はてなキーワード: フランス料理とは
フランス料理ってコースばっかりのイメージで、たまに定食形式で一品ドンと食わせてくれよって思う。
俺のフレンチとかあった気がするけど、あれがそうだったんたろうか。昔ちょっと話題になってたけどあんまり浸透してるイメージはない。
何かしらのオードブルが出て、何かしらのスープが出て、グラニテが出たり出なかったりして、何かしらのソースがかかった何かしらの肉や何かしらの魚のポワレなりパイなりが出て、デザートとコーヒーで〆る中で「これぞフレンチ」って感じのものがあんまり浮かばない。この食材を使ったこの調理法のコレ!って感じのが。
ロシアならボルシチピロシキなり、イギリスならフィッシュアンドチプスなりジェリードイールなり。アメリカもチリコンカーンやらハンバーガーやら、分かりやすい感じの代表メニュー的なやつがある。中華なんて日式の微妙なラインも含めたら無限にあるのに。
コロッケがフランス料理というのは有名な話だけど、ひき肉混じりのハッシュポテトを揚げたいわゆる日本のコロッケがそうかと言われると微妙っぽい。
エスカルゴもサイゼ以外では中々見ない。あそこ一応イタリアン名乗ってるし。
フォアグラもそう日常的に食うもんでもない。自分の肝臓がフォアグラになっちゃうし。
イタリアンは定食かと言うと微妙だけど、それこそピザパスタのメイン一品軸でサクッと楽しめる。フレンチもそんな感じで食いたい。
フランス人とて毎食毎食コース料理食う訳でもなかろうし、日常的な飯の中で自然に入り込んでくるフランス色みたいなのを楽しみたい。
妹の誕生日にどこかに食べに行こうかという話になったのだが、私はその選択肢に食べ放題を挙げることに賛同し難い。食べ放題というシステムが個人的に嫌っているというわけではない。むしろ自分の好きな料理だけ、自由にたらふく食べられるし、欲望に塗れた和洋中と料理のサラダボウル(アメリカ?)と化した自他の皿を見ながら食事にできることが長所だなあ考えている。お祝い事というのは会話などのコミュニケーションで会食ベースな雰囲気であることでお祝い事の機会となるのではないか 会席料理だとかフランス料理は、(私はまだ人生で数えられるほどしか経験したことがないけれど)、皆が同じペースで食事を進めていく丁寧さ、献立に料理長の名前が書かれるのが小説作品に作者の名前が書かれるようなストーリー性と感情を帯びていて、こういう機会にぴったりの選択肢ではないかなあと考える。結局のところ私個人が食べ物に研究的になって嘆美を見出すことに楽しさを感じているだけだなあと 食事ってその人のバックグラウンドとかでその人ごとの普通の基準があるから面白いね〜
出てくる感想の筆頭が「味が強い」だと思う。美味しいとか好みの問題はさておき、味が強い。
味覚の受容体めっちゃ刺激されてるし、風味も嗅細胞をめっちゃ刺激してくる。
それも塩や油※の力を借りない状態でだ(おそらく調整としては使われているが本体ではない。※嘘かも)
ハッキリ言ってスープ単体の二郎なんか比較にならないくらい「味が強い」のだ。
(しょっぱいという部分では家系や二郎インスパイアが勝ることもあるだろうが)
俺はフランス料理には詳しくないのだが、おそらくスープ単体で成立するほどの旨味と濃度の抽出に成功しているのだと思う。
レガシーなラーメンではスープ(素材の抽出液)とカエシ(醤油などの混合液)でスープは構成されていたが、
昨今では香味油が当然のように使用される。鶏油(ちーゆ)などが有名だが、牡蠣や煮干しも活用されている。
これまでの原材料費だととても使えなかった食材をコストプッシュ名目で使えるようになった結果、風味が大きく強化された。
価格を1000円にフォーカスしたラーメンに、既存のラーメンは味では太刀打ちできない。
固定客を囲い込むとか、二郎系家系のようにジャンルのファンを囲い込むとかしないと生き残りにくいだろう。
ただ天下一品や花月嵐みたいなチェーン店もしっかり値上げしてくれているので、浸透すればある程度緩和すると思われる。
個人的には美味いものが食えるようになった現環境には感謝しかない。
じゃあどんなもんなんじゃいという諸兄のために1つの例を挙げてみる。
いきなりラーメンではなくつけ麺なのだが、「味が強い」代表といえばこの店だ。
麺を500g食えるならスープを2種類つけてくれるので食べ比べもできる(辞めてたらごめん)
とにかく素材の味がグワっと押し寄せてくるので、苦手な人は本当に苦手だと思う。
ある程度並ぶのは覚悟がいるが、1つのイベントと思って訪問してみてはいかがだろうか
(この欄はブクマが付いたら消す。これ以上並ばれたら困る)
厳密にいえば1泊2万円の夕食がオーナーによるコース料理だった。
前菜がウニのプリンになんとかジュレが乗っかっていて、それを見た時僕の中のネット民達が「草」と嘲笑していたが、食べてみてその美味さに涙ぐんでしまい、次のわけのわからない名前の料理や、メインの肉も、今まで食べてきた料理とは次元が違うものだった。
そんなわけで冬のボーナスで1人2、3万円位のコース料理を都内で食べようと考えているが、どの店を選んでいいのか絶賛悩んでいる。
ぶっちゃっけイタリア料理でもフランス料理でもなんでもいいが、失敗だけはしたくない。
でも2万円以上出して不味い料理を出す店なんてあるのか…?
舌に合わないはあるだろうけど。
前にフランス料理屋で出たムール貝のバター焼きだか蒸しだかがえらい美味かった記憶がある。モンサンミッシェルのやつだとか言ってた。
おれは加熱したホタテの貝柱を覗いて貝嫌いだけど、それは例外的に美味しく感じられた。
今日ファミレスでなんとなくムール貝の酒蒸しが目に留まった。ふと以前のことを思い出して、前に知った貝殻を使って身をつまみ出す小技もやってみたくなったんで頼んでみた。
一口食ってこれは違うと思った。以前は感じなかったはずの、おれの嫌いな貝特有の内臓っぽさが強い。あと貝殻からなんか釣り場の臭いがする。調理でそれらがいい塩梅になってる感じもない。
味覚には明確な優劣がある。高いものは手間がかかり希少であり、概して高い。口にすれば好き嫌いを超えて誰もを唸らせる「本物」がこの世には存在する。
おれはそういう美味しんぼ的世界観は採用せずに生きてるけど、ちょっとブレそうになった。エスカルゴも興味あるけどサイゼでファーストコンタクトを迎えるのはやめとこ。
まあ巷で気軽に食えるムール貝が偽物だなんて事はないだろうし、おれの嫌いな部分とてムール貝のアイデンティティの一つなんだろうと思う。それが逆に好みなんだという人もいるのだろうし、そこだけを除去して「本物」だなんて呼ぶのも違う。ムール貝とはそういうもんなのかもしれない。
おれはやはり貝が嫌いなんだと思った。
東京のカスヤローどもが、「アテクシ、美術館とライヴのない生活は無理でしてよ!」とか抜かしてんのを見ると、なんかスゲ〜ムカつくので、じゃあ家の周りに美術館がねえこの俺が、キサマより美術や音楽に詳しくなったるわ!という気持ちをもってのことです
やり方については詳述しねえ
詳しくは言えねえけど、ある海外人気の高い大型SNS(って言ったらもう分かりそうだけど…)で、美術とか食とか旅行とか写真みたいな、そういう徳の高いコミュニティ(5chでいうところの板みたいなものがメインのSNSなので、タイムラインを個人ではなくジャンルで作ることになる)をまとめたフィードを作って、それを毎日みる
カザフスタンの旅行写真とか、デトロイトスタイル・ピザとか、マックスフィールド・パリッシュの絵とか、Coq au vinっつうカッコいい上にうまそうなフランス料理とか、そういうものの知識が毎日流し込まれる
マックスフィールド・パリッシュの絵なんか、実際結構気に入った 名前を覚えるくらいに気に入った
冬の風景画の、明朝の深い青色の空の感じが非常に「わかる」感じで、大変よろしい
こういう風景、実際に目にして感動して、あとで見返そうと思って写真にとっても、ぜんぜん感動を切り取れないんだよな
絵で味わえるのはホントにありがてえ
今日見た中だと、秘密ですよ、Alex Colvilleという人のPacificって絵、これがマジで超カッコよかった
オーシャンビューの、開放的で生活感のない部屋で、上半身裸の男が気だるげに海を見ている、のを後ろから見ているって絵なんだけど、なんといっても手前の机にぽつんと置かれた拳銃が目を惹く
この銃はなんなのか、既に使われたのか、これから使うのか?男は何者なのか?何を思っているのか?
男の方から上がフレームアウトしていて、表情なんかがまったく伺えないのもシブい
この絵にインスピレーションを受けた映画があるっていうのも頷ける話だ これはカッコいいよ
いい絵を見ましたねえ!
実際、旅先で美術館行っても、あーこれモネなんだあ、モネって誰だっけ?マネと関係あるんだっけ?とか思って、ただ見たって事実に満足してしまって、画家のこととか個別の絵のエピソードなんて全然覚えないことが多い
まあそれはそれで贅沢なことで、非常に文化的であることは否定できねえが、しかし、東京野郎がそうしている間に俺は俺の組み上げた電子美術館で文化資本を積み上げていくぞ
そんで、東京から来たんスよ、とのたまう野郎のTシャツを見て言うんですよ、「あれ?この絵ってコルヴィルの"パシフィック"じゃないですか!カッコいいですよねえ」とかってさあ!「えっ…ああ、このシャツですか?へー…そんな名前の絵なんだ、気にしてなかった」「あら、そうなんですか?残念、マイケル・マン監督がお好きだったりするのかなと思ったんですけど!」
ウゼー 書いてて嫌になってきた
こんな瞬間は訪れなくていいんだけど、しかし、カードとして切れるものが増えるのは嬉しい
カードとして切るっつうのはなにもマウントを取るだけのことじゃねえ 適当に行った美術館で偶然見かけた絵の青色に見覚えがあって、これはパリッシュ・ブルーなんじゃねえの?!と思って作者名を見たら実際にそうで、ヨッシャ〜とか小声で言って、だれに共有するでもなく、ただマスクの下でニヤつきながら観光を続行、そういう瞬間に俺のもつカードは確かに切られているということになる
東京人の定義が金満家的に秀でた資本力だとすれば、「東京人な買い方」とはどういうものなのでしょうか?
また、東京人が必ずしも金満家であるとは限らないが、東京人はほぼ東京でしか買わないという意味で金満家と言えるというようなことを閃いたのですが、その場合金満家でない東京人は金満家に比べて商品やその内容、あるいは理解できる買い手が高級、金満家の方はカネにあかせて買い占める下衆というということになってしまうのでしょうか?
このようなことを言っている人がいました。
「「東京人」「けったくそわるい地方差別者」は似ていますが、「東京人」であってもとくに差別的にコメントしていなければ、「けったくそわるい地方差別者」とは言いません。
たとえばフランス料理とかイングリッシュ・ガーデンについて、ものすごく詳しく書かれてはいるけれど、著者が学者ではなく書き方も学術的でないような場合です。」ヨクワカンネーナー
この文章にならっていうなら、たとえば(フランス)料理のレシピ・製法についてけったくそわるい地方差別者の体裁で書くことは可能なのかということです。
もちろん元増田のエントリへの反応など差別臭を正義感的な立場で捉えることはできるでしょう。
でも一流のレスバトル人同士で情報を共有する方法として「差別的に書かれる」というのは共有することができるのかが疑問です。
そこにはきっと東京人だからこそ納得できる経験的な記述や精神論的なけったくそわるい気構えも書かれていると思うのですが、少なくともこれらはどうやっても東京人以外には書きようがないものな気がするのです。また全体として紳士的に書いても、私のイメージとしてはいたずらに小難しくさせるだけであって、かえって地方在住者にとってのけったくそわるい東京人の本質を伝えることの妨げににしかならないように思えるのです。
改めて質問ですが、「東京人でありながら紳士的に書く」とは具体的にどのような書き方なのでしょうか?一流の料理のレシピ製法などといった類の題材にも馴染みうるフォーマットなのでしょうか?またありとあらゆる分野において、金満家ではないが詳しく書かれたものより、学術的に詳しく書かれたものの方が高度な内容ということになるのでしょうか?
料理人もそうですが職人の世界において、いかに真髄に近いものが書かれているかということに高度かどうかの基準を置くなら、必ずしも学術的な書き方のほうがそうでない書き方よりも真髄に近いものを伝えられるとは思えないのです。ナニユウトルカモウワカラヘンデー
学術書の定義が学術的に書かれた本だとすれば、「学術的な書き方」とはどういうものなのでしょうか?
また、専門書が必ずしも学術書であるとは限らないが、学術書はほぼ専門家しか読まないという意味で専門書と言えるというようなことを聞いたのですが、その場合学術書でない専門書は学術書に比べて書き手やその内容、あるいは理解できる読者が低級、学術書の方が高度というということになってしまうのでしょうか?
このようなことを言っている人がいました。
「「専門書」「学術書」は似ていますが、「専門書」であってもとくに学術的に書かれていなければ、「学術書」とは言いません。
たとえばフランス料理とかイングリッシュ・ガーデンについて、ものすごく詳しく書かれてはいるけれど、著者が学者ではなく書き方も学術的でないような場合です。」
この文章にならっていうなら、たとえば(フランス)料理のレシピ・製法について学術書の体裁で書くことは可能なのかということです。
もちろんメイラード反応など料理を化学的な立場で捉えることはできるでしょう。
でも一流の料理人同士で情報を共有する方法として「学術的に書かれる」というのは想定することができるのかが疑問です。
そこにはきっと料理人だからこそ納得できる経験的な記述や精神論的な気構えも書かれていると思うのですが、少なくともこれらはどうやっても学術的には書きようがないものな気がするのです。また全体として学術的に書いても、私のイメージとしてはいたずらに小難しくさせるだけであって、かえって両人にとっての料理の本質を伝えることの妨げににしかならないように思えるのです。
改めて質問ですが、「学術的に書く」とは具体的にどのような書き方なのでしょうか?一流の料理のレシピ製法などといった類の題材にも馴染みうるフォーマットなのでしょうか?またありとあらゆる分野において、学術的ではないが詳しく書かれたものより、学術的に詳しく書かれたものの方が高度な内容ということになるのでしょうか?
料理人もそうですが職人の世界において、いかに真髄に近いものが書かれているかということに高度かどうかの基準を置くなら、必ずしも学術的な書き方のほうがそうでない書き方よりも真髄に近いものを伝えられるとは思えないのです。
なるほどフランス料理には多種多様の味付けがあるのかもしれない。もしかしたら知能が高いのかもしれない。
なぜだろうか?そもそも出汁とはうま味を与える調味料であって、フランス人はうま味をついに発見できなかった。すなわち、和食では6味の配合を変えることで味付けをしている。これに対しフランス料理では5味となる。普段の料理をする中で、たとえば塩味調味料を全く使わないで料理することが想像すらできないように、うま味だけを除くということも想像できない。フランス料理は、うま味調味料ナシという制限の中で頭を使ってうまく工夫していると言えなくもないが、いかんせん彼らの味覚には欠陥があるのだから、彼らの作るものもまた欠陥をもつ。三つ星レストランよりも吉牛の方がしばしばうまいのは、文字通り別次元の存在だからなのだ。
中国ではうま味を加えるために、出汁の代わりに味の素を使うようになっている。味の素はコスパ最高だから、躊躇なく味の素を使う中華料理は、出汁一辺倒の和食よりも知能が高いかもしれない。