はてなキーワード: 殺人者とは
あまりに偏向で過剰な報道が毎日のように続き、一緒に斎藤氏を叩かない者には石が飛んできそうな空気まであった。
実際に手を下したわけでもないのに、殺人者だと平然と罵る人が続出。
ここでもXでも殺人者殺人者の合唱だったし、パワハラ県殺人県みたいな差別も垂れ流しだったな。今もだけれど。
炎上が人を自殺に追い込む事例なんてみんな知っているはずなのに、斎藤氏だけはバッシングしてもいいと思っている。
あのね、「人が死んでいる」っていうのは、「加害者とされる人物をいくらでもバッシングしていい」ってことじゃないよ。司法って忘れたの?
あまりに偏向で過剰な報道が毎日のように続き、一緒に斎藤氏を叩かない者には石が飛んできそうな空気まであった。
実際に手を下したわけでもないのに、殺人者だと平然と罵る人が続出。
炎上が人を自殺に追い込む事例なんてみんな知っているはずなのに、斎藤氏だけはバッシングしてもいいと思っている。
あのね、「人が死んでいる」っていうのは、「加害者とされる人物をいくらでもバッシングしていい」ってことじゃないよ。司法って忘れたの?
この過剰なバッシング一辺倒を、オールドメディア()が仕掛けたことだったのか、数字が取れるからという単なるワイドショーの悪癖だったのか、それは自分には分からん。
しかし、あの時期の報道はあまりに度を越えていた。それだけは事実だと思う。それが、立花氏の説に一種の真実性を持たせた(あるいは、そういうストーリーが付け入る状況を作った)
百条委員会も酷かったでしょあれは。粛々と事実を明らかにしていく場のはずなのに、議会の連中はヘラヘラ笑いながら学級会みたいなノリで斎藤氏にバッシングを浴びせていた。
挙句の果てにはまだ百条委員会が終わっていない(事実が明らかになり切っていない)段階で民意()におもねって不信任を出しちゃう始末。
立花氏が出てくる前から、いくらなんでも過剰すぎないか、人が死んでるけど斎藤氏も人だぞ、と思っていたよ。
任期満了日に誰も見送りにこないって、そんなの出てこれるわけないでしょ。カメラもあって、民意()はバッシング一辺倒なんだから。仮に斎藤氏支持の職員がいてもあの場には行けないって。それくらい考えたら分かるでしょ。
なにが真実とか、なにが嘘とか、そういうこと以前にさ。あの、水に落ちた犬にみんなで石を投げるような空気そのものが、この実験場のような選挙戦のトリガーになってるんだよ。
これが兵庫県民の民意とか言ってしたり顔してるお前だよ。斎藤氏を一緒になって過剰にバッシングしていたお前にも責任の一端があるんだよ。
結局弱者男性がキレて無敵の人になったところで、お前は何者になれるわけでもない、ただの惨めな殺戮者でしかないんだよ。
無敵の人になんかなるよりも、幸せに生きる道があったにも関わらず、あえて殺人者になったのは、誰でもないお前自身の選択のせいだよ。
無敵の人として暴れたら何者かになれるっていうのはただのお前の薄っぺらい妄想だよ。現実のお前は何も変わらないんだよ。
予告編はあのままアーサーがジョーカーとしてアメコミのヴィランになれた話をやるんだ、と思い込ませるめちゃくちゃ誤解を生む内容。
加えて火事で脱走したり裁判所爆発したりするシーンとかで何度かフィクションの世界にいけると期待させといて、突き放す。
そして、結局前作では一番の”弱者“でありアーサーの事を思ってくれていたゲイリーを傷つけていたんだぞ、っていうのを突きつけて、前作の「弱者から強者への復讐」という物語の要素を、弱者がさらに弱者を痛めつけていたという要素も引っ張ってきて否定した。だからアーサーはゲイリーと話した後に、自分がジョーカーではないと語った。
「ジョーカー」を観て無敵の人になることに「共感」しちゃう観客がかなりいたこと、実際に模倣犯が出たことで、徹底的にそこを否定する流れにしたのかなって思った。
個人的にはやまゆり園事件の犯人とかみたいに、自分の人生がうまくいかないから他人を殺して「何者か」になろうとしたやつを死ぬほど軽蔑しているので、この突き放しは良かったと思う。
とはいえ、前作で一生懸命掘った穴を思いっきり埋めるみたいな話ではあった。やや虚無を感じる。
たぶん前作は犯罪者にはなり得ないような、経済的に/社会的に困窮していない人たち、特にリベラル層に対して、犯罪者になりうる弱者男性に共感させるのがメインだったんだと思う。
しかし、実際には弱者男性側(と少なくとも思い込んでいる)人々からの同調とか模倣犯とか出てしまったから、慌ててそこを否定しに行ったんだろうな。
映画『スオミの話をしよう』を観た。稀代の脚本家、三谷幸喜氏がメガホンを取ったとは思えないほど、つまらない作品だった。何故、これほどつまらないのだろうか。端的にいえば、寒川しずお以外の人物像に説得力がないからである。
もっとも説得力がない人物像は、主人公のスオミである。何故スオミは結婚を繰り返すのか。何故、多重人格のように出会う男に合わせて性格だけでなく、話す言語さえも完全に変えることができるのか。なぜ、身代金要求の狂言誘拐を起こしてまで生まれ故郷のヘルシンキに行くための資金を捻出しようとしたのか。
本来、これらの問いに対して観客を説得するようなエピソードを描くべきだった。しかし脚本は「そういう設定」といって長澤まさみ氏の演技力で観客を説得しようとし、失敗した。寒川しずお以外の他の登場人物も同様である。
なぜ、設定と演技力による人物像の説得に失敗したのか。その理由は、スオミの人物像を連想させるステレオタイプが十分に確立されていないからであろう。例えば、本作品で唯一、人物像に説得力がある寒川しずおはエキセントリックな有名詩人だが、エキセントリックな有名文学者というステレオタイプが文学史やフィクションを通して十分に確立されているので、設定と坂東彌十郎氏の演技力だけで観客を説得することができた。しかしスオミのような人物のステレオタイプは、史実にもフィクションにも見出すことができない。
この映画と比較すると、ドラマ『地面師たち』はエピソードによる説得と、ステレオタイプに乗っかって設定と演技力だけで行う説得を優れた形で組み合わせている。辻本拓海がなぜ地面師になったのか、石洋ハウスの青柳隆史は何故港区の土地を喉から手が出るほど欲しいのか、これらの経緯を説明するエピソードを描いて視聴者を説得している。他方でハリソン山中の場合、『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターなどの極めて高い知性と身体能力を持つ超人的な快楽殺人者というステレオタイプに乗っかって、設定と演技力だけで視聴者を説得することにも成功している。
個人的には、フィクションには説得力が重要と考える。フィクションなのだから、エキセントリックな有名文学者や超人的なシリアルキラーだけでなく、人間のような意思を持つおもちゃや超能力者など物理的に存在しえない人物さえ設定で盛り込むことができる。しかし、これらは観客に対して説得力を持たなければならない。その方法は、既に確立されたステレオタイプに乗っかって設定と演技力で観客を説得するか、エピソードを描いて「だからこの人はこういう風になったのです」と説得するか、これらのいずれか(又は両方)をしなければならない。
ライオスやセンシが苦手な人がいるって分かる気がする
センシは自己完結してるから問題ないけど、特にライオスは周囲を巻き込むわけで、
自生している植物とか、落ちてる何か?とか、日本の法律では鳩とか食べるのも駄目だと思うわけだけど、
仮に自分がホームレスになってしまったとして、ライオスみたいなのがそういうのを強要してきたとしたら、
俺は落ちてるものは食わないよ、缶集めしてでもコンビニでパンを買うよ、ってなると思うんだよな
そもそも、あれは漫画だから笑ってられる話であって、フィクションと現実は区別しろ、ごっちゃにすんなであって、
現実にホームレスの世界でマルシルみたいに、意外とうまい!みたいになる展開ってほとんどありえないはず…
ありえたら、こんな生活してないわけで、みんな野原で生活するわ!
まあ、百歩譲って?飲み屋とかで食わず嫌いなものを強要してくるオッサンに例えるとしたら、微妙なところではある
アレルギーとかだったら殺人者だが、そうでなければマズくても後々笑い話で済む程度ではありうる
まあ、たしかに、嫌がってる人間に昆虫食勧めてくるオッサンとか、たしかにウザいだけかもしれん…
イナゴの佃煮とかだって、滅茶苦茶うまい!とはならんと思うんだよな
やっぱりダンジョン飯はフィクションだから、コカトリスみたいなの鶏肉で美味しそうだって、自分も思ってたし、
でも、そこから漫画描く力もないし、あれだけ食に一貫したストーリーになるとは思ってなかったし、やっぱりダンジョン飯は面白いよ、うん、すごい