はてなキーワード: マンガ雑誌とは
学校に週刊マンガ雑誌を持っていくという文化もなければ、そもそも週刊マンガ雑誌を購入し読むという文化もなかった。
ビデオゲームのビッグタイトルは発売時にほぼすべて触れたことはなかった。そもそもゲーム機を購入したことがなかった。
おかげさまで、ドラゴンボールをはじめとしたジャンプ作品群、ドラクエ、FF、ポケモン、マリオ、何一つ思い入れがない。
触れるのは、何年もたってワゴンセールの箱の中で底値になったときだ。もうとっくにブームが終わって、誰とも何も共有できない。
娯楽コンテンツからコミュニケーションツール機能を取り除くと、純粋な娯楽性のみでしか判断できない。
過去作で思い出に浸ろうというリバイバル戦略も、そもそも思い出がないのだ。
思い出がないし、コンテンツを楽しむということができない。
今から思い入れのない旧作をやったところで、技術的に稚拙で不条理な作品に必要以上にのめりこめない。
今から思い入れのない新作をやったところで、すでにコンテンツのコミュニケーション機能を活用できる年齢でもない。
お金があればブームの最中に楽しむことができただろう。貧乏な家庭に育ったのかもしれない。そのせいかもしれない。初めて知った。
単にメディアとインターネットで起こっている現象が面白いなあと思っているという、ただそれだけの話なんだけど。
10年くらい前から、あるブロガーさんがごく個人的にはじめたオフ会に参加していた。
それは年1回開催されるわりとマニアックなオフ会なのだけれど、そのジャンルではそこそこ名の知れた存在で、
毎回、どこからともなく50人以上がやってくるイベントとなっている。
で、そのオフ会の初期のメンバーにマンガ雑誌の編集者さんがいて、その人自身もその分野でとても熱心に活動している人だったので、
しばらく後に趣味と実益を兼ねたマンガ作品が登場してそこそこ人気を博し、さらに後にアニメ化され、そこで多くの若い世代の注目を集めた。
ムラ社会になりやすいニッチな世界で裾野が広がるのは素直にとても素晴らしいことだと思う。
その作品の中では、古くからのメンバー(マンガやアニメとはほとんど縁が無い、その趣味の世界の人達)が
ごくローカルな行きつけにしていたお店がまんまそのまんま実名のまま登場し、私達にも馴染み深い街や川や山が描かれ、
そして、そのオフ会が「元ネタ」としてやはりまんまそのまんま実名で登場した。
古参(というか実物)の人たちの内心のすべてはわからないけれど、とても愛着があってリスペクトのある表現が為されており、
作品としての評価は置いておいて、好意的に歓迎されたなかなか幸せなコンテンツであると思う。
すると、今どきの出来事として当然、作品に登場した場所は「聖地」となる。
おじさんたちのオフ会は「作品で描かれたイベント」として、コンテンツとして認知されていく。
大洗とか身延のような大ヒットということにはならないけれど、身の回りでもグッズを身に着けた人たちを
ちら、ほらと見かけるようになって、オフ会に作品を見て飛び入りでやってきる人たちがちら、ほらと増えてきた。
そのまま皆で話し、気が向いたら飲みに行く。正直に、とても素敵なことだと感じる。
※ただ、「女子高生や女子大生がたくさん集結しているはずなのに!来てみたらおっさんしかいない!訴訟!!」
みたいなことになってるんじゃないかという一抹の不安はあるのだけど。
一方で、こうなってくると、元々オフ会を主催した人たちとは全く関係なく、
ネット上では「聖地」としてこのオフ会の名前が語られるようになり、もちろん「元ネタ」を知らない人たちが
オフ会を語り、聖地巡礼という形で「参加」し、知り得ぬところで新たな「イベント発起人」が結成されていたりという、
私はそれでもいいと思うし、たぶん最初にこのオフ会を始めた伝説の個人ブロガーさんもそれでいいと思っているし、
世界ってそうやって広がっていくのかなあ、なんてことを考えたりもする。
もっと大げさな話になってくると著作権とか肖像権とかそういう話も出てくるのかもしれないけれど、
今は純粋に、元ネタとは乖離した場所で私達のリアルな世界のパラレルワールドが展開し、
自分が参加しているはずのイベントが別の日に「開催」されていたり、
もはや定番の「××が××する話①」みたいなやつ。プロがアマチュアっぽく投稿することを問題視する人がいるらしい。宣伝ならちゃんと【宣伝】ってつけるべきだとか、タイトルや扉絵が映らないようにしてるあたり確信犯だとか。
個人的にはバズ構文に便乗するのが「全てのチーズ関係者に伝われ」構文と同じ寒さがあってダサいとは思う。
この宣伝がいいか悪いかは置いといて、どうしてこんなに流行ったかを解説します。
自分が知る限り、最初にこの流れを作ったのは以下のツイートです。
42歳おじさんリーマンが出張先で(部下に内緒で)整体を受け快楽を得るだけの漫画1話(全24P)① pic.twitter.com/qkwMHySI2p— 渦井🎉11/12揉井さん2巻発売🎉 (@uzz711) 2018年11月7日
『ほぐされ紳士、揉井さん』という漫画です。ツイッターに投稿された時点で打ち切られていました。
ほぐされ紳士揉井さん、2巻発売直前ですが現在アプリで配信終了&コミックスPR無しなので1話のみ個人的にTwitterにアップさせていただきます参考までに是非読んでやってください〜(許可は頂いてます)たくさんの方に見ていただきたいので宜しければ1ページ目だけでも拡散頂けたら嬉しいです😇— 渦井🎉11/12揉井さん2巻発売🎉 (@uzz711) 2018年11月7日
編集にも見放され、公式からの単行本宣伝すらさせてもらえない状態でした。もはや商業マンガとして完全に終わった状態。せめてもの宣伝として、もはやただの無料公開に近い形でヤケクソ気味にツイートが投稿されました。
しかしながら揉井さんは連載時ビックリするほど読まれなかったので、2巻で打ち切り連載終了という感じになっております。なので2巻発売後こちらの垢での揉井さん関連のお知らせ等はありません。またBL漫画メインでお仕事してるのでBL苦手な方はそっとリ厶ってやってください、、申し訳ないです— 渦井🎉11/12揉井さん2巻発売🎉 (@uzz711) 2018年11月8日
これがバズり、単行本は売れ、各種公式から拾われ、この作品は今もいろいろ動いてます。完璧な一発逆転。この前例を追ってみんな一話まるまる投稿するようになりました。最初に真似したのが誰か、までは知らない。
こういう経緯で自然発生しました。カンブリア爆発といいます。狙ったというより偶然できた。
自分の感想としては、今時マンガ雑誌なんてものは無力だなあと思います。ツイッターと比べて知名度が低すぎて、需要のある作品が届くべき場所に届かない。それならツイッターに流れていくのは必然。ツイッターに投稿するならツイッターで宣伝しやすい形態があるんだから、最適化された形になっていくのも必然。今の雑誌で読むように最適化された形態をそのまま載せても意味ないでしょ、何なら雑誌の煽り文もそのままツイッターに載せろというのか?全ては当たり前の方向に流れているだけ。
あとは出版社が公式でうまい宣伝をシステムとしてできるようになっていけばいいですね。ツイッターのUIもそれに合わせて進化してほしいと思う。現状マンガ投稿するのに向いているUIではない。
ツイッター連載という同じ手法をとっているはずの編集者、荻野謙太郎氏:@gouranga_が完全敗北して文句言ってたのはちょっと面白かったです。ツイートは消えてました。
電子書籍漫画の売上が、紙媒体の漫画の売上を超えたらしい。が、内訳を見ると、電子書籍の売上は旧作の売上が多くを占め、新刊自体はより売れなくなっているようだ。
https://twitter.com/gouranga_/status/966266785640079361
かくいう私は、週刊の漫画雑誌も、新作も旧作も割りと買っている方だと認識している(月に数万円)。
で、感じていることなのだけれど、電子書籍になったことで、購入のしきいは下がったのだが、圧倒的に読み返しの頻度が下がり、横展開の確率が減った。
読み返しの話だと、紙の雑誌や単行本を買っていた頃は、次の号や巻が出るまで複数回必ず読み返していた。特に単行本は、発売時に買ってそのときにしか読まなくなった。昔は何度も繰り返し読むことで、好きなシーンやセリフを覚えたものだが、最近はそれがまったくと言っていいほど無い。その結果、次の最新刊が出た時に、話の続きがわからなくなり、かといって前の巻を探して読むのも面倒なので、ふわっとた気持ちのまま読み進め、「なんかつまんなくなったなー」という感想に繋がり、離脱してしまった漫画がいくつかある。
横展開がなくなった例を挙げると、漫画雑誌を買ってきてリビングに置いておいたら、妻や子ども知らないうちに手を出して読んでいたが、電子書籍化によりそれがまったくなくなった。自分自身も子供の頃、おじさんが買っていたジャンプ・マガジン・サンデーを回してもらって、洗脳されたものだが、今の子供達はそれがない。そもそも家でマンガ雑誌に触れる機会が圧倒的に減っている気がする。単行本の貸し借りもできないし、紐でくくられて捨てられているマンガ雑誌を拾ってきて、みたいな経験も最近の子供達はなくなったのではないだろうか。
マンガ雑誌は、マンガビジネスの構造上、単行本の見本市になるべきで、雑誌で読んで内容を知っているからこそ、安心して買えるものなのだと思う。見本市としての機能をどこに持つのか。マンガ各社は、それをアプリやWebサービスの連載に移行しようとしているように見える。が、結局それも横の展開、特に若い世代、子供に対してのアプローチが弱いように思う。小学生の子どもがいる家庭には無料で紙の雑誌を送りつけるくらいのことをしないと、未来が切り開けないんじゃないだろうか。
落語聞きに行くのは、寄席よりも落語会の方が好きだ。寄席は当たり外れが大きい。好みじゃない人が出てくると眠くなるし眠みと戦うのが疲れてしまう。
思えば、子供の頃からまんがも雑誌派じゃなくて単行本派だったし、ミュージックステーションをぼーっと見ながら
お気に入りのアーティストが出るのを待つより、CD1枚聞く方が良いなぁと思っていた。
寄席の木戸銭は若手の栄養、ひいては落語全体へお金が回ることになるので云々ということを、落語家の皆さんは言ったりするのだが、
席主の取り分だってバカにならないはずで、それなら2、30人の小さい落語会なら直接好みの落語家の懐を潤せる割合が高くなりそうだし、
落語会の前座や客演?でも色んな落語家を見ることができるし、元々好みの演者を見に行っているという保険もあるし、
何だかんだでストライクゾーンを外さないことが多いから、寄席でカタログを見る必要がないかなと思ったりしている。
寄席文化が、と言う人もいるのかもしれないが、寄席の客は年寄りだらけだし、マクラが終わりかけるや否や「○○だね」とか言う、
割とうっとおしいのが少なくなかったりするのが、割とウンザリする。
タイガー&ドラゴン」に出てくる尾美としのりのそば屋は、それでも愛嬌があったが、小汚いごく普通の通ぶった中高年老人のドヤなんて誰も見たくない。
同じようにマンガや雑誌の連載も、気になって追いかけていたマンガ1本のためだけに数百円を毎週払って買うのがなんか違和感がある。
読みたいものが2,3本入っていたとしても、「興味がないその他大勢」も結果的に所有してしまった、というすっきりこない気持ちである。
そして、読みたいものが5,6本やそれ以上入っているマンガ雑誌には、まずお目にかかれない。
紙の雑誌だったころは捨てればよかったが、電子書籍の場合はなおさら「興味がないその他大勢のデータがあるなぁ…」と思いながら暮らす羽目になってしまうので
イオングループの件は、(元々取扱量もシェアも少ないとはいえ)雑誌販売の販路縮小からの売上減少に繋がるため、
個人的には売って欲しいという思いがある一方、
anond:20171122003439 『ミニストップの件の重大さがわかってる?』
トラバした匿名ダイアリー内で言及されているように、コンビニで売られている雑誌は成年向けマーク(成人向けマーク)がついておわず、
そもそもコンビニで成年向けマーク付きの雑誌は(原則)売れません。
そうしたことから、「成年向けマークがついてないから一般向けである=エロ本でない、だから規制するのはおかしい」のようなことを言う人が、
こうした問題のように、各小売店やネット通販サイトなどの販路で、販売がとりやめられた時にも現れてきました。
しかしそれは、世論の理解を得にくい上に、我々が表現活動を続ける上で、自らの首を絞めかねない無理筋な論です。
そもそも成年向けマークは、国家や国務大臣や法などが、基準をもって認定し、
このマークをもって、成年向けだ、このマークがないものは一般向けだ、としたものではないのです。
(そういうマークを国家が直接認定するのはディストピア感満載なので、まともな民主主義社会では絶対やるべきではありませんから)
これらのマークは、国家権力等による介入を最小限に防ぐという点でも、
あくまで決めるのは出版社・発行者であり、出版社・発行者等の自己申告による自主規制マークとなっています。
同人活動などがわかりやすいですが、同人誌につく成年向けマークも、作者が自主判断したり、
印刷所がこの表現なら成年向けマーク入れてないと印刷してあげれないよ、などとしているに過ぎませんよね?
さて、こうした自主規制の成年向けマークですが、仮に、エロ満載ではあるけどれど、その本の出版社(印刷所)や作者が成年向けマークをつけなかったら、
小売店やネット販売サイトは、それを必ずエロ本じゃない一般向けとして扱わないといけないのでしょうか?
もう少し具体的な話をしていきましょう。
先に書いたように、成年向けマークがあるものは区分陳列するように促され、コンビニでは原則売れないことになりました。
この時、雑誌の売上の中で大きな位置を占めるコンビニでの販売を継続させようと、
出版社側などは、事実上エロ本なのに、「成年向けマークをつけない=これは成年向けエロ雑誌でないですよ、一般向けですよ」として、
この「成年マークがある本」と、「コンビニの成人向けコーナーに売られている成年マークなしの本」に、
エロ本であるかないかという大きな差異、たとえばいわゆる「エロ本」と青年誌くらいのたいへん大きな差異があるとまだマシだったのですが、
「成年マークがある本」と、「コンビニの成人向けコーナーに売られている成年マークなしの本」とでは、一般人が思い描く「エロ本」としては、大差はありません。
じゃあこの成年向けマークをつけるつけないの差がどこにあるかと言うと、(血縁関係のある)近親相姦はNGとか、そういう曖昧な面もある基準だったりします。
女子高生との直接の表現とか、近親相姦とか、獣姦や強姦みたいな過激に映りがちな表現、
そういう(各社によって微妙に違いがある)ある種の設定やシチュが、
成年マークをつけてないだけのエロ本にはない(あるいは控えめにしたりしている)のです。
つまり、中身は社会で普通に思い描かれるガッツリとした「エロ本」となっています。
少年誌、あるいは青年誌あたりで時折プチ炎上する、一部に乳首がちらっと出てる、パンツ見えすぎだ、エロいコマがある、とかのレベルでなく、
エロこそが本編であり、大部分のページをエロシーンが占め、ズッコンバッコン、グッチュグチュ、フェラも結合も成人向けマークがあるものと同様、思いっきりやってるような雑誌です。
みなさんも試しに成年向けマーク(成人向け雑誌と書かれた黄色いマークや、18という数字に斜線が入ったりしているマーク)がついてるマンガ雑誌と、
「成年向けマークがついてないがコンビニの成人向けコーナーに置かれている雑誌等」を買って読み比べて見てください。
例えば、快楽天と、コミックホットミルクと、コミックメガストアアルファと、コミックLOというマンガ雑誌がありますが、
快楽天とコミックホットミルクは成年向けマークをつけず、コンビニでも売られてもいます。
一方、コミックメガストアアルファとLOは成年向けマークをつけており、今は基本的に大手コンビニなどでは売られていません。
さて、これらを読み比べて、コミックメガストアアルファとLOはエロ本だけど、
快楽天とコミックホットミルクはエロ本じゃないよね、一般向け雑誌だよね、子どもさんにどんどん売ってもいいよね、って言えるでしょうか?
快楽天に掲載されたマンガが、まとまって単行本になったときに「成年向けマーク」をつけて売られることからも、
こうした自主規制の運用が、エロ雑誌をコンビニで売りたいがためだけの抜け道に利用されていることもわかるでしょう。
実のところ、近年、都条例などで度々やり玉にあげられているのも(非実在で盛り上がったときも)、
こうした成人向けマークをつけていない雑誌・単行本だったりしており、
「自主規制してます、配慮してます」「ちゃんとレーティングしてます」と言いつつ、こうした、成年マークを付けずに全編エロみたいなものが売られている実態なので、
我々描き手や出版社が「配慮してますよ」と言っても、その説得力を自ら弱めてしまっいる現状があり、
表現規制派がつけこんでくる格好の材料を与え、世論や社会の理解を得にくい原因にもなっているのです。
実際、東京都の場合は、成年向けマークをつけている本はそもそも不健全図書の審査対象に原則としてなっていません。
不健全図書審査されているのは、成年マークをつけず「一般向けですよ」との体裁なのに中身が成年向けじゃないか…と、東京都の委員らが判断した本が、毎年20から30冊程度、不健全図書に認定されています。
猥褻を警察が恣意的に判断しているように、僕達の業界も、ガバガバの成年マーク運用で、エロ本かエロ本じゃないかを恣意的に判断している面があるのです。
中堅、中には大手の出版社などが、自主規制を形骸化し、売らんがために成年向けマークもつけずにがっつりエロエロの本を大手の販路に載せて、
そうした度に問題が起こって、規制への動きが芽吹いてしまう…、
このことは、エロ本をエロ本として成年向けマークをつけ、社会で住み分けて売ろうとしている零細な身としては非常に悔しいのです。
表現規制でまず真っ先に割を食うのは、大手よりも僕らのような零細のほうですから。
ところで、勘違いしないで頂きたいのですが、
僕は、青少年健全育成条例等、各種表現規制の糞っぷりや、そもそも成年向け商品なのに性器が修正されているという先進国にあるまじき日本の糞っぷり自体は、昔から間違ってると思っています。
だからこそ僕は、これは「エロ本です、成年向けです、だからコンビニでも売りませんし、未成年にも売りません」として、
成年向けマークをつけ、社会の成員としてそれぞれ住み分けをした上で、
自由な表現活動と、現行の法令を守った上で、よりよい法や条例の運用に向けた改正活動をしたいと思っているのです。
それなのに、成年向けマークをつけて「エロ本はちゃんと自主規制してますから」という体裁を取りつつ、
一方で成年向けマークをつけない事実上のエロ本を作って売上欲しさにチキンレースを繰り広げ、
「これはエロ本でなく一般向けだから。小売店の撤去はおかしいから。」という成年マークの運用と主張をやっていれば、
「出版社らに自主規制させても意味ないね、自己申告・自主規制でなく、国家や自治体が成年向けマーク認定基準団体作って取り締まるしかないね」などのように、さらなる規制を招き、表現の自由を弱めかねません。
トラバ先の増田さんは、盛んに恣意的という言葉を使っていますが、
雑誌の内容が成年向けマーク付きの雑誌とほとんど変わらず、単行本化されると成年向けマークがつく「コンビニ売りの成年向けマークなしの雑誌」があるという事実、
この成年向けマークの恣意的な運用の問題については一切触れておりません。
こうした成年向けマークの恣意的な運用は、青少年健全育成条例の恣意的な運用と不健全図書の指定にも、ますますお墨付きを与えてしまうでしょう。
ラジカルな、すべての表現物が完全に自由で、公共性の高い場だろうがなんだろうが、どんなものでも陳列し売っていい世界というのは、
現実の社会では、0か100かでなく、理想論は実現し難く、どこかで妥協し折り合いを付け、社会の成員として現行の法令の中で生きていかなければなりません。
出版社さんはちゃんと成年向けマーク(しかも自己申告でいいですよ)を付けてくださいね、ということでなんとかなった両者の妥協点を、
成年向けマークがないからエロ本じゃないし、みたいな欺瞞に満ちた出版社同士のチキンレースを続けていれば、
頑なな規制派と穏健な規制派を切り離し、穏健な規制派だった人を徐々に味方にしたり好意的中立に引き込むことは困難になっていくでしょうし、
規制派と規制反対派のどちらにも強く立場を置かない中間に属する大多数の人らの理解を得にくくなるでしょう。
その結果、そうした有権者をバックにした政治や行政も動かしてしまいます。
なお、この問題は、こうした何がエロ本か、というような問題と、
小売店などの事業者が自らの裁量でどういう商品を扱うかという観点も大きいことには留意すべきです。
任天堂はエロゲー出すのを許さないし、Steamにも独自基準はあるし、ある書店がうちはエロ本おかないんだ、というポリシーもあるでしょうね。
子ども向け、ファミリー向け、高齢者向け、どこに軸足を置くかという企業イメージもあるでしょう。
出版社や作家が成年向けじゃないと決めたら、それを売る小売店や各事業者は、必ず成年向けじゃなく一般向けとして扱わないとならない、
売り場を確保してずっと売り続けないとならない、それに反したら、表現の自由を侵害しているのだ!と思うのならば、