はてなキーワード: ステレオタイプとは
オタクを含めて、何か特定の対象に肩入れする人たちが、外野である第三者の批判などに対して激怒するのかが分かった。
まず、外野の第三者じゃない人というのは、たとえばファン(消費者)とか、制作に関わるスタッフなど。こういう人たちの、批判については、内容にもよるけど、激怒して炎上とか、批判殺到とか、Colabo騒ぎみたいなことにはあまりならない。
対して、特別な関係が無い第三者、たとえばフェミニズム団体がコンテンツを批判した場合などは、大炎上騒ぎになったり、激烈な対立が社会的な影響を及ぼすことがある。
これは何が違うのか。
ファン(消費者)や制作スタッフ(労働者)の要求というのは、基本的に、単なる要求に過ぎないのであって、せいぜい交渉の材料であり、基本的に相対化できる。どんなに状況が悪くても、関係を断つ(ファンをやめるとか、仕事をやめるとか)で解決できる。法律上、使用者と労働者、制作・製造・販売者と消費者、こういった関係はあくまで対等であって、その要求はどっちが偉いとか、正しいというものではない。
これに対して、第三者による要求は、労使関係や売買関係のようなものは無いのだから、その要求は普遍的な道徳や倫理に基づくものとなる。例えば、吉野家役員の「生娘シャブ漬け」発言に対する批判は、商品の値段や味、賃金や労働環境の話のような交渉材料の話ではなく、普遍的な道徳や倫理に反するから問題視され、批判が殺到した。
しかし、この普遍的な道徳や倫理は重大な欠陥がある。それは、真に普遍的で万人に共有されているのかということは証明が不可能であり、普遍性の担保の為には逆らう者に強制をするしかないということである。
たとえば、月曜日のたわわの日経の広告問題を見てみよう。そもそも、月曜日のたわわという作品は、未成年を含む胸の大きい女性を性的にまなざすということを主題に据えた作品である。この作品のファンは、恐らく、「未成年を含む胸の大きい女性を性的にまなざすということ」に対して問題意識を感じていない。現実の街中で他人の胸をジロジロ見るのはマナー違反である、と思う人は少なくないとしても、フィクションの作中で面白おかしくネタにしたり、エロスを感じたりすることに対して、全く問題視をしていないだろう。対して、この広告の批判側は、そのように未成年を性的にまなざすこと、身体的特徴を面白おかしくネタにすること、そういったことを肯定する作品が社会に出回ることで社会のステレオタイプが助長されるかもしれないことに対して強い憤りと、普遍的な道徳や倫理への挑戦として考えてい居るだろう。
そして、先ほどから言う通り、第三者が口を出すということは、「普遍的」であることを意味する。月曜日のたわわの青色版の価格が不当に高い、と不満を持つ消費者がいたとしても、その問題意識は基本的に普遍的な物ではない。嫌なら買わなければいいだけである。しかし、第三者が未成年を性的にまなざすことを問題視するのは、「普遍的」な問題だからこそである。
この問題が「普遍的」であるならば、これを問題視しない制作者やファンの思想は矯正されなければならない。ジェノサイドが許されない、人種差別が許されない、といった考えと同様に、それは普遍的な価値観として強制されるべきであるということを必然的に含意することになる。
そして、だからこそ、ファンは徹底的な反発をする。おそらく、ファンは反対に「フィクションの中は自由であり、何をやってもよい」といった思想を普遍的な倫理・道徳として内面化しており、それは双方とも「普遍的」であるからこそ、両立不可能である。
道徳や倫理という概念は、具体的に正しさを証明することが不可能なタイプの主張である。これを理由に、直接的な関係のない相手に対して主張する場合、その主張が「普遍的」であると主張することになる。もし、普遍的ではない、個人のお気持ちだとすれば他人に対して主張することはできない。人を殺してはいけないという主張が普遍的であると信じているからこそ、加害者でも被害者でもない第三者が、人殺しに対して批判をすることができる。これが、共有できていないときに、人はその普遍性を担保するために、政治的、経済的ないし物理的力により強制するしかなくなるのであり、であるからこそ対立は無限にエスカレートするのである。
SNSの使い方がゴミなことで有名な元嵐の二宮和也が炎上している。
それは「世界からのサプライズ動画」というサービスを利用したこと。
Twitterをやっている人なら1度は見たことあるだろう、屈強なマッチョがカタコトの日本語を話し踊りお祝いをする動画だ。
簡単に依頼することができ、その売り上げはもちろん動画出演者であるダンサーにも入る。傭兵たちへの雇用創出を目指し、戦争に参加せざるを得ない人を減らすとも言っている。実際にその地域の子供の食事の支援なども行われているそうだ。
人気サービスである一方で、「差別だ」「はやく潰れろ」という声もある。
・人種的ステレオタイプ問題(人種がエンターテイメントとして消費されることへの嫌悪)
・事業の脆弱性に対する批判(こんなサービスが長続きするわけない、廃れたときダンサーはどうするのか)
俺はこのサービスを見るたびに、昔大学生だった頃のことを思い出す。
大学の近くにホームレスのおっちゃんがいて、なんだか気の良さそうな感じの人だったので
そのおっちゃんが要求することはないが、数名の学生が牛丼のテイクアウトを渡したりしていた。
おっちゃんは申し訳なさそうに受け取って、勉強がんばってねーと笑顔で手を振ったりしてくれた。
ある日、学生の1人がおっちゃんと商売をしておっちゃんに金を渡そうと言い出した。
その内容は、人のいいおっちゃんに悩み相談ができるというもの。依頼を受け、おっちゃんにその悩みについて語ってもらう。入金してもらったらその動画を送る。
それはなんだかんだうまくいっておっちゃんはちょっと人気者になったしお金も結構入っておっちゃんも喜んでくれていた。何より君らと話すのが楽しいと言ってくれていた。
同じ大学の学生数名が「差別だ」「弱者をエンターテイメントにしている」と大学に抗議した。
なんかそういう時だけ早く動く大学は、俺を含めた学生におっちゃんと関わるのをやめさせた。
その時は反省したけど、今思えばなんにも困ってない立場の人間がお金を必要としている人間の一時的な収入でさえ取り上げたの酷くね?って思ってる。
もちろん俺らにも差別意識があったのかもしれないけど、実際やったことは悪かったのかと言われると100パーセント悪いとは思えない。
ステレオタイプの古典的な男キャラ女キャラって一定の批判も出るし妙な罪悪感も覚えるから
ネジ外れた古いおっさんか、いっそ当事者である女性じゃないと描けないんじゃないかと
アニメでは「親子の関係」みたいなのもテーマの一つで今流行の毒親要素も描かれている。
主人公の母親は主人公に対して優しい言葉をかける一見優しい母親で、
ヒロイン二人の父親はどちらも「子供の事なんて考えずに一方的に自分の考えを押し付ける」という、いかにもな高圧的毒親タイプ。
しかし話が進んでいくと、実は父親は物凄く不器用だったり一方的ながらも、彼らなりにヒロイン達の事を思っている一方で
主人公には優しかった筈の母親は、実は主人公の事なんて大事でも何でも無く(実の親子では無いらしい)
目的の為に「優しい母親」を演じているだけに過ぎない、という描写になった。
そして物語が進み、毒親だった筈の父親達は、ヒロインを命がけでかばったり、
かと思えばもう一方の父親はお互い知らないままヒロインと攻撃しあって、最終的にはヒロインに刺されて殺されるのに
死ぬ間際に「お前が、生きてて良かった…」みたいな事を言って
刺した事を責めないばかりか無事に生きている事を安心して死んでいくという
厳しい父親が実は子供の事を不器用に強く思っていて…という、ありがちながら古き良き父親像が描かれるのに対し
一方で母親は、主人公を相変わらず優しい言葉で洗脳し数人を犯させるという、サイコパス的な毒親に描かれて辛かった。
何がモヤモヤするかって、家庭を顧みず子供を押さえつけ支配しようとする父親」でも、実は子供の事を強く思っているのに
「ひたすら優しく前向きな言葉をかける母親」は、実は子供の事なんてなーんも考えてない冷酷な人、と描かれている事。
別に父親=悪!母親=善!というステレオタイプな親子の関係の描き方が必ずしも悪い訳では無いにしろ
それにしたって父親を良く描き母親を悪く描きすぎなんじゃね?って思った。
昨今のフェミニズムに対する反発やミソジニーを揶揄して描写している(そしてその否定も今後描かれる)
というのであれば、まだ納得いくんだけどね……今の所は正直あまり期待できない。
話の筋は面白いだけに、親子関係の描写についてはあまりにも紋切り型でモヤモヤというよりイライラする。
家父長制肯定?この辺りも最近のアンフェ事情に忖度とかしてんのかね…
まーアニメ自体が男中心の男性社会に合わせてるからかも知れないけどさ。
投稿の著者は、初めは同僚の外見への無頓着さと彼女のオタク(ギーク)趣味を見下していた女性のようです。しかし、時間が経つにつれて、著者の視点は変わります。同僚が社会的に受け入れられる外見と態度に変わっていく様子を見て、それが外部の圧力ではなく同僚自身の願望によるものであることを理解するようになります。
著者が最初に同僚を評価したのは、美しさや女性らしさの社会的基準に基づいているようで、これはルッキズムの一形態です。ルッキズムとは、人の価値、能力、価値をその外見に基づいて判断する概念です。著者自身がルッキズムに影響を受けていたことを認めており、これを同僚に対しても投影しているように見えます。
心理学的な視点から見ると、著者が最初に同僚に対して否定的な判断を下したのは、社会的比較の一形態と見ることができます。社会的比較とは、個人が自分自身の人生や価値を他人と比較することで評価するという現象です。著者は最初、社会的な美の基準を守っていることで同僚よりも優れていると感じていたかもしれませんが、同僚が変身して社会的な受け入れを得るにつれて、著者は脅威や不安を感じ、これが恨みや嫉妬の感情を引き起こした可能性があります。
また、著者の視点の変化は、認知的不協和の一形態と見ることもできます。最初の判断と同僚の変身の現実との間の不一致が不快感を引き起こし、それが彼女の態度を変える原因となった可能性があります。
さらに、著者の最初の判断とその後の態度の変化は、女性に対する社会的な圧力と期待を反映しており、ジエンダーロールやステレオタイプに関連する問題を浮き彫りにしています。
①どの性別でも生きていける人
①は今からハイ違う性別ですって異性の身体を与えられてもそれなりに順応して生きていける、そして大多数がこの性質
のようなロールになり成り切っている
今どんどん中性的なのが増えているのはこの性質の奴らがそもそもこだわりがないからで
男でもメイクが当たり前
女でもオタクが当たり前
と言われたらあっさり受け入れる
適合したら特に問題なく生きていけるが、明らかに他者より性別への執着が強い
前時代的な価値観は全部こいつらが押し付けてたんじゃないかと思えるほどには強い
今は個人を重視する価値観が蔓延したので結構浮いてきたというか社会からハブられてきたように感じる
逆にトランスジェンダーは個人を主張していると解釈されて受け入れられているが…
単刀直入に言おう、俺は「うっせぇわ」と「可愛くてごめん」が嫌いだ。
「可愛くてごめん」は最初気に入って何度か聞いていたが、しばらくしてからその歌詞から漂う人格にだんだん嫌気がさしてきて、気づくと聞くのをやめていた。
初めて聞いた時、なんて痛々しい歌詞だと思った。この歌詞考えたやつ絶対黒歴史になるだろ。
高校生が考えた歌詞に違いない。と思ったが調べてみたらこの歌詞を書いた作曲家は25歳らしい。嘘だろ。じゃあ天才だ。
まずこの曲の歌詞の大意は、社会に出るまでに敷かれたレールに対する反抗というこれまでの音楽で幾度となく繰り返されたありきたりなテーマだ。
こういった思考は中高生に多く見られるというのは同意してもらえると思う。
気づいたら大人になっていた』
というフレーズを見てほしい。この時点でこの歌詞における主人公は”大人”になっている。
俺の意見では、”社会のレールに乗ってしまった”という意味での”大人”だと思う。
精神的な成熟を示す”大人”という形容詞は”気づいたら”なっているものではないからだ。
さてここで作者の話に戻るが、作曲家は通常の社会のレールに乗ってなれるものではないので、この作者は仮想の主人公を立てていると考えられる。
そう考えると歌詞の奇妙さが浮き彫りになってくる。
それは、この”大人”像があまりにもディティールが低いということだ。
・最新の流行は当然の把握
・酒が空いたグラスあれば直に注ぎなさい
・皆みながつまみ易いように串外しなさい
・会計や注文は先陣を切る
ステレオタイプ過ぎないか? 俺が最初に高校生が考えた歌詞か? と感じたのはここが大きい。
俺の考えだと、この歌詞の仮想主人公は高校生くらいだ。というか社会に出た人間がこんなこと考えてたらヤバくないか? いくらなんでも幼稚すぎるだろ
『社会のレールに乗るくだらない社会人になりたくない、という中学生か高校生の痛々しいメンタリティを表現した曲』
だった。
現代は誰もが「何者」かになりたい時代だ、としばしば指摘される。「うっせぇわ」の歌詞は痛いほどその事実を体現させていると思う。
という歌詞は、自分はほかの者たちとは違う、一切合切凡庸ではない「何者」であるという宣言に他ならない。
他にも、
・頭の出来が違うので問題はナシ
・私が俗に言う天才です
自分が特別だ、と思うことがどれだけ特別じゃないことかとかそういうことも気づいていない青臭い歌詞だ。
はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
“自身のお気に入りの歌詞は「あなたが思うより健康です」というフレーズだという。syudouはまだネットシーンでのみ活動をしていた当時に、ネットの音楽が「病んでいる」「暗い」というイメージで片づけられていたことに不満を持っていたといい、それに対してガツンと伝えたいという思いが上記の歌詞に込められている”
と言っていたそうで、これはつまるところ”大人”に対する反抗というこの曲のテーマに加えてもう一つ、”陰キャの復讐”というものがあるということだ。暗い、根暗な陰キャは実は強いんだぞ! というシンプルなテーマだ。
俺が最も気に食わないのは
『つっても私模範人間
殴ったりするのはノーセンキュー』
という部分だ。
昔の有名なコピペを思い出す。
“初カキコ…ども… 俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、 他に、いますかっていねーか、はは
今日のクラスの会話 あの流行りの曲かっこいい とか あの 服ほしい とか ま、それが普通ですわな
it'a true wolrd.狂ってる?それ、誉め 言葉ね。
なんつってる間に4時っすよ(笑) あ~あ、義務教育の辛いとこね、これ”
この最後のほうにある
という部分が「うっせぇわ」の歌詞とめっちゃ似てる。すごい似てる。
結局、この曲の歌詞とこの曲に共感している人々は、自身を社会のレールに乗ることを受け入れた”模範的な人間”なんだ、という肯定的な評価を(無理やり)することで、国家による法的な統治に安住している卑怯者に過ぎず、その自分が語る反抗もせいぜいSNSで(しかも匿名で)文句を言うくらいしかする度胸しかない。
うわあ、まさしく陰キャって感じだ。
と俺は思ったわけだ。ああ、もちろん犯罪行為を肯定しているわけではない。
この曲で最も頻発される「可愛くてごめん」という歌詞に関する俺の考察を述べておく。
まず想像してほしい、橋本環奈が「可愛くてごめん」と言ったとする。そんなことを言われてしまったら俺たちは何も返す言葉はない。「はい、可愛いです」と答える以外の余地はない。
さてここで考えてみてほしい、
と言うだろうか?
まあ俺の意見では、橋本環奈はそんなことを一ミリも思わないだろうし、言うわけがない。橋本環奈にとって自分が可愛いことは息を吸うことと同じくらい当たり前のことだからだ。わざわざ自慢する必要がない。
そして本当に可愛い女の子は、自分のことを可愛いなんて言おうものならほかの女子から総攻撃を受けるので、心のそこでそう思っていたとて口に出さないものだ。
つまり本当の勝者は他者の僻みに迷惑をかけられることはあれど、そこから一転攻勢、「むかついちゃうでしょ? ざまあw」などとは絶対に言わない。ここに「可愛くてごめん」に秘められた興味深いメンタリティが表現されている。
この「可愛くてごめん」の主人公は、学校では地味な女の子で(確かPVでもそう表現されてたかな?)、周りの、いわゆる”一軍”女子に憧れ嫉妬し、ある種、僻みさえしている。
そして休日になると自分の好きな可愛い服を着て、メイクをして、”可愛く”なって街に出かける。そう――”一軍”女子と肩を並べるために。
可愛い自分に嫉妬する誰かがいると思い込み(実際にいる可能性はもちろんある)、自分のことを僻む、顔の見えない誰かのことを意識し、自撮りをSNSに載せて、自分が可愛いことを証明することで、そうした誰かと一人孤独に戦っている。
その誰かとは実は、スクールカーストのてっぺんに位置する一軍の女子を僻み、コンプレックスを抱く自分なのだ。
「可愛くてごめん」について考察してるとなんか可哀そうだなという感情がわいてきて、執筆当初にあった嫌いという感情が薄れてきた
俺もこんな風に匿名掲示板で嫌悪を吐き出すという陰キャムーブをしてるなと今思ったw ダブスタかもしれん
誰もが「何者」になりたい世界はSNSの発展によってもたらされた。他人といくらでも比べることができる世界で、自分という唯一無二の存在が本当に唯一無二であるということを証明する必要がある。
俺もこんな記事を書いて「何者」になったつもりなんだろう。伸びるといいな。
ありがたいことにたくさんのコメントを頂いた。
いくつか興味深い指摘があったのでその点をもう一度考察してみた。
この指摘は、「可愛くてごめん」の歌詞はほかの人からバカにされたりする自身の趣味に対する偏見をはねのける少女の精神性を表現したものだ、というものだ。
そうした精神性からこの曲の歌詞を振り返ると真っ先に浮かぶ疑問はこれだ
“なぜ自身の趣味をバカにされたり、見下されたりすることへの反抗が「自身が可愛いこと」なのか?”
これはルッキズムに少女の価値観が支配されていることを示していると言える。しばしば言われるように”可愛いは正義”というやつだ。この価値観の元では”可愛い”者は強く、”可愛くない”者は弱いのだ。
人からバカにされたり、根暗や変わっていると思われる蔑まれがちな趣味を持っている私(≒いわゆる陰キャ)の私でも可愛いぞ(≒強いぞ)! という主張だ。これは”陰キャの復讐”という文脈に回収できるのではないだろうか?
そして、その精神性の内側には普段抑圧されているマイノリティのコンプレックスがある。
そのコンプレックスが最も示されているのは、「可愛くてごめん」の歌詞すべてと言っていい。
「可愛くてごめん」と連呼することは、可愛くない自分を無理やり鼓舞するために必死に主張しているように見える。私は可愛いのだ! ということを全身全霊で認めようとしている。それは他者に向かっているように見えて、自分自身を納得させるために繰り返されている。
そうすることで「私は強いのだ!」と納得しようとしているように見える。
あと、「うっせぇわ」も「可愛くてごめん」も作詞者がそう考えている、と俺自身が思っているわけではないよ。正直ここまで若者に刺さる歌詞を詳細に書くことはマジですごいと思う。
実際こうやって俺が嫌いになっているという事実こそがこの曲の歌詞が素晴らしいものであるということの証左でもあるしね。
あと、「それを嫌うお前の中にそういう精神性がまだ少し残ってるからだろ」的な指摘があって笑ったwww
一昔前だと自分の身体的な性別に違和感を持った人のエピソードとして「男だけどリボンをつけたりスカートをはきたいと思っていた」とか「女だけどクラスメイトの女の子のことを好きになった」とかがあったけど、現代基準だと「スカート=女性」「女の子のことが好き=男性」というのは成り立たないわけで、これらは全く性自認には関係ないということになっている、ということだよね?(後者は性自認ではなく性的志向)
そうすると、「自分は【男】を自認している」の自認の根拠となる、【男】を揺らぎなく定義するものとは何なのだろうか、と思えてくる。
身体的特徴と性的志向、さらには社会的なステレオタイプイメージを無視したうえで、それでも「自分は女ではない、男だ」と言い切る人が持つ【男】の定義というのはどんなものなんだろうか。
一連の件への反応見てるとまだわかってない人たちがいる。
弱者男性がキモイんじゃないか、止むに止まれぬ事情があったんだろう、父親の責任は問われないのか、制度が悪い、社会が悪い、と女に同情するのはいいんだよ。
でもその同情、例えば「キモくて金のないオッサン」に向けたことあった?
誰だって止むに止まれぬ事情があって必死で生きてるんだけど、そのオッサンが誰かから同情されたとして、「じゃあこれから頑張って働いて稼いで下方婚するよ!」と思うか? そんな訳ないじゃん。
だからさ、結局この手の話で一番大事なのは「相手の立場に立って考える想像力を働かせる」ってことなんだよね。
それは別に男側だけに言える話じゃないけど、特に女性の場合はそれが必要なんだわ。
男はどんなに酷い目にあっても仕方がない。
そうやって自分の中の免罪符を作って自己正当化して安心したいだけなんだろうね。
まぁ、気持ちはわかるけどさ……
そういう奴に限って「男はこうあるべきだ」とか言うし、「女にステレオタイプを押し付けるな」とも言いそうだし。
こういう問題に関しては本当に難しいから何が正しいとは言えないけど、少なくとも「相手の立場になって考えてみる想像力」を持つ事が大切なんだなって思うよ。
でも、どうしても吐き出したくてもう一度載せる。何通か書いたものをまとめて載せる。追記の項に書いたけど、吐き出したいだけで、それ以上の意味はない。
思うままに書いたエントリを縦につなげただけなので、論理構成は無茶苦茶。
長男が発達障害だ。療育手帳は上から3番目の等級。これは、身体障害で言うと指の欠損とか嚥下障害とかと同じくらいの重さ。ただ、どこがどうと言うと、説明が難しい。
多動でもなければ注意欠陥でもない。ステレオタイプな目を合わせないような自閉症ではない。むしろかなり人懐こい。
知恵も遅れてなさそうだし、人と目を合わせられないとかでもない。
説明しやすい違いというと、喋らないことだけだ。5歳が近づいてなお、意味のある単語は喋らない。イーッ!アーッ!ばかりだ。手帳はほとんどそれで貰えたに近い。しかし、言葉を喋らないことは、育てにくさの一端でしかなく、本質じゃない。
彼の場合、ただただ、コミュニケーションに対する考え方が、行動が定型児とは違うのだ。無敵の人なのだ。
みな「うちの子もそうよ」みたいな話をする。そりゃ、どの子だって、自分の世界に入って周りの音が聞こえないことってあるだろうさ。我を通したいがためにスーパーで寝転がって駄々をこねるということもあるだろうさ。でも、頻度と質が違うんだ。
彼は楽しさを共有しようとする意思がある。テレビをみて、今のみたか?というふうに視線を送ってくる。無視していると、髪を掴んで強制的に鑑賞させられる。
その一方で、他者からの働きかけには興味がない。まず名前を読んでも反応がない。問いかけに対する反応もない。聞こえてないわけでも理解してないわけでもない。なぜなら、自分の利害と一致するような言葉はちゃんと拾うのだ。「買ってあげるから(スーパーの)カゴに入れて」とか、「児童館行くからおいで」という言葉にはちゃんと反応する。
そんななので、口頭試問という手段が使えないので、知能を測ることは難しいんだけど、親バカだがむしろ賢い。ひらがな、カタカナ、アルファベットは2歳くらいから読めてる様子。3歳になるとPCのキーボードでタイピングするようになった。数字は100くらいまで理解し、足し算のような演算記号も理解してる様子。機械の仕組み、道順、人の顔もすぐ覚える。
知能が測れないというのは地味に厄介だ。
何ができて、何ができない、何を知ってて、何を知らないのかが親にわからない。
ある日突然できている。いきなり意味のある文章をタイピングしたり、いきなりそれとわかる絵を描いたり、いきなり1人で着替えてる(もう一度してと言ってもしてくれないし、再現されることはまずない。いまだに手で食べ、オムツで、着替えは人任せだ)。
しかし、嬉しい驚きばかりじゃない。むしろ、それが一番困るところだ。
1歳で1人で外に出た。3歳くらいのとき1人でスーパーから消え近くの踏切にでた。やはり3歳で包丁で野菜を切ってたこともある。
目を離した親が悪いというけれど、本当に、「ある日突然なにかができてる」なのだ。
そして、これが特徴だけど、どんなに怒鳴っても、ほとんど響かない。嫌われることへの恐怖心というものが皆無だ。すごい剣幕に、近くにいた次男はギャン泣きなのだが、当の長男はというと、なんか耳元でうるさいなくらいの顔しかしない。
拳や足による制裁が加わっても、なにか面白いものを見つけると、次の瞬間に天使の笑顔である。憎しみや怒りに対して笑顔をぶつけられるチートスキル。明らかに不機嫌がおさまらず噴火寸前触るな危険な妻にも、キャッキャ寄っていく。価値判断が自分が楽しいかどうか、自分がしたいかどうかだけで、他者評価を一切気にしない。つまり、無敵の人なのだ。
袋詰めの一瞬の隙をついて、消えた。まさかの店外に出ていて、近所の踏切で確保された。何人かの大人に囲まれ詰問されていたが、喋れない。警官が駆けつけたところで、パニックになった妻が到着。地獄絵図だったそうな。
本人的には「俺は一回くれば道くらい覚えてるからさ、1人で踏切にくらい行けるし、車道や踏切の中で止まるほどバカじゃないよ」
って喋れたらそう言ってるだろう。
自分は、彼のことを95%くらい信じてる。口頭試問できないが、かなり賢い。たぶん信号を理解してるし、車道や踏切というものをたぶん理解してる。でも5%くらいは信頼できない。5%、つまり20回に1回はなにかある、そのくらいの信頼度だ。そういう意味でも、親は子供の「はじめて」の側にいたい。何度かの練習で失敗を繰り返し、99.99%成功、万が一くらいの危険度になってようやく1人でやらせたい。だが、彼の初めては、常に突然だ。気がついたらなにかしてる。無敵の人だからだ。幸いに事故はないのだけど、大人がすり減る。
こだわりの強さの話をしよう。
こだわりとわがままは違う。
我が家の場合、定型っぽい次男のイヤイヤ期のほうがよっぽど理不尽だった。
例えば、次男が牛乳のお代わりを要求するのに対し断ったとする。イヤイヤ泣く。渋々お代わりを与えても、「欲しかったのはさっきの瞬間で、今じゃない!あの時の俺の気持ちをどうしてくれる!」みたいな泣きがはじまる。
発達っ子の長男は、こだわりは絶対に譲らない。どんなに拒否されても、コンコンと要求を取り下げない。激しく叫んだり暴れたりしても、パニックではなく、伝えるためにそうしてるだけだ。30分でも1時間でもやめない。ちゃんと要求さえ通れば、それきりだ。要求を飲んでくれたことへの感謝もなければ、要求をしぶられたことへの恨みもない。
他のことに気を逸らすことが非常に困難で、まず無理だ。いわゆる子供騙しが通用しない。
本当に、無敵なのだ。
この子の母、自分の妻は、長男と180度違う。妻の性格はちびまる子ちゃんみたいと言えばいいだろうか。おだてられたら調子に乗り、怒られたら凹む。他人の成功を妬んだり、目の前の餌に釣られたり、ふと冷静になって後悔したり、劣等感にさいなまれたり、仏様に憐れまれそうな典型である。
妻は憐れな衆生の1人、お気持ちファーストなので、妻が長男を叱る時、響かないのはストレスらしい。凹ませるのが目的じゃないって正論を言っても、理性ではわかっても行動をアップデートできない。反省の色が云々は裁判官でも言っちゃうので、怒られてすぐヘラヘラされて正気でいるのは、解脱が遠そうな性格の妻には無理のようだ。
妻と衝突した時、次男は判断が気持ちできまる。こんな気持ちにさせられたという自分の気持ちがファースト、相手が怒ってるどうしようという相手の気持ちがセカンド、それを天秤にかける感じ。多くの場合、なぜ怒られたかすら理解してない。
対して、長男は、「かくあるべし!」っという戒律じみた強い信念と、好奇心が行動規範。話が聞こえてないわけではない。そもそも悪いと思ってないとこはなにを言われても取り合わないが、失敗(はしゃいで走って牛乳をこぼしたとか)を咎められると、バツが悪そうな顔をする。言葉は通じてるのだ(自分でタオルを持ってきて拭きはじめるが、拭き終える前に別のことを始めるのだが)。
どっちかっていえば、長男が人類のあるべき姿で、定型の定型たらしめる妻と次男の人間臭さこそ、現世の生きづらさな気がするのだ。長男はこだわりや好奇心の邪魔をされなければ、妻や次男に八つ当たりや理不尽な攻撃をされてさえ、「やれやれだぜ」くらいの顔しかしない。
でも、悟るのは成人してからにしてもらわないと困る。お釈迦さまだって結婚や育児が一段落してから出家したように、まずは社会通念に従ってくれないと、この世で生きられない。
社会のルールとか、貨幣制度というのは、幻想を共有することだ。長男はその能力が著しく低い。「僕が鬼で君が隠れる。見つかったら負け」こういうのはたぶん長男は理解しない。というか理解する必要性を感じない。鬼とか負けというのは、幻想だから。
理解するとしても、アルゴリズム体操のように、そういうアルゴリズムとして理解して、前後の文脈や場の空気からの理解じゃない。
長男はよく星のカービィ(WiiUのバーチャルコンソール)をしてるのだけど、ライフがゼロになるとか穴に落ちたら残機が減るというのは理解する。なぜなら、幻想じゃなく仕様だから。ゲーム機の充電、ゲームを起動、多彩なアクション、テレビゲームのルールこういうのは得意。
社会のルールは理解しないくせに、長男独自の数多のマイルールに縛られてる。多くの人がキッチンスポンジのほうが便器より汚いといわれても便器を舐められないように、長男としては譲れないポイントがそこらじゅうにある。親は全てに付き合わされる。例えば、妻がどんなに怒り心頭してても、次男が頭から流血してても、散歩のルーチンは譲らない。
それに加えて、子供の好奇心と目覚めた知能をフル活用した想定外の行動を起こす。無敵の人だから叱ることが抑止力にならない。
よく発達障害について、こだわりが強いとか、注意散漫とか、他人の気持ちを理解するのが下手とか、そういう説明がある。
言葉としてはあってるけど、ちょっとズレてる。そんなもんじゃなくて、生物として、もっと基本的なところでなにか違う。
天才も多いと言われるけど、たぶんそれも違う。認知や学習の方法が全く違うから、定型の知能と長男の知能の優劣はつけられない。
たぶん、長男は学業優秀に育てば、国語のテストで満点を取れるようになったりはするだろう。でもそれは文章は理解できるというだけだ。心がわからないというのではない。小説や映画に感動できるようになっても、この子が物語から感じる感動の質は、定型の人のそれとはおそらく違うと思う。寄生獣という漫画で、犬を看取った直後に、その犬をゴミ箱に捨てるシーンがある。ヒロインが「あなた普通じゃないわ」と言うが、主人公は「死んだら肉だ」と噛み合わない。この子は将来、そういう違和感を周囲に与え続ける。
どこまでいっても彼は異星人だが、寄生獣のミギーのように愛される存在になってもらいたいと親としては思ってる。
定型児は、音声の模倣から入る。最初は原始的なオウム返しだけ。そこから、過去の経験、前後の文脈から、それらしい語をつないで出力するようになる。
GPTのモデルと同じ。次にくる語を確率的に予測してつなぐだけ。「吾輩は」の後には「猫である」がくる。そこに理由などなく、確率論、経験則で。でも、それを高度に行えるようになると、知能と呼べるような振る舞いになる。
定型児の知能の獲得はコレに似てると思う。
ヒトは噂話をするために言語をさせたという説がバカバカしいが一番有力らしい。
サルの毛繕いのような、コミュニケーションをとりたがる本能があって、その延長に噂話、言葉と言葉をつなぐことによって、知能と呼べるようなものが生まれたと考えると、なるほどと思う。
定型児は、自分の言葉や行動が、前後の文脈や周囲の空気の中にから紡がれ、その言葉や行動が他人にも自分自身にも影響することを意識する。
知恵がつくから意識するのかと思ったが、GPTの仕組みを聞くと、意識することそのものが知恵の本質のように思う。
少し別の話。
長男の前で、ぬいぐるみを手に持ってぬいぐるみが喋ってるふうにして喋ると、怒る。
定型児にはごっこ遊びでも、彼にとっては「嘘」なのだ。やめろ気持ち悪いと感じてる様子。
ホモサピエンス全史がいうところの、「妄想を信じる力」が抽象的な概念の獲得なら、長男の知能は頭打ちしそうなんだけど、むしろ数字や文字は幼い時から好きだった。
どういうふうに育つのか、親としても興味はある。
ここ2週間くらいで、ようやく強く呼べば名前に振り向くようになった。
今までは、用があるときは長男から働きかけてくるが、こちらが何を言っても無視だったものが、進歩だ。
遊びに行った先でもう帰るよって言っても、抑えつけて車に放り込んで車が動き出すまで聞かなかったものが、すんなり諦めるようになった。
彼なりに、成長してる。
この駄文は、発達障害育児エントリに触発され沸き上がった心の叫びでしかないので、何が言いたいかわからんという感想はごもっとも。
目を離さない以外できることがない。
あと、言わせて欲しい。
座って待ってられるようになって食べられる食材が増えたら子連れで外食に行けるようになりたい。
列に並んで待てるようになったらテーマパークに行きたい。
すごい久々にここで書くなあ。
少年ジャンプ+には「インディーズ連載作品」というカテゴリがあり、いわく「ジャンプルーキー!」というアマチュア向け漫画投稿サイトの「連載争奪ランキング」で人気の作品が連載されるらしい。はてなでも人気の『ラーメン赤猫』なども、元はこのカテゴリの作品だったけ?
そんなカテゴリで最近始まったのが『刃ノ眼』である。他のインディーズ連載作と比べて明らかに“ローコスト”な絵、読んでいるだけで“むず痒い”作風。一見すると「これがジャンプルーキー!で人気なのか?」と思ってしまうほど。絵は自分でも描けそう、ストーリー設定も目新しさを感じない。しかし本作には“独特な魅力”がある、と私は思う。
本作の魅力を一言で表すなら、「全体に漂う“中ニ病が描いた漫画っぽさ”」にある。これは「中ニ病にウケそうな漫画」という意味ではない。それだったら、より実力も知名度もあるクリエイターたちによる既出作品の方が圧倒的に面白いだろう。『刃の眼』は、そういった既出作品を嗜んできた思春期の若者が、自分のノートに思うまま書き連ねたような“青臭さという概念”を希釈なく形にしているといえる(漫画としての体裁は整えつつも)。
まず、全体的に“作り手の照れ”を感じさせない。主人公の性格、言動、能力はどれも中ニ病イズムに溢れているが、それを「これはさすがにアレかな」とか、「このあたりで帳尻合わせとくか」みたいな自重がほとんど感じられない。しかし、ここで下手に照れてしまうと、かえって凡庸な作品になってしまうだろう。
次に“絶妙に絵がローコスト”なこと。お世辞にも美麗とはいえない絵だが、5W1H(いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように)は分かるし、構図とかは意外とちゃんとしている。
更に“ボキャブラリーが多くない”ことで読みやすくなっている。中ニ病といえば、難解な漢字や無理な当て字を多用するイメージがあるが、そういうステレオタイプを抜きにすれば中二病の語彙力はあくまで中ニレベル。そんなに凝った言い回しや言葉選びはしないのだ。
次の項目からは本作の1話感想と合わせて、その“っぽさ”を語っていく。
1ページ眼は、“自分は異常だ”と、“何か特別な力”を持っていると語る主人公のモノローグから始まる。理想的なスタートダッシュといえよう。
そして、次から早速その力に目覚めた主人公の、ありがちな能力説明から。能力に目覚めるまでの激的なエピソードなんてものはなく、「主人公は、刃を生み出せる眼を持ってます」というタイトル回収をさっさと済ませる。最初から飛ばしすぎかと思われるかもしれないが、これは作者の中で「主人公は刃を生み出す能力を持っている」というのが大前提にあり、それを描きたい欲求が先にあるからだろう。そのために起承転結とか序破急とか、丁寧な構成をやろうとすると描いてる側が楽しくない。
次に主人公が戦闘狂に目覚めた際のエピソード。能力に目覚めたときは特にエピソードがないのに、こっちには用意されている。作品説明には「ある事件をきっかけに自分が戦闘狂だと気づいた彼女」と書いているが、それほど大したエピソードではなく、主人公が学生同士の喧嘩を見て思わずほくそ笑むだけ。
だが、そこで笑っている主人公に対し、クラスメートが「恐い」とわざわざ言っていることがポイント。喧嘩を興味本位で見ている輩なんて実際いてもおかしくないが、ここで第三者に「恐い」と言わせることで主人公の異常性に説得力を持たせたい……という意図が見えることが面白い(そんな主人公の性質を「戦闘狂」という表現に収めるボキャブラリーも含めて)。
そして、ここからが本作のスゴさを実感する展開で、なんと主人公はいきなり空手道場に通い、しかも2ヶ月でマスターしてしまう。そんな主人公を見て、「天才」だとか「ダイヤの原石」と月並みな感想を述べる師範。そんな師範を尻目に、今日限りで道場に通うのをやめる主人公。そんな調子で、その他の武道もマスターしていく主人公。当然、これは主人公の異常性をより際立たせるための一幕であり、その後の戦闘シーンに多少の説得力を持たせるための下地作りでもある。
そこから主人公は自分の求める戦いのために研鑽を積んでいき、自分自身で「完成した」と実感するに至る。それはいいのだが、後のエピソードで主人公と同様の能力者が出てくるあたりで詰めの甘さが垣間見えるのもポイント。その能力者は主人公の知らない能力の使い方をするのだが、実際は大して意外性のない使い方。小さい頃から能力に目覚め、戦闘の才能もあり、それなりに修行もしてきた主人公がこれくらい独学で身につけられないのは如何なものか、「1話でお前“完成した”とか言ってたのに何なの?」と思われるかもしれないが、これにも理由がある。
主人公は空手を学ぶ場面で、相手のやってる技を数回見ただけで完コピできることを語っているのだ。つまり、これは「主人公が相手の出す能力を全ていなした挙句、自分のものにしてしまう展開」をやるためだろう。筆者がこれを書いている時点では、まだその展開になるかは知らないが憶測に基づいた状況証拠は揃っている。
そして準備万端となったところで、主人公の初死闘。身元を隠すために狐の仮面にマントっていうのが、もうね。そして嬉々として闘いに身を投じる主人公。絵がローコストだから「『こいつ、やべえぜ』って思わせたいんだろうな」って俯瞰してみてしまう。
銃に対処するシーンも理屈付けがシンプル。誰しも「自分だったら銃相手には、こう対処してやる」って想像をしがちだが、まさにそんな感じ。そんなこんなで無双しまくり、2年後には有名な戦闘狂として君臨していましたとさ。これで1話。
「私には超自然的な、特別な力があります」 ⇒ 「私の性格は異常です」 ⇒ 「私には並外れた才能があります」 ⇒ 「そんな私にふさわしいステージがあります」というのを自重せず、1話内に凝縮させている。でも読みやすい(人によっては読んでて居た堪れなくなるかもしれないが)。
このストーリー構成と設定で、お世辞にも綺麗とはいえない絵で描かれた漫画。そんな漫画がジャンプ+で読める。この体験含めてスゴいと思ってしまう。遠まわしな貶し記事と思われるかもしれないけれども、本心からこの『刃ノ眼』はスゴいと思っている。誰にでも描けそうにみえて、誰にも描けそうにない。あえて表現するなら「未完成であるが故に完成された」作品だと思う。作者がどこまで意識的にこの作品を描いているか知らないけれども、天然ならスゴいし、意図的ならそれはそれでスゴい。
経験値の話はしたくないのだがChatGPTは聞けばだいたい教えてくれるので教えてって言うといいぞ
Q: 以下の文章はChatGPTによる生成でしょうか。その判断に至った道筋を、人間にもわかりやすく示してください。
日本において、かわいいドラゴンのようなキャラクターを愛でる女性が男性に比べて少ないとされる理由としては、以下のようなものが考えられます。
社会的な性差別: 日本社会においては、男女間の性差別が依然として存在していることが挙げられます。男性がアニメやゲームなどの趣味を持つことは一般的に認められていますが、女性が同じ趣味を持つことに対しては、社会的な偏見や差別がある場合があります。そのため、女性がかわいいドラゴンのようなキャラクターを愛でることに対して、周囲の反応が懸念される場合があると考えられます。
ジェンダー・ステレオタイプ: 日本の文化には、男性が強くて冷静、女性が優しくて柔らかいというジェンダー・ステレオタイプが存在しています。そのため、女性がかわいいドラゴンのようなキャラクターを愛でることは、社会的に好ましくないと見なされる可能性があります。
女性の趣味の多様性: 一方で、女性がかわいいドラゴンのようなキャラクターを愛でることが少ないとされるのは、女性の趣味が多様化しているためとも考えられます。現代の女性は、アニメやゲームなどの趣味だけでなく、スポーツや音楽、読書など、様々な趣味を持っています。そのため、かわいいドラゴンのようなキャラクターに興味を持たない女性も多くなっていると考えられます。
マーケティングの影響: 最後に、かわいいドラゴンのようなキャラクターが男性向けの趣味として扱われていることが、女性が興味を持つことを抑制している可能性があります。マーケティング戦略が男性向けに偏っているため、女性がかわいいドラゴンのようなキャラクターに接する機会が少ないことが要因となっている可能性があります。
んでもって回答がこちら
この文章は、ChatGPTによる生成である可能性は低く、人間によって書かれた文章と思われます。理由としては、以下の点が挙げられます。
言語表現が自然であること:
この文章は、自然で流暢な文章であり、特に異様な表現や間違いがあるわけではありません。それゆえ、この文章がChatGPTによって生成されたという可能性は低く、人間が書いたと思われます。人間の知識を前提としていること:
この文章は、日本社会における性差別やジェンダー・ステレオタイプ、マーケティング戦略など、社会的な問題について述べられています。ChatGPTは、大量のデータを元にして生成されたAIであり、人間の知識を前提としている場合がありますが、一般的には社会的な問題について自己判断することはできません。一貫性があること:
この文章は、社会的な性差別やジェンダー・ステレオタイプ、女性の趣味の多様性、マーケティングの影響など、女性がかわいいドラゴンのようなキャラクターを愛でることが少ない理由を分析しています。このような分析を一貫して行うことは、ChatGPTのようなAIには困難である場合があります。一方で、この文章は、各要因を独自に分析し、結果をまとめることで一貫性のある論理展開をしています。そのため、この文章がChatGPTによって生成されたという可能性は低く、人間が書いたと思われます。
なるほど。
子供のいる家族に石を投げつけてくるのは別に子どもがいない人だけではないと思うんだけどな。
ステレオタイプなのはOKY (おまえがここでやってみろ) 案件なんだろうけれど、別にそこだけじゃない。
自分が独身だった頃を考えると、かなり子供に対して寛容で、社会で育てようと勝手に思っていた。
むしろ、普通にOKO (おまえ、ここに、おったやろ) 案件がある。
子育てをある程度終えた人たちが、その前のステージの人に詰め寄るのはそれなりにある。
子育てもひと段落して、さあこれから大人の静かで楽しい優雅な生活をと思っていたら、子供のいる喧騒のある生活を再び押し付けられることになったことへの怒りだろうな。
成人女性あげはとツバサの絡みをおねショタときゃっきゃ喜ぶところ悪いんだけれど、今週のプリキュア、反ポリコレ跳満じゃねえか。
・ツバサを「少年」としか呼ばず、一人の人間として見ていない(一翻)
・成人女性が「ツバサにわかってもらっていると思っているから」という勝手な思い込みで、子供相手に自分のやり方でコミュニケーション方法を押し付け、子供に気を使わせる(二翻)
・↑をましろ、ソラに指摘させて「男=相手の気持ちが理解できない」というステレオタイプ表現(一翻)
・男は女の気持ちを汲み取ったら、それに応えなければならないというジェンダーロールを子供に押し付け(一翻)