はてなキーワード: 想念とは
Q. 仕事が出来ない?
A. それは正解。それで悩んで、うつ病になって、少し前まで休職していた。
A. 達成感よりも、頭から余計なことやネガティブな想念を振り払って、考えないようにするために行なっている。要するに写経みたいな感じ。ただ、神仏の類いを信じていないので、大学生レベルの数学や外国語のテキストを音読・筆写の対象として選んだ。医師から勧められた軽い筋トレやウォーキングも心掛けているので、外国語テキストの筆写学習も筋トレと似たようなものだと思う。
外国語を喋れるようになることや、外国人と仲良くなることは、別に望んでいない。日本語の通じる日本人とすら上手く交流できないからうつ病になったのに、外国人と仲良くなることは無理だと思う。
簡単なスペイン語は読み書きができるようになったので、ラテンアメリカ文学作品を原語で読んだり、SNSやYouTubeのスペイン語コンテンツやコメントが少し理解できるようになった。
Q. 独身?
正直こう言う負の想念を吐き出さないとやって行けそうになくなったので書く。
あとこの記事は色々とグチグチ書いてて話が長いんで、ヒマがあれば読むぐらいでいい。
追記:
長いから三行で、と言われたので三行にまとめると、この話は、
と言うのが要点。その他のことはあれこれとグチグチ文句を言っているに過ぎない。
あと追加で言っておくと、私の中のミソジニーは特に「女性の安全を守る」と言う文脈で強く出てきて、
それ以外の場面では「これだから女は……」と言う女性嫌悪をあまり持ったりはしない。
そもそも誰かに嫌悪は向けたくないし、だいたい私が恋慕を抱くのって女性なんだよな……。
なんでトランス排除を掲げる連中のせいでミソジニーを内面化してしまったことに対しては恨みしかないし、
あれがあそこまで調子に乗らなければ「女性の安全を守る」と言う話の流れで嫌悪を惹起されることもなかった。
そしてこれが他責的であったとしても、その原因を作ったのはお前らトランス排除主義者だ。どうしてくれる。と言うのが今回の話です。
まず前提として私は性別違和の当事者で、出生時には男性として産まれた人間である。
そして今まで性別違和をごまかして生活していたけど、もうそろそろ行動を起こしたい、とも考えている。
次に「TERF のせいで」ミソジニストになってしまった、とタイトルで書いたけど、
実際のところあの手の人間はフェミニストでもなんでもなく、単なる トランス排除を掲げる女性(の安全)至上主義者である、
と私は考えている。なんでこの時点でミソジニーが若干混ざってる気がするが、話の前提としてこれは重要なのでここで述べておく。
それでなぜ「トランス排除を掲げる女性(の安全)至上主義者のせいでミソジニストになってしまった」と確信したか、
と言うと、これは NHK のネットニュースで緊急避妊薬関連を見た時に、
と言う感情がスッっと出てきて、「あ、これミソジニーじゃね?」と思ったのが正直なところだ。
NHK のニュースでは緊急避妊薬云々の意見募集が始まった、と言うだけだから、
これがどう転ぶにしろ、緊急避妊薬が薬局で廉価に買え、女性に過度の負担を掛けず、
意図しない妊娠を防げる様になれば良い、とは確かに私でも思う。
なぜなら女性自身が意図しない妊娠は、経済的な事情や年齢的なものを含め、
場合によっては女性やその周囲の人間の人生を破壊しかねないし、
なにより女性の意思を蔑ろにしている、と言う点でよろしくない。
また緊急避妊薬が手軽に入手できる様になり、妊娠の最初期、つまり受精卵の段階で避妊が出来る様になれば、
人工妊娠中絶に対する倫理的な問題も薄まり(受精卵は出来た時点では単なる細胞でしかない)、
女性へ精神的・身体的な負荷を掛ける人工妊娠中絶をしなくても済む。
なのでそう言った意味では、「緊急避妊薬が薬局で買える様になる」と言うのは、
避妊と言う文脈では倫理的にベターな選択である、と私は考えている。
しかし。しかしだ。確かに私はこう言った文脈で「緊急避妊薬が薬局で買える様になる」と言う話について、
かなり肯定的に捉えている。なにせ女性の自己決定権と、心身の健康を守るための行動が容易になるからだ。
そう言った意味ではこのニュースを否定的に捉える必要性はまったくないし、それ以外の文脈を混ぜる話でもない。
だと言うのに、私の中には、
と言う感情がスッっと出てきた。正直なところ、何も考えずにごく自然にこう言う感情が湧いた。
そしてこう言う感情が出てきた事の意味をひっくり返せば、私は、
と思っている事に他ならない。
そしてこれは別に 緊急避妊薬を求める女性はふしだらである、と言う話ではない。
緊急避妊薬は女性が女性の尊厳を守るために必要なものであって、それ以上でも以下でもない。
だと言うのに、このニュースに私は 「女性の尊厳を守る」とかほざいてトランス女性を迫害する連中を見い出してしまう。
つまり私には「女性の尊厳を守る」と言う文脈には常にトランス排除主義者がいて、こいつらはこう言うニュースで余計に調子に乗る、
と言う偏見・蔑視があり、これこそ本物のミソジニーじゃないか?と思ったのが、今回の話の要点である。
これは確実に(TERF などに代表される)トランス排除を掲げる女性(の安全)至上主義者しか思い浮ばなかった。
と言うかコイツらさえ居なければ、私は別に女性の尊厳の擁護に疑念を抱くことすら無かっただろうと考えている。
はっきり言うが、トランス排除を掲げる女性至高主義者たちは「女性の安全を守る」とほざき、
挙句自身の差別的な思想が広まったことを「私たち TERF への理解が進んだ」とかのたまうが、
実際に進んだのはトランス女性への無理解と偏見、嘲笑と蔑視を含むトランス女性の被差別対象化だけだ。
そして連中はトランス女性全般を女性への脅威と見なし、トランスの排除こそ女性の安全を守る手段だ!と勘違いしているが、
トランス女性をあらゆる場、なんなら一人残らず虐殺して綺麗サッパリ存在しなくさせても、別に女性の安全は確保されない。
なぜなら老若男女、性加害を行なうのはおおよそ男が多いからである。なんでトランス女性を徹底的に排除したところで防犯率は大して上がらないだろう。
だいたい本気でトランス女性が性別移行をするためにホルモン療法をしている場合、女性ホルモンを摂取すればするほどチンコとタマタマは縮む。
そして女性ホルモンの影響で筋力は落ちているし、第一大多数がギャーギャー言っているトイレに入る理由なんて、単純に用を足すだけだ。
さらにトランス女性は女性用トイレでトラブルを起こすと不審者扱いされるので、女性用トイレに慣れない限り、かなり慎重にトイレを利用しているのが現実だ。
しかし連中はトランスへの理解を進める法案などを通すと「トランス女性だと言い張る(下心のある小汚い)オッサンが女性用トイレ等に突っ込んでくる」、
と言う様な陰謀論かつ一部の一般男性に対する偏見的な考えに基き、女性用スペースに突っ込んで性加害をする人間の責任をトランス女性に擦り付けてくるが、
女性用スペースに突っ込んで性加害を起こす人間の責任は、その行動を起こしたそいつにある。決して性同一性と現実の行動を「女性」に一致させた無害なトランス女性にはない。
だいたいちょっとは頭を働かせれば分かると思うが、こと日本の政治勢力において「トランス女性は女性です。だから無条件に女性として扱え」
みたいな急進的な考えを押し通せる勢力は恐らく存在しない。偏見で物を言うが、そう言った思想に感化されるのはせいぜいが立憲民主とか共産党とかの内、
特に急進的な考えを持ってる政治家だけだ。 で、そう言う政治家が、圧倒的多数を誇る自民党や自分達以外の与党寄りの勢力を説得し切れるかと言えば、おそらく非現実的だとしか言えないだろう。
あと連中は学校などでトランス女性の生徒に女性用スペースを使わせると女子生徒が(トランス女子生徒に)性加害される、みたいな事も言っているし、
トランス医療を肯定すると、今度は無理矢理トランスジェンダー化される子供達が出てくる、ともほざいている。
どうせ責任も何も感じてないだろうが、そう言った大人の非情な悪意が原因でトランスの未成年が自死しかねない事をどう考えているんだろうか。
まぁ、確かにトランス医療に関連してデトランス(トランスした性別から出生時の性別に戻ること)が発生したり、
親に無理矢理トランスジェンダー化される子供達が出てくる、と言う面があるのは否定しない。
おそらくトランス医療があることで、そう言った負の側面が出て来ること自体はおそらく否定できない。
とは言え、私からしてみればデトランスに関してはトランス医療の「精神的」ケアが不足した結果だと考えているし、
「親が無理矢理……」に関しては、単なる親による医学を使った虐待だとしか考えられない。
そしてトランス医療の負の側面(特にデトランス)は、真っ当なトランス医療へのアクセスに乏しいことが原因だろうと考えている。
どうせこの手の話で無頓着にギャーギャー言っている連中は知らないんだろうが、
こと日本において トランス医療へ容易にアクセスできる医院は都市周辺にしか無い。
特に私みたいに地方に住んでいる人間だと、その医院へ通うために新幹線で数時間とかそう言うのがザラだ。
さらにこれについて私はマジで困ってるんだが、まず地方在住だとトランス医療へのアクセス云々の前に、
トランスの当事者会へ参加して他の当事者から情報を得る、みたいな事へのアクセス性がかなり低い。
さらに今のコロナ禍の中では当事者会が中止されたり、会場への足の都合が付かない場所に移ってる、とかそう言う事があった。
なんでトランス医療の害悪ガーとかトランス排除主義者はほざてるが、日本の実状としては、
トランス医療を必要とする人間にトランス医療自体が足りてない。そして数も無いから選択肢自体がほぼ無い。
その上でトランス排除主義者のトランス医療は害悪だ!潰せ!みたいな言動は、私みたいなのからしたら完全な外敵なんだよ。
で、ここまで言った話で上っ面しか読まない様な連中は、「これだからトランス女性は男性(笑)」とか「しかもトランス女性とか言いつつ実態はミソオス(笑)」とか
そう言うクソみたいな考え方をするんじゃないかと思ってるが、そう言うミソジニーを抱かせた原因はお前らの言動にある。
と言うより、お前らが存在しなければ、私だって「女性の安全と尊厳を守る」みたいな文脈でミソジニーを惹起することは無かった。
と言うかだ。私が内面化してしまった「お前たちは『女性の安全と尊厳を守る』と言う文脈でトランス排除を徹底して宣伝するんだろう。クソが」と言うミソジニーは、
そっくりそのまま「女性の安全と尊厳を守るためにトランス女性を徹底して排除しようね!」と言うお前たちトランス排除主義者の行動が基になっている。
つまり「身の安全を守る」と言った重要な文脈で私のミソジニーが惹起されてしまうのは、そのままお前達の行動の鏡写しにしか過ぎない。
正直なところ、私はこう言う「女性の安全と尊厳を守る」と言う文脈でミソジニーを惹起させることなんてしたくなかったし、
特に「安全と尊厳」と言う重要な文脈でミソジニーなんか持ちたくなかった。でも実際にはお前たちトランス排除を掲げる女性の安全至上主義者のせいで、
「女性の安全と尊厳を守る」と言う文脈で女性に対する警戒とミソジニーが自然と出てくる様になった。なってしまった。どうしてくれるんだよ。
私としてもトランスして「女性」へ性別移行するかどうか、みたいな悩みを抱える上で「女性の安全と尊厳を守る」と言うのが移行後に重要な事案となってくるし、
現実問題として「女性」として生活する様なったとしたら、その辺りの防犯対策や行動の改善なんかもしなければならないだろう、ってのは頭では分かる。
しかし「女性の安全と尊厳をトランス女性を排除して守ろうね!」なんてギャーギャー言われたら、流石に「お前らの都合なんて知るか。勝手にしろ」としか思えない。
で、こう言う事を言っていると「これだからこじらせた女性もどきは(笑)他責指向(笑)」とか言うんだろうが、何度も言う様に、
私が内面化してしまったミソジニーは、お前達トランス排除を掲げる女性の安全至上主義者たちの行動からの写し身でしかない。
なんで自分達がミソジニストを生み出す原因を作っておいて、実際に発生したら「それ見たことか」と言うのはただのマッチポンプでしかない。
正直なところ、お前たちトランス排除を掲げる女性の安全至上主義者が Twitter で最悪な光景 (Twitter で「トランス女性 女性トイレ」などで検索すれば分かる) を生み出しさえしなければ、
ここまで「女性の安全と尊厳を守る」云々の文脈で、そう言う主張そのものや、そう言う主張のアカウントを警戒する必要なんて無かった。
しかし Twitter で最悪な光景を見てしまった以上、私は「女性の安全と尊厳を守る」と言う類の話全般を警戒せずに見ることは出来なくなってしまった。
そしてそう言う「『女性の安全と尊厳を守る』と言う類の話全般を警戒せずに見ることは出来なくなった」と言う事実が悪化して、
これが色々な考えを経て「こう言う事になった原因を作ったのは女性の安全至上主義者たちの行動が原因だ」となり、
私の中でこれがミソジニーに化けた、と言うのが今回の話である。正直どうしてくれる、と言う感情しかない。
正直なところ、女性の安全至上主義者たちやその賛同者に対し、今の私は憎しみや怒りを持っていない。
と言うのも彼女たちには嫌悪の感情しかなく、ただひたすらに関わり合いになりたくないし、
そもそも視界にも入れたくない。何故かと言えば少し発言を目にするだけで猛烈な嫌悪の念が出てくるからだ。
ただしそうは言っても恨みつらみは持っている。なぜかと言えばあいつらのせいで「女性」に取って最重要な事案である、
「身の安全と尊厳の確保」と言う文脈でミソジニーが出る様になってしまったからだ。なのでこれが解決しない限り、
あの手の手合をインターネット汚物として見る目は無くならないだろうし、自分の中から消せないと思っている。
お前と同じく緊急避妊薬の市販化を求め、迷いを抱きながらツイ消しをし、
最期に尊敬していたお前に直談判した後アカウントが消えた彼女の事案について、
お前が彼女の中でアカウントごと消える、と言う事を選ぶ最期の引き金を引いた事を、私は忘れないからな。
あとお前は、性表現の自由を敵視したり、性産業に従事する女性達の生活の糧を奪うことに繋がる廃娼運動を行なう勢力と、
「女性を守るため」と称して連帯を表明した事についても、私は忘れないし、それが彼女のアカ消しに繋がった、
とも考えているんで、お前を容認することは決してない。と言うかそう言う行動は周辺化された女性の敵だ。
お前が「女性を守る」と言いつつ周辺化された女性たちを追い詰める勢力と肯定的に接触した事自体、
増田で延々と長文を投稿たりして、自分の思想を吐露し続けてる人って居るじゃん。
それだけの熱量があるのに、どうして創作をしないんだろう?ってたまに思う。
これは増田に限ったことじゃなくてSNSとかでも延々恨み節というか、文句を垂れている人を見ても同じことを思う。
他人の思想なんて正直大多数の人にとってはどうでもいいことだと思うし、興味も関心もない。
だから創作にその想念を練り込んで物語に語らせることによって人は初めて興味や関心を持つ。
結局、他人の意見を聞くか聞かないかは、意見を言う相手のことを好きかどうかによるからだ。
「あ〜なんかひまちゃん(本間ひまわり、にじさんじライバー)との匂わせがどうこうとかいう荒らしがいろんな配信に来てたししょうがないか、大変だな」
そう思って動画を開くと、アクシアは怒っていた。「かわいい」という言葉に対して。
アクシア・クローネの怒りについて、みんな意味わかったのか? 俺はわかってないと思った。なぜなら感情的だし、誰も言ってこなかったことを言っていたから。わからなくて当然だろう。
結局「アクシアが彼女(本間ひまわりのこと、彼女なんかではなくよくゲームを一緒にしているだけの関係)と配信してるぞ!」みたいな荒らしが各配信に無限に来ていたということは活動休止に至ったトリガー/キッカケでしかなかった感じがした。
アクシアは、にじさんじに入ってからずっと苦しんでいた。俺は知らなかったからびっくりした。
リスナーやファンの一部が過剰にアクシア・クローネをひたすらに「かわいい」と消費していること。俺はそれはなにも悪くないし、アクシアのなかでも実際嫌悪の延長線上にそういうリスナーがいるだけで嫌悪の根源ではないだろう。過剰に「かわいい」と消費するリスナーがさらにエスカレートして、どうなるか。ナメるようになる。「自分はアクシアよりも上位の存在だ」と自己認識し、それを発するようになる。そうなったリスナーこそアクシアの抱える嫌悪のど真ん中にあって、配信上で触れていた「母親ヅラしたリスナー」「うちのアクシアをよろしくお願いします」の発言者がそれに当たっている。要はなんなのかと俺が考えた結果は、「自分のことを明らかにナメて上から来てる視聴者が自分のファンには居て当然みたいな雰囲気になったら、そりゃあすごいストレスだな」ということだった。
活動者と視聴者は当然対等な関係であるべき。これは決して否定できないことだと思っている。多くの人は対等であろうとし、できるだけそうなるように活動し、視聴をしている。視聴者が特にその活動者を応援しているのであれば、それはなおさらだ。だからこそアクシアは明らかに上位からモノを言ってくるリスナーをストレスに感じるようになった。そしてその悪質なリスナーが頻繁に使う言葉が「かわいい」だったのだ。ストレスが溜まれば溜まるほどに、「かわいい」と言われること自体が嫌になっていく。これはアクシアが弱いからそうなったのか? 他の活動者はそんなこと負担になってないし。俺はそうは思わない。人間としてそうなるのは当然だと思う。もちろんアクシアの言う通り「活動当初から違和感があった」という価値観も助けてのことではある。
そうして活動を続けて1年。溜まりに溜まったストレスは謂れもない荒らしによってアクシアの限界を超えてしまった。その末に発されたのが、活動休止を報せる動画での感情だ。活動者は感情をあらわにするべきではないと、賢い者たちは言う。それは間違いのない理想であって、みんなそう目指していくべきだ。それはそう。でも、その理想に殉じて去っていった人がどれだけいるだろう。俺は、正しさに殉ずるよりも、間違ったことをしてでも俺の見られるところにいて欲しいと思う。しかも、感情の発露によって活動者の気持ちに少しでも整理がつくなら、なおさら。
荒らしや誹謗中傷は問題だけど、それは幸い現代において法的対処が日々有効になっていってくれているのでこの際憂慮しなくても良い気がしている。そもそも俺自身、アクシアとひまちゃんが仲良くてなんの問題があるのかわからんし。言いがかりでしかない。どちらかにガチ恋している人はまあ、お察しします、って感じだけど。そもそもガチ恋ファン活動にはリスクがつきものなんだから、初めからリスクがある行為でリスクを考慮してない人なんているのかよ。ガチでガチ恋している人が今回の荒らしや誹謗中傷に関わっているのかどうかさえ俺は疑問だわ。ひまちゃんに昔から付きまとう熱心なアンチ、アクシアの活動パートナーでもあるローレン(ローレン・イロアス、にじさんじライバー)にまつわる問題のアレコレによって生まれたアンチがこんがらがって大きな荒らし・誹謗中傷がうねって大きくなっちゃったのかな、と思ってる。
だから、トリガーとなった誹謗中傷よりも、ストレスとして大部分となった「かわいい」扱いについての方が考えるべきだろう。
当たり前の前提を話すと、活動者に対して「かわいい」と声をかけることが間違ったことには絶対になり得ない。そんなの、この世界が間違いだらけになってしまう。そう思ってる人も多いだろうし、俺自身世界は間違いだらけとは思うけども。
でも全く問題がないのか問われれば俺は「NO」と言う。そして多くの人は「全く問題がない」と考えて日々生活している。そこのギャップ/認識のズレが今回の問題として表出してきたように感じた。
では、どんな問題があるのか。
にじさんじEN男性Vtuberは約束された成功を見事にモノにし、大躍進を遂げた。当時、俺はその様子を見て嬉しく、晴れ晴れとした気持ちになっていた。
それと同時に、少しの杞憂が俺の中でもたげていた。「日本語をうまく話せない男性に対して『かわいい』と言うのはちょっとひどくないか?」という杞憂だ。これは本当に杞憂にしかならず、実際みんなリスナーの応援を正当に受け取って日本語が上手くなっていった。
日本語がうまくない男性に対して「かわいい」と言うことにどのような問題を俺は感じていたのか。
まず、世界中の男性全員が「かわいい」を褒め言葉として受け取ることができるだろうか。絶対に100%にはなり得ない。この事実がある。これは生まれ育った環境や個人の価値観によって醸成されてしまうものだ。これについての正誤を論じる気はない。個々の価値観による差異、個性と言っても差し支えない範囲であり、それゆえに正されるようなことでもないと考えているからだ。それに、「かわいいと言われることを嫌がるのは自らを女性扱いされていることを嫌がるということに繋がり、それは男性が女性を下に見ているからではないか」という批判も予想され、それは正しい批判として論理は適っている。しかし、「かわいい」と言われることを嫌がるのは性差のような根本的な問題ではなく、もっと表面的な問題だと俺は思う。語感やニュアンス、言葉の持つ雰囲気としての好みの問題ということだ。それは無意識下表層における感覚であり、自覚することが難しく、それゆえに訂正することも難しいことにように捉えている。例えるなら、ハエトリグモをかわいいと思う人もいれば、気持ち悪いと思う人もいるというようなことに近い。ハエトリグモが人間に無害であり、益をもたらすことさえもあると頭の中でわかっていても、どうしても気持ち悪さが拭えない人を責めることはできない。気持ち悪いと感じる人も、ハエトリグモのその機能を嫌悪しているわけではない。それと同じように「かわいいと感じる感情」を気持ち悪いと思っている人は少ない。「かわいい」という言葉として表に出てきていることが嫌なだけなのだ。
「かわいい」という言葉に内包されているニュアンスとして、「かっこいい」「上手くやっている」ことの否定ということがある。「かわいい」=「ダサい」ではなく、「かわいい」という言葉の一部分に「ダサい」というニュアンスがあることを否定できない、というレベルのことだ。問題は、その部分の割合が男性個々によって違うということだ。だから、ある男性は嬉しく感じ、ある男性は「ダサい」というようなことを暗に言われたと感じるということになる。
にじさんじENの男性メンバーの完全ではない日本語に対して、「かわいい」と評することへ戻る。日本語話者が他言語話者の不完全な日本語に100%ポジティブとは言えない言葉をかけることは、ほんのわずかではあるがレイシズムの傲慢さを俺は感じた。だからこそ杞憂をするに至った。「頑張ってて偉い」「(日本語話者の)自分より上手い!」から皮肉を感じるのは完全に受け取り方や文脈の問題であり、「頑張ってて偉い」「自分より上手い」という表現自体は100%ポジティブだからそう伝えればなんの問題はないはずだ。それを男性が100%ポジティブに受け取ることができない表現「かわいい」と言うことには違和感を感じてしまう。何より、「かわいい」と言っている側はなんの悪意がないことがより恐ろしく思う。女性にとって「『かわいい」と言われることは良いことだ」というステレオタイプ的な考え方が未だ社会では通用しやすいことは、女性側を苦しめていることが多いが、男性側が今回のように不快に感じることも起こり得る。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということわざが頭から離れなくて嫌だ。
明らかにアクシアを侮って「かわいい」と発する少数の人間のせいで、「かわいい」と今まで言っていた人たちがきっと傷ついたろうと思うからだ。坊主憎けりゃ〜は明らかな皮肉なので、今回のような悲劇にまで皮肉のような通底を見出している自分が嫌だからだ。
先述したように、俺はアクシアの感情の発露は間違っていないと考えている。彼が限界だったこと、そして感情を発露して表明することで気持ちの整理がついた部分がきっとあるだろうと思えること。なにより、黙って去るのではなく、アクシア自身が「アクシア・クローネ」として活動を続けるための動画であることがわかるから。
彼は動画の中で妄想やそれに端を発する創作活動についての嫌悪感を語った。でも、それはほかの活動者みんなが言っていることだ。「自分の目の届かないところで配慮を忘れずに隠れてやってね」もはや活動者視聴者みんなに知れ渡った暗黙の了解を再度言っただけにすぎない。それなのに、肯定的な自分の目から見ても感情が乗ってしまったせいで、妄想や創作活動を否定するように聞こえてしまう。賢い者たちが感情を見せるべきではない、という理由がよくわかる悲しい現象が起こってしまっている。
でも、この現象もまた、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、のシステムが適用されている。妄想のなかで「『かわいい』とひたすら消費することができるアクシア・クローネ」を肯定するような創作活動を、明らかにアクシアを侮った発言をする視聴者が好んでいるからこそそういう感情が乗ってしまったのだろう。
つまり、アクシアはきっと「かわいい」と発している者、ガチ恋や夢と言われる創作をする者を心から嫌悪しているわけではないと俺は思う。ということが言いたい。これは俺個人の解釈だし、もはや祈りに近いものでもある。きっとそうだ、というような。
「かわいい」と感じる感情や、ガチ恋や夢とカテゴライズされる想念自体をアクシアは否定し嫌悪しているわけではなく、「かわいい」と表現されること、「ガチ恋や夢を押し付けてくる行為」を否定し嫌悪しているだけで、それは誰しもが持っていておかしくない考え方だ。
「かわいい」と感じる感情は、言葉として表に出るまでは「かわいい」ではない。もっと大きな「良い」という思いとも言えるだろう。決して「かわいい」と表現しなければならないものではない。APEXでミスプレイをして面白けば、「草」と言えばいいし、仲間想いでやさしい一面を見せれば「尊い」と言えばいい。顔が良すぎて最高な気持ちになれば恥ずかしくても「顔良すぎ、好き」と言えばいいだろう。
そして、「かわいい」という言葉は決して罪のある言葉ではない。ただ、人を傷つけるリスクがわずかにでもある言葉とわかってその言葉を使うのと、何も考えずに使うのとでは全くちがうはずだ。少しだけ頭の片隅にその棘を意識するだけ良い、それだけのことで難しいことではないはずだ。
それだけで、アクシアはきっと楽しく活動をしてくれると俺は思う。
そして、今までちゃんとしたファンとしての想いを持ってガチ恋や夢などの妄想を営んできた者たちは、今まで通り配慮を怠らず、隠れてやっていけばいいのではないだろうか。難しいことかもしれないけど、俺はそう考えている。ちゃんとした考えを持っているファンは、今まで通りちゃんとしてれば良いと、アクシアの動画を見て俺は思った。
アクシア・クローネは、正しいファンを否定し嫌悪するような人間性を絶対に持っていないと、確信を持って言うことができるから。
「プリキュア」「ワンピース」など、東映アニメーション4作品の通常放送再開が発表 「お待たせをして申し訳ございません」
https://animeanime.jp/article/2022/04/06/68680.html
約十年前、曇りだったあの日。新卒で入った会社で人材営業をする日々に疲弊していた頃、新宿駅構内で、あるエンタメ企業の求人ポスターを見かけた。
アニメを作る仕事をしたことはなかったが、興味を感じて応募したところ、あれよあれよという間に内定をいただいた。役員面接はパスだった。
それからの私は、『アニメを作る仕事』に邁進する日々を過ごすことになる。長い時間だった。毎日が修業だった。
数年前、無理がたたって病院送りになった。心も体も限界だったのだ。大したレベルではないが後遺症も残った。退院後も結局、心身の調子は回復しなかった。
それで、退職を申し出て、東京から遠く離れた田舎に帰った(のんのんびよりの聖地が近くにある)。今はお堅い仕事に就いている。
十分な時間が過ぎた。そろそろ、当時を振り返ってもよいのではないか。あの日々への整理を付けられるはずだ。今から、エンタメ企業のアニメ部門で○年の時を過ごした男の話をする。
この記事で述べたいのは、シンプルに2点(5/4 以前はシンプリーでした。ブクマでご指摘いただきありがとうございます)。エンターテイメント業界で働いて面白かったことと、つまらなかったことだ。直情的に言うと、『心と体の奥底から感動できたこと』と、『エンタメ業界のほの暗いところ(要するに、こいつらマジでクソだなと思ったこと)』だ。どちらもけっこうな数がある。
それでは、さっそく説明していく。
子どもの頃はアニメが好きだった。一番ハマったのは、『魔法陣グルグル』だった気がする。衛星放送では『白鯨伝説』やCLAMP作品を見ていた。
だが、小学校生活の終わり頃から学習塾に通うようになり、夕方以降にやっているアニメを見れなくなった。中学で勉強漬けの日々を過ごしていた私は、いつの間にやらアニメのことを一切忘れてしまった。
いや、違う。大学の時は、深夜にやっているアニメをたまに見ていた。「コードギアス」「DARKER THAN BLACK -黒の契約者-」「蟲師」「夏目友人帳」あたりは確実に見ていた。
人材営業の会社で働くようになってからは、金曜日の深夜に自宅に帰った時、疲れ切った頭でテレビを点けて「こんなアニメあったっけ」と、ボンヤリした気分で視聴することがあった。
私はたぶん、アニメが好きだったんだろう。なぜ見なくなったのかと言えば、十分楽しめるだけの精神的余裕がなかったからだ。ならばいっそ、見ない方がいい。中途半端に楽しむのは嫌だ。中学生になった時も、そんな動機でアニメを一切見なくなったのだ。きっと。
そんな私が、アニメーション作品などを作る会社(以下「弊社」という。)に入社した後は、これまたどっぷりと『世界』に浸かることになった。入社から退職まで人事異動はなく、ずっとアニメ製作部門だった。
最初の頃は、アニメ雑誌のインタビュー記事に出るようなプロデューサーその他の足もとで働いた。雑用はもちろんのこと、小さい企画を考案したり、経理その他の事務や、各関係者とのスケジュール調整などを担っていた。ホワイトカラーに毛が生えたような業務内容だ。
ところで、人生で一番最初に携わったアニメは、某少女コミックでそこそこ人気を博した作品だった。タイトルは言わないが、雰囲気は『隣の怪物くん』に似ている。私が入社する半年前から企画が始まっており、当初の担当者から引継ぎを受けた。携わったといっても、スタッフロールに名前が載るわけでもない端役としてだが。実際、大したことはしなかった。やはりホワイトカラーの枠内に納まる仕事だ。
しかし、これは実際に私の世界を拡げてくれた。方々の兵が集まる企画会議に、必要とあらば関係各所を訪問して説得交渉にあたり、お金の雲行きが怪しくなればどうにかやり繰りをする(ダメなら追加出資か企画削減)。ごく稀に、スタジオ等の収録現場では声優の本気と、半面その悲哀を目の当たりにし(ここらへんは後述)、成功した作品の打ち上げ会では、自分達が作った数字を眺めて溜飲を下げる。
長い月日が経って、エンタメ業界に慣れてきた頃だと、新作の立ち上げに、利害関係者間の調整(交渉)に、プロジェクト全体の損益見通しの皮算用に、イベントの企画運営に、ホームページの管理に……とにかく、アニメを見ない日はなかった。
面白かったのは、いろんな業界の人に会えることだ。クリエイターには当然会えるし、経営者にも会えるし、事務屋とも話をするし、現場労働で身を焦がす人も間近で観られる。特に印象に残っているのは、漫画家と声優だ。アニメーターとは、あまり交流の機会がなかった……。
とあるアニメの原作者が一番印象に残っている。つまりは作品の神だ。例の人と呼ばせていただく。
例の人は、ほかの漫画家とは一線を画していた。私がいっぱしに携わったと公言できるアニメは計20本近くになるのだが、その半数は漫画原作である。私達は、最低でも一度は彼ら彼女ら(作品の神)の姿を拝むことになる。機会は少ないが。
原作とシナリオを変える時には事前に伺いを立てるし(ex.某鬼狩りアニメの敵役の台詞である「禍福は糾える縄の如しだろ~」は改変が検討されたらしい。彼が難しい言葉を知っている境遇ではないため)、重要な放送回だと制作現場に来てもらうし、打ち上げその他のパーティーがあれば楽しんでもらえるように最大限配慮する。
自作がアニメ化されるレベルの漫画家や小説家というのは、揃いも揃って個性派だ。めちゃくちゃに大騒ぎをする人もいれば、ひたすら黙って沈思黙考の人もいれば、なんかもう色々とはっちゃける人もいれば、欲望丸出しで悪い意味で子どもみたいな人もいれば、一般企業でも通用しそうな思考や行動の持ち主もいる。
例の人は、漫画家として優れているだけでなく、人格も見識も申し分なかった。落ち着いた性格で、人柄がよくて、教養もあった。話のやり取りすべてが学びに繋がり、励みになった。初めて会った時の吾峠呼世晴さんは、とにかく、これまで出会った数多の創造者の中で抜きん出ていた。
普通、ラスボスの人格の根底を太平洋戦争末期の日本の政治指導者(所謂ファシスト)に置くなど、誰が考えつくだろうか。私は、鬼舞辻無惨の例の粛清の場面を読んだ時、丸山真男の「現代政治の思想と行動」が真っ先に頭に浮かんだ。あの時、脳に痺れを感じたのを覚えている。
この類の書物を読んで、無惨様のキャラクターを作ったのは間違いないのだ。自らを善とするためであれば、どんな言辞をも取り入れ、どんな諫言も亡きものにする。
例として、あの粛清の時に魘夢が助かったのは、「無惨様を肯定したから」だ。「下弦の鬼を解体する」というトップが決めた戦略方針が、たったの一言で撤回された――常なる無謬性がファシズムの基本である。
あの時、「無惨様のキャラ付けは旧日本軍を意識したのですか」と聞いておけばよかった。残りの人生で聞くことができる機会は二度とない。無念だ。
しかも彼等はみな、何物か見えざる力に駆り立てられ、失敗の恐しさにわななきながら目をつぶって突き進んだのである。彼等は戦争を欲したかといえば然りであり、彼等は戦争を避けようとしたかといえばこれまた然りということになる。戦争を欲したにも拘らず戦争を避けようとし、戦争を避けようとしたにも拘らず戦争の道を敢て選んだのが事の実相であった。政治権力のあらゆる非計画性と非組織性にも拘らずそれはまぎれもなく戦争へと方向づけられていた。
この業界で働いていて、「この感じ、苦手だな」「マジでクソだな」と感じたことは当然ある。字数の関係もあるが、何点かに分けて述べていく。声優の悲哀とか、人間の嫉妬やねたみの話になる。
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まだ新人だった頃、先輩(兼上司)に連れられて現場を見ることがあった。現場というのは、アニメ制作会社とか、編集スタジオとか、音声の収録現場などだ。
そのためだけに現場に行くのではなく、何かの機会のついでに現場作業の見学を申し出るのだ。それで、不思議に思って聞いたことがある。
「(私達は)技術的なことはわからないのに、どうして現場に行くんですか?」
と。それに対して、彼はこう言っていたはずだ。
「確かに分からない。仮に、目の前で手抜きをされたとしても見抜けないだろう。でも、企画側である俺達が現場に行くことで、『あなたの仕事を見ている』というメッセージを伝えることができる。俺達はこの作品に熱をもっていて、いいコンテンツを作れる未来を目指してる。そういう想いを行動で伝えるんだ」
みたいな回答だった。
これは今の私が大事にしていることでもある。要は、発注側が受注側の実仕事をどこまで見るべきかという話だ。今現在の私は、受注側の失敗が社会的に許されない類の仕事をしている。転職後に大きな失敗をしでかさなかったのは、あの先輩のお陰だ。
さて。私が二十代後半の頃だ。例の先輩と一緒に、声優がいる収録現場に初めて音連れたのは。スタジオに入ってしばらく進むと、小ホールみたいな広い空間(座椅子が並んでいる待合スペース。十数人はいた。ほぼ声優+マネージャー)に出た。その奥に、マイクが並んでいる部屋が映った。木目調で温もりを感じる、しっとりとした空間なのだが、当時の私に予想できるはずもなく。カラオケみたいだなー、とテキトーに想念していた。
私と先輩が小ホールに入るなり、セミフォーマルな恰好の何人かが寄ってきて、隣にいる先輩に挨拶していた。私も混ぜてもらい、名刺を交換した。
雑談が終わって斜め後ろを振り向くと、女の子と淑女が1人ずつ、あとは男の子が1人、まごつくように並んで私を見ていた――人生で初めて見た声優だった。後で知ったが、攻めのある挨拶活動で知られる声優事務所だった。
ひとりずつ私達の前に出てきて、「~~と申します。(簡単な自己紹介)よろしくお願いいたします!」と、ハキハキした声でアピールをやってのけた。そのうちの淑女は、私の着ていた衣服(お気に入りのやつ)と指輪を褒めるとともに、香水をつけていることを見抜いた(やるな……と感じた)。男の子は謎の一発ギャグを仕掛けてきたのを覚えている。
※かなり昔のことだが、内容は一応伏せる。当日記では、声優個人の名前を出すことはない。
私も「よろしくお願いします」と返したものの、微妙な気分になった。たとえ私がどれだけ昇進しようと、彼女たちのキャスティングに関わる可能性は皆無だからだ。まったくゼロではないが……。
例えば、アナウンサーになりたい女子大生は、いろんなイベントにコンパニオンとして参加することで武者修行をするわけだろう。それらのイベントでは、今後関わり合いになる人だろうと、これっきりの人だろうと、あの子達は全力で挨拶活動をしていた。熱意は感じるのだが、やはり私には引っかかるものがある。
こんなことを思っている時点で、私はそういう職業には縁がないのかもしれない。今、私は『効率』という観点で物を考えた。あの声優の子が私に挨拶をしても報われる可能性はないのに、と考えた。夢中になっている人間は効率のことは考えない。やれることをすべてやる。それだけだ。
何かに心をとらえられ、たちまち熱中してしまうのは、謎にみちた不思議なことだが、それは子どももおとなと変わらない。そういう情熱のとりこになってしまった者にはどうしてなのか説明することができないし、そういう経験をしたことのない者には理解することができない。山の頂を征服することに命を賭ける者がいるが、なぜそんなことをするのか、だれ一人、その当人さえもほんとうに説明することはできないものだ。
はてしない物語(1982) 上田 真而子 (翻訳), 佐藤 真理子 (翻訳), Michael Ende (原著) P.17
あの子達は本気だった。報われようが報われまいが、声優として活躍すると決めたからには、生き残るために何でもやる。上でURLを貼ったアマゾンのレビューにもあるが、声優は堅気の仕事ではない。勝った負けたで全部決まる。精一杯頑張っても生き残れる保証はない。選ばれた者だけが生き残る――余談だが、あの時の淑女と男の子は今でも活躍している。女の子はだめだった。
さて。淑女と男の子は、実力があるうえに、礼儀正しく、サービス精神も豊富だった。それが生き残った理由だ。しかし、声優全般が行う営業活動には後ろ暗いものも当然ある。5ちゃんねるとかで、たまにアニメ業界の出身者がスレッドを立てて降臨することがあるだろう。
それで、やり取りの中で、誰かが「枕営業ってあるの?」と質問をする。スレ主は「そんなのないよ」「聞いたことない」と応えるのが定番だ。
これは、私個人の日記だ。この際だからはっきり言う。枕営業をしている声優はいるし、やらさせている声優もいる。重要なフォローをさせてもらうが、芸能界の表舞台――ひとつの契約で何百万もの金が動く――に比べれば圧倒的に数は少ない。声優関係のギャラというのは、例えば女性タレントが出るCM撮影や、青年誌のグラビアや、全国各所での公演活動と比べても相当に廉価だ。1回の収録につき数万円以内で呼べてしまう。表舞台に比べると利権は少ない。
それでも、そういうことはある。パターンは簡単に分けて2つ。いっぱしの声優になりたい、もしくは声優であり続けたい者が、キャスティング権がありそうな人に近づいて配役を得ようとする。
スタジオでの雑談や、小さい贈り物や、二人きりでの食事くらいで留めておけばいいものを、一線を超えてしまう場合もある。私が30才を過ぎた頃、例の収録現場で、声優に「よかったらご飯行きましょう」などと声をかけられたことがある(最終的な内訳:男性が2人、女性が5人)。
その際、はっきりと「ごめんね。私にキャスティング権はないんだ」と答えた場合、彼ら彼女らを傷つけてしまう可能性が高い。いや、はっきりいって『侮辱』である。なので断り方が難しかった。「帰って社内会議があるので」みたいな返答をしていた。
これはまだいい。声優個人or事務所の意思の問題だ。「あの役がほしい」とどうしても思っていて、そのためなら何でもやるという覚悟と責任さえあれば、枕営業は罪ではないと私個人は感じる。「この業界は堅気じゃない」とはそういうことだ。
(追記)正直に言うと、私の妻が声優だった頃に食事に行ったことがある。私から誘ったので上の内訳には入れていない。
以上、「この感じ、苦手だな」と思ったことを述べた。以下に語るのは「マジでクソだな」と思ったことになる。すなわち、個人が望んでいる保証のない枕営業のことだ。アニメ業界に限ったことではなく、エンタメ業界には先日話題になった映画監督のような『畜生』が何人もいる。結果を出している人間の一部がやりたい放題やっているのだ。
まだエンタメ業界にいた頃、そんな人間に捕まったと思われる(主に女性)声優の話を聞くたびに胸が痛くなった。このような話題が、どうして私などの塵芥の耳に届いているのか……? そう考えると、さらに心が抉られる思いがした。
おそらくは、やった本人または関係者が面白がって吹聴している。私のところまで噂が届くということは、そういうことだ。いろんな声優の姿が脳裏をよぎった。「あの子は大丈夫だろうか」といらぬ心配をしてしまうほど、当時の私には『噂』がグッサリと刺さった。
さて。エンタメ業界に恩があるのも事実だ。下種な話題はこれくらいに留めておこう。気が付けば字数がない。前後に分けることにする。
【後編】
市役所には魅力的な人物ももちろんいる。今これを読んでいるあなたも、人生で一度くらいは公務員に助けられることがあるだろう。
ここでは、そんな善き職員について2人ほど挙げる。脇道なので、1人につき二千字程度とする。
見た目はスラッとしていて、無表情な感じの女性だった。その実、内面は安定していて朗らかである。
この人を最初に見たのは、私が採用されて2ヵ月くらいの時だった。公用車に乗って近隣の政令市にある研修センターに行くところだった。
1階の市民課に繋がる階段を降りたところで、凄まじい怒号が聞こえた。「なんでできんのか!!」と、おそらく高齢の男性が怒号を発していた。
窓口を覗くと、やはり老人が女性職員に対して声を荒げていた。話を聞いていると、どうやら身分証明書がなくて公的書類を発行できない類のトラブルのようだ。周りの市民や職員が怪訝な顔で覗いていた。たぶん堂々巡りの話になっているのだろう。
そして、交代したGさんは、静かな様子で男性の話をひたすらに聞いていた――これが傍から見ていても、「あなたの話を聞いています」「共感しています」「申し訳ございません」という態度が伝わってくる。男性は次第に落ち着いていった。最後まで納得はできないという面持ちだったが、諦めて正面玄関の方に歩きはじめた。
傾聴は苦情対応の基本である。ここまでできる人は、市の職員では初めて見る。
「この人、どんな業界が向いているだろうか」と、昔に就いていた転職支援の仕事を思い出していた。
個人的な感覚だと、やはり福祉だろうか。受付系も悪くはないが、こういう人には攻めの傾聴というか、そんな仕事が向いている。最初に浮かんだのは、証券会社のリテール営業だった。しかし、Gさんはあの業界に蔓延る罪悪に耐えることはできないだろうなぁ、と思い直したのを覚えている。
それから数年間、Gさんのメンタルの強さ、粘り強さを発揮したのを何度か見ることになった。市民の中には、自己表現としてのクレーム――己が主張を表明するために市役所の窓口に来る人もいる。何か強いストレスを抱えていて、それを発散するために市役所まで出向く。そういうタイプの市民だ。
そんな人にもGさんは優しかった。とにかく話を聞いて、あまりに騒々しいようであれば怒鳴る市民を別のスペースに誘導し、一般市民の邪魔にならないようにして苦情の解決を図るのだ。
Gさんはこの部署が長かった。当時30才になるかならないかだったが、査定は常に5段階中の4だった。上司からも仲間からも信頼を集めていた。
が、それで万々歳とはならない。彼女はいつもそういうお客さんばかりを相手にするので、残業がとんでもない量になっていた。勤怠管理システムの記録によると、Gさんは毎月50時間以上の残業は基本であり、それに加えて、土日祝のいずれかに必ず出勤してサービス残業をしていた。
私も、なんやかんやで土日に出勤することが多かったが(もちろんサービス残業だ。管理職なので…)、Gさんを見かける確率は5割を超えていた。庁舎内の配置的に、3階にある私の職場に上がる時にGさんを見かけることになる。サービス出勤をしている職員はほかに何人もいたが、彼女が最も印象に残った。
実際、Gさんはいい子だった。料理は上手いし、家事や洗濯もばっちりだし、家では猫を飼っているのだが、これがまた人懐っこい。でも、猫カフェは嫌いらしい。なんでも、「あそこの猫はみんな苦しそう」とのことだ。私が「目の前にあるんだし、行ってみようよ」と誘っても、頑として首肯しなかったのを覚えている。ちなみに、好きな食べ物はたこ焼きだ。食べ歩きはマナーが悪いよ、と何度言っても聞いてくれなかった。
思えば、Gさんが土日出勤しているのを眺めるのが当たり前になっていて、この人を助けなければという意識が働かなかった。ある大晦日に、Gさんが煖房をつけず、明かりもなしでパソコンに向かっているのを見たことがある。コートを着て自席に腰かけ、震えながらキーボードを叩いていた。
「Gさん。それじゃ寒いでしょ。煖房つけなさい」
私が言うと、Gさんは座ったまま、ぼんやりとこちらを見詰めていた。
「すいません、これでいいです。いつもこうなんです」
「お気遣いありがとうございます。でも、わたしは寒いのがいいんです」
「そうか。お寒いのがお好き、なんだね」
Gさんは、「こいつ何言ってるの?」という顔をしていたが、意味に気が付くと、パソコンに顔を向けながら噴き出した。
若い子でも意外と通じるんだな、と感じて私は、エアコンのスイッチを押した(蛍光灯のスイッチの場所はわからなかった)。人事課に続く階段を昇り始めるところで、Gさんが職場に明かりを灯したのを認めた。
この彼女は今、市役所と近い業種の仕事をしている。もう不当な時間外勤務はしていないはずだ。直接働いている姿を見たことはないが、きっと活躍していることだろう。今も幸せであってほしい。
この人も女性だ。地域を盛り上げるような感じの名前の部署にいて、エース級の職員として知られていた。
さわやかな見た目の女の子だった。高校を出てすぐに市役所に入ったという。私が採用された年の4月時点で21才になる年だった。結論から言うと、この子はもう地方公務員ではない。その次の年に民間企業、よりによって当時の取引先に引き抜かれる形で退職した。
惜しいことをした。もしそのまま現職に留まっていれば、もっとイキイキと働ける環境があったかもしれない。今更言っても遅いのだが……。
Hさんを最初に見たのは、窓口でお客さんを見送っているタイミングだった。市役所で働く女子職員は、みんな仕事に使えそうな私服で来るのだが、Hさんは限りなくスーツに近い、パリッとした装いだった。凛とした覇気のある顔つきだったけれど、ちょっと不安げな瞳が印象的だった。
見た感じでは、大卒3年目くらいの雰囲気である。市役所には、たまにこういう人がいる。早い話、Hさんは頭の回転が早くて、見た目がシッカリしていて、礼節を弁えており、創造的な仕事もできる。そんな子だった。
『創造的な仕事』については特定のおそれがあるので述べないが、当時の公務員業界では花形とされる仕事だった。億単位の金が動く。上の人間は大枠を決めて指示をするが、Hさんにも商品企画や業者選定などの権限が与えられていた。
その仕事をやりたいと希望する職員は何十人といて、その中には数年後に昇進を控えたベテランが何人もいた。民間においては、こういう花形とされる事業や、大金が動く案件というのは――事業部長みたいなポジションの人が直接担当するか、または管理職に昇進する手前のエース社員が担当することが多い。それを、大学生ほどの年齢の子が担当している。
ほかのポジションだと、例えば市長の秘書の1人は臨時職員だった。早い話がパートさんだ。30代後半で、圧倒的清潔感の子持ちママだった。実力登用の文化がトップ層から滲み出ているところがK市の美点のひとつだと感じる。
当時の私は不思議に感じていた。なぜ、官公庁ではこんな人事ができるのだろうか。将来の利益を重視するのはわかるが、今の利益のことも考えないと――と想念した瞬間、私の脳裏にビビッ!と走るものがあった。
そうだ。新人公務員向けの研修で習っただろう。公務員は利益を追求しなくていい。だから、利益度外視で、十数年先のことを考えた配置や処遇ができる。Hさんは、すでに幹部候補としての育成が決まっていた。ならば、さっさと重要ポジションを任せられる限り任せていった方がいい。そういう判断だった。
もちろん、幹部の好みの問題でもある。当時、市長と市外の飲み屋に出かけた時、嬉しそうにHさんのことを話していたのを覚えている。なんでも、市長室でその花形事業の今後の商品展開に関する協議をしていた時、事業部長に連れられていたHさんが、副市長と侃侃諤諤の議論になった――そんな内容だったろうか。Hさんは議論になると熱くなるタイプだが、それが終わると途端にホンワカになるらしい。気さくな感じで、癒される話し方になって、市長が言うには、そのギャップがいいらしい。
その事業部長も確か、とあるイベント終わりの飲み会の時にHさんのことを誇らしげに話していた。当時、入庁1ヶ月目だったHさんの部署の飲み会の席で、会の最中に参加者にお酌をして回ったのはHさんだけだった、みたいな話だ。嬉しそうな表情で、自然にみんなに一人ずつお酌をして回って、先輩との交流を深めていたということだ。
若干18~19歳でそこまでできる子は、そうはいない。エース枠としてチャンスを与えられて当然だ。こんなことを書いていると、増田民の方々には『飲み会不要論』的な観点で攻撃を受けてしまいそうだ。しかし、これはあなたの視点に立ってみればわかりやすいのではないか。あなたが飲み会に参加していたとして、若い男の子や女の子が、「仲良くしてください!」みたいな雰囲気でお酌や会話をあなたに求めてきたら、嬉しいと思わないだろうか。可愛い奴だなと思うだろう。そういうことだ。
私はHさんと話したことは2回しかないが、わかるような気はした。頭がいいだけではなく、物事に対して本気になれる。そういう子だった。
さて。Hさんは突然退職してしまった。冒頭に述べたとおり、花形事業に関係する取引先(パートナー)に引き抜かれたからだ。晴天の霹靂だった。
Hさんが書いた退職理由書を読んだ。要約すると、「市役所のルールや職場環境がつまらなく、物足りない」とのことだった。例えば、公用文では「問合せ」を「問い合わせ」と書いてはならない。しかし、動詞になると「問い合わせて」と書かねばならない。細かいことだが、間違えたら稟議のやり直しになる。そういった文書事務に関する文化が、HさんがK市を辞めた理由のひとつだった。
若い子であれば仕方がないとも思う。確かに、公務員業界というのは地味だ。完全なる聞きかじりだが、『若手のうちは仕事の何が面白いのかわからない。それが公務員の難点だ』というのが、当時のHさんの退職理由を読んでの副市長の談だった。
まあ、過ぎたことはいい。もういいのだ。気にするだけ損というもの――Hさん個人の件に限っては。
だが、Hさんを引き抜いたクソコンサルは別だ。きっちりとリベンジしてやった。K市の入札に入れないよう指名停止(※)にしたうえで、県内他市すべてと、都内の右半分くらいの地方自治体と、県庁と、国の機関各所にもこの度の情報提供を行った。
罪状はもちろん、『取引先の従業員を引き抜いた』ことだ。許されることではない。民間企業同士でも、そんな足の引っ張り合いはまず行われない。それを、あのクソ非常識なITコンサルはやってのけたのだ。それなりの報いがあって当然だろう。
※正式な指名停止は今回の場合だとできない。条例や規則や要綱に定めがないからだ。よって、入札参加・指名業者リストにその会社の名前を残したままで、入札には呼ばないという意味での指名停止になる。
突然僕は感動してしまった。忌まわしい僕の歪んだ想念の被膜をはぎ取った、ありのままの世界はこんなに静かで美しいものだったのか。ため息が、胸の中にあった何か固く苦しいものを一瞬で砕いてしまった。
いや、本来そういうものだとは想像していた。生きていることが素晴らしい、そういって涙を流す人の顔に噓の匂いは感じない。ただ、それは僕よりもっと立派で賢くて善良な選ばれた人間だけが味わうことを許された特権で、僕みたいなどうしようもない人間には縁がないものだと思っていた。僕には何一つ純粋で美しい感情はなくて、何を見ても心は泥のように無反応で、ずっと鬱屈した暗くて醜いものだけを心の中に育てて生きてゆくのだと思っていた。
生まれたこの方、自分以外の人間との間に常に漂う「気まずさ」が嫌だった
それは同僚であれ、知人であれ、友人であれ、恋人であれ、家族でさえも
透明だけど不透明な質感の、ぶよぶよとしたゼリーのような雰囲気が、たまらなく嫌だった
大人になれば、そうした人との間にある距離感は自然と消えてなくなるものだと思っていた
気付けば、私の周りには誰もいなくなっていた
私という惑星を中心としたこの領域には、私しか存在していないようだった
光子の1つ1つが、莫大な時間をかけて星々の生き死にを伝えてくれる
遥か彼方には、どうやら互いを重力で引き寄せあうような星系があるらしい
私には、関係のないことだった
アニメには予測プログラミングをされているという話を聞いた事はあるかもしれない。
それらの情報から2021年8月11日という日を割り出し、この日に日本が分断される様な大きな地震が起こるとツイッターで発信している人がいる(キーワード検索したら多分出てくる)
もしかしたらこの人は仕掛ける側のリークなのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ、その意味を知るには911や311の事を知る必要があるし、オリンピックも中止なら違う世界線に移行していたはず。
本当ならもう時間がない。
「自分達だけ助かれば良い」ではもうだめなんだと思う。
色んな節目で、様々な世界線と複雑に交差しながら今のこのワールドなんだと思うから。(世界線(ワールド)=次元 みたいな感じ)
回避させるべく、ひとりひとりが「地震は起こらない。自分たちで世界を作る」イメージをしてみないか?私達の想念でこの支配された世界をも変えられるとしたら?
8月11日が過ぎてもあなたが大切な人と笑顔でいられますように。
あたおかの戯言だと思うだろう。でも
中野区中央は狭い敷地に同じような家が同じように建ち、みっしりと並んだ区画が続く。歩いているうちに自分がどこへ向かっているのかわからなくなる。東京の住宅地はそんなものだといえばそうだが、中央と名乗るからには、もうすこし街らしい華やかさがあってもよさそうなものではないか? 中野区中央は、その種のにぎわいとは無縁な場所だった。
べつに好き好んで中央まで歩いて来たわけではない。職場の寺元さんがこの1週間ほど出勤せず、連絡もとれない。社長に渡された住所のメモと住宅地図のコピーを頼りに寺元さんの居所を探し、様子を探るよう、依頼を受けて来た。他に社員は私しかいなかったからそうなったわけだ。
ファート商会という会社が私たちの職場だった。本社は中野にあり、放屁の気体用保存容器を製造販売している。このシリンダー状の容器に放屁を閉じこめておくと、どれほど時間が経っても、栓を開けさえすれば、気体が肛門を通って出てきた瞬間のフレッシュな臭気を嗅ぐことができる。このような器具にどれほどの需要があるものかと、最初私は半信半疑だった。が、細々と着実に注文が入り、会社は今まで生き延びてきた。
中野では誰もがその日を生き延びるのに精一杯だった。いちど中野駅で電車が止まれば、もう中野を出て行くことはできなかったからだ。
もう何年も前の話だ。夕方、私は仕事を終えて秋葉原から総武線に乗り、荻窪のアパートへ帰ろうとしていた。電車は中野で停まり、ドアが開いた。もともと中野での停車時間は不自然に長かった。新たに乗り込んでくる人はおらず、車内に放置された乗客は、列車が再び動き出すまで忍耐強く黙っているのが常だった。だがその日の停車時間は長すぎた。15分を過ぎた頃から、いらいらと外の様子をうかがったり、ホームへ降りたりする乗客が出はじめた。それでも列車は動く気配がなかった。30分が経過した頃、当駅で列車は運行を終了する旨のアナウンスが流れ、乗客は全員が外に出された。それ以来、私たちは中野で暮らしている。
中野は孤絶している。東京の他の区からも、日本の他の地域からも隔離されたままだ。新宿よりも西に向かう列車を選択的にブロックするよう、政府からJR東日本へ命令があったとかいう噂だ。感染症の拡散を防ぎ、テレワークの普及を急ぐためらしかった。通勤を控えるようにこれまでさんざん忠告したのだから、都心へ通勤した輩はもう帰宅させなくてもよろしいというわけだ。だが噂は噂で、なぜ中野以西への鉄道運行が突然終了したのか、本当のことを知る人はいない。少なくとも中野にはいないと思う。
中野で足止めされたら、人生を中野でやり直すしかなかった(生き続けていくのであれば)。テレワークをしていなかった乗客は一瞬で路頭に迷った。中野で住みかを見つけ、仕事を見つけ、生活の糧を得ていくしかなかった。
練馬、杉並、新宿と中野の境界には有刺鉄線を張ったバリケードが設置され、高いコンクリート壁の建設が始まっていた。20式小銃を抱えた警備隊が昼も夜もバリケードの前を行き来していた。こうした措置に抗議したり、やけを起こしたりして境界へ突入する人はときどきいたが、その場で「管理」され、戻ってくることはなかった。「管理」されたくなければ、望んで降りたわけでもない中野で生きていく他はなかった。
ファート商会は、中野へ流れ着いた人間で始めた会社だった。偶然に同じ場所に居合わせた三人、空き家になっていた蔦だらけの木造家屋を見つけて寝泊まりしていた三人だった。私たちは手持ちの金を出し合って米を炊き、駅前の広場で獲った鳩を焼いて共同生活を送った。放屁を保存するシリンダー型容器というアイディアを出したのは、社長の鬼澤さんだった。本人の話では、食品の品質検査に使う精密機器の会社に勤めていたそうで、その方面の知識は豊富だった。最初は中国から大量に取り寄せたシリンダーを小箱に詰め替えて転売していた(中野から移動はできなかったが郵便物は届いた)。仕入元と取引を重ねるうちに、小ロットでも自社ロゴマーク入りの製品を作ってもらえるようになった。
その頃には空き家の相続人を名乗る人物から弁護士経由で文書が届いて、私たちは追い出された(急激な人口増加のため中野の地価は上がったらしい)。駅近くの雑居ビルにたまたま空きがあったのでそこに移り、事務所で共同生活をしながら放屁の保存容器を日本中に送り続けた。事務所とは名ばかりで、中国から届いた段ボール箱が積み重なる室内には洗濯物が下がり、夕食の豚肉を焼くにおいが漂っていた。
三人がそれぞれに部屋を借りて事務所から引越したのは、それからさらに一年ほど経ってからだ。そうするだけの資金がようやくできた、そろそろ仕事とプライベートを分けたい、当面は中野から出られる見込みがなさそうだ、といった思惑や妥協が交差した結果、私たちはそろって職住同一から職住近接の体制へ移行したのだった。
鬼澤さんに渡された地図のコピーを見ても、寺元さんの住みかはさっぱりわからない。どの角を曲がっても同じような家並みばかりで、ときおり家の塀に貼ってある番地表示板だけが現在地を知る手がかりだった。ひと昔前までは、スマートフォンで地図アプリを見れば迷わずにいろいろなところへ行けた。中野に閉じこめられてから、その類のアプリはなぜかいっさい起動しなくなった。だから中野で住宅地図は貴重品になっていた。
何度も同じ所を行ったり来たりして、ようやく見つけた寺元さんの居宅は、路地の奥にあった。旗竿地というのか、家と家の間を通って行くと不意に現れる隙間がある。そこへはまりこむようにして古アパートが建っていた。鉄柵にかかるプラ板に、かすれた文字で「シャトーひまわり」と書いてある。柵のペンキはささくれ立った指の皮のように、いたるところから剥けて、露出した地金から赤錆が吹き出していた。一階の通路には落ち葉が吹き溜まり、繰り返し人が通った箇所では砕けて粉になっていた。各戸の前に置かれた洗濯機のカバーは、もとは水色だったらしいが、雨と埃をかぶり続けて黒くなっていた。
103号室には表札も呼び鈴もついていない。寺元さんの居所はここらしいが、本当にそうであることを示す手がかりはない。ドアをノックしたら全く無関係な他人が出てきて、警戒心に満ちた視線を向けてくるかもしれない。そういう可能性を考えると、ドアをコツコツとやる力が自然に弱々しくなる。返事はない。中に人の気配があるのかどうかも分からない。洗濯機の上にはすりガラスの小窓がついているが、その奥で人影が動く様子もない。小声で名前を呼びながら再びノックしてもやはり返事はなかった。
寺元さんは出かけているのだろうか。あるいは先週あたりに部屋の中で倒れて誰にも気づかれず……不意にそんな想念にとりつかれたが、辺りは埃っぽい臭いがするだけだ。やはり出かけているのだろう。
その場を離れようとして歩き始めた瞬間、背後で音がした。振り返ると、寺元さんがドアの隙間から半分だけ身を乗り出し、こちらを見ていた。禿げ上がった丸顔はいつもより青白く、無精ひげの生えた頬がこけて見えた。「田村さん、なんで……ああ、そうか……まあ、ここじゃなんなので、どうぞ……」
「散らかってるけど」
といいながら寺元さんは私を部屋に招き入れたが、中は私の部屋よりもきれいに片づいていた。ローテーブルの上にはA4サイズのポスターみたいなものが散らばっていた。猫の写真の下に黄色い枠が印刷してあり、「さがしています」という文字が見えた。
「先週から急にいなくなっちゃってね、ずっと探してたんだけど……」
猫を飼いはじめたと寺元さんが言ったのは半年ぐらい前だったか。ランチの時に写真を見せてきたのを覚えている。たしか、ニティンとかいう名前だった。額の毛が富士山のような形に、白と黒に分かれている猫だ。
「この近所では、見つからない感じ?」
「毎日そこらじゅうの路地に入って見て、電柱にポスターも貼ったんだけどね。今のところ手がかりはなくて……」
寺元さんは俯いたままTVのリモコンをいじくり回していた。目の下にできた隈が濃かった。
中野では孤独死が増えているらしい。突然にそれまでの生活、人間関係から切り離され、中野に閉じこめられた人々が、生き残りをかけてあがき続け、一息ついたあとに待っていたものは、容赦のない孤絶だったというわけだ。
職場への連絡も忘れ、一週間にわたって捜索を続けていた寺元さんと猫との個人的な結びつきは、どれほどのものだったのだろう。そして突然に去られたと知ったときの衝撃は……いや、仕事を忘れていたのではなくて、猫を探すために休むと言えなかったから、連絡できなかったのかもしれない。猫の存在が、どれほど寺元さんの柔らかいところに入り込んでいたか、誰にも知られたくなかったから、中野ではそれなりに気心が知れているはずの私たちにも、失踪事件とそれがもたらした内面の緊急事態について、口を閉ざしていたのではないだろうか……
「鬼澤さんには、寺元さんが体調崩して寝込んでたとか言っておくので、ニティンの捜索、続けてください」
「気遣わせちゃって、ごめん。僕の方からも、後で連絡入れておこうと思うから……」
寺元さんはアルミサッシを静かに開け、冷蔵庫から麦茶を出した。梅雨時の空気で蒸し暑くなり始めた部屋にかすかな風が入ってきた。窓の外に見えるのは隣家の壁ばかりで、申し訳程度についたコンクリート製のバルコニーの下には、古い落ち葉が厚く積もっていた。その隙間に何か、木の根か、古い革製品のような、黒に近い焦げ茶色のものが突き出ている。表面には緑の苔か黴のようなものが吹いて、時折、びくり、びくりと脈動しているように見える。
「寺元さん、そこに、何かいるみたいなんだけど」
「ああ、それ、引っ越してきたときからずっとそこにあって……え、動いてる?」
その「何か」の動きはしだいに大きくなり、周辺の落ち葉がめくれて露出した土には蚯蚓や百足が這っていた。そこに埋まっていた朽木のようなものは、地表面に見えていた一部分よりもはるかに大きかった。それは蛹のように蠕動しながら室内へどたりと入ってきた。麦茶のグラスが倒れ、中身がフローリングの上に広がった。
その「何か」は動き続けるうちに表皮が剥がれて、琥珀色をしたカブトムシの蛹的なものが姿を現した。痙攣的な動きはしだいにゆっくりと、動物らしい所作が読みとれるようなものになってきた。やがて内側から被膜が裂け、現れたのは肌だった。真白なその表面へしだいに赤みが差してきた。寝袋のように床へ残された被膜から、人型をしたものが起きあがる。
それは姉だった。間違いなく姉だった。17歳の夏の夕方、高校の帰り道、自転車ごと、農道のどこかで消えた姉。警察が公開捜査に踏み切り、全国の交番に写真が貼り出されても、けっして戻ってくることのなかった姉。落ち着いたピンク色のフレンチスリーブワンピースを着て、薔薇色の頬に薄い唇と切れ長の眼が微笑み、当時の面影はそのままに、だが記憶の中の姉よりもはるかに大人びた姉が私を見ていた。
「背、伸びたじゃん」
といいながら姉が私の腕に触れた瞬間、思わず涙がこぼれた。
「そうか、田村さんのお姉さんだったのか。だからずっとそこに……」
寺元さんは何か遠く、眩しいものを見るような目で、姉と私を見ていた。
姉は寺元さんに微笑みかけながらも決然と言った。寺元さんは照れくささと寂しさの入り交じったような顔で笑った。が、不意に真顔に戻った。
かすかに、猫の鳴き声のような音が聞こえる。涼しい夕方の空気が窓から入ってくる。
どこか遠いところを見ながら姉が言う。
「もうそんな季節か」
中野ディオニューシアまつりは毎年初夏に行われる。今年もたくさんの供物を捧げた行列が、狂乱状態の男女が、鍋屋横町を練り歩くのだろう。中野で過ごす何度目の夏になるだろう。いつの間にか、夏の風物詩を繰り返す季節の一部として、中野で受け入れつつある私がいた。
「治らない」という病気の語彙を用いることが適当かをさておき、自分の中で「女嫌い」がもはや一つのテーゼとしてあらゆる判断の場面で幅をきかせてくる。どのような言動を取るか、といった直接の状況から、なんらかの創作物に対する評価まで、全てを男性的・女性的に分類し、女性的なものへの称揚があればそれだけで正直ウッとくる。(まあこれ自体は別に珍しい話ではないはずだ。元々性二元論から出てきた価値判断だろう。全てに男性的・女性的という分類がなされるのであれば、男性の中のある性質が女性的であることもあり、逆もまた然りということになるので結構事態は複雑になる)
とりあえず上野千鶴子なんか読んで素直に啓蒙される女が理解できない。「女嫌い」の仕組みを解明されたくらいで、その論理を自分を肯定するために援用できるようなその女性らしい逞しさ。自分の中で女嫌いはもっとパブロフの犬のごとく根底に根ざす反射といって差し支えないもので、例えば最も凡庸な例を挙げれば「あっ感情的になっているぞ、女性的だ、きついきつい」というように。それが馬鹿げていますよと言われたところで矯正不可能な域にある。
そしてこの反射にある一定の信頼を自分でも置いている。結局市民未満のところから出発した性にとって最も困難となるのは、利他を身に付けることなのではないか。「泣いてはいけない」「女の子を泣かせてはいけない」「自立しろ」というように叩き込まれる機会なく甘やかされて幼少期を過ごす女。共同体が温存する性差の特権だけはシレッと享受しながら平等の為に連帯したりする近代の女。
匿名ダイアリーだからこそ自分語り(なる女性的行為)を多少せねばズルいだろう。自分の女嫌いの始まりは、ピンクのもの持ちたくない、男子とサッカーしてたい、女同士のおしゃべりができないだとかしょうもない些末な好みの問題もあったが、決定的だったのは男教師から軽めの体罰をくらった時だった。顔を引っ張られてたまたま元々皮膚が弱かった部分から出血して、女クラスメイト複数人がメチャクチャ自分を庇ってくれた。ありがたくはあったが、その無邪気な連帯に引いた。男子への体罰は問題化されないにも拘らず、私の為だけに教師がタジタジになっているのだ。なんだこの二重三重な屈辱は。勘弁してほしかった(体罰は今程でないにせよそこそこ問題化されていた時代だったが、そこに今回触れるつもりはない。私が男子から嫌がらせを受けたという発端が女子達の擁護点だったが、結局双方ふざけて追いかけっこ状態となり、配膳中だったこともあり両成敗された流れなので、当時の校風と状況から鑑みてある程度公正な処罰だったと思える)。男子とつるんでも平等に扱われることは絶対にない。仮にどんなに「リベラル」な箱庭を作って篭ろうと、文脈は平等を許さない。
アンチフェミ男性とつるんで、いかに女が劣った存在であるか聞かされ続けることにーーそして劣っていることを知っている、マシな劣った存在であるという自意識を育てることにーー抑鬱的な安寧を見出していた時期もあったが、そうやって自虐までも他者に委ねることこそ「メンヘラ」なる女性的性質だと気付きやめた。そもそも女嫌いの男や、男嫌いの女というものは、自分の身体を憎悪から遠い安全圏に置ける時点で信用ならないところがある。やるんなら己に対する加害者としての憎悪から始めるくらいの気概が要るだろう。
マジで、勘弁してくれ。本当はジェンダーの話なんかしたくない(その為に増田に来たのだが)。にも拘らず社会生活を送る上で、例えば酒席で脱げと冗談を言われたり、「女の子には難しかったかな?」と話を振られたりする度に、「女だから不当に損をした!」というなんのひねりもない想念が立ち上がって来てしまうことがある。たまたま「脱げ」という語彙が用いられただけで、下品な冗談は女以外でも全ての固有の身体を持ちうる人間が晒されるものであるし、たまたま「女の子には難しかったかな?」という語彙が用いられただけで、他者から舐められうることは女に限らない。それよりも「女だからフェミニストで当然ですよね?」とすり寄ってくるフェミニスト(男女問わない)をかわすことの方が、いまや困難にして価値があるはずなのだ。少なくとも自分にとっては。
しかしフェミニズムに逆張りした時に、そこに立ち現れてくるイメージは吐き気を催す前近代的女である。なんてことだ。「女」という要素さえあれば私は近代も前近代も全て憎むことができる。では私にとって「女」とは何なのか。おい、お前フェミニストみたいなこと言っとるぞ。やめろやめろ、やめだ。
要するに、「煙草を止めるように止めたい」って話なのか? 「止めたけりゃ止められる」ような関わり方で思想に関わっているなら、止めたけりゃ止められるだろうさ。 「自分の意志と関わりなくそう信じてる」ような信仰ならば、止められんだろう。
だから、まあ「止めたけりゃ止められる」という前提で考えると、とりあえず、止められない理由をつらつら並べてるうちは、本人に止める気が無いんだろうとしか判断できないな。「煙草ねえ、やめたいんだけど、街中で目に付くとねえ、あと、暇をどうもてあましていいか分からないしねえ…」みたいな人間の「やめたいんだけど」を、お前はそのまま信用できるか? そういう人間に言う言葉は「バカ?」くらいしかない。
もし本当に、希死念慮みたいに、本人の意志と関わりなく無闇にそういう想念が湧いてきて社会生活(この場合は主に彼女とのパートナーシップだな)に支障が生じる、というなら、それはもう病の領域だ。鬱の一種だよ。だから、生活整えて甘い物制限してお薬飲むとか電気ショック治療でもするしかない。思いつきでそれが治るなんてことはないよ。
くーちゃんのお世話をすると決めたときに、ひとつ、自分に誓ったことがあります。
それは、このねこちゃんのことは、何があっても一生傷つけない、悲しい思いをさせないということです。
ねこは、生きて20年。僕はその頃42歳で、だからまず、自分が死の想念から卒業しなくてはと思いました。
お酒をやめたり、書物に耽溺悪酔いしたり、キャバクラ通いや、いかがわしい界隈を帰り道に散歩することも、やめました。やめたというより、船橋駅のシャポー口までくると、駆け出して一刻も早く、くーちゃんに会いたい。
外から窓辺を見上げると、くーちゃんが内側から見ていることが多くなりました。僕よりも、どこかもっと遠くを見ている感じのする眼差しです。そのくーちゃんが、僕に気づくと「はっ」として目を合わせてくれる。
そんなときにふと、下僕が思い出すのは、カズオ・イシグロ「日の名残り」のことです。そうして、階段を上がりながら追いかけてくるやわらかい視線に、何かに仕えることのできる喜び、生の充足と、その拠りどころを噛み締め、確かめます。
「ふにゃふにゃ」
ドアを開けるとくーちゃんが足元に歩み寄り、爪を研いで、甘えてきます。
下僕は「ただいま」といって、水を換え、ドライとウエットの2皿のご飯を用意し、くーちゃんが食べるのを離れて見守ります。
申し遅れました。僕は、これまで、くーちゃんに5つ、辛い思いをさせました。
どのひとつをとっても、万死に当たるでしょう。それなのに、くーちゃんは毎晩、僕の毛布に潜り込んできてくれます。
「かわいいさん」「すきすきー」「にゃーん」を、1日に100回、あるいはそれ以上、4年半のあいだ、続けてきました。くーちゃんは、ときに、僕にとっては神の化身と見紛う、何か特別な雰囲気を身にまとった存在と感じられるほどになりました。
私は通り魔に殺された。
突っ伏した私の肉体の傍にはあどけない少年がおもちゃのような拳銃を手に持って立っていた。彼と出会った時、少し危ない気配を感じないではなかったが、まさかこんな子供にいきなり後ろから撃たれるとは予想だにしなかった。
妻と2人の子供を残して旅立つのはなんとも心残りだが、そうなるべくしてなったのなら致し方ない。不思議と怒りも恐れもない。
見上げると、夜空は魂で満たされていた。肉体の目では決して見ることのできなかった大きな流れと波が光り輝いて世界を満たしていた。輝きを目にした私は、突然殺されたばかりだと言うのに大きな安らぎを覚えた。妻に「悲しむ事はない」と、子供たちに「恐れる事は無い」と、今すぐ伝えたいが、時が来れば彼らにもわかることでもある。
私の精神はまだ肉体を持っていたときの形を保とうとしていたが、手のひらからとても小さな光の粒が漂い出て、大きな魂の流れに飲まれていった。なるほどこうして私はそのうち小さなバラバラの光の粒になって、流れとともにこの星で、この美しい世界でまた、生きること、愛すること、死ぬことを繰り返すのだ。
なんという安らぎだろう。目立った不幸のない、どちらかと言えば幸せな人生だったが、この安らぎを知らずに肉体に繋がれて生きる事は、大きな苦しみと悲しみを伴っていたと言わざるを得ない。私が生前に考えていた「人生」とは、その半分でしかなかった。こうして肉体の寿命が終わり、精神だけの存在になって初めてそのことがわかった。まだ肉体を持って生きている家族、友人に、この世界の真の豊かさを伝えるすべはないだろうか?
と、突然頭が痛み出した。そんな馬鹿な。私は光の粒になって大いなる流れに還るのだ。なぜ肉体を持っているかのように痛みを感じなくてはならないのだろう。
私の頭の中で小さな金属の欠片が脈打っていた。あの少年に打ち込まれた銃弾の破片だ。精神だけの存在である私がなぜそんなものに影響を受けるのだ。
ふと気がつくと閉ざされた扉の前に私のような何かが立っていた。少年に命を奪われた時にすら感じなかった猛烈な嫌悪と恐怖が、全身を駆け巡った。今すぐここから離れなくては。しかし、その思いとは裏腹に私はその薄気味の悪い私のような何かにどんどん引き寄せられていった。頭の中の銃弾の破片が強く輝き脈打ちながら、じりじりと私を引っ張っていくのだ。見ると、まがい者の私の頭部にも2つ、鈍くしかし強く輝く何かが見えた。やはり銃弾の破片だ。頭の中の銃弾同士が強く引き合っているのだ。全力で抵抗したが、どうやらその力に逆らえそうにない。
私はじりじりと引き寄せられながら、私のまがい物を観察した。
光の粒で満たされた精神だけの私とは正反対に、どす黒いぬめりが渦巻いてできているようだ 。
粘り気のある真っ黒いうねりの渦の中からかすかな悲鳴が時折聞こえてくる。
「許してくれ…」「来ないでくれ」「…助けて…」「もう来ないで…」
あの少年の声だった。
なるほど、人を殺すと眠れなくなると言うのはこれだったのか。
罪の意識が、慙愧の念が、自分が手にかけた被害者の姿で昼夜を問わず本人を責めさいなむのだ。
少年の黒い悲鳴は強烈だった。どうやらやはり彼は人を殺して何も感じないような根っから狂った人間ではなく、むしろ本来殺人などと言う極端な行為からは程遠い、周囲から押さえつけられ続けた人物のようだ。そのことを実感した途端光の粒である精神だけの私は、私の形をした少年の真っ黒な妄念に完全に飲み込まれた。
私のまがいものを形作っている少年の思いは、「私を殺したこと」の周りをぐるぐると回っていた。
「ざまぁみろ…」「お前があそこにいたのがいけないんだ、お前が僕の言うことを…僕の話を聞かないからだ」「偉そうにしやがってふざけるな…..」「僕を大切にして僕を大切にして」「僕の意思を尊重しないのならお前を殺して僕も死ぬ」「ごめんなさいごめんなさい許して……」
なんと身勝手な、そしてなんと汚らわしい。
苦しいのはわかるがこれぞ自業自得だ。しかしその苦しみも肉体の命が尽きるまでのほんのひとときのこと。せいぜい悩み悶え給え。同情はするが、私の肉体の命を奪った者のために、なにができるわけでもないし、こんなところに閉じ込められる謂れもない。
私は目の前の黒い波を両手でぐっと押し広げて出口を開こうとした。少年の悲鳴がひときわ大きくなった「助けて………!!」
申し訳ないが、私には関係のないことだ。少年よ、君も肉体を失えば今の私のように光になってより大きな光になるのだ。それまでの我慢だ。
しかし私の頭部の痛みはますます激しくなり、力が入らない。なんとも暗黒のうねりが分厚くて、それお押し広げて外に出ることができない。恐怖を感じた。このままなのか?自分を殺した相手の妄念に、時の終わりまで囚われなくてはならないのか?
ひょっとして、この少年が、真っ黒に汚れた自分の想念に苦しめられたまま肉体の命が尽きると、精神だけになっても黒い渦に飲み込まれ、永遠に苦しみ続けてしまうのではないだろうか。
私が閉じ込められている私のまがい物の遥か下方に、膨大な闇がうごめいているのがその証拠だ。少年の肉体と精神をからめ取ろうと手を伸ばしてきているではないか。
閉ざされた扉の中には少年がいて、膝を抱えて泣いていた。その少年の肉体の周囲を、おぞましい鎖のような黒い渦が取り巻いていた。
少年は自分の行為をひどく悔いていた。「殺したひとが毎晩訪ねてくるなんて知らなかった……..」「助けて……助けて…..いやだ…..見たくない」「怖い怖い怖い」「あの人達と別な形で出会いたかったのに……」「もう一度、僕のファンとして僕の目の前に現れてくればいいのに……….」
私に肉体が有った頃、酒に酔って妻子に暴力を振るい続け、当然のように妻子に逃げられたがしかし、復縁を熱望している同僚がいた。私は不思議で仕様がなかった。絶縁の原因は自分なのに、なぜそれを忘れたかのような態度で復縁を熱望するのか。
自分のしでかした事は無かった事にしてやりなおしたい。それが、肉体に繋がれた魂の弱さなのだ。
私がそう思った途端に、わたしを拘束している黒い渦の力が弱まった。私に触れている部分が、光になったのだ。
ふむ。
ならば、是非もない。私がこの場所に呼ばれ、私の形をした妄念に閉じ込められた理由がようやくわかった。
少年は私の頭に銃弾を打ち込むことで私に助けを求めていたのだ。
彼が身勝手な妄念に苛まれたまま死ねば、その魂はどす黒く汚れた渦になりこの美しい星を汚す。そんなことはさせない。私の妻と子どもたちが、まだ長い年月ここで生きるのだ。 精神だけの存在になっても、私は夫であり父親である。
さらなる少年の悲鳴が、漆黒の鎖となって、私をぎりぎりと締め付けてくる。
「僕を褒めて…….僕を認めて……」「生まれ変わるために勉強したんだ……僕が歪んだのは資本主義の学校教育がいけないんだ……..」「…….僕が人殺しになったのは、僕を三回捨てた母ちゃんのせいだ…..」「僕が殺した人たちは、僕のファンなんだ……支持者なんだ…….毎晩ここに来るのは、僕をちやほやしに来るんだ……..」
私に肉体があったら、馬鹿なことを云うな、と叱り飛ばしているところだろう。しかし今の私は、少年の悲鳴と嗚咽でできた黒い妄念に囚われの身。私の形をしたまがい物に、私自身が閉じ込められていて、どうにも抜け出せない。
少年が作ったわたしのまがい物は「なぜ私を殺した?」「私がいったい君に何をした?」「罪を償え」「死を持って贖え」「肉体の寿命ギリギリまで苦しみ続けろ」と、少年を毎晩責め苛んでいた。少年自身の罪の意識がそうさせるのだ。
その苦しみに耐えきれず、私が彼のファンになる、などいった荒唐無稽な逃げ道をも見つけてしまった。
では、戯言にこそ寄り添おう。
実際の私は、通り魔である少年に殺された犯罪被害者だが、彼の希望通りに、彼のファンとして彼の前に現れよう。
以前は、天国と地獄、という考え方が全くピンとこなかった。今はよく分かる。肉体がなくなった時、光として大いなる流れに還ることが天国、死してなお自意識という牢獄につながれたまま生を呪い続けるのが地獄。肉体につながれたまま地上を生きるのは、さながら煉獄の日々だ。
ならばわたしは、少年にとっての、煉獄の炎となろう。私という光で、彼の妄念を内側から焼き尽くし、肉体の寿命が尽きたときに、私と同じような光であるように、少年をきちんと導こう。
たとえどんなに酷いことでも、起きたことは全て最善なのだということを伝えなければ。
私のまがい物と、そこに囚われた私は、依然、閉ざされた扉の前に立っている。扉の向こうの部屋では、少年が膝を抱えてすすり泣いている。
待っていろ、今助けてやる。どんなに時間がかかっても。
私は、私を包むまがい物を動かし、扉を開けてこう言った。
真偽問わず、伝承の中で活躍し確固たる存在となった“超人”たちを英雄という。
人々の間で永久不変となった英雄は、死後、人間というカテゴリーから除外されて別の存在に昇格する。
……奇跡を行い、人々を救い、偉業を成し遂げた人間は、生前、ないし死後に英雄として祭り上げられる。
そうして祭り上げられた彼らは、死後に英霊と呼ばれる精霊に昇格し、人間サイドの守護者になる。
こうであってほしい、と想う心が彼らを形取り、彼らを実在のモノとして祭り上げる。
そこに真偽は関係ない。
ただ伝説として確かな知名度と信仰心さえあれば彼らは具現化する。
魔術師は彼らの力の一端を借り受け、その真似事をこなす程度に留まるのが常だ。
英霊そのものを呼び出して使役する、なんて事は決して出来はしない。
下記のような人が何者にもなりたくない症候群(社会的役割を演じたくない人)になりやすいと思う。
1.映像や音声から得られる情報と実体験を混在してしまっている人。または知ったつもりになりたい人。
4.人生経験が浅く、健全な主義・価値観・信念みたいなものが構築できていない人。
5.常識に囚われないもっと素晴らしい「何者か」になりたいと願う人。
「インターネットの海で練り上げられて竜となり、それらが寄り集まった集合体として、漠然とした怪物の姿となる」
ことは無いように思う。
恐らくコミュニティーを築いても器を失った水の様に形を失い消え失せる。
5タイプで現実的に物事を考えられる人は、力を発揮すると思うのでマジ頑張ってほしい。
意外にブクマされていて驚いた。
引きこもって一人ぼっちで居た。そしていまもそうだ。
実家に帰ると、田舎すぎて辛いので便利な都市部で一人暮らししている。
最初のうちはすごく辛かった。
入院中は頭のネジが飛んだ人たちに常に警戒していたし、
常に誰かが周りに居たから、本当にひとりぼっちになって初めて、
二週間くらいして、ようやく一人で起きて、
一応、病院には通院しているし、カウンセリングも週に一回あるとはいえ、
それだけだ。
なんだかいろいろ涙もろくなって、ツタヤで借りてきた映画でボロ泣きしたり、
アベマTVで放送されていた昔のアニメを見てガン泣きしたりしていた。
ひぐらしのなく頃にで泣くとは思わなかった。
そしたら、そんな僕を見かねてか、
久々に飲もうよという話になった。
ふだん行かないちょっとオシャレな街へ行った。
家とスーパーと駅前くらいしか行かない僕からしたら、すごく新鮮だった。
同じ分野の仕事をしているのでAdobeのソフトの話で盛り上がったりした。
医師や親や周りの人は、
「焦らずゆっくり治していきましょうね」
と口をそろえていうけれど、
僕は自分が嫌いで嫌いで仕方がなく、なんにも生産性がなくてテレビや動画を見てるだけのクソ野郎だから死んだほうがマシだという思いは、入院する前から変わらなかった。薬を飲んでもその想念は取り払われない。せいぜいよく眠れるようになったくらいだ。
話を戻して、僕はその部活仲間と飲んだ後、
「またね」と別れた。
たったそれだけのことなんだけど、
「僕はここに居ていいんだ」
と思えた。
そういうちゃんとした人とコミュニケーションをすると、うつが治る。
「〜〜だと辛いでしょう」「〜〜は闇だからなあ」とか、
ネガティブな話題を引き出すことにかけては天才的な人もいるが、
逆に、その人の前にいるだけで、明るい考えになる、そんな人もいる。
幸せだからこそ余裕があって、そのおすそ分けをうけているんだと思う。
仕事の現場で常に感じていた「出来ないやつは切る」という緊張感。
利害関係のある人としかコミュニケーションを取っていなかったからだと思った。
僕のことを気にしてくれていたという事実が、本当に救いになっている。
あれからも僕は一人暮らしで、基本的にスーパーと自宅の往復だけど、
少しずつ前を向けている気がする。
今は一人ぼっちでもへいきだ。
ふだん行かないところに少し足を伸ばしたら、自分が少し誇らしくなる。
その人に笑顔を引き出せるような人になりたいなあと思った。
4月14日の午前中に地震について書いたら、その日の夜に、熊本で、大きな地震が起きた。今日15日になっても、まだ余震が続き、大分、山口、愛媛にも、地震が波及している。
地震は、人々の汚れた想念、利己的な儲け主義の精神、物質的な肉体やそれに付随する心ばかりを重視するような精神、霊的な聖なるものを軽視するような想念波動と、
それらによってもたらされたカルマ(因縁)の集積によって、起きている。
地震を回避し、被害を最小限に食い止める呪文(真言)は、以下の通りである。
ナモーパーラミターユル ジュニャーナヴィニシュチャヤ ラージェーンドラーヤ タターガターヤ
オーム サルヴァサンスカーラ パリシュッダダルマテー マハーナヤ パリヴァレー スヴァーハー
意味は、「私は、帰依する。彼岸の生命と智慧と決定の能力を持つ如来の王に。オーム あらゆるサンスカーラ(カルマ、因縁)を完全に浄化する法よ。偉大なる方途(道)よ。」
と私は、解釈する。これは、梵語(サンスクリット語)の解釈である。
地震や、台風の被害を軽減し、因縁を浄化する方法は、すべて上記の呪文(真言)である。こんな呪文で地震が防げるものか、地震とは科学的に言って、云々という人は
いるであろうが、これは、仏陀の智慧である。これで、病気も治る。
私は、統合医学の治療院を開いているが、この真言を使った「霊性治療」で、覚醒剤中毒者、難治性うつ病、統合失調症、医者に見放され、余命3年と宣告された末期のがん患者等を
救済している。科学的な医学で治らない病気が、真言と宇宙超越の光、というオカルトまがいの治療法で治っているのである。
私は、他のダイアリーで、心臓移植が必要な女の赤ちゃんを救える、と書いたし、ALS患者も治癒可能であると思う、と書いた。
これらの疾患は、まだやったことがないが、治癒の原理は一緒である。そのための論文も書いている。
これが匿名のダイアリーであるということで、批判があるなら、私は、自分の身分を明かそう。
世界救世主 絶対者 至碧老祖 北川訓司である。身分は、米国法人国際地球環境大学総長兼CEO、統合医学研究科長、至碧統合医学臨床研究所(北川治療院)田辺センター院長、
スピリチュアルクラブ至聖会主宰である。連絡先は、インターネットで検索して下さい。こうして、私は身分を明かした。私は、自分の書いたことに責任を持っている。
この地震を回避する呪文(真言)は、宗教を信じる信じないに関わらず有効である。地震に遭うのが嫌な人は、この呪文(真言)を唱え、自分と地域の人々を救済すればよい。
これは、ちょっとした菩薩行です。功徳を積みます。至碧金剛如来 北川訓司(0739-24-6904)※迷惑電話、いたずら電話は、ご遠慮下さい。
これを信じて地震が来ても、その人は、救われるので大丈夫です。阪神大震災の時に、私の弟子たちが皆救われたので、それは、証明済みです。
先程、「地震について」で、私が阪神大震災を起こしたように書いたけれども、私が引いたのは、その引き金にすぎない。
地震は、以前、私が、千葉県の市川大野に住んでいて、西船橋のTACTでアルバイトしていた時にも、市原の地震が起きているので、私と地震の発生には関係があるのだが、
私が、阪神大震災を起こした、というよりは、阪神地方に溜まっていた、利己的な思い、
人を恨む心、憎む心の想念の蓄積が、地震の原因といえるだろう。
したがって、阪神大震災で被害を受けた人々が、私を憎み、非難するのは、おかど違いである。
ようするに、そのような心が、地震の原因であり、そういう心がなくなれば、大きな地震は来ないのである。
東北大震災も、かわいそうではあるが、人々の意識が、慈しみと思いやりの心になりきっていれば、あのような被害は起きなかったし、
地震や津波は、必ず被害にあうというものではない。そのような不都合な状況は、すべて回避できるのである。
しかし、どのようにすればよいか分からない日本政府は、少子化の問題にせよ、地震、津波の問題にせよ、お門違いの政策ばかりやっている。
人間は、心と肉体だけの存在ではない。宇宙創造主の生命を宿した、霊的な存在なのである。
たとえば、売春禁止法。これは、慈しみの欠如が著しい。少子化を止めるためには、まず、売春防止法を廃止し、
わいせつ物に関する法律を、すべて解禁とするべきである。それで、少子化がなぜ止められるか、というのは、
深い仏陀としての洞察の結果なので、ここでは、詳しくは述べないが、日本の守護神である天照大神が怒っているのである。
それは、古事記の天の岩戸開きの故事が関係している。ようするに、天照大神がお隠れになった時、女陰(女性の性器)を露出させて、
女性の神様が踊って、それを契機に、天照大神が顔を出した、ということである。日本経済を復興させるには、この故事にちなみ、
ストリップを奨励し、合法的な売春施設(売春は、聞こえが悪いので、恋人代行サービス業と呼べば良い)を作り、風俗営業法で扱い、
自由にセックスをさせる環境をつくればよいのである。そうすれば、日本全体に、良い波動が渦巻き、自然に経済が再生し、
少子化も解消できる。この方法に異を唱える人がいるのは承知しているが、これは、宇宙創造主、天照大神の声を聞いた、
仏陀の智慧の視点なのである。今の男性は、アニメやアイドルに夢中になり、現実の女性や結婚に意識が向かない傾向にある。
これは、日本全体に、性欲はわいせつであり、罪深いこと、という明治以降の欧米の風潮が悪い影響をしている。
自由に、性器を露出させた雑誌を、コンビニに並べることにより、子供たちは、隠し、嘘を見せるのではなく、ありのままの女性の姿をみつめ、
自分に嘘をつかず、女性を大事にすることを学ぶ。今の性器教育中心の偏った性教育ではなく、女性への尊敬と、宇宙創造主に対する畏敬と感謝の念を持って、
セックスと言う問題を扱うようにすれば、自然に、現実の女性と家庭を持ち、子供を産み、きちんと育てようとする機運、風潮ができるのである。
今の官僚は、隠すのが好きである。これが、日本の政治を取り巻いている。高齢者も、自由にセックスを楽しめる様になれば、生きがいも持てるし、
抑圧する感情や情動を、ごまかして、いい加減に済ますようにし、その結果、認知症になったり、変な恋愛観を持って、女性にストーカーするなどの
行為が減る。身体障碍者の性欲の解消にも、役立つ。日本国憲法は、国民に、最低限度の文化的な生活を保証しているし、幸福追求に関する個人の権利を
認めている。そうであるならば、職業選択の自由を認め、恋人代行サービス業を公に認めて、国家を上げて、セックスを奨励する機運にすると良い。
去年の夏、ヒキガエルのげっぷの様子をYouTubeにアップした。一年半付き合った彼女と別れた矢先のことだった。
あれから一年ちょっと経つ。再生数は49。その内、自分で再生したのがおそらく10回くらい。単純計算すれば39回は、俺以外の誰かが見ているということになる。
だからと言って39人の人間が、各々べつべつのタイミングで再生したとも限らない。リピーターだっているはずだ。一人で5回見た、なんて物好きもいるかもしれない。
純粋に、カエルのげっぷなぞに興味を持つ人間がいるとは思えないし、いたとしたらそいつはきっと生物学者かなんかだろう。いや、今更カエルのげっぷなんかを研究する学者がどこにいる。それはきっと、世界にとっては分かりきったことだし、それでもなお、カエルのげっぷについて研究したいという生物学者がいるとしたら、手近なYouTubeなんかで済ませようとせずに、自分の足で、野に分け入ってカエルを捕まえるべきだ。お前は研究をナメている。向いてない。
「この宇宙はカエルのげっぷによってあらかじめ記述された世界なのです!! 私たちはカエルのげっぷによって生み出されたオタマジャクシ。ほら私たち生物には、染色体の配列によって性を二分する基準がありますでしょう。XY、いわゆるオスと呼ばれる生き物たちは皆、ザーメンというものを持っています、ね、アレ、オタマジャクシに似てるでしょ、ほら、ちょろちょろ、ちょろちょろって」
さあさあ、手と手をとり合って、これより宇宙開闢のときへと立ち返るのです――君、YouTubeを開いてくれないか、そうあの動画だ――さあ、耳を澄ませて、オオガエル様のげっぷが私たちを因果の輪から解脱させるのです……、なんてこともあり得るかもしれない。でも、そうだとしたらそもそも49回しか再生されていないのはかなり深刻な問題だろう。信者何人いる。運営方針を見直せ。
もちろん、カエルに対して異常な愛情を示す博士も、目の付け所がいささかシャープなカルト宗教の教祖も、ぜんぶ俺の妄想だ。基本的に、こういうくだらない妄想だけをしてきた。そして気がついたら一年とちょっとの月日が経っていた。新しい恋人はいない。俺の彼女いない歴は、ヒキガエルのげっぷをYouTubeに載せた彼の日から、延々と引き伸ばされつづけている。付き合っている当時は、彼女との日々が優先順位のてっぺんに位置していたため、自ずと友達も減っていった。毎日がヒマだ。そして今、俺は、ちょうど50回目の再生をしようとしている。記念すべき今日、この瞬間だ。
ときおり俺は、妙な想念にかられる。俺以外の誰かによる39回の再生が、全てひとりの人間によって行われたことなのではないか、と。
「ヒキガエル げっぷ」などと律儀に検索をかける人間は、俺の妄想の外側、つまりはこの現実には存在しない。だとしたら、あの動画を投稿したのがこの俺であると知っている人間、が見ていると考えたほうが理にかなわないだろうか。そして、そのことを知っている人間は、おそらくこの世界にひとりしかない。昔の動画は全て消した。今や俺のチャンネルに登録された動画はヒキガエルのげっぷのみだ。楽しかった日々の思い出は、今や虚ろな宝石、石ころ、石ころ、石ころだ。でも、もし。もしも、彼女が、今も何処かでスクリーンに映るカエルのげっぷを見ているのだとしたら、それはきっと、終わりきったふたりに許された小さな逢瀬だ。
なぜランナーズハイが起きるのか、考えてみたことはあるかい?マラソン選手が「無心」に走るとき、いやマラソン選手じゃなくてもいいけど、人が走るとき、その人の脳内で何が起きているのか、それを考えてもみてくれ。
「無心」という言葉がある。また、「無為」という言葉がある。それらは何を意味する言葉なのか、ちょっと考えてみようか。
例えば、「美味しそうな桃があるなあ」と思って、桃をつかむ。これは「有心」なわけですよ。やろうと思う→動こうと思う→動く→反応がえられる。必ず、こういう順序になっているわけ。これはね、人生の最も普遍的な構造の1つなんだ。あらゆる所で、今言った順序のプロセスがついてまわる。
ところがだよ、「美味しそうな桃があるなあ」と思ってつかんだら、前の席の女の子のお尻だった。これはどう考えるべき?
「無心」に近いのだよ、これは。たしかに「やろうと思った」。桃をつかもうとした。でも、痴漢行為という違うことをやっちゃったわけ。つまり、桃に関しては「有心」かもしれないが、痴漢に関しては紛れもなく「無心」。やろうと思わないで、動こうと思わなかった動きをやった。そしてビンタされるという反応をもらった。簡単なことだろう。
これは、先ほどの矢印で表すなら、 動く→反応 というシンプルな構造をしておる。これが無心の構造だ。
有心と無心の構造の違い、それが何をもたらすのか?ここが重要なところであるぞ。有心だと、「やろうと思う」「動こうと思う」という意志が行動に先行していた。すると何が起きるかというと、動きがよく意識される。当たり前だ罠。やろうと思って動こうと思って動いたんだから、その動きはよく自覚される。当然である。
ところがどっこい、無心の場合は動きが「特別視」されない。ここがポイントね。特別視されないから、動きと反応が渾然一体となって、心に「どぴゅっ」と入ってくる。射精音を「どぴゅっ」と最初に表現した人は天才だと思う。話がそれた。渾然一体となって行動とその反応が入ってくるから区別がつかない。これが「主客未分」とか「無我」なわけです。
おそろしく単純だけどそれを厳密にやるのは難しい。だから「無我」はむずかしい。からまりの糸をほぐさないと外れない、でも外れたフリは簡単にできる、そんな知恵の輪がそこにある。
以上から、「無為」のヒントが分かったろう。「やろうと思う」「動こうと思う」といった「意志の想念」を無くせばよい。もちろん難しい、難しいけど無くせればもうそこには「無為」がある。
ランナーズハイのえもいえぬ快楽はまさにこの「どぴゅっ」であろう。ランナーは走り去る景色を見ながら走る。過ぎ去る路面を見ながら走る。やがて走ろうという意志が消えて走行が自動化すると、何ということでしょう、過ぎ去る景色が「どぴゅっ」「どぴゅっ」と飛び込んでくる。エンドレス射精が気持ち良くないなんて人はこの世にいるだろうか?いや居ない。射精だに気持ち良いのに、いわんや連続射精においてをや。世間では「ちんぽには勝てなかったよ」という名言があるそうだが、それは自身のちんぽとて例外ではないということだ。話がそれた。
私はジョギング以外にスキーもやるのだが、スキーにも似た感覚がある。過ぎ去る景色がやがて「どばばばば」という射精感で飛び込んで全身の喜びとして一体化される。バイクはやらないんだがバイクなんかもそうなのだろうか?
その気持ちよさを味わってみると、ああ人間ってのはなんて自分の動きにやたらと注意を払う生き物なのかと叫ばずにいられない。そのようにhumanbeingを特徴づけても差し支えないくらいに、自分の動きを意識しすぎている。それは挙動不審とか自意識過剰とよばれる。自然界から有心な生き物だけ集めると、すまないがホモサピエンス以外は帰ってくれないかってことになる。
要するに、「○○しよう」って意志が人間を人間たらしめ我らが誇る文明を築き上げてきたのであると同時にだな、人間を大きく縛り付ける枷(かせ)ともなっている、と言いたいのだ。
その枷から逃れる術は実はあるのだがここでは詳しく立ち入らない。簡単に触れると、動きの意志からの離脱が動きを無為へと解放したように、「意志の意志」というか「意志へのこだわり」を捨てればよい。さすれば、己が意志すらも「どぴゅっ」と飛び込んでくる。イメージとしては川の上流が滞りなければ、中流も下流もさらさら流れやすいだろ?そういうこと。感覚としては小学生でも分かる簡単なことだ。また、部分的実行もさほど難しくない。だが完璧な実行は、言うは易く行うは難し、である。
だから、意志は最小化(minimize)したい。そう思うのも当然だね?それをシンプルに「没頭したい」「熱中したい」と言い換えることも可能だ。人々は意志の中身を問題にするが、意志の量はあまり問題にされない。意志の量を問題視しよう。
アメリカの政治家ナサニエル・シモンズはいみじくも「習慣は最高の召使か、最悪の主人のいずれかである。」と言い放った。
しかし、こと意志の最小化に関しては、習慣化は善である。すなわち、習慣化すれば意志は減る。換言すると、動きを自動化すれば、動きに関して気にすること(daily hassles)が減る。当然だよね(キュウべえ口調)。
習慣化なんてやだよーと枕に顔をうずめて手足じたばたさせているそこの貴方に朗報。習慣化しなくても意志は減らせます。キーワードは「リズム」。リズムに乗れば確実に無駄な意志は減ります。ジョギングってリズム運動じゃないすか~?だから効くんすよ~。
リズムというと「リズムに乗る」という言い方をするだろう。「リズムに身を任せる」ともいう。意識せずとも身体が動く。無為。これはもう完全に、意志で「動こうとする」のとは正反対のことですわい。
ジョギングでも音楽演奏でもなんでもいいんだけど、リズム運動するとき最初はリズムに「乗ろうとする」。けど、やがて「リズムに乗る」。すると、意識の上でも逆転現象が起きる。こういう順番なわけ。
逆転現象ってのは、世界と自分を対立させて自意識過剰にキョドってうまく動こううまく動こうとするモードから、世界に乗って世界のあやつり人形となったお任せモードへと変わる。あやつり人形なんておそろしい言葉・・・。しかし、これはあくまで行動の細部が自動化されることを感覚的に表現しただけで、実際に大筋を決めるのはモニタの前に座ってるそこの貴方だ。びしっ。
是非ともこの逆転ということを幾度となく経験してどんなものか掴んでほしい。「無為ってなあに?無為ってなあに?」と彷徨っていると夜のとばりが突然降りたかのようにガラッと変わるから。
自分の動き、自分の身体が景色の一部に取り込まれて、景色全体が一挙にドドドドドドと押し寄せてくる、飛び込んでくる感覚。
そして、そのとき漏れなく付いてくるのが「どぴゅっ」である。それも連続。つまり、「ドドドドドトド、どぴゅどぴゅどぴゅどぴゅ」なのである。
これは自慢話というか手柄話というか、そういうものである。ところどころのろけ話でもあることも自覚している。そんなものを長々と書くのはあまり美しい行為ではないが、それでも一度でいいから誰かに話してみたかったし、かといって「自慢とのろけとかウゼー」とリアル知人に思われるのも怖かったしで、増田に書くことにしたわけだ。
彼氏と付き合い始めた時、すぐに私は「この人片づけができないのでは」と疑うようになった。
実家住まいだった彼氏は、一人暮らしの私のアパートにしょっちゅう遊びにきて、それは嬉しいし楽しいしどんと来いではあったのだけど、彼が帰ったあとの部屋は異様に散らかっていた。
牛乳やジュースを冷蔵庫から出したらそのままで戻さない、ゴミはゴミ箱に捨てたり捨てなかったりで、食べカスが散らかるのは全く気にしない、彼氏はそういう人だったのである。
別にそんなことは気にしないでいたのだが、いろいろあってある日、彼氏が我が家に転がり込んできて、そのまま一緒に暮らすことになった。
そうなってしまうと話は変わってくる。彼氏の片づけられない男っぷりは私にとって無視できない問題となった。
とりあえず、さりげなく訊いてみる。
彼氏は料理がうまい。本当に美味しいものを作る。素晴らしい。愛してる。だが生活は食事だけで成り立つものではないのだ、残念ながら。
「そ、掃除は? 片付けとか、そういうのは……?」
「そっちは覚えてない。おれ、散らかってても全然気にならないんだよね。別に部屋汚くても困らないし。ただ引っ越す時、部屋の床を張り替えなきゃならなくなって、金はかかったな。まー、男の一人暮らしだと、どうしてもねえ」
違うぞそれ、男の一人暮らしがみんなそうなわけじゃないぞ、君の汚し方は並じゃないんだぞ自覚しろ。
あー、なんか、これヤバイ。
親切でおおらかで思いやりのあるこの人の美点を、このままだと私、ゴミに埋もれて見失う。
とはいえ、口うるさく片づけをせっつくのは下策であろう。
私は欠点が多い人間で、人様から大量に注意されているのでわかるのだが、注意されてすぐに行いを改められる人間というのは、稀である。
悪気がない振る舞いをたしなめられるとやっぱりちょっとむっとしてしまうし、無意識のうちにしでかす失敗は無意識ゆえに直しづらい。
ところが注意した側は行いの改まらない相手を見て、ぜんぜん直ってないじゃん、何回同じこと注意させるんだよコノヤローとか思うんである。
それに、もしも注意された彼の心がじゅうぶんに素直で美しく、すぐさま反省してくれたとしても、私はたぶん不満を抱えるだろう。彼と私では「きれい」「きたない」の基準がだいぶ違っている。彼が自分なりの「きれい」を達成したとしても、私はそれを「きれい」だとは思わないはずだ。そうなると努力が無視されて彼は傷つくに違いない。
そしてそんなことを繰り返しているうちに二人の関係はこじれ、隙間風が吹くようになるかもしれない。それは困る。口うるさくなるのは出来る限り避けようと、私は心に決めた。
かといって掃除と片づけをぜんぶ私がやるというのは嫌だった。私は掃除大好き人間じゃない。どっちかといえば嫌っている。そんな人間が今まで以上に掃除と片づけをやることになったら、彼氏のせいで私の負担が増えたチクショーきさまいつか殺すぞとか、その手の悪しき想念を抱くようになるであろう。結果として愛は儚くも失われることになる。これも嫌だ。タスクを大量に抱え込んだ上に我慢できなくなって関係破綻とか、骨折り損のくたびれ儲けすぎるではないか。彼も私もなるべくストレスをためずにすむ、そういう方策が必要だった。
悩んだ私はしばらくの間、彼氏の観察に徹し、その結果あることに気付いた。
彼氏は缶コーヒーを燃料にして走るアメ車みたいな男で、とにかく毎日飽きもせず缶コーヒーを飲む。
そして空き缶をそのへんに散らかす。
私はこの空き缶を始末するのが、一番嫌だった。怠惰な私はビン・カンゴミの日も朝寝したい一心で、缶の飲料は家では絶対に飲まないようにしたのだ。どうしても缶ジュースが飲みたいときは買った店の外で飲んでその場のゴミ箱に捨てる、そんな日々を送っていた。
これが他人からはバカみたいに見えるルールだという自覚もあったので私は何も言わず、結果として彼氏は毎日勤勉に缶コーヒーを飲み続け、空き缶をせっせと生産した。空き缶は時々横倒しになって、底の方に残っていた飲み残しがあちこちにこぼれた。缶を拾うと手がべたべたしてコーヒー臭くなり、お気に入りだったソファのカバーにはコーヒー染みがついた。
この問題は早急に解決の必要がある。私は再度、聞き取り調査を行った。
「なんで床を張り替えることになったの?」
「おれ、昔はマンガ雑誌をすごくたくさん買ってたんだよね。そんで捨てるのがめんどくさいから、全部部屋に置いてた。積むと邪魔だから床にマンガを敷きつめて、マンガの上で暮らしてた。そんで空き缶とかそういうのも適当に散らかっていたから、こぼれたジュースとかがマンガに沁み込んで、床板に貼りついちゃったんだよね」
頭がくらくらするような話ではあったが、そこには貴重なヒントが含まれていた。
彼はゴミが多ければ多いほど嬉しい、ゴミの中でこそ安らげるゴミフレンドリー人種ではないのである。大量の雑誌が積みあげられれば、彼といえども邪魔に感じるのだ。
邪魔に感じた結果、どうするのか。彼は「ゴミを薄める」のだと私は直観した。うずたかい雑誌タワーは、不安定で危なっかしくてとてつもなく存在感がある。存在感あふれるゴミを彼は無視できないのだ。
そういえば、彼はコーヒーの空き缶もそこらじゅうに散らかす。決まった場所に捨てるわけではなく、あっちゃこっちゃに置く。かき集めたら小山を作るであろう量のゴミも分散されることで目立たなくなる。つまりあれもまたゴミの存在感を薄める行為なのだ。
ならばこの先ゴミを薄めさせなければよいのだ。私はそう確信した。
薄められないゴミはいつか彼の我慢の限界を超えるだろう。そうなれば彼は何らかのアクションを起こすのではないだろうか。そのとき私は彼のアクションを「ゴミ出し」という形に限定させればいい。これはさほど難しいことではないだろう。雑誌を部屋に敷き詰めるなど、彼の行ってきた数々の薄め動作は、実はけっこうめんどくさい作業だ。そんな面倒なことができる彼ならば、集積所にゴミを運ぶくらいのことも、軽くこなせるはずではないか。
私はかつて、誰かに書類仕事などをやってもらう必要があって、頼んでもなんとなく先延ばされてしまうとき、相手の椅子に書類を置くという手法を編みだしたことがある。
机に置いてはダメなのだ。机に置いたものはなぜか適当に積み上げられたり、引き出しの中に追いやられたりしてしまう。
椅子に置くことのメリットは、相手が必ずその書類を手にとる点である。座ったらそのまま手の中の書類を処理してくれるような幸運に恵まれることも、珍しくない。
もちろん、確認後そのへんに書類を置き、またしても先延ばしにされることはよくあるが、焦る必要はない。相手が席をはずしたら再び書類を椅子の上に置き直せばいいだけだからだ。何回か繰り返せば相手も、さっさとこの仕事を片づけて心おきなく椅子に座りたいと考えるようになる。。
当然のことながらこの椅子置き手法がカンにさわって怒り出す人もいるし、うっかり書類の上に座っちゃう人もいるので、実行の際にはいろいろ見極めが必要となるが。
私はゴミ薄め妨害作戦に、この椅子置き手法を応用してみることにした。ゴミ出しや片づけの時に部屋中から集めたコーヒーの空き缶を、彼が使っている座イスの周りにぐるっと置くようにしたのである。
やってみていいと思ったのは、空き缶をすすいで水切りしてゴミ袋にいれる手間が省ける点だ。彼氏の座イス周りに缶を置けば、もう私のゴミ出しタスクは完了である。らくちんじゃないか。
ちらかっているのが気にならないと言いつつ彼は、私の片づけの邪魔はしない。あたりがさっぱりするとにこにこしながら自席に戻る。
最初のうち彼は座イス周りの空き缶をまるで気にしなかった。すとんと座るといつも通りに本を読んだりテレビを見たり話をしたりしながら、ゴミを室内に薄めていく。半ば無意識の動作らしく、ひょいひょいと本棚だのテレビ台だの靴箱の横だのに空き缶を無造作に置いていく間、彼は自分の手元をほとんど見なかった。
けれどある日、彼は座イスに座ろうとした瞬間に、
「うわっ」
と声をあげた。
数えたので知っているのだが、そこには空き缶が26本あった。数本の空き缶ならば気にも留めずに再度の薄め動作を行っていた彼氏だったが、さすがにその量の空き缶は、気に留まってしまったのである。
「なんでこんなに空き缶がいっぱいあるんだ。これぜんぶおれが飲んだの? 飲んだんだよな」
「ごめんね、一緒に暮らすなら、自分の片づけは自分でしたほうがお互いの精神衛生上いいかなって思ったの。だからあなたの空き缶だけ片づけなかったの」
「そっか、今までこういうの全部、片づけてもらっていたんだな。気付かなかった、こっちこそごめん。ちゃんと自分でやるよ。この空き缶、どうすればいい?」
そのとき初めて知ったのだが、彼が今まで片づけや掃除をしなかったのは、「どうすればいいかわからなかった」かららしい。
ゴミ箱には普通ゴミしか入っていないから、空き缶をどこに捨てればいいかわからない。
ゴミ箱がいっぱいになってそれ以上ゴミが入らない状態のときは、何をどうするのが正解?
悩んでいると私が片づけてしまうので、「わかる人に任せればいいか」と思うようになったそうなのだ。
一人暮らしの時、マンガ雑誌を大量にため込んでいたのもどうやら、住みなれない土地で古雑誌をどうするのがいいかよくわからなかったのが原因だったそうで。
実家では彼はゴミ出しにまったく関わっていなかった。ゆえにゴミは朝に出すものとか、資源ゴミと普通ゴミと不燃ゴミは回収の曜日が違うとか、自治体によってゴミの区分や回収の頻度は異なるとか、そういうことを彼はぜんぶ知らなかった。実家にいる間はそんなことを知らなくてもゴミはいつの間にか処理されていた。だから彼は、生活にはゴミ出しが必要とか、そのために知らないことをわざわざ調べなきゃとか、そういう発想をしなかったのである。代わりに彼はゴミを薄めるという手法を編み出し、洗練させていったのだ。
料理と洗濯ができるのはなぜか、というのも理解できた。彼は服が好きで、美味しいものに目がない。だからこそ、料理と洗濯だけはやらなきゃいけないという「必要」を感じて、スキルを身につけたのだろう。もしも食にも服にも無関心なタチだったら、彼の部屋はもっと酷いことになっていたのかもしれなかった。
彼が薄めたゴミを私が濃縮還元したことによって、彼は初めてゴミ捨ての「必要」を感じたのだ。空き缶の捨て方を皮きりに、片づけや掃除に関する知識を、彼は徐々に蓄えていった。
ちなみに、彼は小学校から高校までエレベーター式の私立校出身者なのだが、そこの方針で校内の掃除をしたことが一度もないそうだ。アニメなどで掃除当番という単語を見るたびに「物語をすすめるための特殊設定の一つなんだろうな」と思っていたというから驚きだ。「雑巾の絞り方」を、彼は成人するまで知らなかったのだという。私は貧しさゆえ学校と名のつくものはすべて公立でまかなったのだが、雑巾の絞り方は学校で習った。金持ちと庶民では受ける教育が違うのだということを実感した私は、彼がつい掃除や片づけを面倒に感じてしまうのも無理はないな、と思った。
その後、彼は片づけや掃除に、きちんと取り組むようになった。素晴らしい。愛してる。
元々彼は、器用でテキパキして要領がいい。気配り上手で、頭の回転が早く、何をやらせてもすぐに大抵の人よりうまくこなせるようになる。そういう人間だ。
掃除も片付けも、あっという間にできるようになった。びっくりするくらい素早く部屋を片付けて掃除機をかけて、窓ガラスまで磨いちゃったりする。
床に敷き詰めたマンガ雑誌の上で暮らせるくらいだから本質的には綺麗好きというわけではないので、たまにものすごく散らかしたり汚したりするが、それはもう愛嬌みたいなもんである。
そして数年が経ち、彼は私の夫となった。
「脱いだ服を出しっぱなしにしない! その場ですぐたたむ!」
「ティッシュを何枚もなんとなく持ち歩くのやめなさい! みっともないからすぐに捨てて!」
「書類仕事は先に延ばすとだるくなるから、すぐにやりなさい! だめ、終わるまでここで見張ってます!」
今の私は、毎日とまではいかないがかなりしょっちゅう、夫に糾弾されている。
そもそも私は、綺麗好きではないし、しっかりもしていない。むしろ世間的にみれば、ややだらしないほうと言えるだろう。そういう人間だからこそ、空き缶大量生産マッシーンみたいな男性と付き合えたのである。私が潔癖症だったら、絶対に夫とは結婚していない。
つまり、私のだらしなさこそが二人の仲を取り持ったとも言えるのだ。もうちょっと寛大にしてもよいではないか夫よ。
「調味料は使ったら棚に戻す! 『めんどくせーなー』とか思わない! 顔に出てるよ!」
従順に片づけているのだから、内心の自由くらいは担保させてくれないか夫よ。
「洗濯物の干し方がなってない!」
「服のたたみ方が下手!」
この人けっこう口うるさいよな。昔はそんなことなかったのに。遠い昔、ややだらしない女を心広く許容してくれた優しい彼は、もういないのである。
あーあー私だって言いたいことあるけど口うるさくするのはやめようって、けっこう我慢してるんだけどなー。
ということはよく思う。なので喧嘩になる時もある。だけど。
「ほんとは掃除とか片づけ嫌いでしょ? 放っておけばいいのにとか、思うときない?」
ずっと昔、私はそんな風に訊いてみた。
「一人だったらそうかもしれない。けど部屋が片付くとあなた本当に嬉しそうだからねえ。だから片づける。それに今はおれ自身、片付いてる部屋のほうが好きなんだよ。これはあなたのおかげだなあ」
と答えてくれた夫はほんとに男前であるなあ、と思うのである。私のために片づけや掃除をしてくれるのかと思ったら、かなりじーんとくるではないか。
なので、夫の口うるささは時々嬉しかったりする。だってこの人、私のために言ってくれてるんだもんね、と思えるから。それでも喧嘩になってしまうときがあるというのが、私という人間の器の小ささを物語っているが……
というわけで私は時々、椅子置き手法によるゴミ薄め防止作戦を立案・実行した過去の自分を、誉めてやりたい思いに駆られるのである。今日の幸せは、かなりの程度貴君の活躍によるものだ、えらいぞ、よくやった! そんな言葉でねぎらいたくなっちゃう思い出である。
もちろん一番偉くてよくやったのは、別人のように家事スキルを向上させた夫である。素晴らしい。愛してる。
とりあえずそういう夫に見捨てられることがないように、私も自身のだらしなさを払拭すべく、がんばっているつもりである。
だらしない女と片付けられない男で、たぶん私たちは割れ鍋に綴じ蓋ってやつなんだろうけど。
この人と一緒にいられるんだから、かえってそれでよかったよな、とか思ったりもするんである。
ところでこのコトワザ、鍋と蓋、どっちが男でどっちが女なんでしょうね。ま、どっちでもいいか。