好きでもない相手と〜」は一昔前の流行になってるかもしれない)。
こういう系の恋愛物語がいったいなんで受け入れられやすいかというと、
それは我々にとって(少なくとも概念的には)馴染みぶかい恋愛の形態でもあるからです。
親や仲人から引き合わされて、ほとんど初対面の相手となんだかよくわからんが結婚し、最初は家と家との結婚という感じだったのが、
『この世界の片隅に』なんかもそうでしたね。
あれが理想の「見合い結婚」、日本人の好きな「恋愛物語」のパターンです。
日本人は現在に至るまで実はアメリカ的な意味での恋愛結婚をよく理解していないのじゃないか、と思う。
いやね、アメリカ人だって昔から自由恋愛バンザーイ!みたいによろしくやってたわけじゃないんです。
50年代60年代あたりまでは、結婚相手なんて「ご近所さん」が普通だった。
特に都市部では出稼ぎにきた移民労働者が、やはり移民であるお隣の娘さんをなんとなく良いな、と思って、デートを申し込んだり、
あるいはいきなり「娘さんを僕にください」とやってきてそのまま結婚することも多かった(後新聞に結婚相手募集の広告出したりなんかしてた)。
「結婚したあとで好きになっていく」パターンは実はわりと最近までアメリカにもあったんです。
カウンターカルチャー、フリーセックスの時代です。
フリーセックスの方はエイズやらキリスト教保守派のバックラッシュやらで廃れていくんだけど、
自由恋愛のほうは残った。
そう、電話の普及ですね。といっても、
今みたいに個人につき一つってわけにはいかなかったけれど、約束を取り付けるのは楽になった。
娯楽も増えたし、公民権運動の余録で女性の地位も向上して女性の選択肢もちょびっとながら増えた。
なんたって50年代までは女性が単身で社会にでる手段なんて絶無に近かったわけですからね。
やたら女性が結婚を急いだのも実家という家庭から逃げ出したいところが大きかったんです。もっとも、結婚で実家を脱出したところで新しい「家庭」に囚われるわけですが。
恋愛の自由市場化が何をもたらしたかといえば、相手を「事前に」品定めできることでした。
やはり恋人は楽しい人じゃないといや。自分と合う人じゃないと。たとえば、音楽の趣味。映画の趣味。本の趣味が合う人。
食べ物の好みも重要。服装のセンスも忘れちゃいけない。それに犬派か猫派かも……そうそう、絶対ウンコはもらさない人じゃないとね。
こうして相手に要求するリストは無限に増えていく。このうち一つでも「アウト」だとたとえその他の条件を満たしていてもバイバイさよなら、となりやすくなる。
あなたは見知らぬ他人といくらでも知り合えるようになったし、その他人の情報を一切会うことなしにいくらでも知れるようになった。
メールやSNSの発展は新しい人とのつながりを容易にもしたけれど、同時に既存のつながりの切断も容易になった。
ネットで知り合ったあなたのカレの音楽の趣味が最悪だと一分前にわかった? よっしゃ、ならメールを送るんだ。
「あなたがそんな人だとは思わなかった。別れましょう」
そういう人はまだやさしいほうだ。なかには、別れのメールすらおくらずに元恋人を一方的にブロックする人間もいっぱいいる。
アメリカではカジュアルに出会えるマッチングサイトが普及しているけれど、
でも、なぜかアメリカ式自由恋愛のマインドだけは心得ていて、相手への要求レベルは格段に細かく、高くなっている。
知り合う手段は相変わらずインターネット以前のものに限定されているのに、意識だけはポストフェイスブックと化している。
この齟齬は、なんだろう。
といえば、おそらく日本人には「運命の人」信仰があるからだと思う。
「運命の人」信仰とは、趣味が全部合うとか食べ物の好みが一緒だから好きなんだとか、そんなんじゃなくて、
理屈抜きで前前前世から結ばれるべき運命だった人がいるんだよ、という幻想のことだ。
そう、『君の名は。』だ。
わけのわからないまま同居生活を続けるうちに相手のことがなんとなく好きになって
自分の好みを相手が事後的に受け入れ、相手の好みを自分が事後的に受け入れることだ。
それは家父長的な家庭であれば、夫の好むを妻が一方的に受け入れなければならず、逆はないという非対称な関係であったけれど、
現代の恋愛物語ではそれがアップデートされて「お互い様だよね」ということになっている。
日本の恋愛では、まず運命が先にあり、個人の人格はあとからついていく。
それはおそらく個人の人格を認め合う自由恋愛の本義からは外れた思想なのだろう。
でもまあ、なぜか日本人はそういうのが好きだ。
結局、皆、自由恋愛最高!を謳いながらも、心の奥底ではお見合い結婚に憧れ、理想化しているのだ。
ただしすべてものの90%はクズである。ご存知スタージョンの法則である。
「邦画はクソ!」というあなたに見て欲しい日本映画黄金期の名作 - シロッコ手習鑑
http://sirocco.hatenablog.com/entry/Japanese-Movie
1行で要約すると
「邦画はクソ、つまらない」という人は日本映画黄金期の名作見てないんじゃないの?「七人の侍」おすすめ。
通常であれば、うんうん「七人の侍」いいよね。黒澤映画の基本だよね。で済ませていたところだが、
>面白いという保証のない現代映画をみるなら映画黄金期の名作を見るのをオススメします。
という一文がどうにもひっかかったのでここにキーボードを執った次第。
邦画について検索すると「邦画はクソ」という結果が出てくるらしく、その一例として示されたまとめサイトの
でも現代人が「邦画クソ」という場合、この前見に行った邦画がつまらなかった、ハリウッド大作と比べると
どうしても全米が泣けない、原作改変しすぎて新規ファンの流入もないし原作ファン激おこだし誰得なの?
マンガ実写化に文句言うのはカッコ悪いってカッコつけるために言ってるんじゃねえよこちとらカッコ気に
してられないほど必死なんだよ。
みたいな文脈だと思うんだよね。もっと良い新作邦画を作ってくれよ、の裏返しの邦画クソ。
まずいものを食べてまずかった、という生の声。味噌汁がしょっぱいので盛り上がらなかった、とかね。
そこへ評価が確定している過去の名作を見ればいいのに、とアントワネットばりにケーキを薦められても違くない?
オールタイムベストにランクインしている名作を見るランキング型消費では、「君の名は。」「シン・ゴジラ」が
ブームだからと見に行くのと大差ない、いやむしろ悪いんじゃないか。
新作を見て評価するのは、きさんがやらねば誰がやる?
>面白いという保証のない現代映画をみるなら映画黄金期の名作を見るのをオススメします。
新作映画は見てみるまで面白いかどうかわからない。評判はあっても時間の審級を経てはいない。
それでも、新作を見る人がいるからこそ映画は作り続けられる。回転資金がなくなれば味噌汁さえも作れなくなり作品数は減る。
最初のスタージョンの法則に戻る。名作は幾多の駄作の屍の山の上にわずかに咲く花だ。
山が小さくなれば名作のド壌も枯れてしまう。
新作見るより過去の名作を見ればいいのには、映画興行の否定だ。
邦画の良さを紹介するために邦画を殺したら本末転倒ではないか。
1.で大体言いたいことは終わった。あとは重箱の隅です。
当時の娯楽の王様である映画作品が数多く作られていた50年代60年代が日本映画黄金期なのには異論はない。
しかし、その後テレビの隆盛、レンタルビデオの登場など、作品数・入場者数が減っていくには理由があり
単に数が下だから今は暗黒期、だから黄金期のを見ようという論は雑である。
物価の上昇はあるが、観客動員数や映画館の数は最盛期より減っているにもかかわらず興行収入上位には
現代の作品ばかり並んでいる。現代だって捨てたもんじゃないよ。上位=名作とは言わない。
では黄金期に多く作られた中でどれほどの作品が今に伝えられているのか。直木三十五の作品は読み継がれているだろうか。
名作とされるものしか今に至るまで残らないから黄金期はより素晴らしく見え、洋画もヒットが見込める
現代邦画は、ダメなものも全部さらけだされているから相対的に90%クズ感が増してしまう。
上澄みと生データを比べたら勝ち目無いよね。観る側向けにはこの点クギをさしたい。
だが、過去の名作を踏まえた上で今映画を作っている方々には、なんで見えてる地雷そびえ立つクソを作りあげてしまうのか。
味噌汁のミソとクソを間違えてはいないか。映画評論してきた経験は製作の現場には役立てられないのか。
金と時間が許せば名画座に毎日入り浸って映画漬けの日々を送り何百本のノルマを果たして蓮見ゼミに潜り込むんだ。
という夢の前提条件も今ではhuluなりNetflixなりで自宅に居ながらにして叶えられる。
しかし大スクリーンで一時停止も巻き戻しもなく集中して見る体験は映画館でしか味わえない。
「七人の侍」が公開された1954年、「ゴジラ」と「君の名は」も公開されていた。
奇しくも今年、その系譜を継ぐ「シン・ゴジラ」「君の名は。」が、それぞれ好評を得ながらヒットしている。
「シン・ゴジラ」「君の名は。」が新作としてかかるのは今しかない。
1968年の五月革命のパリが舞台。パリ留学中のアメリカ人青年マシューは
シネマテーク抗議デモを通じて知り合ったテオとイザベルの家に転がり込み……。
邦画でなくてすまんね。
ヴィジュアルロック=「社会を否定するため、あらゆるメッセージを拒否(現実からの逃避)」
ということで、形は違えど「社会的な影響を受け、それに反発するためのムーブメント」だったように思うのです。
以下、もう少し詳しく。
まずパンクロックがなんぞやというと、60年代後半から80年代に入るまでにかけてのイギリスの経済停滞による社会の鬱屈感と、同時期に複雑化しすぎたロックミュージック、両方への反発として生まれた若者中心のカウンターカルチャーの亜種であり、それまでに流行していたファッションに対しても反発する個性的なスタイルをとっていたことも特徴のひとつ。
対してヴィジュアル系は、特に社会に対するメッセージなどはなかったが、歌舞伎役者ばりの白塗り&奇抜なメイク、カラフルな頭髪、中世の雰囲気を取り入れたり、ハードロックのバンドマンが着ているものを参考に、さらに派手に彩った衣装などとにかく凝った外見と各々独自の世界観をもつことが特徴であり、音楽性については特に定まった様式はなかった。(強いて言えばバンドサウンドが基本にあり、ハードロックをベースとしているというのが共通項かもしれない)
で、ここから本論なんだけど、ヴィジュアル系には「メッセージ、主義、主張」ってのは一切なかった。(一部例外を除く)
あるのは、自分たちのビジュアルはこうだ!っていう世界観だけ。
これって実は、
メッセージを全く持たないものを信仰する=メッセージを押し付けようとする社会を全否定する=パンク的
当時の社会情勢としては、まず80年代後半にX JAPANが登場。時はバブル絶頂期。景気の良さも手伝ってか沢山のフォロワーが誕生する。(ちなみにヴィジュアル系の起こり自体は70年代後半までさかのぼれるが割愛。)
次に90年代に入りバブル崩壊。この時点でも世の中はそこまで暗い雰囲気でもなく、ヴィジュアル系は徐々にその勢力を大きくする。後に成功するバンドたちはこのあたりで結成されたケースが多い。
そして90年代中盤。いわずもがな、就職氷河期のスタート。不景気による世の中の停滞、鬱屈した雰囲気から逃れたくて、若者は縋るものを求めた。そこに、今までの価値観と全く異なるものを体現したカルチャーが表舞台に現れた。それがヴィジュアル系だった。メジャーにも多くのヴィジュアル系バンドが台頭し、大きなブームになった。それに伴い一層先鋭化した個性的なバンドが現れたりもした。が、所詮は一過性のブームであり、そう長くは続かなかった。
90年代後半。勝ち残ったバンドは僅かだった。そしてその代表格であるのがGLAY。だがこのGLAYこそ、じつは本当の意味でのヴィジュアル系ではないと筆者は考える。なぜか。彼らは「メッセージをもったバンド」だからである。
もちろんそれは社会や体制を批判するようなメッセージではない。恋人や友人に語りかけるような、いわゆる普通のポップスやロックの世界観の上に、ヴィジュアル系の要素を軽く味付けしたしたバンド。それがGLAYであり、その普通さ故にブレイクし生き残ってこれた。
皮肉にもヴィジュアル系ブームで最も恩恵を受けたバンドがじつはヴィジュアル系ではなかったことが、音楽業界では王道的な価値をもったものが生き残るということを証明したのではないかと思う。(GLAYが最も影響をを受けたというBOOWYもビジュアル系ではなくロックバンドである)
ここから更に話は飛躍するが、このGLAYが最もブレイクしたのと同時期に、ヴィジュアル系のような独特の世界観を持ち、GLAYのような身近なメッセージで大ブレイクしたものあある。ご存知「新世紀エヴァンゲリオン」である。
既存のロボットアニメからは大きく飛躍した独特のヴィジュアル、言い回し、中身があるようで無い、複雑でわけがわからないけど「なんかすごい」と感じられる世界観。しかし実際テレビシリーズの中で伝えられたのは、視聴者同様の思春期によくある悩みを抱えた主人公・碇シンジの成長物語という、とてもシンプルな内容であったことが、この90年代後半の「何に希望を見出したらよいかわからない世代」に対するヒットの要因であったのではないかと考えられる。(細かくはそれ以外にもたくさんあるんだろうけど専門外なので割愛)
さて、時代は回って2016年。この時代を代表する音楽文化とはなんだろう?ぼんやりとした括りではあるが、それは「アイドル」ではないかと筆者は思う。
AKB,perfume,ジャニーズ、地下アイドルetc、、、それぞれにスタイルは異なるが「メンバー個人に対して熱烈なファンがいる」「楽器の演奏ではなく歌とダンス、パフォーマンスが主体である」「ライブ以外に活動する場所がある」というあたりが共通項と言える。
そしてアイドルは、社会に対する反抗者への、「癒やしと共感」なのではないだろうか。
我々は失われた20年の間に大きく傷ついた。後退した。その傷を埋めるために「つらいのすごくわかるよ」「一緒にがんばろう」というメッセージを発したのがアイドルたちだった。それは、理由もわからず暗い時代を過ごすことになったゼロ年世代にとってとても甘美なものだったに違いない。
アイドルに求められる像というのも、昔は「憧れの存在」であったものが、いまやバラエティ番組どころか街角の中まで進出し、アイドルという唯一の存在でありながら「身近なお兄ちゃん、妹」のような共感を得られる人がヒットしているのもそれを後押ししている。
さてここで気になるのは大ヒット中の「君の名は。」である。これもエヴァの考察がヴィジュアル系のそれであったように、アイドルの「癒やしと共感」というキーワードで紐解くことができるだろうか。
そろそろ書くのめんどくさくなったので終了。
誰か気が向いたら続き書いてくれると嬉しいです。
http://toianna.hatenablog.com/entry/2016/10/15/102629
80年代に父の会社でCI改革のプロジェクトがあって父はプロジェクトの責任者だった
想像するにCI改革は、ロゴデザインの刷新もCMもあったりでかなりの額のプロジェクトであったんだろうなと思う。
代理店はH社
なお、父の会社は重厚長大系。父が就職した60年代はイケイケ業界だったが、バブル期は、業界構造として低迷で、株もびっくりするほど安かった。母は給料の少なさに嘆いていた。
父はいつも、打ち合わせで六本木だが麻布だがで代理店の人とごちそうになっていた。家に帰るといつも家族に食べたものを仔細に話していた。
その後、月イチくらい、接待で行った店に家族で行った。フランス料理の魚のムニエルが全く美味いと思わなかったり、中華風のしゃぶしゃぶで腐乳に閉口したりした。そういえば青山のフランス料理は松濤に引っ越す前のシェ マツオだったりしていた。
代理店の営業さんとサントリーホールでコンサートを聞きに行った、ということも良く言っていた。たまに私も連れて行ったもらって、休憩の時シャンパンを母に内緒で飲ませてもらった。あと、「スターライトエクスプレス」というミュージカルの券にも一緒に行った。
バブル恐るべし、と思う。
トイアンナさんの書くような下品なことを求めるクライアントもあるだろうし、それを全く求めないクライアントもいるだろうし、そこは当然営業さんは合わせるんだろうと思う。
今だったら昔より、品のないのは断ることがしやすい環境には思う
私は現在の仕事の関係上、コンサルティング会社と何回か仕事をしたが、ハードワークと、クライアントへの丁稚加減としてコンサルは似たような点があると常々感じていた。
コンサルティングに無理を強いる時には、申し訳ないと感じながらも、下請けにやらすのは当然という思い、そしてコンサルのみなさん僕らよりお給料高いよねという卑屈な思いが入り交じる。その時、たまに父が漏らしていた「士農工商代理店」という言葉を思い出す。
現在も、ましてやバブル当時も、品のない接待を要求しているクライアントはたくさんあるだろう。そこにはおれたちは客だろうという思いの奥に、高給へのひがみといった薄ら暗い感情があるんじゃないかなと思う。
60年代にビートルズが流行っていたときにその時の老害は「ビートルズとその真似をしてジーパンを履く最近の若者はけしからん!不良だ!」と批判した
しかし、そのビートルズ世代は今の音楽業界を批判し自分たちの価値観を押し付けようとする立派な老害となっている
もっと時代を遡れば明治や大正の頃小説が流行っていたときその時の老害は「最近の若者は小説ばっか読んで!けしからん!漢文を読め!」と批判した
ゲームも同じくCSオジサンと呼ばれる老害が「最近の若者はスマホゲーばかり!ガチャばかりしよって!なぜPS4を買わないのか!けしからん!」と騒いでいるのである
こういったCSおじさんの過剰なまでのスマホゲー批判には理由がある
スマホゲーの台頭により自分たちの好きなコンテンツ・コミュニティがなくなるのではと恐怖を抱いているからだ
スマホゲーは当たればとてつもなく儲かるので必然的にメーカーはCS部門を縮小、廃止しスマホゲーに力を入れる
そうなると発売されるCSソフトの本数は減っていく…そして市場規模は激減し、またメーカーはCS部門を縮小しますますスマホゲーに力を入れるのである
CSおじさんは声だけでかい少数派の金払いの悪いゲーマー様(笑)なのだから多数派の金払いのいいゲーマーのいるスマホゲーに力を入れるのは当然である!
そうした繰り返しによりCSおじさんはやがてCSソフトが一切発売されなくなり、CSゲー自体がなくなってしまう!と恐怖を抱いているのである
そのためCSおじさんは自分たちのコンテンツ・コミュニティを守るために必死にスマホゲーを批判するのである
しかしその努力もむなしく2015年のCSゲーの市場規模は2000億円を割ってしまった、このまま消滅するのは確かであろう
やがて日本はスマホF2Pオンリーとなり、CSゲーは本当にマニアだけがやる超ニッチ産業になる
どの娯楽業界においても老害が新しい文化を批判するのは上記のように新しい文化が老害の好む文化を滅ぼし、
自分たちのコンテンツやコミュニティが消滅することに恐怖を抱いているからだというのは明白である
いろいろ書いたわけだがCSおじさんに言いたいのは、自分たちの好きなゲームがなくなってほしくなければ月に10本、新品でソフトを買う、それはできるよね?
秋葉原事件後、似たような自暴自棄からの暴走がちょくちょく出てるけど、
このまま中間層は使い潰されて死んでいくんだろうなーと思ってた。
ある意味、某中東の「やれば48人の処女とあの世でセクロスできる権利」
という謳い文句と変わらないのだが、
自分勝手な理屈で自分勝手に行動するから、恐ろしくタチが悪い。
そして何より問題なのは、クソ真面目に働いてすり潰されていった中間層には、とてつもなく相性がいいってことだ。
これは私見だが、秋葉原事件は、自分を見てくれない世界への叫びだったと思ってる。
こんなに頑張ったのに、どうして認めてくれないの、と。
こんなに悪い事を放置してるのはいけない、なら、排除するのは正しい事だ!
犯人はリア充カテゴリの住人であり、友人から「バグちゃった」という証言から、
そして、サイコパスを育てた土壌が、昨今のブラック企業である。
明らかに過酷な条件で、低賃金で働かされ、問題が放置されたまま仕事が続いていく。
別の仕事で再起を図るも、これも出来ない。
この末にあるのは、自分を終わらせる自殺か、暴走する秋葉原事件のような他傷への道しかないと私は思ってた。
ところが、相模原事件で新たな可能性が出た。社会正義による殺戮である。
60年代大学闘争のようなイデオロギーの対立ではなく、この社会に属する者として、より良い方向に持って行こうとする、混じりっ気なしの善意なのだ。
その為なら、この身を喜んで犠牲にしようという、尊い自己犠牲なのだ。
狂っている。
社会に属する者として正気を保ちながら、狂気としか言えない行動を実行してのけたのだ。
この事件がただの殺戮でない事は、職員を生かしていた事からも読み取れる。
もしただの快楽殺人者なら、職員も患者も関係なく実行していただろう。
だが彼はそれをせずに、とても良い笑顔をSNSにアップして犯行を始め、終えた後、通報とほぼ同時刻に自首。
よくネット上で「富める逃げ切り団塊世代vs借金を擦り付けられた若者世代」
なんて対立軸が出てきたけど、この対立は、あくまで政治的に対立していく者だと思っていました。
これを解決するのは、いわゆる少人数による大人数への暴力行為なのですが、
戦後重犯罪最少記録を更新し続ける「おとなしい若者」には絶対不可能だと思っていました。
だが、相模原事件で新たな可能性が提示された。社会正義と自己犠牲である。
これって本当に恐ろしいですよ。
仕事感覚で殺人を行うキチガイが生まれるってことなんですから。
そして、それはブラック企業で慣らされた若者世代にとって、とても容易に現状を変革できる手段なんです。
超えちゃいけないラインをガッツリ超えてます。
となると、本当にやるかやられるか、なんですよ。
今後、増えていくんじゃないんですか?
まぁ、なんというか、お先真っ暗ですね。ご愁傷様でした。おわり。