はてなキーワード: 横尾忠則とは
最近見ることはほとんどなかったけど、たまたま見かけたウクライナ戦争に関する連載がおもしろかったから、他にもなんか連載を読むかと思って、ほぼ日アプリを落とした。
で、アプリのトップに更新順に連載が並ぶんだけど、なにこれ?思ってるほぼ日と違う。
ほぼ日って色々な人のインタビューとかエッセイが毎日更新される、テキストサイトだったはずなのに、ほぼECサイトになってる。
今日現在、アプリのホーム(おそらくサイトのトップページと同じ内容)に上から順に表示される連載を書くと
漆のお椀の通販
毛布の通販
下敷きの通販
米の通販
ほぼ日手帳
まくらの通販
最初の二つ以降、まじで笑えるぐらい通販の情報しかない。かつての面影がゼロ。
ほぼ日手帳がヒットして、オリジナルの無地の白T作ったぐらいまでは知ってたけど、ここまでになってたとは。
しかも全部いかにも丁寧な暮らししてますみたいなノリのくせに、やけに高くてダサい。いかにも勘違いした4,50代が買いそうなのばっかり。
後発のWebメディアが広告収益で売上を作る中で、その稼ぎ方は嫌だったんだろうけど、今の形の方がよっぽど品がないように感じるけど。
国立新美術館の「古典×現代2020」に行ったんだけど、現代美術ってつまんねえなといまさら。
菅木志雄
宣伝動画で「来る人は美術館に石ころがあると考えませんから」なんて言っているけど、感覚が半世紀くらい遅れてんじゃないのこの人。いまどき美術館に石ころがあった程度で、なんも思わんわな。それとも現代美術ファンは、美術館に石ころがあったらびっくりするの? そんなんだったら、徳川美術館で水石「夢の浮橋」見たら、腰抜かしてしまいそうだな。まして国立新美術館は美術館ではなくて、美術館を詐称する展示場なんだが。
いい写真だと思うよ。インスタで流れてきたら迷わずいいねを押すだろうね。その程度。
棚田康司
円空と並べて展示してつらくなかったのかな? 作品の持つ力の差が歴然と感じたが。まあ、本人やファンが満足ならいいけど。
皮緞帳は粗大ごみにしか見えんかったというのは置いておくにしても、刀剣とのスケールの差が大きくて「組み合わせた壮大なインスタレーション」と感じ取るのは難しいな。現代美術ファンは器用だ。なお刀剣展示の照明ダメじゃね。刃文見える?
田根剛
中では唯一作品を展示していなかった。仏像展示の演出のお仕事。動く照明と録音された声明だけのインスタントでチープな演出。本物の宗教儀式が、さまざまな工夫を凝らして神秘性を演出しようと努力しているのに比べれば、子供だましみたいなものだ。
おもしろいパロディではある。こっちはツイッター映えか。アニメーションは途中までしか見てないから何とも言えない。
印象うすい
さすがに力のある作品で見応えがある。ただ、「針のない時計は〇〇(忘れた。時間の超越とかそんなんだった気がする)を意味します」みたいな作品解説を読んで、深いなあなんて思わなきゃならないとしたら、俺には現代美術は無理だ。
古典の方は見応えあるよ。念のため。
【追記】
「古典×現代2020」について、古典側も含めて、もう少し詳しく書いてみる。
仙厓の作品は掛軸1つ。円相図といって単なる○が書かれている。○には悟りや真理、仏性、宇宙全体などと宗教的・歴史的にいろいろな含意があるようだ。添えられた賛がいい。「これくふて御茶まひれ(これ食ってお茶を召し上がれ)」。
洒脱だねえ。かっこいい。この作品初めて見たんだけど、賛を読んで、ふわっと心が軽くなるような感じがして、ああいい作品を見たなあと。
それに比べて菅の作品。それっぽい思わせぶり以上の何かだとは思えないな。解説聞いたら納得や感動するの、これ?
川内の写真は数が多くて辟易した。いちいちつきあってられんわというのが1番の感想。前回インスタ云々と書いたけど、でかく引き伸ばした写真とかもあり、それはそれででかい会場で展示する意味はあるのかもしれない。ただちゃんと選抜してくれ。花鳥画の方は6幅なんだよ。
花鳥画の方で目を引いたのは、森蘭斎筆/梁田象水賛の牡丹図(神戸市立博物館蔵)。背景に大きく描かれた太湖石は伝統的な描法。手前の牡丹は西洋画の影響をうかがわせる陰影がついている。でありながらうまく調和していると思う。おもしろい。賛は読めんかった。誰か教えて。
棚田の作品には全然目が行かなかったんだよなあ。円空いいなと思ってただけだった。荒々しさというか生々しさというか、そういうのがいいよね。というわけで、棚田作については何も言えない。
いちおう言っておくと、もともと円空あんま好きじゃなかったし、今回で好きになったというわけでもない。それでも円空ばっか見てたのだ。
mitimasu 冷たいドブをさらって原石を見つけるのが楽しくないなら向いてない/刀剣は手に取って角度を変え光の当て方を変え…という見方ができない以上、どこの展示もそんなもんだと思うけど?国立新が特にひどいのか知らんが
刀剣の展示は、1つ1つに小さなスポットライトが当たっていて、それを刃文のところに乗せるように見ると刃文が浮かび上がるようになっているのよ。そして横にスライドしながら刃文を見ていくと。刀剣博物館でも東博でもなんでも、刀剣展示ってのはそういうもの。
今回の展示ではそのスポットライトがなかったはず。だから見えない。
ひょっとしたら俺が見落としていただけなのかもしれない。また、刃文の見えない展示もありだよねってことなのかもしれない。いずれにせよ、日本刀にそれほど興味ないからなんでもいいんだけど。
会場内で配られていた「アートのとびら×作品リスト」なるガイドブックに、別の機会での皮緞帳の展示の写真が載っていて、それで見るとこの作品なかなかよさげなんだよなあ。ライティングが異なる。あと中央にぶら下がって振り子のように揺れていた首がないのがいいのかな。
そのガイドブックには、「同じ部屋に展示されているのは、美術品としてケースに入れられている刀剣です。刀剣はかつては武器、または切る道具でもありました」とある。これ書いた人って、刀剣の展示を見て、自分の体が切られるようなぞくぞくする感覚を味わったことがないのか。もうちょっと古典の作品としっかり向き合おうよって思う。
前回子供だましだと書いたけど、ツイッターみると評価高いのよね。意外だ。
他の作家と違って、この人は作品を制作せず、仏像の展示演出を手掛けている。演出手法は光と音で、具体的に言えば動き変化する照明と録音された声明だ。
立体物の屋内展示で照明が固定されているということに以前から不満がある。屋外ならば太陽の位置で影の付き方が変わって見え方が違ってくるからね。たとえば上野の国立西洋美術館に行く楽しみの1つが、今日はロダンの地獄の門がどんな表情を見せてくれるのだろうかということだったりする。
だから今回の田根の試みのうち、照明を変化させる、動かすという点自体は評価したい。ただその変化のさせ方や動かし方については、もう少し考えがあってもよかったのかもしれないと感じた。
正面下方から照明を当てる瞬間があるけど、これはいい、というか正しい。お堂に安置された仏像は、下の方に置かれたロウソクの火に下から照らされる。だから仏師もそれで映えるように仏像を作っているはずだから。しかし、仏像の周囲にいくつかのピンライトがあって、それが上下に等速度直線運動してるってのはどうなのって思った。
まあ、しかし照明の方はまだいい。音の演出の方はちょっとひどいのではないか。録音された声明をスピーカーで流しているんだけど、音響についての工夫がまったくないのね。仏像に向かって右手、部屋の奥の方にスピーカーがあってそこから流れているんだなってのがわかる。どこからともなく聞こえてきて展示室内を包み込むような感じに聞こえるとかそういうの全くないの。音響について完全になめてる。
さらに言うと、仏像の展示位置が低いと思う。立って見ると正対するほどの高さ。一般に仏像は高い位置に据えて、仰ぎ見るもの。その下からの角度で見て映えるように造られているはず。この仏像の一番映える角度がどのあたりかは知らない。しかし今回正面から見て違和感を覚えたから、下からの方がいいと推測する。そういった点、たぶんこの人なにも考えてない。
出品しているのが大きく2種類で、うち1つがアニメーション。これは半分くらいしか見てない。なにも惹かれるところがなかった。
もう1つは、冨嶽三十六景のパロディ「ちょっと可笑しなほぼ三十六景」で、いくつかの作品を元ネタの北斎作と並べて展示していた。
北斎の冨嶽三十六景は三十六景といいつつ、追加があって全部で46図ある。一方パロディ版が全部でいくつあるのかしらないけれど、きっちり36ではないからなのか「ほぼ」とついている。三十六景といいつつ平気で10枚追加したあげく、三十六景のまますました顔をしているところの江戸っぽさ(前近代っぽさ)と、きっちりでないので気になって「ほぼ」とつけてしまう現代っぽさの対比が興味深い。
それはさておき、このパロディけっこういいのだ。うまくて唸らせるし、おもしろくて笑わせる。
でもね、「和紙にインクジェットプリンタ」なんだよ。実物見る意味なんて全くないからね。前回「ツイッター映え」と書いたのはそういう意味も含んでいる。なんつーか、いろいろ退化してるね。
伝統×現代アートという切り口から、伝統的な作品の「もの」性を再発見していく展覧会だと思いました たとえば皆川明×尾形乾山の展示を見て、私は初めて乾山の器の「素材」を認識しました そうか、これは焼き物だったんだ!という新鮮な驚きがありました
ちょっとびっくりしたよね。乾山見て焼き物だとわからないような〇〇〇がありがたがってるのが現代美術ってことなのかな。
このコラボレーションは2種類に分けることができて、1つは独立ケースに乾山作が収められており、その上に大きく平たい円筒状の布(皆川作)がぶら下がっているというもの。6セットあった。これは両作を同時に視野に納めるのが難しく、あまりうまくいっていないように思えた。
もう1つは、小さな様々な端切れが継ぎ接ぎされた数メートルはあるかという布の上に、ところどころ乾山作の陶器陶片が置いてあるというもの。ごちゃごちゃしたものの上だと乾山は映えないなというのが感想だけど、皆川明、というかそのブランド「ミナ ペルホネン」は明らかに自分がターゲットではない(というかそもそも初めて聞いた)ので、これが素敵だという人がいるなら、その感想についてどうこう言うつもりはない。
乾山の作品では「色絵石垣文角皿」(京都国立博物館蔵)がお気に入り。モダンな味わいがある。かわいくてすてきだ。
この展覧会に行った理由は蕭白。蕭白が4作出てたら行かざるを得ないよね。で、行ってみたら現代美術作品がつまらなくて、ひどい言い方だけど抱き合わせ商法にあったような気分になったわけ。
新出の游鯉図の眼がリアリティあって見事だった。群仙図屏風(東京藝術大学蔵)が、個人的に蕭白と言えばこうのって作品で大好き。
宣伝動画のなかで横尾は、人間の本質・魂の表現が蕭白の作品の中にこめられた重要なメッセージで、現代人が見失ったものだみたいなことを言っているんだけど、これ賛同する人ってどれだけいるんだろ。まったくピンとこない。
行ったよ。特に第1部はすてきだなと思う絵が多かった。ただ基本的に個展っていまいちよね。いろんな人の作品が見れた方が楽しいな。そのなかに数点ドイグがあったら、より魅力を感じたかもしれない。個人詩集よりアンソロジー読んだ方が楽しいし、好きな詩がより映えるよねみたいな感じ。個展だとその作家をどのように位置づければいいかもわかりづらいし。いまああいった絵を描きつつ評価されているというのは、いったいどういうことなんだろ。
yama_bousi 現代美術で自分が好きな人は、淺井裕介氏、高松和樹氏、蔡國強氏、ちょっと古いのではキースへリング、藤城清治氏、あとドールの世界とか凄いなあ、と思う。現代美術とは違うがぴろぴと氏は大好き。
(この匿名ポストは、口下手な俺が近しい人間に近況をまとめて報告するための書き込みなので、「ワケわからん」という人は、無視してほしい)
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別の人ってのは、そうだな……あるところで、超っ絶美形、お耽美系おまけにXジェンダーという、やたらキャラが立ってるモデル兼役者さんを見かけたと思ってほしい。
そのヒト、ビジュアルと毒のあるキャラを買われてライブや芝居の客演に引っ張りダコで、思わず本人を確認しにライブハウスに行ってみたのよ。
期待にたがわぬ超絶美形だったんだけど、本題はこの人ではなく(いや、このモデルさんも追っかけるつもりだけど)。
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「ほんとかぇ?」と最初は思った。
その劇団、サブカルとか下北沢とか、そういうのを全然わからん俺でも知ってるくらいの有名劇団で。
旗揚げ公演のときは、ギラッギラのお耽美系女優でキャストを固めていて、そこにサブカル大好きティーンが「あ~ん、お姉さまぁ~」とかいって群がってるような感じで。
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で、その女優さん。
いっつも学ラン、学帽のショタ扮装で、ほんとうに純朴な少年みたいなキャラで、セリフ回しもトツトツとしているし、どっちかというと「あ~ん、お姉さまぁ~」とかいって群がってるサイドのヒトじゃね? と思ってた。
あるときまでは。
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ところがね。
とあるライブのゲストパフォーマンスで2人がコンビで出演した時。
そのままユラっとたちあがって身体を動かし始めたら、いきなり周囲の空気が変わったのよ。
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もうね。
ダンサー。
超ダンサー。
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ボディコントロールの精度とダイナミックレンジがハンパじゃない。
スタイルとしては、最初は土方巽的な暗黒舞踏の系譜かな、と思ったんだけど、見てると洋モノのコンテンポラリーに近い感じ。
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でも、それにしてもね。
ああいう動きは、それこそモーリス・ベジャールなんとかカンパニーとかに10年くらい所属しないと出来ないんじゃないの? まだ若いのに。
そう思ってチャラっと調べたら。
母娘2代、姉妹そろっての舞踏家ファミリーで、子供のころから母君の手ほどきを受け、美大に進学して上京してからは、もう在学中から現在にいたるまで、
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個展で踊る
有名ミュージシャンのMVで踊る
ミニマルミュージックのセッションでゲストパフォーマーとして踊る
そして、誰からもお座敷がかからないときは自主活動として踊る。
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踊る踊る踊る。スキあらば所かまわず踊りだす、踊りの国の踊り姫であることが判明。
(いやマジメな話、ソロのフリーランサーってどこで仕事を取ってくるんだろう?)
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ほかにも。
その女優さん、最初は普通のチンマリした女の子だと思っていたら、ネット上に、背中出しのコスチュームでプロに撮ってもらった宣材写真があって。
もうね、肩甲骨の自由度と張り付いてる三角筋の厚みが、完全にアスリートのそれ。
いやもちろん、シルヴィ・ギエムみたいに絞りに絞った体型ではないけど、学ランの扮装に完全にダマされてた。
完全に本職のダンサー。
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というわけで、がぜん興味がわいたんで、その“伝統の小劇団”の公演を予約して、行ってきましたよ、もう。
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もうね。
シンガー。
超シンガー。
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少しかすれた、でもよく伸びるアルトで、ピッチとアインザッツをガチキープしたうえで、朴訥な少年みたいなキャラクターをいい感じにのっけてくる。
ほぼ本職のシンガー。
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ところで、ここまで劇団の女優、女優と書いておいて、演技に一言もないのは。
だから、客演の寸劇とかで短く少ないリハーサルではアドリブがきかない。
(在学中に自主制作の映画に1本出ているらしいが、内容までは知らない)
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・ただし、所属の劇団でガッチリ稽古をすれば、プロ水準の演技はできる。
実際、主役級のキャスティングを的確にこなしていた。
少なくとも、演技といえば映画とTVしかみたことのない俺にはそう見えた。
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という感じ、なのかなぁ。
(ダンスになると手持ちの材料ですごい振り付けをするのと対照的)
ともかく、その意味ではキャスティングが当て書きとハマり役に限られる感じで、「アクトレス! 超アクトレス!」とは言えない感じ。
まだ今のところは。
案外、早い時期にその域に到達するかもしれないけど。
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劇団の公演自体はおおむね満足。アートでビザールで猟奇的な感じ。
そこで今度は彼女が時おり客演しているバーレスクチームのパフォーマンスに行ってきましたよ。もう。
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で、見てきた印象を簡単に書くと、
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・ダンスを見て、
やはり動きのキレすさまじき。
チップばら撒き、飲み代払いまくりなれど、かぶりつきで見た。元は取った!
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・ダンスが終わって
話を聞こうとしたら、追っかけが周りを取り囲む(俺も含む)。
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もともと芝居好き。
劇団オーナー氏の文芸思想面に共鳴、心酔、ならば何も言うまい。キャリアとか。
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・余談、『草迷宮』以外にも女力士がいるらしい。寺山修司好みのモチーフらしき。
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というあたりで。
……興奮冷めやらぬ中、この3ヶ月の自分を振り返る。
自分は何をこんなに、このダンサー(と周辺の人たち)に入れ込んでいるのか?
あれだ。
何が楽しいかというと、若い人たちが劇団やライブで頑張ってるのを見ると、その、あれだ。
大森望とか小林よしのりがAKBにハマっているのを「自分の娘みたいな年頃のアイドルに入れあげるって、それはどうよ?」とか思ってたのがね、これが自分がハマってみると、
_人人人人人人人人人人_
> スッゲー楽しいの <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
.
そしてね。
この歳になって「和風アングラもいいな」という自分を今さら発見した。
夢野久作とか寺山修司とか麿赤児とか唐十郎とか横尾忠則とか佐伯俊雄とか『ガロ』とか古屋兎丸とか、そういう日本の猟奇的な世界とは無縁で生きていくものだと思っていたんだけど。
これがねぇ。若い人が過去の作品群や事件を掘り返しながら、自分にしてもまだガキだった'60年代の新宿的世界をガチでやろうとしているのが面白くて。
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ほかにもね。
その女優さんと美形モデル氏を起点に人脈をイモづる式に掘っていくと、面白い人たちが出てくるわ出てくるわ。
誰に頼まれたわけでもないのに、全身を蛍光色にペイントして街角にくり出してフォトセッションをやってるギャルの集団とか。
どこから出演料が出るわけでもないのに、「調香師の貴婦人と助手たち」みたいな架空のストーリーでコスプレ衣装合わせをして、参観料を取って企画として成立させてるコスプレイヤーとか。
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みんな“何か”になりたくて、
“何か”をしたくて、
でも、それが“何か”はっきりしていなくて。
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みんな若さにまかせて、アルバイトを掛け持ちしながら、もがいてる。
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おお! こりゃ、リアル日本版『レント』(と、その元ネタの『ラ・ボエーム』)の世界じゃないのよ!?
いいねぇ。じつにイイっすねぇ。
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この歳になると、知り合いで創作的なことをやってる人間は、
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・その周辺で稼げる分野に落ち着くか(←俺のことだ)、
・完全に足を洗って別の仕事を見つけるか
.
どれかになるんだけど、まだ、そのどれでもない状態でやっている、やれている人たちが、まぶしくて、まぶしくて、もう。
.
この女優さんにしてもね。
.
っていう流れに乗る前に、
っていう流れに乗る前に、
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多少無理をしてでも金と時間を作って四方八方にコネのある舞踏家に師事して、それをテコに国内でも海外でもいいから名前の通ったダンスカンパニーにもぐり込むことを最優先にするだろう。
その後は、
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・一般人にも名の通ったポジションを取ることを最終目標に、有名振付師のゴーストから経験をつむか、
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・彼女の母君みたいにレッスンプロとして“ダンスを見たい人”より“ダンスを演りたい人”を客にするべく、行政とかに売り込みをかけるか、
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・あるいは、ヨーロッパみたいにハイカルチャーに一定の需要がある国にイチかバチか、飛び出してみるか。
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……10年後、20年後も踊っていたいなら、これくらいしか選択肢はないんじゃなかろうか。
.
でも、おそらく、それじゃ満足できない何かがあって、それに衝き動かされているんだろう。
(と思ったら、海外留学が決まったらしい。いいぞ、行ったれ行ったれ!)
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ま、ともかく。
独立起業という名の引きこもりになって、はやЖ年。なんか世界がせまくなる一方だった自分の生活が彼女ら彼らのおかげでムチャムチャ彩り豊かになった。
この人たちには、いくら感謝してもしたりないが、直接言うとキモいので、ここでこっそり発言。
.
http://www.amazon.co.jp/review/R33VQYXB3J6P7P/ref=cm_cr_rdp_perm?ie=UTF8&ASIN=4838725833
ネットで叩かれているようですが、事態はもっと深刻だとおもいます。
何より、「グラフィックデザイン」という仕事自体への信頼を落とした罪は、とてつもなく大きいと思います。
擁護していた人間が、信じられない。「仕事」あってのデザイナーです。「彼はいい人」?ふざけるな、です。
真の人柄とは、「デザインの仕事」にこそ、出るものなはず、です。
全てのデザイナーが、こんなパクリ、というか、「雑な仕事」をしているわけではありません。
精一杯、ギリギリの低予算と日夜の仕事の上にちょびっとだけ花が咲くような「地味」な仕事です。
この「パクリ」は、むしろ「佐野研二郎」さん、「森本千絵」さん、「長嶋りかこ」さんら、
大手代理店の実質・専属デザイナーだからこそ、必然的に起こりえました。(まだまだ他にもいますよ)
彼等は、零細のフリーランスや個人のデザイナーと違って、大手広告代理店・電通や博報堂とのパイプがあるため、黙ってても、とんでもない「大きな仕事」が降ってきます。サントリー、資生堂、TOYOTA、HONDA…そんな大企業はデンパクにしかできませんからね。
それをチャチャっと、イメージソースを見つけ出し、Macでコピー&ペースト。下っ端のほぼアルバイトに近い低賃金アシスタントに、徹夜でとてつもない量の「アイデア」を出させ、その「手柄」を横領します。
「横領」と「電通・博報堂・多摩美ムサビ」を中心とする「これがオシャレなんだぜ」という「自己顕示」が、彼等のいう「クリエイティブ」の正体です。
彼等に創造性は一ミクロンもありません。「芸能人」に好かれているから、成り立っていただけです。
「ま、素人だしな、センスねえ・一般人なら、わかんねーだろ。」これが、彼等のいう「デザイナー感覚」なのでしょうか?
違います。真のデザイン感覚とは、「一般の人」にこそ、パッと「見るだけでわかるもの」だと私は思います。
ちょっと心あるデザイナーたちは、みなこの人たちの「センス」の源泉・ソース元が「パクリ」であることにとっくに気付いていました。ただ、一般の人の目と耳に届かなかっただけなのです。
彼等は「デザイナー」というより、「中間搾取業者」さんという方が適切なのです。
デザインに、本当はプロもアマもありません。だからこそ、デザインは過酷な仕事なんです。
かえって、「素人」だからこそ、曇りのない目だからこそ、デザインの本当の良さがわかるし、ウソもバレるのです。
国民の祭典である「オリンピック」に、あんな葬式か、安っぽいブランドのロゴのようなデザインを出してくるセンス。
それに疑いもしないセンス。これが「プロのデザイナーの仕事」なのですかね?
こんな「雑な仕事」が、止まることなく、まかり通ったのも、彼等を批判することが「タブー」だったからです。テレビ・新聞・ラジオという「メディア」の一番の資金源である「広告」を「美しく」作る方(パクリですけど…)なのですから。
まるで、一連の騒動も、「頭の悪いネット民」の批判だから、などと、彼等側の人間は、主張するでしょう。
いえ、今回ばかりは、発見したのはネットの方々かもしれませんが、日夜真面目に働く「デザイナーたち」こそ、一番の被害者です。
こんなズサンな人々と一緒にされたくない、とほとんどの方は主張するでしょう。そして、デザイナーこそ、こういう愚劣なクソデザイナーに怒りを感じるはずです。
和田誠さん、田中一光さん、亀倉雄策さん、横尾忠則さん等、デザイナーがスターだった時代は、手と情熱とで、素晴らしく美しいデザインをつくっていました。いちいち鉛筆で線を引き、イラストレーターと一緒にアイデアを考えていました。
デザイナーという仕事は「広告屋」「看板屋」などと低く見られ、軽蔑されていました。
何が「ミスター・デザイン」じゃ!!その「ネーミング」の恥ずかしさに、言葉も出ません。
最高に笑えないギャグですよ。口に出してみて下さい。「ミスター・デザイン」?。
オレは偉いんだぜ、ってことでしょ。自己顕示欲の塊なんですよ。ちょっと心あるデザイナーなら、誰でも気付いていたことです。
これを機に、「デザイン」という仕事から、足を洗って頂ければ、幸いです。
後記:多くの方に反響を頂きまして嬉しいです。
少なくとも、サントリーのパクリの件は、専門学生の1・2年レベルの課題でも今時するか?という初歩的な「画像のまんまパクリ」です。フリー素材か、写真を取ればよかっただけのことです。
デザイナーとして、本当に、ありえないレベルのミスです。こんな仕事の仕方は、佐野研二郎氏の事務所だけでしょう、と信じたい…。
しかし、それでもまだ擁護する「デザイン村」の人達にはつくづく情けない…。
理研の小保方氏、音楽クラシック村の佐村河内とホントーに、まったく同じ構図じゃないですか!
デザイナーたちも、仕事に響くので、黙っている方がほとんどだと思いますが、勇気を出して、声を上げて下さい。
呆れるほどボロボロとずさんな情報が出てきてしまいます。「思考をクリア化」しすぎた結果だと思います。
この本を読んで、「そもそものデザインのやり方」への「違和感」を感じて、すぐに某本屋へ、売りましたが、まさかあのときに感じた違和感が、これほどまでに実現化されるとは思いませんでした。
でも、いかに佐野氏が、「手抜き体質」かが、出ていると思いますよ。
なんと…驚愕の事実が発覚しました(2015年8月30日)。「ペンギンブックス」という、日本人には馴染みが薄いですが、
有名なペーパーブックのシリーズの名タイポデザイナー「ヤン・チヒョルト」のパクリであることが発覚しました。
私も、GGGでの展示に行って、感銘を受けました。本当に許せない。チヒョルトは、ハッキリ言って、
作風は地味です。しかし、心に残るデザインをする私も心から敬愛する、「巨匠」です。
しかし、そのチヒョルトの「表面」のデザイン部分だけをペーストして、パクる姿勢。
本当に許せません。
「スポーツの世界」のヤツラにならば、わからないだろう、という魂胆でもあったのでしょうか?
本当にふざけてる。デザイナーとしても、最低です。許せません。
(コメントに追記)>>広告代理店のデザイナーの仕事はプレゼンが主なので細部まで検討して作りに作り込んだファイナルプロダクツを作成することはありません。ファイナルプロダクツは下請けの専門家に任せます。だから”これとこれをくっつけて~”みたいに30%ぐらいの力で仕事を仕上げるのが”デザインする”ことだと思っちゃってるデザイナーになってしまうんです。しかも代理店にいたというプライドだけは高いから、始末に負えない。
そうなんですよ。彼等のいう「クリエイティブ」は、日本語訳の「創造すること」や「発想すること」じゃないんですよ。
いかにして、「自慢するか」なんですよ。
で、CMの世界では相手のクライアントが、「企業」ですから、世に漏れなかった。会議室の中だけでの世界でした。
しかし、「オリンピック」という晴れの世界で、「Mr.デザイン」こと「佐野研二郎氏」は同じように、惰性でやってしまった。彼にとっては、こういう仕事の仕方が、「普通」なんです。
もちろん、考える力も発想のノウハウも、強さもないから、最終的な「アウトプット」は「何かに似せる形」になります。何かに似せる、しかも雰囲気だけ…ぐらいなら、いいんです。
「何かに似せる努力」すらやめて、「そもそも画像をそのままネットからパクっていいじゃん!」
「フォトグラファーを使う」「イラストレーター(絵描き)を使う」「タレントを使う」のにも、何をするにも、
それを解消するには、タダで「アウトプット」を創り出すには、いくつかのアイデアがあります。
しかし、最も単純明解に、クリアに、ボールドに、全ての制作費が浮く方法があります。
一番安く、早く、タダで済ませられる唯一のデザイン。
一体なんでしょう。
それは「搾取」です(「パクリ」という言葉は、何となく、「万引き」に似た甘やかしの言葉だと思います。そんなレベルではないですよ、コレは。明らかに「システム」として、「自分の仕事」として、やっています。でなければ、こんなに出てくるはずはないです。)。
デザイナーたるもの、誰でも一度は、パクることはあります。学生時代に、一からオリジナルを創り出せる人間など、いないし、天才でもムリでしょう。「習作の時代」はあります。
「自分の周りへのヒト・カネ」がメインであって、「モノ」(仕事)は、どうでもいいのです。軽蔑された結果なのだと思います。
はっきりと、誰かの作ったものを「奪って、人に提出する仕事」に甘んじてたのだと思います。原宿の事務所のMacintoshの中では、イラストレーターが書いたパンも、誰かのブログのパンも、「一緒」です。
ならば、タダな方がいい。
とすら、考える頭もよぎりません。
まったく自然に「ミスター・デザイン」は、搾取します。無限に仕事がつくれ、永久にカネが入ってくる仕組み…。
思考は確かに「クリア」かもしれませんが、その精神は「ドロドロ」です。
クリエイティヴ・ディレクター、アートディレクターという「肩書き」は、「搾取指示人」なのでしょうか。
「クソ・デザイナー」というカテゴライズで、はっきりと「普通のデザイナー」とは一線を画す社会にしたいものです。
全てのデザイナーこそ、今こそ怒りを上げるべきです。
2015年9月1日、ついに、ようやく、取り下げました。が、凄まじいシロモノの反省文を掲示しました。
ここまで「ひどい謝り方」をできる人間が、いたでしょうか。
帰って来た返事は、「被害者」気取り、でした。
やはり、闇は深い、と確信するばかりです。
もうこれは確実に、しれっとして、またヒョロっと、5年後、五輪のバックで「名前の出ない形」で関わってきますよ。1000%。
絶対に、です。「今を乗りきれば、大丈夫」と思っているはずです。
もちろん、いわれのない誹謗中傷もあるでしょう。それはお察しします。
しかし、博報堂の「営業」の人間は、そういうことで強くなるんですよ。何にも言われないのは、クーラーの効いた部屋で、パソコンと戯れるクソデザイナーだけなのです。
自分の大好きなお仲間たちと、カネをバンバン出してくれるクライアントと、ドラゴンボールやドラえもんを使われても、何も言えないそっちのヒトたちの複雑な気持ち、アニメーター、漫画家、アーティスト、イラストレーターを、笑顔でほがらかに踏みにじってきたわけですからね。アートディレクターって、一体何なのでしょう。
博報堂では、こんなに「謝る」ということは「罪悪」なのでしょうか。
卑怯なのは、「テキスト」ではなく「画像」で謝るということも、そうなんですが、
「リュウミン」を使って、この際も「キレイに、クリエイティヴに、素敵なタイポグラフィ」で謝ろうとするクソみたいなデザイン根性です。
「ニッポンは、世界中から尊敬されている映画監督の出身国だった。お忘れなく。」のあの「ドヤ感」の「薄汚さ」が、本当に蘇ってきました。その「キタナさ」が何一つ変わっていない、どのメッセージでも。
これが、逆にいえば、彼のデザイナーとしての唯一の「統一性」なのかもしれません。
ただ、「ドヤ感満載」のデザイナーだと、仕事になりません。本来ならば…。
こういう場合、「真摯なデザイナー」は、実は、普通の、どこにでもある「そっけない」明朝体を使います。
リュウミンだと、あまりに「美しい書体」すぎて、ほぼ「ウソっぽく」聞こえるからです。
そんな「文字への美的感覚」すらないんでしょうね。表面的に、「キレイ」なら、何でもいい。佐野研二郎。
そもそも本当にデザインを学んできたのでしょうか?疑わしくなってきました…。
皆様が5年後忘れていても、私は「佐野研二郎」という、愚劣な「デザイナー」という肩書きをした「搾取者」の名前を永遠に忘れません。
今は、「炎上」し、「祭り」状態かもしれません。
しかし、私は、もっともっと持続的に追求していかなければならない問題だと思います。
この多くの批判が消え、静寂になり、命を吹き返した頃に、
また愚劣な身内自慢とともに、高らかな搾取とクソデザインのオンパレードが、そっと始まる(reborn)ように思います。
絶対に許してはなりません。本当に。