はてなキーワード: 虚妄とは
アンタみたいな理解をしている日本人が結構いるのかも知れないけど、
・侵略も略奪も人類の普遍的な歴史だから諦めろ論を克服するために国際連盟とか国連とか国際法とかが作られた 文明人なら平和と秩序を求めろ 先人の涙ぐましい努力を簡単に踏みにじるんじゃない
・イスラエル人学者の書いた『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか』を読め 長いからワイは少ししか読んでないけど書評を読んでイスラエル神話の胡散臭さを理解できた
旧約聖書という考古学的になんら根拠のないファンタジー(ただの神話)を実現させるために創られたのがイスラエルであり、
「イスラエル人は古代ユダヤ人の末裔を自称しているが、実は一つとして科学的な根拠はない」さらに言うとむしろそこにすんでいるパレスチナ人こそが古代ユダヤ人の末裔であると指し示すDNA調査の結果がある
彼らイスラエル人は虚妄に囚われたモンスターだ 日本人がかつて「日本は神の国で日本人は神の子」と信じてたようなノリで21世紀の今を生きて周辺住民を虐殺し、あの土地一体を全て奪おうとしている モンスターとしか言いようがないではないか
衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度
我見諸衆生 沒在於苦悩 故不為現身 令其生渇仰
我此土安隠 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳
則皆見我身 在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量
久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是 恵光照無量
得入無上恵 速成就仏身
ChatGPTで要約しといた
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小学館第一コミック局編集者一同の声明に対する批判的な見解を提供しています。問題の文章は、作家、読者、関係者に宛てたものであり、著作者人格権の問題を時系列や本質から逸らし、小学館自体の責任を隠蔽しようとする意図を持っていると批判されています。文章は内容が曖昧で、著作者人格権に関する認識の不足を後悔するというスタンスを取りながら、その実、本質的な問題から目を逸らし、責任を逃れようとしていると指摘されています。
批判の核心は、小学館がドラマ制作過程において、芦原氏(故人)の意向を適切に伝達・保護することに失敗し、その結果、彼女が心身ともに追い詰められる状況を招いたことにある。小学館の声明は、このような状況を矮小化し、誤解を招くような内容であり、本質的な問題解決に対して何の寄与もしない虚妄に基づいていると非難されています。
さらに、文章は芦原氏の言葉を捻じ曲げ、著作者人格権の問題にすり替えることで、小学館の責任を隠蔽しようとする不誠実さを示しており、このような姿勢が非常に問題であると強調されています。また、芦原氏への言及が、批判を避けるための手段として利用されていることも指摘されており、このような行為が非常に不適切であると批判されています。
最後に、この問題は小学館だけのものではなく、メディア化の過程における構造的な問題、テレビ局の体質的な問題、SNSの問題など、さまざまな複雑な要因が絡み合っていることが指摘されています。それにもかかわらず、小学館がこの悲劇を防げた可能性があるにも関わらず、問題を避け、責任を回避しようとした姿勢は批判されるべきであると結論づけられています。
面倒なので前段は省く。タイトルを見て「アレのことか」と分からない人はスルーしてほしい。
https://petitcomic.com/news240208/
この文章が一読して耐え難いほどに醜悪な理由を書く。以下、上記URLの文章について「本テキスト」と呼称する。
本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。だから気持ち悪い。
本テキストはそもそも内容が水のようにうすくあいまいだ。それでもなお、執筆者たちの「主張」を読み取ることはできる。
前半が「著作者人格権」について。後半が「小学館はドラマ制作サイドに芦原氏の意向を伝えていたこと」について。
順番に見る。
本テキストでは、まず「著作者人格権」について触れる。その後、「著作者人格権を守ろうとしたこと」を芦原氏が「恐らくめちゃくちゃうざかったと思います…。」と自己評価していたことを明らかにする。そして「私たち編集者がついていながら、このようなことを感じさせたことが悔やまれてなりません」と続く。
ポイントは、執筆者が「何を悔いているのか」だ。本テキストにおいて執筆者が「後悔」を明確に示しているのは、このくだりだけだ。これは非常に重要なことだ。
要約するとこうなる。
「著作者人格権という権利を周知させることができなかったために芦原氏に不要な自責の念を抱かせた。著作者人格権についての認識を広げることが再発防止の「核」になる」
この後に、「これだけが原因だったと単純化はしない」としつつも、あえて本文中に「核」なる単語を使用している以上、ここには明瞭な主張がある。
それは「本件がこのような悲劇に見舞われたのは芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったからだ。その認識を与えることができなかったことを悔いている」というものだ。
暗に「芦原氏は「恐らくめちゃくちゃうざ」いことを自分がしてしまった、という自責の念によって自ら命を絶った」と結論していることになる。
……なんだか、我々とはずいぶん違う世界観をお持ちのように見える。これまでの経緯を振り返って、こう結論するのは相当に無茶なのではないか。
彼女が本当に「ドラマに口を出してしまったこと」を自責した結果として死を選んだのであれば、1月26日以降の騒動はなんだったんだ? 彼女の死に、あの騒動は関係なかったということにならないか? なぜなら「ドラマへの口出し(=著作者人格権の行使)」は、12月時点で終わっていたのだから。
そんなわけねえだろ。馬鹿か。
ここには明らかに問題のすり替えがある。「著作者人格権をめぐる認識」に焦点を逸らし、本質的な問題から目をそらそうとすると極めて醜悪な論理の欺瞞があるのだ。
明らかに本件は「芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったから」起きたことではない。
一連の騒動を振り返って「芦原氏が著作者人格権について深く認識していれば本質的に問題は起きなかった」と思う人だけが、本テキストに同意することができるだろう。
そんなやつ、どこにいんの?
誰がどう見たって本件は多岐にわたる複雑な問題が絡み合って、最悪の結末を迎えてしまった事件だろう。わかりやすい「核」なんてものがあるはずがない。
にもかかわらず、スケープゴートのように「著作者人格権」を持ち出して「核」として据えるのは、故人に対してあまりにも不誠実すぎないか。
素直に考えれば「何のための文章か」という問いに、ここで一度答えが出る。「作家、読者、関係者に「著作者人格権」を正しく認識してもらい、悲劇の再現を食い止める」だ。
つまりね、このテキストは「経緯説明」も「調査報告」も何もかもすっ飛ばして「とにかく「著作者人格権」を知ってもらえれば再発防止につながる!」という、何の根拠もない虚妄によって書かれているのだ。
ごくごくごくごく普通に時系列を追うだけで「著作者人格権をめぐる認識」が事件の本質ではないことは明らかなのに、だ。繰り返すが、論理的に考えてここが「核」なら1月以降の騒動は自殺に関係がないことになる。
ああ、めちゃくちゃ気持ち悪い。
なにが「事態を単純化させる気はない」だ。ここで行われているのは「単純化」などということではない。もっと悪い、明らかに事実関係と時系列を無視した、問題のミスリードだ。
そして、ミスリードした先にある「著作者人格権」を取り上げ、「本質に問題解決に対して寄与しない」とわかっていつつ、ここが再発防止の核であると述べる。
ここには「事態の再発を防ごう」なんていう真摯な態度は欠片も見られない。あるいのは「そういうことにしたい」という卑劣な思惑だけだ。
そうするともう少し穿った見方をしたくなる。
つまり「本件を「著作者人格権の問題」にすり替える」ことが、本テキストの目的だったのではないか、ということだ。
この「著作者人格権」にまつわるテキストの不誠実さだけでも、十分以上に気持ちが悪い。しかしもっとおぞましいのはこの先だ。
要約するとこうなる。
「ドラマに対する芦原氏の意向は、小学館がドラマ制作サイドに伝えていた。芦原氏は納得のいくまで脚本を修正した。ドラマは芦原氏の意向が反映されたものである」
本テキストを読めばわかるが、これに関する一連のセンテンス、どこか誇らしげでさえある。
正気で書いているのだろうか? 芦原氏の「言葉」を軽んじているのは、ドラマ制作サイドなのか編集サイドなのかわからなくなる。
芦原氏の意向は、よく知られている通り「原作に忠実なドラマ化」である。これが小学館からドラマ制作サイドに伝わっていたとしよう。その後どうなった?
(https://piyonote.com/ashiharahinako-twitter/#google_vignette)
ところが、毎回、漫画を大きく改編したプロットや脚本が提出されていました(略)粘りに粘って加筆修正し、やっとの思いでほぼ原作通りの1~7話の脚本の完成にこぎつけましたが…。
加筆修正の繰り返しとなって、その頃には私も相当疲弊していました。
(略)8~10話となりましたが、ここでも当初の条件は守られず、私が準備したものを大幅に改変した脚本が8~10話まとめて提出されました。
何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです。(中略)原稿の〆切とも重なり、相当短い時間で脚本を執筆しなければならない状況となり、推敲を重ねられなかったことも悔いてます。
これは芦原氏が「小学館と時系列に添って事実関係を確認し、文章の内容も小学館と確認して書かれた」文章だ。
原作者である先生にご納得いただけるまで脚本を修正していただき
馬鹿じゃねえのか。芦原氏は「推敲を重ねられなかったこと」を「悔いて」いたのだ。「加筆修正の繰り返しとなって相当疲弊して」いたのだ。
その文章を確認しておきながら、舌の根も乾かぬうちに「ご納得いただけるまで脚本を修正していただ」いたとのたまう。本当に血の通った人間のすることか? ご納得いただけるまで脚本を修正するという作業がどれほど心身に負担をかけることか、わからない編者者でもないだろう。それを何を誇らしげに「わたしたちに落ち度はありません」と言わんばかりの態度で書いているんだ?
ここに事実を捻じ曲げる意図がまったくないとでも言うのだろうか。
そもそも「意向を伝える」ことは伝書鳩のように「言いましたよ」ということではあるまい。なるべく芦原氏に負担がかからないように交渉を詰めて、芦原氏が心身を疲弊させながら手ずから「修正」をしなくてもいいように、ドラマ制作サイドに「条件の履行」を求めるのが「意向を伝える」ことではないのか。ガキの使いじゃねえんだ。「ちゃんと言いましたよ」で責任を逃れるビジンスシーンがどこにある。
明らかにドラマ制作サイドに芦原氏の意向が「伝わっていなかった」から、彼女は修正を繰り返し、自らを追い詰めなければならないことになったんだろう。そこに「伝わるまで伝えなかった」小学館の責任はないのか?
無論、担当編集者やメディア担当者が「仕事をしていなかった」というつもりはない。担当者が誰よりも働いただろうし、想像するだに困難な局面の連続だっただろう。いまの心痛はいかばかりか。結果は最悪なものになってしまったが、それは決して現場の担当者たちを非難していい理由にはならない。
繰り返すが、現場の担当者個人の責任を追及せよと言いたいのではない。むしろ、それは決してやってはならないことだ。しかしまた同時に「頑張ったから」「努力したから」「不運としか言いようがなかったから」という事実は、決して責任を消滅させる理由にもならないのだ。
小学館に責任はある。絶対的にあるのだ。それは「著作者人格権にまつわる認識を周知徹底できなかった」ことなどではない。芦原氏の意向をドラマ制作サイドに理解させることができずに、結果的にドラマ制作過程において芦原氏を心身ともに追い詰める結果を招いたことについて、責任があるのだ。
にもかかわらず、そうした自らの責任にまったく目を閉ざし、ひたすら問題を矮小化させ、ミスリードしようとする意図が、行間に充満している。
それこそが本テキストが歴史的に気持ち悪い理由のひとつだろう。
書くまでもないことを最後に書く。
ここまで確認してきたように、本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。
その最後に付された言葉が、芦原氏への「寂しいです、先生。」だったことは、瞠目すべきだろう。人間どこまでも恥知らずになれるらしい。
この一文が本当に気持ち悪いのは、SNSで言われるように「TPOにそぐわぬポエティックなもの」だからではない。
欺瞞と自己保身のために芦原氏の言葉さえ踏みにじって醜悪なレトリックを駆使した挙句、そもそも本テキストの「宛先」でさえない芦原氏を「文章の結び」のためだけに泉下から引きずり出し、まるで批判除けのお守りのように利用してしまう、学館第一コミック局編集者一同の浅ましい精神性が悪魔濃縮されているからだ。
本件の内幕はおそらく当事者たちにすらもう分からなくなるくらい複雑化していることだろう。
小学館を悪者にして幕引きをすればいいという性質のものでもない。巷間指摘されているように、メディア化における構造的な問題、TV局の体質的な問題、悪意を増幅させるSNSというシステムの問題、他にも種々様々な問題が複雑に絡み合っているはずだ。
それでも、この悲劇を防げたプレイヤーの一人であるはずの小学館が、「ことなかれ主義の上層部」「責任回避の編集局」という内実を露呈していることは、必ず批判されなければならない。
騙されてはならない。
前作では現実とは異なる層の次元を描写する際、トーマス・マンが意識されていたが、今作はヘルダーリン(の「塔」)が大きな役割を果たしていた。
ヘルダーリンの詩には、20世紀のドイツの状況を予感させるようなイメージも散りばめられているが、この時空を超えるような塔の仕掛けに宮崎駿も惹かれたのではないだろうか(おそらく洋風趣味の大叔父が、かつて輸入したインコが、あの塔のなかで万物の知識と、妄想と、南国への郷愁と、20世紀の戦火と混じり合って、あの大行進のイメージに膨れあがっていったような気がする)。
イメージの氾濫に淫するような、今作の中盤以降の展開には、老人の虚妄の垂れ流しとして呆れる人も多いかもしれない。冒頭20分の、緊張感のみなぎる映像があまりに素晴らしいから、中弛みの印象もあるだろう。でも、あの「ヘルダーリンの塔」に、火とともに亡くなり、火とともに再生する母のエネルギッシュなイメージを重ねるところに、わたし自身は感服もした。
ちなみに、ヘルダーリンと近い世代のドイツ人に、ペスタロッチがいる。かれの考案した「恩物」は、もしかすると、あの「積み木」の発想の源かもしれない。
俺は男オタだけどこれが叩かれるのはわかる。
スレ内の>>1への批判として何度も書かれてるけど、本編準拠の展開予想なのか、
本編を完全無視したカップリング虚妄なのかでノリが大きく違って、
そのどっちなのかが分からないスレタイと>>1だからあんなに荒れたんだよ(ニュートラルな考察っぽい口調で、内実がCP虚妄)。
カップリング妄想なら妄想とわかるように書いてくれればいちいち批判とかしないし、真剣に考察おっ始めたらお前の考察おかしくね? っていう議論に発展するのは当たり前じゃんとしか言えないし、中途半端なんよな。
本気で本編内の描写から5号スレがあり得ると思ってるならこの程度の批判にたじろがず正面から自説を論じてほしいし(「実はスレ→5号の好意はこれだけ描写されててミオへの好意より上だぞ」っていう根拠を挙げてくれれば5号スレが妥当という結論でまとまるはずだからそこをサボらないでほしい)、
妄想なら妄想で「俺の妄想だけど」とか「誰にでも明るい子にドン引きされてる描写が性癖」とか書いてくれれば生暖かい目で見守れるし、「スレッタが5号に引きつった笑顔を見せてる……これは恋する乙女の顔ですわ」とか書いてくれれば一目でネタだとわかって大喜利会場になるんだから書き方を工夫してほしい。
「5号×スレッタってもしかして今なら成立するのでは?」だよね。
https://bbs.animanch.com/board/1909218/
まあ>>1見た瞬間荒れるなと思ったよ。
17話でミオリネに拒絶されてスレッタが傷心中なのは事実だし、
18話以降で5号が登場し「休学中だったエランさんが帰ってきた」だったらワンチャンいけたかもなと思うけど、
これまでの5号が丁寧に丁寧にハニトラに失敗してスレッタの好感度削ってきてんだよね。
17話はスタンガンまで持ち出してスレッタを完全に傷つける側になって、グエルにやられてスタコラ逃げる三下ムーブ。
何を思って「今なら成立」なのか全然わからん。10話ではそういうの盛り上がったけど…。
ローカルルール云々っていうより「本編の何を見ていたんだ?」みたいな叩かれ方をしているんだよ。
5号は16話でベルメリアのことも殴ってるし、スレッタを軽薄に口説ける状態にはまるで見えない。
叩いていたのが女性オタクばかりかというと、それも分からんよ実際…。
スレ内の>>1への批判として何度も書かれてるけど、本編準拠の展開予想なのか、
本編を完全無視したカップリング虚妄なのかでノリが大きく違って、
そのどっちなのかが分からないスレタイと>>1だからあんなに荒れたんだよ(ニュートラルな考察っぽい口調で、内実がCP虚妄)。
5号×スレッタの専スレでは本編を完全無視した妄想がずっと繰り広げられ続けてて、荒らしが来たり叩かれたりもしてない。
あにまんで叩かれた元増田以外にも、Twitterでの男オタと女オタの接触事故もあって、
女オタが描いた二次創作にガンプラアイコンおじさんが考察をリプライで送るみたいなことも起きてる。
(おじさん構文ではない。SFジャンルっぽい小難しい文体と言ったらいいんだろうか。そしてリプライは無視されている)
ツイステやブルアカではこんなこと起こらないのよジャンル自体で男女が住み分けられてるから…。
水星のネタ系二次創作と男女カップリング二次創作のとこは、なんなら半々かも?ってくらい男女比が拮抗してる。
なんかだいたい男性が住み分けの空気を読めてないことによって事故ってるように見えるけど、
https://anond.hatelabo.jp/20230427000424
これを見て思ったのは、差別とかいじめのような人権侵害行為ってやっている人はそれが正当な行為だと思っているということなんですよね。
どこぞのハカイダー(95年版)のように「貴様が正義なら俺は悪だ!」という認識でいじめ(人権侵害)やっている人なんてほとんどいないと思います。
例えば今も差別扇動を続けている暇アノンの連中も「俺たちは身の程知らずの女性にこの世の摂理を叩きこむ」みたいな虚妄を信じ込んで仁藤さんなどへの人権侵害を続けていますし。
暇アノン自身は女性差別を「正当」だと思っているのは火を見るよりも明らかです。
それにいじめとか人権侵害の理由などというのも理屈と膏薬は云々でしかないんです。
仮に元増田がバッシングしている「被害者」の人格が変わり聖人君子になったとしても、多分増田の娘とかは新たな理屈をつけていじめを続けると思います。
特に学校の教室の人間関係というのは一度固定化されるとそれが覆ることはないですし。
身もふたもないことを言うと、どんな理屈があれ集団で相手を痛めつけた時点でもう言い逃れができないレベルでアウトです。
世の中には自分とは全く合わない人も大勢いますが、そういう人と時には自制とかもしながらなんとか落としどころを探ることが必要ですな。
まあすべての人がそういう処世術を身につけるようにするような方法を体系化して、それを教育現場で提示するのが必要だと思います。
爾時世尊從三昧安詳而起。告舍利弗。諸佛智慧甚深無量。其智慧門難解難入。一切聲聞辟支佛所不能知。所以者何。佛曾親近百千萬億無數諸佛。盡行諸佛無量道法。勇猛精進名稱普聞。成就甚深未曾有法。隨宜所説意趣難解。舍利弗。吾從成佛已來。種種因縁。種種譬喩。廣演言教。無數方便引導衆生。令離諸著。所以者何。如來方便知見波羅蜜。皆已具足。舍利弗。如來知見廣大深遠。無量無礙力無所畏。禪定解脱三昧。深入無際。成就一切未曾有法。舍利弗。如來能種種分別巧説諸法。言辭柔軟悦可衆心。舍利弗。取要言之。無量無邊未曾有法。佛悉成就。止舍利弗。不須復説。所以者何。佛所成就第一希有難解之法。唯佛與佛乃能究盡諸法實相。所謂諸法如是相。如是性。如是體。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。
自我得佛來 所經諸劫數
無量百千萬 億載阿僧祇
令入於佛道 爾來無量劫
而實不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力
令顛倒衆生 雖近而不見
衆見我滅度 廣供養舍利
咸皆懷戀慕 而生渇仰心
衆生既信伏 質直意柔軟
一心欲見佛 不自惜身命
時我及衆僧 倶出靈鷲山
我時語衆生 常在此不滅
以方便力故 現有滅不滅
餘國有衆生 恭敬信樂者
我復於彼中 爲説無上法
汝等不聞此 但謂我滅度
我見諸衆生 沒在於苦惱
故不爲現身 令其生渇仰
因其心戀慕 乃出爲説法
常在靈鷲山 及餘諸住處
衆生見劫盡 大火所燒時
我此土安隱 天人常充滿
園林諸堂閣 種種寶莊嚴
寶樹多花菓 衆生所遊樂
諸天撃天鼓 常作衆伎樂
我淨土不毀 而衆見燒盡
憂怖諸苦惱 如是悉充滿
過阿僧祇劫 不聞三寶名
諸有修功徳 柔和質直者
則皆見我身 在此而説法
或時爲此衆 説佛壽無量
久乃見佛者 爲説佛難値
我智力如是 慧光照無量
壽命無數劫 久修業所得
汝等有智者 勿於此生疑
當斷令永盡 佛語實不虚
如醫善方便 爲治狂子故
我亦爲世父 救諸苦患者
爲凡夫顛倒 實在而言滅
以常見我故 而生憍恣心
放逸著五欲 墮於惡道中
我常知衆生 行道不行道
隨應所可度 爲説種種法
駅で肩を突き飛ばされてもへなへなと笑って
ポジティブシンキングしないといけないから嘘だとわかっても前向きに取り繕って
そんなものが人生ならば今すぐやめてしまいたいのだがどう思うだろうか
我儘だ、とよく思う
当たり前に権利の主張を声高にする
傷つかないために決めた強すぎる自我の発露がたくさんあって
そのせいで疎まれたり嫌われたり距離を置かれることはいざ知らず
仲良くなるのは大得意
見限られるのも大得意
大丈夫大丈夫、来るもの拒まず去る者は追わないよ、っていうけれど
拒絶すれば寄ってくる?最初だけだよ。みんな本当は話せる僕を見てたじろいでいくんだ。
愛される真似をすればするほど、吐きそうになったのはいつからだろう。
前はうまく演技できたのにな、演技してもしなくても人が去っていくことは変わらないけど。
絵を描くことが好きだった。
でも誰一人、私の絵がほしいわけじゃなかった。
みんなそうだ。そうだけどさ。
若さ。女であること。望むコンテンツ。エロティシズム。いろんな理由から、邪に私の絵は消費される。褒めてくれるならなんだっていいよ。自暴自棄に陥ったらどんどん、空っぽになっていった。本当に好きなものを好きと言って否定されることが怖かった。
でも媚びたところで、結局何にもならなくて、私は社会の歯車として生きる一生のみを嘱託されてこの世に生れ落ちてきたのかと思うとこの上ない絶望に苛まれた。それはきっと、いい年してろくに恋愛もセックスもこなしてこなかった虚しさと、学歴すら擲った自分の愚かしさにある。その上まだ過去の虚妄に執着し美しい偶像をだれか一人に求めてはその個人を消費し、自分自身を優位化することでしか自我を保てない惨めさに打ち震える自己はなんて、なんて情けなく、醜く、地獄のような許されない存在なんであろうか。
私は私の作るものが全て大好きで、大嫌いだ。
正直、才能はないと思う。でもやりたい気持ちがあるから、ずっと下手の横好きを続けている。望まれない夢を描き続けている。「特別な何か」なんて幻想を諦めればすぐに普通に生きられるのに。でもそれはあまりにも、あまりにも苦しい選択だった。あの家に居続ける限り、家族はいつまでも優秀な私という過去の幻影に縛られ続けるだろう。私もその幻影を忘れることはできず、しかし生活を迫られるだろう。母親はこの盛大な自己矛盾を理解していながら、血縁という親が子供に振るえる最大の暴力でもって自己矛盾を正当化し続けるであろう。祖母は疲弊した私に思考停止を勧め、父は自立を促すであろう。最悪だ。本当に、最悪でしかない。
マジで何も面白くない。というか、自分の空っぽさ加減に虫唾が走る。結局言いたいことなんか何にもありやしないじゃないか。単なる幼児のわめきだろ、構ってほしいだけだ。構ってほしいと言って許されるのは一部の才能を持って生まれた人々だけだというのに。愛されるべく生まれ、生きるべくして生きている人々。素晴らしい。本当に最高のことだ。そういった人間を生かし、この世に少しでも美しいものを増やしていくことが、われわれ人間に課せられた最大の使命なのではないだろうか。これは嫉妬などではなく、本当に心の底から思っている。対して、、、、自分の無力さ加減はどうだ。もう自分自身にアイデンティティや価値を感じずに生きれるようになりたい。傷つくことに鈍感でありたい。自分自身は所詮この世を回遊するために与えられた必要最低限の肉体であり、利用されるべきコンテンツなのだ。
だれか一人に期待したり、何度も神を掲げたり、忙しすぎていやになる。
美しくなければ存在意義はゼロなので、こう考えてしまう限りは私は美しくあるための努力が足りないのだな。何でもできる人間になりたいが、未だ私にフィットした「できること」が発見できないのはどういうわけであろうか。
仕事にできるほどのことが何もないのに事務職で金銭を傍受しており、そしてまたそれがないと生命を維持できず、いつもなんだかんだ「本当にヤバイところ」には飛び込まずにのうのうと生活をしてしまっているのはどういうわけなんだろう。
インド哲学はこの世は全部幻だという、若き日のロバート・M・パーシグはそれに絶望して履修を停止したと自伝で読んだが、絶望しすぎた生活の中でその考え方に何度救われたことか。あ、これを教えてくれたのは私の随分と年上の友達です。優しくてスピッてて適度に狂ってて怖くて面白い人。近づくと逃げてくのに時々追ってくる謎なひと。でも、愛される人だ。いいなあ。私はいつになったら人に愛されるに足る人間になるのだろう。
もうちょっと学をつけて、自分を好きになれたときだろうか。母の言うように「女の子らしく」なれたときだろうか。初対面で大好きな音楽の話や、SF小説の話をしなくなったときだろうか。それはもう私ではない。
SNSに美しいモデルがビフォーアフターの写真を載せたとき、よく「前のほうがかわいい」「前のほうがよかった」とリプライを送る人間たちのことを想う。本当にそうだというのなら、その時可愛いと言ってくれれば良かったのに。きっと彼らは彼女が普通の女の子だったころは見向きもしなかったに違いない。純粋に標準体型の女子を賛美し、きちんとパートナーとして選択するだけの度量があるならばすごい。本当に尊敬する。私は考えに考えた結果この世には美醜しかないという結論に至ってしまったから。美醜というのは顔かたちの美しさに限らず、その人の持つ輝けるばかりの才能や、声、スタイル、頭脳など、あらゆるもののことを指す。パーシグに倣うなら「クオリティ」だろうか。結局唯美主義に落ち着いてしまうのだ、空しくなるほどに。
もう携帯ゲームやオタク・コンテンツで思考停止して分かり合ったふりをするのには疲れてしまったから、私は今度こそ哲学と心中しようかな。本当に無理です。さようなら。音楽が理論化された数式でしかないなら、私は多分いま理解できない時点でたいして好きではないし、漢文と英語と思想を頭に詰め込むだけで救われた気になりたい。本当に仕事なんかやめてしまいたいよ、たとえ後がなくても。出来てしまうことは最悪だ。狂っているのに気づけないから。逸脱しているのにしていないよ、ってふりして生きるから辛いんだ。はみ出してしまうのだ。あなたのことが好きだという気持ちが最大にして最悪のノイズだから、どうか勉強して勉強して一般化することで濾過しきって永遠に浮かび上がらないように細かくして細かくして細かくして葬り去ってしまいたい。限界になって君に好きと言ってしまったことが、ものすごく汚くて情けなくてどうしようもないことのように思える。君がそばにいてくれないと辛くて気が狂いそうなのに、君にはきっと僕以外のほうが相応しくて、君自身もそれを渇望していて、だがしかし私は私にできる最大限の力でもってそれを捻じ曲げ君に愛されたいのだ。もう、それがかなわないのならこんな地獄のような生活に世界、どう期待して生きろというのだろう。調べたらユニテリアン教会だけは信仰できそうなので、私も私なりに信頼できる哲学の教会に身をおけるようにもっと思考を研ぎ澄ませたい。頼むから救い出してくれよ、知性の神様よ。もうこりごりなんだ。息が苦しいんだ。
この前渋谷で新興宗教に勧誘されたとき論破してやろうと思ったらまだキリスト教知識が薄くてできなくて、本当に惨めだった。こんなことではダメなんだ。ちょうどオウムが台頭していたころに生まれたから、幼少期はサリン事件の指名手配ポスターを目にすることが多くて、新興宗教に騙されたくなくて宗教学に興味を持ったんだろう?ああもう本当に情けないよ。生きているのが、つらい。
Murder cannot be hid long.A man's son may, but at the length truth will out.
彼はシェイクスピアの一節を諳んじてみせる。それは、目を眩ませるような不気味な光を放って脳髄に焼き付いた。
「なんという道化か。滑稽極まる、あれは恐ろしい殺人者です、その正体を確かめましょう」
何者か這い回る気配が空間に満ちていた。胸は異様な興奮に高まり、こらえるのがやっとだ。視線を巡らせると化物の姿を探す。目を閉じてあえて視覚を遮断し、聴覚でその動きを捕らえようとした。何の事は無い、敵の正体は「黒く燻った汚れ者達」だった。
空想の中で何度も殺人を犯し、その虚妄に取り憑かれた彼は遂に化物となってしまった。ならば、彼にはいくつかの計画が存在する筈だ。主人公を欺き、傷付ける為にいくつものギミックを用意している。彼の頭脳は怜悧に働いていた。それは自らを克己する試練であるとも言えた。敵は何度も形を変えて手脚や胴体を襲い、猛然と打ち倒そうとする。
誰かに劣っているのではないかという不安、自分が一番だという自己欺瞞の塊だ。誰に見せるのも烏滸がましいようなエゴの塊。恐ろしい叫び声を上げて化物は唸り狂う。耳を塞ごうとした。黒幕は自分が退治される日を心待ちにしていたのだ。その化物に一歩、また一歩と迫る。
「お前は誰かの真似がしてみたかっただけの生き物だ。賞賛が欲しかった。昂然たる讃美者が。貴方は一塊の石ころに過ぎません。ネガティブを継ぎ合わせた物だ。退ければ退ける程、現実が押し寄せてくる。孤立し、千倍にも増大し、人を憎んだ。その成れの果て。」
本来、三大命題の二つ目を書きたかったところだが、こちらの問題を先に論じさせてもらう。
この論考は以下のURLにたいする一人の若者からの反論である。
https://togetter.com/li/1080097
以上の新聞記事で、上野女史は「経済を犠牲にしてでも、平和国家として衰退すればいい」と主張している。
この主張にたいする批判等は、本職の社会学者に任せるとして、ここでは私の純粋なる反感について述べていきたい。
上野女史は無邪気にも、戦後日本を「平和国家」としてとらえている。
この考えはまったくの見識違いといわざるをえない。
そもそも、戦後日本の社会体制は1940年代の「総力戦」体制を「経済最優先」の形として再編したものである。
扶養控除、源泉徴収、終身雇用制、護送船団方式のすべてが元々「戦争を想定して」造られたものだ。
1950~60年代には、「高度経済成長」の美称の裏で、世界でも稀にみる学生運動、市民運動、社会不安が吹き荒れていた。
70~90年代にかけては、家庭や企業に社会体制のガタが入り、人々を「死へと誘う」システムへと変貌していった。
これが少年非行やいじめ、過労死などの狂気的な状況を引き起こした。
戦後日本とは、世界的にも稀にみるただの「ゆたかな社会」である。
まったく「平和」でも「民主的」でも「自由」でもなかった。ただただ「ゆたか」だっただけである。
しかも、「ゆたかな社会」は90年代~2011年にかけて完全に崩壊した。
最後に、原発事故とともに社会の安全神話が吹き飛んでしまった。
この事実について語らない者はすべて、今の時代にたいして不誠実である。
それはギデンズやバウマン、ジョッグ・ヤングなどを見てもらえば分かるが「流動的、効率的」である。
企業におけるセーフティーネットが「生産性や自己実現の神話」の名のもとに縮小され、
政府が担っていた安全保障は「構造改革」の名のもとに縮小され、
監視カメラやSNSの監視なしに、人々は安心して生きることができない。
不誠実な脳科学や認知神経科学、AI研究によって人間という「私」の特権性が失われ、
人々は常に失職と人間的尊厳の消失を心配するようになっている。
そして、このような多様な人々が同じ町で同じように暮らしている。
このように、後期近代社会とは
当たり前だったものがすべて崩れ去り、人間を永遠の虚無へと投げ出すのである。
このような状況では、人々は二つのレベルの不安を抱えることになる。
である。
人生の多くを占める活動である仕事にふさわしい「対価」が支払われなくなってしまった。
一方、ただ一日中、パソコンを見つめて投資とやらというギャンブルをするだけでも「対価」を得られる人々もいる。
「不当な地位にいる!」
「ふさわしい金額、敬意をもらっていない!」
という相対的剥奪感を抱かせる。
また、後期近代の社会はいわゆる「コミュ力」の高い人々が成功する。
軽薄に仕事にたいする敬意なく、強者に追従する人々が「評価」され、グローバルエリートとして出世していく。
そして、仕事に真面目ながらも報われない弱者は常に「自己批判」と「変革」を迫られる。
二極化する現実に人々は「私は人間らしい扱いを受けていない」という存在論的不安を抱かせる。
そして、人々はつねに不平不満をもらすのだ。
「私はこうなれたのに……」
「私もこうしたかった……」
ここでは深く述べないが、この可能性としての私=‹他我›にたいする深い怒りの感情が現代の社会不安の核心にあるように思う。
上野女史は「みんな貧しくなる」ことによって、この怒りを無くせるなんて無邪気にも思っている。しかし、それは不可能である。
この感情こそが永遠の虚無において、私を生きることのできる唯一の鍵だからである。
――常に人々に嫉妬を抱かせながら、その嫉妬を用いて欲望を加速させる。そして、その嫉妬を全身に受ける者は高笑いしつづける。
このような後期近代のグロテスクさに最初に抗議をあげたのが赤木智弘だった。
彼はある論考で「夢は戦争」とドゥルーズ的な集団自殺の理論を主張した。
今や「戦争」こそが「富裕層」を富ませ、「貧困層」を殺すことを知っているからだ。
加藤智大、植松聖などの社会的自殺者は、情報として処理され資本となる。
そして、情報となった「自殺」は「貧困層」による社会転覆の不可能性を解き、
後期近代において、「自殺」こそが「富裕層」へのもっとも積極的な「支援行為」なのだ。
防ぎようのない「天災」によって、
この瞬間を心の底から待ち望む。
109が崩壊し、秋葉原が灰塵に帰し、大手町のサーバーがダウンし
白金の御婦人たちが焼け出され、お台場の子どもたちが押しつぶされるとき、
そのときに来るのが、
東のいう変質したファシズムなのか
知ったことではない。
相対的剥奪感や存在論的不安に晒されることなく嗤いたいのである。
そして、私は嗤いながら確信する。
妻からも娘からも邪険にされる父親像を一般化させたのは一体誰なんだろう
というコメントがあったので
そして、そのフェミに権力を与えたのは戦勝国のアメリカでしょう
占領せず洗脳で弱体化を図る!GHQが行った『日本弱体化政策』とは
http://matome.naver.jp/odai/2142192163190654201
http://d.hatena.ne.jp/sifue/20061208/1165688702
日本国憲法(というかユダヤがドイツ人を骨抜きにするために作ったワイマール憲法の丸写し内容)で、何がしたかったかというと
目的は以下のとおり
自由の過度の追求
道徳軽視
無気力・無信念
俗吏属僚横行
突端主義
国粋否定
間違いなく、日本の物質的豊かさの反面で大流行している精神的退廃じゃないですか
(苦笑。本当にユダヤ人の法律家ってすごい賢いなって思いました。
最終的にたどり着くところは、家族制度の完全崩壊と金、金、金の欲と利害関係にまみれた個人主義的なエコノミックアニマルばかりの国家、
というか国家として機能しない社会を作るのが目的なんだそうです。
ユダヤ人が迫害されてきたヨーロッパでユダヤ人政府のワイマール共和国ができたときに、
大多数のドイツ人の中に生きるユダヤ人が復権するために作った人民飼い殺し用の憲法らしく、
どうせなので日本でもその写しを戦後の日本でも使ってやれ、と適用されたそうです。
(ちなみにドイツではその危機にドイツ人が感づき、反発でナチズムが横行してユダヤ人が迫害された)
で結果、日本では物質的豊かさと反比例して、日本人の精神・家族・国家をここまでぐちゃぐちゃにしてしまった。
で、このユダヤ人の老人モルデカイ・モーセさんは日本人にはいろいろよくしてもらったのに申し訳ない…最後に謝りたい、とこの告白をしたのがこの本というわけです。
憲法の内容とその効果、資本主義と共産主義をの両方を道具として生き残るための使ってきたユダヤの歴史などを詳しく紹介してくれています。
特に憲法の中で「自由」と「平等」という相反する概念の組み合わせがどれだけ人をダメにするか、「義理人情」の方がどれだけ崇高な概念かとかいている所は、かなりぐっときます。民主主義がどれだけ虚妄か本当に勉強になりました。
まあこんな気持ちのユダヤ人の方がいたということで、ぜひ、一度読むことをオススメしたい本です。内容的には、最近流行っている「国家の品格」とかに近い本ですね。
★男女平等は完全な家族制度の崩壊、福祉費用の増大による国家の疲弊を狙ったものだったんですね。
もしかしたら、婦人国有なんていう制度が導入されていた日本の事を考えると寒気がします。
今ももしかしたらほぼ、この婦人国有政策が実施されているのと同じような世の中なのかもしれませんが、
こんな政策が実施されていたら、女性はただイケメンに抱かれるために努力し、
男はいい女を奪い合う、まさに恋愛至上主義、道徳軽視の快楽主義、自然主義が更に蔓延した社会(非モテ・非コミュにさらにつらい社会)になっていたんでしょうね。
そう考えると、日本に古来からあったお見合い制度や信頼ある人同士が結婚相手を紹介し合う制度は非常に道徳的にも精神的にも高度な文化なのかもしれません。
新海誠最新作「君の名は。」はざっくりネタバレしてしまえば「歴史改変して死んだはずの女をよみがえらせる話」だった
まあ死人を蘇らせることを肯定的に描くか否定的に描くかは作家の自由だ
しかし、新海誠は前々作「星を追う子ども」では最終的にそれを否定していなかったか?
「星を追う子ども」はおっさんが主人公の女の子を依代に自分の死んだ妻をよみがえらせようとするが失敗する話だ。
結局死人は蘇らないし、人は喪失を抱えて生きるべきだという作品だ。
作品としてはジブリとエヴァを強引に混ぜ込んでゲド戦記(アニメ)で割ったような出来だったが
ちょうど3・11のタイミングで公開され、震災に対して図らずも一つの回答になっていると感じた。
だのに「君の名は。」ではそれをひっくり返すように、村丸ごとの死をなかったことにしてしまう。
代償として記憶の喪失があるが、最終的に再び巡りあうのでほぼノーリスクである。
新海監督にとって「星を追う子ども」のテーマはどうでもよいものだったのだろうか。
そりゃ監督も人間だから心変わりがあったのかもしれないが、震災を経て死人が蘇るというのをなぜ肯定的に描けるのか。
そんなのは只の願望である。虚妄である。アニメは確かに嘘っぱちだが、
決して麻薬のように現実逃避のために消費されるものであってはならない。
新海誠作品はそりゃあ内向的で童貞臭くてそれが気に入らないという人もいただろうが、
辛いことにちゃんと向き合った上で生きていこうという決意が常に在り、それこそが作家性ではなかったか。
もしもそれを今回やらないことで、辛いことから目を背けてハッピーな映画を作ることで、
今回は貼るだけにしておく。
真善美の探究【真善美育維】
【真理と自然観】
《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。
我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。
《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。
*己と自の発展
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
然の理・然性
然の理・然性(第1法則)
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。
善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。
美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。
《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。
【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。
真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。
原爆なんて、原発なんて、最初からなかった—全体主義に怯える西洋の知識世界が総力を挙げて案出した虚妄の世界から脱出し、全人類を解放せよ!!
2015/4/25追記:ネタですた。詳細はぶくまこめ参照