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2016-04-16

地震回避する呪文真言)~仏陀からメッセージ

4月14日の午前中に地震について書いたら、その日の夜に、熊本で、大きな地震が起きた。今日15日になっても、まだ余震が続き、大分山口愛媛にも、地震が波及している。

地震は、人々の汚れた想念利己的な儲け主義の精神物質的な肉体やそれに付随する心ばかりを重視するような精神、霊的な聖なるものを軽視するような想念波動と、

それらによってもたらされたカルマ因縁)の集積によって、起きている。

地震回避し、被害を最小限に食い止める呪文真言)は、以下の通りである

ナモーパーラミターユル ジュニャーナヴィニシュチャヤ ラージェーンラーヤ タターガター

オーム サルヴァサンスカーラ パリシュッダダルマテー マハーナヤ パリヴァレー スヴァーハー

意味は、「私は、帰依する。彼岸生命と智慧と決定の能力を持つ如来の王に。オーム あらゆるサンスカーラカルマ因縁)を完全に浄化する法よ。偉大なる方途(道)よ。」

と私は、解釈する。これは、梵語サンスクリット語)の解釈である

地震や、台風被害を軽減し、因縁浄化する方法は、すべて上記の呪文真言である。こんな呪文地震が防げるものか、地震とは科学的に言って、云々という人は

いるであろうが、これは、仏陀の智慧である。これで、病気も治る。

私は、統合医学治療院を開いているが、この真言を使った「霊性治療」で、覚醒剤中毒者、難治性うつ病統合失調症医者に見放され、余命3年と宣告された末期のがん患者等を

救済している。科学的な医学で治らない病気が、真言宇宙超越の光、というオカルトまがいの治療法で治っているのである

私は、他のダイアリーで、心臓移植必要な女の赤ちゃんを救える、と書いたし、ALS患者治癒可能であると思う、と書いた。

これらの疾患は、まだやったことがないが、治癒原理は一緒である。そのための論文も書いている。

これが匿名ダイアリーであるということで、批判があるなら、私は、自分身分を明かそう。

世界救世主 絶対者 至碧老祖 北川訓司である身分は、米国法人国際地球環境大学総長CEO統合医学研究科長、至碧統合医学臨床研究所北川治療院)田辺センター院長、

スピリチュアルクラブ至聖会主宰である。連絡先は、インターネット検索して下さい。こうして、私は身分を明かした。私は、自分の書いたことに責任を持っている。

この地震回避する呪文真言)は、宗教を信じる信じないに関わらず有効である地震に遭うのが嫌な人は、この呪文真言)を唱え、自分地域の人々を救済すればよい。

これは、ちょっとした菩薩行です。功徳を積みます。至碧金剛如来 北川訓司(0739-24-6904)※迷惑電話、いたずら電話は、ご遠慮下さい。

これを信じて地震が来ても、その人は、救われるので大丈夫です。阪神大震災の時に、私の弟子たちが皆救われたので、それは、証明済みです。

安心して下さい。助かりますよ。

2016-04-14

人を憎む心、恨む心ー地震の原因ー

先程、「地震について」で、私が阪神大震災を起こしたように書いたけれども、私が引いたのは、その引き金にすぎない。

地震は、以前、私が、千葉県市川大野に住んでいて、西船橋のTACTでアルバイトしていた時にも、市原地震が起きているので、私と地震の発生には関係があるのだが、

私が、阪神大震災を起こした、というよりは、阪神地方に溜まっていた、利己的な思い、

人を恨む心、憎む心の想念の蓄積が、地震の原因といえるだろう。

したがって、阪神大震災被害を受けた人々が、私を憎み、非難するのは、おかど違いである。

ようするに、そのような心が、地震の原因であり、そういう心がなくなれば、大きな地震は来ないのである

東北震災も、かわいそうではあるが、人々の意識が、慈しみと思いやりの心になりきっていれば、あのような被害は起きなかったし、

地震津波は、必ず被害にあうというものではない。そのような不都合な状況は、すべて回避できるのである

しかし、どのようにすればよいか分からない日本政府は、少子化問題にせよ、地震津波問題にせよ、お門違いの政策ばかりやっている。

人間は、心と肉体だけの存在ではない。宇宙創造主生命を宿した、霊的な存在なのである

たとえば、売春禁止法。これは、慈しみの欠如が著しい。少子化を止めるためには、まず、売春防止法廃止し、

わいせつ物に関する法律を、すべて解禁とするべきである。それで、少子化がなぜ止められるか、というのは、

深い仏陀としての洞察の結果なので、ここでは、詳しくは述べないが、日本守護神である天照大神が怒っているのである

それは、古事記天の岩戸開きの故事関係している。ようするに、天照大神がお隠れになった時、女陰女性性器)を露出させて、

女性神様が踊って、それを契機に、天照大神が顔を出した、ということである日本経済復興させるには、この故事にちなみ、

ストリップ奨励し、合法的売春施設売春は、聞こえが悪いので、恋人代行サービス業と呼べば良い)を作り、風俗営業法で扱い、

自由セックスをさせる環境をつくればよいのである。そうすれば、日本全体に、良い波動が渦巻き、自然経済再生し、

少子化も解消できる。この方法に異を唱える人がいるのは承知しているが、これは、宇宙創造主天照大神の声を聞いた、

仏陀の智慧の視点なのである。今の男性は、アニメアイドルに夢中になり、現実女性結婚意識が向かない傾向にある。

これは、日本全体に、性欲はわいせつであり、罪深いこと、という明治以降欧米の風潮が悪い影響をしている。

自由に、性器露出させた雑誌を、コンビニに並べることにより、子供たちは、隠し、嘘を見せるのではなく、ありのまま女性の姿をみつめ、

自分に嘘をつかず、女性大事にすることを学ぶ。今の性器教育中心の偏った性教育ではなく、女性への尊敬と、宇宙創造主に対する畏敬と感謝の念を持って、

セックスと言う問題を扱うようにすれば、自然に、現実女性と家庭を持ち、子供を産み、きちんと育てようとする機運、風潮ができるのである

今の官僚は、隠すのが好きである。これが、日本の政治を取り巻いている。高齢者も、自由セックスを楽しめる様になれば、生きがいも持てるし、

抑圧する感情情動を、ごまかして、いい加減に済ますようにし、その結果、認知症になったり、変な恋愛観を持って、女性ストーカーするなどの

行為が減る。身体障碍者の性欲の解消にも、役立つ。日本国憲法は、国民に、最低限度の文化的生活保証しているし、幸福追求に関する個人の権利

認めている。そうであるならば、職業選択の自由を認め、恋人代行サービス業を公に認めて、国家を上げて、セックス奨励する機運にすると良い。

これが、少子化経済活性化の唯一の根本的な治療である。私は、仏陀として、治療師として、そう強く思う。

2015-11-07

別れた彼女カエルのげっぷ

 去年の夏、ヒキガエルのげっぷの様子をYouTubeにアップした。一年半付き合った彼女と別れた矢先のことだった。

 あれから一年ちょっと経つ。再生数は49。その内、自分再生したのがおそらく10回くらい。単純計算すれば39回は、俺以外の誰かが見ているということになる。

 だからと言って39人の人間が、各々べつべつのタイミング再生したとも限らない。リピーターだっているはずだ。一人で5回見た、なんて物好きもいるかもしれない。

 純粋に、カエルのげっぷなぞに興味を持つ人間がいるとは思えないし、いたとしたらそいつはきっと生物学者かなんかだろう。いや、今更カエルのげっぷなんかを研究する学者がどこにいる。それはきっと、世界にとっては分かりきったことだし、それでもなお、カエルのげっぷについて研究したいという生物学者がいるとしたら、手近なYouTubeなんかで済ませようとせずに、自分の足で、野に分け入ってカエルを捕まえるべきだ。お前は研究をナメている。向いてない。

 あるいはカルト宗教教祖

「この宇宙カエルのげっぷによってあらかじめ記述された世界なのです!! 私たちカエルのげっぷによって生み出されたオタマジャクシ。ほら私たち生物には、染色体配列によって性を二分する基準がありますでしょう。XY、いわゆるオスと呼ばれる生き物たちは皆、ザーメンというものを持っています、ね、アレ、オタマジャクシに似てるでしょ、ほら、ちょろちょろ、ちょろちょろって」

 さあさあ、手と手をとり合って、これより宇宙開闢のときへと立ち返るのです――君、YouTubeを開いてくれないか、そうあの動画だ――さあ、耳を澄ませて、オオガエル様のげっぷが私たち因果の輪から解脱させるのです……、なんてこともあり得るかもしれない。でも、そうだとしたらそもそも49回しか再生されていないのはかなり深刻な問題だろう。信者何人いる。運営方針を見直せ。

 もちろん、カエルに対して異常な愛情を示す博士も、目の付け所がいささかシャープカルト宗教教祖も、ぜんぶ俺の妄想だ。基本的に、こういうくだらない妄想だけをしてきた。そして気がついたら一年ちょっとの月日が経っていた。新しい恋人はいない。俺の彼女いない歴は、ヒキガエルのげっぷをYouTubeに載せた彼の日から、延々と引き伸ばされつづけている。付き合っている当時は、彼女との日々が優先順位てっぺんに位置していたため、自ずと友達も減っていった。毎日がヒマだ。そして今、俺は、ちょうど50回目の再生をしようとしている。記念すべき今日、この瞬間だ。



 ときおり俺は、妙な想念かられる。俺以外の誰かによる39回の再生が、全てひとりの人間によって行われたことなのではないか、と。

ヒキガエル げっぷ」などと律儀に検索をかける人間は、俺の妄想の外側、つまりはこの現実には存在しない。だとしたら、あの動画投稿したのがこの俺であると知っている人間、が見ていると考えたほうが理にかなわないだろうか。そして、そのことを知っている人間は、おそらくこの世界にひとりしかない。昔の動画は全て消した。今や俺のチャンネル登録された動画ヒキガエルのげっぷのみだ。楽しかった日々の思い出は、今や虚ろな宝石、石ころ、石ころ、石ころだ。でも、もし。もしも、彼女が、今も何処かでスクリーンに映るカエルのげっぷを見ているのだとしたら、それはきっと、終わりきったふたりに許された小さな逢瀬だ。

2015-09-06

http://anond.hatelabo.jp/20150906081912

増田にいる100数十人のみみっちい想念を一人の嫁にぶつけることに等しい行為をするなどご法度の極み反省謝罪を述べたあと嫁を川まで担いで河原にちょこんと嫁を座らせたところで自身を川流れの刑に処すべきである

2014-01-14

無為ターニングポイント

なぜランナーズハイが起きるのか、考えてみたことはあるかいマラソン選手が「無心」に走るとき、いやマラソン選手じゃなくてもいいけど、人が走るとき、その人の脳内で何が起きているのか、それを考えてもみてくれ。

「無心」という言葉がある。また、「無為」という言葉がある。それらは何を意味する言葉なのか、ちょっと考えてみようか。

例えば、「美味しそうな桃があるなあ」と思って、桃をつかむ。これは「有心」なわけですよ。やろうと思う→動こうと思う→動く→反応がえられる。必ず、こういう順序になっているわけ。これはね、人生の最も普遍的構造の1つなんだ。あらゆる所で、今言った順序のプロセスがついてまわる。

ところがだよ、「美味しそうな桃があるなあ」と思ってつかんだら、前の席の女の子のお尻だった。これはどう考えるべき?

「無心」に近いのだよ、これは。たしかに「やろうと思った」。桃をつかもうとした。でも、痴漢行為という違うことをやっちゃったわけ。つまり、桃に関しては「有心」かもしれないが、痴漢に関しては紛れもなく「無心」。やろうと思わないで、動こうと思わなかった動きをやった。そしてビンタされるという反応をもらった。簡単なことだろう。

これは、先ほどの矢印で表すなら、 動く→反応 というシンプル構造をしておる。これが無心の構造だ。

有心と無心の構造の違い、それが何をもたらすのか?ここが重要なところであるぞ。有心だと、「やろうと思う」「動こうと思う」という意志が行動に先行していた。すると何が起きるかというと、動きがよく意識される。当たり前だ罠。やろうと思って動こうと思って動いたんだから、その動きはよく自覚される。当然である

ところがどっこい、無心の場合は動きが「特別視」されない。ここがポイントね。特別視されないから、動きと反応が渾然一体となって、心に「どぴゅっ」と入ってくる。射精音を「どぴゅっ」と最初表現した人は天才だと思う。話がそれた。渾然一体となって行動とその反応が入ってくるから区別がつかない。これが「主客未分」とか「無我」なわけです。

おそろしく単純だけどそれを厳密にやるのは難しい。だから「無我」はむずかしい。からまりの糸をほぐさないと外れない、でも外れたフリは簡単にできる、そんな知恵の輪がそこにある。

無為」も似たようなものだ。だから説明は略す。

以上から、「無為」のヒントが分かったろう。「やろうと思う」「動こうと思う」といった「意志想念」を無くせばよい。もちろん難しい、難しいけど無くせればもうそこには「無為」がある。

さらに、「無為」と「どぴゅっ」の関連性も理解できたはずだ。

ランナーズハイのえもいえぬ快楽はまさにこの「どぴゅっ」であろう。ランナーは走り去る景色を見ながら走る。過ぎ去る路面を見ながら走る。やがて走ろうという意志が消えて走行が自動化すると、何ということでしょう、過ぎ去る景色が「どぴゅっ」「どぴゅっ」と飛び込んでくる。エンドレス射精が気持ち良くないなんて人はこの世にいるだろうか?いや居ない。射精だに気持ち良いのに、いわんや連続射精においてをや。世間では「ちんぽには勝てなかったよ」という名言があるそうだが、それは自身のちんぽとて例外ではないということだ。話がそれた。

私はジョギング以外にスキーもやるのだが、スキーにも似た感覚がある。過ぎ去る景色がやがて「どばばばば」という射精感で飛び込んで全身の喜びとして一体化される。バイクはやらないんだがバイクなんかもそうなのだろうか?

その気持ちよさを味わってみると、ああ人間ってのはなんて自分の動きにやたらと注意を払う生き物なのかと叫ばずにいられない。そのようにhumanbeingを特徴づけても差し支えないくらいに、自分の動きを意識しすぎている。それは挙動不審とか自意識過剰とよばれる。自然から有心な生き物だけ集めると、すまないがホモサピエンス以外は帰ってくれないかってことになる。

要するに、「○○しよう」って意志人間人間たらしめ我らが誇る文明を築き上げてきたのであると同時にだな、人間を大きく縛り付ける枷(かせ)ともなっている、と言いたいのだ。

その枷から逃れる術は実はあるのだがここでは詳しく立ち入らない。簡単に触れると、動きの意志から離脱が動きを無為へと解放したように、「意志意志」というか「意志へのこだわり」を捨てればよい。さすれば、己が意志すらも「どぴゅっ」と飛び込んでくる。イメージとしては川の上流が滞りなければ、中流も下流もさらさら流れやすいだろ?そういうこと。感覚としては小学生でも分かる簡単なことだ。また、部分的実行もさほど難しくない。だが完璧な実行は、言うは易く行うは難しである

それはそれとして。とにかく、意志諸刃の剣だってこったい。

から意志は最小化(minimize)したい。そう思うのも当然だね?それをシンプルに「没頭したい」「熱中したい」と言い換えることも可能だ。人々は意志の中身を問題にするが、意志の量はあまり問題にされない。意志の量を問題視しよう。

アメリカ政治家ナサニエル・シモンズはいみじくも「習慣は最高の召使か、最悪の主人のいずれかである。」と言い放った。

しかし、こと意志の最小化に関しては、習慣化は善である。すなわち、習慣化すれば意志は減る。換言すると、動きを自動化すれば、動きに関して気にすること(daily hassles)が減る。当然だよね(キュウべえ口調)。

習慣化なんてやだよーと枕に顔をうずめて手足じたばたさせているそこの貴方朗報。習慣化しなくても意志は減らせますキーワードは「リズム」。リズムに乗れば確実に無駄意志は減りますジョギングってリズム運動じゃないすか~?だから効くんすよ~。

リズムというと「リズムに乗る」という言い方をするだろう。「リズムに身を任せる」ともいう。意識せずとも身体が動く。無為。これはもう完全に、意志で「動こうとする」のとは正反対のことですわい。

ジョギングでも音楽演奏でもなんでもいいんだけど、リズム運動するとき最初リズムに「乗ろうとする」。けど、やがて「リズムに乗る」。すると、意識の上でも逆転現象が起きる。こういう順番なわけ。

逆転現象ってのは、世界自分を対立させて自意識過剰にキョドってうまく動こううまく動こうとするモードから世界に乗って世界のあやつり人形となったお任せモードへと変わる。あやつり人形なんておそろしい言葉・・・しかし、これはあくまで行動の細部が自動化されることを感覚的に表現しただけで、実際に大筋を決めるのはモニタの前に座ってるそこの貴方だ。びしっ。

是非ともこの逆転ということを幾度となく経験してどんなものか掴んでほしい。「無為ってなあに?無為ってなあに?」と彷徨っていると夜のとばりが突然降りたかのようにガラッと変わるから

自分の動き、自分の身体が景色の一部に取り込まれて、景色全体が一挙にドドドドドドと押し寄せてくる、飛び込んでくる感覚

そして、そのとき漏れなく付いてくるのが「どぴゅっ」である。それも連続。つまり、「ドドドドドトド、どぴゅどぴゅどぴゅどぴゅ」なのである

2013-11-23

これは自慢話というか手柄話というか、そういうものである。ところどころのろけ話でもあることも自覚している。そんなものを長々と書くのはあまり美しい行為ではないが、それでも一度でいいから誰かに話してみたかったし、かといって「自慢とのろけとかウゼー」とリアル知人に思われるのも怖かったしで、増田に書くことにしたわけだ。

彼氏と付き合い始めた時、すぐに私は「この人片づけができないのでは」と疑うようになった。

実家住まいだった彼氏は、一人暮らしの私のアパートしょっちゅう遊びにきて、それは嬉しいし楽しいしどんと来いではあったのだけど、彼が帰ったあとの部屋は異様に散らかっていた。

牛乳ジュース冷蔵庫から出したらそのままでさない、ゴミゴミ箱に捨てたり捨てなかったりで、食べカスが散らかるのは全く気にしない、彼氏はそういう人だったのである

別にそんなことは気にしないでいたのだが、いろいろあってある日、彼氏我が家に転がり込んできて、そのまま一緒に暮らすことになった。

そうなってしまうと話は変わってくる。彼氏の片づけられない男っぷりは私にとって無視できない問題となった。

とりあえず、さりげなく訊いてみる。

「ねえ、昔一人暮らししたことあるって言ってたよね?」

「うん。料理はそのとき覚えた」

彼氏料理うまい。本当に美味しいものを作る。素晴らしい。愛してる。だが生活は食事だけで成り立つものではないのだ、残念ながら。

「そ、掃除は? 片付けとか、そういうのは……?」

「そっちは覚えてない。おれ、散らかってても全然気にならないんだよね。別に部屋汚くても困らないし。ただ引っ越す時、部屋の床を張り替えなきゃならなくなって、金はかかったな。まー、男の一人暮らしだと、どうしてもねえ」

違うぞそれ、男の一人暮らしがみんなそうなわけじゃないぞ、君の汚し方は並じゃないんだぞ自覚しろ

あー、なんか、これヤバイ

親切でおおらかで思いやりのあるこの人の美点を、このままだと私、ゴミに埋もれて見失う。

はいえ、口うるさく片づけをせっつくのは下策であろう。

私は欠点が多い人間で、人様から大量に注意されているのでわかるのだが、注意されてすぐに行いを改められる人間というのは、稀である

悪気がない振る舞いをたしなめられるとやっぱりちょっとむっとしてしまうし、無意識のうちにしでかす失敗は無意識ゆえに直しづらい。

ところが注意した側は行いの改まらない相手を見て、ぜんぜん直ってないじゃん、何回同じこと注意させるんだよコノヤローとか思うんである

それに、もしも注意された彼の心がじゅうぶんに素直で美しく、すぐさま反省してくれたとしても、私はたぶん不満を抱えるだろう。彼と私では「きれい」「きたない」の基準がだいぶ違っている。彼が自分なりの「きれい」を達成したとしても、私はそれを「きれい」だとは思わないはずだ。そうなると努力無視されて彼は傷つくに違いない。

そしてそんなことを繰り返しているうちに二人の関係はこじれ、隙間風が吹くようになるかもしれない。それは困る。口うるさくなるのは出来る限り避けようと、私は心に決めた。

かといって掃除と片づけをぜんぶ私がやるというのは嫌だった。私は掃除大好き人間じゃない。どっちかといえば嫌っている。そんな人間が今まで以上に掃除と片づけをやることになったら、彼氏のせいで私の負担が増えたチクショーきさまいつか殺すぞとか、その手の悪しき想念を抱くようになるであろう。結果として愛は儚くも失われることになる。これも嫌だ。タスクを大量に抱え込んだ上に我慢できなくなって関係破綻とか、骨折り損のくたびれ儲けすぎるではないか。彼も私もなるべくストレスをためずにすむ、そういう方策必要だった。

悩んだ私はしばらくの間、彼氏の観察に徹し、その結果あることに気付いた。

彼氏缶コーヒーを燃料にして走るアメ車みたいな男で、とにかく毎日飽きもせず缶コーヒーを飲む。

そして空き缶をそのへんに散らかす。

私はこの空き缶を始末するのが、一番嫌だった。怠惰な私はビン・カンゴミの日も朝寝したい一心で、缶の飲料は家では絶対に飲まないようにしたのだ。どうしても缶ジュースが飲みたいときは買った店の外で飲んでその場のゴミ箱に捨てる、そんな日々を送っていた。

これが他人からはバカみたいに見えるルールだという自覚もあったので私は何も言わず、結果として彼氏毎日勤勉に缶コーヒーを飲み続け、空き缶をせっせと生産した。空き缶は時々横倒しになって、底の方に残っていた飲み残しがあちこちにこぼれた。缶を拾うと手がべたべたしてコーヒー臭くなり、お気に入りだったソファカバーにはコーヒー染みがついた。

この問題は早急に解決の必要がある。私は再度、聞き取り調査を行った。

「なんで床を張り替えることになったの?」

「おれ、昔はマンガ雑誌をすごくたくさん買ってたんだよね。そんで捨てるのがめんどくさいから、全部部屋に置いてた。積むと邪魔から床にマンガを敷きつめて、マンガの上で暮らしてた。そんで空き缶とかそういうのも適当に散らかっていたから、こぼれたジュースとかがマンガに沁み込んで、床板に貼りついちゃったんだよね」

頭がくらくらするような話ではあったが、そこには貴重なヒントが含まれていた。

彼はゴミが多ければ多いほど嬉しい、ゴミの中でこそ安らげるゴミフレンドリー人種ではないのである。大量の雑誌が積みあげられれば、彼といえども邪魔に感じるのだ。

邪魔に感じた結果、どうするのか。彼は「ゴミを薄める」のだと私は直観した。うずたか雑誌タワーは、不安定で危なっかしくてとてつもなく存在感がある。存在感あふれるゴミを彼は無視できないのだ。

そういえば、彼はコーヒーの空き缶もそこらじゅうに散らかす。決まった場所に捨てるわけではなく、あっちゃこっちゃに置く。かき集めたら小山を作るであろう量のゴミ分散されることで目立たなくなる。つまりあれもまたゴミ存在感を薄める行為なのだ

ならばこの先ゴミを薄めさせなければよいのだ。私はそう確信した。

薄められないゴミはいつか彼の我慢の限界を超えるだろう。そうなれば彼は何らかのアクションを起こすのではないだろうか。そのとき私は彼のアクションを「ゴミ出し」という形に限定させればいい。これはさほど難しいことではないだろう。雑誌を部屋に敷き詰めるなど、彼の行ってきた数々の薄め動作は、実はけっこうめんどくさい作業だ。そんな面倒なことができる彼ならば、集積所にゴミを運ぶくらいのことも、軽くこなせるはずではないか

私はかつて、誰かに書類仕事などをやってもらう必要があって、頼んでもなんとなく先延ばされてしまとき、相手の椅子に書類を置くという手法を編みだしたことがある。

机に置いてはダメなのだ。机に置いたものはなぜか適当に積み上げられたり、引き出しの中に追いやられたりしてしまう。

椅子に置くことのメリットは、相手が必ずその書類を手にとる点である。座ったらそのまま手の中の書類を処理してくれるような幸運に恵まれることも、珍しくない。

もちろん、確認後そのへんに書類を置き、またしても先延ばしにされることはよくあるが、焦る必要はない。相手が席をはずしたら再び書類を椅子の上に置き直せばいいだけだからだ。何回か繰り返せば相手も、さっさとこの仕事を片づけて心おきなく椅子に座りたいと考えるようになる。。

当然のことながらこの椅子置き手法カンにさわって怒り出す人もいるし、うっかり書類の上に座っちゃう人もいるので、実行の際にはいろいろ見極めが必要となるが。

私はゴミ薄め妨害作戦に、この椅子置き手法を応用してみることにした。ゴミ出しや片づけの時に部屋中から集めたコーヒーの空き缶を、彼が使っている座イスの周りにぐるっと置くようにしたのである

やってみていいと思ったのは、空き缶をすすいで水切りしてゴミ袋にいれる手間が省ける点だ。彼氏の座イス周りに缶を置けば、もう私のゴミ出しタスクは完了である。らくちんじゃないか

ちらかっているのが気にならないと言いつつ彼は、私の片づけの邪魔はしない。あたりがさっぱりするとにこにこしながら自席に戻る。

最初のうち彼は座イス周りの空き缶をまるで気にしなかった。すとんと座るといつも通りに本を読んだりテレビを見たり話をしたりしながら、ゴミを室内に薄めていく。半ば無意識の動作らしく、ひょいひょいと本棚だのテレビ台だの靴箱の横だのに空き缶を無造作に置いていく間、彼は自分の手元をほとんど見なかった。

けれどある日、彼は座イスに座ろうとした瞬間に、

「うわっ」

と声をあげた。

数えたので知っているのだが、そこには空き缶が26本あった。数本の空き缶ならば気にも留めずに再度の薄め動作を行っていた彼氏だったが、さすがにその量の空き缶は、気に留まってしまったのである

「なんでこんなに空き缶がいっぱいあるんだ。これぜんぶおれが飲んだの? 飲んだんだよな」

「ごめんね、一緒に暮らすなら、自分の片づけは自分でしたほうがお互いの精神衛生上いかなって思ったの。だからあなたの空き缶だけ片づけなかったの」

「そっか、今までこういうの全部、片づけてもらっていたんだな。気付かなかった、こっちこそごめん。ちゃんと自分でやるよ。この空き缶、どうすればいい?」

そのとき初めて知ったのだが、彼が今まで片づけや掃除をしなかったのは、「どうすればいいかからなかった」かららしい。

ゴミ箱には普通ゴミしか入っていないから、空き缶をどこに捨てればいいかからない。

ゴミ箱がいっぱいになってそれ以上ゴミが入らない状態のときは、何をどうするのが正解?

悩んでいると私が片づけてしまうので、「わかる人に任せればいいか」と思うようになったそうなのだ

一人暮らしの時、マンガ雑誌を大量にため込んでいたのもどうやら、住みなれない土地で古雑誌をどうするのがいいかよくわからなかったのが原因だったそうで。

実家では彼はゴミ出しにまったく関わっていなかった。ゆえにゴミは朝に出すものとか、資源ゴミ普通ゴミと不燃ゴミは回収の曜日が違うとか、自治体によってゴミ区分や回収の頻度は異なるとか、そういうことを彼はぜんぶ知らなかった。実家にいる間はそんなことを知らなくてもゴミはいつの間にか処理されていた。だから彼は、生活にはゴミ出しが必要とか、そのために知らないことをわざわざ調べなきゃとか、そういう発想をしなかったのである。代わりに彼はゴミを薄めるという手法を編み出し、洗練させていったのだ。

料理洗濯ができるのはなぜか、というのも理解できた。彼は服が好きで、美味しいものに目がない。だからこそ、料理洗濯だけはやらなきゃいけないという「必要」を感じて、スキルを身につけたのだろう。もしも食にも服にも無関心なタチだったら、彼の部屋はもっと酷いことになっていたのかもしれなかった。

彼が薄めたゴミを私が濃縮還元したことによって、彼は初めてゴミ捨ての「必要」を感じたのだ。空き缶の捨て方を皮きりに、片づけや掃除に関する知識を、彼は徐々に蓄えていった。

ちなみに、彼は小学校から高校までエレベーター式の私立校出身なのだが、そこの方針で校内の掃除をしたことが一度もないそうだ。アニメなどで掃除当番という単語を見るたびに「物語をすすめるための特殊設定の一つなんだろうな」と思っていたというから驚きだ。「雑巾の絞り方」を、彼は成人するまで知らなかったのだという。私は貧しさゆ学校と名のつくものはすべて公立でまかなったのだが、雑巾の絞り方は学校で習った。金持ち庶民では受ける教育が違うのだということを実感した私は、彼がつい掃除や片づけを面倒に感じてしまうのも無理はないな、と思った。

その後、彼は片づけや掃除に、きちんと取り組むようになった。素晴らしい。愛してる。

元々彼は、器用でテキパキして要領がいい。気配り上手で、頭の回転が早く、何をやらせてもすぐに大抵の人よりうまくこなせるようになる。そういう人間だ。

掃除も片付けも、あっという間にできるようになった。びっくりするくらい素早く部屋を片付けて掃除機をかけて、窓ガラスまで磨いちゃったりする。

床に敷き詰めたマンガ雑誌の上で暮らせるくらいだから本質的には綺麗好きというわけではないので、たまにものすごく散らかしたり汚したりするが、それはもう愛嬌みたいなもんである

そして数年が経ち、彼は私の夫となった。

「脱いだ服を出しっぱなしにしない! その場ですぐたたむ!」

「ティッシュを何枚もなんとなく持ち歩くのやめなさい! みっともないからすぐに捨てて!」

「書類仕事は先に延ばすとだるくなるから、すぐにやりなさい! だめ、終わるまでここで見張ってます!」

今の私は、毎日とまではいかないがかなりしょっちゅう、夫に糾弾されている。

そもそも私は、綺麗好きではないし、しっかりもしていない。むしろ世間的にみれば、ややだらしないほうと言えるだろう。そういう人間からこそ、空き缶大量生産マッシーンみたいな男性と付き合えたのである。私が潔癖症だったら、絶対に夫とは結婚していない。

まり、私のだらしなさこそが二人の仲を取り持ったとも言えるのだ。もうちょっと寛大にしてもよいではないか夫よ。

調味料は使ったら棚に戻す! 『めんどくせーなー』とか思わない! 顔に出てるよ!」

従順に片づけているのだから内心の自由くらいは担保させてくれないか夫よ。

洗濯物の干し方がなってない!」

「服のたたみ方が下手!」

この人けっこう口うるさいよな。昔はそんなことなかったのに。遠い昔、ややだらしない女を心広く許容してくれた優しい彼は、もういないのである

あーあー私だって言いたいことあるけど口うるさくするのはやめようって、けっこう我慢してるんだけどなー。

ということはよく思う。なので喧嘩になる時もある。だけど。

「ほんとは掃除とか片づけ嫌いでしょ? 放っておけばいいのにとか、思うときない?」

ずっと昔、私はそんな風に訊いてみた。

「一人だったらそうかもしれない。けど部屋が片付くとあなた本当に嬉しそうだからねえ。だから片づける。それに今はおれ自身、片付いてる部屋のほうが好きなんだよ。これはあなたのおかげだなあ」

と答えてくれた夫はほんとに男前であるなあ、と思うのである。私のために片づけや掃除をしてくれるのかと思ったら、かなりじーんとくるではないか

なので、夫の口うるささは時々嬉しかったりする。だってこの人、私のために言ってくれてるんだもんね、と思えるから。それでも喧嘩になってしまときがあるというのが、私という人間の器の小ささを物語っているが……

というわけで私は時々、椅子置き手法によるゴミ薄め防止作戦を立案・実行した過去自分を、誉めてやりたい思いに駆られるのである今日幸せは、かなりの程度貴君の活躍によるものだ、えらいぞ、よくやった! そんな言葉ねぎらいたくなっちゃう思い出である

もちろん一番偉くてよくやったのは、別人のように家事スキルを向上させた夫である。素晴らしい。愛してる。

とりあえずそういう夫に見捨てられることがないように、私も自身のだらしなさを払拭すべく、がんばっているつもりである

だらしない女と片付けられない男で、たぶん私たち割れ鍋に綴じ蓋ってやつなんだろうけど。

この人と一緒にいられるんだから、かえってそれでよかったよな、とか思ったりもするんである

ところでこのコトワザ、鍋と蓋、どっちが男でどっちが女なんでしょうね。ま、どっちでもいいか

 
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