これに罹る人自体は、めずらしくない(私だってそうだ)。だが今後、きっと爆発的に増えていく。デジタルネイティブの若者に関しては特に著しく勢力を増やしていくだろう。
情報技術が発展し、情報リテラシーが高まり、他人の多種多様な生き様や頭の中をヴァーチャルに追体験できるようになっていくほど、そうなる。
あるいは、縮小し閉塞感に満ちていく社会において「○○のような人材」が求められれば求められるほど、他人の望む人間になることを是とする人は減り、真逆にあたるこの症候群が増える。
現代は多くの人が情報の海に晒されているが、基本的にはみな、好きで晒されている。
情報から距離を置けない理由には社会的欲求(横並び意識)も関係しているだろうが、根源的な部分で、人間の知識欲ははかりしれない。
ともかく数年もそういう情報収集に没頭するうちに、人はすべての情報を客観的に見るようになる。
言い方をかえると、すべてが他人事になっていく。自分の思想や行動様式と一致する主張ですら、他人事であり、移入することができなくなる。
感動しないわけではない。心酔しないわけでもない。でも、その素晴らしいものは(ゴミみたいなものもだが)、すべて、自分とは別の世界のことだ。無意識に距離を置くようになる。
自分の世界には、何もない。ゼロではないが、大したものはない。そのことに虚しさや悔しさなどを感じる時期も通り過ぎてしまった。きりがないのだ。自分は空っぽでいい。そうなっていく。
はてブなんていうメタツールを使っている人ならその感覚がよく分かるはずだ。
「自分の主観的意見」ですら客観視しだして、「これはくだらない、取るに足らないものだ」と思うようになり、いずれ黙るようになっていく。
自分が言わなくても、自分が思いつく程度のことは静観していれば誰かが必ず言う。それどころかもっと洗練された素養を感じる意見が次々と出る。
たまに黙るようにはならない人もいるが、そういう人は、自己の空虚さを完全に意識から消しているので、傲慢で上から目線な発言をするようになる。覚えがあるだろう。
自己を主体とすることを肯定することは、一人の人間としての人生に埋没してしまうことだ。
それは極めて当たり前のことだが、しかしそうではない、メタな視野の万能感を、我々はもう知ってしまっている。
他人、企業、社会、そういった観察対象の生き様、行く末を見るのは刺激的だけれど、自分がそれに加わろうとは思わない。
できることなら人間をやめて、電脳化して、この先数千年くらいの人類を観察していたい。
それはある意味で、死へのあこがれかもしれない。
そうでないのなら、これは静かなる反抗だ。
あまりにもできの悪い現実に対する?いや、違うだろう。情報を手にしてしまったことに対する、が妥当だろうか。
もう少し踏み込むなら、世の中にあふれる要素に対して、人生があまりにも短すぎることを知らされてしまったこと、
そして「実体験」の価値が相対的に見て瑣末なレベルにまで薄れてしまったこと、その2点に対するハンガーストライキだ。
だから何もせず、社会にも加わらず、ひたすら情報を摂取して、内なる膨張を続けながら生きる。
「労働者」になりたくない。
「親」になりたくない。
「男(女)」になりたくない。
「○○ファン/シンパ(=何かに従属するもの)」になりたくない。
ひとつひとつを見れば、中二病か高二病かといったものをこじらせたんだな、と一笑に付されて終わるかもしれない。
けれどもこうした「○○になりたくない」という思いはインターネットの海で練り上げられて竜となり、
それらが寄り集まった集合体として、漠然とした怪物の姿となる。
その影はどこにでもあり、その姿は気づけば心のどこかに転写されている。
その怪物こそが、何者にもなりたくない症候群の主たる発生源だと思う。
中年になっても、老年になっても、一言で表せるような身分を勝ち取る行動を頑なに起こさず、さまよい続ける境界者であり続ける。
そんな境界者とて、なにか巡り合わせた特定の状況に依存して生きているわけだが、決してその状況を肯定したり、堅持しようとするわけではない。
吹けば飛ぶような場所にいて、弱者であることにこだわり、風が吹くならば死んでも仕方ないと覚悟しつつも、防御行動を取らない人達だ。
そういう人の割合がふえてくると、これまで人類の築いてきたコミュニティの在り方は根底から崩れる。
それが悪いと言うわけではない。いち罹患者として言わせてもらうと、自然の成り行きなのかもしれないし、興味深いと思っている。
それは貴方がすねかじってぬるま湯の中で生きてるから。 自立してみれば?もっと現実を実感して生きられるよ。
それを指す言葉はとっくの昔に、1970年代当時からあるんだよ。「モラトリアム人間」っての。
これすごくよくわかるんだけど、俺はこれちょっと前の過去の話になっていることに気づいた。 インターネットが助長している節はあると思うけど、人類の叡智の蓄積を享受してきた人...
インターネットを捨てよ町へ出よう 町も街もつまらんな おしまい
海へ出よう。冒険が、はじまる。
ちょっと待って。 「中年職歴なし引きこもりすねかじり」って十分に「何者か」じゃないですか。 社会の底辺、穀潰し、生ける人間粗大ゴミ。 あまりいい個性とは言えないですが、立...
いや、正にそういうのを世間一般には「何者でもない」とか「何者にもなれなかった」と評するんだよ。
これのどこが空虚なんだ 空虚気取りの変人 単に固定したキャラを持ちたくないだけで、その実強欲という強烈なキャラを持っている
強欲だし強烈なキャラではあるけれど、その強欲自体が空虚だし、また、この強烈なキャラ自体が空虚なものではなかろうか。 それとも、あなたはこういうキャラを評価したいという...
ピンドラの時も思ったけど何者かってなんだよ 私が私以外の何者かになることなんてあるのか わからないのは私の社会性が低いせいかな
有名になったり、金持ちになったり、クリエイティブな仕事をできたり、尊敬される立場になるとか、そういうことがないってことなんじゃないの。何者にもなれないって。
いや、私自身以外の何者かになるという話ではなくて、私自身として何者かになるという話では? たとえば、教師になるとか、どこかの企業の社員になるとか、自分の店を持つとか、職...
会社だったり趣味だったり 何らかのコミュニティ単位で確固としたアイデンティティを獲得することが「何者かになる」ことだと思うよ
個人的には下記のような人が何者にもなりたくたい症候群(社会的役割を演じたくない人)になりやすいと考える。 1.映像や音声から得られる情報と実経験を混在してしまっている人 2....
物事を相対化、客体化することは、すべてが平等=無意味であるという思想につながりやすいけど、だからこそ、「自分」が主体的に意味を決めていけるはず。 時間、空間によらず全員に...
でもポリコレ的にはそんな主体的価値観に基づいた判断基準は格差と差別の源であり 自由と平等の妨げなんでしょ?
元の話はもっと個人の内心の話なので、ちょっと脱線気味だけど。 そもそも、「全てが等しく同じ価値・同じ評価・同じ権利であることが良い」というのが主体的な価値判断なんだか...
不自然なまでに縦につながる(笑)
何言ってるか分からねえのでだれか解説よろしく
要するに自分は何者になれるか列挙しちゃう選手権症候群ね どれにもなれないんだからなりたくないいわんでもええやん それ「まんじゅうこわい」ゆうねんで