はてなキーワード: 現代の音楽とは
ちょっと大袈裟なタイトルだが、FMで毎週番組を担当している(していた)司会者からも番組中で番組編成に対して苦言呈されるほどなので、結構な異常事態だと思う。
【前提】NHK-FMは音楽番組が中心である(あった)。音楽を主に聴かせる朝昼のクラシック番組、正午のニュース後は同じく音楽中心の歌謡曲番組、夕方は若者向けの番組(赤い公園の津野米咲さんも週イチで担当されていた…)。
夜はクラシックの演奏会のライブ録音番組放送後、若者向けの音楽番組。ミュージシャンインタビューやパーソナリティの語り多め。
概ねこの編成であったが、NHK-AMの1波廃止決定以降大幅に変わった。ちなみにまだ廃止はされていない。
まず語学番組がFMでも同時放送されることになった。朝6時からニュースを挟んで朝の8時までが語学番組枠に。
FM放送開始して間もなくの1963年から60年以上、朝6時の枠で放送されていたお馴染みのクラシックの古楽番組が朝5時に追いやられた。
(ちなみにNHKFMの本開局は1969年だが、1957年より実験局として放送開始している。)
夕方の若者向け番組も廃止。およそ2時間の枠がレギュラー番組の再放送枠になった。
(AM廃止で枠を失う芸人やアナウンサーのバラエティ番組を押し込むために空けたんじゃないかと邪推している)
長年親しまれている古楽番組の移動はリスナーから悲鳴が上がった。かなりマニアックな盤もかける番組なのでネットの聴き逃しの権利が取れず一部の週を除き聞き逃し配信が不可、聞きたければ5時に起きるしかなかったのだ。
抗議がかなりあったようで、今年ようやく6時に戻された。
そして昨年あたりから顕著になったのがレギュラー番組の再放送の激増と、季節ごとの特別番組の激減である。
元々は、5週ある月の5週目は再放送であることが多かったが、それ以外の週も「反響が大きかった回を特別に選んで再びお送りします」という体裁での再放送が増え始めた。週1で1ヶ月に4回しかないレギュラー番組なのに、月に1〜2回は再放送になる。
一番酷かったのは今年3月に終了した「洋楽グロリアスデイズ」である。これも前身番組含めて長く続いていた洋楽懐メロ番組だったのだが、終了の告知が2月で、2月3月は最終回を除き全て再放送。番組司会者もX(Twitter)で戸惑われていた。
そして、国民の祝日、夏のお盆休み、年末には特別編成の番組が放送される事が多かったのだがそれらもほとんど無くなった。
祝日には「今日は一日◯◯三昧」という生放送の特集番組を朝から夜まで放送することが多かったが、昼からになり、そのうち番組自体がほとんど放送されることがなくなった。
夏や冬には昔の人気番組「クロスオーバーイレブン」「夜の停車駅」が1週だけ復活、ということもあったがそれも無くなり、レギュラー番組の再放送で埋められることになった。
さらに今年3月から先行放送された新番組「マイ・フェイバリット・アルバム」、週替わりのゲストパーソナリティがお気に入りのアルバムを5枚紹介する番組だが、のっけから再放送だらけである。
ここから1ヶ月間、5月20日分まではヒャダさんから放送やり直しの再放送が続く
6月11日〜栗本斉
あからさまに予算を減らされている。それでテレビではプロジェクトXみたいな偏向回顧番組作ってるんだから文句の一つも言いたくなる。
おそらくはてな民はラジオはANNくらいしか聞いていないだろうし、NHKFMなんて金の無駄だから無くしてしまえくらいにしか思ってないだろう。俺らのお眼鏡に適わない、金にならない文化なんか消えても困らない、という空気は感じる。しかしクラシックを日本に紹介し続けたり現代の音楽を記録し続けたりとその意義は大きい。
しかしNHKでも予算は無限ではないし、近年は特に大きな話題にならないものは消していこうという姿勢のようだ。
儲かる儲からない関係なく、文化の記録を残していけるのはNHKにしか出来ないと思っているのだが、NHKはもうそうはしたくないように見える。音楽がじっくり聴ける番組は今後更に減っていくし、レギュラー番組も年間に制作されるのは全週の三分の一ほどで、後はずっと再放送、になるのかもしれない。
世知辛さを感じている。
ちなみにNHKに番組編成に関して意見を書く場合は、番組のサイトから送るよりもNHKのトップページのご意見欄から送る方が良いそうだ。
番組宛てだと番組スタッフしか見ないが、NHKへのご意見ならえらい人の目に入る可能性もあるそうで。これ3月に(NHKAMからの引っ越し組だった)番組が終わったヤバTが最終回で言っていたので、間違いないと思われる。
私の名前はここでは明かせませんが、かつてはステージで光り輝く歌手でした。2017年、夢に満ちた心と歌声を武器に、音楽の世界に飛び込みました。しかし、今ではその光はすっかり影を潜め、日々は子育てに追われる母としての生活に変わっています。
私の音楽キャリアは、短いながらも濃密な4年間でした。曲を作り、ステージに立ち、人々の心に響く歌を届けようとしました。しかし、現実は厳しく、私の音楽は大きな反響を呼ぶことはありませんでした。SNSでの拡散を試み、バズを狙いましたが、それは燃え尽きることと同義でした。夜遅くまで目を凝らし、フォロワーの数を増やすための戦略を練りました。しかし、それは音楽への情熱を燃やすことにはならず、ただの数字の追求に過ぎませんでした。
2021年、私の人生に新たな命が宿りました。妊娠が発覚し、それは私にとって活動を終えるタイミングでした。今では2人の子供の母として、新しい喜びと挑戦に満ちた日々を送っています。子供たちの笑顔は、かつてのステージの光よりもずっと温かいです。
SNSの世界では、拡散されなければ存在しないのと同じです。私の音楽がどれほど心を込めて作られたものであっても、それが拡散されなければ誰の耳にも届かない。これが現代の音楽業界の現実です。私は周りには「良い夢を見れた」と言っていますが、心の中では不満を感じています。音楽の良さが認められることなく、SNSでの拡散が全てを決めるのですから。
しかし、私は後悔していません。音楽という夢を追いかけることができた幸せ、ステージで歌えた喜び、そして今、子供たちと共に過ごす時間。これらすべてが私の人生を豊かにしてくれています。私の歌はもう大きなステージで響くことはないかもしれませんが、私の心の中ではいつも歌っています。そして、私の子供たちには、夢を追いかける勇気を持ってほしいと願っています。
私の物語は、SNSで拡散されることはないかもしれませんが、私の心の中で、そして私の家族の中で、永遠に生き続けます。そして、もし私の歌が誰かの心に届いていたなら、それは私にとって最大の報酬です。私の歌手としてのキャリアは終わりましたが、私の物語はまだ続いています。そして、これからも、私の心の中で歌は永遠に響き続けるでしょう。
ウィリアム・モリスの講演「芸術の目的」における分業と競争に関する言及(https://www.marxists.org/archive/morris/works/1882/hopes/chapters/chapter4.htm)
Will you, therefore, look upon me as a craftsman who shares certain impulses with many others, which impulses forbid him to question the rules they have forced on him? so looking on me you may afford perhaps to be more indulgent to me if I seem to dogmatise over much.
Yet I cannot claim to represent any one craft. The division of labour, which has played so great a part in furthering competitive commerce, till it has become a machine with powers both reproductive and destructive, which few dare to resist, and none can control or foresee the result of, has pressed specially hard on that part of the field of human culture in which I was born to labour. That field of the arts, whose harvest should be the chief part of human joy, hope, and consolation, has been, I say, dealt hardly with by the division of labour, once the servant, and now the master of competitive commerce, itself once the servant, and now the master of civilisation; nay, so searching has been this tyranny, that it has not passed by my own insignificant corner of labour, but as it has thwarted me in many ways, so chiefly perhaps in this, that it has so stood in the way of my getting the help from others which my art forces me to crave, that I have been compelled to learn many crafts, and belike, according to the proverb, forbidden to master any, so that I fear my lecture will seem to you both to run over too many things and not to go deep enough into any.
19世紀の芸術家であり社会思想家でもあったウィリアム・モリスは、1880年に行った講演「芸術の目的」の中で、分業と競争が芸術に与える悪影響について鋭い指摘を行っている。モリスは自らを「多くの職人と衝動を共有する一人の職人」と位置づけた上で、かつては商業の下僕だった分業が、いまや文明そのものを支配するまでに至り、本来は人類の喜びと希望、慰めの源であるはずの芸術をも困難な状況に陥れていると訴えた。
モリス自身の仕事も例外ではなく、分業の弊害により他者の助けを得ることが難しくなり、多くの技術を学ばざるを得なくなる一方で、どの技術も極められなくなってしまったと吐露している。
この指摘は、現代の音楽制作における問題にも通じるものがあるのではないだろうか。チームの肥大化と制作規模の拡大に伴い、個々のクリエイターの芸術性が発揮しづらくなり、音楽のおもしろさが失われていくのではないか?分業と専門化が進むほど、全体を見渡せる人材が不足し、音楽の芸術性が損なわれるという事態が、いま起こっているのではないか。
主人公がバスに轢かれて事故に合うことで異世界に転移するという、
ただ、いくつか異なる点がある。
そのひとつは「ビートルズ」が存在しなかった世界線ということだ。
幼馴染の女性マネージャーに告げたその夜に事故にあいビートルズが居ない世界へと転移する。
主人公はビートルズのいない世界で、ビートルズの楽曲を自身の作であると偽り発表して世界的な名声を得ていくことになるが……果たして?
というのが序盤のあらすじである。
事故にあって(トラックではなくてバスだが)世界線を移動する、
というのはやはり日本のアニメの影響があるんだろうか?とか思いながら見ていたんだけど、
ふと思った。
果たして、ビートルズがいない世界でも、音楽の世界は現代の音楽シーンと同じものとなるのだろうか?
映画にはエド・シーランが本人役で出ていて、本人の歌を本人がそのまま歌っている。
つまりビートルズがいないことの影響を受けていないことを読み取ることが出来なくもない。
でも、これって多分無理じゃないか?
進化ツリーみたいなものが割りとハッキリとしてる世界じゃない?
(わかりやすくいうとバッハとかモーツァルトがいないとしたら?ということ)
その中で「ビートルズ」の不在が果たして全く音楽シーンに影響を与えないことなんてあるのか?
ということが映画よりも気になり出し始めたところで、はたと気づいた。
これはあれだ、キリスト教原理主義みたいな考え方で回避すべき疑問なのだ。
映画の中でも、一言二言だがだがこの転移が神の奇跡であることを示唆するセリフがさりげなく入れられている。
つまり、これは神が世界を創造した時に人間が聖書の中の記述と食い違うような考古学的発見をするような世界を創造されたということだ。
ダーウィンの進化論が導き出されるような世界をなぜか(なぜなんだろう?)神様は天地創造の時にお作りになった。
と同じことで、神様はビートルズがいないにも関わらずビートルズがいたのと全く変わりなく音楽が発展した世界を創造されたのだ。
別の世界線に。
そういうことで納得した。
色々とビートルズの小ネタたくさん詰め込まれている映画なのだろうが筆者はあいにく詳しくなくてほとんどわからなかった。
それにしても、もしも君たちが同じ立場だったらどうする?
とても有名で君には馴染み深い作品が存在しない世界線に飛ばされたら?
君が売れない小説家をしていて、村上春樹がいない世界線に飛ばされたら?
君が漫画家をしていて、ハンターハンターが存在しない世界線に飛ばされたら?
どうするんだろう。
https://news.biglobe.ne.jp/economy/0422/pre_230422_6727081278.html
ASDの人のこだわりは「常同性への固執」といわれますが、なぜ、そういう特性があるのかはよくわかっていません。当人に尋ねてみても、はっきりした返答は得られません。おそらく、それが彼らにとって“当たり前”だからなのではないでしょうか。
理由を推測すると、ASDの人は外界(自分の外側の世界)の変化についていくために、定型発達の人と比べ、はるかに多大な努力を要しており、日々の生活を送るだけでも疲れてしまうことが考えられます。もし、外界が“固定”されている状況であれば、彼らは安心できるのでしょう。
ASDの人のなかに、いつも同じ鉄路を同じ時刻に走る鉄道が好きな人が多いのはそのためです。また、カラオケで歌うのは昭和歌謡に限るという人もいます。過去の歴史は絶対に変わることがないので、流行がめまぐるしく変わる現代の音楽よりも、昭和歌謡のほうが安心感を与えてくれるということではないでしょうか。
仰っしゃりたいことはわかります。でもまあ時代時代で流行りがありますからね
(と言っても、今チャートに上がっている曲が「先進的だ」などとは全く思いません
それこそ「いつの時代の曲だよ」と感じるものもあります。新鮮味がない
一方でびっくりする程惹かれる変わった曲とかもあります
本邦に於いて昨今流行っているボカロ系の曲・歌手なんかは10年前に一部で流行ったものがやっと世間に出てきたわけで
今更感が強いですよね。あと、一様にジャケットがイラストになっているのも笑います。既存のアーティストまでソレ系のイラストにしている
それでもやっぱり「みんなが面白いと感じて惹かれる」曲・声なんだなと思います)
増田さんはこれからも80年代90年代のロックバラードを聴き続けてください
(というか、現在売れている様なバンド・アーティスト達があの時代の曲をカバーしたら流行るんじゃあないですかね
別にああいった曲が「古臭い」とは感じませんし。普通に現代でも聴けると思います
日本の昔のシティポップだって流行ってるそうじゃあないですか。海外で
少し前に音楽ディグどうしてる?との話題が増田で盛り上がり大いに参考にさせていただいた。
当増田はネットでは主にSoundcloudを使わせてもらっているが、精度が良すぎて似た感じの曲ばかり集まってしまう。
それはそれで嬉しいが、自分では聞かないような意外な曲を聞いてみたい。そこでラジオのすすめ。
NHKFMだと音楽メインの番組が多く、CMが無いのでストレス少ない。
更に最近は聞き逃しサービスを提供している番組が増え、番組終了後一週間はいつでも何度でもネットで聞ける。聞き逃し対応の番組をおすすめしてみる。
https://www.nhk.or.jp/radio/ondemand/
ゴンチチの案内する「ちょっと変わった切り口で色んなタイプの音楽がかかる」番組。毎回テーマを決めてゴンチチのお二人と選曲担当者が選んだ変な曲が色々かかるので、自分からでは絶対聞かないタイプの曲が毎回かかり、たすかる。この番組きっかけで聞くようになったミュージシャンもいる。今朝は「ハニーの音楽」というテーマでハニー・ナイツの「サスケ」がかかっていた。途中のセリフが迫真の演技力で面白かった。
4人のパーソナリティが週替りで出演。
個人的にはサラーム海上氏の週がおすすめ。世界の最新ワールドミュージックが色々聞けて楽しい。
紺野美沙子氏の週は映画のサントラ、榊原広子氏(ダ・カーポ)の週は懐かしポップスや童謡、合唱曲等、向谷氏の週は電車にまつわる曲色々、ジャズや歌謡曲がよくかかる。
今年4月から聞き逃し対応になった。たすかる。クラシックダラ聞きに。その日のテーマに沿って色々クラシックがかかる。交響曲まるごと一曲とかもかかる。曲の合間に豆知識教えてくれたりもする。たすかる。
月一回しか放送してない幻の番組「鍵盤のつばさ」。なぜ月一なのかというと、NHK交響楽団の演奏会の中継が入る日のみの放送なので。聞き逃し対応になったのでうっかり聞き逃しても大丈夫、なのだが普段はこの時間、あの曲者番組「クラシックの迷宮」を放送しているので多分迷宮ファンなら聞き逃さない。
作曲家でピアニストの加藤昌則氏がテーマに沿って鍵盤曲の魅力を語る番組で、軽妙な語り口が楽しい。
4月から聞き逃し対応になった現代音楽の番組。現代音楽の新作をばんばん流してくれる太っ腹番組。NHKはこういう番組は残していってくれないと。日本の貴重な音楽の歴史を記録し後世に残していくために。
番組の進行は作曲家の西村朗氏、いつも番組冒頭で「作曲の西村朗です」と仰る。「作曲の」ってのがなんかいい。
以前はてブでホッテントリ入りしてたオモコロの現代アートの記事で https://omocoro.jp/kiji/152982/
三杉レンジ氏が「アート業界では作品の言語化は前提として必要不可欠なもの」と仰っていたが、西村先生はこの言語化がとても巧い。増田のような素人にもスッと音楽が入ってくる。
更に西村先生は話がめちゃ面白く、ゲストが来る回は大体爆笑トークになるのでもう絶対聞く。
聞き逃し対応ではないが「クラシックの迷宮」(土 19:20〜21:00)も面白い。これ絶対はてなー好きなやつ。政治学者でクラヲタの片山杜秀氏の番組。かなりの曲者番組で、片山氏は旧東側の音楽と日本の現代作曲家に詳しいのでそっち系の曲が割とよくかかる。日本の現代作曲家がやっていた劇伴もよくかかる。特撮とか。先週もニーチェの話からウルトラマンとウルトラセブンかかってた。
あと片山氏、子供の頃からテレビの音を録音するのが趣味だったそうで、NHKも持ってないような貴重な音源持ってたりするそうな。
ここまでおすすめしておいて何だが、NHKFMには少し怒っている。
朝6時といえば60年前から古楽番組をやっていたのに、数年後のAM一波停止の煽りか朝6時台を英語番組に取られて朝5時台に追いやられてしまったのだ。予算削減だから当たり前だろ番組なくなってないんだからいいだろーが、と言われるとつらいが、こちらも数十年は朝6時の古楽聞いてきた身である。AM波停波はまだ数年後だが、今後語学以外にも芸人のバラエティ番組等も次々引っ越してきてFMは音楽番組中心のラジオではなくなっていき、おそらくクラシック番組から削られていくのだろう。クラシックジャンルの中でも聞く人の少ない古楽と現代音楽から削られるのではないかと懸念している。金にならん文化なんか消えるべき、という考え方が増えてるのもわかる。役に立たない音楽より明日の食い扶持、というくらい国民生活は逼迫しているし。でも消えてほしくないんだよ日本の現代音楽は………歴史は記録しないと消えてしまうんだ。
拍子は曲の1小節あたりで基準となる音符がどれだけ入ってるかを示すもの
4拍子は何かの音符(ほとんどは4分音符)が4つ入ってるから4拍子で4/4(4分の4拍子)
1小節あたり8分音符が4つなら4/8(8分の4拍子)
3拍子なら4分音符が3つで1小節なら3/4、16分音符なら3/16になるわけだ
8ビートは1小節に8分音符に相当するリズムが8個入ってるから8ビート
分かりやすいのはドラムでリズム刻んでるやつだけどドラムとインストやヴォーカルが分担する場合もある
これを16分音符に置き換えたのが16ビート
だから、何かの曲の解説で8ビートだの16ビートだのが出てきたときは、その解説をする人や聞く人にとって常識的に把握できる4拍子が念頭に置かれてるし、
それを作る人もまあだいたいはその常識のうちで作曲してる。少なくとも出版される楽譜はそうなってる
しかしながら、例えば3拍子の曲で8ビート風のリズムを取るならそれは6ビートになるべきか?16ビート風なら12ビートになるべきか?
というとそうはならない
12ビートといえば4/4を12等分したものを念頭に置くし、そのだいたいが12/8で説明される
しかし12/8で説明されようとも結局は8分音符3つ分でひとまとまりにするケースがほとんどだし、そういうリズムパターンで作られた曲は4拍子的だろう
YOASOBIしらんのでYoutubeで一曲MVを聴いてみたけど、なんとなく言ってる意味わかった
ギターやピアノのような生楽器の音について話している場合と、シンセの音を想定している場合とで説明が違ってくるが、たまたま今聴いた曲のイントロがピアノだったのでここではピアノを例に挙げる
とりあえずショボいピアノ音源の代表として、RolandのSound Canvasのデモを聴いてもらいたい(0:50~ぐらいから聴くとわかりやすい)
https://www.youtube.com/watch?v=uPQa7trDFpA
いかにも機械的な音色(ちなみにシンセの文脈ではおんしょくと読む)だと感じないだろうか?
理由は明白で、これは非常に古い時代の音源なので、データサイズが非常にちっちゃい
どれくらい小さいかというと、Roland SC-88の場合はピアノ以外にも数百種類もの音が収録されてるのに、全部あわせて8MBのROMに納めているらしい。てことはピアノ一個のデータは100KBくらいしかないんじゃなかろうか
みたいな涙ぐましい工夫をしなきゃいけない
当然この場合「鍵盤の同じキーを10回叩けば10回とも完全に同じ音が出る」「鍵盤を強く叩こうが弱く叩こうが常に同じ音が出る(さすがに音量だけは変わる)」といったいかにも不自然な特徴を持つ「ショボい音色」になる
(注:この時代のピアノ音源は録音ではなく合成波形で表現している可能性の方が高いかもしれないが、後段のしくみは一緒だろうし今は細かいことは置いておく)
ところで現代の音楽製作ではHDDもメモリも潤沢に使うことができるので、一台のピアノを表現するために平気でファイルサイズ6GBくらい使う
以下は\13400で買える音楽製作用ピアノ音源のデモである。録音データのサイズは圧縮前で13.7GBあるそうだ
https://www.youtube.com/watch?v=7YBwoHEI-fA
人間が弾いてるデモじゃねーか!とつっこんではいけない。先程のSound Canvasのような古い音源だったら、たとえ人間が生で弾こうが機械的な音しか出ないのだ
一方現代のサンプリング音源は「弱い音」「少し強い音」「すごく強い音」をちゃんと別録りしているし、さらに同じ高さ・同じ強さの音でも複数収録してランダム性を持たせることで機械感を回避したりしている
それだけのデータ量とPCパワーを費やしているからこそ、人間が生で弾いた時にちゃんと生っぽい演奏音を出してくれるのである
(なお現代のリッチな音源といえども、手抜きして「全部の音符を一定の長さにする」「常に一定の強さで弾く」といった機械的な打ち込みをされると不自然さを隠しきれなくなり、ショボ音源に近く聴こえる)
じゃあ前者のような「ショボい音色しか出せないピアノ音源」に存在価値あるの?という話だが、前者の製品は'90年代に発売されたショボい機器の音をわざわざ現代でも使えるようにソフトで復刻したもの
つまり「30年前のあのショボい音色が持つ独特の懐かしさ」が好きな人がいるからこそ復刻しているわけで、存在価値はあるのである
あとメモリ消費量が少なくて済むし、メーカーとしても収録にさほど手間をかけずに作れるので、安価な製作環境に同梱されているオマケのような音源は(さすがに30年前レベルではないにしても)これに似たショボい音であることが多い
YOASOBIが意図して使ったのかどうかはわからんけど、YOASOBIが好きと言っている人はこういうショボい音色が持つレトロ感が刺さったんじゃね?
現代の平常運転なんだろうけど、自分の記事に読解力のない的外れなブックマークコメントにスターがいっぱいついて上位にランクインしてると暗澹たる気持ちになる。
それってつまり、記事を全部読まないうちに結論を出しているってことですよね。お前が思うんならそうなんだろうお前の中ではな、と言わざるを得ない結論を。
これは、YouTubeの視聴者はガマンせず待てないので、少しでも動画に間があるとスキップしたり視聴をやめたりするのと同じ傾向なんだろうか。
YouTuberが基本的に早口で喋ってスキマ無く編集する(ジェットカット)のは、そういった忙しい視聴者に最適化して適者生存した結果らしい。
現代の音楽ってイントロが短くなっているそうだ。同様に歌が始まるのを待てないせっかちな人がそれだけ多く、聴いてもらえないので、適者生存で短くなったのか。
ワイが小学生のころ、先生が授業中に「いまの子どもは15分しかガマンできない。TVCMが15分ごとに入るから」とか言ってたが、いまの子はそれが15秒にでもなっているのだろうか。
個人の時代感覚って大きく分けて「生まれる前」「小学校低学年ぐらいまで」「学生の間」「それ以降」に分かれるのかなと思っている。
だから1980年前後生まれの自分の場合オイルショックが少し面白い。
第二次(1980-81)は、記憶は無いけどかーちゃんは幼い俺を抱えて右往左往したのかな、と少し当事者感覚がある。
1990年代後半は今でも有名な人だと、B'zやミスチル、TMR、ポルノグラフィティ、山崎まさよしとかが活躍してた。
だから、当時学生だった自分は、音楽的な感覚だと「現代の音楽」という感覚がある。
でもこれは、例えば今20歳の人からすると「生まれる前からの人」なので、前時代の音楽に感じるのかな、と思う。
自分の感覚に置き換えると、例えば「神田川」のかぐや姫や「結婚しようよ」の吉田拓郎とかに対する感覚に近いのかなと。
(この辺は各世代の人に詳しく聞いてみたい)
「それ以降」に関しては興味ある分野はある程度変遷が分かるけど、無い分野は全部まとまっちゃうね。
例えば自分はアイドルには興味薄いので、モーニング娘はまだしも、AKB・ももクロ・欅坂も全部ごっちゃの「最近のアイドル」という感覚。
ガーナで『よさこい踊り』が独自の変化を遂げ、超クールなダンスへと進化していた「完全にアフリカンナイズされている」 - Togetter https://togetter.com/li/1287106
高知県民ではないので伝統のよさこいというのがどういうものなのか知らないが、
ググった限りだともともと盆踊りと同じようなスローペースの踊りらしい。
それが今やドラムやらベースやら電子音が鳴り響く音楽に合わせて踊る集団舞踏パフォーマンスとなっている。
現代の音楽と昔ながらのYOSAKOIの融合、初めて知った時、これは新しい時代の祭り始まったなと思った記憶がある。
地元で人気の踊りはそれなりにあるけれど、それらは地元を離れられない。
地元を離れても受け入れられ、ローカライズされてもなおアイデンティティを失わずに居るのはYOSAKOIだけだ。
あと関係ないけど東京に来て「よさこい」と表現されているものが
書いてることは概ね間違ってないけど、結論は間違ってる。
大衆がシンプルでキャッチーな音楽を求めるという見方は全く間違っていないし、実際にその理屈のもとで大成功を収めたベリー・ゴーディ・Jrという人物がいる。彼はもともとジャズが好きで、ジャズ中心のレコードショップを開いていたのだけれど、売れるのはより音楽的に簡素で演奏技術も高度でないドゥー・ワップやダンス向きのジャンプ・ブルースやロックンロールで、自分が売りたいものが全く売れなかったという苦い経験があり、そこから“リズムが豊かでわかりやすく楽しい音楽を作る会社”であるモータウン・レコードを創設し、ミラクルズ、スプリームス、ジャクソン・ファイヴといったミュージシャンを輩出していったという経歴がある。
音楽理論的に高度であるということが音楽的に優れている、という見方は極めて安直で、音楽理論的に高度な音楽は音楽理論的に高度な音楽なのであって、優れた音楽であることとは直結しない。
アメリカ、及び現代の音楽史を語る上で、アメリカの黒人奴隷(強制労働者)が生み出したブルースは欠かせないけれど、ブルース自体はごく僅かなコード進行からなる、元増田の言葉を借りて言うなら“音楽理論的に低レベルな”音楽だ。けれども、ブルースが持つ音楽的価値というのは極めて大きなもので、黒人がより高度な音楽教育を習得するようになった1950年代以降においてもシンプルなギター演奏だけで音楽を作り続けるレッドベリーやライトニン・ホプキンスといった黒人ブルース・シンガーの評価は続いていたし、更には彼らの直系の影響下にはウディ・ガスリー、ボブ・ディランといったビッグネームがいて、彼らについてはもはや言うまでもない。
それに、理論的高度さを追求する人間はシンプルな音楽を“低レベル”であると見做している、というのも違う。
例えば増田の言う現代音楽の分野で成果を残しているフランク・ザッパのキャリアはドゥー・ワップやリズム&ブルースといったシンプルな黒人音楽の内面化から始まっているし、生涯に渡ってこうした音楽に興味を持ち続けていた。ロックの文脈ではアヴァンギャルド、ノイズ、シューゲイザーの先駆者であるルー・リードもボビー・ルイス、アイズレー・ブラザーズ、ファッツ・ドミノ、フレディ・キングといった50年代の黒人ポップスの愛聴者だったし、日本でも山下達郎のジェームズ・ブラウンはじめ60年代のソウル・ミュージックの愛好ぶりはよく知られているところ。
というように、わざわざ結論を書き直すまでもないけど「音楽理論的に高度な音楽だけが優れた音楽であるというわけではない」ってこと。
>アーティストでも、若いころは電子音バリバリの歌を歌っていたのが、歳を取るにつれアコースティックな静かめの曲ばかり歌うようになったとか
これのわかりやすい例にロッド・ステュアートがいて、彼も年齢を重ねるに連れてビバップ以前、あるいはポップス寄りのジャズ・スタンダード(わかりやすい音楽)を積極的に採り上げてカヴァーしてます
それはおかしい。
カレーを皿で食っても、便器で食っても、カレーの味は同じか?と聞かれると
人間にはブラシーボ効果があって、きれいな器で食ったほうが美味しく感じる。
同じように、音楽にもブラシーボ効果はある。 だから PVつくったりするんだろ。
物語によって味付けされた音楽は、情景が目に浮かぶという効果によって、より良く聞こえる。それは人間である以上仕方がない。
逆に、物語やその他の物によって音楽が変わらないとするなら、CMのイメージ戦略を真っ向から否定しているので、ほぼ現代の音楽屋は電通との兼ね合いも合ってそんなことは言えない。
アマオケで弦をやって10年以上経つけど、未だに管の人達の曲の嗜好がよく分からなかったりする。
とにかく管の人達って、ロマン派後期から近現代の音楽をやりたがる感じなのだ。
近現代くらいからしか定席のないトロンボーンやチューバがこの傾向なのはまだ分かる。
ティンパニ以外の打楽器も、やはり近現代から積極活用され始めたので、これまたそっちをやりたいだろうと思う。
しかし木管やトランペット・ホルンまで含めて、総じて上に書いたような、言い換えれば「割と大編成志向」なのはどういうことだろう。
スコア眺めてる限り、モーツァルトやベートーヴェンやブラームスの管楽器パートだって十二分に面白そうなのになあ。
木管ホルンの深みのある印象的なアンサンブル、トランペットとティンパニのカッコいいアクセント、どれも弦じゃ絶対経験できないし。
ちなみに弦の意見として言わせてもらうと「オケは弦の豊かな響きが基盤」という意識が非常に強いです。
またヴァイオリンやチェロのメソッドは古典的な造りの曲や、バロックを基本としていたり。
なのでそれに沿ったオーケストレーションをする古典派~ロマン派前期くらいが、どうしても好みになるわけで。
一方、楽器の限界に挑戦するような、弾いててやたらくたびれる書き方をしているロマン派後期以降はちょっと・・・という感じ。
管打楽器の数も多いので、それに負けないよう人をかき集めようにも、曲によっては技術的に難しすぎて、ゲネ本しか来ないようなエキストラにはまず期待できないなんて事情も。
重なってきたよ。
本日は売れないミュージシャン兼音楽評論家Aさんに現代の音楽シーンについて語ってもらいます。
では。
インタビュアー(イ):現代の音楽シーンについてどう思われますか?
A: どう? どうもこうもない。なっとらん。
イ:は?
イ:どういうことでしょうか?
A:私の音楽は世界基準を元に作っている。それが認められないというのは日本がおかしいのだよ。
イ:(ちょ、なんか流れが怖いぞ方向を変えねば)
は、はあ。では話題を変えまして。現代の音楽シーンをにぎわしているGIRL NEXT DOORについてどう思われますか?新人ながら先日オリコン一位を獲得しております。ボーカルのかわいさとダンスの切れが特徴かと思いますが。
A:は?あの頭の長いボーカルがかわいいなどと目が腐っているのかね?盆踊りのようなダンスを素晴らしいなどと思うはずが無い。もっと音楽を勉強したまえ。
イ:(お、おい全否定かよ)
え、え、えーとでは東方神起はいかがですか?イケメンに4人のハーモニーが特徴的かと思われますが。
A:は?整形ボーカルグループがどうしたって? 売れてるとはおかしいな。所詮AVEXの自社買いと工作員の仕業であろう。もっと音楽を勉強したまえ。
イ:(何これ陰謀論?)
A:ああ、そうだな。陰謀めいた物を感じるね。みんな音楽の勉強がたらんのであろう。そうこの音楽を聴きたまえ。これは良いぞ。世界基準だからな!
は、はあなんとなく良いような気がします。
A:気がするではない!良いんだよ!もっと音楽を勉強したまえ。音楽を。では私の音楽も聞きたまえ。
イ:(はあ、なんだろうかこの押し売り展開は)
んー。良いんじゃないですかね。
A:良いんじゃないですかじゃない!良いんだ!君はほんと音楽を勉強した方が良い。世界基準は最高!それに従った私の音楽も最高なのだよ!
イ:(はあ、何だこの人世界基準の単なるうけうりじゃないのかしら?)
そうなんですか。はい。