はてなキーワード: メルヘンとは
単なる憶測にすぎないが、田舎でそれなりに立場のある親の子どもは、ガキのころに天狗になりやすい。
しかし都市部の大学に出たときに自分の実力を思い知る。今まで見えていたものは単なる幻想で、自分など大したことはなかったと。ここで非常な挫折を経験する。
「私がいちばん馬鹿」のようなポジションになってしまうとその中でもより挫折しやすい。これは都市部の私立高校でも発生する。
昨今では、地方と東京の断絶が進み、学歴差も大きくなっている。田舎しか見たことがない子どもは、東京の強大さを全く知らないのに「自分がナンバーワン。少なくともだいぶ優れている」と思っている。自分の田舎を100倍したものが日本のすべてだと感じるのだろう。だから、位置的にもそのようになるのだと感じるのは自然なことだ。「日本」と「アメリカ」の関係もあるが似たようなものだ。
こうした子どもが首都圏に行くと自分が味噌っかすであることを全身全霊・魂レベルで経験することになる。そこらへんのどこにでもいる凡愚とされる。準備などしていなかった衝撃である。年々、この落差がどんどん激しくなっているように思う。
彼らは「地元の名士」の子どもでもなかったりする。地元の名士は何かと東京と繋がっているものだからそういう情報が入ってきやすいが、彼らはそういう情報がなく、表面的な文化の部分でのみ都会を理解しているのである。これはしかし原理上どうしようもないことになっている。
彼らのほとんどは挫折によって苦しみながらも自分の立場をなんとか確保して成長していく。とくに、若いころから苦い経験を飲み込んで努力を積み重ねてきた人間は、問題を抱えつつも人格的にも能力的にも徐々に成長していく。こうした人間は適応し、確固たる居場所を獲得する。そういう人々が家臣団として東京周辺にザッと住んでいるのだ。城下町のように、家来として東京の中心地を囲んでいる。そして主君のお望みの通りに馳せ参じるのである。また、各々の人生を歩む。よく成功しようとしたい者は海外に出る。海外というのは「アメリカ・イギリス・EU」などのことだ。ここ最近は主君をアメリカとみなしているのである。長いものには巻かれろということだ。
しかし、大した努力や積み重ねもなく、今まで1番を獲得し続けてきた子や、親から1番になること、1番でなくともある程度優位な立場を得ることを強いられ続けてきた子、強制的にレール上を歩かされてきた子は、ここで強烈に挫折を味わい、脱落していく。「挫折」と表現されたくすらないかもしれない。ちっぽけなプライドゆえに「挫折」と捉えられない。「挫折した」のではなく、「今も挫折し続けている」のだ。立ち直る術を知らない。
「本気を出してないだけ」「時代が悪かった」「環境が悪かった」と、なんとかして知性化という合理化を図り、自分の心が折れていることを観測できない。もう耐えきれない。心を捻じ曲げようとする。「お前ぐらい勉強ができるものは無限にいるぞ」と受け入れられない。そのような「田舎」など、全国で見ればほとんど無限にあるのだ。足軽にもなれないような実力なのに、身分は家老ぐらいあると感じている。穢多・非人程度の扱いをされるのは、到底受け入れられない。
自分を知らないし、他人のことも知らない。ただただ軽視されることに耐えられないのである。第一、もはや身分が違うからといって人を軽んじていい世の中ではない。ますます生きにくくなる一方だ。ポリティカルコレクトネスとはそういう流れだろう。
生きている意味とは何かわからない。親もまた、その挫折を真剣に受け止められない。立場が違いすぎるがゆえに、わかってあげることができないのだ。わかってくれるような親ならば、初めから違った教育をしている。
彼らは、性格も歪んでいるために、友人関係を結べない。「バカで無能で愚図でおまけに性格も悪く、カッコよくも可愛くもなく、一人で生きる力も無いし、人のために何かすることができず、依存性が高く、他の周りの人たちよりも恵まれた環境なのに文句ばかり言う割に、他人の助言を聞き入れもしない」という、どうしようもない子どものできあがりである。何者かになろうとしていると表現されている。アイデンティティの崩壊がある。すぐそこに救いはあるのに、自らが軽んじている相手に頭を下げて敬意を払うことができない。この私が。屈辱だ。なぜ私がこんな目に。私は軽蔑などされるべき対象ではなく、人を一方的に軽蔑しても良いはずなのに、なぜ人は私を軽蔑してくるのだろうか。なぜ人は精神を蝕んでくるのか。
わかっている人でも、これを鋭く指摘してはくれない。下手に関わって逆恨みされたくはない。全く無関係の嫌な奴の精神の奥深くを抉ってもメリットなどないのだ。すぐに離れていくことだろう。そもそもあまりに距離が遠すぎて、そういう人に出会うことがない。ただ運のみである。そういう運命の人がたまたま自分の近くに来ることは少ない。理解のある彼くん、私の王子様、ぼくの女神さま、オタクに優しいギャルなど。
大抵、こうした子の親は両親とも毒親であり、子どもはアダルトチルドレンである。
そして親にそこそこの金があれば、脱落しても引きこもりをすることができる。
自分がゴミクズであることを受け入れて、セルフネグレクトに邁進する日常を選択できる。幸福だ。絶望という名前はついているが、幸福で穏やかな毎日を送ることができる。
何をやっても無駄なのだという学習性無力感と精神の麻痺。突然湧き上がってくる希死念慮。荒廃した生活。死ぬという選択が取れない優柔不断さ。他責的・他罰的な発言。努力をしようと「学問」に活路を見出すも、それをどう活かせるのかは未知数であり、どうすれば生きることができるのかはわからないのだ。学問は決して救わない。機械的人間を大量生産する教育システムそのものが時代遅れなのである。経済の硬直化と後進性と長老支配。学問の民主化により、昭和初期の三流エリートぐらいの知識があるだけでは、生存には足りないのだ。自分の力での生き方はわからないのに、生存自体はし続けることができるという矛盾。欲が無い。欲を持つことができない。
そして、そうした努力も長くは続かない。学校の勉強ぐらいしか知らないのだ。狭い価値観ゆえにそれしか道がないと勝手に思い込んでいる。やがて意味がないと気付くのであろう。容易にやめてしまう。簡単にたどり着けるところまでやったあとはすぐにやめてしまう。見下していた賤業には就きたくないという都落ちを拒否する愚かなプライド。山月記で何を学んだのだろうか。そしてある日、その「賤業」にすら就けなくなる。精神は子どもなのに、体だけはしっかり老化していく。虎にすらなれないのだ。
親に中途半端に金があるのが厄介である。親は、償おうとする。子もときには努力しようとする。それでもうまくいかないし、近所は理解しない。何か精神的に異常なのであろうという、全く異なる価値観によって蔑まれる。それが村社会というものだ。
親に金がなければ、生きていくために自力で仕事につく他ない。首都圏で揉まれ続ければ、やがては苦しみながらも自分の生きる場所を確保できるだろう。
しかし、ただ親元で小さな世界で何年も何年も閉じた生活を送っていると、そうした道も閉ざされる。貴族的な生活。放蕩、放縦。嫌悪している相手に依存しているという忌避感。
年齢の数値は淡々と増えていく。やがて手遅れそうなことに気付くのであろう。
なんなのだこの人生は。なんなのだこの世の中は。許しがたい。テロリストたちへの深い共感。
人は言う。「自分が招いたことだ」「自己責任だ」と言う。この世には悪しかいないように見える。悪辣な社会の中で自分だけが虐げられている。他人に「自己責任だ」と言う者もまたコンプレックスを抱えている。「お前が悪いのだろう」と言いたいのだ。「お前の自己責任だ」という言葉は、「俺が悪いとでも言いたいのか?」の裏返しだ。
他人は楽しんでいるではないか。どうして私が苦しまなければならないのか。
異世界かもしれない。異世界に行けば、愚かな民たちを嘲笑い、自分が正しく認められる世界に行けるのではないかと、光を見出す。
更に狩られているだけなのだ。その精神は看破しているぞ。ただの餌だ。空想の世界へようこそ。現実を直視できない。現実はどうしてこう苦しいのか。
しかし、現実は「そんなどうしようもないものではない」ということをまだ知らない、という点が彼らにとっての最大の不幸である。価値観そのものがどうしようもなく古いのである。
自分がどうしようもないダメ人間だという真実をすべて受容して、それを打ち払おうと一歩一歩踏み出すことでしか道は開かれない。外に出て、本を読むなど世界を広げれば良い。また、生活パターンを変える。思考を広げる。それが本来の学問というものだ。
人材は不足している。別に自分はそういう人物なのだから仕方がないのだ。でもそれを、自分で変えようと進み続けることで自分の人生が拓かれる。ニートのままでも別にいい。全然変わらなくてもそれはそれで仕方がない。
本来、絶望する必要はないはずなのに、どうしても絶望したいのだ。能動的に幸福になるために受動的に絶望を選択している。
絶望することで、「ハンデを負っているのにここまでできる自分はすごいのだ」と思いたいのだ。セルフ・ハンディキャッピングという。
そうではない。より強い絶望を選ぶべきなのだ。能動的に絶望を選ぶことで、受動的に幸福になれるのだ。自ら絶望しなければならない。今より苦しめば、今より苦しまなくなる。
苦しみからずっと逃れようとして「楽な苦しみ」を選び続けているだけなのだ。世間はそれを看破して「楽でいいね」と言っている。世間側のイラつきもある。
もしくは、やはり目を閉ざして、元の穏やかで苦しいメルヘンワールドに戻るかだ。知らぬが仏という。こんな偏見にまみれた文章などくそったれだ。せいぜい凡人たちは、社畜を頑張れば良いさ。
教育ママも、また、気をつけなければならない。教育ママのコンプレックスは、子どもを愛玩動物のように扱おうとすることで子どもに伝染し、子どもを生涯苦しめることになる。愛と呼ばれるものではない。
頑張ってほしい。
おっさんだけど、今日仕事で電車乗ったんだ。ずっとリモートだったから久しぶりに。
もう週末で結構街中賑わっていて外国人観光客と思しき人達も沢山いたんだけど、
アジア系の、タイとかカンボジアとかの感じの若い女の子達がいて、ピンク色とか緑色の髪色なんだけど、
めちゃくちゃロマンチックメルヘンチックな白いレースのワンピースとか着ててちょっと驚いた。手入れがすごく大変そうだから。
日本の女子は今あんまり洗濯とか大変そうな服着ていないと思っていたので。
それとは別に、アニメのイベントがどこかであったようで、アニメっぽい服装の女の子が電車に沢山乗っていた。
よく見るとあからさまに自作っぽい。2,30年前だとあからさまに自作っぽい服を街中で着ている人はあんまりいなかった。
当時は服の偉さが序列化細分化されていて、「ピンクハウス着ているような奴」とか「コムデギャルソン着ているような奴」
みたいな細かいシナリオパターンに分割されていて、安い手作りの服着ているのは貧乏人か、水商売と決めつけられていた。
今はサンカクヤとかで生地とか買ってデジタルミシンでがーっとアニメのお姫様ファッションを普通に作ってピンク色の髪色で
かわいく着てしまう人たちがたくさんいるのだ!なんと!とちょっと感動した。戦後のドレメ式洋裁教室もびっくりではないか。
某女児向け作品が男キャラしか出ない作品を発表し、割と燃えている。
近年子供向けターゲットだけでは成り立たないのか、いわゆる声優推しや過去の視聴者(大人)に向けたサービスが増えていたものの、流石にずっと女子キャラで続けてきた作品でその展開には少し言いたい人が多いのだろう。自分も懐疑派である。
男の影が嫌というオタクもいるにはいるにはいるだろうが、今回の問題は個人的に子供の方を向かない売り方に見えて気に入らないという考えだ。
自分は子供向け作品が好きだ。幼少期支えてくれたし、独自のポップでカラフルなデザインも好きである。また、子供の方を見て一生懸命作ってくれてたのが好きだったのだ。
当該シリーズも本当に大好きだったし、大きくなっても現役シリーズグッズを買っていた。しかし近年、子供というより大人を向いたマーケティングをしていることは正直否めない。
エログロ描写はない。あってはいけないと思う。しかしそこさえなければいいというものでもないのではないだろうか。
社会に向けた熱く激しいメッセージを放ち、放送後に「名言登場!」のようにニュースサイトに掲載される。新たな属性のキャラクターを出すごとに「史上初!」とやはりニュースサイトに載せる。ウン年出さなかったのは公式なのになんで自慢げなんだといつも思っている。そういう親宛なのか世間宛なのか分からないが、いい子とか進んでるアピールをするのがどうにも苦手だった。懐古で申し訳ないが、初期の暴れてるアンタッチャブル感に興奮したし、そっちの方が楽しかった。
しかも、そういった意識高いアピールをする割にアイテムが眩しすぎて怖いとか安全性はどうなのかという感想を載せられている。本末転倒としか思えない。意識高い作品を作るなら相当な覚悟と気を使うことが必要であろう。
……などとは常々感じていた(凄く好きな最近の作品もある)が、子供向けなら子供が楽しければいいかと堪えていた。しかし大人向けの新プロジェクトが始まってしまったのだ。子供向けシリーズの名前でやる必要あった?と言わざるを得ない。いくら話が良かったとしても、ターゲットの設定がどうにも気に入らない。(個人的に男キャラが沢山出てくる作品にも好きな物は多いが、なんでも組み合わせるものでは無いという立場だ)
だいいちアニメチックに可愛く活躍したい男の子に向けた男キャラをようやく最近出したのに、すぐさま大きな女のお友達向けな男キャラを大量に出してくるのは、男の子が可哀想である。そんな活躍の仕方しか出来ないのかとなりそうなものだ。
子供の気持ちだと、意識高くて難しい子供向け作品より作画もよくグッズも豊富で色々な人が活躍していて大人達も真剣に楽しんでいるような深夜アニメの方に興味を示すのが当然であろう。
具体例を出して申し訳ないが、セーラームーンが未だに多くの元女児達に熱狂的に愛されているのはうさぎの物語に終始し完結させ、その物語をずっと大切に扱った売り方をしているからであろう。未来のうさぎの姿も既に出ているしスケールが大きくファンタジックであることも大きい。元女児はいま社会で頑張っているだろうが、キャラまで大人になりリアルの社会で頑張る必要もない。
だからこの作品も大人向けにしたいなら1回子供向けの方に区切りを打つか、ひたすらメルヘンな大人向けに終始した方が良いと思う。
区切りが着いた方がいいなんて思いたくなかったが、公式にはもう少し過去のファンと今の子供を大切にして欲しい。した方がいい。
行っても、愛は得られないよ。
一方で、コンカフェは違う。
まず、世界観がフワフワしている。
そう、非モテが学生時代に戻ったとして、陽キャみたいなモテ方はしない。
フワフワした、なんとなく周りに女の子がいる状況で、「たまに話をできた」、「消しゴム拾ってもらえた」、「クラスの係で一緒になった」こんな感じが、青春の思い出だろう。
しかし、コンカフェは、「コンカフェのクラスの女子たち」の1人1人とお話しする感じ。
彼女たちも、クラスにいて、自分はたまたま少しだけ仲良くなれた。
それくらいの距離感。
ガールズバーだと、「飲み」の感じが強い。
※10月からの本放送は1時「25」分から 12月はなぜか「60」分枠に
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・01 ツバキ(科
・02 ルンバ
・05 『HUNTER×HUNTER』 ハンターハンター
・07 愛媛(県
・08 スウェーデン
・01 [近似値]3648(スクリーン
・03 [近似値]52.05%
・01 [国]ネパール
・02 2(番
・03 ハンギョドン
・04 18
・05 [ペア]3番と5番
・07 1(番
・08 ボリビア
・01 大納会
・03 第)4(楽章
・05 青(の時代
・06 [3択]有馬記念
・07 マントル
・08 ジャマイカ
・09 え
# ヨーコ
確かアルバムを出したくらいのタイミングでヨーコヨーコに改名してた気がする
https://diskunion.net/punk/ct/detail/IND6521
このバンドも渋谷屋根裏の同じライブに出てた気がするんだけど、正直記憶があやふや
ソロは「ロール」とか「こわいおもい」とかが好きだった
https://www.amazon.co.jp/%E5%88%BA%E7%B9%8D-%E5%80%89%E5%86%85%E5%A4%AA/dp/B00C6S859W
タイトルコールで「ぶるぶる」って聞こえてそういうタイトルなのかなと思ってずっと聞いてたけど「ブルーブルー」だったのを覚えている
歌詞の「ブルーブルー」のとこも全部なんか震えてる擬音だと思って聞いていた
ボールペンで書いたような花とかギターが書いてあるデモをよく聞いていた
めちゃくちゃ好きだったんだけど検索しづらいせいかインターネット上に情報が全然ない
Mr Freddie Mercury もヨーコもそういう理由で改名したのかな
https://diskunion.net/DU-X1_audio_player.html?id=IND6521&disc=1&track=1
アトピー性皮膚炎という曲があった気がする
「したいしたいしたい」みたいな歌詞だったような
また聞きたいが手段がない
# 一萬P
どのタイミングで知ったのか全く記憶にないが、この界隈のライブによく出ていた気がする
目の周りを赤く塗るのかっこいいなと思った気がする
ぱっとみメンバーの雰囲気に全然統一感がなくてなんか筋肉少女帯っぽいなと思っていた
メタラーっぽい格好の人が「踊れ!」のリフで反復横とびみたいな動きをするのが好きだった
https://www.youtube.com/watch?v=zoX9nh3ei4Q&ab_channel=yoppi
夏の魔物でも見た
ぱんだ号(だっけ?)が到着してまっすぐ会場に向かったらもう一萬Pの演奏が始まってて急いだような気がする
「生粋のロックンローラーに生まれたかった」「車、火をつけて(こんなタイトルだっけ?)」が好きだったような気がする
https://www.youtube.com/watch?v=o58CkRDrt8g&ab_channel=yoppi
# The Next
後に The next! Liddell 1974 に改名して、その後更にネクストリデル!に改名していた
だいたい全部めちゃめちゃ単純なリフで始まって、ベースがひたすらルートで、メルヘンな感じの歌詞だった
「ピーターパンシンドローム」「ベイビーアイスクリーム」が好きだった
界隈なのか時期なのかわからんけどテーマソングを持ってるバンドが多くて、ライブの1曲目はテーマソングで始まる、みたいなパターンかっこいいなと思っていた
The Next もテーマソングあって好きだった気がするんだけどどういう曲だか忘れてしまった
聞く手段もない
https://www.youtube.com/watch?v=oiVO5VHCVGo&ab_channel=ThenextLiddell
https://www.youtube.com/watch?v=LVIKvLIv13I&ab_channel=megmeg
なんか黒い背景でメンバーが一列に並んでるようなジャケットだった気がするんだけど
# OKAMOTO'S
女王蜂というのがなんかすごいらしいときいて本八幡で見たライブで対バンしてた
女王蜂すごかった
ワッツーシゾンビも好きだった
http://live.tsushimamire.com/?eid=1455247
「マダラ」が好きだった
長い曲ってかっこいいなと思っていた
https://www.youtube.com/watch?v=li6G6wQXG4E&ab_channel=%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%BC
かりそめ天国にて
「交通系カードでチャージ金額が前の人より多いと『勝った!』と思う。他にもサウナで他の人より長く居ようとしたり、回転寿司で隣の人の皿の枚数と比べたりする」
という投稿があり
マツコも「バスに乗ったら一番最初に降車ボタン押さないと気がすまない時期があった」とか言ってた
いい大人(下手したらジジイやババア)がこんなことやってるなんて反吐が出る
何者にも成れなすぎて、くだらないことで勝手に競って悦に入ってるのか?
頭おかしいのかな?
「誰にも迷惑かけてないだろ」「自分の中でのレースなんだから別にいいだろ」とか言われても、「いえ、気色悪いです」としか応えられない
「1人で勝手にやってる」って自分で思ってても、周りから見ると目の色変わってて視線の動き不審で明らかオカシイかんね
否、今日びの小学生の方がまだ高尚じゃないか?くだらないことに血道を上げたりしないで堅実に、手堅く、守りに入る。粛々と身の丈に合った人生を送ろうとする賢さがありそう
(その一方でとんでもなくメルヘンというか異世界脳でイカれた部分もありそう。あと、昔の人間以上に同一性を尊重するところがイカれてる感じ。それも超保守たるゆえんか)
…っていう勝手なイメージがある。いずれにせよ、昭和以前生まれの人間よりはマシな思考回路してそう
昭和以前生まれ主体の日本では、糞みたいな競い合いを喜んでするカスが大手を振っていたイメージ。一般市民でも半グレみたいなのとか
戦後まもなくまでくらいなら多少のイリーガルも分かるけど、高度経済成長とか吹いてた時期でも闇市気質とかまかり通っていたイメージ
スイカのチャージ額で競ってる様な人間は、旧態依然のカス気質を持ったまま現代に生きてるんだろうなあ
ああ、嫌だ
この3部作やエッセイ漫画「ほのぼの劇場」からさくらももこを追いかけてきた人は大体似たような気持ちになったんじゃないだろうか
そんなことない?
そしたらごめんね
とにかく、メルヘン翁で爆笑し、ぶさいくで憎たらしい猫の残した抜け毛で涙した
海外で豪遊、宝石を語り、ビートたけしが自宅に現れ、みーやんと結婚、ビートルズで離婚、よくわからん男と再婚、そして死んでしまった
その間にはまじが自伝を出したりしたけど、まあそれはいい、読んでない
もうね、読者とエッセイ内の自分との距離感?みたいな?バランス感覚?みたいなのがどんどん消えていってしまった
会社で居眠りして原因を問いつめられ、マンガですと格好良く答えた挙げ句クビになるみたいな
みんなそうでしょ?
え?ちがう?ごめんなさいね
別に死人にむち打つわけじゃない、好きだったのは本当なんだ
難しいね
OP曲と映像が好き。最終話まで一度もスキップしなかったのはもちろん、作業中にサブモニタで延々ループ再生するぐらいに。第一印象は「AKBっぽい」。「いやむしろ乃木坂とか欅坂とかか? 1曲も聞いたことないけど」と思いつつ作曲家で検索すると実際に乃木坂46をメインにAKBグループに楽曲提供してる人だった。ワイの耳も捨てたもんじゃないね。
つーかそもそもオーダーが「AKBっぽく」だったのかもしれない。原作は未読で分からんが、少なくともアニメは秋元康の世界観に片足をつっこんでる感じがある。象徴的なのはOPで70秒ごろに流れる、3組の女の子たちが目をつぶりながら体育館のステージに座ってるシーン。OPで流れる映像は、基本的に蝋梅学園での日常を切り取った物と言えるが、あそこだけはその見方が成立しない。日常の中で、16人もの少女が、素足の制服姿で、目をつぶりながら身を寄せ合い、体育館のステージに座る、というシチュエーションが自然と起こることはありえないからだ。平たく言えばあれはフェチズムであり、少女、制服、教室への信仰である。
本作を見た人であれば少女や制服に対するフェチズムが詰まった作品という評価に異論はないだろう。少女の脚を接写するアニメといえば『けいおん!』を思い出すが、あれはフェチズムからやや遠い。アニメ『けいおん!』における手や脚の描写は、感情やキャラクター同士の距離感や場の空気の表現であり、我々は、手の微妙な動き、スカートから伸びた脚の並びなどからそれらを読み取ることを要求される。それは『けいおん!』が、というより監督の山田尚子の癖と言って良い。『リズと青い鳥』でより直截的に用いられたことは記憶に新しい。
一方の『明日ちゃん~』はフェチズムのそれだ。かきあげた髪束からこぼれる何本かの細い髪、制服用のハイソックスを穿く時の布擦れ、口元から髪を払う時に撓む唇の柔らかさ。それらに読み取るべき意味はなく、ただそうあるように受け取ればいい。
ストーリーに目を移せば、コミュ強の小路がクラスメイトたちを次々と篭絡していく無双モノといった趣がある。優れた容姿や持ち前の行動力は元より、相手に興味を持って積極的に話しかけるスタンスが小路を圧倒的コミュ強にしている。
まだ何も知らない同士なのに
どうしてなの もう君のことが好き
君に思っていたの 密かにずっと
OP『はじまりのセツナ』の歌詞だが、これは特定の誰かではなくクラスメイト全員に対する小路のスタンスを示している。OPで小路がクラスメイトの誰かの手を引いて駆け出すシーンがあるけど、相手が映っていない点が実に示唆的だ。いろんなクラスメイトと談笑するカットが並ぶのも小路のコミュ強表現のひとつだろう。
小路は同学年の生徒がひとりもいない小学校時代を送ったからか、教室という社会の常識からやや乖離しており、周りがブレザーの中でひとりだけセーラー服を着ていくという浮きっぷりから先行きを心配させたが、蓋をあければコミュ無双というプリミティブな気持ちよさがあった。その結実が最終話の後夜祭であることは言うまでもないだろう。
CGDCT(かわいい女の子たちがかわいいことをする作品を指す海外のスラング。日本で言う日常系に近い)の系譜に違いはないけど、部活というインナーサークルが舞台の中心になる日常系部活モノからはやや距離を置く。氷室冴子作品やマリみてのような少女小説の趣もあるが、キャラクター間のヒエラルキーが排除されている点では逆に日常系に近い。そして全体を貫くフェチズムを勘案すれば男性向けファンタジーとしての少女小説、という辺りに行き着くのではないか。
この作品がファンタジーを志向しているのは小路の家がメルヘンに出てきそうなレンガ造りをしているところからもうかがえる。母親はセーラー服を仕立てるレベルで洋裁が出来、車はしっかり2台あって、しかしレンガ造りの家からは雨漏りがする、というのはリアリティラインの設定に興味がないからだと思われる。生徒が1人しかおらず廃校が決定している小学校と同じ地域に生徒150人規模の女学園があり、かつバスで行ける範囲にショッピングモールがあるという設定からも同様の指摘ができる。しかしそんなことはどうでもいいのだ。『明日ちゃんのセーラー服』は「16人もの少女が、素足の制服姿で、目をつぶりながら身を寄せ合い、体育館のステージに座る」光景へのときめきを満たしてくれる作品なのだから。
あと自分のために泣いてくれる他人がいるのって救われるなって心底思った。そういうのをスルッと出してくる、シーン強度への意識がこの作品の魅力だとも思う。
治安がいいというより、小さい犯罪やハラスメントを放置するのが好きで、もみ消すのが好きで、大きい犯罪は目立ちたくないからあまり頻繁に怒らないって感じ
母国だと
ここの森が禿げてきたから緑を増やそうって言えば、素晴らしいな、寄付するよ!手伝うよ!私も緑を増やしたいな!お小遣いで木を買ったよ。森のためだからおもちゃは今月はいらない!僕もいつも森を気にかけてたんだ。僕たちの暮らしを守ってくれてるよね。
みたいな感じなのに、
日本だと
偽善者乙w なんかメルヘンっすねw あー、いっすね。自分はガチャ回して経済回すんで頑張ってくださいw 森を増やしても何も変わらないよ。木を植えた時のデメリットを考えたほうがいい。
みたいな感じ
人種も差別も弱者救済も経営の立て直しも職場の腐敗も一事が万事全部そんな感じ
痴漢や女性蔑視みたいな卑劣で意地汚い事をしてる弱くて直視できないような負け犬がこんなにいっぱいいて、負け犬だって認められなくて赤ちゃんみたいに騒いでるし