はてなキーワード: 修身とは
むかし、かやのみこと申すみこおはしましけり。そのみこ、女をおぼしめして、いとかしこくめぐみつかうたまひけるを、人なまめきてありけるを、われのみと思けるを、又人きゝつけてふみやる。ほとゝぎすのかたをかきて、
ほとゝぎすながなくさとのあまたあれば猶うとまれぬ思ふものから
といへり。この女、けしきをとりて、
名のみたつしでのたおさはけさぞなくいほりあまたとうとまれぬれば
時はさ月になむありける。おとこ、返し、
いほりおほきしでのたおさは猶たのむわがすむさとにこゑしたえずは
https://dict.idioms.moe.edu.tw/idiomView.jsp?ID=534&q=1
蓬生麻中不扶自直 『荀子』勧学
https://dict.idioms.moe.edu.tw/idiomView.jsp?ID=26221&q=1
南柯之夢 『南柯太守伝』唐 李公佐
https://dict.idioms.moe.edu.tw/idiomView.jsp?ID=2018&q=1
偶来松樹下、高枕石頭眠、山中無暦日、寒尽不知年 『唐詩選・太上隠者作、答人詩』
世の中はなにか常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる 『古今和歌集・雑歌』
飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時移り、事去り、楽しび、悲しび行きかひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変らぬ住家は人改まりぬ。桃李もの言はねば、誰とともにか昔を語らん*。まして、見ぬ古のやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき。『徒然草』
https://dict.idioms.moe.edu.tw/idiomView.jsp?ID=78625&q=1
https://dict.idioms.moe.edu.tw/idiomView.jsp?ID=12541&q=1
鬼が出るか蛇が出るか (傀儡師口上)
古今如一丘之貉 『漢書・楊惲伝』
https://dict.idioms.moe.edu.tw/idiomView.jsp?ID=3&webMd=2&la=0
爛柯不識残陽景、後葉空逢七袠霜 『述異記』
精誠所至,金石為開『荘子・漁父』
君子之交淡若水,小人之交甘若醴。君子淡以成,小人甘以壞。 『荘子・山木』
https://dict.idioms.moe.edu.tw/idiomView.jsp?ID=18493&q=1
人を見下して不遜な態度を取る輩がウケるのは徳育の問題と思うのよね。
ああいう態度は人として下品だ、恥ずかしいことだという教育が家庭でも学校でも徹底されていないから、一定の指示が集まってしまう。
日本には宗教がないからね。「そんなこと神様が許すはずがない」という考え方は、ほとんどの日本人にはない。
寺や神社にお参りはしても、教義を信じたり教えの通りに生活しているわけではなくて、カトリックやイスラム教のような個人レベルの倫理規範がない。
戦前戦中の修身教育を受けた世代や、その世代に育てられた世代はかろうじて「社会規範=個人の規範」という意識を持っていたけれど、そのより下の世代はそうではない。
そんな日本社会で2ちゃんねるやツイッターが「他人を自由に罵る愉悦」を解き放ってしまった。
人を尊重する必要なんかない、気に入らなければ軽蔑してもいい、というムードは情報化社会がもたらしたもっとも大きな負の遺産だと思う。
おるぐり
@allgreen76b
性行為への衝動を含まない恋愛、「50 歳が14歳と真剣に恋愛関係を構築するケース」くらいレアでしょうねえ。
貴方の主催する勉強会でそれを想定されうるケースとして例示した本多議員はどんな目に遭わされましたっけ
寺田 学
@teratamanabu
本件は「性行為」について。
この「恋愛」と「性行為」を混同して捉えるのは大きな誤解を生みます。
性犯罪の刑法改正案 18日から修正協議で与野党4党が一致 | NHK https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230517/k10014070481000.html
おるぐり
@allgreen76b
気持ち悪いんだよお前ら。「大人が望む高校生らしさ」を球児に押し付ける高野連と何処が違う。和田政宗や杉田水脈と組んで道徳修身党でも作っちゃどうかね
杉田水脈は違うけど。
完全に人間というものがわかっていない。脳に異常があるか身体に異常がある。
一つ言えるのは完全に狂っているということです。立憲民主党は全部そう。
世界人権宣言が謳われたのは1919年だが100年経っても人権を親切や道徳に言い換える地獄の国のままだ
旅行した程度の外国人はね、日本には差別はない、ただずっと単一国家だったからきっとよく知らないだけ、などと甘やかすことを言うが住んでた俺は知ってる
キリスト教は女の子たちが自分の意思を相手に伝える大切さを学び、夜這いを断るようになったから、踏み絵をして禁止されてたのだということ
この国はずっと意思のない奴隷を作るために人権を否定し続けてきただけだ
何十年も知らないふりをして忘れたふりをして無視してきた差別を理解できない奴らの人権の無い国なだけ
日本人の親切や優しさは、正義や愛や人権に基づくものではない。村八分を恐れる同調圧力の強い支配、道徳に基づいた修身にすぎない
キツすぎて国際社会の一員として受け入れられるような成熟度にないよこの社会
まともな教育してくれー
W杯で寝不足の日々が続いていますか?今年のワールドカップはUpSetも多く日本代表のドイツ撃破も興奮したけど
オーストラリアではJ2で戦うデュークがゴールを決めたりと、Jリーグファンとしては嬉しい出来事も続きます。
ここまで見てきた感じでは、ブラジル代表がやはり強いなって感じですが、フランスも優勝候補であることを証明してます。
まだまだ楽しい日々が続きそうで嬉しい限りでしょう。
さて、W杯がある度に、国内外でニュースになるのは日本人の掃除。
これについて「清掃員の仕事を奪ってる」「奴隷根性」なんて言って批判してる人が居る様だけど
本当に義務教育を終えて出て来たの?って不思議でしょうがないんですよね。
この掃除の文化がいつからあるものなのか?定かではないようですが、既に江戸時代には寺子屋で行われていた事のようで
そもそも禅寺では雲水たちが、掃除も含めて丁寧な生活を送る事を修行の一環でやっていますから、これが根底にあるものでしょう。
では何故、掃除をするのか?これは坊さんによっていう事は違うけど、道元が書いた「正法眼蔵」には
一滴の水も無駄にしない様に、心の汚れを洗い流すように祈りながら顔を洗う、という事が書かれています。
日常生活の細部に至るまで気持ちを配る事で、心を整えて身ぎれいにする事が出来る。それが修身に繋がると説いてるのです。
競技をする上で道具を大事に扱えば、自らの怪我の防止や上達に繋がります。
学問をする上で綺麗に整頓された環境で勉強をすれば、集中力を高め、より良く学べることに繋がります。
スタジアムを綺麗にすれば、ゴミで足を滑らせて怪我したり、悪臭に悩んだりしなくて済みます。
そして掃除を行う日本人を見て、海外の方が真似をしてくれたり、日本を応援しようと考えてくれれば
その事も私たちにとっては嬉しい事でしょう。
このように掃除をするというのは、単純に善意から出ているものでもないし、奴隷根性で行っているものでもないのですよ。
掃除を行う事で自分たち自身が気持ちいいし、良い環境で安全にサッカーを楽しむことができる。
楽しい試合を見せてくれるホスト国への感謝の気持ちを伝える事も出来るし、日本の味方が増えてくれたりもする。
スタジアムを大事にすることで、よりサッカーを楽しめるし、もしかしたらスタジアムの神様が日本に味方してくれるかもしれない。
そんな風に日本人は感じているのでしょう。情けは人の為ならずって奴です。
どこであれ掃除して帰る時に良い事をしてるなんて思ってる訳じゃないでしょ、自分の為にもなるんですよ。
義務教育では掃除をする、道具を大事に使う事で、自分の成長に繋がるのだと言う事を教えてもらうはずですね。
一罰百戒とはまさにこのこと。
山本一郎さんは昔は胡散臭い人だなと思っていたが、最近はホリエモンと同じく中身のある言説をする人だな。
https://bunshun.jp/articles/-/54633
「4630万男」田口翔さんが、図らずも金融犯罪の対策に大貢献した件について
オンラインカジノ問題が賭博と犯罪収益移転防止の枠組みを揺るがす
人口わずか約3000人の山口県阿武町が振り込み間違いを起こしたことで一躍日本中の話題をさらった田口翔さん24歳。日本中で報じられ、パブリックエネミー扱いとなったうえで、電子計算機使用詐欺容疑で逮捕されてしまいました。
この中で、田口さんが滞納していた税金の徴収を理由に、阿武町が国税徴収法にもとづいて田口さんの送金先だった決済代行業者3社の口座を差し押さえるという前代未聞の方法で4630万円の大半を回収してしまうという荒技が飛び出しました。
町の代理人を務めた弁護士・中山修身さんの離れ技に賞賛が集まる一方、この決済代行業者3社が、田口さんが未払いであった少額の町税の差し押さえに対して、なぜ振込額全額の弁済に応じて町に支払ったのかが新たな論点になりつつあります。
また、過日に証拠改ざん事件において逮捕・起訴されて有罪判決を受けた前田恒彦さんがヤフーニュースでのコメントに「いったん男に返し、その上で改めて町が差し押さえる必要がある」と書いたことが拡散されて誤解が広がってしまいましたが、手続き上、当然資金を田口さんに返す必要などはありません。その代わり、この決済代行業者が差し押さえに応じた理由と今後の展開に大きな関心が集まっています。
というのも、この田口さんが不当に得た4630万円の大半をこれらの決済代行業者に支払った理由は日本国内で違法である「オンラインカジノ」への出金であったためで、一部の決済代行業者はある意味でこれらのオンラインカジノ向け支出は「グレー」であるとして、黙認してきた歴史があります。
さらには、これらのオンラインカジノが違法であることを知っていながら、ニュースサイトや広告などを通じてインターネット上でオンラインカジノへの参加を促し、使った金額に応じて収入が得られるアフィリエイトを手がける人たちも急増しています。
つまり、日本国内では違法であるオンラインカジノを利用するために使う資金決済業者、それと知りつつ告知宣伝に加担するサイト開設者、そこでオンラインカジノの利用状況に応じて報酬を支払うアフィリエイト業者、そのアフィリエイトの広告を取り扱うネット広告代理店という、日本国内法では違法な事業者に日本人を流し込む悪党の皆さんに突然スポットライトが当てられてしまったのが、この田口さんの事件だということになります。ありがとう、田口翔さん。
https://twitter.com/If0r5do2xx3iL/status/1436884369231126536
これの話ね。
元ツイートの指摘がズレてるんだがブコメも同じようにズレてるコメントが多くて変な方向に行ってる
何がズレてるのかって道徳の教師は道徳科でやる道徳の話をしているのに、元ツイート主やブコメがなぜか人権の話や憲法の話をしろと主張する点だ
発端はDaiGoのホームレスの話なんだけどあの話自体は人権に絡んでくるものだと思うよ?ただそれは人権すなわち公民の授業でやれ
元ツイートでまず引っ掛る部分が「憲法で人権が保障されるということは道徳科においては重要すべきことではないっぽい」という一文
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである
と記されてる通り基本的に国家権力を縛るものであって私人同士のあれこれを既定するものではない
※1一応一部は私人に影響を及ぼすこともできる。でないと納税の義務とか適用できない。ここも参照
https://anond.hatelabo.jp/20210902174107
https://twitter.com/yorinobu2/status/1437267319411994624
じゃあ私人は基本的人権なんて何も考えずに行動していいの?って話だけど、そこは自然権としてみんなの心に備えつけられてるんで憲法では触れないよという建てつけになっている
そんなバカなとは思うけど憲法はそういう扱い。なので、元ツイートの文脈で憲法を出すのは変。
まあ憲法は筆が滑っただけかと思うけど人権そのものはDaiGoの話と超関係ある
でもそれを道徳科の教師にしてもしょうがないんじゃないか。一部オーバーラップしてても目的は別だ
例えば国語の教科書にはよく反戦をテーマにした題材の文学が載るけど
国語の目的は日本語の文章を理解することであって憲法で平和主義が歌われることは国語科においては重要すべきことではないっぽいとか言われてもそれはそうという感想しか出てこないわな
んじゃあ道徳科の目的は何かって言うと成り立ちから言うと戦前からの修身科に変わって現代的なモラルを教える教育だ
ぶっちゃけ今は何が主目的かって言うといじめ問題とかを防いで学級を恙無く運営するっていう感じになってる。(含むSNSいじめ)
こういうのを人権思想から解決しようとすると、人権には移動の自由みたいなのが含まれてるのでいじめが発生したらそれぞれ別の学校で勉強しましょうみたいな解決法が出力されちゃう
ていうか人権思想をちゃんと教えるには背景となる知識がいっぱい必要なんで
そもそも天賦人権説は王権神授説の対抗として出てきたものだけど、絶対王政の背景のない日本でいきなりそこを説いたとして
なんでホームレスの人権を蔑ろにしたらルイ十四世みたいなのの台頭に繋がるのか全然わからんじゃん?
アメリカやフランスは国家統合というか国の成り立ちの起源に絶対王政の否定が深くかかわってくる※2からピンとくるんであって
日本は何で日本なのかと言ったら昔から日本なんであって人権については社会を強くするのに便利だから思想を借りてきただけなんだよ
なんで、人権が弱いと社会も弱くなるって機序から勉強しないといけない
迂遠じゃん?だから中学高校あたりで地理歴史ちゃんと習ってから段階踏んで教えるもんだと思う
つーわけでこんな大変な話を道徳の教師に期待するな。彼らは学級運営でいっぱいいっぱいなんだ
※2 つまりホームレスだろうが何だろうが「俺たち」に安全と意見を言う権利を与えろと主張している
シンデレラは男尊女卑だから子供に見せられないみたいな話をされて、辟易している。
そういう人って子供に奇麗なものしか見せたくない人なんだろうか。
まあ奇麗なものだけ詰めたみたいな童話集も多いけど、ロシアとか北欧の童話集は結構意味不明だったり不条理だったりする話も多い。
人の幸せとは、正義とは、かくあるべきである、みたいな教育的なものしか見せないなら、そりゃあ多様性を尊重した奇麗な理想だけ示せばいいんだろうが、そんな修身教育みたいなエンターテインメントしか与えないのも大概不健全だろ。
不条理な話も、意味不明な話も、奇麗な理想が詰まった道徳的な話も、バランスよく摂取してこその、情操教育じゃないんですかねって思う。
正しいものだけ見せるんじゃなくて、正しくないけど楽しいものにいかに接するかを学ぶことも必要ではないのか。
まあ私は子供がいるような歳ではないので親の気持ちなんざ知らないが、少なくとも自分は多様なエンターテインメントで育てられたから、あんまりお綺麗なものばっかり与えたがる人と喋ってると、お前はそれでいいんかってなる。
「古典は本当に必要なのか」と今訊かれたら、どう答えるだろうか。(この問いを「高校で必修科目にするべきか」に矮小化して競うのはズルいなあ)
例えば、今『幸福な監視国家・中国』を読んでいるが、これを読むとどうも中国政府が作ろうとしているのは、ある意味で儒教の理想社会なのではないかと思う(明天子としての国家主席)。
社会信用システム、個人の信用を数値化し、数値が低いと各種サービスが受けられなくなる。法と刑罰で縛るのではなく緩やかな制裁、不便さ生きづらさを与えることで自発的な服従を引き出す(馴致)。「修身斉家治国平天下」をIT技術の力を駆使して実現しようとしている、ように俺には見える。
儒教とは民主主義とは異質な、いわば統治者の統治者による統治者のための政治哲学。人には身分があるという前提の上で、礼儀正しく他人に優しくしましょうねという思想。現在の中国政府が目指す路線もそれで読み解ける部分が大きいのではないか(少なくとも内政に関しては)。
すなわち、支配する中国共産党と支配される中国国民という大前提の上で、高い教養と徳を兼ね備えた選ばれた君子ならぬ党執行部が、民草ならぬ国民を善導し仁政を施す、こういうイメージ。「天網恢恢疎にして漏らさず」というが、その天網を技術の力で人為的に構築しようとしている。その結果生まれた(生まれつつある)「監視国家」では、人々の暮らしは便利になりマナーも向上し犯罪も減ってきた。そもそもの大前提に疑問を感じないのであれば、それなりに暮らしやすい社会なのかもしれない。
「自由で平等な個人からなる市民社会」を唯一絶対の価値とする西洋近代から見れば、今の中国社会はディストピアにしか見えないだろう。だから人権とか環境とか、相手にとって響かない言葉を批判材料に持ち出してしまう。全く噛み合ってないのだ。
しかし、「君子が民草を善導する儒教社会」を念頭に置いて見るなら、(好悪は別として)それなりに理解できる。したがって噛み合った対話が可能となるし、上手な付き合い方も見つけられるのではないか。
以上のような推論が正しいのかは措くとしても、こういう考察ができるのは俺が漢文を読めるからだ。
勿論四書五経を精読した訳ではないが、要点はかいつまんで把握していて、必要があれば誰かに訳してもらわずとも自分で読めるからだ。
もしある人が中国や中国経済に関心を持っていても(あるいはビジネス上持たざるを得なくなっても)、彼が漢文を全く読めなければどうか。影響力のある著名人が「修身斉家治国平天下を連想させる」と指摘するまでそれに気づくことはできないだろう。また、仮にそれを聞いても出典である『大学』を読めなければ指摘の真意を理解できず、したがってその当否も自分では判断できないことになる。
つまり漢文の素養がある人は、ない人に比べてより早く、より多くの可能性を想定することができる。したがって対象への理解の程度もより深くなる可能性が高い。その知見をビジネスに生かすこともできるだろう。
要するに古典というのは、今起きていること、起こりつつあることを理解するうえで役立つ枠組みを我々に提供しているのではないか。
というより話は逆で、理解の枠組みとして多く参照された作品が結果古典として残っているのではないか。たくさん引用された論文がそれだけ権威を持つように。
「高校の授業が古文漢文の真価を学生に伝えられているか」は大いに疑問だし、厳しく問い直されるべきだと思う。が「古典は本当に必要なのか」と問われれば、俺は躊躇なく是と答える。
現在、そしてこの先しばらく国際社会に大きな影響を与える中国という巨大な異文化と対峙した時、日本には他国にない大きなアドバンテージがある。漢字の読み書きができる、そして中国文化を受容し改変してきた伝統がある。このアドバンテージをむざむざ捨ててしまうのは愚かしいと言わざるを得ない。
この主張だと「では日本の古典は勉強しなくていいのか?」という反論が想定されるが、それについてはまた機会を改めて考えよう。
米寿の親父に聞いた。
彼は、日中戦争から太平洋戦争にかけて尋常小学校に通っていた世代。
「修身って何やってたの?」
「行儀みたいなもんやな。ふつうにやってること」
「戦陣訓みたいなのは?」
「高学年になったらちょっとはそういうのもあったけど、だいたいは行儀のことばっかりやったな」
まあ、年寄りの記憶なんでいいかげんなところもあるだろうけど、そういう内容だったらたぶんいまは小学校低学年の生活科と、あとは通常の学級活動でやることだろう。
つまり、「道徳科」は、修身の復活ではない。そういうイメージでいる人は、右でも左でも、だいぶと事情を勘違いしているのかもしれない。
もうちょっと裏をとってくれよ、だれかひまなひと。
HINOMARU問題の何が問題かといえば、一個人の考え方を問題にしてどこかのバカが歌うな売るないうて謝罪にまで追い込んだのが問題なんだ。
これがかつての「修身」だとかみたく政府がプロパガンダしてたらそりゃ袋叩きにしてやりゃいいんだよ。民主主義なんだから。
それにHINOMARUのどこが愛国やねん。今の日本はアメリカかぶれが酷くてやたら横文字を使ったりするってそりゃ長渕さんも目閉じるわ。
”高鳴る血潮”って高鳴るの鼓動やろ。血潮は燃えるとか滾るんちゃうか?
”僕らの燃ゆる御霊”て僕らが御霊って死んでるやん。生きろよ挫けんなよ。
”胸に優しき母の声”とか胸やったら思いやろうし、声なら耳とか聞こえるとか、そう言うとこ!!
”恐れるものがあるだろうか””ゆるぎなどしない”って早速謝ってもうたやん。揺らぎまくってるやん。
どうでもいい話はこの辺にして本題の「愛国心危険視」のまずさについてや。
まず、人が愛してるもんにちゃちゃいれんのどうなんや?ってところ。
「あの子愛してるとかちょっとやばくない?」なんて言われたら普通怒るで。
まだある。
日本人が日本ちゅう国を愛さない愛せない言うのは自分を愛さない愛せないとほぼ同義なんちゃうか?
日本の主権者は日本国民なんやで。そこんとこ忘れとる思うで、ほんま。
しきりに選挙行けうるさいけど、どうすればこの国が幸せになるかって考えなしに投票だけされても正直困りまっせ。この人はどうすれば幸せになるんやろうって気持ち、愛の重要な要素のひとつとちゃうんか?
「そういうことせえへんほうがええと思うよ、知らんけど」の知らんけどって無責任のくせして口だけだすとこイラッとくんねん。
あとね。
愛国心のすごく抽象的なとこ利用して、何もかも愛国心が悪いって問題を簡単に解決するのほんま怖い思うで。
愛国心が人いっぱい殺したとか、愛国心が軍国主義に走らせたとか。なんでもかんでも愛国心で片つくとおもうてたらいつか痛い目みるで。
いろいろあるやん。石油止められたり、中国大陸ケーキカットされてたり、戦争どう終わらせるか決めずに見切り発車したり、松岡洋右とか近衛文麿あたりのイカれた奴らがおったりさ。
戦争っていういろんな問題が複雑に絡んで発生してまうもんをやで、「愛国心」一つで解決しちゃうと、今後同じ轍を踏んじゃうんじゃないの?
例えばABCD包囲網で石油止められて万事休すになったのを教訓にエネルギーは分散したほうがいいよねって原発でてきたけどあぶねえからストップした。確かにありゃあぶねえよ。
でもね、じゃあ代わりにエネルギーになりそうなとこ投資してんの? って話。
風力でも地熱でもなんでもええよ。原発止めるときにそんな話出てきたんか? 出てきたの太陽光利権くらいじゃねえの?
「あぶねえから止めよう」VS「安全だから動かそう」で一生バトルやっててそろそろそれすら忘れてるころじゃないの? 馬鹿なの? 戦争するの? 挙げ句の果てに核ミサイル何千発分プルトニウムあるのやばいんじゃね? って目で世界から見られてるけど、また過去の人のせいにして俺悪くない決め込むつもり? 主権者しっかりしろよ。
HINOMARU問題の何が問題かといえば、一個人の考え方を問題にしてどこかのバカが歌うな売るないうて謝罪にまで追い込んだのが問題なんだ。
これがかつての「修身」だとかみたく政府がプロパガンダしてたらそりゃ袋叩きにしてやりゃいいんだよ。民主主義なんだから。
それにHINOMARUのどこが愛国やねん。今の日本はアメリカかぶれが酷くてやたら横文字を使ったりするってそりゃ長渕さんも目閉じるわ。
”高鳴る血潮”って高鳴るの鼓動やろ。血潮は燃えるとか滾るんちゃうか?
”僕らの燃ゆる御霊”て僕らが御霊って死んでるやん。生きろよ挫けんなよ。
”胸に優しき母の声”とか胸やったら思いやろうし、声なら耳とか聞こえるとか、そう言うとこ!!
”恐れるものがあるだろうか””ゆるぎなどしない”って早速謝ってもうたやん。揺らぎまくってるやん。
どうでもいい話はこの辺にして本題の「愛国心危険視」のまずさについてや。
まず、人が愛してるもんにちゃちゃいれんのどうなんや?ってところ。
「あの子愛してるとかちょっとやばくない?」なんて言われたら普通怒るで。
まだある。
日本人が日本ちゅう国を愛さない愛せない言うのは自分を愛さない愛せないとほぼ同義なんちゃうか?
日本の主権者は日本国民なんやで。そこんとこ忘れとる思うで、ほんま。
しきりに選挙行けうるさいけど、どうすればこの国が幸せになるかって考えなしに投票だけされても正直困りまっせ。この人はどうすれば幸せになるんやろうって気持ち、愛の重要な要素のひとつとちゃうんか?
「そういうことせえへんほうがええと思うよ、知らんけど」の知らんけどって無責任のくせして口だけだすとこイラッとくんねん。
あとね。
愛国心のすごく抽象的なとこ利用して、何もかも愛国心が悪いって問題を簡単に解決するのほんま怖い思うで。
愛国心が人いっぱい殺したとか、愛国心が軍国主義に走らせたとか。なんでもかんでも愛国心で片つくとおもうてたらいつか痛い目みるで。
いろいろあるやん。石油止められたり、中国大陸ケーキカットされてたり、戦争どう終わらせるか決めずに見切り発車したり、松岡洋右とか近衛文麿あたりのイカれた奴らがおったりさ。
戦争っていういろんな問題が複雑に絡んで発生してまうもんをやで、「愛国心」一つで解決しちゃうと、今後同じ轍を踏んじゃうんじゃないの?
例えばABCD包囲網で石油止められて万事休すになったのを教訓にエネルギーは分散したほうがいいよねって原発でてきたけどあぶねえからストップした。確かにありゃあぶねえよ。
でもね、じゃあ代わりにエネルギーになりそうなとこ投資してんの? って話。
風力でも地熱でもなんでもええよ。原発止めるときにそんな話出てきたんか? 出てきたの太陽光利権くらいじゃねえの?
「あぶねえから止めよう」VS「安全だから動かそう」で一生バトルやっててそろそろそれすら忘れてるころじゃないの? 馬鹿なの? 戦争するの? 挙げ句の果てに核ミサイル何千発分プルトニウムあるのやばいんじゃね? って目で世界から見られてるけど、また過去の人のせいにして俺悪くない決め込むつもり? 主権者しっかりしろよ。
其名曰。阿若?陳如。摩訶迦葉。優楼頻螺迦
訶迦旃延。阿?楼駄。劫賓那。?梵波提。離婆
多。畢陵伽婆蹉。薄拘羅。摩訶拘?羅。難陀。孫
三藐三菩提。不退転。皆得陀羅尼。楽説弁才。
転不退転法輪。供養無量。百千諸仏。於諸仏
所。植衆徳本。常為諸仏。之所称歎。以慈修身。
訶薩。八万人倶。爾時釈提桓因。与其眷属。二
倶。有四阿脩羅王。婆稚阿脩羅王。?羅騫駄
阿脩羅王。毘摩質多羅阿脩羅王。羅?阿脩
礼仏足。退坐一面。爾時世尊。四衆囲繞。供養
義。教菩薩法。仏所護念。仏説此経已。結跏趺
坐。入於無量義処三昧。身心不動。是時天雨。
遍。下至阿鼻地獄。上至阿迦尼?天。於此世
当以問誰。誰能答者。復作此念。是文殊師利
界荘厳。於是弥勒菩薩。欲重宣此義。以偈問
曰
修身の下敷きは儒教なんだが、儒教は、上が自分を引き締めて、下がそれに従えばうまくいくというもの。
ただし、頭足りてない奴は、下が上に従えばうまくいくという部分だけ切り取る。だから、森友幼稚園みたいなものが生まれる。
儒教には上に立つ人間がどうあるべきかというのも多いから、勉強する分にはいいと思うよ。
あ、でも、靖国あたりのことを持ち出すということは、そのあたりのことわかってなくて毒された浅いネトウヨかなという気もする。
デカルトの科学的立証以前は、世の中のわからないことはすべて「誰かが言ったから正しい」の世界だった。よって、宗教の範疇だった。
化学も、錬金術と地続きである。錬金術に途中から科学的検証が入ってきて、化学になったわけ。でも、錬金術時代に作られた薬品は今でも化学の主要な地位を占めている。
科学的立証がとことん進んで、解明しやすいこと、科学になじむことはどんどん科学の世界で検証され立証されていった。
けど、どう生きるか?と、死後の世界について、さらに言うと、ケースバイケースの経営判断は、科学では解明が困難である。困難であるだけで不可ではないが。
科学であれば、検証可能性と再現性が必要だが、どう生きるか、経営判断について検証可能性と再現性を作るのは困難。
死後の世界もまあ同様。
とすると、宗教に近いところで「誰かが言ったから正しい」の世界でやっていかざるを得ない。
まさに、ブルマーについて「なぜそれが使われてきたのか」という研究が出版された。
おそらく制服についてもほぼ同じ論理で読み解けると思うので一読を勧める。
http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-3410-0
女子体操着であるブルマーは、ブルセラブームを契機に批判を受け、1990年代半ば以降に学校現場から急速に姿を消した。消滅の社会的背景はこれまでも断片的には語られてきたが、では、腰に密着して身体の線があらわになる服装が、なぜ60年代に一気に広がり、その後30年間も定着・継続したのだろうか。
地道な資料探索や学校体育団体、企業への聞き取り調査を通して浮かび上がってきたのは、中学校体育連盟の存在だった。そこから、中体連の資金難、企業との提携などのブルマー普及の背景を解き明かす。また、受容の文化的素地として、東京オリンピックの女子体操が与えたインパクト、戦前から続くスカートの下の2枚ばきの伝統などとの関連も検証する。
ブルマーは導入当初から性的なまなざしにさらされてきた。にもかかわらず、学校現場でブルマーが存続してきたのは、ブルマーをはく女子の身体に女子修身教育の幻を見る戦前回帰派と、美と健康を見る戦後民主主義派とが思わぬかたちで共謀していたためではないかと指摘する問題提起の一書。
https://this.kiji.is/207438898890506241
情報提供の受付
https://www.jbaudit.go.jp/form/information/index.html
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51052?page=2
「二次創作」の愛国教育は、戦後社会に見られるひとつの伝統芸であり、サブカルチャーであり、この分野に詳しい者にとっては見なれたものである。
「戦前っぽいもの」のパッケージは、戦後長らくつづいた保革対立のなかで形成されたものである。
保守勢力(自民党文教族、文部省など)は、教育の荒廃が叫ばれると、かならず国旗掲揚、国歌斉唱、「教育勅語」の再評価、修身の復活などを主張してきた。
国旗国歌問題に火をつけた第三次吉田茂内閣の天野貞祐文相は、その嚆矢である。内藤誉三郎(文部事務次官→参議院議員→第一次大平正芳内閣の文相)のように、「天壌無窮の神勅」を学校で教えるべきだと主張した例もある。
教育機関で国民国家の歴史や意義を教えることは必要である。国民国家は、現在の国際政治の基本的な単位だ。これを否定するつもりはない。
グローバリズムの時代、国民国家というシステムをいかに無理なく保守・管理・運用していくか。政府への盲従や排外主義などの欠陥は認識しつつも、こうした問題に取り組んでいくことは欠かせない。
パッケージを丸呑みするかいなかの二者択一は、あまりに単純すぎる。
ナショナリズムはいつどこで芽生えるか →戦争で負けている側である。
あるいは学歴を誇る人間はいつ登場するか。→落ちぶれてそこしか砦がなくなった時である
東大卒のりょーすけさんなどは、もう道具として使う。ふつうはそういうものだ。
東大生かくあるべし、みたいなことを言い出すのはかなり痛い
今日ほど「君が代」に関する議論が劣化した時代はほかにないだろう。
「君が代」を歌うか、歌わないか。問題はあまりに単純に二分化され、歌えば保守・愛国であり、歌わなければ左翼・反日であると即断される。そしてこの単純な白黒図式に基づき、「愛国者」を自任する者たちが、気に入らない相手に食って掛かるしかも、驚くべきことに、この「愛国者」を自任する者たちの多くは、「君が代」の歴史や意味をロクに知らないのだ。「君が代」は、敵と味方を判別し、敵を吊るし上げるための単なる「踏み絵」と化している
「ネットモブ」が「ネット右翼」と呼ばれたために、その主張も「保守」や「右翼」のものと勘違いされてしまった。この結果、昨今のナショナリズムの「再評価」とあいまって、歴史的な経緯に詳らかではないネットユーザーのなかで、劣化した議論が急速に肥大化してしまった。
1890年2月、帝国議会の開会を直前に控え、地方の治安維持をつかさどる県知事(内務官僚)たちは、「文明と云ふことにのみに酔ひ、国家あるを打忘れた」自由民権運動を抑制するため、「真の日本人」を育成する国民道徳の樹立を求めた。
→とはいえ、当初の「教育勅語」の内容は、後世の文書などにくらべて、意外にも慎ましいものだった。
「日本は神の国であり、世界を指導する権利がある」などという大それた神国思想は、「教育勅語」のなかに見られない。これは、『国体の本義』(1937年)や『臣民の道』(1941年)などで、教育界に広められたものである。
むしろ「教育勅語」の内容はかなり抑え気味だった。たしかに、「我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ」「天壌無窮ノ皇運」など神話にもとづく記述もあった。だが、そこに掲げられた個々の徳目は現実的で、日常的な振る舞いに関するものが多くを占めた。
日本が日清戦争や日露戦争に勝利し、帝国主義列強の一角を占めるにいたって、かえって問題が指摘されるようになった。大国日本の国民道徳として、「教育勅語」はあまりに物足りないのではないかと注文がつきはじめた
→君主たるもの、特定の政治的、宗教的、思想的、哲学的立場に肩入れする言葉を使うべきではなく、またその訓戒も「大海の水」のごとくあるべきで消極的な否定の言葉を使うべきではない
また、井上は帝国憲法の起草者として立憲主義を尊重し、「君主は臣民の良心の自由に干渉せず」と述べて、「勅語」を軍令のように考える山県の構想も牽制した。
もちろん、自由民権運動対策が念頭にあったこともあり、独立自治などにつながる徳目が慎重に排除されていることは見逃せない。その一方で、その内容は、神国思想や軍国主義の権化のごとき過激なものでもなかった。
追加修正
西園寺公望は、明治天皇の内諾を得て、「第二の教育勅語」の起草に着手した。
1919年、『勅語衍義』の執筆者・井上哲次郎によって「教育勅語に修正を加へよ」という論考が発表された
この提言の背景には、同年に朝鮮で起きた三・一独立運動の衝撃があった。
結果的に、「教育勅語」の不足分は、ほかの詔勅の発布で補うかたちが取られた。1908年発布の「戊申詔書」、1939年発布の「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」などがそれにあたる。
1948年6月の衆参両院の決議では、「教育勅語等」として「教育勅語」だけではなく「軍人勅諭」「戊申詔書」「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」などがセットで排除および失効確認されている。これらの詔勅が一体的に理解されていた証左だ
「教育勅語」は、狂信的な神国思想の権化ではないが、普遍的に通用する内容でもなく、およそ完全無欠とはいえない、一個の歴史的な文書にすぎない。その限界は、戦前においてすでに認識されていた。
一理あれば一害あり。私法家は個人平等の極端に捗りて社会の秩序を害し易く,公法家は権力相関に偏重して世運啓発に伴ふことを怠るは,各 其(の)専らとする所に於て免れざるの弊なり。唯 此の二元素 相 調和して始めて国家法制の美を成すべしと雖,我邦 維新以來 社会の改新を謀るの急なるより,明治立憲の法度,或は専ら私法家の理論に偏傾したる跡なきにあらざるが,豈に後世史家の浩歎する所ならざるを知らんや。
我(が)国は祖先教の国なり。家制の郷なり。権力と法とは家に生れたり。不羈自由の個人が森林原野に敵対の衝突に由りて生れたるにあらざるなり。氏族と云ひ国家と云ふも家制を推拡したるものに過ぎず。権力相関を指摘するの呼称は異なりと雖,皇室の嬖臣に臨み,氏族首長の其(の)族類に於ける,家父の家族を制する,皆 其(の)権力の種を一にす。而して之を統一して全からしむるものは祖先教の国風にして,公私の法制習慣 之に由るにあらざれば,解すべからざる者 此々 皆 然り。之を要するに,我(が)固有の国俗法度は,耶蘇教以前の欧羅巴と酷相似たり。然るに我(が)法制家は,専ら標準を耶蘇教以後に発達したる欧洲の法理に採り,殆んど我の耶蘇教国にあらざることを忘れたるに似たるは怪しむべし。
耶蘇教以前の欧洲の文化は希臘(=ギリシャ)羅馬(=ローマ)の盛世 之を代表す。当世の史料,素より富胆なり。之を詳にする難きにあらず。況や如今 法制史の大作,クルチウスの希臘(=ギリシャ)に於ける,モムセン及(び)イエリングの羅馬(=ローマ)に於けるあり。専門の士にあらざるも之を窺ふに易きのみ。古日耳曼(=古ゲルマン)に到りては僅(か)にタシタスセーザルの記傅に由ると雖,方今ワイツ以下 古独(=古ドイツ)法制 探究する者少なしとせず。而して耶蘇教以前の古(日?)耳曼(=古ゲルマン?)の制度は,期せずして希臘(=ギリシャ)・羅馬(=ローマ)と其(の)跡を同ふするを発見するときは,耶蘇教の欧洲に入らざりし以前は汎く印度・日耳曼(=ゲルマン),人類に通ずるの主想ありしこと知るべきなり。
欧洲固有の法制は祖先教に本源す。祖先の心霊を崇拜するは其(の)建国の基礎なり。法制史は法の誕生を家制に見,権力の源泉を家父権に溯る。然れども何が故に家父権は神聖なりやと問はゝ,之を祖先教の国風に帰一せざるべからず。祖先の肉体存せざるも,其(の)聖霊,尚(なお)家に在りて家を守護す。各家の神聖なる一隅に常火を点して家長之に奉祠す。是れ所謂 家神なり。祖先の神霊なり。事細大と無く之を神に告ぐ。是れ幽界の家長にして,家長は顕世に於きて祖先の霊を代表す。家長権の神聖にして犯すべからざるは,祖先の霊の神聖にして犯すべからざるを以てなり。家族は長幼男女を問わず一に其(の)威力に服従し一に其(の)保護に頼る。
一男一女,情愛に(由?)りて其(の)居を同ふす。之を耶蘇教以後の家とす。我(が)新民法,亦(また)此(の)主義に依れり。之れ我(が)国 固有の家制にあらざるなり。是れ欧洲固有の家制にあらざるなり。欧土の古法は祖先の祭祠を同ふする者を家族と云ふ。家神は其(の)子孫にあらざれば之を守護せず。各家に其(の)神あり。之を絶滅することを忌む。家運の恒久を顕するなるべし。共に同一の神火に頼る者を家族と云ふ(古語家族とは神火を同ふすると云義なり)。後代,或は家長権の及ぶ處(=ところ)を家属とし,必(ず)しも血縁の因のみに限らざるの制あり。然れども,民法家が我(が)国に行はんとするが如き家とは,一男一女の自由契約(婚姻)なりと云ふの冷淡なる思想は,絶(え)て古欧に無き所なりとす。婚姻に由りて始めて家を起こすにあらず。家祠を永続せんが為に婚姻の礼を行ふなり。茲(=ここ)を以て,古法は娶らざるを禁じ,叉 子無きときは婦を去ることを認め,或は他姓の子を養ふて家祠の断絶を防ぐ,皆 古欧の家制は今の家制と其(の)主想を異にし,祖先教に本源することを証するものなり。之を我(が)国 非耶蘇教の習俗に照応するときは相似たる者あり。欧洲は,彼の宗教行はれしより,独尊の上帝は人類の敬と愛とを専有し,子孫また祖先の拜すべきを知らず。於是乎(=ここに於いて?)孝道 衰ふ。平等博愛の主義 行われて民俗血族を疎んず。於是乎(=ここに於いて?)家制 亡ぶ。而して個人平等の社会を成し,個人本位の法制を以て之を維持せんと欲す。フュステル・ド・クーランジ(ュ)は法制史の大家なり。其(の)古欧家制を解説するに序して曰く,人が「其(の)父,若(しく)は祖先を崇敬(アドレ)すると云ふの事(?)は吾人の信じ難き所なり。然れども是れ事実なりき」と。嗚呼,耶蘇教国に於きて耶蘇教人に孝道を説明するの難(し)き,此の一言を以て証すべし。我(が)国 未だ他教を以て祖先教を一洗したるにあらざるなり。然るに民法の法文,先づ国教を排斥し,家制を破壊するの精神に成り,僅(か)に「家」「戸主」等の文字を看ると雖,却(っ)て之が為めに法理の不明を招く空文 無きの優れるに若かざるなり。嗚呼,極端個人本位の民法を布きて三千余年の信仰に悖らんとす。而して一方に於きては,或は耶蘇教旨の我に行はるゝを欣ばず,強(い)て忠孝の国風を保持せんとす。哲学家は巧妙の弁あるべしと雖,法制史家の眼中に於ては孝道は祖先教家制の影なり。法制 先づ其(の)実体を亡(ぼ)し,教育行政は其(の)影の存せんことに汲々たり。史家は其(の)前後矛盾を笑なるべし。公法は権力相関の秩序なりとは,予が公法の講堂に出入せし人の聞(き)飽きたる説明なり。然れども,公法の研究は,期せずして復た此(の)原則に帰納せらるを得ざるなり。仏人フラフの近著,亦 権力相関の源泉に遡り,制度の変遷を詳(ら)かにせんとす。諸家 皆 其(の)本源を古の家制に帰す。家は家父権 之を統治す。家父は家属に対し殆んど無限の威力あり。後世の羅馬(ローマ)法家 之を夫が婦 及(び)子に対して天然に優れるの実力に帰せんとす。蓋(し)誤解なり。家父は夫 若(しく)は父たるの身分に由りて此(の)権を有するにあらず。権力の源泉は祖先の霊にあり。家を守護するの家神は家属を制裁するの威あるべく,子孫の祖先の霊に服従すべきは,之を顕世の代表者に移すことを得べし。古代「バーチル」の語,常に母の夫を指すのみならず,汎く有権者を呼びたる例なしともせず,亦,以て家父権は法の源たること知るべく,法は神聖なりと云ふ語の完全なる意味をも解することを得べきなり。耶蘇教の入りしより家父権 衰ふ。祖先の霊は子孫を守護するの責を免れ,父子夫婦 同じく唯一上帝の前に平等なり。祖先及(び)父を崇敬するは,神を侮辱する者なり。法は俗界の制 何ぞ神聖と称する事(?)を得ん。博く汝の隣人を愛せ,一視同仁の天帝は血縁の濃淡を認めざるなり。家制 豈(に)久しきを保たんや。家制 衰へてより近代国政の基礎を固ふするに到るの間,欧洲の社会,権力相関の中心を失うこと久し。是れ法度 弛廃し,豪族(が)割拠(し)優者(が)専恣(する)の世とす。僅(か)に其(の)社会を救ふたるものは耶蘇教の力 多しとす。「神聖なる羅馬(ローマ)帝国」は実に宗教の力に頼りて其(の)主権の名分を正し,人心を維持することを得たり。若(し)欧土にして急激の祖先の教法を棄て耶蘇教を入るゝことを拒みしならば,欧洲の社会は道徳法制 其(の)跡を絶ちしならん,後人の鑑むべき所なり。耶蘇教の希望する個人を本位とし世界を合同するは,欧土 尚 之を実践する能はず。家制を脱し族制に遷り,方今は国家を以て相(い)依り 相(い)携ふの根拠とせり。家制主義 既に及ばずとするも,国家主義を以て法制の本位と成すべきなり。史家は一躍 三千年来の家制を看ること弊履の如く,双手 極端個人本位の法制を迎へんとする我(が)立法家の大胆なるに駭(=おどろ)くなるべし。萬世一系の主権は天地とともに久し。其(の)由る所 或は祖先の教法家制の精神に捗るなきか。所謂 君子国の美俗は,祖先教を撲滅し,又,新教を容れず,唯 学校の修身教課書を以てのみ保維することを得るか,史学の一好試験なり。
(法學新報第五號 1891(明治24)年8月15日。『穂積八束博士論文集』(有斐閣,1943年)を底本とし,表記を現代語に改め,適宜 句読点 及び送りがなを補った。)