2014-01-14

無為ターニングポイント

なぜランナーズハイが起きるのか、考えてみたことはあるかいマラソン選手が「無心」に走るとき、いやマラソン選手じゃなくてもいいけど、人が走るとき、その人の脳内で何が起きているのか、それを考えてもみてくれ。

「無心」という言葉がある。また、「無為」という言葉がある。それらは何を意味する言葉なのか、ちょっと考えてみようか。

例えば、「美味しそうな桃があるなあ」と思って、桃をつかむ。これは「有心」なわけですよ。やろうと思う→動こうと思う→動く→反応がえられる。必ず、こういう順序になっているわけ。これはね、人生の最も普遍的構造の1つなんだ。あらゆる所で、今言った順序のプロセスがついてまわる。

ところがだよ、「美味しそうな桃があるなあ」と思ってつかんだら、前の席の女の子のお尻だった。これはどう考えるべき?

「無心」に近いのだよ、これは。たしかに「やろうと思った」。桃をつかもうとした。でも、痴漢行為という違うことをやっちゃったわけ。つまり、桃に関しては「有心」かもしれないが、痴漢に関しては紛れもなく「無心」。やろうと思わないで、動こうと思わなかった動きをやった。そしてビンタされるという反応をもらった。簡単なことだろう。

これは、先ほどの矢印で表すなら、 動く→反応 というシンプル構造をしておる。これが無心の構造だ。

有心と無心の構造の違い、それが何をもたらすのか?ここが重要なところであるぞ。有心だと、「やろうと思う」「動こうと思う」という意志が行動に先行していた。すると何が起きるかというと、動きがよく意識される。当たり前だ罠。やろうと思って動こうと思って動いたんだから、その動きはよく自覚される。当然である

ところがどっこい、無心の場合は動きが「特別視」されない。ここがポイントね。特別視されないから、動きと反応が渾然一体となって、心に「どぴゅっ」と入ってくる。射精音を「どぴゅっ」と最初表現した人は天才だと思う。話がそれた。渾然一体となって行動とその反応が入ってくるから区別がつかない。これが「主客未分」とか「無我」なわけです。

おそろしく単純だけどそれを厳密にやるのは難しい。だから「無我」はむずかしい。からまりの糸をほぐさないと外れない、でも外れたフリは簡単にできる、そんな知恵の輪がそこにある。

無為」も似たようなものだ。だから説明は略す。

以上から、「無為」のヒントが分かったろう。「やろうと思う」「動こうと思う」といった「意志想念」を無くせばよい。もちろん難しい、難しいけど無くせればもうそこには「無為」がある。

さらに、「無為」と「どぴゅっ」の関連性も理解できたはずだ。

ランナーズハイのえもいえぬ快楽はまさにこの「どぴゅっ」であろう。ランナーは走り去る景色を見ながら走る。過ぎ去る路面を見ながら走る。やがて走ろうという意志が消えて走行が自動化すると、何ということでしょう、過ぎ去る景色が「どぴゅっ」「どぴゅっ」と飛び込んでくる。エンドレス射精が気持ち良くないなんて人はこの世にいるだろうか?いや居ない。射精だに気持ち良いのに、いわんや連続射精においてをや。世間では「ちんぽには勝てなかったよ」という名言があるそうだが、それは自身のちんぽとて例外ではないということだ。話がそれた。

私はジョギング以外にスキーもやるのだが、スキーにも似た感覚がある。過ぎ去る景色がやがて「どばばばば」という射精感で飛び込んで全身の喜びとして一体化される。バイクはやらないんだがバイクなんかもそうなのだろうか?

その気持ちよさを味わってみると、ああ人間ってのはなんて自分の動きにやたらと注意を払う生き物なのかと叫ばずにいられない。そのようにhumanbeingを特徴づけても差し支えないくらいに、自分の動きを意識しすぎている。それは挙動不審とか自意識過剰とよばれる。自然から有心な生き物だけ集めると、すまないがホモサピエンス以外は帰ってくれないかってことになる。

要するに、「○○しよう」って意志人間人間たらしめ我らが誇る文明を築き上げてきたのであると同時にだな、人間を大きく縛り付ける枷(かせ)ともなっている、と言いたいのだ。

その枷から逃れる術は実はあるのだがここでは詳しく立ち入らない。簡単に触れると、動きの意志から離脱が動きを無為へと解放したように、「意志意志」というか「意志へのこだわり」を捨てればよい。さすれば、己が意志すらも「どぴゅっ」と飛び込んでくる。イメージとしては川の上流が滞りなければ、中流も下流もさらさら流れやすいだろ?そういうこと。感覚としては小学生でも分かる簡単なことだ。また、部分的実行もさほど難しくない。だが完璧な実行は、言うは易く行うは難しである

それはそれとして。とにかく、意志諸刃の剣だってこったい。

から意志は最小化(minimize)したい。そう思うのも当然だね?それをシンプルに「没頭したい」「熱中したい」と言い換えることも可能だ。人々は意志の中身を問題にするが、意志の量はあまり問題にされない。意志の量を問題視しよう。

アメリカ政治家ナサニエル・シモンズはいみじくも「習慣は最高の召使か、最悪の主人のいずれかである。」と言い放った。

しかし、こと意志の最小化に関しては、習慣化は善である。すなわち、習慣化すれば意志は減る。換言すると、動きを自動化すれば、動きに関して気にすること(daily hassles)が減る。当然だよね(キュウべえ口調)。

習慣化なんてやだよーと枕に顔をうずめて手足じたばたさせているそこの貴方朗報。習慣化しなくても意志は減らせますキーワードは「リズム」。リズムに乗れば確実に無駄意志は減りますジョギングってリズム運動じゃないすか~?だから効くんすよ~。

リズムというと「リズムに乗る」という言い方をするだろう。「リズムに身を任せる」ともいう。意識せずとも身体が動く。無為。これはもう完全に、意志で「動こうとする」のとは正反対のことですわい。

ジョギングでも音楽演奏でもなんでもいいんだけど、リズム運動するとき最初リズムに「乗ろうとする」。けど、やがて「リズムに乗る」。すると、意識の上でも逆転現象が起きる。こういう順番なわけ。

逆転現象ってのは、世界自分を対立させて自意識過剰にキョドってうまく動こううまく動こうとするモードから世界に乗って世界のあやつり人形となったお任せモードへと変わる。あやつり人形なんておそろしい言葉・・・しかし、これはあくまで行動の細部が自動化されることを感覚的に表現しただけで、実際に大筋を決めるのはモニタの前に座ってるそこの貴方だ。びしっ。

是非ともこの逆転ということを幾度となく経験してどんなものか掴んでほしい。「無為ってなあに?無為ってなあに?」と彷徨っていると夜のとばりが突然降りたかのようにガラッと変わるから

自分の動き、自分の身体が景色の一部に取り込まれて、景色全体が一挙にドドドドドドと押し寄せてくる、飛び込んでくる感覚

そして、そのとき漏れなく付いてくるのが「どぴゅっ」である。それも連続。つまり、「ドドドドドトド、どぴゅどぴゅどぴゅどぴゅ」なのである

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