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はてなキーワード: アナーキズムとは

2020-04-02

anond:20200402084421

用語本来意味を考えれば

リベラル」と「左翼」は別物

リベラルとは自由主義から基本的に反権威権力の介入を否定するだろう

一方、左翼にも唯物論社会主義キリスト教社会主義アナーキズムなど多種あるが

社会主義の要素を持つ左翼基本的に「大きな政府」論者だから

国民救済のため政府積極的に動くことは肯定

左派がふだんから政府はいっさい何もするな」と言っているのなら

マスク配布や非常事態宣言に反対するのは矛盾だが

政府もっと国民救済になることをしろ」と言っているのなら

べつに矛盾はない

少なくとも現在日本中共のような左翼政権ではないので

から政府がやることなら何でも従う」と言っている左翼はあまりいないだろうが

政府はいっさい何もするな」と言っているわけではあるまい

2019-12-17

anond:20191217030715

世界で最も権力従順日本アナーキズムが台頭するくらいのことがあったらたぶん世界の終わりだと思う。

そろそろアナーキズムが台頭しそうだな

2019-11-14

anond:20191114133943

そうだよ。

団塊の世代が気まぐれで民主いけるんちゃうん。って思ったんだよあの時。

あと文句言ってた人はアナーキズム気取ってみんな自分選挙権無効にしちゃったから。

民意だよ。

2019-07-16

anond:20190716174554

アナーキズムコミュニズム弱者の考える理想なんだよね。

から強者になった瞬間弱者理想なんていらなくなってしまう。

2019-06-22

anond:20190622145229

配偶者から逃げて独身になることはできるけど政権は誰かしらに代わらなきゃいけないんだよなあ

アナーキズムかな?

2019-04-08

anond:20190408103744

アナーキズムだね。

今の日本がそう見えるなら、君は俺とは違う平行世界日本を生きているのだろう。

2018-12-12

anond:20181212153605

Tって障害とかではなく単に個性の一部な気がするんやが。

そもそも今の「男女」っていうジェンダーロールが社会によって構築されたあれやこれやだっていうのは周知の事実じゃん。

それを裏返しに身に着けてるってのは、ある種アナーキズムとかそういう性格の一部に過ぎんだろ。

反社会的性格障害であるというのであればTも障害ではあるが。

2018-12-06

はいはい分かりましたいい直しま

嫌儲=フリーセックス文化これで語弊はないはずだ

紛れもなくアナーキズムだろ

anond:20181206141659

またなんJ民気取りの知ったかぶりかよ?古典的嫌儲意味フリーソフト文化などのように対価を求めない、翻っては知は常に開放されるべきというギーク達のアナーキズムの事だ

2018-09-08

大正浪漫

大正ロマンは悪いのか?

https://togetter.com/li/1264601

こんなん公式ポリシー知識もなく出したり引っ込めたりするから、さも「大正浪漫」が悪いみたいにみえとる案件やんけ。大正浪漫に何の問題もありません、と毅然対応すればすむ話でアホらしいわ。

明治から儲けていたのは財閥成金であって、彼らは西洋追随する貴族趣味文化謳歌してた。一方、「大正浪漫」は、生活の苦しみを味わいつつ社会矛盾に目覚めた大衆であり庶民文化や。政府弾圧を受けながらも海外文化思想自由主義民主主義にあこがれ革命を夢見た人々。文学世界で言えば浪漫派の中核にいた与謝野晶子は「君死に給ふことなかれ」という反戦詩を書き、石川啄木は「地図の上 朝鮮国に 黒々と 墨をぬりつつ 秋風を聴く」と詠んで韓国併合を行った政府方針を憂い、現代人が直面する社会矛盾や苦しみを「時代閉塞の現状」という評論にまとめた。これのどこが問題なんや? 「ご意見ありがとうございますしかしながら、私たちが『大正ロマン』に込めた願いは以上のようなものですのでご理解いただければ幸いです。」と返せばそれでいい話や。引っ込めるからしろ「やっぱ疚しいんや」と向こうが思いよったやろ。ふざけんなや。

大正浪漫から連想されるのは、帝国主義財閥の下で苦しむ庶民が上からでなく自分たちの手で文化を生み、自由謳歌しようとした時代とその文化なんや。そして、震災を経て、社会絶望した連中のうち、純粋な連中は国家社会主義に走り、不純な連中は帝国主義推し進めようとした。その結果、気が付いたら止めようとしてもどちらにも止められへんチキンレースとしての日本暴走が始まったわけや。その直前の時代代表する大正ロマンは、近代日本民衆のはかない目覚めの象徴やで。国家にぶんなぐられてすぐまた眠ってしもたけど、そのとき少しだけ日本人は「自由」を信じた。そういう文化大正ロマンなんやアナーキズム女性解放米騒動ストライキ自由恋愛、デカダンス海外留学、魂を解放する芸術……そういうもんがないまぜになった文化、それが大正ロマンなんや

せやからな、たとえばイギリス人ヴィクトリア朝文化風俗ファッションとしてもてはやしてたら、インド人怒る、これは(余計なお世話でそんな暇なインド人おるんかと思うが)一応理解できなくはないよ。西部劇やその時代称揚したら、ネイティブアメリカン怒る、配慮した方がええ、これも一応分かる。それらは、いずれも征服迫害とその文化ダイレクトにつながっとるからな。しかし、日韓併合大正ロマンはそうではない、むしろ反対や。そういうことを無視して味噌も糞も一緒にすんな。何より、大正ロマンに対してごく適当理解をした連中が、今度は手のひら返ししたり顔で「大正ロマンはやっぱ帝国主義ダメですよ」とか言い出すのは耐え難い。お前らの知ってる「大正ロマン」てだいたいサクラ大戦やろボケ。そんなんで何か語んな。ほんまやっとれんわ。

2018-06-27

anond:20180627115159

これまではそうでも、これからはどうかな?

無敵の人」は、一種アナーキズムだ。

「もうどうなってもいい」「今この状況以外でないなら」と思う奴の大群が発生したことがあるか?

2018-01-29

金融シンギュラリティ

 今、仮想通貨話題である。この仮想通貨が将来現実通貨に取って代わるようになる時点を金融シンギュラリティと名付け、その可能性について語りたい。

 まず、過去においての通貨について考えてみよう。

 もともと通貨は金を中心とした貴金属で成り立っていた。金そのもの価値があるので、それと物品を交換していたのだ。しかし、ある時点から金そのものをやりとりするよりも金と交換できる券をやりとりする方が便利だという発明がされる。それが金本位制に基づく通貨の始まりだ。この時点でのは通貨仮想金と呼ぶことができるだろう。

 そしてそのうち、別に金本位制ではなくても通貨に信用があれば問題がない、ということに気がつく。この時点で、今まで仮想金であった通貨仮想ではない財産となったのだ。

 さて、その通貨の信用であるが、これは何によってなされているのだろう?それは、国が通貨を発行し、これが様々な物品やサービスなどと交換できる価値のあるものだ、と宣言し、国民もまたそれを信じることで通貨の信用は担保され、通貨財産たり得るのだ。

 では、現在国家によって保証されている通貨の信用であるが、根本としては信用があればいいのであって、それを国家保証ではなく、人々の信頼のみによって保証することはできないか?それが仮想通貨の発想の原点だ。

 だから仮想通貨は人々が信頼できる仕組みというもの内包している。それがブロックチェーンによる取引記録の透明性だ。

 通貨というのは所有者がいる。ある所有者からどの所有者に通貨が渡ったかということを記録する取引履歴が明快ならば、物理的な通貨が目に見える形で存在しなくても、ある所有者が持っている通貨いくらなのかということがわかる。現実通貨が、取引履歴不明瞭でも物理的に所有している者が明確ならばいいということとは対象的だ。仮想通貨物理的に存在しないために、所有者を表すには取引履歴がどうしても必要なのだ。この点で、取引履歴というもの仮想通貨命綱だということがわかるだろう。

 そしてその命綱である取引履歴、これは当然個々人が勝手に主張することができない仕組みになっている。正確には、個々人による取引履歴の主張はできるが、それが第三者によって承認されないと正規取引履歴として記録されない。ジャイアンのび太から仮想通貨をもらったかのび太仮想通貨は俺のものだ、と主張したところで、それを周りの人々が承認しないとその仮想通貨のび太の手元からジャイアンに移ったという事実取引履歴は記録されない。なので、ジャイアン仮想通貨を持っているというようには見なされないのだ。

 みなさんは、みんなが取引履歴監視することで保証される取引履歴、つまり所有者を表す記録を信用することができるだろうか?仮想通貨のものを信じられるだろうか?

 もしできるのならば、次のステップに進もう。とはいえ、だいぶ話は飛躍する。

 仮想通貨が人々に信頼され、実際の通貨と変わらないかそれ以上の利便性を持った使い勝手を獲得していったらどうなるだろう?具体的には、商取引仮想通貨が直接使えるのが当たり前になるなど。

 そのとき現実通貨価値仮想通貨と比べて下がっていくと考えられる。

 そして現実通貨価値ゼロになり、仮想通貨が完全に現実通貨に取って代わる時点がやがて現れるかもしれない。

 その時点を、金融シンギュラリティと呼びたい。

 では、金融シンギュラリティに到達した時点で何が起こるのか?

 まず、既存政府による金融コントロールが全く不可能になるだろう。それどころか、国というものがなくなってしまうかもしれない。

 なぜなら、現行の通貨は国による保証によってその価値担保されているが、その価値ゼロになるということは国に対する信頼もゼロになるということだからだ。加えて、仮想通貨には国境もない。そのため、国が仮想通貨による税収を始めてなんとか存続する、というシナリオも期待薄だろう。

 そんな世界になってしまったら、所得の再分配ほとんど行われなくなるだろうから近代国家が出来上がる以前のレベルにまで貧富の差が拡大するだろう。もしかしたらそれよりも酷いかもしれない。

 個人的には、金融シンギュラリティが訪れた後の世界アナーキズム支配されたディストピアになるようにしか思えない。

 しかし、仮想通貨はすでに社会に現れてしまった。それをなくすことはもうできないだろう。

 同時に、現実通貨仮想通貨に対抗して価値を維持し続ける世界というのも個人的には想像しづらい。いつになるかはわからないが、金融シンギュラリティはやがて訪れると思われる。そしてそれは、人類史を大きく書き換えることだろう。

 そんな時代に生きていることは幸運なのか不幸なのか?

 それはわからないが、仮想通貨というもの人類にとっての福音になるよう願ってやまない。

2018-01-11

anond:20180110192237

リバタリアニズム自由最高ヒャッハーみたいな種類の思想だというのは、左翼右翼ちょっと聞きかじった程度の半端な理解人間による印象操作なんだよ。

ちゃんと調べて、まともな学者の書いた本を読めば、究極に理性的思想だということがわかってくるはず。

北斗の拳みたいな世紀末状態リバタリアニズムの終着、みたいな認識2ちゃんやらの日本ネット上では書かれている事がよくあるけども、とんだ見当違いだよ。

じゃあどっちかというとアナーキズムか、というとそれも違う。アナーキズムだって、反支配ではあるが無秩序を望む思想じゃないし、むしろ調和をめざす非暴力思想だ。

一部のアナーキストが、支配から脱するための暴力革命テロリズムを認めているにすぎない。

話を戻して、リバタリアニズム自由放任表現されるけど、それがややこしくしている。その単語が表すイメージとは次元が違う。

きちっとした法治を是とするのは当然として、その場その場の属人的裁量ではなく洗練された最小限のルールで世の中を究極にシステマティックかつシンプルにしようという考え方。

そうして、自由放任にしても大丈夫、人がどう動こうと失敗しようと必ず救いがあるし報いがある、だから寛容になれる、そういう環境をつくる、という意味での自由放任だ。

そのための最適なルールを、常識に囚われず考え続けることに余念のない人たちがリバタリアン

もともとはリベラルと呼ばれた考え方だけあって、個人人権尊重しようとする考えはしっかり根底にある。

から他人自由侵害することにも特に敏感で、それこそが右翼左翼との違いでもある。

リバタリアニズム的な思考に基づく発言とか政策を切り取ってみると、傲慢や強欲を感じられる事もあるかもしれない。

でもそれは、国家よりもまず個人幸福尊重するからであることがほとんどだ。

長期的視野や全体的視野に立ってみると、国家従属して集団幸福を実現するより、技術進歩に従って個人レベル連携でもうまく機能する社会システムシフトしていったほうが健全だし盤石だし平和的だろうという考えがあるから

そういう感じで、一見突飛な意見も、より良い未来を導くビジョンに繋がっている。

そうではない、「怠惰弱者自己責任から救済する必要がない」だとか「再配分は自発的寄付トリクルダウンで現状でも賄える」みたいな事を言う人は、

かに昔のリバタリアンと呼ばれた人にはそういう人も多かったようだけれども(今でもいないとは言わないが)、もはや現代リバタリアンはそんな強者論理を振りかざす人たちとは違ってきていて、より柔軟で現実的になっている。

でもネットリバタリアニズムを調べて出て来るのは、そういう古臭く悪印象な強者論理ばかりなので、ほとんどの人がそこで学習が止まっている。

リバタリアンとされたミルトン・フリードマンだって、まじめに再配分を考えていて、負の所得税のような今で言うベーシックインカムに繋がる政策を考案したその人であるし。

彼のマネタリズムのようなリバタリアン政策は、あの時代では失敗したけれども、現代そして未来のあらゆるものデータとして数値・属性可視化されるようになった世界では、

金融政策ではないにしろさまざまな分野でリバタリアン的な「裁量よりルール」が有効に働くようになってくるだろう。

リバタリアンと分類されて馬鹿にされる人たちの多くは、一般の人の想像が及ばないくらいの精細な未来人類ビジョンを持っているように感じられる。

その人の専門分野、技術知識によってその推測は本人的には裏打ちされているんだけど、他人からみると理解されない。

「いま」を生きる大衆目線で見ると愚か者の暴論にしか見えず、袋叩きにあうしかないんだけども。それでリバタリアニズム自体もなめられている。

ブコメなんかでも大抵そういう認識の人が目立つ。そういうのを見るとつらい。

もう、別の名前をつけたほうがいい気すらする

2017-11-08

anond:20171108120734

オタク自由」ってのは単なる身勝手に過ぎないからどこの党も守ってはくれんぞ

日本で守られる自由公共の福祉範囲内だし、ここを改正して全ての自由を認めるなどというアナーキズムを謳う党なんかないか

2017-11-05

男性の加害性、ポリコレ道徳、罪悪感、など

『男として生まれただけで生物学的に加害性があるって気づいてくれ頼むから。』 - Togetterまとめ https://togetter.com/li/1168000

 男に生まれただけで加害性がある、とわかりやすく言ってしまえばさすがに大体の人はオイオイオイとなる。

 でも言い方を工夫すればそうでもない。

 現代社会では、基本的道徳として「力のある人はない人を傷つけやすいから、大いなる力には大いなる責任を持って、強い側は弱い側に配慮し優しくしましょうね」みたいなことが広く教育されている。

 その上で「男性は平均して肉体的強さがある」「年収が多い」「職に就きやすい」「性犯罪を起こしやすい」「セックス苦痛を与えやすい」「妊娠の際に逃げやすい」「男性社会グループが多いのでそれらに馴染みやすい」など男性の強さ(実際これらの強さは傾向論、マクロ論としては間違っていないと思う)を指摘されれば、基本道徳と結び付けて「男性は傾向として強さがある。強いということは加害危険性が高い。だから人一倍気を使って暮らせ」という、「男に生まれただけで加害性がある」とほとんど変わらないメッセージが受け取れてしまう。

 それは男性側も「自分たちがそういう風に責められてる」と感じうるし、女性側もそういう風に受け取れるわけだが、受け取った人がこの分割を己の中で繋げて縮めて「男に生まれただけで加害性がある(みたいに責めるのはやめろ or だから反省しろ)」と言ってしまえば冒頭リンクのように叩かれる。

 分割された状態での主張にオイオイオイというのは、アンチフェミアンチポリコレみたいな層が多いけど。


 利益対立する側の行動を縛る時には、道徳による罪悪感ってのがめちゃめちゃ便利に使える。

 ただしそれが有効に働くのは、相手道徳テーブルについてる限りであって、責められすぎて「うるっっっせえーーー!! なにが道徳じゃ正義じゃ善じゃボケーーー!」と逆ギレしだしたら話は変わる。

 それでも道徳で圧す側に無理矢理テーブルに座らせ続けるパワーがあれば構図は変わらないが、縛られてきた側に席を立って殴り合いをできるくらいになるとわやくちゃだ。

 言ってみれば、毒親に「ちゃんとしなさい、親には従いなさい、孝行しなさい、悪い子ですね」と道徳され続けた子供が、やがてブチ切れて親をめちゃめちゃ憎悪し、自活能力を得ているならば親を捨てようとするようなものである

 そしてこれは「貞淑でありなさい、はしたない」と道徳されてきた女が男性嫌悪ミサンドリストになるのとも同じであるが、果たして女が道徳テーブルを蹴り上げて好きな場所に行ってしまえる力があるかが注目点だろう。

 一方、男側の一部も道徳テーブルを蹴り上げようとしている。

 弱者男性フェミニスト共闘できるということを言っているのは、男女双方の道徳テーブルに着くことを嫌がる層に着目した人なのだろうが――この二者が着くのを拒んでいるのは、それぞれ違うテーブルではないか


 昔の社会は野蛮だという風に言われがちだけれど、多分何千年も前から、「できるだけ道徳的でありましょう、正しく良い人間でありましょう」という道徳的意識は色んな社会で行き渡っていたのだと思う。

 現代と大きく違うのは、何を「道徳的」とするかの規準だ。

 今までの何千年だか何万年は「弱いものは強いものに従え、さもなくばみんな死ぬ」というのが基本道徳で、それにより様々な弱きもの、たとえば女性病人子供などを罪悪感を縛りコントロールしてきたんだろうけど、昨今は「強いものは弱いものに優しくしろ」が道徳として力を持ち始めたので男性特にシスヘテロ成人男性か)を罪悪感でコントロールすることもできるようになりつつある。

 でも、これは決して、対立相手道徳の罪悪感で縛るという構図そのものから脱出できたわけではない。

 とはいえ罪悪感での縛り縛られを完全放棄し、自分はいかなる道徳テーブルもつきません、相手道徳テーブルにつけることもしません、としたならば、その先には何でもって自分たちの生きやすさを交渉するのかはわからない。

 それってアノミーとかアナーキズムみたいな世界になるんじゃないか


 蛇足として自分語りをさせてもらえば、弱く生まれつきたかったとは思わないけど、強く生まれつきたくもなかった。


男やオタクに罪悪感を植え付けてどうしたいの

女はああだこうだ言われてないし罪悪感を植え付けられてないとは思わんよ。

2017-07-20

古谷有希子 @SociYu の戯言

http://twitter.com/i/moments/887430878179323908

気持ち悪い文を頑張って読んでみた。このグローバリズムリベラル(なんだこれ)はポリコレで包まれるお花畑理想としているように見受けられる。

ポピュリズムによるリベラル浸透を期待して確信しきっている。こいつの中のマスとは理想郷の中における全体主義理想民に他ならない。

何故ならここでのグローバリズムの中に多数小数民族性趣味・主張・宗教といった表現上のサイレントマジョリティの群れをポリコレ棒で叩いて認めていないから。女性AV等を是としている割にこの点で矛盾している。

そうしてセクシズム・レイシズム肯定する作品はそのうちマス向けコンテンツから消えていくと信仰しきっている。実に滑稽だ。世界は一つの倫理グローバリズムに落ち着くと考えてらっしゃる

根底にあるグローバリズムリベラル日本的リベラルが無いのが救いでリベラル狂信者としては非常に誠実だと思うが言っていることは理想に沿わないもの排除したいだけ。

この点について一貫した理想を持っていて説明できている辺り福音者としてとても優秀だと思うが、日本一般的ネットユーザを正しく理解したうえで福音を届けたいが為に曲解させた吠え方をしているか悪臭漂う

そもそもこいつというかリベラル民は【弱者落伍者・貧窮者】といった範囲を救済するという理想の元から議論を始めているので現実に即さないことを言い出すからキチガイじみて見られる。

こいつを評価できるのはそのキチガイじみた中でもリベラルネオリベ資本主義の仕組みに貢献しているという現実理解していることだ。格差社会是正という面においてリベラル必要という論調自体には何ら問題がない。

最後にこいつの信仰しているリベラル自体(前期として)新しい自由主義なので、アメリカ民主党内ゲバよろしく(後期として新しい)ネオリベ連呼するカッコ悪さは見苦しい。リベ・ネオリベ・リバ・アナーキズムなんてのはただの方法論でしかない。

いかなる理想でも追求し続けたら非理想郷に辿り着くというのが今日現在進行形の各国におけるリアリズムの一致した見解で、突き詰めるグローバリズムというたわけた妄想議論に載せた時点で総ツッコミが来るのは当然だ。過去から現代においてグローバルに受けそうにない尖った創作グローバル化してきた歴史を学ぶといい。なんならアバンギャルドでも勉強した方がいい。

グローバリズムリベラルはお花畑英語で表した自分造語です。しいて例をあげるなら富裕層独特の「みんな私達のようにお金持ちになーれ」的なアレ。平等リベラルにしなさいと上から目線学者面がほざいているワケだが自説のグローバリズム性によって全体主義観点に陥っている。

日本的リベラル必要条件に「特ア配慮する」という枷を必ず入れる方々。まぁパヨク

2017-02-13

夢は南海トラフ上野女史への反感―

本来、三大命題二つ目を書きたかったところだが、こちらの問題を先に論じさせてもらう。

この論考は以下のURLにたいする一人の若者から反論である

https://togetter.com/li/1080097

以上の新聞記事で、上野女史は「経済犠牲にしてでも、平和国家として衰退すればいい」と主張している。

この主張にたいする批判等は、本職の社会学者に任せるとして、ここでは私の純粋なる反感について述べていきたい。

平和国家という「ファンタジー

上野女史は無邪気にも、戦後日本を「平和国家」としてとらえている。

この考えはまったくの見識違いといわざるをえない。

そもそも、戦後日本社会体制1940年代の「総力戦体制を「経済最優先」の形として再編したものである

扶養控除、源泉徴収終身雇用制、護送船団方式のすべてが元々「戦争を想定して」造られたものだ。

社会実態についても、「平和」と呼ぶにはほど遠い。

1950~60年代には、「高度経済成長」の美称の裏で、世界でも稀にみる学生運動市民運動社会不安が吹き荒れていた。

70~90年代にかけては、家庭や企業社会体制のガタが入り、人々を「死へと誘う」システムへと変貌していった。

これが少年非行いじめ過労死などの狂気的な状況を引き起こした。

戦後日本とは、世界的にも稀にみるただの「ゆたか社会である

まったく「平和」でも「民主的」でも「自由」でもなかった。ただただ「ゆたか」だっただけである

後期近代―不確実な私、国家社会

しかも、「ゆたか社会」は90年代2011年にかけて完全に崩壊した。

まず、政府安全神話が崩れ、

企業身分制保障崩壊し、

最後に、原発事故とともに社会安全神話が吹き飛んでしまった。

この事実について語らない者はすべて、今の時代にたいして不誠実である

では、現在社会とはどのような社会なのか。

それはギデンズやバウマン、ジョッグ・ヤングなどを見てもらえば分かるが「流動的、効率的である

企業におけるセーフティーネットが「生産性自己実現神話」の名のもとに縮小され、

パートフリーターという不安定生活者が生まれた。

政府が担っていた安全保障は「構造改革」の名のもとに縮小され、

監視カメラSNS監視なしに、人々は安心して生きることができない。

不誠実な脳科学認知神経科学AI研究によって人間という「私」の特権性が失われ、

人々は常に失職と人間尊厳消失心配するようになっている。

そして、このような多様な人々が同じ町で同じように暮らしている。

このように、後期近代社会とは

当たり前だったものがすべて崩れ去り、人間永遠の虚無へと投げ出すのである

相対的剥奪感と存在論不安

このような状況では、人々は二つのレベル不安を抱えることになる。

一つは生活レベル不安相対的剥奪感―

もう一つは存在レベル不安存在論不安

である

私たち人生ほとんどを仕事をして、生きている。

しかし、その仕事価値が急速に低下してしまった。

人生の多くを占める活動である仕事にふさわしい「対価」が支払われなくなってしまった。

一方、ただ一日中パソコンを見つめて投資とやらというギャンブルをするだけでも「対価」を得られる人々もいる。

この二極化する現実は人々に

「不当な地位にいる!」

「ふさわしい金額、敬意をもらっていない!」

という相対的剥奪感を抱かせる。

また、後期近代社会はいわゆる「コミュ力」の高い人々が成功する。

軽薄に仕事にたいする敬意なく、強者追従する人々が「評価」され、グローバルエリートとして出世していく。

そして、仕事に真面目ながらも報われない弱者は常に「自己批判」と「変革」を迫られる。

二極化する現実に人々は「私は人間らしい扱いを受けていない」という存在論不安を抱かせる。

しかに、ここであげた例は極論である

しかし、似たような体験をする人は多いだろう。

そして、人々はつねに不平不満をもらすのだ。

「私はこうなれたのに……」

「私もこうしたかった……」

ここでは深く述べないが、この可能性としての私=‹他我›にたいする深い怒りの感情現代社会不安の核心にあるように思う。

上野女史は「みんな貧しくなる」ことによって、この怒りを無くせるなんて無邪気にも思っている。しかし、それは不可能である

この感情こそが永遠の虚無において、私を生きることのできる唯一の鍵だからである

夢は南海トラフ赤木理論の失効―

――常に人々に嫉妬を抱かせながら、その嫉妬を用いて欲望を加速させる。そして、その嫉妬を全身に受ける者は高笑いしつづける。

このような後期近代グロテスクさに最初に抗議をあげたのが赤木智弘だった。

彼はある論考で「夢は戦争」とドゥルーズ的な集団自殺理論を主張した。

しかし、私は「戦争」を夢にはできない。

今や「戦争」こそが「富裕層」を富ませ、「貧困層」を殺すことを知っているからだ。

今や「自殺」ですら「富裕層」を富ませる資本である

加藤智大植松聖などの社会的自殺者は、情報として処理され資本となる。

そして、情報となった「自殺」は「貧困層」による社会転覆不可能性を解き、

「後期近代」の隊列にから逸脱しないことを促進させる。

後期近代において、「自殺」こそが「富裕層」へのもっと積極的な「支援行為なのだ

私の夢は「南海トラフである

防ぎようのない「天災」によって、

嫉妬の中心地である太平洋ベルト東京

ありとあらゆる社会資本が壊され、嫉妬の根源が無化される。

私はベンヤミンのいう「法維持暴力」に立つ者であるが、

この瞬間を心の底から待ち望む。

私はそのとき、心の底から嗤うことができるだろう。

109崩壊し、秋葉原が灰塵に帰し、大手町サーバーがダウンし

白金の御婦人たちが焼け出され、お台場の子どもたちが押しつぶされるとき

後期近代はその柔らかな恥部を表出する。

私は笑顔でその恥部憎悪の限りをぶつけてやり、

後期近代を殺し、末期近代を出現させてやるのだ。

そのときに来るのが、

東のいう変質したファシズムなのか

笠井のいう生存のためのサンディカなのか

佐藤のいう無慈悲アナーキズムなのか

知ったことではない。

私が心の底から嗤いたいのである

相対的剥奪感や存在論不安に晒されることなく嗤いたいのである

そして、私は嗤いながら確信する。

東北の「土」と「血」が正しかったことを

東京の「コンクリート」と「鉄道」が虚妄であったことを

このような自己破滅願望について納得する解答を提示できない上野女史に

後期近代現代社会を語る権利はない。

彼女はせいぜい自らの理念後生大事に背負って、大学瓦礫に押しつぶされて死ぬのがお似合いだ。

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