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2018-07-15

撮って出し老害

どの業界にも老害がいる。過去から抜け出せない時代遅れ。そんな奴らが写真界にも存在する。デジタル現像を善としない撮って出し老害だ。

デジタルカメラが主流となった昨今、ソフトウェアを駆使した現像術は必須になっている。端的に言うと、より感動的に仕上げるためだ。もちろん写真家によってアプローチは違うため、現像スタイル確立するまでトライアンドエラーを繰り返す。

そんなわけで、写真パソコンは切っても切れない関係になった。しかし、プロにも「撮って出し以外は認めない」という排他的な輩が存在する。

知り合いのプロは、自治体老害プロどもに村八分状態だ。「おまえの写真写真じゃない。デジタルに頼った紛い物」といった具合である

「さまざま現像処理を試した結果、一周まわって撮って出しが最高だと思ったよ」というならまだわかる。撮って出し老害は、デジタル現像をするための努力を一切していない。批判するならできるようになってから批判しろという話だ。

世界を見てみると、当たり前のようにデジタル現像が行われている。保守的島国根性なのか、はたまた時代の流れに追いつけない腹いせなのか。撮って出しプロ排他的性格修正できないのなら、今すぐ絶滅すべきだ。

2018-07-07

anond:20180707150628

演歌は創られた伝統」というのは要するに、「演歌はニセモノの日本の伝統だ」ということですよね。

「ニセモノ」というのは、「ホンモノ」があるから成り立つわけです。ホンモノが明確ではないのであれば、ニセモノも明確ではないということになる。

だとすると、

演歌はニセモノの日本の伝統だ」という主張をするためには、

「これがホンモノの日本の伝統だ」という主張が必要不可欠なはずです。

これは正しい。

まずそもそも日本」という単位自体ナショナリズムのものといっていい。

ゲルナーは『民族ナショナリズム』において"政治的単位民族単位を一致させようとする政治的原理"をナショナリズムと捉えた。

日本の伝統と言ってしまうと必然的にそうなる。

肯定する場合でも否定する場合でも主語日本にしてしまうとそうなる。

国家及び民族主語にして語る時点でナショナリズム的と言っていい。

演歌はもともと西洋音楽から日本の伝統ではない」

ということを自明であるかのように語る人がいっぱいいるけど、全然自明じゃないです。

もし仮に、日本は古来から文化的排他的海外のものを寄せ付けなかった、とかい歴史的事実存在するのであれば、

演歌はもともと西洋音楽から日本の伝統ではない」というのは正しいと思います

でも実際には、そんな歴史的事実存在しないんですよ。

箏も三味線も、もともとは海外ナウい楽器だったし、雅楽ももともとは海外ナウい音楽ジャンルだったわけす。

仏教インド発祥だということはだれでも知ってることのはずです。

ようするに、もともと海外のもの伝統になる、ということは日本では古来から普通のことだったわけです。

というか世界的に見てもそれが普通なんですよ。


この段落は非常に雑だし、前提がおかしい。

当該社会集団が何を選択的に残し、何を排除たか。何をナウいと考え、何をダサい判断たか

その価値判断は誰によるものか。どういう思想によるものか。

そういった当該社会集団による意図的選択連続としての受容史を単なる伝播、自然淘汰と読み違えている。

インド仏教日本仏教は全く違いますよね。

また、楽器で例えるなら韓国伽耶琴と日本の琴は全く違いますよね。

ダルシマーヤンチンは全く違いますよね。

文化は伝播してもそのまま伝わるわけではなく、ある種の選択判断が生じている。

雅楽だって日本韓国昔ながらのスタイルのままだと主張しているが、実際には微妙な違いがある。

その価値判断伝統の名の下にくだすのがナショナリズム的言説でしょ。

たとえばですよ、

正月によくかかる「春の海」という曲はたいてい「伝統音楽」の棚においてあります。この曲は洋楽邦楽ハイブリッドです。形式的には完全に西洋音楽です。

から

「春の海は形式的には洋楽から日本の伝統じゃないよ」

という意見もあります。でも同時に、

作曲者バリバリ邦楽演奏家なんだから日本の伝統じゃん」

という意見もあるわけです。

で、このふたつのどちらが客観的に正しいかということを実証することは不可能です。人それぞれ価値観が違う、としか言いようがない。

いやそもそも音楽学者で《春の海》をそういった視点分析する奴は今日びいないです。

伝統かどうかというのはもはや何の問題提起にすらならないんですよ。

なぜならその枠組み自体幻想だという前提で読むからね、まともな音楽学者は。

伝統」とはなんなのか、「日本」とはなんなのか、「音楽」とはなんなのか、

とういうような哲学的な問いにきっちり答えないといけないはずなんですよ、もし演歌はニセモノだと言いたいのであれば。

「創られた伝統」という概念と「創られたわけではない伝統」という概念は、どこがどういうふうに違うのか、

ということを哲学問題として、きっちり論理的説明しなきゃいけないはずなんですよ。でも、そんな作業してる音楽学者なんていないですよね。いたら教えてください。


とっくに議論されています伝統の創出についてはホブズボウムがまず前提。

ヘルダー、ダールハウスタラスキン、ヴィオラリーマン、リッサ、アドラーも読んでどうぞ。

特に19世紀ヨーロッパナショナリズム芸術関係が盛んに論じられていたので、

この分野の先行研究として学びがある。ロシアスペインフィンランドハンガリーなどなど。

繰り返すけど伝統って自然に生じるものではなくて、外と相対化されて初めて気づくものだし

伝統自体共同体による幻想なんだよね。

割と最近テレビラジオ地方地方性を駆逐したのではという話もあって面白い

北海道沖縄も、東京の発信する音楽文化に染まってしまったという話で、

それが国家音楽民族音楽だと大衆勝手に読み替えられているという話ね。

音楽って人間社会性そのものだよねってのはブラッキングの『人間音楽性』の指摘だが、

そういう純粋なる民族性の罠にはまってないですか。増田

あれ、演歌の話どこいった。

なぜ「演歌は創られた伝統」もナショナリズムなのか anond:20180706173405

文章書くの苦手なので断片的な感じなってしまます

演歌は創られた伝統」というのは要するに、「演歌はニセモノの日本の伝統だ」ということですよね。

「ニセモノ」というのは、「ホンモノ」があるから成り立つわけです。ホンモノが明確ではないのであれば、ニセモノも明確ではないということになる。

だとすると、

演歌はニセモノの日本の伝統だ」という主張をするためには、

「これがホンモノの日本の伝統だ」という主張が必要不可欠なはずです。

演歌はニセモノの日本の伝統だ」という本を書く前に、

「これがホンモノの日本の伝統だ」という本を書かなきゃいけないはずなんですよ。

でもそんな本書いてる人いないですよね。



演歌はもともと西洋音楽から日本の伝統ではない」

ということを自明であるかのように語る人がいっぱいいるけど、全然自明じゃないです。

もし仮に、日本は古来から文化的排他的海外のものを寄せ付けなかった、とかい歴史的事実存在するのであれば、

演歌はもともと西洋音楽から日本の伝統ではない」というのは正しいと思います

でも実際には、そんな歴史的事実存在しないんですよ。

箏も三味線も、もともとは海外ナウい楽器だったし、雅楽ももともとは海外ナウい音楽ジャンルだったわけす。

仏教インド発祥だということはだれでも知ってることのはずです。

ようするに、もともと海外のもの伝統になる、ということは日本では古来から普通のことだったわけです。

というか世界的に見てもそれが普通なんですよ。



いや、もちろん、

江戸時代以前から正統的に続く伝統こそが日本の伝統である。ゆえに演歌日本の伝統ではない」

という立場をとることは可能だし、そういう立場があってもいいと個人的には思います

でも、

江戸時代以前から正統的に続く伝統こそが日本の伝統である

という立場普遍性はないわけです。

そういう考えが客観的に正しいとすることができる根拠は、皆無です。

何の根拠もないのに、多くの人が、そういう考えを無自覚採用してしまっているという状況は「ナショナリズム」としか言いようがないと思うんですけど、どうでしょうか。

もし仮に、「演歌は千年前から続く伝統である」みたいなことを言ってる人がいたら、それは歴史修正主義です。

でも、そんなことを言ってるひとはいないわけです。




というかそもそも、何が日本の伝統なのかなんて、どうでもいいことなんですよ。



たとえばですよ、

正月によくかかる「春の海」という曲はたいてい「伝統音楽」の棚においてあります。この曲は洋楽邦楽ハイブリッドです。形式的には完全に西洋音楽です。

から

「春の海は形式的には洋楽から日本の伝統じゃないよ」

という意見もあります。でも同時に、

作曲者バリバリ邦楽演奏家なんだから日本の伝統じゃん」

という意見もあるわけです。

で、このふたつのどちらが客観的に正しいかということを実証することは不可能です。人それぞれ価値観が違う、としか言いようがない。


音楽伝統というのは、原理的にそういうものなんですよ。

そういうものというのは、何が正しいということではなくて、

学者のひとが本一冊書いただけで何が正しいのかが決まってしまうようなものではないということです。

何が正しいのかを一概にいうことはできない、というのが「音楽伝統」の概念です。

それが違うというのであれば、なにが正しい「音楽伝統概念なのかをきっちり説明しなきゃいけないはずです。


伝統」とはなんなのか、「日本」とはなんなのか、「音楽」とはなんなのか、

とういうような哲学的な問いにきっちり答えないといけないはずなんですよ、もし演歌はニセモノだと言いたいのであれば。

「創られた伝統」という概念と「創られたわけではない伝統」という概念は、どこがどういうふうに違うのか、

ということを哲学問題として、きっちり論理的説明しなきゃいけないはずなんですよ。でも、そんな作業してる音楽学者なんていないですよね。いたら教えてください。

輪島さんは本の中で、多様性が云々とか言ってるわけですよね。

音楽が多様なものであるならば、日本音楽伝統も多様、ということですよね。

日本音楽伝統も多様であるならば、演歌日本の伝統でいい、ということになるような気がするんですけど、どうなんでしょう。

演歌日本の伝統になってはいけない理由はなんなのでしょう?

「おまえはもともとヨーロッパ人から日本人ではない」

という理屈ガチ正当化しようとする人はあんまりいないと思うんですけど。

それとこれとは話が別だ、というのであれば、どうして話が別だといえるのか、説明必要だと思います

とりあえず、ここまで。

anond:20180707022322

彼らはこの世の中のことはすべて教義説明が出来ると思っているからその傲慢さが排他的につながってるんじゃないか

anond:20180707021258

宗教ってさ、良いこと言ってると思う部分があっても(カルトは論外だけど)

排他的な部分がなぁって。

2018-07-03

anond:20180703000834

多様性を認めないっていうのは多様性ではなくて反対の排他的になるから多様性ではないんだよ。

2018-06-17

六本木TSUTAYA暴言吐いてる人に書店員暴言を吐いてみる

現役の書店員だけど先日バズった六本木TSUTAYA暴言吐いてる人やその取り巻きがあまりにもアレなので暴言を吐きます



あのさ、本って一年で何冊出版されるか知ってる?「読書好き」を自称するんなら当然知ってるよなあ。

七万冊だよ。七万冊。

それを365日で割ると1日200冊弱の本が出版されるんだよ。なあ、これ、タイトル出版社著者内容その全てを把握できると思うか?それに加え既刊本もあるんだぜ?社割でいくら本を買おうが一人の人間に把握できる量じゃないんだよ。口頭でタイトルだけ伝えられても、表記もなにもわかんないの。今までお前が口頭でタイトルを伝えただけで書店員対応してくれてたんだとしたらそれは単に運が良かっただけだ。広い広い出版業界の観察範囲がその担当した書店員と偶然合致しただけ。

頼むから口頭でブワーッとタイトルだけ伝えてこっちが即座に対応できなかったらキレる前に、もう少しタイトルISBNを紙に書くとか考えてくれないかなあ。

あと残念だけど六本木TSUTAYAのように純粋書店としての機能以外を持つ書店って今後増えてくと思うぜ。

Amazonの登場で書店は半ば息の根を止められたような物なんだわ。「単に新刊買うだけだったらわざわざ書店に足を運ぶ必要ないなー」って書店員やってる俺も思うもん。「ほしい商品をすぐさま見つけて購入する」という利便性はどう足掻こうがリアル書店Amazonに勝てそうにない。

利便性では勝てそうにないならどうするか。その他の価値を自ら創出して生き残るしかないじゃないか

お前やお前の取り巻きが散々「オサレ()」と馬鹿しまくってるTSUTAYAの店作りも、その生き残り戦略の一つなんだよ。

ひとつ聞くけど、TSUTAYAに足を運んだ客がお洒落空間を味わいその雰囲気と気分の高揚の中で本を選んでお前らに何か迷惑かけたか?なぜ「意識高い系()」と自分とは異なる消費スタイルの客をそこまで嘲笑しまくる?なぜ自分とは解釈の異なる棚作りをしただけでそこまで発狂する?

お前らが嘲笑している六本木TSUTAYAに足を運んでいるその人達は、競合他社である俺達もほしくてほしくて堪らない、出版業界お金を落としてくれるご新規様なんだよ。なにをきっかけにしても良い。とにかく「書店に足を運んでくれる人」をどんどん増やしていかないと書店全体の未来はないの。

そんな貴重な新規客を嘲笑するオメーらみたいなスノビズム拗らせた排他的人間市場の縮小に拍車かけてんだよ。「書店とはかくあるべし」「読書とはかくあるべし」と勝手定義して業界私物化してんじゃねーよ。書店はお前らのための空間でもあるけどお前らのためだけの空間ではないんだわ。「全てのジャンルマニアが潰す」だとかなんだとか言ってた人いるよな。お前らまさに「業界を潰すマニア」そのものだぞ。

不毛な「暴言」なんて吐いてる暇があるんだったら他の書店に行ってどうかその店を買い支えてやってくれ。お前やその取り巻きTSUTAYAターゲット層ではないんだ。なにか本を買うんだったらダーウィンの「進化論」とかお勧めだよ。

2018-06-15

地元同窓会関東に出てたやつと地元に残ってたやつで感性が全く違うのがとてもおもしろかった

地元に残ったやつはマジで保守的排他的

大人はやっぱり車だよとか平気で言っちゃうし、他の趣味馬鹿にするようになってた

いつか田舎に帰るにしてもやっぱり5~10年くらいは地元離れたほうが良いよ

こうやって田舎の閉塞感は生まれてきたんだなぁって実感したもの

2018-06-10

是枝監督の件は多くの人に誤解されすぎ

http://www.kore-eda.com/message/20180607.html

Twitterとか見ると変な部分に突っかかって是枝監督に怒りをぶつけてる人が多い。

多分元の文章をまともに読んでないせいだと思うので、きちんと整理しておきたい。

祝意」ってなに?

一般的には「喜びを祝う気持ち」のことを指すけれど、文脈を見ると

国会参院文科委員会野党議員が「(是枝に)直接祝意を表しては?現場をとても鼓舞する。総理に進言を」と文科相に問いただしているやりとりを目にし、更にその後「林文科相文科省に招いて祝福したいという意向を示した」と伝えられたとNHKニュースで目にしました。

実は受賞直後からいくつかの団体自治体から今回の受賞を顕彰したいのだが、という問い合わせを頂きました。有り難いのですが現在まで全てお断りさせて頂いております

まりどこかに呼ばれて表彰、みたいなことは断るよ、ってだけの話なんだよね。

是枝監督は「おめでとう」を受け入れられない人?

デマ

実は受賞直後からいくつかの団体自治体から今回の受賞を顕彰したいのだが、という問い合わせを頂きました。有り難いのですが現在まで全てお断りさせて頂いております

顕彰の問い合わせ」に対して「有り難い」って書いてあるじゃん

何を勘違いしたのか

から仕送り貰って、大学卒業したり優秀な成績残した時に親からおめでとうと言われた際に「親から言葉は受け入れない」とか言ったら批判されるよね。

からの「おめでとう」を断るのがカッコイイとか、それが許されるのは反抗期まで。 成人でもみっともないと言われるのに、還暦近い人がそんなの言うとか流石に度を越している。

から給料貰っておきながら、国家も歌わず日の丸に敬意を示さないどっかの教員連中も同じ精神構造なんだろうね。いつまで経っても反抗期の子供なんだよ。

ママからのおめでとうを受けたらマザコンと思われママの言う事何でも聞くと思われるのが嫌だから、って感じですかね。


こういう感じで、ツイッター上は変にひねくれた発言が多い。

親と子供関係に例える人なんか特に多いが、その例えは明らかに間違っている。

文化庁は親ではないし、お金の出処は税金または文化庁への寄付であって"親"が汗水たらして得た金ではない)

から何らかの助成をもらっている人間が、公権力批判するのはいけないこと?

まず、「告発目的とした映画ではない」と発言していることは知ってもらいたい。

この「公権力批判」というもの。人によって想定してることがぜんぜん違うんだけど。

公権力のもの否定する」というようなアナキスト思考ならともかく、「社会問題点を指摘する」レベルのことは独裁政権以外なら誰だってやっているよね。

以下の文にあるように、是枝監督が「映画を撮りながら考えていたこと」は「それほど目新しいものではない」。

単身者孤立」とか「自己責任論」とか、多くの日本人がすでにテレビ新聞ネット上で共有している。

助成金もらっているからってこのレベルのことも言ってはならない、なんてことはないはず。

取材の中で「何故社会からこのような“不可視の”家族が生まれると思うか?」と作品の背景としての社会的、政治的状況を聞かれた。その告発目的とした映画ではないことを前提に自分の考えを述べた。あくま私見としてではあるが。今回僕が話したのは「共同体」の変化について、であった。日本地域共同体が壊れ、企業共同体が壊れ、家族共同体三世代が一世代単身者が増えて脆くなっている。この映画で描かれる家族のひとりひとりはこの3つの共同体地域」「企業「家族」からこぼれ落ち、もしくは排除され不可視状態になっている人たちである。これが物語の内側。そして孤立化した人が求めた共同体ひとつネット空間であり、その孤立した個を回収したのが“国家主義的な価値観(ナショナリズム)であり、そこで語られる「国益」への自己同一化が進むと社会排他的になり、多様性を失う。犯罪社会貧困が生むという建前が後退し、自己責任という本音世界を覆う。恐らくあの「家族」はそのような言葉視線によって断罪されるだろう。…ということも話した。これが背景。これは『映画を撮りながら考えたこと』という拙書でも既に述べている考え方である。まぁそれほど目新しいものではないだろうことは自覚しているが。

http://www.kore-eda.com/message/20180605.html

2018-06-09

[] LGBTが普及しない理由

子孫が残せないから。

つの時代も、LGBT自然淘汰され、減っていく運命にあった。

今は、インターネット個人自由情報発信できる時代から、潜伏していたLGBTが表舞台に出てきて、急に増えたように錯覚しているだけでは?

(今も昔も、LGBT自体存在していた。排他的一神教社会では、LGBTを神の意思に反する異端として排除していた?)

2018-06-05

テキサス親父とは何だったのか

YouTubeにおいて人種差別民族差別ヘイトスピーチを行なっているチャンネル動画

5chハンJ民など有志らによって閉鎖やアカウント停止に追い込まれている件が局所的に話題になっている。

そんな騒動の中、ひっそりとテキサス親父チャンネルアカウント停止に追い込まれた。

これはある種のネット史上におけるマイルストーンであろうと思い、一ネット住民である名無しの感想という形でテキサス親父にまつわる思い出話を書き連ねたい。

テキサス親父は、そもそも冴えないアメリカおっさんだった。

いかにもステレオタイプ通りのアメリカ共和党支持者的、キリスト教的な言動を繰り返すだけの単なるおっさんだった。

そんな彼が日本で注目されるようになった転機はシーシェパード問題だ。

アニマルプラネットの放映する"Whale Wars(鯨戦争)"という番組アメリカにて2008年頃に大ヒットし、

シーシェパードと名乗る過激NPO捕鯨抗議活動海洋環境問題世間の耳目を集めていた。

テキサス親父はそんな潮流の中で「シーシェパードパフォーマンスに堕した差別主義者のテロリストだ」と早い段階でYouTube声明をあげた人物だ。

動画が発掘された経緯は定かではないが、これがネトウヨ層に大ヒットした。

字幕がつけられ、ニコニコ動画転載され、シーシェパード差別主義者で良識あるアメリカ人はそれを見抜いているのだと注釈をつけられ、ネットの至るところで動画拡散された。

少なくとも”Whale Wars”に端を発するシーシェパード過激傍若無人な振る舞いは日本でもある程度知られ、

その前身であるグリーンピースなどの諍いも含めて、捕鯨は当時のネトウヨ層にとって極めて重要問題だった。

そんな中でテキサス親父の力強い断言は、ネトウヨ層にとって大変感慨深いものだった。

テキサス親父は快刀乱麻を断つが如く「西洋的な価値観他民族伝統風習を野蛮だと断じるのは差別に他ならない」と論じた。この声明については今でも俺は賛成したい。

その後もテキサス親父シーシェパード批判する動画を相次いでYouTubeアップロードし続け、ネトウヨ賞賛される日々が続いた。

テキサス親父も人が良かったのだろう。ネトウヨリクエスト殺到したのか、共和党支持者らしい共産主義社会主義への批判を行うようになり、いつしか慰安婦問題にも触れ、ネトウヨ大好物の「マスコミ報道しない真実」に言及しはじめた。元々、陰謀論好きな一面も見受けられただけに必然的な流れでもあったかと思う。プロパガンダバスターが彼の二つ名だったし。

テキサス親父は一部のネトウヨに持ち上げられ続け、日本事務局なるものが発足し、

テキサス親父日本での講演会書籍出版される事になった。この頃すでに俺はテキサス親父への興味を失っていた。日本事務局幸福の科学の藤木なる人物が中心人物で、テキサス親父を取り巻く新興宗教きな臭い話を聞くようになったというのが非常に大きい。YouTube正論を言うテキサスおっさんは、そこにはもういなかった。

ハンJ板にてテキサス親父を振り返るスレッドが立ったので、別角度からの一意見としてレス転載したい。

テキサス親父ことトニー・マラーノ Tony Marano について記しておかなければいけないことがる

>あのおっさん自身は「差別主義者では無い」ということだ

>あのおっさんは、黒人の射殺に反対し、黒人教会から排除されたことに反対し

東南アジア人が災害にあって大量に死んだのを

キリスト教原理主義者が「あいつらはホモ売春ばっかやってるから天罰だ」と言ったのを反対し

フィリピンのドゥテルテ大領政策も「麻薬中毒の子供の母親気持ちになれ」と叩いてた

>もともと関心事はシーシェパード問題のほうが多くて

韓国叩きさえ、きちんと犯罪者個人国籍民族を分けて叩いていた

>じゃあ、なぜ、倒せたのか?

>他の奴もお分かりと思うが、日本スタッフのせいだ

>つまるとことろ、中国政体批判をトニーはやってるだけなのに

字幕では「支那支那!」と連呼

靖国の便所の屋根爆竹で破損させた韓国人を叩き

>トニーは「俺は韓国人全てが悪人とは言って無い」とか言ってるのに

字幕では「南朝鮮」「南鮮」とか連呼

ニダーの顔の絵や字幕を右上にもってきて「ウリたち土人から何もわかないニダー」と言わせたり

>トニーの言葉ではそこまできつくない言葉でも

字幕では「売春婦」とかなってたりな

>とにかくトニーと違い

日本スタッフ差別主義であることは明白だった

>そこに弱点があった

>トニー自身言葉ではなく、日本スタッフ字幕が俺の攻撃ポイントになった

このハンJ民は明らかにテキサス親父精通しているものテキサス親父動画通報を行なったと思われる事から

かつて愛した過去恋人の死に際を看取るような心境だったのではないかと察する。

そう。そうなのだ。かつてシーシェパード問題で先陣をきったテキサス親父は、もうどこにもいない。

パっとしないおっさん日常の延長で行なったYouTube時事問題評論極東島国特殊な層にウケて持ち上げられ、

やがては暴走して韓国人、中国差別に走り、YouTubeから動画チャンネルが削除された。それがテキサス親父歴史的経緯だ。

上記の内容を読むからテキサス親父差別主義者ではなかったという反論もあろうが、

近年は明らかに人種差別民族差別を率先して行なっていた。

その証拠はわざわざ挙げるまでもない。目を覆うようなテキサス親父差別表現を列挙するのは心苦しいし、YouTubeでのBANという事実だけで客観的評価は十分だろう。

(ちなみにテキサス親父自身個人アウカウントは今も生きている。BANされたのはあくまテキサス親父日本事務局だ。)

テキサス親父排他的で横暴、高圧的な価値観非難する良心的な一市民だった。

けれども彼はいしか排他的で横暴、高圧的な価値観を振りかざして民族差別をする側の代表になっていた。

深淵を覗く時、深淵を覗いているのだという名ゼリフとともに、テキサス親父の思い出をここに記しておきたい。

これはテキサス親父に対する個人的な弔文である

さよならテキサス親父

2018-06-01

anond:20180601000559

都内共働き多い地域からか、児童館保育園のお迎えも6:4くらいで男性

こういう育児の場における男性活躍敬遠するような風潮は、地域民度によると思う。

でも、田舎へいけば行くほど、保育園に男が来ただけで警戒されたりするみたいだ。

家事育児以外では女性活躍できない土壌には、男性に対する排他的な風潮があるのかもしれないな。

2018-05-15

思考メモ書き

この間あるアイドルコンテンツツアー行ったんですよ ライブビューイングなんですけど

推しが出てるからです

キャラじゃなくて声優の方 コンテンツ自体あんまり興味ありません

というか曲もキャラクターも好きだけどゲームとなによりオタクが好きじゃない

めちゃめちゃ排他的なんですよね オタク

というか2次元オタクほんとめんどくさいなって思いますがその中でも特に理解できない

うまく言えないけど頭ヤバイ人多いなって思います

から一生現地行きたくないんですよね

歌って踊ってファンサービスしてアイドルの真似事してる推し世界一好きだけど絶対コンテンツオタクに囲まれたくないし向こうもそうだと思う

だってわたし推し見に行ってるから キャラクター可視化できないか

ステージに立ってるのは推し1人だし歌って踊ってるのも1人 「○○役の××」ってそれだけ

推しは「○○」ってラベルを貼られることは一切ない なにもない空間もつけられない

キャラが見えた」「完全にキャラ」って言ってる人がよくわかんない

あのね 確かにいつもの推しとは違うよ

推しが「○○」ってキャラと一緒に歌おうとするとき、いつもとおんなじ顔だしおんなじ声だけど違う人な気がする

でも絶対キャラではないし何もない空間キャラは見えない

そもそもそういう場合声優ってどういう立ち位置なの?

キャラクター?表現者?それとも中の人

元々完全に裏方の職業だったのにライブが増えて、アイドルもの戦国時代に入って、声優顔面レベルが求められるようになったか立ち位置がすごく曖昧になってるのではと思う

外野から意見ですけど

キャラクター厨の人ってこういうライブどうやって楽しんでるんですかね

だって自分がつけてる缶バッジとかラバーストラップについてるキャラクターはそこにいないんですよ スタイルも顔も全然違う、声だけが同じ人がそこにいる

声優ってキャラ厨にとってどういう存在ですか?推し声帯、ただそれだけですか?じゃあライブ中って目瞑ってるんですか?それとも声優も好きとかそういうこと?

キャラ厨は声優に、こういったライブでどういうパフォーマンスをして欲しいと思うんでしょうか

キャラの真似事して欲しいんですか?それともただキャラの声を出してくれればいいんですか?

純粋キャラ厨ってそもそもライブみたいな現場くるんですかね

好きなキャラ推してる声優が違うって人も結構ますし全員が並んだときどっち見るんでしょうか

なんかもはやキャラ厨っていう存在自体がすごく不思議

不思議ってまず2次元オタク大体が好きキャラいるとは思うんですけど謎 だって供給少ないじゃん

一時期キャラ厨やろうとしたけど供給の少なさに耐えられなかった

それと比べて生きてる推しって毎秒新規書き下ろしからまれてるよね

しろ2次元オタクってそこを二次創作で補完するのかな そういう目的

なるほど

てかほんとそもそも声優オタクしたことなかったか常識すらわかんない

2次元きじゃなきゃダメなんですかね どう頑張っても推し以外に興味持てないんですが

推しの声がするからってソシャゲ走ったり缶バッジとかラバスト集めたりしなきゃダメなんですかね

イベント出るなら全部行くけど

でもイベント行くにもコンテンツ勉強するのが常識らしいですよ ただ「推しが出てるから」で行くのは失礼なんだって

声優厨って興味ないものにも興味持たなきゃいけないんですかね 大変だね

別に名指しでこのスタンス叩かれようが他人強制される謂れないし変える気もないですけど

というか一応全部一回手は出してみるけど大体飽きてしまう 1つ以上のもの好きになれないんだわ

ほんと声優オタク向いてない

コンテンツライブ推し見に行くことってほんとはダメことなんですかね

推しの出ない時間が長いと飽きてきちゃうんですけど他のオタクに殴られるんですかね

別に常識はあるので座ったり離席したりはしませんけど

わかんないな〜なんかこういうスタンスの違いって今までのジャンル2次元3次元かで違いそう

わたし推しのことアイドルかなんかだと思ってるんですかね でも声優の扱い方ほんとにわかんない

わかんなくても現場行けるからいいけど

2018-05-07

anond:20180507205722

っつーか日本に優秀な人が来るの?そこまで魅力あるかね。稼ぐなら他の国の方がいいし排他的だし。

anond:20180505151100

ほんの10年前のことだよ。日本は他のアジア諸国を見下してた。優越感があった。時は流れ、いまやどうだ?給与は乏しく排他的日本を優秀な人間が選ぶ理由はないのは自明だ。

なんでこうなっちゃったのかねぇ。

きっと一番の理由少子高齢化で。原因は多い高齢者と少ない若者が、同じ票数で戦ってるということ。勝ち目のない土俵にのぼらされて、さらに勝ち目のないルールを作られていく。

5回破綻したほうがいいぞ

2018-05-03

排他的都市大阪

大阪関西以外出身の人は一生よそ者扱いする

東京別に関東出身だろうがなんだろうが全く気にされない

と、関西在住の関東出身者は感じ、東京に戻るのです

から余計にずっといる人が目立つんだが

2018-04-29

オタク

 オタクいやだなぁと思う。Twitterオタクの痛バッグ自慢とか、作品語りとかを見てて思うだけなので実害は受けていないので、今後もしオタク出会うことがあっても自分からは関わらないだろうな、と感じるくらいのゆるい嫌悪

 何が気持ち悪いのか、自分なりの見解を記したい。それは「価値観が一色に塗りつぶされている」ということ。カバンには好きな作品とは別軸で好きなカバン基準存在して当然だと思っているし、どんなに好きな作品であっても何かしら自分と合わない部分があるのはおかしいことではないはずだ。でもいわゆる「オタク」にはそういうものを感じない。オールアナッシングで、よってたかって叩くかめちゃめちゃに持ち上げるか。

イネクライネは好きだけど米津玄師髪型は好みじゃない、とかセカオワ歌詞は寒すぎて嫌だけど声はすごくいいよね、とか聞いたことある

極論を振り回して、妄信的で、排他的。結局、オタクキモイ意識はそこに尽きる。

ふるさと嫌い

から周りにいにくいことなんだけど故郷が嫌い。

家族とも仲が良いし友達もたくさんいるけど、やっぱり故郷が嫌い。その理由を3つ吐き出させていただく。

田舎へのヘイトっぽいけどあくまでも私の故郷へのヘイトなのでご容赦くださいな。

理由1 めっちゃ田舎

本州日本海側の山奥なんだけど、駅もなけりゃバスも来ない。

都会の人はジジババの運転怖いっていうけど、車のるしかないんだ…。まぁ突っ込むコンビニも通行人もないけど。

こんな田舎からちょっと勉強できる子は、中学出たら独り暮らしが当たり前。正直寂しかった。自分の子供にはさせられない。

理由2 親戚だらけ 知人だらけ

親戚と行っても普通は付き合いが途絶えるレベルなんだけど、近くに住んでいるせいで何かと顔を会わせることが多い。

プライバシーくそもない。みんな過去の話を知ってるので黒歴史に蓋なんかできないよ!

デリカシーがないおっさんおばはん多い。

他人自分の境目が曖昧なんだよね。

理由3 故郷LOVEがかっこいい

これが故郷が嫌いな一番の理由かな。

若い人に多いんだけど、"I♥○○"みたいな感じで故郷への愛着=正義っていう感覚がある。ヤンキーにありがち?同級生(27歳)の車には○○サイコーみたいなステッカー貼ってある。

近所のおっさんが兄に「長男故郷捨てて金儲けてそんなにえらいんか」と説教しとった。兄は大学こそ出てるけど薄給だしもうけてなんかない。家族のためになんとか安定した職業にたどり着き、縁もゆかりもない場所一生懸命働いている。

当たり前の水準が上がってるこの時代に、この田舎でなんの仕事があるというんだろう。そういうことも飲み込んで故郷に戻る人もいる。それは立派なことだと思う。そのおっさんも色々我慢して故郷を守り続けてきた思いがあるんだろう。

でも故郷に残らないことにもっと寛容になっていいと思う。

色々かいたけど、なにもかも嫌いな訳じゃないし排他的な人ばかりじゃない。むしろ今は若い人の生き方に寛容になってると思う。

結局私自身が故郷が嫌いなことを受け入れられない。三つ子の魂百までって感じで、故郷嫌いというのに抵抗がある。故郷にアイデンテティ支配されとる。生まれ育った場所にすぎないのに。

2018-04-12

土俵に女が上がれないのどこがあかんの?

男の男による男の為の戦いの場とする方が、ある種のブランディングになるだろ

スポーツとしての側面で女子を取り入れるのは良いが、プロ興行として成立させるには神聖化等それなりのイメージ戦略必要になる

プロ土俵のみ特別扱いすることは、それなりの経済的合理性あるじゃん

演劇は女のもんじゃないが、宝塚が女の聖域とするこで成功してるようなもの

あるいは海外宗教観光地なんかでも女人禁制をしいて神聖化してたりするがそれとも一緒だろう

おそらくその逆、男子禁制もあるだろう

格式権威などのブランディングには、性別に対して排他的にするのは全然あり得る話

逆に何があかんのだ?と問いたい

2018-04-08

男の子向け、女の子向けという文化の終わり

「なぜそんなに下がったんだ…」『りぼん』の部数、全盛期の255万部から18万部まで落ちてしまったという事実に震える - Togetter

団塊ジュニア小学生中学生だった頃と違って、少子化でとにかく子供の数が少ない。

から男の子向け、女の子向けという排他的コテゴリがもう成立しないんじゃないかな?

深夜アニメ円盤を買っている層は団塊ジュニア男性オタク女性オタクがメインで、

男性向け、女性向けとハッキリ分かれている。この層も結婚したりして、オタク卒業して

るせいなのか、最近円盤が売れなくなった。

これから求められる漫画アニメライトノベルは男女ともに楽しめる作品だと思う。

そうでないと生き残れない。あとスマホで楽しめること。SNSシェアやすいこと。

音楽映画は定額サービスが当たり前になっているので、作品それ自体だけでマネタイズ

することは今までのようにはいかないと思うので、版権ビジネス重要になってくると

思う。

2018-03-28

anond:20180327100644

人を殺す、人が殺されるというのは人間社会の規格定義の一つです。

人は死にますが、死ぬことについて殺されるとか殺すといった概念はもともとありません。

なので殺しても殺されてもいいも悪いもなく殺すということが存在しません。

捕食にあたって相手が死の状態になることはあります。生きたまま捕食したりすることもあります


その死が得られる状態に行動することを殺すと定義して、なぜ社会では悪というかは手に入りにくさ、行使にあたっての条件の複雑さがあります

容易に簡単に死を手に入れたり与えたりすることができては社会構成を堆く積み上げられません。

自分財産ひとつ守る手段について何重にも定義があるのですが、死一つですべて覆ります

落とし物、拾い物、譲渡権利価値公平性、それらが死で失わると値段もおいしさも価値もありがたみもすべて存在しなくなります

自分がいまこの瞬間だけ生きるのについては捕食をするだけでよいのですが、何時間後かの食事明日の予定、今年の目標などを策定するには生きていることが前提になります

なので社会の中ではそれらの予定を必要とするものについて死がとても手に入りにくいものにされています

多くの承認とほかの生きているものに対する取扱いなど、個人法人ともにそう簡単に生まれたり死んだりできません。


その手に入りにくいものについて稀に唐突に手に入れる場面があります。その希少性について排他的であることが悪です。

突然お金を得る機会があって大金持ちになることもあります。その希少性について排他的であると悪ですし、協調性をもって迎合することもあります

死も社会協調を重んじて選択せざるを得ない可能性も含んでいますしかしそれは濫用すべきでないという定義は、お金をばらまくことについてと同じ距離感にあります

とても手に入りにくい構造にしてある死について、そこに至る手段の殺すということはとても難易度が高いため

あきらめがむつかしさになり、あこがれがうつくしさになります


個々の一人ずつがそれらを感受性に従い表現することが、善悪であったり美醜であったりします。

ひとつにしても、ほかの生きているものに対する影響は生きているものの数だけあるので一概には言えませんが

死という存在の濃度は、土地によっても時間によってもそれぞれ異なり、ただ殺すということについてのみ

その価値について問うということがある場面というのは、基本的にそれをしてはいけないから問うのでしょう。

問いのない死は、それを必要としないところにはたくさんあることを恐怖して、その答えとなることが多くあります

2018-03-27

anond:20180327091643

トラバレスが酷いのですがどうあがいても陳哲郎というか糾弾側に理があるでしょう。

陳哲郎嫌いなのは自分ネトウヨなので一番理解していますが、この問題解決せねばならないのは政府が容易に官庁コントロールをして改竄我田引水をし、官庁官僚脅迫できるシステムのものであり、そこにネトウヨネトサポとして自民を守らなくてはいけない理念を入れちゃいけないと思うんですよね。

ネトウヨとしてこの一件を注視するなら政府無能たる面々と容疑者関係者全てに着目すべきでしょう。

ネトサポとしてこの一件を擁護するなら安倍アッキー無関係という路線政府秘書官を信用できず官庁コントロールができない無能だったと認めたうえで是正を願うべきです。

ネトウヨネトウヨたらしめるもの無能・外敵・内敵を排除するという排他的価値観で、そこに政治的右翼主義はあまり介在していないと思います

(上念や百田といったバカ共をネトウヨと考えている方が多いと思います、彼らもまたもちろんネトウヨではあるのですが彼らはどちらかというとアジテーター活動家区分すべきでしょう、三橋貴明のようにネトサポ崩れのネトウヨ活動家みたいなのもいますね)。

ネトサポ利権や力に依存したり信仰したりする方なので今後さらに強くなる為に工作する存在でがこれは純然たる工作員で、自民共産等暗躍している方が多いと思いますがこの一件に対する姿勢を見ればネトウヨネトサポかの判別がつくと思います

ネトウヨネトサポを同一視している人がサヨクパヨクブサヨ界隈で多いのですが、一般的ネトウヨたる人々は自民に阿る必要がないんですよ。

私はネトウヨとして自身無能だと告白した政府糾弾する側に立ちます

追記:創価?しねばいいのに。希望?ない。維新地方主義地方しか力無いのに国政で頑張ることできるの?これまでは消極的自民応援せざるをえなかったというだけです

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