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はてなキーワード: 赤木智弘とは

2022-05-16

anond:20220515223233

典型例に挙げてよいかわからん

赤木智弘は初期に堂々と「主夫になりたい」と言ってた

この男は世のかわいそうなロスジェネ代弁者などではなく

単に働かないで楽したい虫のいい男ではないかと今も疑ってる

2022-05-10

anond:20220509175051

以下は「ベン図式にしたら相互に7~8割ぐらい重複する」

(つまり重なる部分が多いが全部イコールではない)という話だが

・広義の就職氷河期世代1970年代まれ解釈可能

1970年代まれ≒人数が多い団塊ジュニアと重複

自己責任論全盛の小泉内閣時代が2001~2006年

・この時期は2ちゃんねる最盛期と重複

・その頃の2ちゃんねらーの中核層は1970年代まれ

2ちゃんねるでは老害憎し左翼公認弱者(※)憎しで自己責任論が全盛期

(※:女性子供、老人、障害者日本人以外のアジア人などなど)

というのは”ある程度まで”事実上記に与さない者もいたが)

自己責任論が出てきたのは赤木智弘が論壇で注目された2007年以降

2022-02-27

希望戦争」で論壇デビューした赤木智弘が今何を言ってるのか見てきたら、

すっかり左旋回してリベラル系に受けが良さそうなことしか言わなくなってるのな。

2021-11-29

anond:20211128155230

いやさあ、そのへん「31フリーター希望は、戦争。」(赤木智弘, 2007年)に、すべて書かれているんだよ。

あなた年寄り的な妄想と違って、現実には、いまの若者自民党支持になってる。

この10年越しの流れを読めていませんね。

 結局、社会リストラにおびえる中高年に同情を寄せる一方で、就職がかなわず低賃金労働に押し込められたフリーターことなど見向きもしなかった。最初から就職していないのだから、その状態のままであることは問題と考えられなかったのだ。

 

 また、彼らが不満や被害者意識を持っているというなら、なぜ左傾勢力は彼らに手を差し伸べないのか。若者にしてみれば、非難対象はまさに左傾勢力擁護する労働者だ。だから若者たちはネオリベ政府に「労働者の利権を奪い取って、おれたちに分けてくれ」と期待してしまうのだ。小泉前首相が「郵政職員26万人の既得権を守って、何の改革ができるか!」と叫んで若者の支持を集め、衆院選圧勝したこと記憶に新しい。

http://t-job.vis.ne.jp/base/maruyama.html

2021-11-16

anond:20211115211443

赤木智弘氏も以前から指摘していることだが、意見を言うこと自体自由で、今ところプロジェクト自体の中止を求めて(賛同はしないが求めても良い)いるわけではないのに、こぞって叩いて抹殺しようとするのは、単純に異常なネット仕草だと思う。本音では死ねと思ってて、それを覆い隠そうとしてる。

2021-10-02

赤木智弘氏のVTuberに関する記事反論する

VTuber 戸定梨香に人格がある」という主張は、表現者自由を奪う

https://webronza.asahi.com/national/articles/2021093000004.html

 

この赤木智弘氏の記事の主張におかしな部分が有ると感じたので反論をする。

 

非実在性に関するおかしな点

まずこの記事には文章構成上奇妙な点がある。

記事は3ページに分かれており、2ページ目で

何より僕が「VTuberにも人格がある」という主張に懸念を示すのは「表現の自由」という問題に大きく関わると考えているかである

とし、東京都青少年健全育成条例改正案への反論として、「非実在青少年」という言葉への反論を紹介し、キャラクター非実在性が表現の自由にとって重要であることを強調している。

しかし奇妙な事に、赤木氏は3ページ目において、「未成年の見た目をしたVTuberアダルトコンテンツに参加しても問題視されない」事の説明にこの非実在性を使用していない。

赤木氏によればこの部分の根拠は「「参加しているのは成人である中の人であり、VTuberはどのような見た目であっても、あくまでもアバターでありキャラクターに過ぎない」という前提」に有る事に成っている。

キャラクター非実在性と、VTuberの見た目がアバターであるという事は、似てはいるが異なる話であり、結果として2ページで紹介した非実在性の話は浮いてしまっている。

3ページ目の主張の根拠に2ページ目が使われていないため、2ページ目の文章意味が無くなってしまっているのだ。

 

では、キャラクター非実在性と「VTuberはどのような見た目であっても、あくまでもアバターでありキャラクターに過ぎない」が違う話であると何故言えるのか?説明必要だろう。

実在人物ポルノ勝手に流布すれば犯罪になるが、キャラクターはそうならない、その理由の一つはキャラクター非実在性であり、即ち「被害者の不在」である

キャラクター存在しないため被害者にはならない、実在人物はそうではない、ここに明確な違いがある。

対して赤木氏が根拠とした「「参加しているのは成人である中の人であり、VTuberはどのような見た目であっても、あくまでもアバターでありキャラクターに過ぎない」という前提」は「成人である中の人」という被害者に成り得る実在人物を前提に含めてしまっている。

従って両者は「被害者の在不在」という論点において差異が有り、しかも「人格の在不在」という本題にとってこの差異重要差異である

 

VTuber人格を認めない場合の実被害の例の考察

では次に赤木氏の主張する通りVTuber人格を認めない場合、どんな被害が起こりうるかを考えよう。

私はVTuberにそこまで詳しい訳では無いが、以下の被害が既にVTuberに対して起こっている事を知っている。

VTuberへの誹謗中傷脅迫

VTuberへのセクハラ

VTuberへの殺害予告

 

上記アンチからされる場合も有れば、ファン所謂厄介オタクから受ける事も有る模様である

さて、誹謗中傷セクハラ殺害予告実在しないキャラクターに対して行ったものであれば基本的問題に成り得ない。

従ってVTuber実在しないキャラクターと同一視し、人格を認めない場合上記誹謗中傷セクハラ問題とする事が出来ないのではないか、という懸念が発生する事に成る

更に不味い事に、VTuberへの誹謗中傷の中には中の人暴露を含むものもあり、またそうでなくともVTuber中の人が多くの人に知られているケースも少なくない、

従ってVTuberへの殺害予告脅迫は実際に中の人危害が及ぶ危険性を孕む極めて危険行為である。こうした行為まで問題とし得ない論理赤木氏が肯定しているとすれば、非常に問題が有ると言わざるを得ない。

また、VTuberへのセクハラの中には配信中の言葉でのセクハラも有れば、SNS等を通じて性器を映した画像を送り付けるケースまである様だ。当然、その画像を目にする事に成るのは実在しないキャラクターではなく実在する人間である。勿論実在女性も含まれる。

このように間接的に実在人物への脅迫殺害予告になるケース、実在人物性器画像等のポルノを送り付けるケースまで、赤木氏によるVTuber人格を認めないとする論理は許容してしまう事に成る

このようなケースを本当に許容するつもりなのか?

或いは、許容しない場合、どのような理屈上記の様なケースを問題とする予定なのか?

赤木氏には答える責務が有るのではないだろうか?

 

ではどうすればいいのか?

上記赤木氏の記事問題点は指摘したが、一方赤木氏の「表現の自由が守られなくなってしまうのでは?」という懸念には答えられていない。確かにそれは重要論点である

まず前提として、私の個人的な考えではVTuberに対する表現は、実在しないキャラクターと完全に同じレベル自由とする事は難しいと考えている。

赤木氏はアダルトコンテンツに参加するVTuberを例に出したが、管見に依ればそのようなVTuberはまだまだ少数派である

自身アダルトコンテンツとして描かれたくないVTuberや、そもそも中の人未成年であるケースもあり得る。そのようなVTuber18禁二次創作を描いていいか、という問題がまず有る。

これは所謂ナマモノ」に類似した問題であり、VTuber自身18禁二次創作拒否する場合は、止めておくべきだろうと考えている。

しかVTuber本人が許容する場合問題は無いと考える。では、私はこれを問題としない理由を(赤木氏の理屈とは別の方法で)説明する責務が有るだろう。

簡単に言えば、これもまたVTuber人格を認める故であるVTuber実在しないからその18禁二次創作が許容されるのではない、中の人実在し、許可する主体としての人格が有ると認めるから許容されうるのである

赤木氏は記事で以下の様に書いている。

未成年の見た目をしたVTuberアダルトコンテンツに参加しても問題視されないのは、あくまでも「参加しているのは成人である中の人であり、VTuberはどのような見た目であっても、あくまでもアバターでありキャラクターに過ぎない」という前提があるからだ。

しかしこれがVTuber人格があるとすれば、未成年相当であると見なされるVTuberは「保護」の対象であると考えられるようになる。

これは考えてみれば(赤木氏がキャラクター非実在性を主張の根拠としているのであれば)奇妙な話だ、彼は実質、VTuberに対する規則適用は(成人である中の人準拠するべきである、と言っている。

VTuber人格を認めつつ、その適用中の人準拠する、という運用はどう考えても可能である。と言うより、他ならぬ彼がそう主張している。

前述した誹謗中傷セクハラ殺害予告等もこの扱いで問題に出来る、表現の自由も(実在しないキャラクターよりは弱くであるが)守られる、万事OKという訳である

 

 

上長く書いたが、ここまで書く中で赤木氏の誤解の元も何となく私は推測が付いてきた。

そもそも赤木氏は、例えば「VTuber 戸定梨香」が何を指すのか?と言う点を誤解している様に思われる。

彼は「VTuber 戸定梨香」が彼女アバターのみを指すと思っているのではないだろうか?

こうした誤解はVTuber視聴者ならあり得そうであるしかし実際は違う。「VTuber 戸定梨香」は彼女の「アバター中の人」を指す。

少なくとも「VTuber 戸定梨香に人格が有る」と言っている人はその様な意味VTuberという言葉を使っている。

従って赤木氏が「いや、俺はアバターのみを指しているのだ」と強弁したとしても、それは言葉定義を(半ば自覚的に?)相手とずらして、見せ掛けの矛盾を作り出しているに過ぎない、疑似問題である

また、彼にそれほど悪意が無い可能性も十分にあり得る、VTuber視聴者であればその程度の認識である事は十分に考えられるので、無自覚にやってしまった可能性は少なくない、従ってこの点を強く責めるつもりは無い。

ではもっと赤木氏が混乱するであろう事を言ってみようか。実の所VTuberによっては「アバター中の人」ですら適切でないケースが有る、アバターを抜いた「中の人」を指しているとケースだ。

キズナアイの件は反発を受けたが、ネタ範囲であれば複数アバターや他のVTuberアバター一時的使用するケースもある。その場合アバター一時的にではあれ交換可能なので「アバター中の人」は適切ではないだろう。

従って赤木氏の

VTuber人格があると多くの人に認識されれば、VTuberアバターを着替えることができなくなってしまう。アバター中の人が一対の存在として固着してしまうのである

という懸念的外れであるVTuber人格があると認識している(VTuber名前アバター中の人や、中の人を指す)人は、アバターの着替えを許容し、中の人と一対一とは必ずしも認識していないのである

VTuberが着替えたり、中の人と一対一にならないために、人格否定必要ないのだ。

(逆に、何故必要だと思ったのかは記事を読む限り不明であるそもそも彼が例に出しているキズナアイのケースは、アバターを着替えるというアバター側が多である多対一ではなく、中の人複数居る一対多のケースである。例の選定が甘いと言わざるを得ない)

ここには人間が1つのアバター=肉体しか持たないが故の先入見が有るのかもしれない。人間がもしトランスフォーマーの様に変形し、複数アバター=肉体を使い分けられる生物だったなら、「アバター中の人が一対一じゃないなら、アバター中傷しても中の人中傷したことにはならないだろ」とは思わなかったかもしれない。これもまた人間という狭い了見に縛られた疑似問題である

2021-04-08

弱者男性っているの/誰なの」樹形図(暫定版)

弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事増田ブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的おかしい部分もあるけど、あくま自分用のメモとして。



「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合弱者派」の中にも、弱者男性所得が低いか女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性他者関係を持てていないこと自体弱者男性の生きづらさの核心だという見方関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。

なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的客観的定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。

あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルート弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近非モテ上昇婚・負の性欲・インセルエマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージ錯綜を招いているように感じた。

何か思いついたらまた追記するかも。

弱者男性っているの/誰なの」樹形図(暫定版)

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なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的客観的定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。

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あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルート弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近非モテ上昇婚・負の性欲・インセルエマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージ錯綜を招いているように感じた。

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なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的客観的定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。

あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルート弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近非モテ上昇婚・負の性欲・インセルエマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージ錯綜を招いているように感じた。

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「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合弱者派」の中にも、弱者男性所得が低いか女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性他者関係を持てていないこと自体弱者男性の生きづらさの核心だという見方関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。

なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的客観的定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。

あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルート弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近非モテ上昇婚・負の性欲・インセルエマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージ錯綜を招いているように感じた。

何か思いついたらまた追記するかも。

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弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事増田ブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的おかしい部分もあるけど、あくま自分用のメモとして。



「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合弱者派」の中にも、弱者男性所得が低いか女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性他者関係を持てていないこと自体弱者男性の生きづらさの核心だという見方関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。

なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的客観的定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。

あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルート弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともと赤木智弘氏がフリーターという就労状態をもとに立ち上げた切り口で、基本的には「属性弱者派」のうちの

経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近非モテ上昇婚・負の性欲・インセルエマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージ錯綜を招いているように感じた。

何か思いついたらまた追記するかも。

2021-04-07

anond:20210407152608

>これはなりすまし荒らしとか過激派無限定義を拡大させていくのを防ぐためには必要なことだよね

彼らのツイッターたどれば明らかになりすましではないガチ勢だとわかるし、

過激派無限定義を拡大させていく」どころか、そもそも弱者男性論者の

保守本流である赤木智弘が「高収入女性弱者男性と付き合うべき」

「私と結婚してくれる女性募集します」と言っていたわけだ。

弱者男性論と「女をあてがえ」論は最初からつながってたのに、

それをなかったことにしようとした。でも当事者が出てきて、失敗しちゃった。

そういう単純な話だよ。無理に擁護しなくてもいい。

legnumやpikopikopanさんは、「弱者男性」という言葉を使わず赤木智弘に直接文句を言ってください

君たちが批判したがってる「弱者男性」は赤木智弘のことです。

https://anond.hatelabo.jp/20210407113732

文句があるなら弱者男性っていう言葉でぼやかさずにこの人と直接論を戦わせてください。

「女をあてがえ」論者は藁人形じゃなくて実際にいるよ

「女をあてがえ」論者は藁人形じゃなくて実際にいるよ。以下に具体例を出してやる。

赤木智弘

弱者男性論の元祖ともいえる赤木智弘は、2006年に「私は男女平等実践として「私を養ってくれるお嫁さん」を募集します」「応募がなければないで、「男女平等なんて言ったって、本当に平等にしようなんて誰も考えていないじゃないか」ということを実証したことになります」と言っていた。

http://journalism.jp/t-akagi/2006/07/post_136.html

島本

饅頭が「「女をあてがえ」論者マジでいるのだろうか」「フェミニズム女性自由にしたせいでオレらが結婚できなくなった」と主張している人って本当にいるの?」と問いかけたときに、「僕です」と名乗り出た 島本 @pannacottaso_v2 というTwitterアカウントがいる。「『アンチフェミは女をあてがえと言ってる』というの、全くそのとおりだしそれの何が悪いのかさっぱり僕にはわからない」「『女を充てがう方法』として税制を使えと言うてるわけです、我々は。それを『直接じゃないから充てがえと言うてるわけではない(徴税というペナルティを被れば拒否する権利はある)』みたいなのはただのレトリックだと自分は思う」と主張している。ちなみに彼は2回「僕です」と白饅頭リプライしたが、返事をもらえなかった。

https://togetter.com/li/1121535

■黒屋ぶるー

非モテに女をあてがえ」と主張している 黒屋ぶるー @kuroya_blue ​というTwitterアカウントがいる。彼は「「非モテに女を宛がう」で僕自身が想定してるのは男の年収改善(それが女の年収低下を意味することは否定しない)と独身者への社会的圧力の強化、マッチングの強化で結婚やすくしようというもの」「人口維持を目的とするなら「非モテに宛がわれる女性にあるメリット」はズバリ人口維持でしょ」と主張している。

https://togetter.com/li/1408490

弱者男性差別をなくそ

弱者男性差別をなくそう」というTwitterアカウント @tufozi2 がある。「共学が諸悪の根源」「自由恋愛が諸悪の根源」「やはり自由恋愛は廃止してお見合い制度を見直すべきであろう」「それが女性幸せもつながる」と主張している。

https://twitter.com/tufozi2

黒猫使いの鈴木

すもも @sumomodane が「そもそも「男に女をあてがえ」って言っている人、いるんですか?」と問いかけたときに「私とかがそうですね。」と答えた黒猫使いの鈴木

@kuronekomasters というTwitterアカウントがいる。「基本的には、戦争絶滅を望まないなら、あてがえ論をベストと考えます」「妥協点として30くらいまでに自由恋愛で結婚できないなら国や自治体選択肢提示離婚可能だが繰り返す」と提案している。

https://twitter.com/kuronekomasters

すもも

上で出てきたすもも本人は自分弱者男性だと思っていないし、自分が「男に女をあてがえ」論者ではないと自認しているが、一方で氏は「女性上昇婚志向の高さは男性モテ関係している。男性にとって女性上昇婚志向高まることは結婚しにくさにつながる」「女性高望みをやめることは社会的メリットにもなる。①日本少子化対策になる、②男性幸福度を高められる、③日本男女平等度を高められる」「現在未婚者において経済的理由結婚できない人が多いため女性高望みをやめればマッチング機会が増えるだろう」「日本男性幸福度が低い。それは未婚男性幸福度が低いことが寄与している。日本では家族以外の共同体希薄なので未婚男性孤立やすい。女性高望みをやめマッチングが増えれば男性幸福度高まるだろう」とも言っている。つまり女性高望みをやめて強者男性以外も選ぶようになれば、今は結婚できない日本男性結婚できるようになり、家族共同体を持ち、孤立が解消され、幸福になる、と主張している。自分には、これは弱者男性外部から見た「あてがえ」論の変形に見える。

https://note.com/sumomodane/n/nda55d2cf494e

少なからアカウントが、マッチングシステムを変えたり(自由恋愛→お見合い女性側の価値観のものを変える(上方婚志向下方婚の許容)ことで、弱者男性非モテ男性(上に挙げた人達ほとんどはこの2つをはっきり区別していない)が女性マッチングされる機会が増える、増やせ、と言っている。また彼らの一部は、自分の主張が「あてがえ論」だと明言している。

ここで挙げたのは一部の例で、はてな他で非モテについての議論が盛り上がっていた時代には、こういう論調は(かなり極端な側には属していたが)そう珍しいものでもなかった。増田過去検索してみれば同じような意見が出てくるだろう。今回炎上をめぐって「『女をあてがえ』論者は存在しない」とか「藁人形だ」という意見を目にするが、事実はそうではないし、白饅頭やすももがそう言いだした時にも実際に「女をあてがえ」論者が名乗り出てきている。

おれは性的承認問題を抜きにして弱者男性の話をしたい人達がいるのは理解できるけど、彼らが「性的承認問題重要視し、その問題の解消のために制度的な解決を求めている弱者男性達」をいないことにするのはよくないと思う。弱者男性界隈が弱者男性内部の多様な声を抑圧してたらマジで救いがなくなる。まずは「女をあてがえ」論者が存在すること自体は認めて、彼らを弱者男性論の中でどう位置づけるのか、真面目に考える必要がある。少なくともこのエントリを読んでまだ「『女をあてがえ』論者は藁人形だ」という人間がいたら、そいつ事実より先入観や願望を優先して、弱者男性内部の多様な意見封殺するやつだ。言うならせめて「弱者男性みんなが『女をあてがえ』論者ではない」とか「チェリーピッキングだ」ぐらいにしとけ。わかったな。

おまけ:米国インセル界隈では「女をあてがえ」という主張は割と普通にある。保守派論客のRoss Douthatは、インセル問題提起を受けてニューヨークタイムズコラムで堂々と「セックスへのアクセスが困難な人々にセックスを再分配しろ」と言っていた。これも弱者男性の外部から見た「あてがえ」論だろう。

https://www.nytimes.com/2018/05/02/opinion/incels-sex-robots-redistribution.html

2021-03-28

元増田さんから見た現在赤木評価を知りたい

https://anond.hatelabo.jp/20210328093502

フェミニスト男性弱者問題に関心がない、むしろ冷淡で冷徹な傾向があることは、10数年前から赤木智弘氏が指摘していたが、今でもそんなに変わっているようには見えない。

え、赤木はんそんなこと言ってたんだ。

今じゃすっかりフェミ追従オタクヘイトおじさんになってる思ってたけど

元増田さんみたいにしっかり赤木はんを見てる人からしたら全然違うのかも?

あなたがみた現在赤木評価を知りたい

anond:20210323082630

元増田追記

饅頭氏が、かつての関心は労働問題が中心だったという指摘があって、興味深い。日本ジェンダー規範の中で、安定した職も家族もない男性の居場所のなさや生きづらさという問題を追求しているうちに、フェミニストがそうした問題に冷淡で関心がない(ように見えること)へのルサンチマンが昂進していったのだろうと理解できる。

事実フェミニスト男性弱者問題に関心がない、むしろ冷淡で冷徹な傾向があることは、10数年前から赤木智弘氏が指摘していたが、今でもそんなに変わっているようには見えない。ジェンダー差別問題労働問題と一緒に論じないとかえって差別悪化させる、というのが過去フェミニズムの失敗から得られた教訓のはずだが、相変わらず意識言葉問題ばかりに焦点が当たっている。フェミニスト基本的問題意識は、「心ない言葉で傷付けられた私たち女性の怒りや悲しみにまずは共感して欲しい」というのがあるので、それを飛び越えて経済労働という社会構造問題に(とくに男から上から目線で)されると疎外された気分になるのだろう(それはそれでよくわかる)。

そしてアンチフェミの人たちも、労働問題への関心を完全に失ってしまっている。事実、「女性被害者ぶる前に男性のように重い負担を背負え」と、ネオリベブラック企業家のような論理をふりかざすようになっている。フェミニストアンチフェミも、女性差別男性の生きづらさの根っこにある、非正規低賃金労働依存して成長しているコンビニスーパーなどの大企業批判することは決してない。本田由紀先生のように労働問題軸足を置いていたはずの人も、最近発言には労働問題への言及は少ない。


呉座先生もおそらく、若手研究者の時に将来への強烈な不安があり、その不安感を共有してくれたのが不幸にも白饅頭氏のようなアンチフェミで、逆に「女性」のみを支援対象とするフェミニストから否定・疎外されたように感じたのだと推測される。

追記

ブコメで「労働問題言及しないフェミニストはいない」という批判があった。たぶん勉強している人なのだろうと思う。専門研究世界ではかなりの程度その通りだからしかし、ここは増田ということもあり、あくまテレビネット上の言論や論壇についてのみ問題にしている。その上で、SNSテレビで「炎上」している問題について、労働問題が後景に引いてしまっていることは明らかだろうと思う。医学部入試問題も、主題となるべきは普通女性には耐えられない病院勤務医の働き方や、診療報酬削減に伴う人員抑制のはずだが、残念ながら差別への非難糾弾の前に扱いが小さくなってしまった。


付言すれば、フェミニスト労働問題言及する際の、「女性差別的な雇用慣行」などの言い方にも違和感がある。本当は、経営経済上の合理性に基づく雇用システムのものジェンダーからいったん切り離して把握した上で、それが女性差別とどう関連しているのかを分析した方が説得力が増すというか、女性差別の解消に役に立つ議論になると思う。濱口桂一郎『働く女子運命』は必読。

2021-03-22

饅頭赤木智弘の違い

饅頭赤木って似たような感じで出てきて似たような感じで冷笑系だったのに、白饅頭はそのまま拗らせて狂人化して、赤木は逆にまともになってある意味まらなくなって

この違いってどこで生じたんだろうか

ガチャピンの人はもうだめだ。お気に入りから外した

ウマ娘の件でめちゃくちゃねちねちしたいやらしい人格を露呈し馬脚を現したわけじゃなくて

ウマ娘の件までは私が勝手に元ガチャピンの人をまもとだと思っていただけで

私が悪いんだ……もう…楽にしてくれ……




一度この人に対して実はすごい嫌な人なんじゃないかと思ってしまうと無理。

とたんにいろんなコメント違和感を感じるようになってしまった。


ガチャピンの人が変わったのではなく私の見方が変わっただけ。

ガチャピンアイコンだった時に彼の発言問題なく見えていたのはアイコンガチャピンだったからかもしれない。ガチャピンすげー。


とどめは今日のこれ。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/T_akagi/status/1373483114517782536

赤木智弘@おとなブロイラー on Twitter: "アンチフェミクラスタの特徴として「一度批判的に扱った相手を延々とあげつらい続ける」がある 呉座氏や白饅頭氏のさえぼう氏叩きも、その文脈によるのだろう つまり、彼らは「問題理解解決」に重きを置かず、ひたすら自分たちの意に沿わない他者を叩くことで存続するクラスタであると言える"

なんでも俺様以外の何かが悪いと言い張るのは赤木の通常運転だが、このコメントに対しての元ガチャピンの人は

muchonov それでいて「女は陰湿」みたいなこと言ったりするよね。

コメントしていた。これは私の中では無理なやつ。お気に入りから外した。おわり。


今回赤木が言ってるのは御座候みたいな名前歴史研究家が、アンチフェミ代表格の白饅頭と組んで女性フェミ文学研究者にねちねちと嫌味を言い続けていた話。御座候が論外なのは言うまでもない。だが、今はてブで見かけるのは、御座候をたたくために同じことをやってるフェミたちの姿。togetter過去発言を逐一晒し上げ、女性フェミ文学研究者陛下カワカミプリンセスに逐一twitterでチクリをしている人たちがいて、それをいちいちはてなブックマークしてる人たち。

気持ち悪。


よってたかってチクリ行為をやってることをとがめられた人のセリフこち

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/muimi/status/1373513042072272898

呉座さんを批判したら「さえぼうのお仲間」になるんですね。おかしいことをおかしいと言っているだけですが。鍵アカの内容が漏れたことには同情しますが、そもそも揶揄悪口を言っていなければこうはならなかったんじゃないですか

さら調子に乗って、その周辺の人間まで叩きに行く人間。その中にはとても下品言葉遣いをしている人がいるのだが誰も咎めない。

御座候や白饅頭と同じくらい気持ち悪い。普段あれだけ倫理高そうな顔をしておいて、標的が見つかるとあっさりと同じレベルに堕ちる。浅ましい。

立場が変わって自分たちが有利な立場になったとたん御座候や白饅頭と同じことを言い出す輩。キモイキモイキモイ


御座候は論外としておフェミ様がやってることも問題だろうという姿勢を示しているのは池内恵先生と北守先生だけ。この二人だけ御座候批判しつつ同様にフェミ側も批判してる。


ガチャピンの人はこれらのはてブ欄にも数々顔を出し、リンチみたいな状況になっているのを目にしているはずなのに、フェミたちが

「一度批判的に扱った相手を延々とあげつらい続ける」がある

をやっていることについては無視して、アンチフェミだけのことをあげつらっている。

無理。こうなるとただのフェミ党派性に偏った凡百なおじさんでしかない。見る価値がない。

小人病の話題ではちゃんソース示してしゃべってたのにな。

ガチャピンの人が間違ってるだとか否定したいとまでは言わないけど

フェミっぽいことをいう普通のおじさんなだけなら見る価値がない。

視界に入ると気持ちいかお気に入り外して非表示にしておく。

2020-12-27

anond:20201227004833

赤木智弘後藤和智や往年のはてなモヒカン連中がツイッターオタク冷笑系煽りしかできなくなって老醜晒しているのを見ると似た世代のおじさんとしては悲しくてしょうがなくて

もうzaikabouさんしか信用できない

2020-12-10

献血ボイコットに反対する人々はなぜ日本赤十字社法改正を訴えないの?

2019年10月の宇崎ちゃん献血ポスターへの反発を基に献血拒否を呼びかけたツイートに端を発した献血ボイコットボイコットに対し「命を脅かす行為だ!」という批判が相次ぎ、その後も「献血ボイコットはなかった」という主張が出るなどして論争続いているわけだが・・・

命を脅かす行為だというのに、献血ボイコットを訴える人々を叩くばかりで、日本赤十字社法改正して献血ボイコット禁止しよう!」と訴える人が不思議なことに誰一人いない。「献血 ボイコット 日本赤十字社法」と「献血 ボイコット 赤十字社」でツイート検索したけど、前者で1件ヒットするだけで、その内容も法改正を訴える人が誰一人いないということをつぶやいているだけ。

それに、反対を訴える人々が所謂表現の自由戦士」と呼ばれる類のクラスターに属する人が多く、献血医療関係者の声が極端に少なすぎるのも不可解。私がざっと検索した限り、以下のツイートしか確認できなかった。

本当に献血ボイコットを封じ込めさせたいという気持ちがあるなら、法改正を訴えるべきだ!。

2020-11-18

私の赤木智弘に対する評価は「頭は悪いが真面目で正義感も強い」のまま一貫して変わってないよ。

2020-11-10

何を言うより誰が言うってやっぱり大事なんだね

サンデル10年前の赤木智弘みたいなことを言っているのをありがたがってるリベラルフェミニストツイート見てたら何か色々楽しくなってきたわ

まあこれで少しは日本が良くなったらいい

当の赤木智弘朝日オタク表現の自由戦士煽りばかりしてるのが世の中のはかなさを感じて、余計に楽しくなってくる

2020-07-03

赤木智弘2007年の本で「強者女性弱者男性を養え」って言ってるのを知ってあの界隈の言説って意外と古いんだなと思った

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