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はてなキーワード: 不寛容とは

2017-09-17

anond:20170917154252

寛容や差別廃止を訴える人たちが、イスラム内の不寛容差別正当化無視するんだから混乱するだろ

こっちは寛容なのにあっちは不寛容でもいいと言われても意味分からん

2017-09-16

差別する自由」はある

イスラム教モスクに、酒や豚肉を持ちこもうとしたら拒否されるだろうし、女性露出の多いファッションで入ることも拒否されると思う。

ここではイスラム教価値観絶対視されていて、それにもとづく作法強制されている。異教徒は客人として扱われ、その作法に従わないとき排除されるだろう。これは「差別である

  

私は他者危害にならないかぎり「差別する自由」を擁護する。イスラム教徒モスクの中で異教徒差別してよいと思っているし、それは当然だ。

同様に、キリスト教教会キリスト教徒のために存在し、仏教寺院仏教徒のために存在すればよい。そこに市民社会ルールを持ちこむべきではない。

  

大切なのは政教分離の徹底と、信教の自由である

「嫌なら出ていけ」「差別されたくないなら退去せよ」というのが原則だろう。

  

参考

差別から自由」は「差別する自由」に優先する。よって「差別する自由」などというものはない

  

しいたげられたしいたけ

http://www.watto.nagoya/entry/2017/09/11/220000

  

追記

そういえば真木よう子コミケ出展騒動で、一部のリベラルが「オタク不寛容だ」とか「オタク差別主義者だ」と言っていたけれども、もし皮肉冗談で言っているのでないならば頭が悪すぎる。

文化されているかどうかにかかわらず、村には村のルールがあるんだから、それを守らない者が排除されるのは当然だ。

コミケ独自ルールはたしか理解不能で、オタクのやっていることはキモいと思うが、まあそれだけの話だろう。そこに「差別」があろうとなかろうと、リベラルがしゃしゃり出るべきではない。

  

  

追記2

トラバのほうに書いたけれども、宗教施設の内部でおこなわれているマナー作法強制は、「差別」と呼ぶべきものである

もしそれが差別でないとすれば、私たち公共空間で起こりうる差別を「差別」と呼べなくなってしまう。

モスクでは、性別という「本人の力ではどうにもならない物」を根拠にして、人のファッションを厳しく制限している。

例えば女性けが露出の多い格好をしてはいけないとか、スカーフを顔につけないといけないとか……。これは差別じゃないの?

そういえば仏教神道だって女人禁制修行場とかあるぞ。

そもそも特定宗教団体が定めているマナー作法なんてものは、まったく合理性がない。それを強制するということは、他宗教の人たちへの差別となる。

宗教団体施設内でこの「差別」をやっているだけならば、私たちはひとまずそれを自由として尊重するべきだろう。しかし、国家権力がそんな差別行為に加担してはいけないし、学校職場では差別を固く禁じなくてはならない。

  

すなわち、宗教趣味のような私的コミュニティは、その内部においてのみ「差別する自由」を有する。

からこそ逆説的に、学校職場のような公共空間における差別禁止可能になるのだ。

  

  

追記3

モスクが様々なルールをもうけていることに対し、「差別ではない」というブコメが多くて唖然とした……。

べつにこれはイスラム教に限らないけど、宗教教義とか、作法やしきたりが差別を含んでいるのは明白だ。そこに差別があると感じ取らない奴は、さすがにちょっと頭がおかしいと思う。

そのうえで、宗教団体はその差別的方針に基づいてコミュニティ運営してよいが、国家運営学校職場においてそれをやることは許されない。要はそれだけの話なのに、なぜこんなに反発されているんだろうか?

(もちろん公共空間と、非-公共空間の境目はわかりづらく、厳密に考えていくと厄介な問題になるとは思うが。)

  

  

追記4

id:taka37564 なんで差別問題になると、こうも頭の悪いことを言う人が出てくるんだろう。お前は「差別」を「殺人」や「強姦」に置き換えても同じ事が言えるのか?

え? 同じことが言えるわけねーだろ?

はてなリベラルって、こんな頭のおかしいヤツばっかりだなww

  

モスクの中で殺人強姦をする自由はない。だが、差別をする自由はある。

例えば、「女は露出の多い格好をするな、顔にはスカーフを着用しろ。この命令に逆らった女は排除する」などというルールは、まぎれもなく女性差別だ。しかし、イスラム教徒モスクをこのようなルール運営することを、われわれは彼らの自由として保障するべきである

  

無論、このために世間から女性差別という評価を受けるだろうが、それはイスラム教がそういう宗教だということにすぎない。

彼らが改革をして近代的な宗教としてアピールするもよし、昔ながらの閉鎖的な古臭い宗教としてやっていくもよし、どちらの道をとることも我々は容認するべきだと思う。

2017-09-15

多様性不寛容社会

ある女が「音楽魔法じゃない」と歌い、それを聞いた男が「音楽魔法だ」と言って、2人は大喧嘩したらしい。

どっちが悪いか以前に、音楽魔法ではないという価値観音楽魔法であるという価値観共存ナチュラルに拒絶しているところが怖すぎる。

2017-08-29

オタクが寛容だ」なんてオタクは言ってない

何か勘違いされがちだけど、オタクはクソフェミ自称リベラルに対して

「そうは言うけどお前らも寛容じゃないよね?」と言ってるだけで、

「俺達は寛容だ!」なんて宣言はしていない。

俺らは不寛容だし、お前らも不寛容だっていう話だから

排他的な行動をとった所でなんら矛盾はない。

2017-08-28

芸能人コミケ参加について

オタク自分たち表現の自由は守ろうとするくせに、芸能人自由は守らないのか

っていう観点から批判を見て思ったんだけど

オタクって普通にオタク相手でもコミケにおけるマナー違反って過度に不寛容だった気がするんだけど

いつからかそうじゃなくなったってことなのか?

コミケの時期になると毎回毎回マナー違反している参加者へのバッシング芸能人相手とかキモオタ相手とか関係なく飛びまくるのがデフォだと思ってたんだが。

2017-08-20

発達障害彼女が許せない

僕は発達障害だ。集中力計画を立てる能力短期記憶物事を手順通りに行うことがかなり苦手だ。

仕事中は全然集中できなかったし、友達と飲みに行くだけの予定だって立てられなかった、バイトだってちゃんと手際よく働くことが出来なかった。

今、僕は25歳。ちゃんと働いているし、周囲から発達障害だなんて思われていない。少なくとも僕はそう思われていないと確信している。

ここに辿り着くまでに様々な努力や工夫があった。

集中力の欠如・何かに取り組めない時は、目を瞑って10秒数える。その10秒間でリラックスすると共に自分爆弾なんだと思い込む。10秒後に爆発する僕は、以上なスピード物事に取り掛かる。

計画が立てられない時は、まず滅茶苦茶な計画を立てる。批判は得意なので、その計画批判改善する。

記憶物事の手順は全てメモオンラインストレージに入れる。しなければいけない行動をする時間タイマーをかける。

そうやってテクノロジー自己暗示のおかげでなんとか社会生活を営めている。

そんな僕は今、21歳の彼女暮らしている。彼女も僕と同じく発達障害者だった、これは偶然だ。

彼女暮らしはいかにも発達障害者のそれで、片付けられない、何かをしようと思っていてもどこから手を付けていいのか分からない、依存症になりやすい、多動性といった感じ。おまけに薬のオーバードーズをやっていて、ここに書けないようななんやらも昔やっていたらしい。

彼女生活は乱れており、公的手続きや支払い等もまともに出来ていない。

発達障害者同士、理解し合えるのではないかと思うかもしれないがそんなことはない。寧ろ、苛立ちが募る。

なぜ、自身の欠陥に気づかないのか、改善しようとしないのか、その為にどんな手段があるのか。

欠陥という表現は良くないのかもしれない。例えば自身失明しているからと言って他者をメクラと呼んでよい訳ではないと思う。

ただ、自身のそういった「特性」が気に入っているのならば良いが、恐らくそうではないだろう。ならば、自身の「改善したい部分」をなぜ改善しないのか。

僕は自身発達障害への対策高校生の頃から自覚的に行ってきた。そして、それはある程度上手くいっているみたいだ。

そして、彼女にも自然とそれを求めてしまう。足がない人を叱ったところで足が生える訳でもないのに、目が見える様になる訳でもないのに。発達障害は目に見えないから叱ってしまう。

もし僕が何かのラッキーでこの発達障害への対策を身につけたんだとしたらここまで怒りは湧かないだろう。彼女はアンラッキーだったんだと思える。

でも僕は自身努力と突き詰めた自己分析によって今の自分を得た。自分の特徴だったら何だって分かるし何ができないのかだって分かっている。完璧に分かっているんじゃないかとさえ思う。

そうした努力彼女はしてこなかった。もちろんそうした努力をしようと思いたったということが、自身特性若いうちに理解出来たということがそもそもラッキーだったのかも知れない。そんなことを考え出すとキリがない。頭の中がぐちゃぐちゃなのでまとまらない。とにかく彼女に腹が立つ。

前職で、確認はしていないが発達障害の特徴が強く出ている先輩がいたが、その人にもやはり怒りを感じた。

社会という大きなコミュニティの中では僕は低層(コミュニケーション能力適応能力において)だが、発達障害者というグループ(グループというよりジャンルか?)においては僕はおそらく上層(社会適応能力・健常者と変わりないと思われる能力)なのではないかと思う。

障害者特に努力してある程度健常者に近づいた障害者こそ、同様の障害を抱えた他者に対して不寛容になるのではないか僕は思う。そして思うのだ、「僕はあいつらとは違いますよ。健常者とほとんど変わりませんよ。なんならそこらへんの人よりもまともですよ。」と。

https://anond.hatelabo.jp/20170820111359

私の意見が間違っていても、増田申し訳ながらなくていいんだよ。私は増田の言いたいことを理解したいだけだから

ありがとうございます

しかしながら自分の元の文が悪文であるが故に話がなかなか伝わっていないと思うので、その点で本当に申し訳なく思います

もうちょっとゲームを続けてもいい?

あんまり頭のいいプレーヤーじゃなくてこっちの方が申し訳ないんだけど。

はい、続けましょう。そして、私の言葉が足りていないのでそちらが申し訳なく思う必要はないと思います

まず、私の立場としてはポリコレの事自体を憂いているのではないということを念頭においていただければ幸いです。

私が憂いているのは、正しさで自己肯定をしてしまったが故に、他者不寛容にならざるを得ない人のことです。

ですので、

この増田主題は、自己肯定していない人間ポリコレを実行するのは危険を伴うから注意が必要だよってことかな。

ではなく、ポリコレなどの正しい価値観に準じることで自己肯定をするのは色々な意味で辛いのでやめましょう、ということです。

ネットポリコレ棒ブン回してる人たちはみんな、自分で考えたことを信じられないから(自己肯定してないから?)他人の考えを丸呑みにして準じようとするからそうなってるよね、それって本質理解してなくて、ただその教えに従ってれば自分絶対正しいんだって安心してるだけのポリコレ聖典信者だよねってことかな。

ポリコレじゃなくても、逆にレイシストであっても自己肯定がなければ、同じようにレイシズム聖典を抱えている可能性もあるってことよね。(ただレイシズム場合は元々相互理解不要であるという考えだからポリコレみたいにそれが本質でなくても内部矛盾する機構を持たないけど。)

前者、後者ともにその通りです。絶対に正しいことに従えば自分絶対に正しいという姿勢は、盲目的な信者しかない。そして、その絶対に正しいことというのは必ずしもポリコレである必要はなく、レイシズムであることも、フェミニズムであることもあります

自己肯定って確かに難しいよね。

小さい頃からずっと事あるごとにお前はいつも間違っているって言われて、その度にずっと脅されたり叱られたりしてくれば、どうしたらそのストレスから逃れられるのかなって考えた時に、じゃあもう自分で考えたことはみんな叱られるなら、みんなが正しいって言ってることを信じたらきっと叱られたり脅されたりせずに済むだろうって、まあ普通にそうなるよね。

だいたいその通りなのですが、最後の段だけ微妙に違います。みんなが正しいと言わなくても、絶対に正しく見えるロジックがあれば良い。時に聖典レイシズムであるのはそれだからです。そしてそれを信じれば叱られたり脅されたりせずに済むのではなく、叱られたり脅されたりしたときに無条件で悪いのは相手だと思うことができるので、ストレスから逃げることができるのです。

そんでポリコレの真髄とは、どんな反対意見を持った相手にも、どんな人種相手にも、どんな性別相手にも、どんな身分相手にも敬意を払って、失礼なことをしない努力をするってことなんだけど、そうなると相手意見尊重してよく耳を傾けなければならないし、自分がそれでもし何か間違っていたことがあったとしても、その間違いを正すことを恐れてはならない。自己肯定の塊よねこれって。

ポリコレの真髄ということまで私自身が理解できているとは思わないのですが、こうした他者を本当に尊重する態度は、自己がしっかりと確立していないとできないものなのでしょう。

そして単にポリコレ聖典にしているだけの人は、多分そこまで実践することができないのだと思いますポリコレ的な態度を取れない人をむやみに攻撃してしまう時点でポリコレから外れてしまうのはすでにご指摘のあった通りです。

自己肯定をするのはすぐには難しいかもしれないけど、でもきっとそれができればもっと楽チンに平和ポリコレできるよ!ピース

って感じ???

ここがまた私の考えとは違う部分です。この文章最初の方で述べた通り、私はポリコレ自体を憂う立場にはありません。だから、正しいポリコレのために自己肯定ができるようになろうと考えているわけではないのです。

憂いているのは正しさで自己肯定をしてしまったが故に他者不寛容になってしまう人です。

そうした人に、正しく生きることで自己肯定をするのはやめようと言いたい。自分が間違っていてもそういう自分を認められるようになろうと言いたい。

それができれば、信じるべき正しい聖典がなくても安定した自己を手に入れることができるよ、安定した自己が手にはいれば無闇に他者不寛容になってしまうこともなくなるよ、と思うのです。

安定した自己が手に入った結果、他者尊重できるようになり結果的ポリコレ的な態度を正しく実践できるようになることはあるでしょう。しかし、それは結果であって目的ではない。

重ねてになりますが、ポリコレを正しく実践するために自己の安定を手に入れようという話ではなく、ただ単に本当に楽に生きるために自分を認められるようになりましょうという話なのです。

ここまでのトラバリーの話の中で、私自身が自分が本当に訴えたいことを理解していなかったことに気づきました。最初は単に、正しさで自己肯定をしてしまう人は他者不寛容で息苦しい、そしてそういう人はポリコレ界隈の人だ、と思っていました。

けれども、ここまで様々な方とお話をして、自分自身の考えが深まっていきました。

結局言いたかったのは、正しさで自己肯定をしてしまうのは一見楽に見えるけれども実は辛いからやめよう、という話でした。

ポリコレ界隈の人全てが正しさで自己肯定をしているわけではないし、ポリコレ以外の正しさで自己肯定をしている人も、私が憂う人であったのです。

それなのに過激さを狙って「ポリコレとは現代聖典である」という上段に構えたタイトル元増田につけてしまい、反省をしています

これから元増田をどうするのかなど、ちょっと考えたいと思います

2017-08-18

https://anond.hatelabo.jp/20170818182847

確かに私の方こそ過度な一般化をしているのかもしれません。

ポリコレ勢にもいろいろな方がいるのでしょう。

しろ私が息苦しいと思っている、ポリコレの正しさを振りかざして自己実現をしている類の人は、本来ポリコレ勢と呼んではいけないのかもしれない。

しかし、私自身は正しさを盾にして他人不寛容である人は、ポリコレであるかないかにかかわらず存在していると思っているし、その類の人が利用する正しさの中に残念ながらポリコレ存在していると思っています

本当にマイノリティ容認するためにポリコレの考え方を使っている方には他意はありませんが、一緒くたにしているような書き方をしている点については申し訳ないと思います

https://anond.hatelabo.jp/20170818171654

自分自身踏んでるところがあるから他人不寛容ポリコレの人を息苦しく感じるのか、ものすごく考えています

ポリコレの展開活動の上で正義は我にあり、みたいな態度をとっている人を息苦しく感じるし、そういう人は実は自己肯定ができないから正しさにすがっているのだ、という考えを持っていますが、踏まれる側にとってはそういう人ですら頼もしく見えるのかもしれない。

あなた自身にはポリコレ界隈の人ってどう見えますか?

https://anond.hatelabo.jp/20170818172922

例えば、性的マイノリティ肯定されるべきである、とかですね。

このこと自体には異論を唱えるつもりはありません。

けれども、肯定されるべきというルールを守るのであればどのような肯定の仕方でもよいのかというと、そんなことはないと思うのです。

大っぴらに肯定してもらえるのがうれしい人もいるだろうし、否定だけしなければあとは放っておいてほしい人もいるでしょう。

そうしたところを個人に合わせて考えるのが気づかいであり、それを忘れてルールだけ守っていれば自分は正しいという態度をとる人は傲慢しか見えません。

また、ポリコレ本来は様々な人を容認しようという考えの元生まれものであり、個人に合わせて事情を汲み考えることこそその出発点なのだと思います

けれども、そこを忘れた過度な一般化によって○○は××であるべきであるというルールけが独り歩きし、その正しさを盾にして他人を叩くだけでなく、本来ポリコレによって守られるべき人まで踏みにじっている現状がありはしないか疑念を持っています

私の本来の主張とはかなりかけ離れた話ですし、私の現状認識が間違っていることもあるでしょう。

しか私自身も結局言いたいのは自分にも他人にも寛容になろうということです。ポリコレ的な考えを否定するのではなく肯定的に思っていますし、だからこそポリコレの正しさを利用して他人不寛容な人が目に余ると思っているのです。

https://anond.hatelabo.jp/20170818170959

うそう、その自分正義の側にいると信じ込んでいて不寛容な態度をとる人はどうなの?という話です。

かつてその自己実現問題をはらむがゆえに不寛容であった正義宗教であったけれど、今はポリコレなのだろうと思うし、また次の絶対に正しい正義を探していくのだろうというのも同意です。

でも、なぜそうした人が正義を追い求めるのかというと、実は自分肯定できてないからというのが私の見立てであり、だからこそ自分他人も許容しましょう、という話になります

ポリコレ本来は様々な人を容認しよう、という話であったはずなのに、それが正義強要する人によってゆがめられているように見えるのは残念だと思います

https://anond.hatelabo.jp/20170818161221

ポリコレが全部悪って言ってるわけではないのはわかる

ポリコレ自分感覚が合ってないと息苦しいっていうのも非常にわか

上段はその通りですが、下段は違います

私が問題にしたいのはポリコレのものだけではなく、妄信的にポリコレを信じている人であり、そうした態度を他人にも強要する人のことです。そうした人のことを息苦しい人だと感じます

そして妄信であるならば、ポリコレに限らずフェミニズムであっても差別主義であってもやはり息苦しさを感じます

ただ社会が様々な出自から集団で成り立っている以上、

公共空間ではポリコレ的な態度をとらないと無法状態になる

公共空間で本当に必要なのは、頭だけで考えた正しいポリコレではなく、お互いを気遣う気持ちではないでしょうか?

気遣いルールにしたのがポリコレなのかもしれませんが、個人的にはルールになっている時点で本来必要であった気遣い気持ちとはかけ離れていっているように感じます

そして重ねてになりますが、そのポリコレ的なルール妄信的に信じ、他人強要する人はやはり息苦しいです。

山口百恵さんの著書の話は初耳ですが、これは私も納得する話です。専業主婦専業主夫など、多様な生き方がありそれはそれぞれ自立でもあるのだと心から思います。同時に働く人の選択も多様な生き方の一つであり、肯定されるべきでしょう。

これから世界がどうなっていくのかはわかりませんしそこを論じるつもりはありませんが、私が一番言いたかったのは正しさを盾にしている不寛容はよろしくない、という話です。

他人容認できない人は、実は自分をも容認できない。でも、自分も人も認められたらいいよね、と心から思います

anond:20170818151521

平和差別反対!って叫んでる人ほど不寛容だよね

常に完璧でいないと許されない感じで一緒に居て息苦しい

ある時無性に不完全でもいいから楽しく生きたいって思って

ポリコレ的な友人と疎遠になった事がある

あれから数年経って、落ち着いて考えるときがあるけど

友人は何かしらの人格障害があったのかもしれないわ

2017-08-13

グーグル思想残響室(Google’s Ideological Echo Chamber和訳) 後編

提案

私は多様性が悪いとか、グーグル社会100%公正であるとか、既存バイアス修正されるべきでないとか、あるいはマイノリティマジョリティと同じ経験をしているなどと私が言っていないことは明らかであると願う。私が言いたいのは私たちには特定イデオロギーと一致しない考え方や証拠に対する不寛容があるということだ。私はまた人々を特定ジェンダーロールに縛り付けるべきだとも言っていない。私は全く反対のことを主張している:人々をグループの中の一人(部族主義)としてではなく、個人として扱うことだ。

具体的な提案としては:


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次で最後

グーグルの思想的残響室(Google’s Ideological Echo Chamber和訳) 脚注

2017-07-12

エレベーターでは車椅子ベビーカーに譲ろう

この前車椅子エスカレーターに乗ろうとして転落し人を巻き添えで死なせた事故が起きた。

これに車椅子の人が、エレベーターはどれも満員で誰も譲ってくれないかエスカレーターに行くしかない事件の背景に不寛容さがあるとコメントしていた。

確かに今の日本エレベーター車椅子ベビーカーに譲る文化殆ど無い。

特に中間の階で下りしまったらどのエレベーターも満員でずっと乗れなくなってしまう。

ベビーカー車椅子専用や優先エレベーターでもかまわず乗り込み譲らない。

中でずっと「このエレベーター車椅子ベビーカー専用です」と流れているエレベーターですら普通に乗っている。

普通の人はエスカレーター安全に動けるが、車椅子ベビーカーは動けない、ベビーカーは最悪子供を抱いて畳んで持ち運ぶ手もあるが不安定な畳んだベビーカーを片手でエスカレーターに乗せるのは危ないし車椅子には無理だ。

車椅子が増える高齢化社会までに譲る文化根付かないと車椅子エスカレーターを利用する人が増えてしまヤバいなと思う。

2017-06-30

https://anond.hatelabo.jp/20170630184913

もともと日本同性愛ぜんぜんOKの国だったのに、キリスト教が入ってきて同性愛忌避されるようになっちゃった

んでキリスト教の本場の西欧同性愛に寛容になってきたのに、日本不寛容ってのはもはや訳が分からない。

2017-06-25

リベラルって、感情的だよね (続・リベラルオタクに嫌われる理由)

リベラルオタクから嫌われる理由

https://anond.hatelabo.jp/20170621180734

これを書いた増田です。

  

今回のタイトルにした「感情的」とは、喜怒哀楽が激しい、口が悪い、論理性が欠けているという意味ではありません。

好き嫌い感情をそのまま政治信条に用いるということです。

  

私が「オタクリベラルを嫌う」と書いたら、ブコメの方ではなぜか、「オタクリベラル不支持」と誤読されていました。こんなふうに誤読されるのは、「嫌悪感情」→「不支持」と結びつけて考えている人が多いからでしょう。

しかし、人は自分感情だけに従って政治信条を決めるのではありません。ときには自分感情に逆らって、正しいと思うことを支持する場合があるはずです。

ゲスの勘ぐりになりますけど、「嫌悪感情不支持イコールで結びつけるのは、あなたたちがそういうタイプ人間からじゃないですか?」と言ってやりたくなります

  

これはリベラルに限ったことではないから、あまり悪口みたいにして言いたくはないですが、好き・嫌い、快・不快感情に衝き動かされて政治活動をしている人は多いでしょう。

リムジンリベラル」に感じる欺瞞の一つは、多分そこにあって、セレブたちはリベラル思想を主張するのがさぞかし快感だろうなと思うのです。華々しい壇上でスピーチすることで、セレブたちはきっと自己肯定快感を得ているはずですし、自分を売りだすための商業宣伝にもなるから一石二鳥です。

(これは前回に書いた話で、リア充が得意げにリベラル思想を語ってみせる問題にも共通です。)

  

  

  

だいたい、トップブコメもひどかったです。

id:agricola リベラルにとって表現の自由は数多ある権利の一つという位置づけなので、他の権利との衝突で表現の自由制限されることもしぶしぶ容認するし、いやいやながら手を貸すこともあるわいな。わがまま片思い乙(嘲

これはスターの付きまくっている人気のコメントなんですけど、「しぶしぶ」「いやいや」って何? それ、あなた感情ですよね?

オタク自由制限する側に立っているリベラルが、自分自身のやろうとしていることに反感を持っているのです。それなのに、自由制限される側にいるオタクが反感を持ったらダメだなんて、そんなふざけた話がありますか。

  

他には、こんなブコメもあって、これなんかはほんと、人のふり見て我がふり直せの典型例です。

id:IkaMaru自分たちは気分で政治を選びたいんだ。放っといてくれ」というならもうどうしようもないけどさ。そんなんで世の中の平均よりも知に軸足を置いたクラスタのつもりでいるならお笑い草だよ?

リベラルの中には、「オタクリベラルに逆らってきたから、俺たちはオタクを助けてやらない」と言っている人たちもいます。そこまで露骨ではなくても、オタクのことを嫌っていて、助力することには消極的になってしまう人もいるでしょう。

これはまさしく、感情に流されて政治を選んでいる事例です。

自分感情的になっていることは気づきにくく、他人感情ばかりが目につくのは、人間心理がよく陥ってしま陥穽です。リベラルの論者にもその傾向は少なくないと思う次第です。

  

例えば先日のクジラックスの件に触れておくと、警察漫画家個人宅を訪問して異例の"要請"をおこなったことの是非と、表現規制の是非は、それぞれ別の問題です。

表現規制必要という立場の人は、本来ならば法律ガイドラインを作ってそれを行うべきという道理を曲げ、今回の警察のやり方を容認やすい傾向にあります。また、もし警察のやり方を容認しない立場を取るのだとしても、抗議の声をあげることには消極的になってしまう傾向があります。これは感情に流されて政治方針を変えたせいです。

もちろん、警察のやり方は違法ではないからと、それを容認する立場もあるでしょう。今後はいかなる場合もこの道理を通し、オタク以外の者がこれと同じ仕打ちを受けてよいというならば、それはそれで感情では揺らがない一貫性があると言えるかもしれません。

  

(私はべつに「感情的からダメだ」と断ずるものではありません。感情に流されて政治方針を変えることの是非だとか、感情政治信条の決定に際してどう影響するかとか、そのへんの問題を論じるだけの力はないです。そこはパスさせてもらいます。)

  

  

  

もう一つ、「お前はリベラリズムを正しく理解していない」というコメントも多かったです。

例えばこれ。

id:tick2tack なんだこれ。「僕の考えたリベラル」感がすごい増田。とりあえずリベラル語るなら社会的公正というとこから始めるべき

id:daisya リベラル定義が間違ってるんじゃねーの、私もよく知らんけど。自由っつーなら昔の大金持ちはめっちゃくちゃ自由に生きとっただろう、人を殺しても問題にならないぐらいに。

いわく、リベラル自由放任主義と違って、社会的公正の概念を用いる。

自由同士が衝突するときは調整するべきだからリベラルにとって表現の自由絶対のものではない。

  

――それくらいのこと、百も承知ですよ。前回のエントリ釣りっぽく書いてしまったのも悪かったですけど、リベラル自由放任主義なんてことを言っていません。私はリベラルが「自由」の価値を重んじていると書いただけです。

  

例えば社会的公正にしたって、自由同士が衝突したときの調整機能にしたって、リベラルがなぜそんな厄介な方法を用いるかと言えば、真の意味での自由を実現するためにそれが必要だと考えているからでしょう。

自由放任主義はかえって自由を阻害するからダメ、というのがリベラル立場です。

これは結局のところ、リベラル自由価値を重んじていて、その価値について熱弁をふるう性格を有するということなんです。

  

  

  

id:Arturo_Ui 「"自由"を無制限拡張すれば他者の"自由"と衝突してしまう。何をどこまで認めるか、社会的議論必要だ」って前提を共有できないなら、問題は「リベラル不寛容」ではなく、「オタク側のヘタレぶり」じゃないの?

これは立場によって、物の見え方が違ってきます

リベラル自由調停者として誠実にふるまっているつもりなんでしょうが、それによって自由制限される側は、どうしても調停を受けること自体を嫌がる傾向にあります意見をまったく聞いてもらえずにバッシングされるんじゃないかという危惧もありますヘタレと言われようが何だろうが、それならば調停拒否してゴネる方が得策です。

しかたらこの点は、リベラル立場にいる論者は見落としてしまうことかもしれませんけど、リベラルが主張しているその"前提"とやらを、社会のすべての構成員従順に受け入れるとは限りません。極論を言うと、「リベラル勝手に唱えている"前提"なんか知らないよ」と言って黙殺する政治的立場もあります

あるいは、おおよそは基本的にこの"前提"を共有している人だとしても、いざ自分利益が損なわれるとなると、猛烈に反発することの方がむしろ普通だと思います調停をする側・される側が多少はおたがいを分かり合えることはあったとしても、完全な調和同化はできないのです。

  

それから、「自由同士が衝突しあって調停必要なほど深刻な事態になっている」という現実認識にも根本的な差異がありますオタク自分たち一方的イチャモンをつけられたと思っているので、自由調停するだの、そのために議論するだの、現時点ではそんな必要がないと考えているわけです。

リベラルが言うところの「自由同士が衝突したときには調停必要だ」という一般論が正しいとしても、「今がその状況だから調停必要なんだ」という現実認識が常に正しいとはかぎりません。

リベラルは、特に問題ないようなことを大げさに騒ぎ立てているチンピラとは何が違うんですか? 例えば、あるリベラルの論者が自分自身のことを誠実な調停者だと思いこんでいたとしても、客観的に見れば、そいつ調停不要のところに因縁をつけているだけのチンピラという場合もありえます調停者がチンピラから話を聞いてもらえないのか、それとも調停を受ける側が身勝手理由でゴネているのか、どちらの側に道理があるのかは一概に言えません。ケース・バイ・ケースでしょう。

  

月並み結論になりますが、リベラル調停者になるために誠実性をもっと追究しなくちゃいけませんし、オタクリベラルが正しい事を言っているときには"社会的議論"に応じなければなりません。おそらくそれが、(リベラル的な意味では)最も理想的なあり方です。

しかし、相互信頼関係が欠如しているし、リスペクトが欠如していることも多いから、そういう形にもっていくのは難しいと思います

  

  

  

余談

ところで、一部のオタクは「表現の自由」を絶対的ものだと叫びまくっていて、リベラルから表現の自由戦士」と揶揄されているようです。私もああいう連中のことは理解できません。

  

そもそもオタクは、すでに表現規制を受けています。性描写のあるものは成人指定になっていてゾーニングしないといけないし、商業誌には自主規制があるので、そこで出版できないもの同人誌に追いやられてしまます

実在する人物団体馬鹿にするような漫画を作ると、それは名誉毀損で訴えられる恐れがあります

街や職場でところかまわずポスターを貼ったとすれば、景観条例やら、セクハラやら、そういった法律にひっかかって処罰対象です。性器表現にはモザイクがかかっているし、青少年健全育成条例やら何やらがあるので、いろいろと国家権力から規制されまくっているんです。

  

自分たちがこの規制の枠内にとどまることで社会共存できているという現実無視して、表現の自由絶対的もの表現規制はすべてが悪いものだと主張しているオタクは、いったいぜんたい何のために戦っているのか意味不明です。

また逆に、リベラルの論者が既存規制について評価・再検討するというプロセスをすっ飛ばして、いきなり「規制必要」とかいう話に持っていこうとするのも度々見かけますオタクが完全に野放しの猛獣だとでも思っているのでしょうか。現状認識を怠っているという点では、これも同じくらいにアホだなって思います

  

  

  

追伸

id:coldsleepfailedid:quick_pastid:tick2tackid:IkaMaruid:agricolaid:k-takahashi ←前回のエントリ内で、追記を書いて返信ました。

くたびれはてこid:kutabirehateko のことは、別のエントリを立てて書きました)

  

  

  

追記 6/25 22:48

id;quick_past レイティングやゾーニング表現規制だと言われるともう話のしようがない。完全なる自由は誰かの自由を奪うという矛盾がはらんでいる以上、あとは住み分けを目指すしか無いって事以上おいらには出せない。

え、こいつは何を言ってんの? レイティングやゾーニングは、まぎれもなく表現規制一種じゃん。

  

あいいや。仮にそれらを規制ではないという話にするなら、リベラルの中から出てくる「"規制"が必要だ」っていう意見は本当に恐ろしい。

なぜって、オタク側がめちゃくちゃ頑張ってゾーニングの成果を出してみたところで、リベラル側はオタクが"規制"を受け入れたものとして評価してくれないんですからね。この理屈でいくと、オタク表現活動をやめるか、表現物の内容を変えないかぎり、規制派のリベラルオタクを許さずに非難してくるってことになります

2017-06-19

優しさと弱さの表裏一体の性質について(弱い人との付き合い方)

人生の中で、不意に強烈なジレンマを感じるときがあった。それがつくづく不可解だった。

こちらのことを悪く言う人間他人を貶めずにはいられない人間他人の不幸を喜ぶ人間について、どうしても、それが卑怯であるとか、浅ましいとか、自分は面と向かって言うことができなかったのだ。まるで口にガムテープを貼られているようだった。

自己愛性人格障害であったり、ハラスメント気質であったり、世間には、その妬みや劣等感他人にぶつけて生きる人たちがいる。そういう人間出会ったとき自分はほどほどに苛立ちながらも、原因が相手の弱さだと分かっているのに、どうして苛立ちを払拭できないのか?と、疑問に感じていた。

専門家や先人たちはどう考えるのかと調べても、やはり、その弱さを攻撃することよりも、距離を置く、関わらないことが勧められていた。

しかし、どうして相手の弱さを攻撃することに強い忌避感があるのか、気付いてみれば簡単である。妬み、劣等感不寛容、その反対は(恐らく)、祝福、自己肯定、寛容である。優しさは、他人への攻撃性の元となる弱さの反対側にあるのだ。相手の弱さを攻撃したい、するべきだ、と思うこと自体が、自分の弱さから来る。もしそうすると、相手自分とは同じ高さで向かい合うことになる。

優しさがあるかぎり弱さを攻撃できないのなら、優しさを捨てない人間勝利はないのか?もしかするとそうかもしれないが、しかし、それでは世の中はもっと強くネガティブに偏った勢力図のはずである

らくだが、優しさはそれそのもの勝利なのではないだろうか?他人攻撃し、他人もっと弱くなることを願い、もっと不幸になればなるほど自らが悦びを得られる人々にとって、苦しみとは、自分がどれだけ貶めても、むしろ自分に対して優しさを失わない人間を目の当たりにすることではないだろうか?

すなわち、相手の弱さを攻撃するのは弱さそのものだと悟り、その優しさに自信と誇りを持つことこそが、人の心の弱さに対する真実勝利であり、弱さと優しさの均衡を自らで保つ始まりなのではないだろうか。

2017-06-15

表現の自由信者の救いがたい傲慢

クジラックスマンガの件で過去の例に漏れず「表現の自由信者ネットであふれかえっていて本当にうんざりしてる。

あいった事件の後でなおも迷わずに「表現の自由を守れ」と声高々に主張する方々に聞きたいのだが、君たちはその発言が「表現の自由を守るためには、多少の公益子供安全を損なう結果になっても仕方ないと思ってます」と言っていると同義だとちゃんと理解しているのだろうか?別にコレについては批判するわけじゃない。権利を守るというのは時としてそういうモノだ。たとえば凶悪事件犯罪者人権を過度に守ろうとするとその犯罪被害者人権侵害することが多々あるし、音楽書籍などコンテンツ著作者権利利益を過度に守ると、今度は消費者不利益をこうむることなど多々ある。すべての権利平等尊重するのは不可能で、片方の権利を過度に守ろうとするとそれに相対する別の権利侵害することになるからだ。だからそういう意識があって「表現の自由」を訴えているならいいのだが、どうもネット書き込みの大半からはこういう葛藤など一切感じられず、純粋に「表現の自由を守ることが絶対正義」と信じて疑わないような連中が多すぎるんじゃないか?と思ってしまう。

しかに「表現の自由」というのは近代社会の中では守られるべき価値観の上位にあがるものである。なぜなら「表現の自由」は往々にして「権力監視」「権力から自由」に密接に関係してくるから国家権力暴走を防ぐには必要不可欠である。ただ「表現の自由」の名の下になんでも表現していいというわけではない。たとえば欧米では表現の自由」のなかに児童ポルノレイシズムを煽るような表現には厳しい制限がかかる。児童ポルノコンテンツ欧米人には子供しか見えないアニメ顔のエロコンテンツは所有しただけで逮捕される国も珍しくないし、ヒトラーの「我が闘争」は発禁扱い。ヘイトスピーチデモ表現の自由には認められない。少なくてもクジラックスマンガをこれらの国で自主出版でもしたら確実に逮捕事案である。これを「表現の自由なんていって欺瞞じゃないか!」と批判するのはお門違い。だって表現の自由」は絶対的ではないんだよ。

ここまで書くと「それじゃ殺人レイプ描写がある小説ドラマ映画規制しろよ」などと反論してくる連中がでてくるだろう。まったく馬鹿げた反論だ。一口に「殺人シーン」といっても、その作品内の背景とかストーリー上の設定などで意味合いがまったく変わってくるからだ。たとえば同じ惨殺シーンでも「羊たちの沈黙」のように主要登場人物の異常性・神秘性を演出するために使われたり、戦争映画のように人間が虫けらのように殺される描写戦争凄惨さ、残酷さを演出したり、または復讐ジャンル映画では家族を殺された主人公がどれほど強い動機相手復讐していくか演出するなど様々である小説ドラマ映画殺人レイプシーンが許容されているのは、人間のコアな部分を演出するには、時には人間の暗黒面をちゃんと見せることも重要からである。それにこういった作品でもどのように陰惨に殺害されたか、激しくレイプされたかなんて長い尺をつかって表現するコンテンツなんてごく一部だ。(「食人族」とか)

もちろんその殺人シーンやレイプシーンが「ストーリー上それは必要不可欠なのか」「ただの過剰演出ではないか」という疑問は常につきないものだが、今回のマンガの件ではその議論以前の問題である概要を読むだけであれは「未成年女の子大人が騙してレイプする行為を楽しむコンテンツ」以外に何者でもないことが明白だからだ。だからもしあの作品を他の実写映画でたとえるなら女性女の子もつ親御さんにとっては「ストーリーなど特になく、哀れな被害者凶悪殺人魔に追い詰められジワジワと惨殺されていく映像を延々と見せられるだけ」な内容と同義である。君たちが「表現の自由」の名の下に守ろうとしているコンテンツとはそういったモノなのだよ。

ただああいった作品が実際に性犯罪を誘発しているか?という疑問はさすがにわからないとしかいえない。もちろんゼロはいえないだろうが、それ以上の事は調査する人のバイアス価値観によってどちらにも転ぶ内容だと思う。これについては結論はでないだろうから議論するのは無駄だと思う。ただああいった作品自主出版はいえその気になれば個人で入手できる状態だという事実の一つ一つが日本性風俗文化を少しずつ形成しているのは間違いない。

児童ポルノ児童買春について絶対的に厳しい価値観欧米(かといって厳しくすればするほどその禁忌を破ろうとする人間がでてくるのも悩ましい)にとって、先進国でありながら日本性風俗のゆるさはやはり衝撃的だろう。風俗禁止法というものがありながらソープみたいなサービスが当たり前のように存在し、AKBみたいな大半が子供しか見ないような女性グループが下着がもろに見えるダンスをしながらテレビで踊っている。これらから彼らが感じることは「法律上では児童ポルノって駄目だけどさ、本音では若い子のほうがいいっしょ?20代30代のおばさんより10代の女の子のほうが興奮するよね」という空気ではないだろうか?欧米知識人日本性風俗文化軽蔑するのも無理はないと思う。

さてここまで長々と書いても、大半の「表現の自由信者には俺はただの欺瞞者で権力者側の規制賛成論者にしか見えないのだろう。別にそれはどうでもいい。ただ最後忠告するのは、これからも「表現の自由」で何やっても許されるのが当然だと思っていたら、最後にしっぺ返しを食らうのは君らだということだ。今回のような事件は単発であって欲しいと願ってはいるが、もし何かの間違いで1年の間に何回も立て続けのように起こったら、それこそ日本世論の大半は一気に「あん児童レイプ助長するようなマンガを許すな!国はちゃんと規制しろ!」に傾くだろう。そのときネット住民や一部の知識人馬鹿の一つ覚えにように「表現の自由重要さ」だけを訴えたところで大半の世論からは「ただのロリコン似非リベラル」のレッテルしか貼られないだろう。そもそも児童ポルノ関係では日本よりはるかに厳しい欧米のほうがちゃんとメディアによる権力チェックができてるんだから、「エロコンテンツ規制を認めたら権力暴走を招く」論はまったく理屈が通ってないのである

もし俺の予想するような最悪なシナリオがおきて日本性風俗に関する規制が厳しくなったとき、おそらく君らは日本人不寛容さ、無教養を嘆くんだろう。違うから。君たちの救いがたい傲慢さが原因だよ。もし今後も欧米よりもゆるい日本独自性風俗表現を守っていきたいと思うなら、むしろ君たちこそが行き過ぎた表現にはちゃんと警告をだして業界内で自浄作用が起こるように注意しなきゃならない。「こりゃ論理的やばいだろ」ってコンテンツ見つけたら乙武張りに「超えちゃいけないライン考えろ?」って冷や水ぶっかけ努力を続けないとならないんだよ。

ま、たぶん無理だろうけどね。

2017-06-11

http://anond.hatelabo.jp/20170610102357

ほんとこれ

でもこういうの不寛容かいってはてぶでは支持されないだろな

公共マナーだと思うんだけどなあ

歩きタバコよりよほど嫌だわ

足遅いのにど歩道真ん中や追い越し車線にあたる歩道に出てきてよたよた歩く奴

個人迷惑もそうだけど全体の交通量がどれほど妨害されてるか

2017-06-06

なぜアンチ跋扈するか

選択肢が限られていた時代では、不愉快ものであっても折り合いをつけるしかない。

社会全体の総意なんてものは、無数の個人の諦めが澱のように重なってできたものだろう。

今ではそんなもの、あるのか、ないのか、わからなくなってしまった。


選択肢増殖炉(a.k.a. ネット)の恩恵に浴して、

好きなものだけを選べるようになった現在個人は折り合いを強いられなくなった。

一見、すばらい。


しかし、都合のいい世界の住人になる代償として、

不愉快ものに対する耐性の低さ、という租税を支払うことになった。

その住人は、好きなものばかり求める故、不愉快ものを許せない。

好きなものばかり求める事が許されているのは、その選択肢多様性があるからだというのに。


たとえば、ラノベ板。

金と時間をかけて読んでいたラノベが、気に食わぬ方へ展開すると、もう耐えられない。

沸騰した憎しみを抑えられず、好きなものを見つけたときと同じ熱量で、叩き潰しにくる。


選択肢増殖炉が不寛容増殖炉でもある、という欠陥構造が、アンチを生み出す因縁だ。

これから逃れるには、相手へのリスペクトしかない。

リスペクトというのは、「到底、お前のことは理解できんが、対等の存在として認める」という立場のことだ。


批判には必ず、リスペクトが伴わなければならない。

存在が許せない、という感情が一片でもあるなら、それは批判ではなくアンチだ。

その徒労をやめ、諦めることを覚え、好きなもの人生リソース投資した方がずっといい。

多様性に寛容な人も新興宗教には不寛容なのはなぜなのか

世の中の多様性尊重しようという考えはたいへん素晴らしくて、LGBTへの理解もずいぶん進んできた。

LGBTに対して理解を示し、歴史ある宗教にも寛容で、大勢の人が集まるパーティを開くときにはムスリム配慮してハラルを用意しましょう、というように振る舞える人が、創価学会とか幸福の科学とか、歴史の浅い宗教にはとたんに不寛容になるのはなぜなの??

カルト宗教イメージが先行して、怪しげなイメージを持ってるかもしれないけど、そこと個人はやはり切り離して、寛容であるべきではないの?

家族カルトに壺を売りつけられて破産した、みたいな極端な状況なら話は別だけど、普通に社会的に自立して活躍している人々だよ?

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