はてなキーワード: 「人生」とは
こんな馬鹿な俺を笑ってほしい。
30半ばにもなって彼女も居らず、毎日9時から17時の工場勤務。一日誰とも口を利かずに終わる日なんてざらにある。
元々趣味なく、これまで何かに熱中するようなことがない人生だった。今ではパチンコが唯一の趣味と呼べるのかもしれない。
かといって大勝ちしたところで使い道はなく、ソープ行って居酒屋で一杯するのが関の山だ。
今年に入ってから一度、驚くほど勝てた日があった。
その日もソープに行った。土曜の夕方。馴染みの店だった。指名したのは一番若い子。初指名だった。
くつろぐようにと案内された黒革のソファで待ち、並びには50近くに見えるスーツ姿の男と、大学生ぐらいのカジュアルな格好をした青年が居た。
ようやく俺の名前が呼ばれると立ち上がり、迎えに来た嬢が一瞬眉をしかめる。俺はそれを見逃さなかった。
こちらへどうそ、と嬢はにこやかに俺を案内する。俺の一歩前を歩き、手は握りらない。踵は少し擦り減っていて、俺の靴と同じように。
靴を脱いで部屋に入ると嬢は俺に抱き着いて来る。キスをすると、洗い場に向かい、体を洗うために衣服を脱ぐ。
俺を担当する嬢にはいつも刺青がある。それは顔に彫り込まれ、”笑顔”という刺青を俺は絶えず目に入れる。
嬢は俺を座らせ、身体を洗いながら「どんなお仕事をしているんですか?」と聞いてくる。
俺は適当に嘘をつき、嬢はそうなんですね~と頷く。
ここの女は大抵の男を馬鹿だと思っており、俺も大抵の女を馬鹿だと思っているので、ちょうど釣り合いがつく。
だからときどき俺は自分というものを見失いそうになる。挿入し、快楽に浸るその瞬間でさえ俺は自分のことを俯瞰するように考え、すべてが馬鹿らしく思えることがあった。まるで彼女の刺青が俺の肌にまで浸透してきたかのように。
年齢のせいかもしれない。
地元の駅に着いたのは昼頃で、家までそれほど遠くないので歩くことにした。
遠くない、といっても徒歩で1時間ほどは掛かり、それでも町の様子が変わっていないか確かめて歩くのも悪くないなと思えたのだ。
彼は(Aとしよう)記憶のままの顔をしており、今も裸眼で、当時の面影を深く残していた。
Aは俺だとすぐに気づいたようで、声をかけてきたのは向こうからだった。最初、親し気に近況等を話しながらも何処かそわそわした様子を見せ、一段落つくと口を閉じた。一間を開け、勢いをつけて口を開けると本題と言わんばかりに「そういえばさ~」とAはにやけながら言った。
え?と口に出した。そんなことは知らない。
俺に構わずAは片手の指で輪を作ると、もう一方の手の指をその輪に通し、それを繰り返して見せた。
その様子をAの隣で観ていた青年が戒め、すみませんと俺に言った。彼は眼鏡をかけた青年で、面識はなく、そのことに気付いたのか「Aの弟です」と彼はそのあとすぐ自己紹介をした。
失礼なことをしてすみません。そう言いながら弟は含み笑いを持たせ、軽く頭を下げ、それから俺たちは別れた。
実家の前に着くと俺は家に入るのを躊躇った。その場で行ったり来たりを繰り返していると家から姉が出ていて「何してんの?」と言われた。
数年ぶりの再会だったがの姉の印象は記憶通りで、40前にしては若々しく見えた。
俺は姉の目を見れなかった。どうかした?と聞かれ、最初は答える気にはなれなかったが根負けして「Aに会った」とだけ伝えた。
姉は「ああ…」とだけ言い、それから二人とも黙り込んだ。実家の前の道路で、しばらく二人で立ち尽くしていた。
ここに居ても仕方がないから、と姉は家に入るようにと促してくる。
渋々俺は姉の後に続いて家の中に入ると両親は縮こまったように見え、リビングは昔よりも広々と見えた。がらんとしていて、実際に物もなくなっている。
自分の部屋に行ってみると家を出た時のままで、時代に取り残されたように変わっていなかった。
このうち、壊すから。いつの間にか姉が戸口に立っていて、俺にそう言った。動揺の同様の色を見取ったのか、建て替えるってことだからと姉は言う。
だから、この部屋の物もどうするのかちゃんと決めといて。どうでもいい。と俺は言った。
居場所がないように思えて俺は散歩に出かけた。行く当てはない。ぶらぶら歩いていると一軒のパチンコ屋が目に入った。ずいぶんと昔からある店舗だった。
まだあるのかと感慨深くなり、中に入ると安堵感がどっしり現れた。俺は日が暮れるまで打った。最終的には-1kで終わり、少し歩くと明かりが見えた。
それはブックオフだった。学生の時と比べると俺は本をまったく読まなくなっていた。漫画すら読まず、気になる漫画があればYouTubeで調べ、そこで得られる情報だけで十分に満足していた。
だから本を売っている場所を訪れること自体が本当に久々なことだった。どうして入ったのか?なんとなくだったと思う。
店内を歩いていると一冊の本が目に入った。
それはエミリーディキンスンの『続自然と愛と孤独と』という本だった。
俺はエミリーディキンスンなんて全く知らないし、手に取るまでこれが詩集であることさえ知らなかった。
それでも気付くと俺はこの本を持ってレジへと向かっていた。まるで俺に残された唯一の良心がそうさせたように。
定価1100円と書かれている本を俺は1000円で買い、それから暗くなった夜道を歩いて帰った。
リビングに入ると両親の姿はなく、テーブルの上には料理だけが置かれている。ちょうど姉がお風呂から出てきたようで頭にタオルをかけて歩いてきた。
おかえり。どこ行っていたの?と聞かれたので俺はブックオフと答えた。
ブックオフ?珍しい。と姉は言った。
テーブルの一角にあぐらをかくように座り、頭のタオルを撫でるようにして髪を拭いた。
とうさんとかあさんはもう寝たから。ごはん、まだでしょ?と姉がいい、俺は頷いた。
じゃあ一緒に食べよっか、と姉がいい、俺は頷いた。
食事が終わり、自分の部屋に入り、自分のベッドで久々に横になると俺は買ってきた本を袋から取り出した。
仰向けに寝そべり、適当にページを開いた。111ページ。そこにはこう書いてあった。
私はあなたと暮らせない
これが人の世というもの
そして「人生」はあちら側の
俺は本文を読むのも忘れて、あの嬢のことを思い出していた。俺は酔っていたのだ。
嬢の笑みが脳裏に浮かび、その顔が一瞬、姉になった。
俺は本を閉じ、横に置くと、深く深呼吸をした。目を閉じ、祈りたかった。
しかし誰かを救うために祈るには、俺はもう歳を取り過ぎていたのかもしれない。
おそらく今年のGWは帰らないだろう。
俺はもう駄目かもしれない。
2023年、10年近くやってた趣味を辞めて、世にいう「人生」の一部がやや分かるようになった気がしている
色々揉め事があって、趣味をやってた集まりから距離をとるようになったのがきっかけで、今まで自分はその趣味に依存していたのだなということに気がついた
趣味を辞めたら、それにかけていた時間、リソースが、生活に向けられるようになった
自分は家事ができないと思っていたのだが、趣味を辞めてからは部屋を(それなりに)きれいに保てるようになったし、自炊もできるようになった
仕事がしんどかったのも、趣味のために寝不足だったからだと気がついた
趣味は楽しかった、それは確かなことで、今も未練はあるのだけど、辞めなければならない状況まで破綻したのも当然のことだったなと反省している
「そのことだけ」しかできないのは真っ当じゃないし、寝不足で人間関係なんてやるもんじゃないんだよな
題名のことに戻るけれど、世に語られている人生の暇さというか、虚しさというか、そういったものが分かるようになった
独身で恋人もなく、夢中になれる趣味もないと、なるほど時間が余るし寂しいよなと身にしみて感じられた
あと金がかかる 金がかからない趣味をしてたので知らなかったのだけれど、映画館に行くにも旅行に行くにも、外に出るのって金がかかるね
そういった文脈で、家庭が欲しいとかもっとお金が欲しいとか、これまで理解できなかった欲求のことを実感を持って感じられるようになった
なんというか、「人生」がちょっと分かるようになった気がしたのだ
分かったことが悲しいような寂しいような、しかし分かって良かったと安堵するような感覚がしている
何であれ、自分の趣味に対する姿勢は明らかに依存だったし、抜けれて良かったと思う
ただ、依存のない人生ってクリーンで、健康的で、だから何なんだ? という気持ちもないではない
あのドブみたいに夢中になってる時間にしか得られない快楽物質もあるんだよなあ
この空虚さを埋めるため、に何かをするのではなく、かといって空虚をそのままにするのでもなく、楽しく独りで気楽に生きていく方法を考えたいよ
根本的に俺とお前ではやっている「ゲーム」が違いすぎるから話にならないよ
俺が求めている「ゲーム」は囲碁将棋やチェス、あるいは球技とかの延長線上の「ゲーム」だから、リアルとのリソース紐づけはノイズでしかない
シミュレーションゲームでランダム生成されるいろいろなマップや勢力図でその回その回のクリアを目指したり、
アクションゲームでひととおり最適解を使ってクリアしたら、今度は特定の武器しか使わない縛りでどうやったらクリアできるか攻略法を考えたり
DLCで使えるデータが増えても、それはゲーム盤の"パターン"が増えるだけでゲームで有利になるわけじゃないよね
DLCを適用するかしないかで別のルール、別の試合、別のゲームになるだけだ
だからDLCを買うのは運やゲーム内のリソースに金を払っているわけじゃないし、俺は買い切りのDLCは割高でもバンバン買う
そうやって「ゲーム」を楽しむ上で、「仕事が忙しくて何月何日までにプレイできなかったからアレが手に入らない」みたいなリアルタイムとの紐づけだの、
「病気や家庭の事情で出費がかさんで今月課金を渋らざるを得なかったからアレが手に入らない」みたいなリアルマネーの紐づけだの
リアルのリソースで有利不利が決まる時点でリアルマネーガチャは邪魔でしかないよ、それもう「ゲーム」じゃなくて「人生」じゃん
リアルマネーのガチャゲーってのは俺にとっては「金を払ったら対局中にコマがもらえる将棋」なんだよね、クソゲーかよ
不労所得で金がわいてくる、時間もいくらでも使える貴族様ならアカウントを100個も200個も作ることでガチャゲーでも俺がやっているような「ゲーム」を楽しめるかもしれないけどね
誰かに褒められるわけでもなく
毎日を過ごす日々
そんな平凡な毎日が
インスタ一つで
一気に世界が明るくなる
26歳の男の子に
勝手に
癒さたり
元気をもらったり
勝手に
彼女気分になったり
嫁になったり
親にもなったりで
毎日が
楽しくて楽しくて
仕方ない
なにより
という人が
愛おしくてたまらない🥹
xxxxくん🥹
(そこ笑
ーーー
一応名前は伏せた。
(この人は事務所を抜けてもうジャニーズではなくなったのでファンも平和)
彼女たちからしてみれば暗い現実に囚われていた自分をキラキラした魔法のような世界に連れて行ってくれたのがジャニーズなんだよ。
日々の喜びも人との繋がりも全部ジャニーズ事務所と“ジャニーさん”がくれた。
急に性犯罪者でした隠蔽企業でしたなんて言われても受け入れられないしこれが奪われたらまた暗い現実で生きるしかなくなってしまうんだから必死の思いなんだよ。
これでわかってくれるかな?
(思った以上に反響があって驚いたけど批判ばかりで残念な気持ち
べつに擁護とかじゃなく気持ちをわかってというだけなんだけどな…
伝え方が下手だったのは反省してる)
Q: ジョン・フォン・ノイマンの性格、価値観、知性に近い人が「人生」について考えることを想定して、10の質問を生成してください。
私が小説を飲むのは、自分以外の人間にも、自分と同じような「人生」が存在するのを自覚するためだ。
というのは、自分以外の人間が自分と同じような「人生」を持っていることに、いまだに納得できていないからだ。
だって、私が目を離した場所で、その人間が常に意識を持って生存しているとは限らないじゃないですか。
彼らは私が目を離した瞬間にその機能を停止し、次回私と会う地点まで、自走か何らかの方法で回送されているのかもしれない。
何なら、私が目を離した瞬間に、「職場の上司」や「電車で会う見知らぬ人」なる人々は、溶解か風化でもして個々の分子に分かれ、
次回私と会う地点で、その場にある分子によって同じ物質比、そこに服装やら顔色やらのチェンジを加えて再構成される。
だから、その「上司」や「見知らぬ人」は目を離した瞬間に別人であるのだ、なんてことまで考えてしまっている。
つまり私は、自分以外の人間を、生活や思考を持たないロボットやぬいぐるみみたいな存在だと考えているわけだ。
なんで彼らのような存在が在るのかというと、きっと神様的な存在(それは、自然法則みたいな機能的な存在だ。
人格的に存在しなくても構わない)が、私の人生に何らかの働きかけを行おうとして存在させてくれているのだ。
いや、ここまで普段他人に話さない(他人が「ロボット」ならば、話す意味がそもそも無いわけだが)正直な思いを吐露したが、これは妄想なんだ。
これが妄想でなくては、毎日苦痛を以て職場に通う意味が無くなるじゃないか。
だから、他人に「人生」が存在することを無理やりにでも納得しなくてはいけない。
自分の人生を肯定するために、他人の「人生」を認めなくてはいけない。
あたかも生きているかようなキャラクターを、物語の流れの中に見いだすことによって、
私は他人にも本当に「人生」が存在するのだと誤魔化されようとする。
そんな態度で小説を飲むもんだから、小説を飲む度に、他人にも生活の存在することにたびたび驚いてしまう。
ましてや、感情があったり理屈を述べたり、なんだこの「ロボット」たちは!と混乱してしまう。
しかし、その混乱を抑えながら小説を読み進めることで、物語としての出来の良さに、
理屈でなく感情によって他人にも本当に人生があるのだと納得してしまう。
そういえば、自分以外の人間が「ロボット」だと考えるのなら、こうして、他人に向けてその考えを書き連ねることに何の意味も無いだろう、
その他人は「ロボット」なんだから、その考えを受容する「人生」が無いんだろう、といったツッコミをブクマやトラバで受けると思う。
いやまあ、他人が本当に「ロボット」だったら、そんなツッコミも返ってこないわけで、私がそんなツッコミを心から期待しているのは、
私が他人の「人生」を信じようとする萌芽なんだろう。私が妄想から解放されるチャンスなんだろう。
いや、そのツッコミは、私の人生への働きかけとして、つまり「ロボット」の機能として返ってくるのか?
ツッコミを行う人間の「人生」の一行為としてツッコミが返ってくるのではなく、
ツッコミを行う機能が与えられた人間の一機能としてツッコミが返ってくるのか?
そこは考えれば考えるほどよくわからなくなってくるが、とにかく、そのツッコミは妥当なものだとは思う。
私の妄想を私がまともに信じているのであれば、他人に向けて考えを書き連ねるその行為に、自分の日記ノートに考えをまとめる以上の意味は無い。
それでも、思考上の無理を押してでも書き連ねるのは、他人の「人生」が存在しないという考えが妄想なんだと自分に言い聞かせるためだ。
わざと、他人の「人生」の存在を仮定した行為を行うことで、その存在を自らに信じこませているというわけだ。
なんなら、この文章が小説だとするなら、あなたにも私に「人生」が存在すると理解してもらえたでしょうか、とでも締めておこうか。
はてなブックマーカーはちゃんと同意をとってからブクマしろ。僕は同意しますのでクレクレ。
でまあ元増田のアホさは「同意がない is だめ」という考えを導いた初代GBにすら圧倒的に劣る低解像度脳みそに由来する。
「同意のないセックスはダメ」→「同意のないのはダメ」→「同意のない人生はダメ」?
ノーノーノー。「同意のないセックスはダメ」だが「同意のないハテブはダメじゃない」ように、同意の有無と行為の是非は必ずしも対応しない。
「同意のないセックスはダメ」と言っているブクマカに「じゃあオメーはブクマするときに同意とってんのかよはい論破」って言うやついたら嘲笑以外飛んでこないやろ。
「同意のない人生」とか書いちゃうから無駄に穿って考えるブクマカ達がロングフルライフや反出生主義等等々を考慮してるが、「セックス」は「暴力」と同じように同意なしでやったらアウト(国による)なだけ。
人間のやることはたいてい同意が要らない。一部特別に同意が必要なものがあるだけ。「人生」もそうだと言うならそうであるべき根拠をかけ。まあ同意自体が不可能だから虚無しかないが。
死ぬほど情けなかった。
何も本当に人生のやり方を知りたかったわけではなく、自分のように人生に対して抱えている茫漠な不理解をどうにかしたい人をキャッチしてくれるような記事みたいなのを探してただけで、
「人生のやり方はコチラ!」
…みたいな記事ではなく、「人生の歩み方がわからないアナタへ」みたいな、捉えどころのない不安を広い範囲に網を張って受け止めてくれるようなサイトだった。サジェストに「人生 やりか」まで入力したらサジェストに「人生 やり方」と出た時、「あ、やっぱ自分みたいな人が同じこと調べてるんだな」と安心したので余計に情けなかった。出てきたのはAmazonの断捨離とか人生設計とか人生を楽しむコツとかなんかそういうのを取り上げた本のページがほとんどで、一番上に出てきたサイトは「人生」という名前のスマホゲーについて取り上げたファミAppの記事だった。
人生ってどうやるんだろう。みんなどうやってるんだろう。自分みたいな人間は将来どうなるんだろう。
どこにも書いてないし、どこにも載ってない。
中学のころ(俺にそんな時代があったとは!)、好きな女の子がいた。よくある話だ。
俗に言うスクールカーストのこともあり、まあ憧れに近いような存在ではあったが、
たびたび目が合うと、お互いじっと見つめ合っていたのだ。
僕の記憶以上に僕が彼女を意識して見てしまっていたのだろうし、
彼女としてもからかい甲斐があったか何も言わない僕に戸惑いもあったのだろうが、それは幸せなひとときではあった。
給食前のちょっとした空き時間なんかに目が合うと、そのまま2、3分くらいじーっとはにかんだような表情で曖昧に笑って、
見つめ合っていた。開け放った窓から入り込む風がクリーム色のカーテンをたなびかせ、真昼のけだるい光を透かしていた…
みたいなね。どこまで美化されているのかはもう定かではないが、甘い記憶だ。
で、まあ、よくある話だが、あるとき僕が言った何気ない一言が彼女を傷つけてしまった。
僕としては悪意のない軽口だったのだ。
ある出来事に付随し、単に彼女と長く一緒にいられる可能性がなくなってしまったことへの残念な思いが出てしまっただけだったのだが、
だが時と場合というものがある。それは今考えてもひどい言葉だった。
それで彼女は泣きだしてしまって、周りの女子に諫められながら僕はただ謝ることしかできなかった。
で、まあ、それで彼女とは疎遠になったまま、中学を卒業して、その後は何もない。
よくある話だ。だが…と続くわけでもない。何のオチもない。ここで再会するような大団円もない。
僕は過去に戻って彼女と再会した。未来から来た僕を彼女は不思議がらず、微笑んで迎えてくれた。
目が覚めて、気づいた。
あの一言がなかったら、どうだっただろう。というのを今まで考えたことがなかったことに。
その後の僕の人生も後悔の連続だったが、彼女のことは幾度となく考えた。後悔もした。
だが、今の今までそのことを考えたことがなかったのだ。
そうして次々に記憶から引き出されてきた、幾つか分岐点のようなものがあったのではないかということも。
中学の時、その後もいろんな場面で言葉を交わしたこと、高校の時も駅で彼女が遠くから手を振っていたこと。
僕はここに、この後悔にまみれた人生の原初的な後悔の形を見つけた。
それは盲点となり死角となり、僕の人生を封じていた。自ら蓋をしたようなものだ。
そうして人はそれを「人生」と呼ぶ。ここに至って気づく、ああこれが…、テレビとか小説でよく見てきた人生というやつか、と。
残念なことに、愚者は経験から学ぶことしかできない。それに気づくのに、僕はいささか年を取りすぎてしまっていた。
そうそう、そうだよね人生って。テレビで観たことあるわそういうの。よくある話、よくある人生。
ただ過ぎていくだけの、信じがたいほどに意味もなくただ過ぎていくだけの。
いざわが身に起こってみれば、どうしようもない。あらゆる可能性が閉ざされていくのだ。
でも、手を振って呼んでる、まだそう思ってる。
手遅れなのに。わかっているのに。