はてなキーワード: コンテンポラリーとは
日本を代表するアニメ監督たちが<音>に鈍感なの、悲劇だと思う。
湯浅監督の犬王みてきたけど、あの古臭くてパッとしないロックは何?
いやわかるよ、かの時代に一世を風靡した斬新で革命的な<音楽>を表現したかったのはわかる。
今の時代、最新の音楽理論とシンセサイザーを使えば風変わりで斬新な雅楽などいくらでも作れる。
まあ100歩譲ってロックにしたいならそれでもいい。
和楽器でロックをやるなら、それはそれで斬新な感じは伝わるだろうから。
もし洋楽器を使いたいなら、それっぽい何か(現実には存在しないけど、当時存在しててもおかしくなさそうな自作楽器的なやつとか)を画面に描けよ。
なんで、<絵>や<動き>に対してはあんな素晴らしく卓越したセンスを見せつけてくれるのに、<音>にこだわらないのだろう。
思えば宮崎駿もひどかった。
そう、風立ちぬ。
あの画面から唾が飛んできそうな効果音の酷さと言ったら、もう、言葉がない。
絵のこだわりに対して音へのこだわりのなさに、もうただただ悲しいよ。
コンテンポラリーダンスの一分野で複数人が接触しながら即興をする踊りである
多数で同じ空間で同時に踊る
ルールは特になく状況やタイミングによって一人で踊ったり数人で踊ったりする
一時流行ったコンテンポラリーのアマチュアリズムを伝えているものでもあるので
その踊りのイベントには普段から踊っている人以外にも色々な人がくる
ダンサー以外だと俳優や格闘家が多いが普段あまり運動をしていないデスクワーカーみたいな人もいたりする
そしてその踊りをやっていると気が付くのだが
それぞれが気を抜けば気を抜くほど男女一組になっていく
それぞれが疲れていれば疲れているほどフロアムーブメント(=床に寝そべっているような低い動き)が増えていく
体温に触れていると気持ちがいいからか重なったまま動かなくなったりすらする
意識的に床でグズグズにならないようにする人がいないとそれなりの有様になる
大抵はオーガナイザーが上手くやるけれど
踊りが踊りであるためにはその辺りをどうすれば良いのかなんとも言えないけれど
とりあえず男って女が好きだし女は男が好きなのね
割と美醜は関係なく
いやおれが見たのは本当にダンスだったのかなあ?
配信で近藤良平という人の「夜のカフェテラス」というのを見た。
近藤良平という人はコンテンポラリーダンサーというはなしだから、きっとこれはコンテンポラリーダンスなのだろうと思うのだけれど、自分が想像するダンスの枠の外すぎてわからなくなっている。
赤ちゃんが初めて立ち上がる瞬間の演技や、雌鶏が走り回って卵を生む演技なんかはぱっと見でそれとわかってすごいなあと思ったし、たまにあるちゃんとしたダンスっぽいのもよかったと思う。所々のコミカルなパントマイム的な演技もそれはそれで面白かったのだけれど、大中小のクマのぬいぐるみとのダンス?とか、笛やラッパを吹いているところとかはこれは一体何を見ているのだろうと不思議な気持ちになった。
たぶん理解できないんだろうなあというのは覚悟して見始めたものだからそれはそれでいいのだけれど。でもできれば自分が見たものが何なのかもう少し理解したいという気持ちもある。
私は男として生まれたし男として生きている。
子供のころからフォルムが好きだから女になりたかったし今でも女になりたいと思っている。
幸いにも背は 160 cm と小さく骨も細い。手足も小さい。
そして顔も女顔なので全身レディースを着ている。
私は男である。しかし男であることを覚悟し続けなければ男であれないな、と感じている。
異性から異性としてモテることはなかったが、女友達同士で遊びに行くことをデートすると呼ぶような意味合いでデートする相手は
セックスはしない。そういう関係になったこともあるがしている間に疑問が生まれるのだ。
私はなぜセックスをしているのだろう、と。
した後に関係性が少しずつ崩れていく。
いつも。
ED ではなく数時間でも勃起が長続きするタイプのそれなので相手はとても喜ぶ。
ただ私だけはわかっている。
違和感がある以上は毎回うまくことは進まない。
同じ相手と一か月以上セックスを継続する間柄になったことはない。
それでも私は性同一性障害ではない。
趣味の踊りで男とペアでストレッチする際に勃起することがあるけれどそれは別に性欲からではない。
ただ人肌は気持ちいい。それだけだ。
踊りを趣味としている。
どのような状況証拠を並べようとも私は断固としてヘテロである。
私は性同一性障害ではない。
国立新美術館の「古典×現代2020」に行ったんだけど、現代美術ってつまんねえなといまさら。
菅木志雄
宣伝動画で「来る人は美術館に石ころがあると考えませんから」なんて言っているけど、感覚が半世紀くらい遅れてんじゃないのこの人。いまどき美術館に石ころがあった程度で、なんも思わんわな。それとも現代美術ファンは、美術館に石ころがあったらびっくりするの? そんなんだったら、徳川美術館で水石「夢の浮橋」見たら、腰抜かしてしまいそうだな。まして国立新美術館は美術館ではなくて、美術館を詐称する展示場なんだが。
いい写真だと思うよ。インスタで流れてきたら迷わずいいねを押すだろうね。その程度。
棚田康司
円空と並べて展示してつらくなかったのかな? 作品の持つ力の差が歴然と感じたが。まあ、本人やファンが満足ならいいけど。
皮緞帳は粗大ごみにしか見えんかったというのは置いておくにしても、刀剣とのスケールの差が大きくて「組み合わせた壮大なインスタレーション」と感じ取るのは難しいな。現代美術ファンは器用だ。なお刀剣展示の照明ダメじゃね。刃文見える?
田根剛
中では唯一作品を展示していなかった。仏像展示の演出のお仕事。動く照明と録音された声明だけのインスタントでチープな演出。本物の宗教儀式が、さまざまな工夫を凝らして神秘性を演出しようと努力しているのに比べれば、子供だましみたいなものだ。
おもしろいパロディではある。こっちはツイッター映えか。アニメーションは途中までしか見てないから何とも言えない。
印象うすい
さすがに力のある作品で見応えがある。ただ、「針のない時計は〇〇(忘れた。時間の超越とかそんなんだった気がする)を意味します」みたいな作品解説を読んで、深いなあなんて思わなきゃならないとしたら、俺には現代美術は無理だ。
古典の方は見応えあるよ。念のため。
【追記】
「古典×現代2020」について、古典側も含めて、もう少し詳しく書いてみる。
仙厓の作品は掛軸1つ。円相図といって単なる○が書かれている。○には悟りや真理、仏性、宇宙全体などと宗教的・歴史的にいろいろな含意があるようだ。添えられた賛がいい。「これくふて御茶まひれ(これ食ってお茶を召し上がれ)」。
洒脱だねえ。かっこいい。この作品初めて見たんだけど、賛を読んで、ふわっと心が軽くなるような感じがして、ああいい作品を見たなあと。
それに比べて菅の作品。それっぽい思わせぶり以上の何かだとは思えないな。解説聞いたら納得や感動するの、これ?
川内の写真は数が多くて辟易した。いちいちつきあってられんわというのが1番の感想。前回インスタ云々と書いたけど、でかく引き伸ばした写真とかもあり、それはそれででかい会場で展示する意味はあるのかもしれない。ただちゃんと選抜してくれ。花鳥画の方は6幅なんだよ。
花鳥画の方で目を引いたのは、森蘭斎筆/梁田象水賛の牡丹図(神戸市立博物館蔵)。背景に大きく描かれた太湖石は伝統的な描法。手前の牡丹は西洋画の影響をうかがわせる陰影がついている。でありながらうまく調和していると思う。おもしろい。賛は読めんかった。誰か教えて。
棚田の作品には全然目が行かなかったんだよなあ。円空いいなと思ってただけだった。荒々しさというか生々しさというか、そういうのがいいよね。というわけで、棚田作については何も言えない。
いちおう言っておくと、もともと円空あんま好きじゃなかったし、今回で好きになったというわけでもない。それでも円空ばっか見てたのだ。
mitimasu 冷たいドブをさらって原石を見つけるのが楽しくないなら向いてない/刀剣は手に取って角度を変え光の当て方を変え…という見方ができない以上、どこの展示もそんなもんだと思うけど?国立新が特にひどいのか知らんが
刀剣の展示は、1つ1つに小さなスポットライトが当たっていて、それを刃文のところに乗せるように見ると刃文が浮かび上がるようになっているのよ。そして横にスライドしながら刃文を見ていくと。刀剣博物館でも東博でもなんでも、刀剣展示ってのはそういうもの。
今回の展示ではそのスポットライトがなかったはず。だから見えない。
ひょっとしたら俺が見落としていただけなのかもしれない。また、刃文の見えない展示もありだよねってことなのかもしれない。いずれにせよ、日本刀にそれほど興味ないからなんでもいいんだけど。
会場内で配られていた「アートのとびら×作品リスト」なるガイドブックに、別の機会での皮緞帳の展示の写真が載っていて、それで見るとこの作品なかなかよさげなんだよなあ。ライティングが異なる。あと中央にぶら下がって振り子のように揺れていた首がないのがいいのかな。
そのガイドブックには、「同じ部屋に展示されているのは、美術品としてケースに入れられている刀剣です。刀剣はかつては武器、または切る道具でもありました」とある。これ書いた人って、刀剣の展示を見て、自分の体が切られるようなぞくぞくする感覚を味わったことがないのか。もうちょっと古典の作品としっかり向き合おうよって思う。
前回子供だましだと書いたけど、ツイッターみると評価高いのよね。意外だ。
他の作家と違って、この人は作品を制作せず、仏像の展示演出を手掛けている。演出手法は光と音で、具体的に言えば動き変化する照明と録音された声明だ。
立体物の屋内展示で照明が固定されているということに以前から不満がある。屋外ならば太陽の位置で影の付き方が変わって見え方が違ってくるからね。たとえば上野の国立西洋美術館に行く楽しみの1つが、今日はロダンの地獄の門がどんな表情を見せてくれるのだろうかということだったりする。
だから今回の田根の試みのうち、照明を変化させる、動かすという点自体は評価したい。ただその変化のさせ方や動かし方については、もう少し考えがあってもよかったのかもしれないと感じた。
正面下方から照明を当てる瞬間があるけど、これはいい、というか正しい。お堂に安置された仏像は、下の方に置かれたロウソクの火に下から照らされる。だから仏師もそれで映えるように仏像を作っているはずだから。しかし、仏像の周囲にいくつかのピンライトがあって、それが上下に等速度直線運動してるってのはどうなのって思った。
まあ、しかし照明の方はまだいい。音の演出の方はちょっとひどいのではないか。録音された声明をスピーカーで流しているんだけど、音響についての工夫がまったくないのね。仏像に向かって右手、部屋の奥の方にスピーカーがあってそこから流れているんだなってのがわかる。どこからともなく聞こえてきて展示室内を包み込むような感じに聞こえるとかそういうの全くないの。音響について完全になめてる。
さらに言うと、仏像の展示位置が低いと思う。立って見ると正対するほどの高さ。一般に仏像は高い位置に据えて、仰ぎ見るもの。その下からの角度で見て映えるように造られているはず。この仏像の一番映える角度がどのあたりかは知らない。しかし今回正面から見て違和感を覚えたから、下からの方がいいと推測する。そういった点、たぶんこの人なにも考えてない。
出品しているのが大きく2種類で、うち1つがアニメーション。これは半分くらいしか見てない。なにも惹かれるところがなかった。
もう1つは、冨嶽三十六景のパロディ「ちょっと可笑しなほぼ三十六景」で、いくつかの作品を元ネタの北斎作と並べて展示していた。
北斎の冨嶽三十六景は三十六景といいつつ、追加があって全部で46図ある。一方パロディ版が全部でいくつあるのかしらないけれど、きっちり36ではないからなのか「ほぼ」とついている。三十六景といいつつ平気で10枚追加したあげく、三十六景のまますました顔をしているところの江戸っぽさ(前近代っぽさ)と、きっちりでないので気になって「ほぼ」とつけてしまう現代っぽさの対比が興味深い。
それはさておき、このパロディけっこういいのだ。うまくて唸らせるし、おもしろくて笑わせる。
でもね、「和紙にインクジェットプリンタ」なんだよ。実物見る意味なんて全くないからね。前回「ツイッター映え」と書いたのはそういう意味も含んでいる。なんつーか、いろいろ退化してるね。
伝統×現代アートという切り口から、伝統的な作品の「もの」性を再発見していく展覧会だと思いました たとえば皆川明×尾形乾山の展示を見て、私は初めて乾山の器の「素材」を認識しました そうか、これは焼き物だったんだ!という新鮮な驚きがありました
ちょっとびっくりしたよね。乾山見て焼き物だとわからないような〇〇〇がありがたがってるのが現代美術ってことなのかな。
このコラボレーションは2種類に分けることができて、1つは独立ケースに乾山作が収められており、その上に大きく平たい円筒状の布(皆川作)がぶら下がっているというもの。6セットあった。これは両作を同時に視野に納めるのが難しく、あまりうまくいっていないように思えた。
もう1つは、小さな様々な端切れが継ぎ接ぎされた数メートルはあるかという布の上に、ところどころ乾山作の陶器陶片が置いてあるというもの。ごちゃごちゃしたものの上だと乾山は映えないなというのが感想だけど、皆川明、というかそのブランド「ミナ ペルホネン」は明らかに自分がターゲットではない(というかそもそも初めて聞いた)ので、これが素敵だという人がいるなら、その感想についてどうこう言うつもりはない。
乾山の作品では「色絵石垣文角皿」(京都国立博物館蔵)がお気に入り。モダンな味わいがある。かわいくてすてきだ。
この展覧会に行った理由は蕭白。蕭白が4作出てたら行かざるを得ないよね。で、行ってみたら現代美術作品がつまらなくて、ひどい言い方だけど抱き合わせ商法にあったような気分になったわけ。
新出の游鯉図の眼がリアリティあって見事だった。群仙図屏風(東京藝術大学蔵)が、個人的に蕭白と言えばこうのって作品で大好き。
宣伝動画のなかで横尾は、人間の本質・魂の表現が蕭白の作品の中にこめられた重要なメッセージで、現代人が見失ったものだみたいなことを言っているんだけど、これ賛同する人ってどれだけいるんだろ。まったくピンとこない。
行ったよ。特に第1部はすてきだなと思う絵が多かった。ただ基本的に個展っていまいちよね。いろんな人の作品が見れた方が楽しいな。そのなかに数点ドイグがあったら、より魅力を感じたかもしれない。個人詩集よりアンソロジー読んだ方が楽しいし、好きな詩がより映えるよねみたいな感じ。個展だとその作家をどのように位置づければいいかもわかりづらいし。いまああいった絵を描きつつ評価されているというのは、いったいどういうことなんだろ。
yama_bousi 現代美術で自分が好きな人は、淺井裕介氏、高松和樹氏、蔡國強氏、ちょっと古いのではキースへリング、藤城清治氏、あとドールの世界とか凄いなあ、と思う。現代美術とは違うがぴろぴと氏は大好き。
だいたいそうだと思います
そうなのですがあえて癖のつよいところでいうと
日本語で言う 聞き間違いがおおいのではと危惧されるところはあえて違う言い書いたで回避するのです
本などでも古来からイニシャルだけ装飾しておおきく書いたりするような風潮があります
なので似たような単語 頭文字の系統でわけてききまちがいをしないように言い回しを変えるというものがあります
すべき とか日本でよく言われるところでは ふだんづかいしないのです
教科書でならったマストの使い方をしている人はまずいないと思うのがよいかもしれません
おなじように言い方として英語はいいたいことを前にもってきます
あなた のあとに形容のどのような をもってくるような話し方は英語的ではなくフランス語的で
黒人に言及するならフランス系黒人のようなというニュアンスをすでに含みます
あなたは はなすべきだ 何々の というのが一般的な英語のつくりなので
そこで日本的にはべきを強調したくなるのですが あなた はなす(はなせ)にするのが英語的には受け入れやすいです
あなた のあとに どうすべきかという意見をいれるのはやさしく友好的で
ハリーポッターの映画の中でも友人を諭すときにつかわれている話法をみれば近いと感じると思います
そのやさしさがすでに嫌味であることもあります にているものとしては京都弁のようなものでしょうか
英語ではなすときは なにをすべきかを2から3とかあわせることはできないと考えて
あなた はなすべき それが なにより よい といった形式になることが多いです
きれいな すてきな を選ぶときは単語としてSかEで始まる言葉を選ぶのが一般的です
ありがとう うれしい おめでとう のような雰囲気で すてきな すばらしい すごい というものと似ています
Bで始まるものはあまり好意的ではない皮肉であることがうけとりやすいのでこの場合は適しているだろうと思いますが
あらまあおきれいな といった皮肉は そうしなさい という文脈にはあわないかと思います
黒人もたしかにご指摘のとおりですが 前に「お美しい英国人」とついているので名前だろうとは思います
美しいのBと英国のBで重ねると皮肉が効いていると思われますがイングリッシュは英国のでも英語でも英国人でもなく
アメリカからみて東方の近い語圏または西のという意味になります
普段日本語を話しているのに「わかりやすくはなせ」というのに「日本」というスケールはでてこないと思います
なので北で海をこえたら日本語つうじないのか 南の海をこえたら といった風に北海道や沖縄をいうなら
「日本じゃないもんな」という比喩でしか「同じ日本語をはなすちがう日本語の地域」という表現を含めなくないですか
スティングがイングリッシュマンとつけた歌がありましたが はるか東方(西方)からきた人という疎外感を
距離は大きく違いますが関東人が「北陸人は」というような言い方でしょう
なにより誤解をおそれず話しかけることは大事だとおもいますし それがどう伝わったかは各個人間でしかわからず
それは外野がどうだといったところで違うものは違うしわかるものはわかりあえると思います
次の機会に私たちがだれかとであったときに あたらしい価値観をためせる機会があればよいのではないかと思います
あとついでなのですが南部訛りの黒人の方言はおそらく日本語の方はほぼ理解不能だとおもいます
黒人ラッパーなどの歌詞などで聞き取れる方がどれほどなのかと思います
日本できけるものは主に都会で聞かれるものだと思いますがコンテンポラリーチャートにあるようなものは
とても独特だと思います
たとえば語尾にアンドユーやアーントユーとつけるのがエイントでもなく
「アーイー?」
フランク・オーシャン (英: Frank Ocean)とは、アメリカ合衆国、ルイジアナ州出身のR&Bシンガーである。
2010年に、タイラー・ザ・クリエイター率いるアーティスト集団OFWGKTAに加入した事で注目を集める。
2011年には、ミックステープ『Nostalgia, Ultra』をリリースし、その退廃的な独特の世界観を持った楽曲は、各方面から
非常に高い評価を受けた。
2012年7月10日には、公式デビューアルバム『Channel Orange』がリリースされ、初週に13万枚近くを売り上げ、Billboard 200にて
初登場2位を記録している。
2013年にはグラミー賞にて、『ベスト・アーバン・コンテンポラリー・アルバム』と『ベスト・ラップ・サング・コラボレーション』
を受賞した。
Frank Ocean - Novacane
2016年末にリリースされた「二人セゾン」は、アイドル素人の俺の絶妙な隙間に入り込んできた。
ストリングスの効いた美メロの4つ打ち、制服姿のアイドルたちのコンテンポラリーなダンスフォーメーション、湾岸都市の無機質さに対比する彼女たちの笑顔。
それまで持ってきたアイドルへのステレオタイプが崩れていった。
俺の彼女らへの感動がピークに達したのは不協和音のカップリング「エキセントリック」のMVを観た時だった。
普通/エキセントリック の対比に苦悩する主人公を謳う内容の楽曲。
「僕は普通と思ってる みんなこそ変わり者だ」のタイミングで彼女らのダンスは紛れもなく「エキセントリックな集合体」を表現し、結局主人公や周りの人間らは見方によって普通にもエキセントリックにもなれてしまうという非常にシニカルな内容になっていた。
ここまでシリアスな内容を表現できる10代20代の女の子がいることにただただ脱帽する限りだった。
そしてバラエティに出演すれば素朴な笑顔ややりとりを繰り返のがまた彼女らの魅力だった。
しかし2017年末の紅白出演から、俺の中で何かが変わっていった。
共演する内村光良が真顔で心配するほど平手友梨奈の限界を過ぎたパフォーマンス、終演直後の一部メンバーが倒れたことは切実な他のメンバーの切実な表情を切り取った写真とともに速報された。
限界ギリギリで頑張っている少女性、俗な言い方をするならスポ根的な、そういう少女たちのアティチュード。
これは確かにアイドルにおいてとても話題になるし、アイドルを推す側にとっても「あの子たちが頑張っているから推せる」というモチベーションに一番つながる。
俺自身が多少ならずともパフォーマンスする側に立っていた人間だからこそそう思うのかもしれないが、演者が舞台上で倒れるなどあってはならない。
そして運営からはいくらかのお知らせがあり、一部のメンバーからのブログやインタビューで「もう大丈夫です」といった内容の告知があり、この件は収束した。
2月に初めて全握に参加した。
昼ごろのミニライブ終了後、屋外に3時間待機してレーンのメンバーふたりに対して計6-7秒程度の握手。
わかったのは想像以上に画面で見る本人らより実物はとてもかわいかったし、きれいだった。
ただそれ以上のことは特に感じられず、メンバーらを見世物のように感じてしまい、もう全握には行けないような気がした。
あの場に行って感じたが、いろんなものが過密化していて、それでいて握手して直接会っているにも関わらず結局メンバーとなにかコミュニケーションがとれているというわけでもない。
夥しい数の観客がいるのに、この中の一体何人が本当にメンバーとコミュニケーションがとれたのかと思うと、ひどく虚しい環境のように感じられた。
そしてまた俺自身のそういう過熱しすぎた環境に加担してしまっているとかと思うと、もうどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
その帰路で、たまたま当日向かいの会場で行われていたももクロの有安卒業ライブの待機列との熱量を、どこか羨ましく思う自分がいた。
そしてほか数人のメンバー欠席のままワンマンライブやフェスへの出演。
その度に聞こえてくる「不在のメンバーがいても素晴らしいパフォーマンスが繰り広げられている!」という賛美の声。
そうだけどさ、そうじゃないんだよ。
全員選抜でずっとシングルリリースしてきて、21人でずっとやってきたんじゃん。
それでてメンバー足りなくてもすごいって、休んでる方も出てる方もどんな気持ちなんだよ。
それでも色んな意味での「運営」は滞りなく続いていくの、本当になんなんだよ。
21人がちゃんと健康に活動を頑張っている姿が好きだったんだよ。
それこそ二人セゾンのあの笑顔が見たいんだよ。
(この匿名ポストは、口下手な俺が近しい人間に近況をまとめて報告するための書き込みなので、「ワケわからん」という人は、無視してほしい)
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別の人ってのは、そうだな……あるところで、超っ絶美形、お耽美系おまけにXジェンダーという、やたらキャラが立ってるモデル兼役者さんを見かけたと思ってほしい。
そのヒト、ビジュアルと毒のあるキャラを買われてライブや芝居の客演に引っ張りダコで、思わず本人を確認しにライブハウスに行ってみたのよ。
期待にたがわぬ超絶美形だったんだけど、本題はこの人ではなく(いや、このモデルさんも追っかけるつもりだけど)。
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「ほんとかぇ?」と最初は思った。
その劇団、サブカルとか下北沢とか、そういうのを全然わからん俺でも知ってるくらいの有名劇団で。
旗揚げ公演のときは、ギラッギラのお耽美系女優でキャストを固めていて、そこにサブカル大好きティーンが「あ~ん、お姉さまぁ~」とかいって群がってるような感じで。
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で、その女優さん。
いっつも学ラン、学帽のショタ扮装で、ほんとうに純朴な少年みたいなキャラで、セリフ回しもトツトツとしているし、どっちかというと「あ~ん、お姉さまぁ~」とかいって群がってるサイドのヒトじゃね? と思ってた。
あるときまでは。
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ところがね。
とあるライブのゲストパフォーマンスで2人がコンビで出演した時。
そのままユラっとたちあがって身体を動かし始めたら、いきなり周囲の空気が変わったのよ。
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もうね。
ダンサー。
超ダンサー。
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ボディコントロールの精度とダイナミックレンジがハンパじゃない。
スタイルとしては、最初は土方巽的な暗黒舞踏の系譜かな、と思ったんだけど、見てると洋モノのコンテンポラリーに近い感じ。
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でも、それにしてもね。
ああいう動きは、それこそモーリス・ベジャールなんとかカンパニーとかに10年くらい所属しないと出来ないんじゃないの? まだ若いのに。
そう思ってチャラっと調べたら。
母娘2代、姉妹そろっての舞踏家ファミリーで、子供のころから母君の手ほどきを受け、美大に進学して上京してからは、もう在学中から現在にいたるまで、
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個展で踊る
有名ミュージシャンのMVで踊る
ミニマルミュージックのセッションでゲストパフォーマーとして踊る
そして、誰からもお座敷がかからないときは自主活動として踊る。
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踊る踊る踊る。スキあらば所かまわず踊りだす、踊りの国の踊り姫であることが判明。
(いやマジメな話、ソロのフリーランサーってどこで仕事を取ってくるんだろう?)
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ほかにも。
その女優さん、最初は普通のチンマリした女の子だと思っていたら、ネット上に、背中出しのコスチュームでプロに撮ってもらった宣材写真があって。
もうね、肩甲骨の自由度と張り付いてる三角筋の厚みが、完全にアスリートのそれ。
いやもちろん、シルヴィ・ギエムみたいに絞りに絞った体型ではないけど、学ランの扮装に完全にダマされてた。
完全に本職のダンサー。
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というわけで、がぜん興味がわいたんで、その“伝統の小劇団”の公演を予約して、行ってきましたよ、もう。
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もうね。
シンガー。
超シンガー。
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少しかすれた、でもよく伸びるアルトで、ピッチとアインザッツをガチキープしたうえで、朴訥な少年みたいなキャラクターをいい感じにのっけてくる。
ほぼ本職のシンガー。
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ところで、ここまで劇団の女優、女優と書いておいて、演技に一言もないのは。
だから、客演の寸劇とかで短く少ないリハーサルではアドリブがきかない。
(在学中に自主制作の映画に1本出ているらしいが、内容までは知らない)
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・ただし、所属の劇団でガッチリ稽古をすれば、プロ水準の演技はできる。
実際、主役級のキャスティングを的確にこなしていた。
少なくとも、演技といえば映画とTVしかみたことのない俺にはそう見えた。
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という感じ、なのかなぁ。
(ダンスになると手持ちの材料ですごい振り付けをするのと対照的)
ともかく、その意味ではキャスティングが当て書きとハマり役に限られる感じで、「アクトレス! 超アクトレス!」とは言えない感じ。
まだ今のところは。
案外、早い時期にその域に到達するかもしれないけど。
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劇団の公演自体はおおむね満足。アートでビザールで猟奇的な感じ。
そこで今度は彼女が時おり客演しているバーレスクチームのパフォーマンスに行ってきましたよ。もう。
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で、見てきた印象を簡単に書くと、
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・ダンスを見て、
やはり動きのキレすさまじき。
チップばら撒き、飲み代払いまくりなれど、かぶりつきで見た。元は取った!
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・ダンスが終わって
話を聞こうとしたら、追っかけが周りを取り囲む(俺も含む)。
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もともと芝居好き。
劇団オーナー氏の文芸思想面に共鳴、心酔、ならば何も言うまい。キャリアとか。
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・余談、『草迷宮』以外にも女力士がいるらしい。寺山修司好みのモチーフらしき。
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というあたりで。
……興奮冷めやらぬ中、この3ヶ月の自分を振り返る。
自分は何をこんなに、このダンサー(と周辺の人たち)に入れ込んでいるのか?
あれだ。
何が楽しいかというと、若い人たちが劇団やライブで頑張ってるのを見ると、その、あれだ。
大森望とか小林よしのりがAKBにハマっているのを「自分の娘みたいな年頃のアイドルに入れあげるって、それはどうよ?」とか思ってたのがね、これが自分がハマってみると、
_人人人人人人人人人人_
> スッゲー楽しいの <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
.
そしてね。
この歳になって「和風アングラもいいな」という自分を今さら発見した。
夢野久作とか寺山修司とか麿赤児とか唐十郎とか横尾忠則とか佐伯俊雄とか『ガロ』とか古屋兎丸とか、そういう日本の猟奇的な世界とは無縁で生きていくものだと思っていたんだけど。
これがねぇ。若い人が過去の作品群や事件を掘り返しながら、自分にしてもまだガキだった'60年代の新宿的世界をガチでやろうとしているのが面白くて。
.
ほかにもね。
その女優さんと美形モデル氏を起点に人脈をイモづる式に掘っていくと、面白い人たちが出てくるわ出てくるわ。
誰に頼まれたわけでもないのに、全身を蛍光色にペイントして街角にくり出してフォトセッションをやってるギャルの集団とか。
どこから出演料が出るわけでもないのに、「調香師の貴婦人と助手たち」みたいな架空のストーリーでコスプレ衣装合わせをして、参観料を取って企画として成立させてるコスプレイヤーとか。
.
みんな“何か”になりたくて、
“何か”をしたくて、
でも、それが“何か”はっきりしていなくて。
.
みんな若さにまかせて、アルバイトを掛け持ちしながら、もがいてる。
.
おお! こりゃ、リアル日本版『レント』(と、その元ネタの『ラ・ボエーム』)の世界じゃないのよ!?
いいねぇ。じつにイイっすねぇ。
.
この歳になると、知り合いで創作的なことをやってる人間は、
.
・その周辺で稼げる分野に落ち着くか(←俺のことだ)、
・完全に足を洗って別の仕事を見つけるか
.
どれかになるんだけど、まだ、そのどれでもない状態でやっている、やれている人たちが、まぶしくて、まぶしくて、もう。
.
この女優さんにしてもね。
.
っていう流れに乗る前に、
っていう流れに乗る前に、
.
多少無理をしてでも金と時間を作って四方八方にコネのある舞踏家に師事して、それをテコに国内でも海外でもいいから名前の通ったダンスカンパニーにもぐり込むことを最優先にするだろう。
その後は、
.
・一般人にも名の通ったポジションを取ることを最終目標に、有名振付師のゴーストから経験をつむか、
.
・彼女の母君みたいにレッスンプロとして“ダンスを見たい人”より“ダンスを演りたい人”を客にするべく、行政とかに売り込みをかけるか、
.
・あるいは、ヨーロッパみたいにハイカルチャーに一定の需要がある国にイチかバチか、飛び出してみるか。
.
……10年後、20年後も踊っていたいなら、これくらいしか選択肢はないんじゃなかろうか。
.
でも、おそらく、それじゃ満足できない何かがあって、それに衝き動かされているんだろう。
(と思ったら、海外留学が決まったらしい。いいぞ、行ったれ行ったれ!)
.
ま、ともかく。
独立起業という名の引きこもりになって、はやЖ年。なんか世界がせまくなる一方だった自分の生活が彼女ら彼らのおかげでムチャムチャ彩り豊かになった。
この人たちには、いくら感謝してもしたりないが、直接言うとキモいので、ここでこっそり発言。
.
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170411/k10010943961000.html
こういう節目に際しての文章の中には思いがけない名文がしばしばあるし、浅田真央の事が観測範囲に入らなくなって暫く経つから、
もしかしたら、僕の知らないうちに彼女に何か変化があって、意外と名文に出会えるかもしれない、
期待はずれだった。
そして予想どおりだった。
書かなければいけないことを通りいっぺん書いただけ。
【応援に対する感謝】【これまでの実績】【引退を考えるようになったきっかけ】【引退を決定づけた出来事】【これからの展望】
そこには「浅田真央でなければ書けないこと」が何もなかった。
彼女の最盛期がいつなのかは分からないが、世間の流れに疎い僕でも彼女の存在を認識した訳だから、
多分、選手としてはかなり能力の充実していた良い時期だっただろう。
当時、テレビで見る度に、なにやらレポーターや解説者達が興奮して誉めそやし、確かにいい得点を出していた。
しかし、すごいはずの彼女の演技を見ても自分の中にはなにか漠然とした印象しか残らなかった。
「技術的にはすごいんだろう」
自分はそう思った。
そうも思った。
しかし、現実には芸術点でも高い得点を出していた。それも結構安定して。
(多分そうだったと思う)
正直、自分の感性がおかしいのかもしれないと思ったし、今でも少しそう思う。
しかし、自分にとっては、例えば村主章枝や安藤美姫や高橋大輔の演技のような迫力・表現したいという欲望を感じなかった。
かと言って、例えばプルシェンコのような優美さも見受けられなかった。
ただ無機質な身体の動きがあるだけだった。少なくとも"表現"と言うにはあまりにも味わいがなかった。
それは"言葉にならない言葉"を全身から振り絞ることでないのか。
形にしきれない情念を見るものに対し訴えかけることではないのか。
あるいは、興奮や緊張、その上にのみ存在する楽しさなど、自らの心向きを寡黙な雄弁さで伝えることではないのか。
僕の言っていることがピンとこないなら、例えばバレエを見てほしい。
若手の登竜門であるローザンヌコンクール、中でもコンテンポラリーがおすすめである。
ともあれ、彼女は確かにアスリートなのかも知れないが、芸術家ではなかった。
初めのころはお子様だから仕方がないと思っていたが、いつまで経ってもそうだった。
ただ技術を高めたいというスポーツマンとしては立派な動機があるばかりで、
僕はそんな浅田真央が嫌いだった。
2020年東京オリンピックが決定した9月8日早朝。その日、我々日本人は否が応でも7年後の日本を想像せざるを得なかったわけだが、日本の未来を予感させる出来事は同日夜の恵比寿リキッドルームでも起きていた。
今回のライブは、ceroとして久しぶりのワンマンライブだった。タイコクラブに始まりライジングサンに至るまで、全国津々浦々と様々な夏フェスに出演してきた彼らは、一回りも二回りも成長した姿を見せてくれた。ボーカルの高城は自ら今回のライブを「文化祭」と形容したが、オープニングアクトの表現(Hyogen)や、サポートメンバーの面々と力を合わせて作り上げられたステージには文化祭のごとく熱いエネルギーが集約されていたと言えるだろう。
満員のリキッドルームで観客たちが開演を待ちわびる中、開幕したステージに現れた高城。ZAZEN BOYSよろしく「死ぬほど練習をして、マツリスタジオで練習をぶちあげてきたので」と観客から笑いをとる。そして、告知されていなかったオープニングアクトである表現を紹介するとさっと身を引き、表現の演奏が始まる。
アコーディオン、バイオリン(一曲目のみ)、アコースティックギター、ウッドベースの4人組からなる表現はceroと関わりの深いバンドだ。ギターの古川は高城と高校の頃からの知人であり、その後もceroと表現で互いに切磋琢磨してきた仲だ。お互い尊敬しあえるバンドとして成長を遂げた両者が集い、久しぶりの対バンとして出演する彼らを見て高城は舞台袖で涙を流していたそうだ。
さて、表現の演奏はというと、全員がコーラスを務めているのが特徴的だ。セリフのような歌詞をメンバー全員が声を張って歌いあげる様はまるでミュージカルのようである。スキャットやハミングを多用し、途中ポエトリーリーディングのようなシーンも挟まれることによって、声の持つ魔力を改めて感じさせられた。もちろん楽器の演奏も素晴らしく、アンプラグドな楽器のアンサンブルによるオーガニックなサウンドは、その名に恥じぬオリジナルな「表現」となっていた。ceroがコンテンポラリーでエキゾチックなロックオーケストラであるのと同様に、彼らもまた名前通りに素晴らしいバンドであった。
ceroを見に来た観客も大満足のオープニングアクトであったが、ceroの開演までは20分ほどの転換があった。幕の裏から聞こえてくる様々な曲の断片は、これから始まる演奏への期待を高めるには十分だった。
いざ幕が上がり、「セロセロセーロ」と叫び続ける入場曲と入れ替わりで始まった一曲目は“水平線のバラード”。ステージには点滅する6本の蛍光灯を背景に、メンバーが立っており、イントロはスタジオ版にないトランペットから始まった。しっとりとした雰囲気で始まったステージだが、ノルウェイの森風のイントロから入り軽快なラップが冴える二曲目“ワールドレコード”でフロアのテンションは急激に引き上げられる。続く三曲目“マウンテンマウンテン”の4つ打ち部分では後ろの方までほぼ全員が音に身を委ね踊っていた。
盛り上がった後一息つくかのように挟まれたMCで、高城はceroと表現の辿ってきた道を振り返る。そして「世界で唯一表現の全員とデュオを組んだことがある人」と名乗る荒内を「音楽ビッチ」呼ばわりするなどしてステージが暖かな笑いに包まれたところで次の演奏へ。
いつの間にかステージから消えて戻ってきた高城。傘を片手にレインコートを羽織った高城が歌うのは“21世紀の日照りの都に雨が降る”だ。続く“エキゾチックペンギンナイト”では「パーパパパー」と全員が高らかに叫び、フロアをより一層祝祭的空間へと引き込む。少し落ち着いて始まった“クラウドナイン”も結局はcero特有の「祭」感へと収束していくのだった。
二度目のMCはサポートメンバーの紹介から始まる。今までになく多くのサポートメンバーを迎えた今回は、ceroのメンバー3人+サポート5人の8人編成だ。トランペットやスティール・パンをこなすマルチプレイヤーMC sirafuのみならず、サックスやタンバリンを担当したあだち麗三郎、表現での演奏とは変わってパーカッションの古川麦、ドラムの光永渉、ベースの厚海義朗という5人のサポートメンバーがそれぞれ紹介される。
ひと通りメンバー紹介が終わると、スタジオ版に比べて遅く重厚な“大洪水時代”のイントロが始まる。この曲から始まったVIDEO TAPE MUSICによるVJは、フェイザーのかけられたノイズギターと相まって、我々を水中へと誘う。そして、ノイズの海の中へと一筋の光が射すかのように響き渡るのは、高城によるフルートの音色だ。最後には全員がしゃがみ、背景であったスクリーンが前景化される。水中の映像、そして流水音のSEと水の映像しか受け取ることの出来ない状況はまさに大洪水時代といったところか。そして、海つながりで次に演奏されたのは“船上パーティー”。VJには男女の横顔が交互に映り、高城は一人二役でセリフを言い合う。スタジオ版でも印象的な「ちょっと待った!」のセリフの後はじれったいほどのタメにより、聴衆をより一層演奏へと引き付ける。そうして引き付けられた我々観客が次に耳にするのは新曲、“我が名はスカラベ”。メルヘンチックな歌詞とVJは、初めて聞く我々も十分楽しめるものであり、聴衆はみなceroのニューリリースへの待ち遠しさを煽られたに違いない。
新曲披露後のMCでは、大洪水時代から加わったVIDEO TAPE MUSICの紹介。そして最近高城のハマっている「文化祭」というキーワードに関連してTwitterにおける高校生のつぶやきや、ceroのメンバーそれぞれの思い出などと話が弾む。
再びメンバー紹介から入った曲は“Contemporary Tokyo Cruise”。本ワンマンライブの表題曲とでもいうべきこの曲ではミラーボールがきらめき、最も「祭」感のある曲だったかもしれない。そして音は途切れることなく、思わせぶりな長い間奏から始まったのは“マイ・ロスト・シティ”。2ndアルバムの表題曲でもあるこの曲では「ダンスをとめるな」という歌詞、その通り踊り続ける客、ダンスをする人々を映すVJが一体となっていた。
短めのMCを挟んだ後、演奏されたのはまたもや新曲、“yellow mangus”。ムーディーなサックスから始まり展開されるのはceroお得意のディスコビート。そしてこれまた長めの間奏からはじまるのは“わたしのすがた”。途中挟まれる8ビートの部分では赤い照明が似合うほど激しい展開で、普段とは違った一面を見せてくれた。
最後の曲の前には今後の活動を仄めかすようなMCを挟み、演奏されたのは“さん!”。観客と共に「いち!に!さん!」と高らかに叫んだ高城は29歳の文化祭、最後の盛り上がりを演出した。
しかし、我々の文化祭はまだ終わらない。アンコールを期待する拍手に応えて登場したのは高城と橋本。残りのメンバーも続々と登場し、最後の最後に演奏されたのは“大停電の夜に”。ゆったりとしたメロディーはまるで蛍の光のように、我々を切なくも満たされた気分へと導き、文化祭は幕を閉じた。
実は、最後のMCにおいてなんとも頼もしい言葉があった。高城は、表現やVIDEO TAPEMUSICのような仲間たちを見ている中で「日本の音楽がこれからまたちょっと変わっていくんじゃないかな」という実感を述べた後に、「俺達が変えるぞみたいな気概を感じている」と宣言したのだ。変わりゆく東京の風景、そして変わりゆく日本の音楽シーン。7年後、東京オリンピック開催を前に我々はこの日をどのように思い出すだろうか。29歳の文化祭には「ここから何かが変わっていきそう」な予感、そして希望に満ちあふれていた。あの晩、もしかしたら我々は時代の目撃者となったのかもしれない。
大分話がでつくしてきたようなんですが、ここ4、5年日本の現代思想やコンテンポラリー・アートの業界にうとかったので、色々、わからないこと疑問になっていることでてきました。
無尽蔵に、彼ら的な言葉でいえば機械的に、作品(前芸術てきなものも含めた)が創造されていくネットをアートにすると。「ネット」と「アート」の分断を克服すると。
ただネットというのは結局現象ですよね。ファイン・アートの意味的に作品にはならない。
ある意味でその非・固定、永久に、automaticallyにつくりつづけられるシステムとしてのネット、を、どうしてピンで昆虫採集みたいに物理的に止めてしまうのか?そうしたらもうそれは『ネット→現象』でなくて『アート→作品(芸術としての)』への変換にすぎないんじゃないの?
いちばんよくわからないのが、東氏がいうところの、いわば郵便的可能性をネットがもっていると、そういうところを、まあアートでやると。
で、その郵便的な話をちゃんと喋れる東氏が理論的に助けててどうしてこんな単純なことに気付けなかったのか?????
素朴に疑問。
前段の疑問を百歩ゆずったとして、そもそもネットとアートを分断を克服するって?分断していたの?
このへんがよくわからない。
ふたばとかPixivが、機構としてコミュニケーションの速度と多様性を支援しているのはわかるんだけど、それってカフェや飲みや、パーティーなんかで芸術家が出会ってベラベラしゃべったり酔っぱらったり、その場でなんかやってみたりしてたのと、構造的に同じではないの?そーいう場にたまたまいた人が一緒にもりあがって、なんかになっていく感じも同じだし。創作の過程という意味では全然分断していない。
彼らは発表の機会が云々とかいっているのだろうけど、そういうカフェや飲みやで話したりドンチャンしたことが作品?Pixivではポートフォリオとして使っている人もいるけど、ポートフォリオは静的で、彼らいっているところの機械的につくりつづけられるネットの有り様ではない。
加えてもしここでいうところのアートを近代的な(ファイン・アートの伝統の延長線上にある)アートではなく、語源としてのアート、技術や創造そのものとしたら、ギャラリーとネットにある作品をわけることは始めからありえないんじゃないの????
これはどうしたいんだ??
■アーキテクチャ?
カオスラウンジ宣言に出てくるアーキテクチャという概念を東氏は引っ張っているようだけど、これってなに?
システムと力の話?ということはマルクスの疎外とフーコーの力と、構造主義・ポスト構造主義における社会への眼差しがやってきたことをまぜて焼き直しただけ?
浅田彰が「そんなことはもうやってきた」ってのはそのとおりじゃないの?
なにがしたいの?
最初はお祭り騒ぎなのかーっと自分も参加して面白かったけど、なんだか疑問ばかりになってきた…。
誰か説明してほしい…。モヤモヤ。