「熊本」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 熊本とは

2017-06-26

安倍総理による殺害か。自殺強要不正を追及したら次々死亡】

安倍総理による殺害か。自殺強要不正を追及したら次々死亡】

安倍総理による殺害か。自殺強要

住民基本台帳違憲判決を出した竹中省吾裁判官自殺

平田公認会計士 りそな銀行監査中に自殺

鈴木啓一 朝日新聞記者 りそな政治献金10倍になっていることを記事にし東京湾に浮かぶ。自殺

石井誠 読売新聞政治部記者郵政問題記事を書く 事故

斎賀孝治 朝日新聞デスク 耐震偽装問題を調べていて自殺 

松岡農水相議員宿舎首吊り自殺 

松岡事務所地元秘書熊本の自宅で首吊り自殺

緑資源機構山崎元理事マンションから転落死 

加賀美正人内閣情報調査室参事官 外務省ロシア担当キャリア 練炭自殺

UR所管国交省職員 甘利大臣入院した後、合同庁舎3号館より転落事故 

自民党山田賢司議員不正週刊誌告発した秘書、「検察に行く」と言い残し、練炭自殺

自民党神戸12人の政務活動費不正取得 取りまとめ役の大野市議が急死、捜査終了

ガチャ規制を推進していた消費者庁審議官、妻と一緒に転落事故

特定秘密保護治安維持法批判した神原内閣参事官屋久島の岩場で死体で見つかる

森友学園疑惑小学校から残土搬出を請け負った、田中造園土木秋山社長自殺

2017-06-24

安倍総理による殺害か。自殺強要不正を追及したら次々死亡】

安倍総理による殺害か。自殺強要不正を追及したら次々死亡】

安倍総理による殺害か。自殺強要

住民基本台帳違憲判決を出した竹中省吾裁判官自殺

平田公認会計士 りそな銀行監査中に自殺

鈴木啓一 朝日新聞記者 りそな政治献金10倍になっていることを記事にし東京湾に浮かぶ。自殺

石井誠 読売新聞政治部記者郵政問題記事を書く 事故

斎賀孝治 朝日新聞デスク 耐震偽装問題を調べていて自殺 

松岡農水相議員宿舎首吊り自殺 

松岡事務所地元秘書熊本の自宅で首吊り自殺

緑資源機構山崎元理事マンションから転落死 

加賀美正人内閣情報調査室参事官 外務省ロシア担当キャリア 練炭自殺

UR所管国交省職員 甘利大臣入院した後、合同庁舎3号館より転落事故 

自民党山田賢司議員不正週刊誌告発した秘書、「検察に行く」と言い残し、練炭自殺

自民党神戸12人の政務活動費不正取得 取りまとめ役の大野市議が急死、捜査終了

ガチャ規制を推進していた消費者庁審議官、妻と一緒に転落事故

特定秘密保護治安維持法批判した神原内閣参事官屋久島の岩場で死体で見つかる

森友学園疑惑小学校から残土搬出を請け負った、田中造園土木秋山社長自殺

2017-06-20

安倍総理による殺害か。自殺強要不正を追及したら次々死亡】

安倍総理による殺害か。自殺強要

住民基本台帳違憲判決を出した竹中省吾裁判官自殺

平田公認会計士 りそな銀行監査中に自殺

鈴木啓一 朝日新聞記者 りそな政治献金10倍になっていることを記事にし東京湾に浮かぶ。自殺

石井誠 読売新聞政治部記者郵政問題記事を書く 事故

斎賀孝治 朝日新聞デスク 耐震偽装問題を調べていて自殺 

松岡農水相議員宿舎首吊り自殺 

松岡事務所地元秘書熊本の自宅で首吊り自殺

緑資源機構山崎元理事マンションから転落死 

加賀美正人内閣情報調査室参事官 外務省ロシア担当キャリア 練炭自殺

UR所管国交省職員 甘利大臣入院した後、合同庁舎3号館より飛び降り自殺 

自民党山田賢司議員不正週刊誌告発した秘書、「検察に行く」と言い残し、練炭自殺

自民党神戸12人の政務活動費不正取得 取りまとめ役の大野市議が急死、捜査終了

ガチャ規制を推進していた消費者庁審議官、妻と一緒に飛び降り自殺

特定秘密保護治安維持法批判した神原内閣参事官屋久島の岩場で死体で見つかる

森友学園疑惑小学校から残土搬出を請け負った、田中造園土木秋山社長自殺

2017-06-13

安倍総理による殺害か。自殺強要

安倍総理による殺害か。自殺強要

住民基本台帳違憲判決を出した竹中省吾裁判官自殺

平田公認会計士 りそな銀行監査中に自殺

鈴木啓一 朝日新聞記者 りそな政治献金10倍になっていることを記事にし東京湾に浮かぶ。自殺

石井誠 読売新聞政治部記者郵政問題記事を書く 事故

斎賀孝治 朝日新聞デスク 耐震偽装問題を調べていて自殺 

松岡農水相議員宿舎首吊り自殺 

松岡事務所地元秘書熊本の自宅で首吊り自殺

緑資源機構山崎元理事マンションから転落死 

加賀美正人内閣情報調査室参事官 外務省ロシア担当キャリア 練炭自殺

UR所管国交省職員 甘利大臣入院した後、合同庁舎3号館より飛び降り自殺 

自民党山田賢司議員不正週刊誌告発した秘書、「検察に行く」と言い残し、練炭自殺

自民党神戸12人の政務活動費不正取得 取りまとめ役の大野市議が急死、捜査終了

ガチャ規制を推進していた消費者庁審議官、妻と一緒に飛び降り自殺

特定秘密保護治安維持法批判した神原内閣参事官屋久島の岩場で死体で見つかる

森友学園疑惑小学校から残土搬出を請け負った、田中造園土木秋山社長自殺

2017-06-11

安倍総理による殺害か。自殺強要

安倍総理による殺害か。自殺強要

住民基本台帳違憲判決を出した竹中省吾裁判官自殺

平田公認会計士 りそな銀行監査中に自殺

鈴木啓一 朝日新聞記者 りそな政治献金10倍になっていることを記事にし東京湾に浮かぶ。自殺

石井誠 読売新聞政治部記者郵政問題記事を書く 事故

斎賀孝治 朝日新聞デスク 耐震偽装問題を調べていて自殺 

松岡農水相議員宿舎首吊り自殺 

松岡事務所地元秘書熊本の自宅で首吊り自殺

緑資源機構山崎元理事マンションから転落死 

加賀美正人内閣情報調査室参事官 外務省ロシア担当キャリア 練炭自殺

UR所管国交省職員 甘利大臣入院した後、合同庁舎3号館より飛び降り自殺 

自民党山田賢司議員不正週刊誌告発した秘書、「検察に行く」と言い残し、練炭自殺

自民党神戸12人の政務活動費不正取得 取りまとめ役の大野市議が急死、捜査終了

ガチャ規制を推進していた消費者庁審議官、妻と一緒に飛び降り自殺

特定秘密保護治安維持法批判した神原内閣参事官屋久島の岩場で死体で見つかる

森友学園疑惑小学校から残土搬出を請け負った、田中造園土木秋山社長自殺

2017-06-08

AERA零戦記者と、熊本城と、議論ラッキーパンチ

読んだ。

https://togetter.com/li/1117700

ひとつ気になったのだが、「熊本城」という例を出したO氏は、T記者からこのような反応がくることを、先に予想していたのだろうか?

零戦熊本城を同一視する人たち、発想が斜め上すぎるし、熊本出身熊本城の復旧に寄付している私としては怒りで震える。

まだまだ復興は遅れていて、壊れたままの家で梅雨台風を迎える不安な母の心の支えになっているのが熊本城です。熊本城観光客が集まり、復旧のための寄付が集まり、元の姿に戻る日を心待ちにしている。同じ思いの人たちは多いと思う。それを「戦争のために作られたものだし復旧しなくていい?」

侮辱するのもいい加減にして欲しい。

こういう反応を引き出したのは、まとめサイトから判断するかぎりたった一つのツィートで

戦争のために作られたものだし、現代戦争には役に立たないか熊本城再建はやめよう、ということにはならないのかな。

議論において、相手矛盾に追い込む。そういうときには、「相手」にとって矛盾だと作用するものでなくてはならない。

そうでなければ、いくらでも逃げられてしまう。

相手」にとっての矛盾、とはどういうことだろうか。よい実例が、このツイートの前のやりとり、JSF氏の指摘で展開されている:

AERAって朝日新聞系ですよね?実はこの零戦飛ばしレッドブルアレースの後援を、朝日新聞がしているのです。つまり朝日新聞は「戦争反省しつつ零戦かっこいい」という精神状態肯定していると思うのですが如何でしょうか?レシプロ戦闘機現代戦争にはもう役に立たない存在なのです。

零戦レシプロ批判すれば、朝日新聞グループ社員として、エアレース後援をしている組織方針と食い違ってしまう。

零戦レシプロを黙認したら、自分AERA記者としてツィートした内容を取り消さなくてはならなくなる。

相手AERA記者でなければ、このような矛盾は「矛盾」にはならない。「朝日方針おかしいんです」の一言で切り捨てられる。

しかしT記者AERAライターだ。AERA朝日出版物だ。朝日出版物なら、朝日新聞方針に従うに違いない。

からこの矛盾が、T汽車にはじつに有効作用するはず。

・・だと思っていたら、「組織の考え」と「私の立場」は違う、という形で、矛盾の間をすり抜けられてしまった。

 

げげ。それは知りませんでした。組織の考えは分かりませんが、私の立場は変わりませんよ。現代戦闘に役に立たないものをなぜ復活させる必要があるのか、石塚氏が過去に出演したチャンネル桜の2回の放送をご覧になったらいかがでしょう。

ここは、身軽に構えたT記者のほうが一枚上手だった。

しかし、次のO氏の指摘は、表面上は「相手」にとっての矛盾に追い込む形にはなっていない。

戦争のために作られたものだし、現代戦争には役に立たないか熊本城再建はやめよう、ということにはならないのかな。

この時点で、T記者熊本城とのつながりは、いっさい明らかにされていない。

からその分、相手を追い込む形にはなっておらず、威力は低い。

熊本城になんの思い入れもない人だったら、熊本城のおかれた環境と、零戦のおかれた環境は違います。くらいの逃げを打ててしまう程度の話。

しかし実際には、冒頭にあげたような、激烈な反応が返ってきた。

最初からAERA的なものが嫌いなネトウヨ勢だけではなく、中間層にいる人たちにも「そ、その侮辱ってのはあなたがエアレースを楽しんだ人にしたことじゃない?」とドン引きさせる効果があった。

零戦レシプロを黙認するなら、元の議論を取り消さなくてはならない。

零戦レシプロ批判するなら、同じように「戦争のために」作られた熊本城の復建にも反対しなくてはならない。

こういう矛盾が、熊本出身で、熊本城の復建に寄付までしている、ほかならぬ「T記者」にはとても有効作用するだろう・・とO氏は他の情報ソースから知っていたのだろうか?

たとえばT記者過去記事を読んで、熊本にゆかりのふかい人物だと知っていたのだろうか。

それとも、たまたまランダムに「熊本城」を選んだら、相手の弱点にドンピシャだった、つまりラッキーパンチだったのだろうか。

2017-06-06

http://anond.hatelabo.jp/20170606184207

エンジニア限定

研究者やっててあちこち転々とした俺で良ければ

個人趣味によるとしか言えない

雑誌テレビで見るような店に行って、流行りの服を着たいなら東京にいなきゃ無理

でも、そういうのにそこまでこだわらないなら全く問題ない

三大都市圏ならまあまあ問題なくて、札幌福岡でも、中心部に近いエリアならまあまあ東京っぽい雰囲気暮らしはできる

広島熊本新潟クラスなら、本当の中心エリアに住めばギリギリ都会っぽい暮らしができるけど、2か月に一度くらいは大阪東京に出ないと出来ないことはある

それ以下の、地方県の第2の都市とかになると、これはもう別世界

寂れたイオンが唯一の外との繋がり、みたいな暮らしになる


個人的には、住むエリア都市レベルだけじゃなく、街と呼べる場所へのアクセスのしやすさがかなり意味を持ってくると思う

滋賀田舎だけど、すぐに大阪に出れるので全く問題ないとかね

北陸滋賀レベルの街に暮らしても、どこにも行けないもんね

もともと田舎出身で、田舎暮らしが苦じゃない人なら、どこで住んでも問題ないよ

2017-05-24

痛い目に遭わされるまで人間は気づかないんだね

地震対策なんて、2004年新潟2016年熊本がなければ見直しなんぞありえなかったし、原発廃止なんて2011年東日本大震災の際に福島原発事故が起こらなかったら議論にすらならなかったし、バイク3ない運動2011年東日本大震災とき大人の苛立ち(実際に大人による高校生へのヘイトがあったらしい)がなければ廃止なんぞ実現できなかった。

2005年には2回の乗客の死者を伴う鉄道事故があったが、それでも私鉄公有化国鉄民営化否定議論は起こらなかった。

鉄道社会の是非の議論など東京あたりで自然・人的災害(たとえばテロ事件とかミサイル着弾とか)で乗客に多数犠牲者でも出ない限りあり得ないだろうし、ましてや国鉄民営化否定私鉄公有化議論など、汚職スキャンダルでも起きない限り夢物語だろう。

結局痛い目に遭うまで気づかないのが人間か。

http://anond.hatelabo.jp/20170524140606

そう言えば、熊本復興どころか片付けすら一向に進んでいないことが報じられないのを嘆いたら、

熊本なんぞもうニュースバリューはない」

なんつってコメントが付きましたわ

http://anond.hatelabo.jp/20170524140130

東北熊本復興が優先されている、みたいな空気が流れてたら、また違うんじゃないでしょうかねぇ

2017-05-23

地震が怖い

去年の熊本地震からこの1年間、地震が怖い。

熊本在住ではないが、九州在住。震度4〜5くらいあった場所に住んでる。

あの時は2日に分けて大きい地震があったが、どちらとも夜の寝る前くらいの時間地震が起きて、怖くて本当に寝れずほぼ徹夜状態だった。

そしてあの日からずっと、ふとした瞬間に揺れているような気がする感覚に悩み続けてる。

仕事してたり家帰ってテレビ見てたりするときに、ふと「ぐらっ」と震度1~2あるだろうか、っていうくらいの小さな揺れてる感覚が頻繁に起こる。

テレビ見ても地震の速報は無いし、Twitterとかで検索しても誰も地震ことなんてつぶやいてない。これを1年経った今でも、1日何回も繰り返す。

あと、たまにテレビの上に出る速報のピンポーンって音も恐怖でしかない。徹夜で揺れがおさまるのを待ってるときテレビつけとくことしかできなくてあの音がずっと鳴り続けてたからだとおもう。

ついこの間も福岡での地震予想が話題になった時、数日間ちゃんと寝れなかった。その予測日を過ぎた今でも夜何回か起きて地震は起きてないってことを確認してから布団の中で眠れるのを待つ日々をおくっている。

こんな症状で悩んでる人他にもいるとおもうんだけどな…私のまわりには相談する人もいなくて最近本当に寝不足が辛くなってきたので思い切ってここに書いてみた

2017-05-19

原因・背景[編集]

1871年(明治4年)10月宮古島から首里年貢輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民現在台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落拉致された。

先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年明治5年琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡島村現在岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。

開戦準備へ[編集]

副島種臣

宮古島台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在アメリカ合衆国総領事チャールズルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人懲罰するべきだ」と日本外務省提唱した。

初代龍驤台湾出兵旗艦であり副島種臣大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。

孟春(砲艦)は三本マストスクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。

外務卿副島種臣はデロングを仲介しルジャンドル会談、内務卿大久保利通ルジャンドル意見に注目し、ルジャンドル顧問として外務省雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。

1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年明治7年)4月、参議大隈重信台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。

明治六年政変における明治天皇勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的企画したのである

台湾での戦闘[編集]

西郷従道

台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に参議木戸孝允らの長州系は征韓論否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日木戸参議辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。

台湾出兵時の日本人兵士

水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]

国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日谷干城赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵大隊砲兵一小隊出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。

5月6日台湾南部上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリア猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。

収拾への交渉[編集]

明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章イギリス駐日大使パークスは当初は日本軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通北京に赴いて清国政府交渉した。大久保は、ルジャンドルフランス人法学者ボアソナード顧問として台湾問題交渉し[7]、主たる交渉相手総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国互換条款互換憑単によると清国遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球日本帰属国際的に承認されるかたちとなった[1]。

帰結[編集]

日本清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年明治8年)、琉球に対し清との冊封朝貢関係廃止明治年号使用などを命令した。しか琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

1879年明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年明治13年)の北京での交渉において、日本沖縄本島日本領とし八重山諸島宮古島中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島領有は望まず、冊封関係維持のため二島琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。

また、明治政府兵員輸送英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。

台湾出兵と熱帯病[編集]

被害[編集]

日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。

軍医部の対応[編集]

1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省から外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。

この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍キリスト教徒虐殺事件丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮江華島攻撃占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国ジェネラルシャーマン事件1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮江華島攻撃占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。

当時朝鮮政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である清朝から西欧列強情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。

また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国朝鮮を守ったため、今回も中国朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮認識ですから親分である中国自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。

日朝間の懸案:書契問題[編集]

他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはや開国明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月明治政府樹立するとすぐに書契、すなわち国書対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためであるしか国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。

この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである

なお近代以前の日朝関係については朝鮮通信使に詳しい。

征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。

1868年以来、何度か日本から国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いか両国関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国官僚同士が険悪となっていた。長崎出島のごとき釜山倭館限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである釜山倭館朝鮮側が日本特に対馬藩使節商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収日本公館としたことから事態悪化したのである。結果、必要物資供給及び密貿易の停止が朝鮮から宣言される事態となった。

日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉忌避する朝鮮を、交渉テーブルに着くように促したのである

1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本朝鮮出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本から国書受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。

条約締結までの経過[編集]

国交交渉[編集]

国交交渉再開の気運が高まり1875年交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚交渉テーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。

江華島事件[編集]

詳細は「江華島事件」を参照

9月20日首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器旗章楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件朝鮮側が日本海軍所属軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。

条約交渉における日本側の基本姿勢[編集]

ボアソナード

明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。

釜山・江華港を貿易港として開港する。

朝鮮領海航行の自由

江華島事件についての謝罪要求

またこれらが満たされない場合軍事行動も含む強硬外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見ほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さら朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである

さらボアソナードのいう軍事行動も含む強硬外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦兵士の護衛がつき、威圧効果朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋山口県下関に入り、広島熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのであるさらにいえば、日本砲艦外交姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。

ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシア清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。

以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。

砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。

江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係樹立すること。

また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮宗主国である清朝政策でもあり、清朝干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀欧米列強アジア侵略に対抗するため、清朝朝鮮ベトナム琉球などの冊封国保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジア伝統的な国際関係をそのまま近代国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴルチベット新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。

この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである

竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日天保13年3月15日) - 1917年大正6年)3月31日)[1]は、日本外交官漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。

目次 [非表示]

1 来歴

2 主な著作

3 栄典

4 脚注

5 参考文献

来歴[編集]

肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。

1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都江戸奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。

1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市玉名市私塾を営んだ後、1875年明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事北京公使館書記官などを経て、1882年明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。

1893年明治26年)、東京帝国大学教授就任漢文学を講じた[1]。退官後、小田原暮らし、76才で没した。1914年大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道創始者である嘉納治五郎結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学総長となった木下広次が務めている[1]。

2017-05-15

[]岩田明子NHK解説委員政権との距離を質し続ける高井たかし議員

国会ウォッチャーです。

 先週木曜日(間違えた)総務委員会。籾井さんのときの質疑と比べて、別に新しい情報があったわけではなかったんだけど、高井議員NHK政権との距離問題はかなりしつこく聞いてきています学生時代NHKの集金のアルバイトをして生活の足しにしていたとか。指摘するのは大事だけど、特段有効打は出せてない感じですね。

 こういう、政権意向に反した奴を左遷させる、というある種の忖度のようなものは、かなり省庁、NHKなどの中で広がってるんだろうと思うんだけど、いかんせん証拠がないので、そういう例がどれだけあるのか、ということを示していくしかないんでしょうが魚住昭さんが書いた、月刊現代中川昭一安倍晋三の両議員からNHKに対する圧力についての朝日新聞記者取材テープとされるものの中で、松尾武氏が答えていたようなNHKの内情からするとだいぶ変容してるんだろうな、と思います

 岩田明子さんは、NHK解説委員で、今井尚哉首相秘書官お気に入りとされる人で、田崎史郎山口敬之氏らとならんだいわずと知れた寿司友ですが、週刊誌的には、彼女政治部内での発言権が非常に大きく、人事にまで口出ししている、と噂されているところです。最近で言えば、籠池理事長の会見の最中に、安倍総理のぶら下がり開始の10分前にご登場あそばして、南スーダンPKO撤退について、政府見解のご解説をなさっていらっしゃったことが記憶に新しいところ。まぁそれに関する質疑もありましたが、唯一新味のあった話だったのが、前任の政治部長山下熊本放送局長)が、岩田さんの文芸春秋への寄稿に対していかがなものかと異議を申し立てたらしい、ということで、籾井氏の粛清とされる昨年4月25日発令人事で、通例2年の政治部長職ですが、1年で熊本に異動になった、という話が、どうもNHK内部では、岩田さんのインタビュー記事が原因なのではないかとされているというところでしょうか。

日露首脳会談映像はいったい誰が撮影して、誰がNHK提供したのか

 これももう何回も聞いてるけど、何を聞いてもまったく答えないので、ほんと聞いててむなしいだろうな、と。昨年11月APECでの日露首脳会談事前協議映像が、内容をNHKスクープドキュメント北方領土の中で流れたことに対して、いったい誰が撮影して、どうやってNHK放送することになったのか、という話。これを外務省内閣官房映像撮影したのかと聞いても、「お答えを差し控えさせていただきます」、NHKに聞いても個々の取材についてのお答えは差し控えさせていただきます。という流れなんですが、撮影事実あるかないかも答えられない理由が、「政府内部の協議一般には公開していないから、撮影の有無を含めて答えることはできない」といってるんだけれども、放送の中で、「外交機密が含まれいるから音声は流せない」といいながらNHK放送されるというのなんでそんなもんが流出してんのっていう疑問に繋がるのは当然じゃないかしら。NHKにだけ撮影に入らせてるっていうのであれば、政府の機密的事項を話し合う場面にNHK記者が入っている、という時点で、コンプライアンスがぶっ壊れてるし、官邸撮影して提供してるんなら、NHK提供できるものを誰が撮影したのかについて、政府側が答えないっていうのは、国民代表たる国会議員なめてる案件なわけで、どっち方面に転んでも頭おかしいとしか、っていう話なんだよね。(NHKニュースソースを答えないのは仕方ないけど、政府は答えない理由はないはず。だってNHK提供してんだから。)

 そんで、どうやっても答えないか一般論として、

高井

NHK政権距離を接近させすぎてまで、特ダネスクープを追い求める必要性はあるのか、政権が流したいものを、スクープをあげるから、ということで流す、というのは税金が入っている公共放送としてあってはならないと思うがいかがか」

上田良一NHK会長

NHK報道機関として、視聴者判断のよりどころとなる情報を、正確に、そしてより早く提供することが重要であると考えております。そのためにも取材報道のあらゆる段階で、真実に迫ろうとする姿勢を徹底することが、大切と考えております。今後も社会必要とされる情報いちはやく伝えてまいりたいと考えております。」

高井

いちはやく、ということは否定しないが、NHKが、独占的に、他社が入手していない情報を追い求める、これ自体否定はしないが、相手政権場合、当然見返りがあるから問題だと思っている」

この上田さんの答弁も、もう何回目、という感じで、ただの作文読み上げだけど、籾井がやめてもNHK本質は変わってないなというのは思いますね。籾井に反抗するような幹部粛清済みみたいだからしかたないのだろうけども。確か、オバマ大統領との首脳会談がセッティングできなかったとき批判の声があがったときも、NHKは独占映像として、オバマ大統領安倍さんが2人で話してる映像を流してたよね。G7の首脳会合には海外勢含めてメディアは入れないからどこから出たっていわれたら官邸からしかないわけだけどね。

岩田明子氏の「ジャーナリズム掲載原稿

http://webronza.asahi.com/journalism/articles/2017021700004.html

これね。これを読んで会長感想を求めるが、「感想差し控える」

高井

感想はいえないということでしたら、もう少し具体的に聞きますが、私はこの中にはちょっと問題だと思うところがいくつかあるんです。

(略)永田町での取材を通して思うのは、記者取材対象者関係においては、権力のチェックという側面と、信頼関係確立の側面の絶妙バランスが大切だということです”その通りだと思いますね。バランス大事なんです。”取材相手に誠意と情熱を持って全人格で向き合い、その一方で私を超えた公の立場でチェックをする、と同時に情報はよい意味で、ギブアンドテイクであるべきだと実感をしました。権力主体が隠したい事実がわかり、それが不正だった場合外交上やむをえない場合を除き、この事実を報じなければなりません”報じなければなりません、ってか報じる、当たり前ですよね。報じるに決まってるじゃないですか。”そのためには、日ごろから取材対象に肉薄し、情報を取る力と交渉をする力が不可欠です”こう書いてるんですね。つまり今回のスクープドキュメントNHKスペシャルの話もそうです、あるいは国会で何度か取り上げてきた、南スーダンから撤退するときの、情報いちはやく入手して、しかし、その見返りというんでしょうか。夕方放送でですね、ちょうどあのとき、籠池理事長記者会見とあえてぶつける形で、記者会見をした、その後すぐにですね(事実誤認記者会見がはじまる前です)、岩田明子さんが出てきて、長々と政府立場解説する。やはり。情報をとる、ということに対してですね、どうしても、政権よりの放送に、どうしてもなる、と。だからこそ政府情報を出すんじゃないですか。ですからバランス大事だといいながらですね、私は権力のチェックこそマスメディアの使命だと、ましてや受信料で成り立つ、NHK公共放送として、大事な使命だと思いますが、会長NHKとして、こういう考え方、この考え方、これでいいと思いますか。」(質問がわかりにくい、もっとストレートに、コレは癒着だと思いませんかとか聞いたほうがいいよ。岩田明子氏が権力のチェック果たして政権の思惑と違うことをしゃべったことがこの5年で何回あるか知らんけど、外見からは、政府スピーカーとしての機能しか果たしてないと思うけどね。)

上田

NHK姿勢に関しましては、取材政策ルールブックであります放送ガイドラインがありまして、そのなかで、取材相手との関係については、放送倫理や公平・公正な姿勢意識し、節度ある距離を保たなければならないと定めております。また国民知る権利や、公共利益のために、密着取材必要場合でも、相手利益を図ったり、癒着と受け取られる行動を取ってはならない、と定めております。この冊子を全職員に配布いたしまして、周知の徹底をいたしております。また真実を明らかにするために、取材相手に食い込むことと、いっぽうで、取材相手一定距離を保つことは、ジャーナリストが必ずわきまえなければならないことである認識しておりまして、現場ではこのことを十分に踏まえて、日々の取材制作に取り組んでいるもの承知しております。」

高井

会長まだ就任されたばかりでね、まだ、まぁ監査委員やっておられましたけども、昔のNHKはそれを守っていたかもしれませんが、そうじゃない実態が、だんだんそうじゃなくなってきているということを、皆さん、NHKの内部からも、皆さん危惧されて私のところにも情報を下さる方がいる。この委員会でも取り上げました。去年ですかね(5月24日衆院総務委員会)、あのーこれもまた岩田明子さんが、文藝春秋安倍総理のお母さんのロングインタビュー、4時間半のインタビューを書いたと。これも内部ではですね、なぜNHK記者が、解説委員が、文藝春秋に、自分たちが集めたリソースNHK記者として安倍洋子氏との人脈を築いたわけだからね)を使って、集めた情報を、文藝春秋に出すんだと、反対した方がね、部内にもいらっしゃるそうですよ。しかしその方はね、定期じゃない人事異動地方にいってしまったそうですよ、政治部長がね。異動になったと、これはもうNHKの内部では有名な話ですが、会長がご存じなかったというのなら、この機会に是非知っておいて頂きたいと思います。結局、NHK組織権力をチェックするというバランスに対して、鈍感になってしまっているのではないか、これは前の会長の籾井さんの体制の悪い影響がでているんではないかと思います。これ以上聞いても堂々巡り議論・・・(略)

高井さんはここでとまっちゃだめだよ。わざわざNHKが籠池理事長記者会見に合わせて、前から持っていた情報を流し始めるというのは癒着だと思いませんか、岩田さんが会長賞を受賞されたそうですが、彼女のどの報道評価されたんですかってしつこくしつこく聞いて欲しいわ。この、寿司ともを利用して適度にスクープ読売産経日テレフジテレビとかに与えながらやっているメディアコントロールと、桜井充さんの質疑で出てきたような、国家戦略特区に関して、変に便宜を図るようなことはしないほうがいいって発言したら、次官経験から脅しの電話がかかってきて、地方大学に飛ばされた、みたいな人事権を使った官僚コントロール安倍政権を磐石にしてるものだと思うから、ここをしつこく突っつくのは、ホント大事なとこだと思うんで、ここでやめちゃいけない。、

一応時系列を整理しておくと、岩田氏のインタビュー記事、「晋三は「宿命の子」です」の取材は当該記事によると取材の申し込みは昨年3月、当該記事出版5月10日NHKの定期人事は例年6月山下毅氏を含む籾井氏の粛清人事があったのが4月25日山下毅氏の熊本異動後の記事によると、内示を受けたのは、熊本地震の前日、4月13日ということです。まぁ一応筋道としては通った話なのかな。真偽は知らんけど、こういう話は、この政権ではごろごろ聞く話ではある。

2017-05-11

http://anond.hatelabo.jp/20170511205800

うん

火山マグマの噴出と地震断層の動きが激しいのだろうな

阿蘇山の一日あたりの火山ガス量は4月末の調査で通常の1.7倍の1700t/日

熊本震度4は今月二回目か

2017-04-26

http://anond.hatelabo.jp/20170425130739

トラバすげーな……。

オタク子供非オタ押し付け幼児虐待アニメが、

東武動物公園やら札幌市千葉市京都の市営動物園コラボするのか。

コラボクッキーの売上の一部が震災被害にあった熊本動植物園寄付されるのか。

そこまで酷いコンテンツなら、各自治体やお菓子メーカーに向けて、

幼児虐待アニメから止めるべし」という署名運動でもやったらどうだい?

2017-04-17

北朝鮮騒動のため森友問題終了のお知らせ

先々週から北朝鮮問題が連日大々的に報じられていますよね。

しかし、安倍さん熊本ゴルフに興じていました。韓国でさえ日本ほど不安を煽っていません。

さて、これに乗じて森友問題報道がなくなりました。北朝鮮国民の関心を向ける一方で森友問題を水面下で片づけるため圧力が動いているのは明白です。

政府としては籠池氏逮捕で終了、そして息子が学園を引き継ぐと言った形に落ち着ける心算でしょう。手打ち費用建設費などは裏で調整が完了しているのではないでしょうか。

北朝鮮危機を利用して森友問題から意識晒す。この国はどこまでも内しか見ていませんね。

2017-04-14

はてなーリベラル寄りの人が多いと思われるけれど,地方にはあまり興味がある人はいないのだなと,熊本震災から丁度一年経った今日ホッテントリを眺めていて思う.

地方版ニュースで,一年経ったのに瓦礫がまるで片付いていない様子が放映され,わたしはかなりの衝撃を受けたのだが,東京に住む人にとっては関係の無いことなのだろう.

程よい田舎への移住促進策

程よい田舎に住んでも、たまには都会に行きたいもの

地方政令指定都市に住んでも、大きな買い物をするとき、最新電化製品なんかを買うときは必ず街に行く

そこで提案したいのが、地方自治体による、都会宿泊格安プランの創設だ


例えば静岡東京なら1時間15分、岡山大阪なら45分、熊本福岡なら40分程度なので、実はめちゃくちゃ気軽に都会に行ける

いずれも新幹線で片道6000円前後

お得な切符を使えば片道3000円代で行けたり、高速バスを使うと往復で4500円とかだったりする

正直、無理して高い住居費を払って都会に住むより、地方都市に住んで年数回都会に行く方が安い

交通費分は都会との家賃の差額ですでにペイする


都会は刺激的で面白いけど、別に都会に住んでたって毎週渋谷心斎橋に行くわけじゃない

月一回行くか行かないかだと思う

それなら都会の隣県に住んだってそうは変わらない

QOLを考えると、隣県に住んで、気軽に行きたいときに都会に行く方が断然いいとも言える

家も広いし食べ物も安くておいしい

都会は、高いものうまいが安いものはまずい、家は金持ちはすごいが庶民豚小屋



で、都会の隣県から気軽に都会に行くとき、一番気になるのが宿泊費だ

実家が都会の人は帰省がてら街に行けばいいだけだけど、そういうのない人は日帰りが前提になる

ちょっとせわしい


それで思った

プレミアム旅行券みたいな感じで、都会宿泊費一泊無料券のようなものを年に一枚移住者に配る

これって、都会に人口吸い取られてる半端地方都市にとって、人口増加を狙える案にならないだろうか?

新幹線通勤定期代補助とかやってる自治体もあるくらいなんだからさ、大牟田市とかね

できればちょい田舎がいいと思っている都会人は多いと思う

誰かやってみて

アーカイブ ヘルプ
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん