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はてなキーワード: 演歌とは

2018-07-20

anond:20180718013950 anond:20180718024831

元増田です。

読んでくれてありがとうございます。ここまでレスが付くのは想定外でした。おかげで自分が言いたいことがわかってきたような気がします。

せっかくなので、演歌批判と、横増田のいう「除霊」について、適当なことを書いてみます

いろいろ書いてきてこういうこと言うのはなんなんですけど、個人的には、モダニズムだとか民族伝統というもの自体はどうでもいいことのような気がしています

自分に信念があるとしたらそれは、音楽にまつわる問題は(反社会的でないかぎり)できるだけ個人的な好みの問題として処理したい、という感じになると思います

演歌の成立過程研究するのはいいんですけど、「学者」ならそれが安易ジャンル叩きにつながらないように注意するべきなのではないか、という思いがあります

まあ自分学者じゃないのでよくわからないですが。

かに演歌というジャンルには、非合理や勘違い思い込みがあると思います。でもそんなのって、どのジャンルでも同じですよね、質が違うだけで。

そもそも音楽というもの自体が非合理や勘違い思い込みにまみれたもののはずです。

なのに、明らかに人気が下火の演歌「だけ」を、非合理だという理由でたたくような空気が「音楽学」の名のもとにつくられている。



あとやっぱり、繰り返しになるけど、ネット上の演歌叩きの空気が気になります

演歌日本の伝統ではない」というふうに言ってる人たちのほとんどは、それがナショナリズム批判だと思ってるふうな感じです。でもそれっておかしいですよね。

演歌はニセモノの日本の伝統

という命題を成立させるためには、

「ホンモノの日本の伝統がある」

という命題必要です。

から、「演歌はニセモノの日本の伝統」という主張をするということは同時に「ホンモノの日本の伝統がある」と言ってるのと同じです。

おもいっきナショナリズムです。




いや、もし仮に、

「ホンモノの日本の伝統とはこれである理由はこれである。ゆえに演歌日本の伝統ではない」

という主張であれば、ひとつ見解としてそれでいいんですけど、そんなことを言ってるひとはいないですよね。

まりネットのひとたちは、無根拠に「ホンモノの日本の伝統がある」ということを自明の前提としておきながら、

演歌日本の伝統」はナショナリズムだ、とかいってるわけです。


そういう空気音楽学の名のもとに作られているのだとしたら、それこそプロパガンダ的だと思うんですよ。




でもなんか、書いてるうちにどうでもいいことのような気もしてきたので、とりあえず演歌批判批判はここまでにしときます







増田除霊については次回。

2018-07-18

anond:20180718013950

横だけど、面白かった。こんな文章増田で読めるのは嬉しい。

 

レスは追っていないんだけど、元増田

はいっても正直なところ、西洋音楽を基にした音楽を、日本的ものとして認めたくないという気持ちもある。

日本の長い歴史から見れば、西洋音楽が入ってきたのはつい最近のことだし、つい最近入ってきただけの音楽価値観社会的支配的になってしまうのは、なんかおかしい。

西洋音楽を取り入れた日本音楽」であれば、それは過去からの発展とみなすことができるけど、

日本音楽を取り入れた西洋音楽」は、過去からの断絶のように感じられてします。

和声進行を基にした音楽」というのはやっぱり西洋音楽である、というふうになってしまうわけです。

https://anond.hatelabo.jp/20180708114227

 

いや、僕は個人的には、演歌日本の伝統ではないと思ってるんですけど、それは個人主観的価値観なんですよ。

僕はナショナリストなので、日本の伝統はかっこいいものであってほしいし、個人的演歌がかっこいい音楽だとは思えないので、演歌日本の伝統ではないとみなしたい、という「個人の感想」です。

から演歌日本の伝統だと思う人がいても、特に問題がない、はずです。単なる好みの違いでしかない。

https://anond.hatelabo.jp/20180714150641

 

というレスが、目をひいた。

 

これは、近代的自我モダニズム私小説問題だと考えたんだけど、違うか?

 ・元増田私小説家的な立場近代的自我モダニズム自明さを持てない。ゆえに自分日本に拠り所となるかっこよさを探すのを止められない(無いのは知っているが)

 ・増田モダニスト哲学科学など、広く使われる手続きにのっとって、我々の限界を探求しつつ知を構造化するしかない。(拠り所の無さを受け入れて)

って感じで対立している感じ。

見当違いのことを言っていたら、以下スルーしてくれ。

 

俺は、元増田立場に近いところにいると感じる。一方、その立場が無理なのは理解している。なれるなら増田立場に移行するのが理想だ。

から増田がなぜモダニスト立場に立てるのかを聞きたい。言い換えると、音楽において自分の基盤を探りたい欲求を止め、なぜ哲学科学方法で済ませられるのか、を知りたい。

 

日本にいると、幼い頃から身近に学者官僚芸術家がいないと、モダニズム自明ものとみなすのはまだ難しいと考えている。でも、意思の力でそれを引き受けられる人がいたなら、その意見が聞きたいのだ。

 

蛇足だが、もう少しこっちの立場を補足すると

日本的なかっこよさを探してしまう感じ」は、「幽霊に取り憑かれている」や「神経症」と言ってもいいかもしれない。

レヴィ=ストロースは、未開社会にもそれぞれ高度な構造を持った文明があるとしたが、日本開国前に持っていた構造の中にあった、かっこよさの幽霊がまだ潜んでいて、日本人の頭の中に巣食っていると言っても良い。そして幽霊が復活する期待を捨てられない(あるいは、幽霊が復活する可能性に賭け、下部構造を変えようとイデオロギー工作を頑張る)

 

下部構造が変わったから、共同幻想も変わりつつあり、その過程にいるだけ、と言い切れればいんだけどな。

除霊方法が聞きたいんだ。

2018-07-14

anond:20180711205454

どうも。元増田です。

文章書きなれてないせいで、いろいろ伝わらなかったところがあるようなので、もうちょっとちゃんと書きます

音楽学者の輪島さんや増田さんは、新聞とかで「演歌日本の伝統ではない」ということを、まるで客観的事実であるかのように言ってるわけです。

さらに、ネット上のリベラルっぽい人たちがそれを支持するという構造になってしまっていて、僕はそのことを批判してます

増田トラバーのかたがたがおっしゃってるように、伝統というもの自体共同幻想だというのが、とりあえずのファイナルアンサーなわけですよね。

伝統共同幻想」だとすると、

演歌日本の伝統ではない=演歌日本共同幻想ではない」ということになる。

輪島さんは例の演歌本で、「演歌という戦後日本共同幻想」をさんざん分析してるんだから

演歌日本の伝統共同幻想)ではない」

という結論になるのは論理的にもおかしい、ということです。

しかに、例の演歌本には「演歌日本の伝統ではない」ということは書かれてないです。

でも結果的に、ネット上のリベラルっぽい人たちが、あの演歌本を根拠にして「演歌日本の伝統ではない」みたいなことを客観的事実であるかのように言ってるし、

その流れに乗って、輪島さんや増田さんもそういうことを言ってるんですよ。

それはおかしいでしょ、ということです。

いや、僕は個人的には、演歌日本の伝統ではないと思ってるんですけど、それは個人主観的価値観なんですよ。

僕はナショナリストなので、日本の伝統はかっこいいものであってほしいし、個人的演歌がかっこいい音楽だとは思えないので、演歌日本の伝統ではないとみなしたい、という「個人の感想」です。

から演歌日本の伝統だと思う人がいても、特に問題がない、はずです。単なる好みの違いでしかない。

でも、輪島さんやその支持者のひとたちは、

演歌本来的に日本の伝統ではないのだから演歌日本の伝統」は歴史修正主義ナショナリズムだ」

みたいな感じになっちゃってるわけです。

追記

それと「音楽音楽学の違いについて」なんですけど、

いろいろ書くと、音楽学を知らないくせに偉そうなこと言うな、みたいな感じになると思うので、とりあえずやめとく。

でもさ、音楽学を知らないくせにって言うんだったら、音楽学者って音楽のこと知ってるの?って思っちゃうんですよね。

何の権限があってそんな偉そうなことを言うのか。

過去の偉い学者の言説を学んだのかもしれないけど、その過去の偉大な学者だって音楽現場に直接かかわってたわけではないんですよ。

まり音楽学」という枠の中だけで論考を積み重ねてるだけなわけで、結局のところ。

それは実際の「音楽」どういう関係があるのか、みたいなことは思ってしまます

ようするに、

音楽学者の人が「演歌日本の伝統ではない」って言ってるから演歌日本の伝統じゃないんだよー」

みたいなネット空気違和感

あと、id:ohchidani さんにidコールが飛ぶのかどうか。確か、増田からidコール飛ばすことはできないんじゃなかったけ?

2018-07-11

anond:20180710220726

音楽学者の輪島さんや増田さん(増田じゃない方増田さんね)は、「演歌日本の伝統ではない」みたいな言い方をしていて、

さらネット上では輪島さんや増田さんが「ザ・音楽学者」みたいな感じになってて、

それはちょっとまずいんじゃないの?って言いたかったんだけど、それはそれとして、

増田増田さんじゃない方増田ね)の言ってることは同感。


でも、なんというか、「音楽」と「音楽学」の違い、みたいなことを、

気が向いたら書く。

2018-07-10

anond:20180708114227

なんでその方向に展開しちゃうかな?

まず演歌を持ち出した時点で元増田伝統とは何ぞやの問題提起として計算が足りないのよ。はっきりいって。

例えば民謡って文化があって、正調民謡とか民謡保存会とかそういった周縁から伝統の正体を読み解こうって話なら俺も賛同するわけ。

元増田の言い分にもマッチする。

まぁ、もう先行研究あるけどね。

演歌に関して言うと成立過程特殊すぎる。色々な古典から借用した表現コラージュとも言える箇所も多い。

じゃあその借用の元となったフレーズは何なのか?なぜその表現が借用されたのか?どんな意図を狙ったものか?

そこを丁寧に譜例で追ってこそ音楽学醍醐味と思うのね俺は。

山口センセは学際的研究って言ってたけど、めちゃ多岐に渡る分野の積み重ねがないとこれは分析できない。

スティーブン・フェルドのカルリ音楽研究はその意味ですごい。

西洋的な音楽基準部族社会音楽分析しても意味ないですよという事を決定づけた名著。未読なら是非。

話がそれた。

俺も若い頃は西洋音楽ってどうなの?という問題意識があって民族音楽研究に足突っ込んだが、こと音楽の体系的な教育としての西洋音楽はとにかく便利なんだな。

西洋音楽システムというものキリスト教布教とセットになってて(聖歌とかな)、とにかく分かりやす再現やすい方向に特化している。

となると、やはり教育の分野で強い。そうなると大抵の社会は影響は受けちゃうわな。

純粋なる民族性幻想って話はここにつながるのね。

いざ秘境の奥地にフィールドワーク行ったら部族ラジオで最新のヒップホップ聴いてましたみたいな笑い話もよく聞く話でさ。

ここで問題として掘り下げるなら、演歌にどんな美意識規範根底にあるかって話よ。西洋音楽の影響がどうこう言っても、それでも生きている何かしらはあるわけで。何でもかんでも西洋音楽の影響がってのは筋が悪すぎるし、先行研究読んでないバカ乙で話が終わってしまう。

共同幻想とは何か?

これですよ。この問いが我々を突き動かすわけですよ。

2018-07-08

日本音楽ナショナリズム anond:20180707150628




伝統というもの自体共同幻想だというのはそのとおりで、だからこそ、演歌だけを叩いても無意味だよね、というのが前回増田ね。

伝統というもの共同幻想だとして批判するなら、演歌だけを叩くのは無意味だし、

伝統という共同幻想肯定するのであれば、演歌日本の伝統でいい、という話にしかならない。


はいっても正直なところ、西洋音楽を基にした音楽を、日本的ものとして認めたくないという気持ちもある。

日本の長い歴史から見れば、西洋音楽が入ってきたのはつい最近のことだし、つい最近入ってきただけの音楽価値観社会的支配的になってしまうのは、なんかおかしい。

西洋音楽を取り入れた日本音楽」であれば、それは過去からの発展とみなすことができるけど、

日本音楽を取り入れた西洋音楽」は、過去からの断絶のように感じられてします。

和声進行を基にした音楽」というのはやっぱり西洋音楽である、というふうになってしまうわけです。

でも、そういうのも共同幻想だということになってしまうわけで、

そういう状況の中でできることというのは、共同幻想同士でなぐり合わない、ということくらいしかないと思う。

2018-07-07

anond:20180707150628

演歌は創られた伝統」というのは要するに、「演歌はニセモノの日本の伝統だ」ということですよね。

「ニセモノ」というのは、「ホンモノ」があるから成り立つわけです。ホンモノが明確ではないのであれば、ニセモノも明確ではないということになる。

だとすると、

演歌はニセモノの日本の伝統だ」という主張をするためには、

「これがホンモノの日本の伝統だ」という主張が必要不可欠なはずです。

これは正しい。

まずそもそも日本」という単位自体ナショナリズムのものといっていい。

ゲルナーは『民族ナショナリズム』において"政治的単位民族単位を一致させようとする政治的原理"をナショナリズムと捉えた。

日本の伝統と言ってしまうと必然的にそうなる。

肯定する場合でも否定する場合でも主語日本にしてしまうとそうなる。

国家及び民族主語にして語る時点でナショナリズム的と言っていい。

演歌はもともと西洋音楽から日本の伝統ではない」

ということを自明であるかのように語る人がいっぱいいるけど、全然自明じゃないです。

もし仮に、日本は古来から文化的排他的海外のものを寄せ付けなかった、とかい歴史的事実存在するのであれば、

演歌はもともと西洋音楽から日本の伝統ではない」というのは正しいと思います

でも実際には、そんな歴史的事実存在しないんですよ。

箏も三味線も、もともとは海外ナウい楽器だったし、雅楽ももともとは海外ナウい音楽ジャンルだったわけす。

仏教インド発祥だということはだれでも知ってることのはずです。

ようするに、もともと海外のもの伝統になる、ということは日本では古来から普通のことだったわけです。

というか世界的に見てもそれが普通なんですよ。


この段落は非常に雑だし、前提がおかしい。

当該社会集団が何を選択的に残し、何を排除たか。何をナウいと考え、何をダサい判断たか

その価値判断は誰によるものか。どういう思想によるものか。

そういった当該社会集団による意図的選択連続としての受容史を単なる伝播、自然淘汰と読み違えている。

インド仏教日本仏教は全く違いますよね。

また、楽器で例えるなら韓国伽耶琴と日本の琴は全く違いますよね。

ダルシマーヤンチンは全く違いますよね。

文化は伝播してもそのまま伝わるわけではなく、ある種の選択判断が生じている。

雅楽だって日本韓国昔ながらのスタイルのままだと主張しているが、実際には微妙な違いがある。

その価値判断伝統の名の下にくだすのがナショナリズム的言説でしょ。

たとえばですよ、

正月によくかかる「春の海」という曲はたいてい「伝統音楽」の棚においてあります。この曲は洋楽邦楽ハイブリッドです。形式的には完全に西洋音楽です。

から

「春の海は形式的には洋楽から日本の伝統じゃないよ」

という意見もあります。でも同時に、

作曲者バリバリ邦楽演奏家なんだから日本の伝統じゃん」

という意見もあるわけです。

で、このふたつのどちらが客観的に正しいかということを実証することは不可能です。人それぞれ価値観が違う、としか言いようがない。

いやそもそも音楽学者で《春の海》をそういった視点分析する奴は今日びいないです。

伝統かどうかというのはもはや何の問題提起にすらならないんですよ。

なぜならその枠組み自体幻想だという前提で読むからね、まともな音楽学者は。

伝統」とはなんなのか、「日本」とはなんなのか、「音楽」とはなんなのか、

とういうような哲学的な問いにきっちり答えないといけないはずなんですよ、もし演歌はニセモノだと言いたいのであれば。

「創られた伝統」という概念と「創られたわけではない伝統」という概念は、どこがどういうふうに違うのか、

ということを哲学問題として、きっちり論理的説明しなきゃいけないはずなんですよ。でも、そんな作業してる音楽学者なんていないですよね。いたら教えてください。


とっくに議論されています伝統の創出についてはホブズボウムがまず前提。

ヘルダー、ダールハウスタラスキン、ヴィオラリーマン、リッサ、アドラーも読んでどうぞ。

特に19世紀ヨーロッパナショナリズム芸術関係が盛んに論じられていたので、

この分野の先行研究として学びがある。ロシアスペインフィンランドハンガリーなどなど。

繰り返すけど伝統って自然に生じるものではなくて、外と相対化されて初めて気づくものだし

伝統自体共同体による幻想なんだよね。

割と最近テレビラジオ地方地方性を駆逐したのではという話もあって面白い

北海道沖縄も、東京の発信する音楽文化に染まってしまったという話で、

それが国家音楽民族音楽だと大衆勝手に読み替えられているという話ね。

音楽って人間社会性そのものだよねってのはブラッキングの『人間音楽性』の指摘だが、

そういう純粋なる民族性の罠にはまってないですか。増田

あれ、演歌の話どこいった。

なぜ「演歌は創られた伝統」もナショナリズムなのか anond:20180706173405

文章書くの苦手なので断片的な感じなってしまます

演歌は創られた伝統」というのは要するに、「演歌はニセモノの日本の伝統だ」ということですよね。

「ニセモノ」というのは、「ホンモノ」があるから成り立つわけです。ホンモノが明確ではないのであれば、ニセモノも明確ではないということになる。

だとすると、

演歌はニセモノの日本の伝統だ」という主張をするためには、

「これがホンモノの日本の伝統だ」という主張が必要不可欠なはずです。

演歌はニセモノの日本の伝統だ」という本を書く前に、

「これがホンモノの日本の伝統だ」という本を書かなきゃいけないはずなんですよ。

でもそんな本書いてる人いないですよね。



演歌はもともと西洋音楽から日本の伝統ではない」

ということを自明であるかのように語る人がいっぱいいるけど、全然自明じゃないです。

もし仮に、日本は古来から文化的排他的海外のものを寄せ付けなかった、とかい歴史的事実存在するのであれば、

演歌はもともと西洋音楽から日本の伝統ではない」というのは正しいと思います

でも実際には、そんな歴史的事実存在しないんですよ。

箏も三味線も、もともとは海外ナウい楽器だったし、雅楽ももともとは海外ナウい音楽ジャンルだったわけす。

仏教インド発祥だということはだれでも知ってることのはずです。

ようするに、もともと海外のもの伝統になる、ということは日本では古来から普通のことだったわけです。

というか世界的に見てもそれが普通なんですよ。



いや、もちろん、

江戸時代以前から正統的に続く伝統こそが日本の伝統である。ゆえに演歌日本の伝統ではない」

という立場をとることは可能だし、そういう立場があってもいいと個人的には思います

でも、

江戸時代以前から正統的に続く伝統こそが日本の伝統である

という立場普遍性はないわけです。

そういう考えが客観的に正しいとすることができる根拠は、皆無です。

何の根拠もないのに、多くの人が、そういう考えを無自覚採用してしまっているという状況は「ナショナリズム」としか言いようがないと思うんですけど、どうでしょうか。

もし仮に、「演歌は千年前から続く伝統である」みたいなことを言ってる人がいたら、それは歴史修正主義です。

でも、そんなことを言ってるひとはいないわけです。




というかそもそも、何が日本の伝統なのかなんて、どうでもいいことなんですよ。



たとえばですよ、

正月によくかかる「春の海」という曲はたいてい「伝統音楽」の棚においてあります。この曲は洋楽邦楽ハイブリッドです。形式的には完全に西洋音楽です。

から

「春の海は形式的には洋楽から日本の伝統じゃないよ」

という意見もあります。でも同時に、

作曲者バリバリ邦楽演奏家なんだから日本の伝統じゃん」

という意見もあるわけです。

で、このふたつのどちらが客観的に正しいかということを実証することは不可能です。人それぞれ価値観が違う、としか言いようがない。


音楽伝統というのは、原理的にそういうものなんですよ。

そういうものというのは、何が正しいということではなくて、

学者のひとが本一冊書いただけで何が正しいのかが決まってしまうようなものではないということです。

何が正しいのかを一概にいうことはできない、というのが「音楽伝統」の概念です。

それが違うというのであれば、なにが正しい「音楽伝統概念なのかをきっちり説明しなきゃいけないはずです。


伝統」とはなんなのか、「日本」とはなんなのか、「音楽」とはなんなのか、

とういうような哲学的な問いにきっちり答えないといけないはずなんですよ、もし演歌はニセモノだと言いたいのであれば。

「創られた伝統」という概念と「創られたわけではない伝統」という概念は、どこがどういうふうに違うのか、

ということを哲学問題として、きっちり論理的説明しなきゃいけないはずなんですよ。でも、そんな作業してる音楽学者なんていないですよね。いたら教えてください。

輪島さんは本の中で、多様性が云々とか言ってるわけですよね。

音楽が多様なものであるならば、日本音楽伝統も多様、ということですよね。

日本音楽伝統も多様であるならば、演歌日本の伝統でいい、ということになるような気がするんですけど、どうなんでしょう。

演歌日本の伝統になってはいけない理由はなんなのでしょう?

「おまえはもともとヨーロッパ人から日本人ではない」

という理屈ガチ正当化しようとする人はあんまりいないと思うんですけど。

それとこれとは話が別だ、というのであれば、どうして話が別だといえるのか、説明必要だと思います

とりあえず、ここまで。

anond:20180706173405

演歌ルーツについては見飽きたので、川上音二郎以前からまとめてどうぞ。

2018-07-06

演歌は創られた伝統」もナショナリズムですよ?

どうせまた、ぶクマつかないだろうけど、とりあえず書く。

というか、ぶクマついたら書く。


この増田にぶクマ16以上ついたら、

「なぜ「演歌日本の伝統ではない」も(悪い意味での)ナショナリズムなのか」

という増田を書きます

2018-06-27

ダンナさんの呼び名

職場パートのおばちゃん(推定50代)がダンナさんのことを

「うちのひと」と呼ぶのがキモい。なんか演歌っぽい。

一方、本部から派遣されてきている社員さん(女だけど単身赴任!)が

「夫が」というのもなんか冷たいっていうか、

だんなさんがマスオさんチックで薄っぺらいっていうか

気の毒。

推定60代のおばちゃんのうちのおトーチャンというのは

可愛いんだけど私がいうと父か夫か区別しにくいらしい。

人によっては「増田が」苗字ダンナさんの代名詞にしてるけど

あんだって増田だろうよと心の中で反発してしまうし

なかなか呼び名って難しい。

2018-06-18

あぽまいら落ち着いて演歌でも聞けよ

社会理不尽さらされるようになって演歌効能理解できるようになった。労働歌だな、これは。

2018-06-17

邦楽はクソなのだから存在する必要がない

と思っている

音楽レベルが低すぎるし

そもそも日本語音楽に向いていない

日本特有音楽もない

ロック流行ればそれを真似し、ヒップホップ流行れば、ヴォコーダー流行れば……

そもそも日本人の精神()とか言われている演歌シャンソンパクリだし

よって耳のいい日本人は洋楽を聞くだけで良いのである

2018-06-09

anond:20180609110730

日本人」な民族愛なんて北から南まで生活習慣だいぶ違っている中で、今も昔も統一した価値観なんてないだろって思うよね。

最近も、日本列島ヨーロッパ地図の上に置くと「小国日本」なんて全く思えない!なんてまとめがバズってたけど、ヨーロッパでは何カ国にも分裂しているような広い土地を1国1民族で治めてると思っているほうがおこがましいというか何というか。

さらに今では、農耕に即して生まれ季節感ある古い表現言葉を、都会で冷房効いたビルの中で季節感なんて肌で感じることなく「おっこれは愛国的だ」と嬉々として使うというギャップ

 

集団生活という中で愛着あるのはやっぱり「地元」であり、今の歌手には「国民歌」目指すよりも、昭和演歌みたいに各地の地元民の愛郷心プライドをくすぐる歌を作りまくってほしいね別に自分地元だけでなくてさ。

2018-05-21

anond:20180521111516

その理屈だと辛いだの苦しいだのと嘆いてばかりの演歌説明できない。

2018-05-08

doorblk22k そうそう、老人ホームとかでもう少ししたら童謡とか演歌とかもう聞かないよね

時代GSやで

前期高齢者グループサウンズグループ派閥ができとるわ

2018-04-29

https://anond.hatelabo.jp/20180429024003

すまん、一般論ではないのだが、元増田は、声が単調で芸が感じられないのは

マツドウヤ・ユミでも受け入れられない

ただ琵琶浪曲とか演歌面白いのがある

2018-04-02

近隣から喘ぎ声が聞こえた気がする

なんか演歌みたいで萎え

2018-04-01

クソプラネタリウムのここがクソ

無駄音楽がでかい

やけに壮大で演歌みたいに盛り上がる音楽が流れっぱ。うるさい。

実際に星を眺めるときってもっと周りも気持ちも静かだろ。臨場感とか出る幕ないんだわ

吸い込まれそうな静けさの中でぼーっと眺めるのがベスト、せめてミニマルエレクトロニカかにしてくれ

無駄にしゃべる

俳優かいい声の人かしらんがいちいちしゃべるな。こっちは星見に来とんじゃ

しかメッセージがやけに壮大。「地球の生き物はみな仲間です…」「森も楽しそうに星空を眺めています」嘘つけ

・ひま

酒とか飲みながら見たい

つーかプラネタリウムよりドローンカメラ装着して3Dヘッドマウントディスプレイで空飛んだりしたい

2018-03-23

anond:20180323213018

中の人確か13歳の頃既に民謡大会で優勝してたんですがそれは

民謡とか演歌映像見てみ?

中学生かどうかなんて声じゃ分からん

村上巴のあの演歌って

13歳って事忘れてません?悪い意味で。

大御所に作ってもらった以上仕方ないのかもだが俺にはあれが13歳の歌には聞こえない。

2018-03-10

女流棋士って黒人演歌歌わせて「(外人にしては)うまいですね~」

ってやってるようなもんでしょ

差別と言われれば差別だけど、目くじら立てる奴がいないから見逃されてるあの感じ

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